夢を見ていた気がする。とても……幸せな夢を。
 どうして幸せだなんて思ったんだろう? どうして夢だったなんて思ったんだろう?

 ――ねえ、どうして?

 そう口にした瞬間、ボクは自分がひとりなんかじゃなかったことに気がついて……
 そして……
「おかえり」
 誰かが……大好きな誰かがそう言ってくれるのを聞く。

 ボクは……






 足音を立てないよう細心の注意を払った。テーブルに伏して寝こけているのは秋子さんだろうな、と祐一は当たりをつける。
 白熱灯の光が、丸められた背中を白々と照らしている。日頃見た覚えのない、くたびれた様子である。すぅすぅと、かすかな寝息を立てている。
 どこからか夜気が入り込んでいるようだ。寝入っている秋子が気遣わしい。先に足早に玄関を確認しに行く。その途中、廊下の小窓が僅かに開いていた。誰かが閉め忘れたのだろう。
「う、ん……」
 窓に手をかける。指先が凍り付いたように痺れた。連鎖的に足の裏も冷たかったことを思い出し、身を震わせる。背中から声が聞こえた。肩越しに振り返る。
 秋子は何とも言えず淋しげな顔だった。不安げ、とも感じられた。光量が足りないためか、瞳の焦点が定まっていない。
「起こしちゃったみたいで。ごめんなさい」
「祐一さん?」
 少し鼻にかかった甘い声。まだ酔いが醒めていないのだろう。
「あ、これから飲むならつきあいますよ」一瞬だけ口にすべき言葉に迷ったが、あえて続ける。「安心してください。大丈夫。よだれのこと、名雪には黙っておきます」
「……っ」
 珍しく、慌てて身体を起こす。袖でかるく口元をぬぐう。
 それを待って、声を立てず笑った。
「ちなみに今のは冗談です」
「……もうっ。祐一さんたら」穏やかに言って、手の中のグラスを置いた。香りからしてブランデーだろう。「でも、そうね。二十歳を過ぎたころに、一緒に飲みましょうか」
「そのときを楽しみにしておきます」
「ええ。こちらこそ」
 なんとなく二人して黙ってしまう。
 家の中は静けさに支配されていた。お喋りの弾む空気ではなかった。
 一呼吸置いて、祐一から話し始める。
「あゆのことなんですけど、俺はやっぱり、あいつの側にいようと思うんです」
 秋子も頷いて、何かを言いかけ――そこで唇を噛んで押し黙る。決意が固いことは十分に知悉していた。互いに、相手の表情を窺った。
 その間、嘆息することさえも躊躇われて、どちらからともなく顔を伏せた。





ハッピーエンドをもう一度!






 ――あゆの入院している病院は、市内にあった。隣接した市街も含め最大級の規模だったことも幸いした。意識を失ったあの日からずっと、あゆはそこでひとり静かに眠っていたのだ。
 意識を取り戻したというニュース。知った日のうちにあゆとの面会を求め、すげなく断られた。取材や好奇心ではないことも告げたが、そう簡単には会わせてもらえないのが現実だった。
 祐一は諦めなかった。毎日遅くまで通い詰めて頼み込んだのだ。加えて秋子による四方手を尽くしての力添えもあり、担当医師立ち会いのもとでの条件はあるにしろ、面会を許可されたのである。
 喜びに浮かれたのは仕方のないことだろう。
 顔を輝かせて、祐一は感謝の言葉を医師に告げた。秋子に報告し、その期日を、再会のときを待ち望んだ。



「ゆういち、くん?」
 呼ぶ声は聞き慣れたそれよりもずっと幼く感じられた。
 いや、呼び方が、と言うべきか。
 驚きを隠そうともしなかった。病室に入ったとき、あゆはドアの音に怯え、周囲を見回していたのだ。見知らぬ他人ばかりに囲まれていたせいで、さぞかし不安だったのだろう。祐一が一歩前に出て、あゆに近寄る。視界に収まった、骨と皮だけになったその体躯。痛ましさを感じさせるより先に、起きて大丈夫なのだろうかと不安を煽った。
 がりがりに痩せた身体。触れれば、今にも折れてしまいそうな細い腕。こけた頬。落ち窪んだ瞳の光はおどおどと揺れていた。
「ゆういちくんだ、……ゆういちくんだ……!」
 今にも泣いてしまいそうな顔で、かすれても構わぬ必死な声で、名を呼ぶ。
 呼ばれた祐一は動けないでいた。息を吸い、なんとか口を開いた。
「……久しぶり」
「うん」
「元気だった……わけないよな。でも、また逢えた」
「うん……」
「あゆ」
 病室の入り口付近で様子を伺っているのは医師達だ。あゆは彼らの視線に射竦められているようだった。安心できるよう、なるべく優しく声を掛ける。あゆはベッドの上に寝かせられていた。ほとんど身体が動かせないようだった。腕を伸ばそうと懸命に力を込める素振りを見せたが、やがて諦めたようだ。そのままの体勢から問いかけてくる。声に力はなかった。喋るだけで疲労しているのが分かる。
 それでも、おそるおそる口にした。
「ゆういちくん、ここ、どこ?」
「病院だ。ほら、市内の一番大きなとこ」
「そう、なんだ」
 納得した様子は無い。自分が何故こんなところにいるのか理解できない、といった様子だ。
 背後の数人の気配は、耳をそばだてていることを示している。どんな会話か興味があるのだろう。悪趣味だとは思ったが、医師の務めだとでも考えているのかもしれない。
 ただ、祐一は胸中での違和感が拭えない。
 この怯えよう。
 潤んだ瞳。
 あまりに脆く、あまりに弱々しい姿を見て、確信する。
 身体が弱っているだとか、そういう意味では到底表しきれない差異がある。あの、元気の塊のようだった日々とはほど遠い。理由にも薄々感づいていた。
 なるべくなら認めたくなかった。そうでなければ良いと思った。だが、それは祐一の単なる希望だ。真実から目を背けるわけにはいかない。
「なあ」
 と、祐一は一瞬口ごもった。ここで聞くべきか、聞かざるべきか。
 後ろのことは気にしないことにした。一応、声だけは潜めた。
「あゆ、お前さ」
 一端区切り、ゆっくりと、問いかける。
 或いは、聞くことに意味など無いのかもしれないけれど。
「どこまで覚えてるんだ?」
 確かめなければならないと思ったから、祐一は、聞いたのだ。
 そして。
 あゆは言った。
 記憶の海の底から、重い碇を引き上げるように。
 ゆっくりと、言葉を区切りながら。
「そうだ……ボクはあのとき、木から落ちたんだよね……」
 目蓋を閉じる。小さな声になる。祐一は寂しげな笑みを目の前にしていた。
 そう、あゆは笑おうとしていた。
 精一杯の笑顔で。
「祐一君が、すごくあわてた顔で、走って来てくれて……」
 嬉しそうな顔で言う。あのときも同じだった。こんな表情だった。
 強がりだったって、知っている。
 でも本当に嬉しかったんだとも、思う。
 涙が零れた。
 頬を滑って、その線が蛍光灯に照らされて光った。
「それから、それから……手が動かなくて、指切り、できなくて……」
 それから……
「……約束……」
 声が薄れて、最後の方はもう聞き取れなかった。
 突然の眠りに祐一は恐怖したが、あゆの胸が上下するのを確認して、叫び出したくなるのを堪えた。聞こえてきた穏やかな呼吸に安心してしまう。
 医師の指示で看護士が手際よく機器の数値を記録し、脈などを計る。異常は認められなかったことを教えて貰う。祐一は付き添いで来ていた秋子を振り返り、深く頷くと、医師に頭を下げ、足早に部屋から出て行った。我が儘でここに留まって邪魔をするわけにはいかない。



