目が覚めてから、無意味に時間を浪費してみた。
そろそろ春の陽気、身を切るあの寒さは感じられない。
カーテン越しに差し込む日の光は、柔らかく。
ベッドの上に身を起こし、ただぼうっとしていた。
『名雪、起きなさい』
『……う〜……』
そんな声が、聞こえたような気がする。
ふと枕もとの時計を見れば、すでに朝から昼へと移り変わろうという時刻。
立ち上がり、着替える。
階下へ降りれば、香ばしい匂い。
「おはようございます」
ダイニングへ入り、挨拶。
「おはようございます、祐一さん」
秋子さんが、変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
席につけば、そこにも変わらぬ光景。
「……く〜」
テーブルに伏せるキミョーニウムな物体は、名雪だ。
毎朝毎朝、よくもまぁ。呆れるよりも先に、その意欲に感心すらしてしまう。
別に睡眠が好きなのではない、とは聞いたことがある。
ただ、どうしても習慣付いてしまって……とは、本人の弁。
『祐一の責任』とも言っていた。
早起きの習慣も身につければよいのだろうが、どうにも変わらず。
部活があった時は、早くにも起きていたはずなのだが……。
もう、それも無理かもしれない。
なにしろ……
「名雪も、部活を引退してからは早起きしなくなってしまって。困ったものだわ」
秋子さんといえども、ぼやかずにはいられないらしい。
「通学の必要が無いからといって、朝起きる習慣だけは守ってもらいたいのだけれど……」
「なにか目標を与えてやれば、いいんじゃないですか?」
「目標、ですか?」
「そう……ラジオ体操とか」
スタンプカードを首から提げて、えっちらおっちら体操をする名雪を思い浮かべる。
……くねくねと、寝ぼけ顔で。
「ダメそうね」
「すみません、自分でもどうかと思いました」
名雪がここ最近、普通に朝起きているのを見かけた記憶がない。
その必要がないからだろう。
俺たちは、もう朝から駆け足はしない。
寝ぼける名雪を、玄関先まで引きずっていくこともない。
なぜならば、俺たちはすでに学生ではないからだ。
先日、卒業した。めでたくも留年せず、卒業証書を受け取れた。
高校生活は、終わった。
そして、次のステップへの、今は空隙。
「祐一さんは、今日はなにを?」
「そうですね……ちょっと、挨拶回りしてきますよ。ついでに、必要なものも揃えておきます」
そんな会話をしつつ、名雪の前の皿、乗せられたトーストに手を伸ばし……。
「……こげパンも食べれるもん……」
ゆらりと名雪が、俺の手に噛み付いた。
「う、ぎゃ〜っ!?」
思わず、俺は叫んだ。
「あらあら。寝ぼけてるわね」
秋子さんは、落ち着いたものだ。そっと名雪を引き剥がし、俺の手を検分する。
「歯型がくっきりと……痛いですか?」
「ちょっとズキズキします。名雪の奴、健康な歯をしやがって……」
「寝る前の歯磨きは、欠かさないんですよ?」
「いい躾をしてますね、ホント……いてて」
秋子さんが慣れた手つきで消毒をしてくれている間に、騒動の張本人は目覚めたようだ。
「あ、おはよう、祐一」
「朝から熱烈なキス、ありがとうよ」
「……?」
自覚が無いのは、困り者である。
「祐一、もう支度は済んだの?」
「大体はな。でもまだ、梱包が終わってないものがある。まぁ、ゆっくりやるさ」
「なにか手伝う?」
「その気持ちだけ、ありがたく頂いておく。この前の例もあるしな」
この前の例───名雪が俺の服を『一切合財』全て箱詰めしてしまった件。
おかげで翌日に着るものがなく、服を探すために全ての梱包を解かなくてはならなかった。
そう、俺は、私物をまとめている。
季節が変わる、その準備ではない。
この家を、水瀬家を出るのだ。
俺は、東京の大学を受験し、合格した。
そしてこの春から、都内で一人暮らしを始める。
両親は、賛成してくれた。秋子さんは、少し困った顔をした後、
『祐一さんの、選んだ道ですから』
そう言ってくれた。
初めてその話をした時、名雪は猛烈に反対してくれたものだ。
俺がこの地ではなく、東京の大学を受験していたことすら、知らなかったのだ。
そう、名雪には、話していなかった。
気付かれないように、進めてきた、計画。
