「栞、その文庫本はそんなに面白いのか?」
「はい」
「デート中に彼氏をほったらかしにするほどか?」
「はい」
「それって、冷たくないか?」
「ちょっと黙っててください。今いいところなんです」
「……」

 学校帰りの百花屋。
 いかにも女の子向きの白いクロスをかけたテーブルで、仏頂面の俺、相沢祐一は大げさに溜息をつく。
 店内を見回せば全ての客が女性客。
 ただでさえ異質に思える存在である男の俺が、不機嫌丸出しで腕組みなんかしているのだから随分と浮いてる存在であるだろう。
 もし、俺が店員でも「嫌なら帰れ」と文句の一つも言いたくなるくらいに感じが悪い。
 それは自分でも自覚はしているのだが、これにはそれなりの理由がある。
 深いようで浅いけど、俺には全く納得できないというか、結構せつない理由があるのだ。
 学校帰りに恋人である美坂栞を誘って喫茶店に来たけど、彼女が俺を無視してひたすら読書。
 ほら、せつない。
 しかも、支払いは誘った俺持ちの予定。
 ほら、かなりせつない。
 これでは溜息の一つも出るのが当然だ。
 いや、栞だって花も恥らいまくりの女子高校生だ、読書に熱中にするような時もあると思う。
 俺だって、中学生くらいの時は親には内緒で、家のベットの下に隠していた女体の神秘についての本を毎日のように読みふけり、研究し、精神を高揚させたりもした。
 誰にだってそんな時期があると思う。
 それでも、それを我慢しなければいけない時があるはずだ。
 たとえばそう、彼氏とデート中の時なんかがそうだ。
 俺だって、今も名雪や秋子さんに内緒でベットの下に隠しているエロ……じゃなかった本達を読めるものなら読みたい。
 喫茶店だろうが彼女の前だろうが、外界からの冷たい干渉もしがらみも全てを遮断して、持てる集中力の全てを注ぎ込んで読みまくりたいさ!
 でも、それをしない。
 だってそういうもんだろう、それが常識ってモンだ。
 だいたい栞は二度目の一年生なんかをやってるからわからないかもしれないが、俺は受験生だ。
 しかももう年末で本番まで何ヶ月もない、今が一番大切な時期だ。
 それでも俺は栞を誘った。
 どんなに疲れていても、栞の顔が見れれば元気が出たし。
 栞が応援してくれれば、受験勉強くらいいくらでも頑張れる。
 つまりは……励ましてほしいんだよ。
 もちろん自分の都合だけではない。
 最近は俺がなかなか相手してやれないでいるから、栞が寂しがっている……
 栞の姉である香里に聞いて、少しでも彼女孝行をしようと思い、バニラアイスをご馳走しようと誘ったのだ。
 この状況なら店内の他の客が、思わず舌打ちの一つもしたくなるくらいのアツアツの雰囲気を…
 栞の目の前のバニラアイスよりも甘いラブラブっぷりを披露してこそ…
 恋人同士ってものではないだろうか。
 自分以外がやっていたらテーブルひっくり返してブチ切れるけど、自分がやってる分には楽しくて仕方ない、みんな俺たちを見て羨ましがれ!
 ……的な事をやりたかったんだよ。
 なのに栞の奴は、俺のおごりのバニラアイスもほったらかしで、文庫本に熱中している。
 なんて冷たい彼女だろうか。
 この寒い時期に平気でバニラアイスを主食とするだけあって、実は心もアイスと一緒で氷点下以下の冷たさなんじゃないだろうか?
 などとくだらない事を考えた時だった。
 ふと栞の目の前で半分以上溶けかけたバニラアイスに意識が止まる。
 冬だから店内のエアコンが高めの温度設定になっていることも関係するだろうが、栞がこんなになるまでバニラアイスを放置するなんて相当珍しいことだ。
 なんといっても主食だ、栞のもっとも重要なエネルギー源だ。
 なければ禁断症状さえも起こしかねない、生命維持に絶対必要不可欠なもの。
 それをみすみす溶かしてしまうなんてありえない。
 まあ、栞のことだから解けて液状になったバニラアイスを平気で美味しそうに飲み干して、俺を見ているだけで胸焼けさせたりする可能性もあるが。
 うわ……想像しただけで気持ち悪いぞバニラ汁。
 それはともかく、俺はようやく気がつく。
 栞はさっきから熱心に読みふけっている文庫本にものすごくハマっているんだ。
 彼氏を放置プレイしてしまうほどに。
 俺が女体の神秘についての資料に熱中する時に近い集中力だ。
 そこまで面白いのだろうか。
 俺は栞の持つ、可愛らしい花柄のブックカバーに包まれた文庫本の内容が急激に気になりだす。
 
「なあ、一体どんな本を読んでるんだ?」

 そう尋ねて、文庫本に手を伸ばそうとしたその時。
 突然、栞がパタンと本を閉じた。
 あまりにタイミングが合っていたため、一瞬俺から本を守ろうとしたかと思った……が違った。

「はぁ……面白かったです」

 さっきまで恐ろしいまでの真顔で文庫本を読んでいた栞の表情が、とてもすっきりとした充実したものに変わっている。
 単純に読破したようだ。

「お待たせしてすみませんでした」
「本当だよ。で、夢中になってどんな本を読んでいたんだ?」
「純愛ラブストーリーですよ。祐一さんも読みますか?」

 文庫本の内容を聞いて俺は思わず苦笑した。
 恋愛ものの小説にこれほど熱中するとは可愛いもんだ。
 まあ、なんとなく許してやってもいい気がしてきた。
 俺はそんな事を考えながら、男がそのまま読むにはイタすぎるような花柄のブックカバーの文庫本を栞から受け取りパラパラと内容を確認する。
 そして凍りついた。
 その内容がブックカバーの装飾を遥かに上回る程にイタかったからだ。
 男の俺がその内容を説明するのは相当きつい。
 鈍りかけた思考でそんなことを考えた時、栞が文庫本の内容が一発で分かる単純な感想を述べた。

「ああ、素敵ですよね……女の子同士の純愛」

 そう、文庫本の内容は俗にいう”百合”だった。
 まるで夢見る少女のような潤んだ瞳で、俺が手にもつ文庫本を見つめる栞に対して、引きの姿勢のまま俺は精一杯のツッコミを入れる。

