月が綺麗で、雲も無い夜だった。


 祐一が玄関のドアを開けて帰りを告げても、いつもならすぐに聞こえてくる筈の返事が無かった。時計を確認する。この時間帯なら味噌汁から漂うおいしそうな匂いも伝わってきそうなものなのに、祐一の鼻には何の匂いも届かなかった。


 こんなこともたまにはあるだろう、となるべく気にしないでいたが、靴を脱いで揃えているとその考えは段々と心配に変わってきた。見た感じ奥の方に電気は点いているが、もう一度声を掛けても返事は無かった。料理の匂いもしてこない。もしかして何かあったのか? 近頃は物騒だから、強盗とか、空き巣とか、そういうのを狙った奴がいたとしてもおかしくはない。


 心なし急ぎ足で台所に入ると、目にしたくなかった光景は飛び込んでこなかった。ただ―――相沢祐一の妻である相沢名雪はテーブル前の椅子に座り込んで、心此処にあらずと言った様子だった。テーブルには何か薬剤に見えなくもないものが置いてある。大したことでなくて祐一はほっとしたが、それでも名雪の様子はおかしかった。彼女がこんな奇行に走ったことなど、これまで一回も無かったからだ。


「名雪、どうした?」

 祐一が声を掛けると、眠りから一気に覚めたように名雪が肩を震わせて、ようやく誰かがいることに気づいたとばかりにゆっくりと祐一の方を向いた。


「祐一?」


 祐一の存在を認めた名雪は、はーっと大きく溜息をついて顔を落として、自分のお腹に視線を向ける。それにつられて祐一も見てみたが、別に注視しなければいけないと思えるものはなかった。名雪? ともう一度声をかけると彼女はゆっくりと顔をあげて、口をもごもごとさせていたが、やがて意を決した顔で一言言った。



「わたし、子供ができたみたい」



 祐一がどう反応するか知りたくてたまらないように、名雪は祐一の目を見た。


 祐一が見返した。手に持っていたカバンが床に落ちた拍子にばたんと音を立てたが、祐一も名雪も聞いていなかった。


 沈黙。


 間。


 間。
 
 



 歓声。




 その夜は大騒ぎになった。














 
 待合室で丁度空いていたビニール製の椅子に座りながら、祐一はひたすらに騒いでいた昨夜を思い返していた。今は平日の真昼間だが、会社は適当な理由をつけて休んだ。いつも汗水たらして働いているんだから、こういう時ぐらい休んだって罰は当たらないだろう、と言った感じだった。


 昨日、苦笑いで苦情を申し立ててきた近所の人たちに謝ってから名雪は話してくれた。この頃身体の調子がおかしかった事、いつまで待っても生理が来ないのでもしかしたらと思って検査薬を使ったら、説明書に書いてある通りの陽性反応が出たこと。陽性反応は妊娠とイコールで結ばれること、あまりに驚いたため夕食の支度やお風呂を沸かす事も全部頭の中から吹き飛んだ事、など。


 祐一は名雪の変調に気づけなかった自分を恥じたが、名雪は気にしないで、と笑顔で言った。

「そういう物に男の人は気づきにくいものだし、わたしもあんまり知られたくないと思ってたから」


 あまり眠っていないせいでぼんやりする思考から意識を戻してから、失礼にならないように周りに目をやると、祐一の横にはお腹が膨れた女の人達が何人もいる。若い人から中年の人まで千差万別だった。ああ、やっぱり妊娠するとお腹が大きくなるんだなあ、と思ってから祐一はこうも思った。


 ……俺、なんか凄く場違いな場所にいないか?


 急に気になってきた周りの視線を無視しつつ名雪の検査が早く終わるように祈っていると、診察室から出てきた看護婦さんが「相沢さん、奥さんの検査が終わったので中にどうぞー」という声が聞こえた。どことなくちらちらと向けられる隣の視線をなるべく見ないようにして、祐一は診察室に足を踏み入れた。


 部屋の中には看護婦さんと医者らしき人、それに名雪がいた。名雪は何かの機械に映し出されたよく分からない映像をじっと見ていて、祐一はもしかしてあれがエコーって奴か、と思った。今まで実物を見たことは無かったが、そう思うとやっぱりテレビで見た通りの代物だった。


 看護婦さんに勧められた椅子に座ると、カルテに何かを書きつけながら医者が言った。

「ああ、相沢さんですね。検査は一通り済みましたが、やはり名雪さんは妊娠されていますよ。母体ともに健康です」

 その言葉を聞いて、なんとなくだが祐一は安堵するのを感じた。名雪を見ると、祐一以上に安心したような顔をしている―――自分の子供なんだから、やっぱり気にかけてるのかもな。


 祐一にはよく分からない物を医者は書き終わり、カルテを看護婦に渡すと彼女は出て行った。

「それじゃあ、お腹にいる赤ちゃんの説明をしましょう。今見ている映像は胎嚢というものですが…まあ分かりにくいことは省きましょうか。大体分かっているとは思いますが……これです」

 医者がポインターで指差した先には、黒いものがあった。

「この黒くて動いている物、これが赤ちゃんです」

 モノクロ写真のようにほの白い映像の中でそれは、震えるように動いている。よく見ると、その黒いものの中でも白っぽい輪があったりする。


 これが赤ん坊なのか。


「今はまだ二ヶ月目の状態なので、本当に赤ちゃんの形になるのはもう少し先です。あと一ヶ月程でしょうか」


 名雪が少し膨れたお腹をさすりながら言った。

「この中に、本当に赤ちゃんがいるんですか?」

 はい、と医者は大きく頷いた。それから名雪はくしゃくしゃになりそうなほど嬉しそうな顔をして、目が潤んで鼻を啜り始めた。


「ちょ、名雪どうしたっ?」

 椅子から立ち上がりかけて肩に手を回すと、大粒の涙を流しながら名雪は首を振った。そうじゃない、そうじゃないのと言いながら。


「わたし、凄く嬉しいんだ。昨日検査薬を使って陽性だった時、お腹の中に赤ちゃんがいるって感じがあんまりしなかったから。本当は昨日の夜、横になった時にすごく不安だったの。もしかしたらわたしが間違えただけかもしれない、薬の量とか使うものを間違えただけで赤ちゃんなんて本当はいないのかもしれないって。