そして俺は、数日後……この地を発つ。
「さびしくなるね……」
「そうか?」
「うん、さびしいよ。祐一、いつも騒がしかったもん」
自覚はないが……そういえば、俺の周囲はいつも賑やかだったような気がする。
騒動は巻き起こり、喧騒響き……はしゃぎ、笑い……
楽しかったのは、事実だ。俺は、この数年間を、楽しんでいた。
忘れられない、記憶となることだろう。
でも、それももう……終わり。
「ちょっと心配、かも」
「なにがだよ?」
名雪は、笑顔で。
「祐一、向こうでちゃんと友達作れるかなって」
「失敬な。俺は社交性があるから、友達百人だって思いのままさ」
「でも祐一って、ちょっと……ううん、かなり変だもん」
ため息ひとつ。
「はぁ、心配……」
余計なことを心配する名雪。かなり失礼なことを言う。
それでも、確かに俺は変わっているかもしれないと、自覚はする。
どうしても抑えられない一線というものがあり、時折表に出てしまう。
それで相手はドン引きするか、或いは一気に意気投合できるか……そんなもので。
それが、俺の人付き合いなのだ。
「フン、見てろよ。友達百人連れてこの街に押しかけて、悪行の限りを尽くしてやる。修学旅行の生徒のやるようにな」
「ダメダメだよ……」
更にため息つかれてしまった。
「さて、そろそろ出かけるか」
食後のコーヒーを飲み終え、俺は席を立つ。
「いってらっしゃい。気をつけてくださいね」
特に心配もないような年頃、ましてや男の俺にも、気遣いを忘れない秋子さん。
玄関を開ければ、柔らかな風が吹き抜ける。
その中を、一歩。
「祐一!」
呼び止める声。振り向けば、名雪が玄関先に立ち。
「……会って、あげないの?」
「……行ってくる」
俺は、道を歩き出した。
市街地へ出た。
まずはなにをしようか、考えながら歩く。
「……挨拶に回るにしても、手土産か……」
手ぶらでは失礼であろう。手近な店に入る。
「こんなものだろ」
両手に袋を抱え、ぶらぶらと。
誰を最初に訪問するか。そもそも在宅とは限らないのだが……。
問題なく会えそうな人間には、心当たりがある。
そこへ、向かう。
「……ここだったよな、確か」
俺の前には、一軒のアパート。
新築なのか、綺麗なものだ。
とんとんと、階段を上り、二階へ。そして、ひとつの呼び鈴を押す。
『……は〜い!』
すぐに、返事が返ってきた。
「わぁ、祐一さん、こんにちわ〜」
ドアから顔を覗かせたのは、佐祐理さんだ。
一年前に高校を卒業し、一足早く大学生活を送っている。
話を聞く限りでは、順調に。大切な、相方と共に。
「なにもない家ですけど、どうぞ〜」
「では、お邪魔します」
勧められるままに、上がりこむ。
女性の家に上がるというのは、緊張するものだ。妙にドキドキする。
なによりも、一歩踏み込んだ途端に、香りが違う。年頃の女性の……香り。
不覚にも、目一杯深呼吸してしまったり。
「どうしたんですか?」
「い、いえ、最近ちょっと街中の空気って、汚染が進んでて……ここは空気が綺麗だなぁ、と」
「空気はタダですから、遠慮しないでもいいですよ」
佐祐理さんは、鋭く突っ込んでくることがないので、助かる。
「それで、どうしたんですか、今日は?」
妙に庶民的な───はっきり言えば、古臭くてボロっちい───ちゃぶ台。
部屋の雰囲気にマッチしないその前で、佐祐理さんの入れた紅茶と塩煎餅の怪奇コラボレーションを味わいつつ、応える。
「ちょっと、佐祐理さんの顔を見たくなって」
彼女はまだ、俺がこの街を出るということを知らない。
話すべきかはずいぶんと迷ったが、今更というものだろう。
話したところで、余計な心配をさせるだけだろうし。
だから今日は、ほんの挨拶程度と思わせるべき。
「ふふっ、そんなこと言って、本当は舞に会いに来たんですよね?」
お姉さんはお見通しと、そんな笑み。
ちゃぶ台越しに、ぐいっと顔を近づけ、俺の瞳を覗きこみ。
「祐一さんは、舞のことがお気に入りですしね〜」
「嫌いじゃないです、けど……いや、好きなのか?」
正直なところは、よくわからない。
川澄舞という個人に対する俺の感情は、それなりの高位に位置しているとは思う。
些細なきっかけで知り合い、こうして邪魔するようにもなった。一人の、先輩。