「おまえな、彼氏を目の前にしながらこんなもん読むなよ!」

 俺のどう考えても正当なツッコミを聞いているのかいないのか、栞は虚ろな瞳のまま、とんでもない言葉をつぶやく。

「私も欲しいです……素敵なお姉さまが」

 聞いてないし。
 しかもお姉さま系かよ。
 俺は頭を抱えながら必死に考えていた。
 次のツッコミをどうするか。
 お姉さまが欲しいも何も栞には、香里という血のつながった姉貴がいるだろう!
 と、ツッコミたかったができない。
 栞がその視点の合わない瞳の先で見つめているのは、血の繋がらない素敵なお姉さまであることは容易に想像できたから。
 いや、さっさときつめのツッコミ入れておいて、栞の目を覚ませてたほうがよかったのかもしれない。
 
「欲しいと思うだけじゃ駄目ですよね」

 いきなりコブシをギュッと握り締めた栞は、すっかり溶けた液状になった元バニラアイスをゴクゴクと一気飲みすると決意の表情で宣言した。

「自分の力で見つけないと! こういうのってドラマみたいでかっこいいですよね」

 さらに絶妙に間違った方向に暴走を始めた栞。
 俺は虚ろな瞳でそんな栞を見つめながら心の中でツッコミを入れるのだった。
 ……そこまで一部のマニアにターゲットを限定したドラマなんてねぇよ。

 

ごきげんよう、お姉さま




 次の日の早朝、めずらしく人並みの時間に起床た名雪と俺は、のんびり通学路を歩いていた。
 ちなみに今年の冬も凄まじく寒い。
 これだけはとても慣れそうにない。
 昨日の栞の件で、たたでさえ低い今朝の俺のテンションが、外気温に比例するように下がっていくのが自分でも分かる。
 実を言うと昨日から嫌な予感がしてならない。
 栞はお姉さま探し宣言のもと、必ず変な行動に出ると思う。
 俺を必ず巻き込んで。
 予感というよりは、確信に近いな。
 思えば名雪が勝手に早起きするという事だって相当な異常事態だ。
 これも何かの前触れである気がする。 
 
「はぁ……」

 俺の溜息と共に吐き出された大量の白い息が、ゆっくり天に向かって昇って消えていく。
 それをまだ眠そうな瞳で見つめていた名雪が、心配そうに尋ねてきた。
  
「どうしたの祐一? 元気ないね」
「いや、なんでもない」

 俺は自分でも気がつかないうちに、従姉妹の目の前で盛大に溜息をついてしまったことを少し後悔する。
 別に名雪に心配してもらうことではない。
 強いて言うならば、こういう日に限って早起きするな、不安になるから!
 ……って言うのは言いがかりか。 

「受験勉強も追い込みの時期だもんね……わたしに出来ることがあったら相談してね」

 まだフル回転には程遠そうな頭で、俺の悩みを想像した名雪が心配をしてくれる。
 そんなことで悩んでいたわけではないのだが、説明する気もないのであいまいに返事を返しておいた。 
 この時期に溜息なんぞついてたら、受験がらみと思われても仕方ないし。
 いや、まあ俺もそんなベタな悩みで溜息ついていたかったのだが。
 しかし、実際の俺の悩みは、栞のお姉さま探し宣言。
 栞なら本気でやると思うし。
 この状況だけを第三者が見てたら、個性的な彼女がいて面白いとか思うだけで済むかもしれない。
 勝手にお姉さまでも何でも作らせればいいじゃないかと、笑うかもしれない。
 だが当事者の俺にはそんな楽観的な考えはできなかった。
 いや、なんていうか……
 自分の彼女が百合に興味持ち出したら引くって。
 正直な話、ドン引きだよ。
 しかも、栞はドラマとか小説とかに感化されやすいというか、夢見がちなところがある。
 うっかり本気でハマってしまいそうで、心配なのだ。
 いくらなんでも彼女を女の子に奪われたら、絶対立ち直れない。
 心配しすぎだとか思わないで欲しい。
 これでも栞のことは大切に思っているのだ。
 最近はただでさえ受験勉強で会う回数が減っているし。
 破局ってこういう小さなすれ違いが原因になるとよく聞く。
 暇を見つけて、できるだけ栞を誘うようにしてみよう。
 俺が何度目かの溜息をつきながら、そんな事を考えた時だった。

「あ、香里と栞ちゃんだ」

 突然栞の名前を口にした名雪に俺はぎくりと体を振るわせる。
 名雪の視線を追うと、校門の前に美坂姉妹が立っていた。
 考え事をしている間に、いつの間にか学校に到着していたようだ。

「おはようございます! 名雪さん、祐一さん」

 笑顔で元気に手を振ってくれる栞に対して、俺と名雪も丁寧に挨拶を返す。
 いつもとかわらない栞の笑顔を見て俺は意味もなく少し安心する。

「……おはよう。二人ともめずらしく早いわね」

 対照的に香里は少々テンションが低いようだった。
 俺達に挨拶した後、さっきまでの俺に負けないような大きな溜息をついた。
 俺の時と同じように、ゆっくり天に向かって昇って消えていく溜息をみつめながら名雪が心配そうに尋ねる。

「どうしたの香里? 元気がないね」

 俺の時は迷わず受験勉強が原因と判断したくせに、香里の場合はそう思わないのは二人の成績の差のせいだろう。
 ちょっと悔しかったりもするが、香里が心配なのは俺も同じなので黙っておく。
 名雪の問いに香里はゆっくりと首を横に振ると、チラリと困ったような視線を妹の栞に向ける。

「あたしは別になんでもないんだけど、昨日から栞の様子がおかしいのよ」
  
 俺はそれを聞いた瞬間、猛烈に嫌な予感が走ったが、栞はまさかここで自分の名前が出てくるのは予想していなかったらしく。

「え? 私もなんともないですよ」

 と不思議そうに首をかしげた。
 しかし、俺は直感する。
 今の栞の態度が妙に胡散臭いと。
 香里も同じことを考えていたらしく、不満そうにまた溜息をつくと栞の胸元を指差す。

「だったらまずそれをなんとかしなさい」

 言われるまでもなく俺も気がついていたが、栞の胸元を飾る一年生用の緑のリボンがほどけかけていた。
 しかも、思いっきり不自然に。 
 なんだろう、俺の胸に渦巻き始めた凄まじいまでの嫌な予感は。

「あ、気がつきませんでした」

 栞がそう呟く。
 ただし、台詞は棒読みで最高に胡散臭い。
 それが俺の不安を増幅させた。
 栞はおそらく何かを企んでいる。

「嘘をつくんじゃないわよ。あたしが朝から何度も注意してるでしょう」

 香里がそう言って、栞のリボンに手を伸ばす。
 当然結んであげようとしているのだ。
 だが次の瞬間、栞は誰もが予想しない行動にでた。

 ペチッ!
 