 でも今聞いて、祐一とわたしの子供が本当にわたしの中にいるんだって思うと、…嬉しくなったの」

 目を擦って、名雪は照れくさそうに微笑んだ。祐一は少し息をついて椅子に座ったが、やがてとてつもなく恥ずかしい場面を医者に見せたんじゃないだろうか、と思えてきた。心なしか、医者も顔を赤くしている気がする。


「そ…それじゃあ、無事に妊娠もできたことですし(場違いな場所に出てきてしまったように小さな咳をしながら)、これからの確認をしていきましょう。名雪さんには母子手帳が渡されます。ここには日々の―――――」















 本当にばたばたしていたのは、最初の一週間だった。秋子さんや未だに海外出張をしていた祐一の両親に妊娠を報告したり、北川や斎藤等の高校時代の友人に知らせたりと。これから生まれてくる赤ん坊の為に家具等も買い揃えたが、これには非常に金がかかった為に祐一の小遣いが犠牲になった。順調にお腹の赤ちゃんは大きくなっていき、名雪は検査のために病院へと通院することになった。


 なるほど確かに忙しかったが、それはとても幸せな事だと祐一は思っていた。名雪の中には自分の子供がいるのだし、その子が生まれてきても大丈夫なように環境を調整していることは、決して悪いことではない。……小遣いが減るのは、ちょっと厳しいけど。


 祐一は幸せだったし、名雪も幸せだった。妊娠を知った人は幸せが伝染したように幸せそうな笑顔になって、二人の事を祝ってくれた。全てが順調だった。


 それに音とともに亀裂が入ったのは、何回目かの検査が終わってからだった。





 今回の検査では、会社が休みの日と当てはまった事もあって久しぶりに祐一が同席していた。今まで祐一が一緒に病院に来たのは一回目の時だけだったし、名雪の中の赤ん坊がどう大きくなったかも興味があった。そのせいかエコーを見ている間は子供のように画面を見つめていたし、以前とはまるで違った様に驚いた。生まれる前の赤ん坊ってのは凄い物があるな、と祐一は思った。


 定期健診が終わって医者の話を聞いた後、名雪に続いて部屋を出ようとした時、唐突に医者が言った。

「あ、祐一さんは残ってもらえますか? 少しお話があります」


 足を止めると、祐一は振り返った。健診の後で一体何の話が出るのか分からなかったし、今までそんな話をするそぶりなんて無かったからだ。

「先に会計を済ませておいてくれ」と名雪に告げると、祐一は中に戻って椅子に座りなおした。


 話が何かを訊ねようとした途端、医者は隅の方にいた看護婦に退出を求めるように言った。看護婦は突然の物言いに反論もせずに、頭を下げると出て行った。


「一体……話ってなんですか?」


 誰もいなくなった診察室の中は、がらんどうとしていて声がよく響いた。ついさっきまでの雰囲気とは違って、どこか寒々しいものがあった。医者はこれから重苦しいことを告げるかのように白衣を正して、椅子の位置を正した。今までに見たことが無かったその動作も祐一を不安にさせた。


「まあ、こういうことはあんまり言う物では無いんですがね。規則でも禁じられてますし、奥さんを不安がらせるかもしれませんから」

 医者は祐一の目を見据えてそう言ったが、その声にはさっきまでの穏やかさが無かった。抑揚を抑えた平板な声であり、ロボットみたいだと祐一は思った。


「だから、何を言って「祐一さん、今から言うことを他の人には内緒にしてもらえますか?」


 祐一は言葉に詰まった。目の前にいる人間がこれから言おうとしていることは決して軽々しい物ではないと分かっていたが、まだそんな事を告げられるという実感が無かった。それに、そこまでして口止めをする理由だって分からなかった。一つだけ分かるのは、今から言われることは墓まで持っていくような秘密になりかねないということだ。


 医者の目は祐一に対して問いかけていた。祐一は黙って頷いた。


「単刀直入に言った方が良いですね」

 そう言って、大きくため息をついてから医者は口に出した。





「名雪さんのお腹の中にいる赤ちゃんは、奇形児である可能性が高いと思われます」





 きけいじ?


 言われた意味が分からなかった。きけいじ、キケイジ、奇形児? 身体の形がおかしい子とか、生まれつき頭がおかしいとか、確かそういう意味だった気がしたが、それがどうして今出てくるのか分からない。名雪の中にいる赤ちゃんとイコールで結ばれる理由がさっぱり分からない。何か決定的なものが欠けている気がしたが、それを思い出せない。思い出したくない。思い出すな、忘れろ、忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ―――


「祐一さんと名雪さんは、いとこ同士での結婚でしたね。それくらい血縁が近いと、極稀に…極稀になんですが、そういう子が生まれる可能性が出てきます。今のところ、奥さんから奇形児が生まれる可能性は百パーセントではありません。五十パーセントでもありません。ですが生まれる可能性はあります。祐一さん、聞いていますか?」


 医者の最後の言葉で、はっと頭が覚めた。愕然としたような、戸惑った様子で医者に目をやると彼は祐一に言った。その言葉を聞いているうちに祐一は吐き気を覚えた。


「今日はもう、やめておきましょうか。ショックが大きいでしょうからね。……ええと、次の検診があるのは平日なので、次の次―――ああ、丁度休みの日ですね―――辺りにまた来られますか?」

 祐一は答えなかった。ただ、呆けたようにほんの少し、震えるように頷いただけだった。目の前に突きつけられた事実が現実のものとは思えなかった。


 名雪の中の子供が、奇形児? 生まれつき手が無いとか、足が無いとか、目玉が三つあるとか、そういう子供?