そして、それに付き添う、もう一人の先輩。
出会い、悩み、そして……二人の少女は、お互いを補完しあうことで、深い繋がりを得た。
いい先輩たちだ。
なによりも、女である。女性である。美人さんである。美乳である。
男としては、好意を持たずにいられない。
安直とも評されそうだが、美人でスタイル良しな女を嫌いだなどと言えるのは、よほど目が肥えているか或いは特殊属性を持つ男だろう。
特殊な趣味を持たない俺である。好みもわかりやすい。
「でも、ダメですよ。舞は佐祐理のですから」
顔を引いて、あっさりと口にする佐祐理さん。
邪推もできそうな台詞なのに、態度は変わらずにこやかに。恐らく本気で余計な意味などないのだろう。
佐祐理さんは卒業後、舞と二人で暮らしている。
親の反対もものともせず、アパートを借りて自活中。
天然気味に明るい佐祐理さんと、底抜けにおとぼけな舞。でこぼこコンビの日常は、とてもバラ色らしい。
……一度百合色と評したら、怪訝な顔をされたこと、あり。
閑話休題。
別れの挨拶をしなければならない。
あくまでもさりげなく、それでいて記憶に残るように。
しかし、今は佐祐理さん一人。片手落ちとなる。
舞が帰ってくるのを待つとする。だが、それはいつになるのだろうか。
あまり長居しては、迷惑だろうし……。
「舞なら、すぐに戻りますよ。ちょっと花らっきょうを買いに行ってもらっただけですから」
「……渋い買い物ですね」
「今夜はカレーなんです。祐一さんも、食べていきませんか?」
誘われるのは嬉しいし、佐祐理さんの料理にも興味はある。だが、辞退した。
それこそ、迷惑になりそうだったから。
「せっかく舞が料理の本で憶えたって、本格インドカレーを作るんですけど……」
本格インドに、花らっきょうはどうなのだろうか。
佐祐理さんの笑顔を前に、日本の食文化の許容性というものを熟考していると、玄関の方から物音がした。
「ほら、帰ってきましたよ」
「そのようで」
ぱたぱたと、足音。しかしそれも長くは続かないのは、このアパートの間取りのおかげ。
それほど広いわけでもなく、ごく一般的。佐祐理さんというお嬢様の選択としては、庶民的で好感が持てる。
「……ただいま」
舞が、姿を見せた。その手にスーパーのビニール袋を提げて。
「お帰りなさい。舞にお客さんが来てますよ?」
「よっ、舞」
片手を上げて、挨拶。
「……」
無言で真似する、舞。
「舞、お買い物はどうでした?」
「……花らっきょう、売り切れてたから……」
ごそごそと袋を漁り、取り出したのは棍棒のように長いパッケージ。
「……沢庵。安かった」
「ほえ〜、立派ですね〜」
しげしげと日本伝統の漬物を眺める佐祐理さん。
「今日は本格インドカレーに沢庵ですね〜」
「それでいいのか食文化……」
この家の食生活が危ぶまれた瞬間であった。
「……祐一、なんで?」
なぜここにいるのか、訊ねる意の短文。俺は答える。
「舞に会いたかったんだ」
「……」
機嫌を損ねたか、俺の言葉がお気に召さなかったのか、舞は無表情。
佐祐理さんのフォローもなく、静まり返る場。立ち尽くす舞と、内心しくじりを悔やむ俺のお見合い。
やがて、舞は手にした沢庵を、それはもう高く振り上げて。
……俺の頭に、振り下ろした。
「───ぶっ!?」
沢庵は、一本筋の通ったツワモノだった。
これでは味も筋金入りだろうと、要らぬ心配をしながら、見れば舞は。
「……祐一は、ずるい……」
頬を染めていたりする。今のは怒りの一撃ではなく、不器用な照れ隠しだったのだ。
怒るわけにもいかず、かといってこのままでは男として情けなく。
どうしたものかと佐祐理さんを見れば、くすくすと笑っている。
「舞ったら、本当に照れ屋さんですね」
「……照れてない……」
「ごまかさなくても、いいんですよ〜? 舞は祐一さんにあんなことを言われて、嬉しいんですよね?」
沢庵アタックは、佐祐理さんにも振るわれた。
「きゃ〜きゃ〜っ!!」
嬉々としてそれを受ける、佐祐理さん。これもまた、彼女たちの日常なのだろう。
「……それで、なに?」
ようやくにして落ち着いて、三人揃ってちゃぶ台を囲む。
高そうな湯飲みに注がれた緑茶をすすりながら、改めて舞は問うてくる。
「いや、ただなんとなく会いに来ただけで、特に用事ってものはないんだが」