 なんと栞が無言で香里の手を払ったのだ。
 しかもかなり強く。
 その予想外の行動に俺と名雪は瞬時に凍りつく。
 いや、なんていうか……
 ありえないものを見てしまった気がする。
 それほどまでに香里に対しての今の栞の態度は冷たく見えた。
 それとは逆に顔を真赤にして怒りの表情を浮かべているのは香里だ。
 そりゃそうだろう。
 姉としての親切心からの行動を明らかに拒否されたのだ。 

「一体どういうつもりなの……朝から何度も!」

 しかも、これが初めてではないらしい。
 どう見てもキレる寸前に見える香里に対して、栞はまた不思議そうに首をかしげた。

「なんの話ですか?」
「栞っ……」

 しかも台詞はまたも棒読みだ。
 知らないフリを通すつもりらしい。
 それが香里をさらに苛立たせてるようだ。
 
「このっ……」

 もはや問答無用とばかりに、香里は強引に栞のリボンに向かって手を伸ばす。

 ペチッ!!
 
 またも栞がその手を払いのけた。
 しかし香里もまた負けじと手を伸ばす。

 ペチッ!!!

 また払いのける。
 どうでもいいけど、だんだん払いのける力が強くなっている気がする。

「だからどういうつもりなの栞!」
「え? なんの話です?」

 もはや掴みかからんばかりの勢いの香里に対し、あくまで棒読みの言葉しか返さない栞。
 そんなやりとりがしばらくの間続いた。
 見れば、払いのけられてばかりいた香里の手が打たれすぎて赤くなっている。
 ……たしかにものすごくムカつくなそれ。
 実際追いかけている香里の顔が般若のようでかなり怖い。
 幼稚園児とか絶対に泣くレベルだ。
 っていうか、もはや幼稚園の先生とかも一緒に泣く領域。
 名雪なんかはすでに涙目だ。
 ……よく平気だな栞よ。
 俺でも睨まれたら、全力疾走で逃げ出すと思う。
 光より速く。

 
「えっと、どうなってるのかな?」

 目の前の状況が理解できないらしく名雪が困ったように俺に視線を送ってくる。
 まあ、このままでは校門前で親友がその妹がタコ殴りにでもしそうだから、困るのも無理はない。
 普段はクールな香里も栞のことになると結構すぐ感情的になるし。
 俺にも良く分からない……と言って逃げ出したいところではあったが、栞は俺の彼女だ。
 なんとなくではあるが、栞のやりたいことが理解できた。
 とても残念なことに。
 栞は、香里以外の誰かにリボンを結びなおしてもらいたいのだ。
 それも人通りが多く、必ず誰かの目に付くこの校門前で。
 普通ならここでリボンを結ぶのは俺の役目だ。
 通学する他の生徒が羨むようなラブラブな感じで俺が結びなおしてやるべきなのだろう。
 だが、昨日の爆弾発言も含めて考えると、今の栞は違うことを希望しているにちがいない。
 だって、さっきから香里を払いのけながら、チラチラと名雪に向かって、何やら物欲しげな視線を送っているし。
 俺は少しの迷ったが、いまだに香里と追いかけっこをしていた、栞に声をかけた。

「おい、栞! 名雪がリボンを結びなおしてくれるらしいぞ」
「え……ちょっと祐一!」

 突然の指名に驚きの声をあげる名雪とは対照的に栞が歓喜の声を上げた。
 一瞬、栞の目がキラリと輝いたようにも見えた。

「本当ですか!」
「ちょっ……栞!」

 掴みかかる香里を軽快なフットワークでかわし、ついには転倒させた栞は全力疾走で俺たちの前……正確には名雪の前にかけてきた。
 しかも、名雪の前で立ち止まる時、車のブレーキ音が聞こえたような気がしたほど、凄まじいダッシュで。
 本当に元気になったなぁ……
 元気な栞を素直に喜べないのは俺が悪いのだろうか。
 いや、無様に校門前で膝をついてる香里が、ものすごい形相で睨んでいるからってことにしておくか。

「名雪さん! ではお願いします!」
「え、うん……じゃ、結びなおすね」

 目をキラキラ輝かせる栞に対して、名雪はわけが分からないという表情のままリボンを結びなおしはじめる。
 作業が進むにつれて、何やら潤んだ熱い視線を名雪に注ぐ栞を見つめながら俺は、またもや後悔した。
 意外な事に栞がお姉さまに選んだのは名雪らしい。
 栞の望みをかなえてしまったのは、俺の過ちだったかもしれない。

「はい。これで大丈夫だよ」
「ありがとうございます! では」
「え? 栞ちゃん、何……」

 栞が自分のリボンを結び終えた名雪の手をギュッと握り、笑顔でまた爆弾発言をした。

「これで私達は姉妹ですよ! 名雪さん……いえお姉さま!」

 うわっ……直球勝負できたか”お姉さま”宣言。
 予想以上にえらい事になってきたんですけど。

「え? どういうこと?」

 もはやまったく話についていけない名雪の問いに栞は、校門から入ってすぐにある銅像を指差し、それはもうノリノリで答えた。

「あそこにあるマリア様の像の前で、後輩のリボンを結びなおすと……その後輩とは姉妹になっていく宿命なんです! 私が愛読してる小説のひとつでもそんな感じでした!」
「えっと、意味がまったくわからないんだけど」

 そりゃそうだろう。
 小説ではそんな感じでしたとか言われてもな。
 ついでに言うと、俺の視界に入っている銅像はどう見てもマリア様ではなく、二ノ宮金次郎だし。
 聖母様は大量の柴なんか背負って勉強したことねーだろ。
 俺が栞は何の幻覚見てるんだよ、とか考え始めた頃、学校から予鈴が鳴り響くのが聞こえてきた。
 栞は完全に置いてかれている俺達を気にすることもなく、嬉しそうに手を振って走り出した。

「では今日から末永くよろしくお願いしますね。お姉さま!」
「あ、うん。よろしくね」

 意味が分かっているのかいないのか、引きつった笑顔で手を振る名雪を横目に見ながら俺はまた大きく溜息をつく。
 しばらくは俺の溜息で、地球の二酸化炭素濃度が増加しそうである。 