 立ち上がろうとしたが、足が震えてできなかった。医者に促されて部屋を出ると会計に向かう。椅子に座っていた名雪がいつもの笑顔でこっちに手を上げた。本当はしたくないのにつられたように祐一も手をあげた。


 少し離れた場所にいた名雪の笑顔を見ながら、絶対に名雪にはこんなこと言えないな、と思った。いや、誰にも言えない。秋子さんにも北川にも香里にも誰にも言ってはいけなく、全て自分とあの医者との内密な話だ、秘密なのだ。本当に墓の中までもって行くしかない、そんな種類の。


 足の震えはまだ治まっていなかったが、なんとか自力で歩くことはできた。多分もう少し経てば完全に回復するだろう。とりあえず、家に戻ってから考えよう。酒でも飲んでから、風呂に入ってから、布団に入ってからでもいいかもしれない。そのまま眠ってしまっても構わない。もしも目覚めて全てが夢だったと分かれば、盛大なパーティでも開こう。


 帰り道で名雪に医者から聞かされた話について聞かれたが、祐一は「出産するときに父親はどうしたほうがいいかとか、そんな感じの話だ」と嘘をついた。気が早い人だね、と名雪は笑った。出産する時にこの世に出てくるのが健康な赤ちゃんだと信じて疑わない顔をしていた。映画にしか出てこないようなグロテスクな風体をした赤ん坊が出てくるかもしれないなんて夢にも思っていない顔だった。


 祐一も名雪と一緒に笑った。だいぶ上手くやれたかな、と思った。















 がらがらがら、とやかましい音を立ててストレッチャーが廊下を動いていく。その上には名雪が乗っていて、彼女は苦しそうにお腹を押さえて喘いでいる。隣では看護婦や医者が付き添いながらストレッチャーを押していき、祐一はその後ろを追っている。


 出産だった。


 彼女の子供が生まれる。


 分娩室までの道のりがひたすらに長い。今にも吹っ飛んでしまいそうな勢いでストレッチャーは走っていくのに、祐一はそれに追いつくことができない。息が切れるほど、高校時代よりも早く走っても前を行く人々に追いつけない。がんばれ、きっと元気な子が生まれるぞ。そう名雪を励ましてやりたいのに、その名雪は手が届かない程遠くに行ってしまっている。どうして医者や看護婦が名雪の顔を見られるのに、自分だけがこうしているのか分からなかった。ただ、ひたすらに追いつこうとした。


 とうとう息が切れて、たまらず立ち止まる。ストレッチャーはぐんぐん分娩室へと向かっていき、あれほど長かった廊下を踏破し、彼女は部屋の中に運ばれてしまった。ちくしょう、俺はあいつに声をかけてやることさえ出来ないのか。恥辱と疲労の中で祐一はそう思った。


 ここで立ち止まっていても仕方がなかったので、丁度横にあったビニール製の椅子に座り込んだ。最初こそ心臓の動悸が激しかったが、やがて動きは緩やかになって行き、徐々に平常の状態のように戻っていった。


 周りを見渡すと、祐一が今さっき駆けていた廊下には他に誰もいない。上には今にも切れそうな蛍光灯がじりじり音を立てている。進行方向を見れば突き当たりに扉が閉まった分娩室、もう一方では電気が点いていないのか真っ暗だった。はて、と祐一は首をかしげた。俺はあの暗闇から出てきたのに、どうしてその記憶が無いんだろう? まるで知らないどこかからぱっと出現したように、暗闇から出てきた以前の記憶がぷっつりと途切れている。疲れているからだろうか? それとも何かの病気か?


 祐一が視線を戻すと、見計らったように部屋の上にある表示が点灯した。『分娩中』とまるで手術中のような表記がしてあったことに祐一は疑問を持ったが、まあそんなもんだろうと納得した。どうせ実際に表記されたものを見たことが無いのだし、何が書いてあってもどうでもいい。


 暫く待っていたが、何かが起きるということも無かった。腕時計を見ようとしたが、どういうわけかいつも身に付けているそれを今は付けていない。見渡しても何処にも時計は掛かっていなかった。舌打ちして足を組替えた時に、横に女性が座っていることに気が付いた。


 目を向けるとその女性はゆっくりと祐一の方を向き、どうして自分や祐一がここにいるのか見当もつかないような顔をした。すると祐一のことを気にしないようにしたのか、彼女が抱きかかえていたそれに目を落とす。そうして祐一は始めてそれに気がついた―――――赤ん坊、生まれたてのように小さかった。


 如何して女性がいきなりここに出現したのか分からなかったが、それでも祐一は自分と同じような境遇の人がいることに嬉しさを覚えた。彼女は誰かの付き添いで来たのだろうか、夫? 友人? なんにせよ、彼女の腕の中にいる子は祐一をほっとさせた。今までは赤ん坊が生とか誕生とかでなくて(誰かがそう言った?)死ぬことや汚物と同じような属性に見えていたからだ。それらの考えを打ち砕いてくれるような物が眼前にあることはどことなく頼もしかった。


 赤ん坊の様子がどこかおかしいことに気が付いたのは、話し掛けようと思って横を向いた時だった。彼女は祐一のすぐ近くに居るため、その場からでも十分に声は届きそうだった。


 最初はどこがおかしいのかも分からなかったが、女性に近づくと共に、その理由に気が付いた。


 赤ん坊には手足が無かった。


 本当は自分の腕や足を持っていたにも関わらず手術で切断したとか、そういう次元の物ではなかった。もともと赤ん坊にはそれが無かったからだ。


 本来両手両足が存在しているはずの所は、のっぺりとした皮膚があるだけだった。言うなれば、赤ん坊はダルマだった。


 けれども、異常はそれだけに収まらなかった。赤ん坊と祐一の距離が狭まっていくにつれ、赤ん坊は様々な所がおかしいことが分かった。思わず眩暈を覚え、祐一は目を背けようとした。身体はその通りに動かなくて、祐一は嫌でも見させられることになった。