「秋子さん」
「あゆちゃんのこと、聞いてもいいかしら」
「……はい」
 廊下を黙って歩いた。大抵の病院には飲料物の自動販売機が設置してあり、周囲に休憩用のソファがある。落ち着いて話すため、二人はそこまで移動した。
 あゆとの面会を願う前。助力を頼む際に、過去の事情とことの経緯は先に話してあった。正直に全てを、である。名雪はあまり信じていない様子だったが、秋子は幾つかの疑問の答えを求めただけで、納得してくれたようだった。
 七年前のことを知っていたからだ。
 無論、何もかも無条件に話を信用したわけではないのだろう。どんなに信じられないようなことでも、それを信じようしてくれる。そういうことなのかもしれない。祐一にとっては充分だった。
 ソファに座り、向かい合ってすぐ、祐一は話し始めた。
「あいつ、覚えていないんです。秋子さんや、名雪と話したことも」
 秋子は口を差し挟まなかった。
 言葉にするには勇気が要ったが、勢いをつけ、あっさりと口にした。
 それは当然のことで。
 本当は、そうでなければいけないことだから。
「きっと、七年前で時間が止まったままなんです」



 会話が途切れると、秋子はココアを買うために立ち上がる。
 紙コップだったから熱さに気をつけてください。そう言おうとしたようだが、下手に声を掛けると崩れてしまいそうな祐一の雰囲気に、黙って手渡してくれた。
 祐一は思う。……想像してみればいい。
 たとえば、眠っているあいだに七年の時間が過ぎていて、時の流れに置き去りにされた人間がどんな不安に襲われるかを。
 突然、見知らぬ世界に放り投げられて、自分の身体は満足に動かなくて、それでも笑顔を浮かべようとする強さを。
 けれど人間は自分以外のことを理解できない。
 そう。ひとは、想像することしかできない。
 隔絶されている。好きな相手がどれだけ苦しんでいるか分からない。どんな想いで笑みを浮かべたのか分からない。しかしそれは、あまりに悲しいことではないだろうか。
 担当の医師が静寂で満たされた廊下を、抑えた足音を立てて歩いてくる。こちらに向かってきていた。挨拶を交わして、一言二言、感謝の礼を告げる。
 あゆの身内と呼べる人間がいないことも手伝ってか、その医者は多くのことを説明してくれた。母が亡くなってからすぐ、あゆが意識不明となり、父親の方もやがて倒れた。数年前に死去したそうである。生命保険が掛かっており、その受け取り先になっていた親戚が事故以降、あゆの入院費用を支払っている。おそらく頼まれた内容は違えず果たしているのだろうが、一度として見舞いにも来ないのだという。
 まだ若いその医者は憤慨していた。はっきりと言葉にはしなかったが、義理は果たすがそれ以上は一切しないという態度が気に入らないのだろう。意識が戻ったときも、連絡したが顔見せにも来ないというのである。気持ちは分からなくもない。
 秋子も色々と質問した。医師は自分の領分のことには率直に返答してくれたが、それ以外のことは答えられなく、申し訳なさそうに頭を下げたものである。祐一は好感を持った。秋子も同様であろう。
 引き留めたことを謝りながら、秋子は最後にこう聞いた。
「先生、あの、うちで引き取るのはかまわないでしょうか?」
「おや、あの子を養子になされるので? まあ、専門外なのではっきりとしたことは言えませんが、あの親戚の様子を見ている限りじゃ大丈夫でしょうね。手続きについては門外漢ですので、なんとも」
「色々、ありがとうございました」
「こちらこそ。いえね……ここだけの話、うちの連中、あの子が来てからずうっと気にかけてるんですよ。七年。いいかげん長いですからねえ。娘みたいなもんだと感じてるんでしょう。勝手なもんですけど。でも、やっぱり、幸せになってくれたらって思ってます」
「ええ、本当に」
「次はいつ来られます?」
「来てよろしいのでしたら、毎日でも来させていただきますけど……」
「……当分はリハビリですね。がんばり次第ですが。まあ、衰弱しきっている以外に異常は見あたらないので、日常生活が送れるくらいになれば退院しても問題ないでしょう」
「あゆちゃんのこと、よろしくお願いします」
「ええ、もちろん。では、また」
 その後、医師は祐一にも話しかけようとしたのだが、出来なかった。祐一は目線を上げようとしなかったからだ。すぐさま、座っているにも関わらず膝が震えているのと瞳が充血しているのを知り、冷静な会話は望むべくないことを察したらしい。余計なことを口にせず退いてくれた。明日の午後も来ることを伝え、二人は辞去した。
 帰り道では、ひどく寒々しい風が吹きつけてきて、足の進みが妙に重かった。
 何度となく病院を振り返る祐一の手を、秋子は軽く握りしめてやった。二人は家路へと黙って歩き続けた。横顔も見なかった。だから二人は、隣にいるひとが泣いていても、互いに分からないはずだった。