「……なにがお姉さまよ! あの子にはいるでしょうが血の繋がった姉が」

 昼休みの教室。
 俺が買ってきたメロンパンに齧り付きながら香里が、めずらしく愚痴を連発する。
 まあ、無理もない。
 朝一番から人目の多い校門前で、実の妹にスッ転ばされて大恥をかかされたのだ。
 香里が今まで築き上げてきたクールなイメージにかなりの悪影響を及ぼしたと思われる。
 なので午前中もずっとこの調子で、不機嫌そうにしていた。
 だから俺は香里の”食堂に行くのが面倒だから、パン買って来て”という、パシリ命令を素直に聞いて、食堂まで走ってきた後だったりする。
 一応は自分の彼女の姉なわけだし、気を使ったりもするんだよ俺でも。
 パシリ一号の北川がいれば代わりに全力疾走してもらうんだが、残念ながら今はクラスが違う。

「でも、どういう意味なんだろうね。わたしがお姉さまって」

 名雪がジャムパンを小動物のようにチビチビ齧りながら、首をかしげた。
 たしかに、普通はわけが分からんよな。

「……まさかいきなり女の人が好きな人になったわけでもないわよね、相沢君?」
「勘弁してくれよ」

 からかうように俺に話を振ってくる香里にカツサンドを食べ終えた俺は肩をすくめる。
 もし、栞が本当にそうなったら香里も困るだろうに。

「俺にもよく分からないが、そういう系統の小説に今はまってるみたいなんだ」
「そういえばここのところ相沢君がかまってくれないからって、家でもずっと何かの文庫本読んでたわね」
「え……」

 思い出したように香里がそう言うと、名雪が慌てて首を横に振った。
 今の会話で自分なりの解釈をみつけたらしい。

「まあ、女の子でも同性に憧れる事もあるんでしょうけど」
「困るよ……わたしはそういうは趣味ないよ」
「だから勘弁してくれよ。万が一にもそうなったら一番困るのは俺だ」

 何が悲しくて同居している従姉妹に彼女を奪われなくちゃいけないんだ。
 人間関係複雑すぎるわ。

「まあ、そんなことが原因ならそのうち栞も飽きるでしょ。一応は相沢君という彼氏がいるんだし」
「一応とかいうな」
「そう思うなら、しっかり繋ぎとめておきなさい。あたしだって迷惑してるんだから」
「俺のせいかよ……」

 香里の忠告に俺が反論しようとした、その時だった。
 ”ガラガラガラ"と勢いよく教室のドアが開かれた。
 反射的にそちらを見た俺達は、そこに現れたよく知る少女を見て三人同時に硬直する。
 噂をすれば影とはよく言ったものだ。

「ごきげんよう、お姉さま!」

 勢いよく、この教室に飛び込んできたのは栞だった。
 ありそうでありえないあいさつに、教室に残っていたクラスメートの視線が一気に栞にあつまる。 
 なんだか知らないが大きな風呂敷包みを持っている栞はまったく気にした様子はないが。
 さらには上級生の教室だというのに何の遠慮もなく踏み込んできて、その大きな風呂敷包みをドンと名雪を机の上に置いた。

「お姉さま! 昼食はまだですよね?」
「えっと、今パンを食べ終えたところだけど」
「そうですか、まだですか」
「あのね、だからパンを」
「ちょうどよかったです。お弁当を少し多く作りすぎたのでよかったら一緒に食べてください!」
「でもお腹いっぱいだし……」
「はい! では二人っきりで!」

 会話かみ合ってないぞ。
 無理やり自分の予定通りに進めていくつもりだな栞は。
 しかも、目の前に実の姉と彼氏がいるのに、二人だけでランチタイムかよ。
 俺の冷たい視線に動揺することもなく、自信満々の栞が風呂敷包みをほどくと、中から三段重ねの重箱が出てきた。
 うわー、ゴージャス。
 久々に見たぞ、そういうの。

「おいおい、ついうっかりで重箱三箱も作るか?」
「いえ、下段は全部バニラアイスですから、実質二段だけです」
 
 おお、バニラアイスまでも登場、お約束ですな。
 しかも上二段には美味しそうなおかずがギッシリなんだが、何故かごはん等の主食になるものが見つからない。
 本当にバニラアイスが主食なのかよ。
 えー、なに? もうどっからツッコミ入れたらいいか分からなくなってきたんですけど。
 あちこちツッコミ所が多すぎて俺が迷っていると先に香里が動いた。

「朝はそんな大きなもの持ってなかったでしょ。いつの間に用意したのよ?」
「いえ、持ってましたよ。お姉ちゃんが気がつかなかっただけです」

 栞はそう言ったが、俺もこんな大きな荷物を見た記憶がない。
 どうやって用意したんだろう。
 まったく思いつかない俺と違い、香里は何か思いついたようだ。
 さすがは実の姉。

「まさか……学校をサボって家に作りに戻ったんじゃないでしょうね」

 妹に対して、青ざめた表情で恐る恐る尋ねる。
 いくらなんでも、それはないだろう……
 俺がそう香里にツッコミを入れようとした時だった。
 
「そ、そんなわけないです……」

 そう言いながらも、思いっきり香里から目をそらす栞。
 おいおい、マジですか。
 そう言えばバ二ラアイスが全く溶けてないのはそのせいか。
 できたてを産地直送だからか?
 何ですか? その間違った情熱?
 彼氏の俺にもそこまでの気合は見せてくれたことないだろ。
 お姉さまってそんな大事なもんですか。

「さあ、うるさいギャラリーは無視して……」
「無視すんなよ」
「お姉さま。私の愛情たっぷりのバニラアイス弁当を仲良く分けあって食べましょう」

 ようやく入れた俺のツッコミは当然のようにスルー。
 どうでもいいが、重箱にぎっしりのバニラアイスってすげーな。
 しかも、今は真冬だし。
 俺には”胃腸大破壊弁当”とでも名づけた方がいいように思える。
 
「さあ、お姉さま! 召し上がってください!」
「栞ちゃん……困るよ」

 やんわりと拒否を示した名雪を余裕で無視して、栞はスプーンでバニラアイスをすくう。
 いきなりバニラアイスからかよ。
 それだけあるオカズからじゃないのはやっぱり主食だからですか、そうですか。