 まず、眼窩が一つしかなく、一つの眼窩の中に二つの目玉が無理矢理押し込められていた。今にも潰れてしまいそうなほど目玉の動きは緩慢だった。それに鼻が豚のように広がり、骨がどう見ても異常な程ひしゃげていた。


 極めつけは穴だった。


 胸の真ん中に、ぽつんと穴が開いていた。透明なテープのような物で塞がれている穴は赤ん坊が呼吸をするごとに広がり、縮み、広がった。祐一の居る場所から穴の中が見えた。ピンク色でなくどす黒い色をした内蔵が緩やかに、今にも死んでしまいそうなほどゆっくりと拍動していた。


 祐一は、これは人間じゃないと思った。人間を真似て作った出来損ない、人間に成りきることが出来なかった生き物だと。


 自分の顔がひきつっていることを意識しながら祐一が女性に目をやると、彼女は赤ん坊を緩やかに揺すっていた。そのうちに赤ん坊(一万歩も譲ればそう言えそうな生物)が泣き始めたが、その声は赤ん坊の声でなく、さび付いた金属を擦りあわせた音がした。それが赤ん坊の声だった。


 喉がおかしいんだ、と祐一は確信した。この赤ん坊は喉がつぶれている。


 丁度その時、分娩室の方から赤ん坊の泣き声がした。悲鳴のようだったそれに祐一が驚いて振り返ると、ついさっきまで部屋があった場所には何も無く、ただの暗闇でしか無かった。もう一方の通路を見たが、そっちも先ほどと変わらず暗闇だった。ばちん、と音がして頭上の蛍光灯が切れた。


 全てが真っ暗になり、祐一は自分が何処にいるのか分からなくなった。どこかよく分からない暗闇へと放り出されたと思ったが、赤ん坊の声は今なお聞こえた。それどころか、段々それが大きくなっていくようでもあった。


 そして女性は目の前に立っていた。今更ながら、祐一はその女性が名雪だと気がついた。今までどうして分からなかったのだろうと思ったが、その理由もまた分からなかった。分からないことだらけだった。


「ほら、祐一。わたしの子供だよ」

 名雪は手に持っていたそれを差し出した。それはさっきまで赤ん坊の形をしていたのに、今は赤ん坊ですらなかった。叫び声をあげる怪物だった。


 祐一は後ずさった。この場から逃げ出したくてたまらなかった。名雪はすり足で近づいてきた。それに伴って赤ん坊も近づいてきた。


「どうしたの? あんなに欲しかった私達の赤ちゃんだよ? 祐一だってあれほど欲しいって言ってたよね? ほら、赤ちゃんだよ。今までずっとずっと欲しいと思ってきた赤ちゃんだよ」


 違うぞ、名雪。祐一は思った。それは赤ん坊じゃなくて怪物なんだ。間違ってお前の腹から出てきてしまった怪物なんだよ。そんなの捨てろよ。捨てちまえよ。そんなのが俺達の子供なんてありえないだろ。


 そのうちに赤ん坊の肩から手が生えて、祐一に向かってそれが伸ばされた。どろどろとして原型を留めていなかったのに、それは手だった。怪物は祐一に向かって指を差した。


 お前が俺の父親だ、とでも宣告するように。



 祐一の目が覚めたのは、この指を見て悲鳴をあげてからだった。ぱち、と音がするほど勢い良く目を開けてから夢の中のことが脳裏に浮かび、今更のようにどっと汗が噴出してきた。寝ている変なことを言ったか心配になって隣を見たが、名雪はぐっすりと眠り込んでいた。


 カーテンの隙間から僅かばかりの光が差し込んでくる。枕もとの時計を掴むと、いつもの起床時刻よりも30分は早かった。絶対にこれ以上眠れそうにはないと思ったから、祐一は水を飲むために台所へと向かった。


 水をコップに注ぎながら額の汗を拭う。全身が汗びっしょりだった。温かくも冷たくもない水を喉に流し込むと、夢の中のことが一気に頭の中に蘇った。


 分娩室、怪物、名雪、指。様々な単語が頭の中を走りぬけ、恐ろしさに背筋が震える。


 奇形児、本当に名雪の中から、奇形児が出てくるかもしれない。医者から言われたことは夢じゃなかった。今日は存在するし、昨日もまた存在した。


 夢で最後に起こったことを思い出し、また身震いした。


『お前が俺の父親だ』
 
    













「奥さんの様子を見る限り母体に悪影響はありません。ですが……奇形児が生まれる可能性は、依然として存在します」


 がらんとしたおかしい程広く感じられる部屋の中で、医師が言った。どうして看護婦はこういう時になるといつも出て行くのだろうと祐一は思ったが、どうでもいいことだった。今自分が置かれている現実を考えれば、まさにどうでもいいことだ。


「一応まだ様子を見ておいた方がいいですが、子宮にある影の…状態を見てみるに、なんとも言えませんね。いずれにせよ、決断は早め……相沢さん?」


 顔を上げることすら億劫なように、祐一は医師に向き直った。今更気付いたが、医師の顔にはこれまで見なかったような深い皺が刻まれていた。奇形児を告げられる前までは医師の顔にそんなものは筋ほども見当たらなかったが、歪な子というのはそれほどのものを与えるのだろうか。病院を離れればそれでお終いという関係でさえも。


「どうしてですか?」

 その言葉は不意に口をついて出てきた。その為医師が重苦しい顔になった事と祐一が自分の意思とは関係無しに言葉を放った口を押さえたのは殆ど同時だった。


「奥さんが、奇形児かもしれないということですか?」

 医師は深く同情するような声を出したが、祐一は暫く考え込んでから首を横に振った。質問をした直後に頭に浮かんできた疑問、それを医師にぶつけてみることにした。したいしたくないに関わらずサイは投げられたのだ、だったら徹底的にやるべきだ。