切り出すタイミングを窺う。
「しかし舞に会うのも久しぶりだが……あれだな、また成長したな」
舞の成長は、目を見張るものがあった。
「もうどのくらいになった?」
「佐祐理も測ったことはないんですけど、170センチくらいじゃないですか?」
「いや、そこまではないでしょう。それはいくらなんでもアメリカンサイズすら超えてますよ」
「そうですか?」
「俺が見たところ……92というところで」
「……それは小さすぎますよ。手乗り舞になっちゃいます」
「手の平からはこぼれそうですが……両手なら、なんとか」
「着せ変えして遊べそうですね」
「そうか、女は色々選べるんだよな……その日の気分で」
一人、舞は蚊帳の外。
不思議そうな顔で、俺たちを眺めている。
「舞の子供の頃って、見てみたいですね〜」
「少なくとも、始まりはみな小さいものです」
「祐一さんもですか?」
「男は成長しませんから」
「でも、祐一さんの背は、高いですよ?」
「……背ですか?」
「……背ですよね?」
齟齬。交換されているようで、噛みあっていなかった、俺たちの会話。
「いや、俺は舞の胸について話を……」
べしっと、舞からチョップの洗礼を受けた。
「……祐一の、デリカシーなし……」
「いや、すまん。あまりにも見事なものだから、つい」
「……つい、で話題にするものじゃないと思う」
「はえ〜?」
佐祐理さんは、わかっていなかった。
適当に雑談なぞしつつ、時は過ぎる。
思い出したように持参の袋から、買い求めた土産物を取り出したり。
「……お土産、うどん……」
「明日はカレーうどんですね〜」
のどかな、ひと時。
「さて、そろそろお暇するかな」
立ち上がれば、二人で玄関まで見送ってくれる。
「それじゃあ、舞、佐祐理さん。またいつか」
手を振って、別れる。
アパートの階段を、トントンと。
降る背中に、言葉がぶつかる。
「……祐一、今度は、いつ会える?」
「そうだなぁ……」
考えて、整理して、言葉を選んで。
「舞がいい子にしてたら、いつだって会えるさ」
振り返らずとも、舞が追ってくる気配がする。俺の態度から、なにかを感じ取ったのかもしれない。
だが───。
「ダメですよ、舞」
佐祐理さんが、引き止めたようだ。
「祐一さんの道を邪魔しちゃ、ダメです」
結局は、佐祐理さんにはお見通しだったのか。
心の中で手を合わせ、今度こそ別れる。
多分、もう二度と会えない、素敵な先輩たちと……。
雰囲気ほんわかな乙女たちの住み家から出れば、行く当てがなくなる。
次の対象を選んでおかなかったので、こうなる。
道路端の車止めに腰掛け、考える。
あと、俺が会っておかなければならない、人間……。
誰もが大切な友人であり、忘れるわけにはいかない。
総当りは、容易くはないだろう。それでも、やっておかなければ。
(こういう時に、即座に連絡取れるような人間が……誰一人としていないんだよな……)
ずいぶんあっさりとした友人関係である。浅い付き合いではないのだが、関係が総じて希薄。
深い仲になったのは、考えてみれば一人だけなのだから。
「まったく、俺って奴は……」
さぞかし友達甲斐のない男なのだろう。
自嘲し、手荷物を見る。
土産に買った、うどん。意味は皆無なようで、存在する。
引越しそばというものがある。引っ越してきた側が、近所に配るのが礼儀だ。
アメリカでは、逆になる。先住者がもてなしてくれるのだ。
どちらも、儀式としては良い面がある。見習わなければならないところがある。
しかし、そのまま真似るのは、俺のプライドが許さない。
なので引っ越す前に、知り合いに配ることにした。そばに対抗して、うどん。
……我ながら、頭悪いと思った。
(せめてケーキとかにしておけば良かったか……舞だからどうにかなったけど、これが例えば……)
「真琴とかなら、ブチ切れるだろうな……」
「なにがブチ切れるのよぅ!!」
げしっと、背中を蹴られた。
振り返れば、チンクシャが仁王立ちしている。
「……ふっ」
鼻で笑ったら、更に蹴られた。
げしげしげしげし、飽きもせず。しかし、ちっとも痛くない。むしろ土足で蹴られるのは始末が大変だと、そんな思いが先行する。
いずれにしても、仕置きが必要である。
「───わっ!?」