 ……寝こけた秋子と遭遇したのが、昨晩のことだ。
 帰宅してすぐ、祐一は自分の部屋に向かった。ベッドに身体を投げ出して、強く強く目をつむった。
 名雪には遅くなるかもしれないからと出かける前に言ってあった。だからすでに寝ているはずだ。不意に、部屋から名雪が、おかえりと声をかけてくれた気もする。錯覚なのか、本当にあったことなのか、いまいち判別がつかない。
 まぶたの裏には、様々な思い出が蘇る。
 信じたくないという気持ちと、嬉しさが奇妙に綯い交ぜになった心を抱え、祐一は今までのことを思い起こしていた。
 あゆが永い眠りから覚めたことは現実だし、あゆをこの手で抱いたことも現実のはずだ。どれほどに夢のような、奇跡のようなことだったとしても。だが、目覚めたあゆはその日々を知らなかった。七年を飛び越して、その続きを生き始めた。
 だから、あれは、すで終わった夢なのだ。
 冬のあいだ、あゆと過ごした時間は。
 楽しかった夢の続きに過ぎない。目覚めれば消えてしまう泡沫の嘘に過ぎない。
 そう思わなければならない。
 煩悶を抱えたまま祐一は反芻する。どうやって空白を埋めればいいのだろう。時間の空白。記憶の空白。そして祐一が抱いた感情が向く先にあるもの。考えるたび胸に氷の破片が突き刺さり、痛みが消えない。
 眠りが浅かったせいで、夢も見ず、夜中に目が覚めてしまった。
 或いは――飲まなければやっていけない。秋子ですら、そんなふうに思うことは多いのかもしれない。昔から苦労を掛けっぱなしだった。いくら感謝してもし足りないけれど。
 あれから二言、三言、言葉を交わし、自室へと戻った。
 祐一はまだ答えを出せないでいる。何について悩んでいるのかすら、分からないでいる。



 翌朝、寝汗でびっしょりとパジャマが濡れていて、ひどい気持ち悪さを感じた。枕も湿っていた。寒気がする。
 再び睡眠を取ってからも、夢は見なかった。
 壁に掛けておいた制服を手に取った。嫌な気分が纏わりついたままだと、着替えの所作も一々鈍らせる。
 食卓に向かう。名雪はトーストを片手に台所あたりでふらふらしている。
 時間を確かめることもせずテーブルに着いた。秋子が紅茶を淹れてくれる。それを待って祐一が口を開こうとすると、素早い言葉で割り込まれた。
「名雪にはもう話しました」
 台所から出てきた名雪が、自分の名前に反応する。
「えっ、何の話?」
「あゆちゃんのこと」
「あ、うん。うちで引き取るんだよね。いいんじゃないかな」
 名雪の顔を凝視する。名雪は落ち着いて答えた。
「……わたしたちのこと、ぜんぜん覚えてないってことも、聞いたよ」
「名雪、お前はそれでいいのか」
「いいって?」
「気にしないでいられるのか、ってことだ」
「うーん、どうだろ? でも、そんなの話してみないと分からないんじゃないかなぁ。あゆちゃんは、あゆちゃんなんでしょ?」
「……ああ」
「なら、大丈夫だと思うよ」
「そっか」
 相談というほど深刻な話し合いも無かったようだ。呆気ない成り行きというか、何でもないことのような口調に苦笑する。名雪も適当に言っているわけではない。それが分かっているから、祐一はしつこく食い下がらなかった。
「ね、祐一。もう行かないと」
「ん、あ、……俺がメシ食ってる時間は無いな」
 身震いする。背筋に走る悪寒は表面的な冷たさより、重さ、息苦しさを覚えるものだ。
「今朝はなんだか寒いな」
「そう? 昨日と同じくらいだけど」
 気を利かせてくれたのか、秋子が提案してくる。
「祐一さん、今日は休みます? 午後になったら私も行くつもりですけど、病院に行ってみたらどうかしら」
「あ……」
 答えが返るのを待たず秋子は背を向けた。電話するためであろう。罪悪感を覚えなくもなかったが、どうせ登校したところで気もそぞろでまともに勉強出来るとも思えない。せっかくの言葉に甘えることにした。
「じゃあ、学校には私から連絡しておきますね」
「恩に着ます」
「あれ、祐一。顔色悪いよ?」
「というわけで名雪。俺、今日休むから適当に誤魔化しておいてくれ」
「えーっ! 祐一、仮病はだめだよ! お母さんもー!」
 祐一の顔を覗き込み、仕方ないなあ、といった表情で名雪は頷くに留める。本当に体調が芳しくないと目に映ったのかもしれない。
 顔を洗うため鏡を前にしたとき、祐一は嘆息した。名雪があっさりと引き受けるに足るほど憔悴しきった顔をしていた。目元の隈はどす黒く、瞳は充血していた。一晩泣き明かせばこのくらい真っ赤な目になるかもしれない。身体に感じる気怠さの正体は泣き疲れたせいなのだろう。
 ふと、思い至る。
 夢を見なかったのではく、忘れてしまっただけなのだろうか、と。
 そのふたつは同じようでいて、本当は全く別のことなのだ。
 泣いたのは、かなしかったからだ。心は憶えている。それが、たとえ記憶に残っていなくとも、目に見えないものだとしても。きっと。



 一緒に家を出ようとした。
 名雪は玄関先で靴を履き終えると、後ろで立ったままの祐一を振り返る。
「ほんとうに、覚えてないんだ」
「ああ。あれは、あの時間は無かったんだ。そういうことになってる」
「祐一も、そう思うんだ?」
「あゆが嘘をつく理由なんてないしな」
「なら、そうなのかもしれないけど……あゆちゃんは、覚えていないのかな? それとも忘れちゃったのかな?」
「どうして忘れる必要があるんだ?」
 強い語調ではなかった。ただ純粋に知りたいと思い、名雪に聞く。
「なんで、忘れちゃいけないのかな」
 絶句する。
 本気の言葉だったからだ。その口調は冷たくはなかったけれど、真摯な響きを伴っていた。だから祐一は考えて、考えて、胸の奥から、ようやく言葉を紡ぎ出した。
「忘れられるのは悲しいことだから」
「……そうかな」
「そうだ」
「覚えていることが苦しいってこと、あるんじゃないかなあ」名雪は遠くに目をやろうとして顔を上げる。玄関のドアは閉めたままだ。その閉ざされたドアの向こう側に何かを見ようとしながら口にする。「いっても祐一には分からないと思うけど。えっとね。忘れられたほうがいいと思って、本当は忘れてほしくなんかなくても、でも……それでも忘れなくちゃいけない。そういうこともあるんだよ」
「どういうときに?」
「新しいものを探すとき、とか」
「たとえば?」
「ねえ祐一、少しは自分で考えたほうがいいんじゃない」
 顔を顰めている。今度はきつい言い方だった。それから、はぁぁ、と長く息を吐き出した。温度の関係で、白くはならない。祐一を振り返ると目を細めて、見えもしない吐息の行方を静かに見上げた。
「でも、あゆちゃんって、愛されてるんだね」
「……名雪?」
「うらやましいな」
「聞き返しちゃ、だめ、なんだよな」
「うん。……だめ」
「そっか」
 名雪は祐一から顔を背けると、玄関のドアを勢い良く開けた。トントントン、と三度踵を踏み鳴らし、走って出て行こうとする。
「じゃ、いってきますっ」
 颯爽と駆けてゆく後ろ姿を見送る。背中から声をかけることはしなかった。
 今の自分には、そうすることは許されていないと感じた。