「お姉さま。アーンしてください」
「ほ、本当に困るよ」
「ちょっと、栞! 名雪が困ってるでしょう」

 うわ、上級生の教室でバカップルごっこを始めたよ。
 しかも同性で。
 ある意味ナイスガッツだ。
 実の姉の制止をまたも無視して、そのまま嫌がる名雪の口に強引にスプーンをねじ込む栞。
 もう周囲のクラスメート達なんか、不思議な生き物達を見る目で見てるし。
 まあ、俺にもそう見えるが。

「美味しいですか? お姉さま」
「お、美味しいけど……お腹壊しそうだよ」
「きゃっ! お褒め頂いて光栄です!」
「褒めてねーだろ」

 一応ツッコミは入れたものの、またスルーされ、栞は再びバニラアイスを名雪の口にねじ込む。
 完全にイジメだな、これ。

「もう、いいわ……」

 香里は他人の視線が気になるのか、もう止めるのは諦めたらしい。
 自分の席ついて、食事の続きを始めてしまった。
 強引に止めに入ったら余計に目立つからだろう。
 朝の一件もあるし、これ以上恥を晒したくないってことだろうな。
 俺もかまってもらえてないし、受験生らしく勉強でもしながら遠目から眺めていることにした。
 離れていくとき名雪が、視線で必死に何かを訴えていたが気がつかなかったフリをした。
 これはこれで面白そうだし。
 見ていてやろう。
 
「今日からお姉さまの為に、毎日お弁当作ってきますね!」
「お願い……やめて」
「気にしないでください! 私達は姉妹の契りを結んだ仲なんですから、遠慮なんかいりません!」
「いや、あのね、遠慮じゃないんだけど」
「ですから、私の事は妹だと思って可愛がってくださいね」

 次々とバニラアイスを口にねじ込まれながら、涙目になる名雪。
 結局は栞と共に弁当を完食するハメになるのだった。
 その間できるだけ二人を気にしないようにしていた俺だったが、一つだけ気がついた事があった。
 俺達が離れてからは、栞が妙にチラチラと俺や香里の様子を見ていたことだ。
 近くにいた時はほぼ無視していたのに。
 俺しか気がつかなかったようだが、その時の栞は少しだけ寂しげに見えた。
 ……そういうことか。
 表情には出さないようにしたが、俺の中では答えが見つかっていた。




 
   

 その日の放課後。

「正直に答えてもらってかまわないわ。このままでは栞は駄目になると思わない?」

 つらそうに両手でこめかみの辺りを押さえながら、香里が俺たちに問う。
 まあ、今日は栞のために二度も人前で恥をかかせれている。
 優等生の香里であるから心労も溜まるだろう。

「ぶっちゃけ、もうかなり駄目な感じだな」
「祐一……正直に答えすぎだよ」

 香里の要求の通りに発言したのに、名雪が非難の目で俺を見る。
 こっそりお腹のあたりを押さえてるように見えるのは、俺の勘違いではあるまい。
 ちょっと笑いそうなったが、さすがに申し訳ないので耐えた。
 
「正直に答えていいって言われたしな」
「栞ちゃんの彼氏である祐一が、そんな事言ったら終わりだよ」
「彼氏だからこそ、彼女の暴走を冷静に対処しなくちゃならないだろ」

 俺のあまりにもクールな対応に違和感でも感じたのだろうか。
 香里が不思議そうに尋ねた。

「そういえば相沢君、今回ものすごく冷静よね」
「そうでもないだろ?」
「いいえ。いつもよりボケもツッコミも少なめだし」

 その判断基準はどうなんだよ……芸人か俺は。
 まあ、香里がそう思うのも分からないでもない。
 実はいうと今回の栞の暴走に関して俺も要所ごとにツッコミは入れるものの、実は結構冷静だ。
 正直に言うとまず自信というか、信頼がある。
 俺は今回の件で慌て気味の二人を前に堂々と言ってやる。
 ちょっと恥ずかしい事を言うから、開き直って腕組みなんかして。

「だって俺、栞の事信じてるし。今でも俺達は相思相愛だって」 

 俺の言葉を聞いた二人は一瞬にして硬直した。
 まるで時間が止まったかのように、二人ともポカンと口を開け、俺を見たまま動かない。
 俺らしくない台詞を言ってしまったせいだろうか。
 なんか勢いでえらい事を言ってしまったかも……
 からかわれるか?
 そう思い、後悔した俺は、自分でも顔が赤くなっていくのを感じながら、二人からわずかに目線を逸らす。
 しかし、女性陣の反応は予想とは大きく違うものであった。
 
「祐一、かっこいい……」
「栞の実の姉を目の前に言ってくれたわね」
 
 てっきりからかわれるかと思ったが、二人ともなんだか眩しいものでも見るかのように俺を見て微笑んだ。
 名雪はなんだかに憧れるような視線で、香里は今まで見せたこともないような柔らかい笑みを浮かべている。
 いや、なんかそういう反応も逆に困るんですけど。
 単純に恥かしいし。

「相沢君は栞が、本当に変な趣味に走ったわけではないって思ってるのね」
「そうだな。あと、なんであんな行動とるかも大体予測はついてる」

 もはや完全に開き直った俺は胸を張って答えてやる。
 っていうかそもそも同性に恋愛感情を持つなんてことは俺の常識からはありえないというのもある。
 ホモだけはちょっと理解できないし。
 自信満々の俺を見て、香里はどっかの考えてるおっさんの像と同じポーズのまま、しばらく思考し始める。
 そして、何か思いついたようにニヤリと笑った。

「……なら、試してみましょうか」
「え? 何を?」

 答えるかわりに俺を手招きする。
 なんか邪悪な笑み浮かべてるんで怖いんですけど。
 恐る恐る近寄ってみると、香里が名雪に聞こえないように耳打ちしてきた。

「面白い作戦があるんだけど……」
「ふむふむ」
「香里? なんでわたしには教えてくれないの」

 しばらくの間不安そうに俺達を見る名雪を放置プレイして、香里の内緒の提案を聞いていた俺だったが、作戦の全容を聞かせれて同じようにニヤリと笑う。
 それをみて香里は一層邪悪そうに微笑み、対照的にさらに名雪は青ざめた表情を浮かべる。

「この作戦どうかしら?」
「結果がすぐわかって、かなりいいんじゃないか? まあ、香里にとっては仕返しも兼ねてるわけだな」
「ちょっと二人とも勝手に話しを進めないでわたしにも説明してよ!」

 膨れっ面で講義する名雪の肩にやさしく手を置き、香里が実に胡散臭い笑顔を浮かべた。
 うわっ、なんかすごい不安を誘う。
 校門前の一騒動の時の、栞の表情にそっくりなのはさすが姉妹だ。
 説明を要求した名雪が一歩だけだが後ずさりしたし。
 まあ、逃がす気は全くなそうだが。 