頭を鷲掴みにし。
「───わわっ!?」
渾身の力で、握りこんだ。ぎりぎりと、指が食い込む。
艶やかな髪に守られているとはいえ、さすがにアイアンクローを食らえば、辛いだろう。表情は歪み、涙目で、手足をじたばたと。
「は、放しなさいよぅ! 可愛い女の子にぼーりょく振るうなんて、この最低オトコ!!」
「うるさい。先に暴力を振るったのはそっちだし、そもそも可愛い女の子はそんな真似をしない」
「あぅーっ!!」
そのまま泣いて謝るまで苦しめてやろうかとも思った。が、ちくちくと突き刺さる視線を感じ、力を抜く。
見れば、一人の少女が、俺の暴虐行為をじっと見つめていたのだ。無言、無表情、無遠慮に。
その慎ましやかながらも押し付けがましい彼女には、憶えがある。むしろ、かなりの知り合いである。
天野美汐。俺の、後輩だった少女。
「おっす、天野。相変わらずおばさんくさいな」
「……」
ぴしりと、天野のこめかみに、青筋が走った。
「……隙あり!」
手持ち無沙汰となっていた片手に、突然の痛み。慌てて振り上げようとすれば、そこには一匹の小娘が食らいついている。
「あ、こら! 俺の手に噛み付くんじゃない!!」
「かぷかぷっ!!」
滅茶苦茶に手を振り回したら、ころころと噛み付き魔は振り飛ばされて転がる。
そして、今にも泣き出しそうな顔をして、立ち上がった。
「う〜っ、バカ祐一! このびぼーに傷がついたら、どうしてくれるのよぅ!」
「瑕疵なら山ほどあるじゃないか。特にその性格が、せっかく人並みな容姿を台無しにしてるぞ?」
「お菓子? どこに山ほどお菓子があるの?」
きょろきょろと、辺りを見回す、勘違い娘。
「……馬鹿にされたのですよ、真琴」
ため息ひとつ、天野が諭す。
「……あぅ」
真琴という名の粗忽者は、様々な思いを篭めて、しょんぼりとした。
「相沢さん、あまり真琴をからかわないでください。傷つきやすい、純粋な子なんですから」
「純粋か……ものは言いようだなぁ……」
「……」
天野の、抗議の視線。いつ受けても、慣れることがない。
天野美汐は、基本的に物静かである。あまり自己主張をしない。
ただ、あまり追い込んでしまうと、プッツリいってしまうことがある。
そこまでやらなければ、まずは無言で威圧してくるだけ。
「よくわからないけど、バカにされてる気がするわよぅ!」
「それに気がついたなら、お前はバカから卒業だ。おめでとう、真琴」
「わ〜い! ……って、喜ぶかっ!!」
飛び掛かってくる。それを簡単にかわし、足を引っ掛ける。
すてんと、真琴は転んだ。
「あぅ〜っ! 鼻がぁ!!」
無様である。
「……相沢さん?」
そして、天野の表情は、ほんの少しだけ……引きつった。
「いや、ほんとすんません天野さま」
先手を打って、地に平伏した。
「もう靴も舐めます。というか舐めさせてください」
ずりずりと、這いずって天野の足に取り付く。
「……っ」
踏まれた。容赦なく。
天野の足は、非力であり遠慮が感じられ、決して俺にダメージを与えるものではないのだが、その微妙な力加減がどうにもある種の欲望を刺激するというか……
端的に言って、少し気持ち良し。
女子に踏まれるという行為は、倒錯であり普通でなく、通常ならば変態的として気にもしない、むしろ避けるべきもの。
だが、実際にこうして味わってみれば……。
「も、もっと踏んでくれーっ!!」
「……っ! ……っ!!」
無茶苦茶に踏まれ、少し幸せ。
「……祐一が……変態になった……」
あの真琴ですら、信じられないという顔。
「でも……なんか楽しそう」
駆け寄ってくる、真琴。そして、もう遠慮もなにもなしに、天野の前に這いつくばる俺を踏みつける。
「ぐみゅー!?」
車に押しつぶされたカエルのように、俺は鳴いた。
「あははっ! ざまーみろ祐一! このあたしに歯向かうから、こういう目に遭うんだか───きゃうっ!?」
起き上がって、真琴の頭に拳骨。
「お前はいいんだよ! せっかく天野と愛溢れるスキンシップの最中だったってのに!」
「あたしのだってスキンシップよぅ! 肉体言語だって、漫画で読んだもん!」
そのまま拳で語り合う。
容赦なく、痛みを与え続けるのが、人の触れ合いだ。傷つけあう以外に、俺たちはなにができるだろう?