 後悔とは傷のことだ。
 当たり前で幸せな時間にこそ、笑って語れるようになる日々にこそ、小さな痛みが隠れている。
 だが、所詮、小さな痛みに過ぎない。
 傷や痛みを怖がって、現在を手の中から零してしまったなら……。
 過ぎ去った時間は、二度と取り戻すことは出来ないのだ。散々思い知ったことだった。積み重ねてきた記憶に価値を見出すことならできる。それしかできないのかもしれない。
 歩いてきた道のことなど、振り返ってみなければ分からないのだ。そのくせ、振り返り続けていれば小さな石に蹴躓いて転ぶだろう。逆に前だけを見ていたら、迷う。自分が歩いている道のことを知らないからだ。
 だとすれば、前を見ることも、後ろを振り返ることも、大切なことなのだ。
 大きく息を吸い込んだ。
 出来ることは立ち止まらないことだった。そこから二度と歩き出せなくなる。それがとても怖い。後悔に足を取られれば、いつかはそうなるだろうとも理解している。
 ぼんやり考えながら、見慣れた道を歩き始めた。



 いつの間にか駅まで出てきていた。人波に揉まれながらやっとの思いで広い空間に抜け出すと、駅前のベンチに腰掛けた。
 空を仰ぎ、一息つく。
 七年前にはあゆが待っていた場所で、今は祐一が待つためにここにいる。
 どうすればいいのか。それを考えるために。
 来ることのない相手を待ち続けるのは辛いことに違いなかった。来ると信じているなら尚更だ。空白に耐えるためには別のもので埋める必要がある。
 たとえば期待。たとえば希望。
 裏切られると分かっていても、ひとは何かを信じなければ生きていけないから。
 胸の奥にある、その無性に切ない気持ちを抱きしめて、病院にいるはずのあゆのことを想う。
 なりふりかまってはいられない。大切なものを手放すのは、もう二度と嫌だった。
 不意に、あゆの泣き顔が思い浮かんだ。手のひらに乗った雪がそのぬくもりで溶けるように、すぐさま消えてしまったけれど。
 それは笑顔に見えるけれど、本当はあゆは泣いているのだ。祐一は知っている。祐一には、あゆの笑顔がどういうものなのか、ちゃんと分かるから。
 あゆと一緒にいたい。
 あの笑顔を、曇らせたくない。
 だから……理由なんて、それで充分だった。



 病院に着いた。
 なのに祐一は白く塗られた壁に身体ごと寄りかかった。入り口はもう何メートルか先だ。自動ドアが開いては、閉まるのを、鼻先に見ている。
 肩で大きく息をつく。
 立ち止まったのではない。身体を動かすことが辛かったから、休んだのだ。
 今朝から……いや、昨晩からずっと続いている寒気のせいで、身体の震えは頻度を増す一方だった。寒くて、冷たくて、凍えていて、そのくせ逆に、熱に浮かされている気もしている。嘔吐を堪えながら頼りない足下を踏みしめる。柔らかいと感じたが、地面は土では無くアスファルトだ。
 こんな場所で、長々と足を止めているわけにもいかない。必死に膝を上げ、一歩を踏み出した。その途端、小石も何も無い道で足がもつれた。よろめいて倒れかけたが、なんとか手を伸ばす。手を……
 視界が滲んで、ぼやけた。
 息苦しい。
 雪なんてないのに、世界は真っ白に見える。
 そして祐一は前のめりに倒れた。不思議なことに耳は機能し続けて、意識が薄れてゆく間も、騒がしくなる周囲の声を捉えている。おそらく意識を失ってからも。



 目蓋を怖々と押し上げる。
 まず初めに白が目に入る。四角い天井がある。続けて消毒液の匂い。病室。堅い背中の感触。輝く蛍光灯。窓の外は暗さを増している。静かに響く足音。真っ白。敏感になっている神経をささくれ立たせる強い印象の数々。想起するのは古い記憶。開いてしまった蓋の底にあった、白い景色と、真っ赤に染まった視界。
 それから、
 あゆの、泣き顔。
 ……ひどく身体が重い。
 祐一は呻きながら起きあがろうとして、体中が軋むのを感じた。首だけでなんとか室内を見回す。自分の置かれた状況を理解するまでに数秒を要した。
 ベッドから転がり落ちるようにして抜け出す。幸い、看護婦は席を外しているようだ。さっきまで傍にいた気もするが、何処かに消えている。曖昧な記憶を頼りに、病室を出る。廊下を進み、自分の居場所を確かめようとする。
 その必要はなかった。
 目線を上げる。視界に映ったその名を口の中で読み返す。見間違えではない。
 月宮あゆ。
 個室だ。ドアは閉め切られている。中にいるのだ。手の届く場所にいる。手の触れられる場所にいる。まだ、失ってはいない。
 安堵の吐息を漏らした。体中から力が抜けていった。ドアに背をもたれ、座り込んでしまう。
 頭が自然と垂れる。片膝だけ立てる。その膝に額を当て、目を閉じる。立ち上がる気力も残っていない。
 室内には、入れない。
 入らないのだ。
 余計な負担が掛かるのは分かり切っている。風邪か、別の病か。どうであれ祐一が病状にあることは確かだ。
 大事な時期だった。僅かな体力であるために、ちょっとした風邪ですら、深刻な影響を及ぼしかねないのだから。
 病室のドアの前、祐一は再び意識を失う。
 まるで、他人がその扉から侵入するのを拒むようにして。