「大丈夫よ……ちゃんと説明してあげるわよ。今回の作戦の主役は名雪なんだから」
「香里……笑顔が邪悪だよ」

 大丈夫、作戦の内容も邪悪だから。
 心の中でそっと補足しておいた。





 次の日の早朝。
 俺達は学校の中庭に集合していた。
 ただし、人目につく場所に立っているのは名雪だけで、俺と香里は校舎の影に隠れている。
 俺達からは中庭の様子を確認できるが、向こうはまず気がつかない……そんな場所だ。

「ベストチョイスだわ、相沢君。人通りが少ないどころか、あたし達以外無人とはね」
「この寒い時期の朝一番に、こんな何もないところだからな」

 栞との思い出が山程詰まっているこの中庭。
 この時間ならわずかに登校してる生徒もほとんどは朝練中、人通りも少ないので人目にもつきにくい。
 名雪の名誉の為にもできるだけこっそり進めたい、この作戦の決行にはふさわしく思える。
 

「作戦の決行まであとわずかね」
「なんだか俺も緊張してきたよ」

 なんで俺達がこの凍えるような寒い日の早朝に、中庭なんかにスタンバイしているかというと、ここで名雪と栞を待ち合わせさせているからだ。
 更には自分を慕う栞に対して、名雪にはある行動をとってもらうことになっている。
 それが今回の作戦だ。
 
「しかし、名雪のやつ思ったより緊張していないな」

 昨日作戦の内容を香里が説明したときは、かなり嫌がっていた。
 俺としても名雪が緊張で失敗する可能性が、もっとも心配だったのだが。
 名雪は意外なまでに堂々と、中庭のベンチのド真ん中に背筋をピンと伸ばして腰掛けている。
 まるで精神統一でもしているかのように目を閉じ、ピクリとも動かない。
 見慣れたはずの従姉妹は、とても頼もしく思えた。
 ……なんだかカッコいいんですけど。
 そんな名雪を見て香里が苦笑した。

「まあ、開きなおってるんでしょうね」
「なんだか名雪らしくないな。そういうのって」
「別にいいじゃない。これなら期待できそうだし」
「期待できそうか?」
「……できそうね。作戦内容は緻密に練って説明してあるし。昨日の夜はその手の小説も熟読させておいたから、雰囲気も分かってるでしょうし」
「そうか妙に名雪が凛々しいのは、本人なりにお姉さまキャラを作ってるからか」

 ならたいした演技力だなと感心してしまう。
 今回の作戦はほとんどそれが全てだからこれは頼もしい。
 普段はボケッとした名雪が、あの集中力を見せるのだから、意外と陸上より演劇の方がむいてるのかもしれない。
 そんな事を俺が考えていた時だった。
 中庭に入ってくる為の重い扉が開かれた。
 栞が現れたのだ。

「お待たせしました。お姉さま」
「大丈夫だよ。わたしも今来たところだから」

 初めてのデートで待ち合わせしていたカップルみたいな返答をしながら、名雪がゆっくりベンチから立ち上がり笑顔で栞を迎える。
 その立ち上がる仕草が何気に優雅で気品を感じさせ、一瞬俺は驚いた。
 マジで漫画とかでみる、お姉さまキャラっぽい。
 それを感じたのは栞も同じみたいで、一瞬目を白黒させたように見えた。
 
「ごめんね、栞ちゃん。こんな早朝に」
「かまいませんよ。お姉さまの為なら、私はどんな朝早くでも駆けつけますから」
「そう言ってもらえるとわたしも嬉しいよ」

 少し照れた様子だった栞に向かって名雪が満面の笑みを浮かべる。
 その笑顔は淑やかながらも、花が咲いたように美しい極上の笑顔で……何でも言うことを聞いてしまいそうだ。
 真正面に立つ栞はもちろん、影から覗いていた俺と香里まで思わず赤面した。
 実際、名雪のバックに白い百合の花が大量に咲いたように錯覚した。

「な、なんだ? あの名雪の演技力」
「ええ……正直、あたしまでドキッとしたわ」

 覗き見してるだけの香里がこんな事を言うくらいだ。
 すぐ側で笑顔の直撃を受けた栞はすでにしどろもどろになっていた。
 っていうかちょっと涙目だ。

「えええ、えっと……お姉さま。きょ、今日は、どんなご用件で?」
「栞ちゃんに、どうしても確かめたいことがあって」

 栞とは対照的にどう見ても冷静にしか見えない名雪は、優雅に微笑んだままゆっくり両手で栞の右手を握り締めた。
 やさしく壊れ物でも扱うように。
 そして、そのまましばらくの間、まっすぐな眼差しで栞を見つめる。
 重い……とは違う、不思議で濃厚な雰囲気が二人を包む。
 その間はなぜか言葉を発しない名雪。
 しかし、言葉がないからなおさらだろうか。
 これから確かめることに対して、いかに名雪が真剣に考えてるということをその瞳が感じさせる。
 ヤバイ! 本気で俺までドキドキしてきた。
 誰もいない中庭で見つめ合う美少女二人。
 このシュチュエーションは……かなり俺的にアリだ!
 そして短くも長くも感じさせる数瞬が過ぎ、名雪がゆっくりと口を開いた。

「わたしの事を姉と思ってくれるというのは、本気なのかな?」
「は、はい。もちろんですよ」
「栞ちゃんのいうお姉さまって、実の姉妹とは違うけど、同じかそれ以上に大切な人のことだよね?」
「そ、そうですけど」

 明らかに裏返った声で栞が頷く。
 栞の肯定に対して、名雪の微笑が満開の笑顔に変わった。
 本当に心の底から嬉しそうな笑顔に。
 
「ありがとう。わたしすごく嬉しいよ」 

 名雪はそのまま栞の右手を優しく自分の方へ引き寄せる。
 すると二人の距離が一気に縮まり、体がピタリと密着した。
 見詰め合う二人の顔と顔は、数センチしか離れていない。
 吐息が直接かかる、もはやいつキスしてもおかしくない距離だ。
 俺が一瞬、そのままキスをしてしまえと思ってしまったのは内緒だ。