「どうしてあなたは、俺に子供の事を教えてくれたんですか?」


 医師の顔色がすぐに変わったことを見逃すほど、祐一は馬鹿ではなかった。


「だって、普通そんなこと言わないんじゃないですか?」

 医師が黙ったままだったから、祐一は続けた。

「奇形児ってのは生まれてから分かるものだと思ってましたし、ベトナムとか、海外のそういうニュースを見て。だから―――」

 尚も言いかけたところで、祐一の前に平手が突き出された。手の主は祐一を憔悴したような目つきで見ながら、観念したようにゆっくりと手を下ろした。


「他の人にこれを話したことはありませんでしたが」

 言いながら医師は膝の上に両手を組み、そこに自分の額を押し付けた。まるで思い出したくも無い凶事に思いを馳せるようだった。


「ずっと前、何年も前でしたか。私は一人の女性の出産を担当したことがありましてね」

 穏やかな、ゆっくりとした調子で医師は話し始めた。

「彼女はシングルマザーでしたが、子供が出来たことを知ったときには、本当に嬉しそうだった。私が持てる自分の子です、精一杯立派な子に育てて見せますと、私の前でガッツポーズなんか取ったりもしましたね」


 祐一は背を向けた医師の背を見つめながら黙っていた。何も言わない方が良い事は分かりきっていた。


「何ヶ月だったか、あなたの奥さんと同じ時期だったかな…彼女の中に居る子は、奇形児だってことが分かったんです。いえ、あなたの場合と同じく可能性に過ぎないものでしたがね。最初に言いましたが、患者もしくはその関係者にそのようなことを打ち明けるのはどうしても規則違反になります。私は言うか言わないか、迷いました。彼女のためを思うならば言わないべきか、言うべきなのか。何日も考えましたし、夜を徹して考えたかもしれません。


 結局………彼女には何も言いませんでした。彼女の笑顔と意気込みを見ていたら、何も言うことが出来ませんでした。それに、規則を破るのは怖かったですよ。下手したらクビですからね。とにかく、私は彼女に言いだすことが出来なかった。


 そして最終的に出産したのですが、いやはや」

 医師は一旦言葉を切って、脳裏にこびりついた嫌なものを振り落とすように頭を振った。


「彼女の中から出てきたのは、酷いものでしたよ。神様は何を考えてあの子を送り出したんでしょうね? 時たま私はそう考えますよ。あまりにも、あれは酷すぎる。


 まず赤ちゃんは、両腕が短かった。ただ短いんじゃなくて、誰が見ても明らかな異常でした。人形の手を赤ちゃんの肩に無理矢理取り付けたとか、そんな感じですね。それに赤ちゃんの頭が、……ああ、本当に酷い。


 まるで蛙の頭でしたよ。押し潰したように平べったくなっていて、目が半分飛び出していました。私は長年医者をやってきましたが、あんなものを見たことなんて無かった。それに二度と見たくありませんね。


 分娩室にいた人間は、皆悲鳴をあげました。私に、看護婦に……赤ん坊を産んだ彼女まで、悲鳴をあげましたよ。そりゃあそうでしょうね、自分のお腹の中にいたのが蛙の頭をした子供なんですから。ずっと彼女は悲鳴をあげっぱなしで、赤ちゃんと引き離してもまだ悲鳴をあげてました。喉が潰れるんじゃないかと私達が心配したぐらいにね」


 長話をして少し疲れたのか、医師は黙った。祐一は途中から話の内容に気おされて、医師を見ることも出来なかった。話の中の奇形児が自分の子供とどうしても重なり、そのイメージを引き剥がすことができなかった。


「結局、赤ちゃんは死んでしまいました。自然に死んでしまったのならばまだ赤ちゃんは幸せでしたでしょうけど、そうではありませんでした。とても残念なことにね。


 夜分でした。一時的に赤ちゃんを置いていた部屋を施錠する前に彼女が入り込みましてね、赤ちゃんの首を絞めたんですよ。丁度鍵を閉めに来た看護婦が見つけて捕まえたんですが、絶対に赤ちゃんを放そうとしませんでした。万力みたいな力でした、彼女は。その看護婦が話してくれましたよ、彼女は数日後に辞めましたけどね。


 私の子じゃない、こんなの私の子じゃないってあの人はずっと言い続けてたらしいです。最後には彼女は警備員に取り押さえられました、勿論赤ちゃんは死んでいましたよ。口から沫を吹いていました、あの子は。本当にあの子は可哀相でしたよ。不完全なままこの世に生れ落ちて、いくらもしないうちに母親に殺されたんですから。


 彼女は精神鑑定を受けた後、病気だと診断されて精神病棟に移りました。その後は知りません。最後に見たのは鑑定中の時ですが、もう元気だったころの面影なんて殆どありませんでした。まるでお婆さんでした。まあ、子供を殺せば当たり前ですかね?」


 医師は顔をあげて、疲れたように顔を両手で覆った。祐一は口をもごもごとさせていたが、やがて口を開いた。


「……その人と同じ目にあわせたくなかったから、警告したという訳ですか?」


 医師は達観したような目で祐一を見つめ、首を縦に振った。答えは聞いたものの、祐一はそれに対してどう答えたものか分からなかった。分からなかったから彼は立ち上がると、何も言わずに部屋を出ようとした。


 医師が声を掛けたのは、部屋を出る直前だった。


「あなたは、障害を持った子供に生まれてきて欲しいと思いますか? まだ何も知らないうちに消えた方が、その子の為にも親の為にもなると思いませんか? 相沢さん」


 祐一は立ち止まった。何か言えればと思い口を開き、何も言葉が出てこなかった。あまりに言葉が多すぎて喉の奥で痞えたようでもあり、出てくるものが何も無かったようにも感じられた。