 目が覚めたとき、秋子が心配そうに顔を覗き込んでいた。いつもの優しい笑みは浮かんでいない。硬い表情だ。
 叱られることは覚悟していた。言い訳はある。だが、口にしたくはなかった。
「祐一さん……身体の調子はどうです?」
「まあ、今朝に比べたら月とスッポン、名雪にイチゴサンデーですよ。ずいぶん楽になりました」
「あら。倒れたのは昨日のことだから。……ごめんなさいね。ひどく体調が悪そうだったのは分かっていたんです。止めるべきでした」
 謝られるのは予期していなかった。シーツから顔だけ出している状態で、多少の気恥ずかしさも手伝う。口が上手く動かない。
「いえ」とそれだけなんとか返事する。「……あの」
 尚も言い募ろうとする祐一を遮り、秋子は、
「仮病が本当になっちゃいましたね」
 と、静かに告げてくる。慌てて否定する。
「いや、秋子さんは悪くないです。自分の所為ですし。朝から自分でもおかしいなって思ってたのに、気分の問題だろうって思いこんでたから」
「病は気から、ですね」
「逆でしたけど、ま、何事も後ろ向きだと、風向きは良くなってくれないみたいです」
 示し合わせたように、ふたりして微笑を交わす。
「さて。数日は入院しててくださいね。身体を治すことが何より大事ですから。熱、40度近くあったそうですし」
「はい」
「そうそう。昨日連絡くださった看護婦さん、怒ってましたから謝っておいたほうがいいですよ。『なんでこんな病人が出歩いてるのよー!』って、すごい剣幕でしたから」
「う。参ったなあ。言い出しにくい」
「あゆちゃんのこと?」
「二つ隣の病室でした」
「きっと大丈夫ですよ。何事も、努力してみないことには、ね」
 不思議そうに秋子の顔を見上げると、目を丸くして言葉で返される。
「あらあら。祐一さんが言ったんですよ」
「あ、前向きにってことですか」
「そう。ちゃんと前を見ていないと、大事なことを見逃してしまいますから」
「……運が良かったのかも」
「ふふっ。男の子の顔ね」
「秋子さぁん……からかわないでくださいよ……」
「今の祐一さん、すごく格好良いですよ。じゃあ、明後日あたりにまた来ますね。治っていればすぐ退院できるそうですから」
「はい、お手数おかけしました。ありがとうございます」
「どういたしまして」



 あゆの姿を遠くから見ていた。遠くと言っても、廊下の端あたりで、邪魔にならないよう気をつけてのことだったが。
 髪は長く伸びている。だが不揃いに切り揃えられていると見える。おそらく眠っている間には腰まで届くほどの量と長さだったのを、親切か必要からかで切ったのだろう。セミロングではない。更に長かったのだ。本来の身長を考えても、それより更に小さな体躯は七年前を思い起こさせる。記憶にある、子供のころの姿を。
 リハビリと云っても、この病院にはさほどの施設があるわけではない。だから病院内を歩くことが主な運動となる。足を一歩出すのにも一苦労しているのがありありと分かる。手すりを掴み、その掴む力さえ萎えているが、必死に足を踏み出している。衰えきった筋肉は失った時間を取り戻す際、大きな妨げとなるに違いない。
 一人、後ろについている。基本的には手を貸すことは無い。当然だ。手伝ってしまえば患者の手助けにはならないのだから。しかし危うい。祐一は息を呑んで運動を続けるあゆの姿を見守る。
 他の患者が通り過ぎる際、挨拶をする。こんにちは。こんにちは。こんにちは。あまり熱の籠もらない口調。
 顔を上げる。
 ふと、視線が動いていき、祐一の顔を捉えた。
 ぱぁっと明るく輝く。
 駆け寄ってこようとして、出来なくて、倒れそうになる。
 慌てて看護婦が手を出した。無茶させた原因である祐一は軽く睨まれた気がしたが、気にしなかった。話には聞いていた。あゆが七年眠っていたことをすでに説明されていることも、それに混乱して暴れ出したりしなかったことも、このリハビリを何ヶ月も続けなければならないことも、ある程度は教えて貰っていたのだ。
 だから、祐一はその場で立っていられる。
 今にも走って側に行きたいのを我慢できる。



 入院、というのは非常に都合が良かったと言える。マスクはしなければならなかったが、大した問題ではない。
 あゆの傍らには、常に一人看護婦がついていたが、会話に興じることは可能だった。
 祐一とのお喋りは、いわゆるご褒美扱いらしい。祐一もこの待遇には異を唱えなかった。餌呼ばわりされようが、あゆと会話する方が大事だったからだ。身より実を取ることに決めた。それだけの話である。
 一週間も経たずに祐一は退院することになった。あゆは寂しがったが、祐一がこれからも毎日来ることを教えてあったため、だだをこねるようなことにはならなかった。
 この間も、祐一はあゆのリハビリを手伝っていた。



 あっという間に三週間が過ぎた。
 秋子も名雪も暇があれば訪ねてきた。どちらとも話すたび仲良くなっていった。それでも、あゆの顔が一番晴れるのは祐一を目にしたときだ。毎日来ていても、である。
 それだけ足繁く通えば、当然、看護婦にも名前を覚えられることになる。筋肉の衰えた手足の動かし方や、マッサージの仕方なんかも教えて貰い、祐一は自分であゆのリハビリに協力出来るようになっていた。
 祐一自身の懇願もあり、看護婦も医師が相談して決めたことがあった。あゆが熱心に励むことを理解していたし、回復が早くなるだろうと見越して任せることにしたのだ。他の患者も気に掛けてくれていることもあって、祐一とあゆの姿は入院患者達の名物のようになっていた。
 多少騒がしくし過ぎて、看護婦の誰かに怒られることもしばしばあったが。
「というわけだから、たい焼きが食べたければ俺を捕まえてみろ!」
「え、たい焼きっ!?」
「秋子さんが作って持ってきてくれるってさ」
「すっごく食べたいよ!」
「じゃあ来い。但し、突撃は禁止な」
「えー! 待って、待ってよう」
「ちなみに制限時間は十分。間に合わなかったら、たい焼きは没収」
「えっ、えっ、まさか……全部!?」
「もちろんだ」
「鬼ーっ! あくまーっ! 祐一君のばかーっ!」
「なんだと、誰が馬鹿だっ」
 廊下をぐるぐる周り、楽しげに追いかけっこをする二人は、恋人同士に見えなくもなかった。
 こういうとき、普通の速度で歩くのを心がけた。それでも多少早いくらいなのだ。しかし、簡単に追いつかれたりもしなかった。さじ加減を見極めていたと言い換えても良い。
 そうして最後にはあゆの手が祐一の腕をつかむのだ。
 筋力の衰えを感じさせない力強さに、祐一は目を細めた。自由に動くわけではなかったが、体重の正常な増加と比例して、身体は日に日に軽くなっている。