「お、お姉さま?」
「わたしも栞ちゃんが大好きだよ……」

 栞の耳元でささやくようにそう言うと、一気にその体を抱きしめた。
 ギュッと力強く。
 完全にドラマのワンシーンのようだ。
 しばらく呆気に取られたように無反応な栞だったが、時間が過ぎるにつれてゆっくりと状況を認識し始めたのだろう。
 いつの間にか耳まで真赤にしながら叫んだ。

「……え、ええ!」
「あなたも本当の気持ちを聞かせて」

 すでに卒倒してもおかしくないくらいに顔を真赤ににした栞を、名雪は追いうちするように、更に強く強く抱きしめた。
 瞬間、二人の背後に百合の花が豪快に咲き乱れたのを俺は確かに見た。
 本当に今日はえらいものを見てしまった。
 でも……こんな展開も俺的にアリだ!
 同性でも女の子同士ならなんとも美しい光景に思える。
 二人にはうまく結ばれて欲しい……
 ……って駄目じゃん!
 本当にくっつかれたら困るのは俺じゃん!
 あまりに非現実的で慣れない雰囲気に錯乱してしまったぞ!
 だってなんだかエロいんだよ女の子同士って!
 俺はパニック寸前になりながら、真赤な顔で耳を塞ぎ、二人から逃げるように視線を逸らす。
 自分の彼女と従姉妹が濃厚な抱擁シーンを繰り広げているというのに、俺の胸が高鳴っている。
 この感情はなんなんだ!
 自分でも把握できない感情を胸の奥に感じながらうなる俺。
 とにかくドキドキが収まらない。
 俺が自分がこの状況をどうすべきかを整理しきれない頭で必死に考えていると。

「ちょっと……相沢君が照れてどうするのよ!」
「へ?」

 呆れたように香里が声をかけてきて、ようやく俺は思い出す。
 いまの名雪の行動こそが、今回の作戦そのものだったことを。
 香里の方を振り向くと心底呆れたような溜息をつかれた。

「なに赤面してるのよ」
「……正直、演技だった事を忘れてた」
「まあ、たしかにアカデミー賞モノの名演技だったけど」

 よく見ると香里も、少しだけ顔が赤い気がする。
 俺はまだ少しドキドキしながら、今だ抱き合っている名雪と栞に視線を向ける。
 当事者である栞は、名雪の腕の中でいまだに制止していた。
 無理もないか。
 自分を抱く名雪の顔が、いつキスをされてもおかしくない距離にあるのだ。
 しかし、名雪の柔らかそうな胸に抱かれるのはどんな気持ちなのだろうか。
 栞は同性とはいえ、絶対に平常心でいられるわけはない。
 覗き見しているだけの俺ですら、こんな有様だし。

「まあ、これで栞も本心を語るしかないだろう」
「そうね、作戦は成功すると思う」

 そう、これが今回の作戦だった。
 どこまでか本気かわからない栞の”お姉さま”宣言。
 これに俺達は驚いた。
 俺と香里は慌てたし、そんな趣味のない名雪は大変に困った。
 しかし、冷静に考えてみたら、どうにも栞の手のひらで踊らされている気がしてならない。
 そこで、今回の栞の行動が本気ではないという前提の元、あえて俺達は名雪に本気の対応してもらう事にした。
 もちろん演技だが、名雪に栞の誘いに本気で乗ってもらうということ。
 栞の発言が本音でも冗談でも、この状況なら栞も適当なことは言えない。
 いや、言わせない。
 本音を語ってもらおうというわけだ。
 さて、どうする栞?
 おまえの言葉を信じて、真剣に応えようとするお姉さまにおまえはどう対応する?
 三人の視線の中、ついに栞が叫ぶように言葉を発した。

「名雪さん……ごめんさい!」

 案の定、栞は謝罪の言葉を叫ぶように発して、名雪の腕の中から少し強引に逃れた。
 そして、振りほどかれた姿勢のまま制止している名雪に対して、それはもう深々と頭を下げる。

「本当にごめんなさい! 私……名雪さんとはもちろん仲良くしたいですけど、そういう関係を望んでいるわけじゃないんです!」

 何度も何度も頭を下げる栞。
 チラリと見えた瞳からはうっすらと涙が浮かんでいた。
 そして、感情が爆発したように叫んだ。

「全部冗談だったんです!」
「……そうなの?」

 妙に無表情に名雪が問う。
 その姿は随分と寂しげに見え、傷ついたように見えた。
 それが栞を追い詰める。
 だから栞から飛び出したのだろう。
 純粋な思い、本当の気持ちが……言葉として。

「ごめんなさい! 私の一番大切な人は、やっぱり祐一さんですから!」
 
 人気のない中庭に栞の本当の思いが響き渡る。
 やはり、昨日の発言は全ては本気ではなかった。
 これで栞はこれ以上の茶番を続けることもできない。
 俺達の圧勝で作戦終了である。
 俺はまた大きく溜息をついた。
 しかし、昨日から何度もついたくだらない溜息とは違う。
 本当は分かっていたはずなのに、今の栞の告白にあまりに胸が熱く高鳴ったから、落ち着くためにその熱い息を吐き出したのだ。
 正直に嬉しかった。
 やはり栞の一番は俺だった。
 俺の一番が栞であるように。
 お仕置きを兼ねた作戦だったのに、猛烈に栞を抱きしめたい衝動にかられた。
 人前だからそれが出来ない自分の理性を恨む。
 しかし、絶叫の告白は恥ずかしくも嬉しいが、ちょっとお灸を据えすぎたようだ。
 栞は無言の名雪を前に、今にも泣き出しそうに肩を震わせている。
 名雪が予想以上の演技をしたため、随分とリアルな展開になってしまったものだ。 

「そろそろ行きましょうか」
「ああ……なんだか栞を苛めてるような気持ちになってきたし」

 見事な演技でまだ無言無表情の名雪を前に、もう泣き出す寸前の栞。 
 その前に俺達は出来る限り勢いよく飛び出した。
 栞は俺達を見て、心底驚いたらしくビクッと大きく体を振るわせた。

「え……」

 俺は栞が何かを言い出す前に、あらかじめ用意しておいたスケッチブックを広げる。
 そして、そこに書かれた文字を香里と同時に大きく読み上げた。

「ドッキリ大成功!」

 見事なまでのハモリを披露しながら登場した俺と香里を、栞は金魚みたいに口をパクパクさせながら見ている。
 よほど驚いたのだろう。
 信じられないという表情で俺と香里、名雪を順番にゆっくりと見回す。
 最初の一言……絶叫まじりでいつものフレーズが飛び出すまで、たっぷり十秒はかかったと思う。
 