 祐一は部屋を出た。















 それが起こった事自体は酷く唐突でその場にいた誰もが取り乱したが、その当事者となった祐一自身はそれほど驚かなかった。むしろそれが起こった途端にあ、やっぱりな、と思ったぐらいだった。


 朝起きた時からその兆候はあった。名雪には顔色が悪いことを心配されたり、出社してからも同僚や上司にその事を指摘された。用事で社長室に入った時も、祐一の顔を見た社長に指摘されるほどだった。祐一にとってはそんなに気分が悪いほどでも無かったし、顔色が悪いと言われてもいざトイレで確認するまでは何を言われているのか分からなかった。


 しかし、顔色が悪いからと言って休むことは出来なかった。病院に行くために取得した有給分のツケが回ってきていたし、いつも以上に仕事の量は多く、これからの病院に向かう予定を含めれば、殆ど休めそうにもなかった。祐一は周りの人間に心配されながらも、あくせくと働いた。


 限界が訪れたのは突然だった。


 祐一が取引先の元に向かおうと会社から一歩踏み出した途端、彼は平衡感覚を失った。それどころか痛覚や聴覚、視覚でさえも一時失っていた。感覚を取り戻そうと努力はしたがそのうちに身体がかしいで、アスファルトの上に横様に倒れた。祐一は何とかして起き上がろうとしたが、意識は急激に闇へと落ち込んでいった。誰かが遠くで叫んでいる声や、車のクラクションがやけにうるさかったことを覚えている。


 意識を取り戻したのは、ベッドの上でだった。


 起き上がって辺りを見回すと、そこが病院であることはすぐに分かった。きっと周りにいた人間はどうしたものか分からなく、救急車を呼んだのだろう。自分がどんな騒ぎを引き起こしたかを考えると、祐一は気が重くなった。辺りには誰もいなさそうだったので自分の腹の上に乗っかっていたカバンを脇にずらして、看護婦を呼ぶことにした。いちいちナースコールを探すのも面倒だった。


 病室らしき部屋のドアを開けようとしたら、いきなり目の前でドアが開いた。反射的に一歩後ずさってから戸口にいたのが看護婦ではなく、名雪であることに気付いた。余程慌てていたのかサンダルを履いて、片手にはエプロンを持っていた。家から走ってきたのだろうか。


「あ、すみ……祐一?」

 ベッドから降りている祐一の姿を認めると、名雪は部屋の中に入ってきた。

「駄目だよ、寝てなきゃ! さっきまで倒れてたんだから!」


 俺はもう大丈夫だ、と口を開きかけた途端に足から力が抜け、祐一は尻餅をついた。慌てて名雪が抱き起こし、ベッドまで連れて行った。ベッドまでの道のりで、自分はここまで疲労していたのかと祐一は驚愕していた。


 祐一をベッドに寝かせると、名雪が脇のテーブルにあった水差しからコップに水を注ぎつつ言った。

「でも、凄くびっくりしたよ。相沢さんが倒れましたーって病院からいきなり連絡が来るんだもん。夕飯の準備とか全部ほっぽってきたから、ご飯は遅くなるよー?」

 あなたのせいで仕事が邪魔されてしまいました、とでも言わんばかりの目で少しの間名雪は祐一を見ていたが、すぐにほっと安心したような顔つきになった。

「ほんと、心配したんだからね」


「今……何時?」受け取ったコップの中身を飲みながら祐一は訊ねた。会社を出たのはそれなりに早い時間だったと思うが、今は何時ぐらいだろうか。外を見るに日は上がってきているのではなく、落ちているように思えた。


「家を出たのが三時半だから、今は四時かな」

 名雪はそう答えた。


「……そっか」

 確か会社を出たのが午前中だったと思うから、優に四時間は経過している。今頃会社ではどんな騒ぎが起こっているかと思うと益々気が重くなった。が、それをベッド脇で祐一を見ている名雪に気付かれたくはなかった。ただでさえ出産でストレスは溜まっているだろうし、余計な心配はかけさせたくない。


 それからは少し、取りとめの無い話をした。近所の人が飼っている犬同士が喧嘩し、両方の犬が両方の飼い主の一喝で沈静化したこと。病院にくる途中で百円玉を広い、暫くどうしようかと考えたが結局家計の足しにすると決めたこと。祐一が運ばれた病院は丁度赤ちゃんを出産する病院でもあったから、祐一がいる場所を聞くときに看護婦さんがやたら親切だったこと、等(最後の話を聞いた際に祐一は身体を震わせたが、どうやら名雪は気付いていないようだった)


 祐一、と、名雪が訊ねるような調子で口を開いた。祐一が天井に目を向けながら相槌をうつと、名雪はこう言った。


「赤ちゃんのことで、何か心配することあるの?」


 祐一は目を見開いた。できるだけ不自然でないように名雪に目を向けたが、既に心臓は激しく脈打っていた。無理矢理石ころを飲み込んだように、喉がざらついてずきずきした。


「あるんだね、祐一」

 名雪は祐一の手をぎゅっと握った。その手の温かさに祐一は何故か恐怖を感じた。身を引こうとしても、ベッドの上ではどうしようもできなかった。


「最近の定期健診の時、よく祐一だけ残っていたでしょ。多分、そこで聞いてるのかな」

 空いた片手で名雪は大きくなった自分の腹をさすり、呟くように言った。

「わたしの、赤ちゃん」


 祐一は目を逸らそうとしたが、その前に名雪の目が彼の目をじっと見据えた。祐一は肉食動物に捕食される寸前の草食動物の気持ちになった。


 言えなかった。言うことなんて出来なかった。お前の腹の中には怪物がいるかもしれないなんて、とても言うことはできなかった。言ってしまったそれをどうなるか想像もできなかったが、とにかく恐ろしい事態を引き起こすだろうことは予想できた。