 その日の午前中は病院内を散歩することに終始した。身体というのは使われていない部分が硬直していくものだ。当然、所作が滑らかでない場所がある。あゆの場合は、主に関節である。
 昏睡していた状態では、自ら運動できたはずもない。看護婦が持ち回りで動かしていたのであるが、目覚めた今でもなるべくなら繰り返した方が良いと言われ、現在は祐一がその役を負っていた。
 つまり、マッサージである。
「どうだ、痛いか?」
「ううん、大丈夫。だけど……ぜんぜん上がらないね」
「膝、もうちょっと持ち上げてくれ」
「やってるんだけど」
「もっとだ」
「これ以上は無理だよっ」
「そこをなんとか」
「なんとかって!?」
「根性で」
「気合い入れてるけど無理なものは無理だってばあ!」
 関節の稼働は、膝や腕を曲げ、伸ばしたりを十分周期で行うのが普通だ。身体ごと捻ったり、背中を持ち上げたりと、身体が硬くなっている人間には厄介な運動である。硬直化している箇所を揉みほぐすのもそばにいる人間の役目である。
 すなわち、
「……ゆっ、ゆうい、ちゃく、く」
「誰だそれ」
「こそばっ、こそばったいってばぁっ! ……は、ふぅ」
「腿でそれじゃ、背中とかマズイんじゃないのか……? あゆ、背中、弱いし」
「弱いってどーゆー意味?」
「言葉通りだな」
「え」
「ふっふっふ、実践してやろう」
 数分後には、あゆが口をへの字に曲げて身体を弛緩させていた。
「うぅ、気持ちいいけど……なんかすごく……祐一君の顔がいやらしい」
「じゃ、そろそろやめとこ……」
「やっ、やめないで」
「なんか声がなぁ……その」
「な、なに顔赤くしてるんだよっ」
「いやつい」
「真顔で手をわきわきさせないでーっ!」
 などという会話に陥ってしまうこともしばしばある。周囲にいる患者にとっては娯楽であったろう。
 真面目にリハビリを行った後のことであり、怖い顔をした婦長もこれくらいは大目に見てくれていた。流石にやりすぎると怒られるのだが、まあ、なんだかんだ言って院内の雰囲気が和らいだものである。
 歩き回れるくらいに回復していたあゆの姿は、見る者に元気を与えたらしい。若さも手伝ったのだろうし、欠かさずリハビリを行っていたのも理由の一つだろう。こういった衰弱の治癒においては、当人の努力こそが最大の近道なのだ。

 そして、午後四時を過ぎた頃のことである。名雪と秋子が揃って見舞いにやってきた。祐一は理由を知っていたが、おくびにも出さずあゆに引き合わせた。
 秋子が緊張しているのが見て取れた。珍しいこともあるものだ。名雪にいたっては歯を食いしばっていると形容するしかない、そんな顔付きである。
 互いに黙ったまま顔を見ている。
 祐一はあゆの斜め後方について成り行きを見守っている。切り出し方に困っているうち、あゆが先に口を開いた。
「あの、秋子さん……今日は、どうして?」
「あゆちゃん、あのね」
「……うん」
「うちの子に、ならない?」
「えっ」
 それを聞いて、あゆの表情は、不思議そうにしていたのが最初で、それから悩んで、困って、怯えて、そして、一瞬嬉しそうな顔を見せて、最後、また困りきった顔に戻った。
 あゆが振り返る。祐一は頷くだけで、何も言ってくれない。
 どうしよう、という困惑がひしひしと伝わってくる。名雪が口を開こうとして、秋子の一瞥で黙りこくる。
 どれほどの時間が経っただろうか。
「……嬉しい、です」
 そんな答えが返ってきて、名雪が安堵の息を吐いた。
 だが、その先を続けた。
「でも、……ボク」
 秋子が優しく問いかける。
「……嫌、ってわけじゃないのよね?」
「うん……」
「私たちは、あゆちゃんが家族になってくれたら嬉しいって思っているの。だから、遠慮ならいらないんだけど……遠慮じゃなくて、ダメなら、仕方ないんでしょうね」
 ただの思いつきで言っているわけではないのは、真剣な様子で見て取れた。祐一が頼んだというだけでも、秋子が同情から言っているわけでもないことも、理解できる。
 秋子はそう、とつぶやいて、微笑んだ。
「ごめんなさいね、あゆちゃんにも都合があるものね」
「……ごめんなさい」
「そうね、ひとつだけ聞かせてくれるかしら」
「うん、……はい」
「今だから、できないってことなの?」
「そうかも」
「じゃあ、考える時間はまだあるから、……そうね、退院するころ、またお返事聞かせてもらえるかしら」
「えっ」
「それで、いい?」
「うん」



 一ヶ月が過ぎ、二ヶ月目の半ばだったろうか。
 医師と今後について相談しているうち夜遅くになり、病院に泊まることになった。毛布が無くてもあまり寒くない。あゆの病室の椅子に座ったまま眠ってしまった。
 こんな夢を見た。

 ……あの大樹の下で、あゆが笑っている。
「なあ、なんで笑ってるんだ」
「ごめんね、祐一君」
 それがいつか見た笑顔だと気がつき、祐一は口を閉ざした。
「……ごめんね」
 それ以上、言おうとしない。
「どうして謝るんだ?」
「だって、祐一君、傷ついてるもん」
「そんなことはない」
「そうかなあ」
「ああ」
「ボクはね、こうなるって分かってた」
「こう、って?」
「忘れちゃうんだ、ってこと。何もかも。ぜんぶ、ぜーんぶ。でも、それは仕方のないことなんだもん。ホントは、最初から無かったはずの時間なんだから」
「無かったなんて言うなよ」
「本当のことだよ。祐一君にだって、もう分かってるんでしょ?」
「……さあな」
「祐一君が苦しむってことも、分かってた」
 寂しい笑顔。
 最後に見た、微笑み。
「それを隠して、ボクを大事にして、優しくしてくれるってことも、分かってた」
「当たり前だろ」
「そうだね。だけど、……忘れてくれれば、良かったのに」
「そんなこと、絶対にできない。だから俺はここにいるんだ」
「うん……。本当に、そうだね」
「忘れてほしくなかっただろ?」
「……うん」
「ずるいよな。あゆは」
「そうかな」
「ずるいさ。傷つけたくない。傷つくのはかまわない。そういう意味だろ?」
「分かってたんだ?」
「お前の恋人をあんまり低く見ないように」
「ねっ、祐一君。辛かったら、今からでも忘れてくれていいんだよ」
「嘘つけ。ったく、大人ぶるなっての。一人じゃ寂しいだろ」
「うん」
「頷いてばっかりだな」
「うん……」
「こんなこと言うのも何だけど、ちゃんと愛してるさ。だから安心しろ。お前が覚えてなくったって、俺が覚えてる。俺はあゆのことが好きだ。あゆ、お前が俺のことを誰よりも好きだって自信もあるからな」
「うん……っ」
「……二度目だから、めちゃくちゃ恥ずかしいけど、いいさ……何度だって言ってやる。あゆ、愛してるぞ」
「うん……うん……っ!」
「なあ、ところで」
「なにかな」
「やっぱり、この夢、あゆは覚えてないんだろうな」
「そうかも」
「じゃあ、もう一度言わなきゃいけないってことか」
「うん。……ごめんね」
「その言葉、違うだろ」
「そうだね……。ありがとう、祐一君」
 それから、目が覚める直前、こんな声が聞こえた気がした。