「そ、そんな事言う人、嫌いです!」





「本当に、本当にびっくりしたんですから!」

 可愛らしく頬を膨らませ、そっぽを向く栞。
 そんな栞を見て、俺はにやけっぱなしだった。
 ドッキリ作戦も大成功したし、本音の愛の告白まで聞かしてもらった俺は大満足していた。
 今回の一件には俺も困らされたものだが、全てを許してもまだお釣りをあげてもいい気分だ。
 なので、今日も百花屋でバニラアイスでも奢ってやろうかと思っている。
 香里も真剣にむくれている妹を見て、気分が晴れたのだろう。
 余裕の腕組みなんかをしながら、いつものクールな微笑を浮かべている。

「驚かせたのはお互い様ってやつでしょう? これに懲りたらくだらないことをしないように」
「……はい」

 随分と素直に頷く栞。
 今のドッキリ大作戦は随分と堪えたようだ。
 俺はやさしく栞の頭を撫でてやりながら尋ねる。

「なんであんな事したんだ?」
「……祐一さんもお姉ちゃんも、最近全然構ってくれないからです」
「何? かまって欲しかったからやったの?」
 
 気まずそうに頭をさげる栞と、心底呆れる香里。
 まあ、そんな事だろうとは思っていたが。
 考えてみれば寂しい思いをさせていたのだろう。
 栞は病気で留年しているのだ。
 俺達も出来る限りは気にかけているつもりだったが、受験が近づくにつれてそうもいかなくなっていた。
 同じことを考えたのだろうか、俺と目を合わせた香里は少し遠慮がちに肩をすくめる。

「でも、今回のはちょっとやりすぎだわ」
「そうだな」
「はい、反省してます……皆さん、ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる栞。
 その素直な姿からは十二分に、謝罪の意思が感じ取れた。
 逆に俺達が申し訳なく思えるほどに。
 俺は気まずそうな香里と再び顔を見あせて苦笑した。

「まあ、栞も随分と反省してるみたいだし、全部水に流してあげるわ」
「ああ、仲直りの意味も込めて、放課後はみんなで百花屋にでも行こうぜ」
「そうね。相沢君のおごりなら」
「おう! 今日は気分がいいからみんな俺が面倒みてやるぜ!」
「本当ですか! ありがとうございます!」

 俺が”まかせろ”と胸を叩くと、美坂姉妹はパチパチと笑顔で拍手した。
 痛い出費をすることになったが、これで一件落着ってやつだ。
 受験勉強にも専念できるだろうし。
 これも名雪の名演技のおかげだな。

「それにしても名雪の演技は凄かったよ」

 俺はさっきから妙に大人しい名雪の肩をポンと叩く。
 とにかく今日のMVPを褒めてやりたかった。
 しかし、なぜか反応がなかった。
 無表情の演技を続けている名雪。
 同居している俺でも見たこともない、虚ろな目をしている。
 俺はそんなに嫌な仕事をさせてしまったのかと心配になってくる。
 申し訳ないと感じたので、食べ物でご機嫌を取ってみることにした。

「今日は好きなだけイチゴサンデーを食べていいぞ、食べ放題だ!」

 しかし、それでも名雪は無表情。
 まったく反応がなかった。
 好物のイチゴサンデーが食べ放題だというのに。
 香里達も違和感を感じたらしく、遠慮がちに会話に入ってきた。

「本当に演技の才能あると思うわよ。ね、栞?」
「私もそう思います。正直に言うと一瞬、恋に落ちそうになりましたから」
「こらこら! 彼氏の前で何を言う」

 俺が栞の額に軽くデコピンを食らわせてやると、笑いが巻き起こる。
 明るくいい雰囲気だ。
 ……名雪以外は。
 そんな名雪の沈黙に合わせるように、ピューッと冷たい風が吹いた。
 その不自然な沈黙が急速に俺達にも伝染する。
 いまだに無言を貫き通す名雪。
 俺達は顔を見合わせる。

「どうしたんだ名雪?」

 俺が恐る恐る尋ねると、名雪はようやく動き始めた。
 そして一瞬、意を決したような表情を浮かべ語り始めた。
 誰も予測しなかったことを。

「……演技じゃないから」

 制止した。
 明らかに一瞬だが、時間の流れが止まったのを感じた。
 意味は分からなかった。
 いや、理解したくないから思考が停止したのかもしれない。
 それを破ったのは、感情を爆発させるように勢いよく話し始めた名雪だった。

「香里から借りた本を読んで、わたしは気がついたんだよ! 血の繋がらない女の子二人が姉妹と呼びあう事の本当の意味を! その心の繋がりが、普通の恋愛なんかよりずっと美しく価値があるものだと! 女の子同士の純愛がどれだけ素晴らしいかを!」
「お、おい……」
「だから嬉しく思えるようになってたのに! 栞ちゃんの言葉が!」

 まったく予想しなかった名雪の爆弾発言はさらに続いた。
 硬直したままの俺達とは対象的に熱く胸の内を語るその姿は、どう見ても真剣そのものだ。

「さっきのは演技じゃないから! わたしの本当の気持ちだから!」

 そう叫ぶように告白すると、俺を押しのけた名雪が栞の前に立つ。
 とにかく思いつめた表情だったので俺は何も出来なかった。
 呆然と立ち尽くす。
 後で思えば、ここで俺が無理やりにでも名雪の暴走を止めるべきだったのだ。
 
「な、名雪さん?」
「栞ちゃん!」

 状況を理解できていない栞を、再び名雪が抱きしめた。
 それはもう力強く。
 あ、また百合の花が咲き乱れて見えた。
 まるで先ほどのシーンが再現されたようだ。
 熱い抱擁。
 違うのはもうこれは演技ではないと、俺達が認識していること。

「わたし……なるんだから! 本当の姉妹より深い愛情で繋がった心のお姉さまに!」

 抱きしめたままの姿勢で、俺から栞を遠ざける名雪。 
 そんな名雪を前に俺達は一歩も動けない。
 俺は状況が理解しきれていない鈍った頭で、ゆっくりと尋ねた。

「……マジ?」
「大真面目だよ! わたしの大切な妹は祐一にも香里にも渡さないんだから!」

 叫んだ名雪はそのまま身動きできない栞を見つめると。
 なんと強引に唇を奪った。
 名雪の大暴走を目の前にした俺と香里は再びハモらせるのだった。
 ただし、今度は絶叫を。


 
「えぇぇぇぇぇぇぇ!!!」






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