「秘密の話、してるんだね?」

 目の中に強い力を込めたように、名雪は祐一の目を覗き込んだ。

「わたしには言えない話」


 祐一は、これほどまでに悩んだことがあるかと思うほど悩んだ。名雪が見つめる中、彼女が祐一の真意を推し量ろうとしている中で。誤魔化すことはもう出来そうに無かった。


 祐一は頷いた。目を閉じて、どうにでもなれという気持ちだった。


 椅子から浮きかけていた名雪が座りなおして、祐一が飲みかけていたコップの水を飲んだ。大きく息をついて、お腹を再びさすった。


「赤ちゃんが、動いてるの」

 名雪は唐突に言った。


 祐一の目が自分に向いたことを確認してから、名雪はまた話し出した。

「少し前からだけどね、赤ちゃんがゆっくり動いているみたいな感じがするの。それにお腹の中をぽんぽん蹴って、この中に赤ちゃんがいるんだって、わたしの中に人間がいるのが分かるの」

 祐一は何も言えなかった。中から出てくるかもしれない物のことを思うと、言いかけた言葉が潰えた。


「祐一とお医者さんが何を話しているかは分からない。多分、聞いても教えてくれないと思うし」

 名雪はつまらない冗談を言ったように、照れ笑いをした。

「けれど、わたしは赤ちゃんを産みたいと思うの。今も言ったけど、祐一とお医者さんが何を話しているかは知らない。でも、わたしは赤ちゃんを産みたい。それが赤ちゃんにとってすごく危ないことでも、ひょっとしてわたしが死んじゃうかもしれないことでも」


 言い切ると、名雪は祐一の手を殊更強く握り締めてより一層強く祐一を見た。祐一は何と答えたら良いのか分からなかった。だが、自分の心の中に今までとは全然違う感情が膨れ上がるのを感じた。猛吹雪の中を歩いているような心細さの中に、遠めに明かりを見たときの安堵感だった。


 名雪だって悩んでいたんだ。彼はそう思った。名雪だって赤ちゃんのことを心配して、それでも産みたいと言った。最初に付き添った健診の時、名雪が医者の前で泣き出したことを思い出した。胸がぐっと熱くなる。


 気が付くと祐一は泣いていた。泣きながら名雪をかき抱いて、力の限り抱きしめていた。溢れるように涙と鼻水が零れ落ちて、名雪が苦笑していた声を聞いた。


「元気な赤ちゃん、産もうな」

 途切れ途切れで祐一は呟いて、その度に名雪は頷いた。

「本当に、元気な赤ちゃん。俺たちの子供を」


 そうだ―――俺たちはここまでやってきたじゃないか。秋子さんの事故も乗り越えたし、いとこ同士で付き合うことだって親父たちに了承させた。俺たち二人で、どんな困難も乗り越えてきた。


 どんな問題だって超えられるはずだ。俺たち二人なら。


 そう思った途端、胸の中がすっと軽くなるような感覚がした。今の今まで自分を押しつぶそうとしていた錘が消失したような、それくらい劇的な感じだった。


「うん」

 名雪が答えて、暫くの間二人はそのままでいた。窓から差し込む日がこんなに美しく思えたのは今日が初めてだった。それを言うなら、吸い込んでいる空気もとても綺麗に感じられたし、目の前の視界が開け全てが明瞭に思われた。


 やがて祐一と名雪は離れると、祐一がベッドから降りた。足の震えはどこにも無かった。


 念のために医師(出産を担当するあの医師ではなかった)に見てもらった後で帰宅する途中、丸く綺麗な夕焼けを見た。カラスが鳴きながら巣に帰るために飛んでいき、太陽が町並みに沈む姿は見ていて壮大だと思った。


 生まれてくる子供にも、こんな夕焼けを見せてやりたい。名雪と歩きながら祐一はそう考えた。















「考え直すことを勧めますよ、相沢さん」

 医師は険悪ともとれる口調で祐一に言い、腕組みをした。一体目の前の男がどういう考え違いをしたのか、分かりかねているような様子だった。


「いえ」と祐一は答えた。

「名雪には子供を産ませます」


 医師は苛立ったように髪の毛をわしゃわしゃといじった。それから赤ん坊を写していた機械を向く。

「いいですか相沢さん、エコーにはこのように赤ん坊が写っています。私がこれまで見てきた中で、これは奇形児である可能性があります。低いかもしれませんが、もしかしたら高いかもしれません。あなたはそれでも―――」


「産ませます」

 祐一は断固とした口調で言った。

「名雪はそう望んでいます」


 医師は大きな溜息をついて、椅子にがっくりともたれた。少しの間目を閉じたままでいたあと、医師が祐一に訊ねた。


「本気ですか?」


「本気です」


「今のあなたには関係の無いことかもしれませんが」

 医師は疲れきった顔で祐一をねめつけた。

「私の心情としては、赤ん坊を産んで欲しくはないと思います。もしも本当に奇形児が生まれた時、その時にあなたはどうするつもりなのですか?」


「それについては何度も考えました」

 これは事実だった。体調不良から立ち直ってからここに来るまでの間に、祐一は何度も何度も自問自答を繰り返した。赤ん坊のこと、名雪のこと、自分のこと、これからのこと。悩んで悩んで悩みぬいた末に、祐一はこの考えを弾き出した。