 ――大好きだよ。


 ふと目覚めると、枕元には天使の人形があった。
 祐一はぼんやりとした頭で考える。
 ……そういえば、最後の願いは何だっただろう。叶ったんだっけ。それとも、叶わなかったんだっけ?
 頭を振る。
 それは、思い出す必要もないくらい、ちっぽけなことだと気付いた。
 願いごとなんて、叶ってしまえばそれ以上願うことなんてほとんど無い。ただそれだけのこと。幸せな人間が自らが幸福であることに気付き得ないことと同じだ。
 自分の力で叶えられるなら、それでいい。
 意図せずして隣のベッドを覗き込む。目が覚めたあゆと、視線が合った。寄りかかった椅子が、がくん、と倒れ掛ける。呆然とするあゆの姿を前に、祐一は吹き出しそうになるのを堪えた。
 これから素晴らしい日々が待っていると信じられる。
 それだけで良かった。
 日々は当たり前のように過ぎてゆく。現実の前では誰もが無力だ。訪れる悲しみは突然で、この世界は誰にも優しくなんて出来てはいない。奇跡に満ちていないことだって、とうに知っている。それでもひとは生きているのだし、これからも生きてゆくだろう。生きることを選んだから、生きていける。生きようとする。
 世界は決して優しくないけれど、厳しくもなくて、だから、ひとは耐えられる。綺麗なもの、愛しいもの、素晴らしいもの、いくらでも見つけられる。
 夢見たものは……ささやかな幸せ。
 きっと、大丈夫だ。
 物語の終わりには、いつだって、ハッピーエンドが待っている。



 それから、少しの時間が経って。
 最後のリハビリを終わらせたとき、看護婦達と、仲の良かった患者達が、拍手をしてくれた。あゆは照れくさそうに、祐一は満足そうに、その拍手に頭を下げた。
 実際に明日も明後日も、毎日続けなければならない。だが、病院での日程はこれにて終了したということなのである。容易いことではなかった。その喜びもひとしおだろうが、それ以上に明日退院するになっている事実が、満ち足りた笑顔を作っていた。
 元気いっぱいに走る、というにはいささかゆっくりとではあるが、病院内の医師や看護婦相手にお礼を言いにかけずり回った。付き添いの祐一が置いて行かれそうになったことを見れば、回復が十分であることは窺える。
 そうして、病室に戻ってくる。体調の検査と、幾らかの会話のあと、担当の医師は出て行った。後に残されたのは祐一とあゆの二人だけ。
 カーテンをどけた窓から、橙に輝く夕陽が差し込んでくる。逆光に眩しさに目を開けているのが辛い。眇めてあゆを覗き見る。逆に、あゆは光を背にしているから、真っ直ぐに祐一を見つめている。
 ベッドに腰掛けた祐一に向かって、あゆが寂しそうに告げる。
「……ね。祐一君。明日、退院だって」
「ああ」
「終わっちゃったね」
「……そうだな。ところで、あゆ」
「うん?」
「なんで、養子になるの、頷かなかったんだ」
「どうしてかな」
「……理由、わからないのか」
「うー、たぶん」
「あやふやだなぁ」
「そうだね。……うん、本当に、そうだね」
「あのふたり、嫌いじゃないだろ?」
「好きだよう」
「なら、受けちゃえばいいと思うんだがなぁ」
「……でも、まだ、ダメなんだよ。なんだか……ずっとこの辺がもやもやしてるんだ」
「胸のあたり?」
「言葉にするのが難しいんだけど……ボクが、ボクじゃないみたい。それなのに、甘えてばっかりなのは良くないと思うんだもん」
「そっか」
「だから、秋子さんも、名雪さんも、もちろん祐一君が悪いわけじゃないの。ボクの問題」
「ちなみに、養子になっても俺と結婚できるぞ」
 目を細めて、あゆがつぶやく。
「……祐一君、まさかとは思うけど……」
「ははっ。流石にそれが理由じゃなかったか」
「あのねえっ」
「でも、な。タイミング的に今しか無い気がするし、言っておくぞ」
「なあに」
「愛してる」
「……え、あっ、ゆ、祐一君っ!?」
 ひっくり返った声だった。余程動揺しているのだろう。
 かまわず祐一は続ける。
「好きだ。大好きだ。お前じゃなきゃダメなんだ……あゆ」
「ボ、ボク?」
「そう」
「冗談……じゃないんだよね?」
「冗談で言えるわけないだろ」
「うん、……そうだよね……えっと。……えーーーーーーーーーーー!!!!!」
「やかましい。病院だぞ」
「病院でそんな話されるだなんて思ってなかったもんっ!」
「そりゃそーだ」
「祐一君、恥ずかしい顔してる」
「どんな?」
「断られるわけなんてないって、そーゆー顔」
「自信、あるからな」
「ずるいよっ」
「ずるいさ。でもな、これでも待ったんだぞ」
「……やっぱり、ずるいよ」
「ああ」
「ねえ」
 あゆは、静かに聞いてきた。七年の空白は、大きな不安となってあゆの中に存在している。
「祐一君が好きなのは、ボクの知らないときの、ボク? それとも、」
「あのなあ、……初恋だったんだぞ。それに、どんなときでもあゆはあゆだし。いやはや、こんだけ変わらないというのも不思議だよなあ」
「……怒っていい?」
「それは俺のセリフ。よーく考えたら、これで告白三回目だ。一回目も二回目もフラれてないのに、なんで三度も告白しなきゃならんのだ! ……というわけでさっさと答えてもらおうか。今ならキスが一回分余計についてきて、……お得だぞ」
「うー、祐一君のばかぁ」
「あ、いやいや。やっぱりちょっと変わったな」
「どんなふうに?」
「子供っぽくなった」
「祐一君っ!」
「大人びてから子供っぽくなってるんだから、いいと思うけどな」
「もう知らないっ」
「じゃ、今日は帰るけど」
「えっ」
「……明日、おはようのキスをしてやろう。嫌なら早く起きるんだな」
「むー。いいもんいいもん、えっちな祐一君をがっかりさせてあげるもん」
「ほら、やっぱり子供っぽい」
「ゆ、祐一君ーっ!」
 怒声を背に、祐一はすたこらさっさ、と逃亡した。
 いなくなった祐一を捜すようにして、あゆは窓の外に目を向ける。
 雪の降る気配は皆無だ。冬はとうの昔に終わりを告げた。そのかすかな名残だけが、視界の片隅にちらちらと覗いている。