「後悔は、しません」


 医師は天に助けでも求めるように上を向いたが、やがて祐一の目を覗き込んだ。俺の心意を計りかねてるのか、と祐一は思った。祐一は医者の目を見据えたまま、座っていた。


 時計の針がカチカチと大きな音を立てていく。外で鳥の鳴き声が聞こえた。


「…分かりました」

 小さく掠れたような声だったが、医師がそう言ったのを祐一は聞いた。

「そこまで決心されているのなら、私にはどうしようもありません」


 言うなり医師は机に向き直り、カルテらしきものを書き始めた。

「この話はもうしないことにしましょう。元気な子供が生まれたら、これまでのことは笑い話にでもしてください」


 祐一は背を向けた医師に、規則を破ってまで忠告をしてくれた医者に頭を下げた。

「ありがとうございました」


「出産予定日までは日があります、それまで私は奥さんの担当医ですよ。礼は赤ちゃんが生まれてからにしてください」

 部屋にボールペンの音を響かせながら医師がそう言い、祐一は立ち上がった。


 部屋を出る時にまた声を掛けられるかと思ったが、今度は何も無かった。最後にカルテらしきものを書いていた医師の姿を一瞥して、祐一はドアを閉めた。















 彼女の子が生まれる。連絡を受けた時、祐一はそう思った。


 名雪に陣痛が来たらしかった。外で近所の人と話していた最中にそれが突然訪れ、名雪は危うくその場で倒れ込む寸前だったらしい。その後はタクシーで病院に運ばれ、祐一に連絡が来たということになる。


 秋子さんと自分の両親に急いで連絡をしてから病院まで向かい、祐一は真っ先に分娩室を目指した。そこで名雪が子供を産み、ここ何ヶ月間祐一の中にわだかまっていたものが明らかになる場所へ。


 分娩室前まで来ると、既に部屋のランプは点灯していた。看護婦に聞いた話だと数分前には中に入っていったようだから、もう出産は行なわれているのだろう。


 ここに突っ立っていても仕方が無かったので、近くにあったビニール製の丸椅子を見つけるとそこに座り込んだ。急いでやってきたせいか、その拍子に足の骨がぽきぽきと音を立てた。


 横目で忙しなく廊下を行き来している看護婦を眺めていると、祐一の頭の中にある考えが浮かんだ。


 ………ここ、夢に出てこなかったか?


 横を見ると突き当りには分娩室。その反対側には廊下が続いていて、遠くにある部屋から部屋へと看護婦が移動している。もしもそっちの電気が全て消えれば、廊下の反対側は真っ暗になるだろう。あの夢の情景と全く同じになるだろう。


 出てきかけた恐ろしい考えを追い払う。大丈夫、大丈夫だ。そんなことあるものか。俺と名雪なら大丈夫だ。


 どこかで時計がカチカチと音を立てて鳴っている。外ではあらゆる物が音も無く通り過ぎ、太陽が上へと上がりやがて下へと下がっていく。廊下の看護婦の数は一層多くなり、一層少なくなり、やがて一人もいなくなった。窓から外を見ると、もう真っ暗だった。


 休憩室に案内しようとする看護婦の言葉を断り、祐一は待ちつづけた。分娩室の戸はまだ開かない。名雪の子供はまだ生まれていない。


 そうだ、俺があいつを信じなくてどうする。赤ちゃんを信じなくてどうする。何が奇形児だ、何が可能性だ、そんなものは乗り越えてやる。


 祐一は座りつづけた。


 そして待ちつづけた。





 壁に寄りかかっていた状態で、祐一の目が開いた。喉に溜まっていた唾液を飲み込んで、祐一は外を見る。暗い空に光が差しかけていた。


 もう夜明けだ。


 看護婦か誰かが気を利かせてくれたのか、体には毛布がかかっていた。周りを見回すと祐一の他には誰もいなく、廊下の向こうは真っ暗だった。一体あれから何時間経ったのだろう? 子供はまだ生まれないのだろうか? 名雪は大丈夫なのか?


 頬をぴしゃぴしゃと叩いて眠気を吹き飛ばす。椅子から起き上がると体中が痛かった。


 途端に、祐一の耳はそれを聞いた。


 声。


 赤ちゃんの声。紛れも無い。


 祐一はゆっくりと分娩室へと向き直った。首の辺りでぼきんという音が鳴った。体中にヒビが入ったような錯覚を覚えた。


 夢の中の内容が、フラッシュバックする。


『本来両手両足が存在しているはずの所は、のっぺりとした皮膚があるだけだった。言うなれば、赤ん坊はダルマだった』


 遠く、遥か遠くから微かに聞こえてくるような、赤ちゃんの声。何かの音も、奇妙とも異常とも思える音も一緒に聞こえる。


『眼窩が一つしかなく、一つの眼窩の中に二つの目玉が無理矢理押し込められていた。今にも潰れてしまいそうなほど目玉の動きは緩慢だった。それに鼻が豚のように広がり、骨がおかしいぐらいにひしゃげていた』


 あれほどまでに縁遠いものだった夢が、じわじわとあそこから近づいてくる。赤ちゃんの声とともに、彼女の子と共に。


 汗を掻いている。体中からだらだらと流している。手足、頭、背中、本当に体中だ。


 夢から覚めたら水を飲まなくちゃ、と祐一は思った。がぶがぶと飲んで、朝ご飯が食べられなくなるほどたくさん。それだけ飲んでもまだ足りないかもしれない。


 分娩室から、赤ん坊の声と同じように音が、いや声が聞こえてくる。


『胸の真ん中に、ぽつんと穴が開いていた。透明なテープのような物で塞がれている穴は赤ん坊が呼吸をするごとに広がり、縮み、動いていた。祐一の居る場所から穴の中が見えた。ピンク色でなくどす黒い色をした内蔵が緩やかに、今にも死んでしまいそうなほどゆっくりと拍動していた』


 胸の中が熱い。じりじりしていて今にも溶け出しそうだ。頭の中も熱く熱く赤くなっている。赤い、赤い、夕焼けのように血液のようにどろどろと粘性を帯びた赤。脳内を満たし、体中を満たし、やがて全てを満たすであろう赤。


 それは本当に小さく、か細く、だからこそ―――だからこそ、今の祐一には聞こえる。


 彼女の。


『お前が俺の父親だ』














 彼女の悲鳴。  
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