 翌朝。病院の前には三人の姿があった。秋子と名雪は手を振った。祐一が二人の姿を後方に、意気揚々と歩いてゆく。
 病室までの道のりは長いようで、短いようで、よく、分からない。
 気がついたらドアを開いていた。
 だから、健やかな寝息を立てているあゆを見て、驚いてしまった。動きが止まる。祐一は我知らず息を呑んだ。
 清冽な朝の空気、穏やかな陽光に照らされて、あゆはそこにいる。
 目蓋を閉じたまま、待ち続けていた。
「起きてるなら、急いで言ったほうがいいぞ」
 答えは返ってこない。
「寝たフリしてるなら、あとで、ものすっごく恥ずかしくなるからな」
 沈黙のまま。
 本当に眠っているのかもしれない。
 声を掛ける。ほっぽたをぐにぐにとつねる。まるで起きる気配がない。
「……ったく、ホンキで寝てら……」
 苦笑いして、肩をすくめて、
「なあ、あゆ」
 祐一はその顔をじっと見ている。
 肩が震えている。
 気を抜いたら、涙がこぼれそうで。でもそれが悲しいからじゃないって、分かっている。
 代わりに口から言葉が漏れてくる。
「そうだ、まだ言ってなかったな」
 だから、笑う。
「おかえり」笑った顔で、心から言った。「また、逢えて、よかった」
 それから、祐一はあゆに、そっと口づけをする。

 くすぐったそうに身をよじらせて、あゆはゆっくりと目覚めた。

「え、……あ」
 そんな声。
「……あれ? 覚えてる。……思い出した……?」
 祐一は吃驚して目をぱちぱちと開いたり閉じたりしているあゆを前に、落ち着くのを待つ。
 長い時間、待ち続けた。
 このくらい、気にならない。
「ボク……なんで」
 そして、顔を上げる。
 祐一を見る。瞳に映った顔が、ひどく楽しげで、泣いているようで、やっぱり幸せそうで。
「ゆういちくん……? ……祐一君だ!」

 真っ白な光。
 優しい風が、開いた窓から吹き込んでくる。
 二人は視線を交わしている。
 言葉もなく。
 嬉しくて、笑った。

 祐一が言う。
「三度も告白するなんて思わなかった」
「うん……ごめんね」
「違うっての」
「あ、……祐一君、その……」
 そして、あゆも言うのだ。
 心から。
 嬉しくて、幸せで、涙がぽろぽろこぼれてくるのを感じながら。
「ありがと…」



 泣きはらした目が赤い。そんなあゆを連れて、病院の外に向かった。着替えは用意してあったが、十分以上かかってしまった。慌てて出てくる。
 二人が待っているのが見えた。
「あ……」
 医師達と看護婦の見送りは入り口までだ。
 その先で、名雪が満面の笑みで迎えた。
「あゆちゃん、ほら」
 秋子が付け加える。
「胸に飛び込んできてもかまわないのよ」
 祐一が背中を押す。
「秋子さん……浮かれてます?」
「あらあら」

 そして、そこから。
 あゆは一歩、大きく踏み出して。
「――ただいまっ」





 四人で歩く帰り道は、ひどく静かだった。
 もう、春なのだ。
 そう思うと、足取りも軽くなる。

「あゆ」
「うん?」
「忘れるなよ。お前はひとりじゃない」
「……祐一君?」
「だから、何も諦めるな」
「……」
「楽しかった……そんなこと言って、お別れしようとなんて思うな」
「…うん」
「もっとワガママ言っていいんだ」
「……うんっ」
「あゆは幸せになるんだ。絶対に」
「祐一君は?」
「今んところ、恋人を幸せにするのが目標だな」
「じゃあ、簡単だね」
「ほう?」
「ずっと一緒にいてくれたら、それだけで幸せになれるもん」
 照れ照れ。


「俺ら、ハタから見たらものすごーくバカップルじゃないか?」
「え、今まで気がつかなかったの?」
「いや、知ってたけど」

 弾けるような爆笑がわき起こる。名雪と秋子の二人からだ。
 道からは雪はとうに姿を消している。屋根には残っているだろうが、溶け水もさほど激しくはない。日だまりに暖められた家路は、とても優しい道のりだった。

「ねっ、明日はデートしよう!」
「いいけど……いや、だめだ。日曜まで待て」
「えー」
「えー、じゃない。俺には学校があるんだ。春休み前に、あれこれ理由つけて休みすぎたからな。いいかげん目をつけられててもおかしくない」
「そんなあっ」
「……他人事のように言ってるけど、勉強しないといけないのはあゆも同じだからな」
「え」
「昼間は秋子さんに教えてもらえ。帰ってきたら俺も名雪もいるけど」
「ボク、自慢じゃないけど勉強ぜんっぜんできないよ!」
「ホントに自慢じゃないな。でも、学校行きたいだろ?」
「いいの!?」
「そのためにも、勉強しないとなー」
「うぐぅ……。祐一君、意地悪な顔してる」
「まあ、デートはご褒美だしなぁ」
「祐一君、すーーーーっごくずるいっ。そんなこと言われたら、ボクが断れないこと分かってて言ってる……」
「ははは、待ち合わせ場所は……」
 考え始めると、すぐに思いついた。
「そうだな、あそこにしよう」
「あそこ? ……ああ!」
 目が合って、自然と笑みがこぼれる。
 同じことを考えてるって、分かったから。
「同時に言うか」
「そうだね」
 そして、
「せーのっ」
 笑うのをこらえきれないまま、叫ぶ。

「駅前の――」
「――ベンチで!」

 晴れ渡った青空いっぱいに、底抜けに明るい二人の声が、今、たしかに響き渡った。

おしまい
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