人間とは、悲しい生き物だ……。
「二人とも、そこまでにしてはどうですか?」
ぶんぶんと腕を振り回す真琴を、片手でいなしていれば、呆れたように天野が止める。
「真琴も、すぐに手を出すのはよくありませんよ? それに、相手をする相沢さんも、相沢さんです」
「うぅ……だって、ムカつくんだもん……」
「お前にムカつかれる謂れはないんだがな」
「知らないわよぅ! なんだか祐一だけは許せないって、そんな気がするのよ!」
初対面の時から、真琴はそんなことを言っていた。
未だに、引きずっている。
真琴との出会いは、それはお粗末なものだった。思い出すだけで、可笑しくなる。
そして今日まで、俺と真琴はちょっとしたライバル同士だ。出会えば、ぶつかり合う。
それが、いつまで続くのか……考えたことはなかった。ただ、ずっとこのまま、大人になっても変わらないのではないか、そんな錯覚があった。
でも、それももうすぐ……終わる。俺の、一方的な都合で。
「まぁ、いいや。ほれ、これ持ってけ」
まだ敵意を向けてくる真琴に、例の土産を手渡す。
「なにこれ? うどん?」
「キツネでもタヌキでも、好きなようにして食え」
「う、うん……」
俺から物を貰ったことを、素直に喜べないのだろう。微妙な反応の真琴だ。
そんな真琴に、天野は。
「ほら真琴、お礼を」
歳上ぶって、礼儀を説く。
「こんな奴にお礼なんて、必要ないわよぅ!」
「……真琴、お礼を」
「あ、あぅ〜」
目が笑わない天野は、強敵である。
真琴もしぶしぶと、俺に頭を下げた。
「今回だけは、お礼言ってあげるんだから!」
「別に、本気で礼はいらないんだけどな」
勝手な別れの挨拶に礼を言われたのでは、それこそ反応に困る。
「とりあえず、こうして会ったところで、用件はそれだけだから」
俺は、踵を返し。
「……じゃあな」
素っ気無い、別れを。
「美汐、キツネとタヌキ、どっちにしようか?」
「真琴の好きな方で」
幸せそうな、会話だ。
あの二人は、舞と佐祐理さんの関係とはまた別の、繋がりを持っている。
真琴という気ままな存在を、天野は受け入れて、育んで。
それは、きっと幸せな生活だ。
お互いに、過不足なく。与えて、与えられて。見返りも求めず、相手を愛す。
見ていてむず痒くなるほどの、幸せの光景。
まったく……。
「……相沢さん」
別れは、中断される。天野の呼び声によって。
「もしよろしければ、お昼を一緒にどうでしょう?」
「まだ昼には早いと思うが……? それに、わざわざ俺の分を用意するの、面倒だろ?」
「もてなしにこだわり、相手を満足させようと思えば、手間はかかりますから。それに、この量です」
天野の差し出す袋は、俺がそっくり渡したうどん。分量は適当に買ったので、かなり多い。
「まさか、私たちだけで食べきれだなんて、酷なことは言いませんよね?」
そして結局、俺は天野の家に落ち着いて。
通された座敷で胡坐をかきつつ、天野の入れてくれた茶を飲む。
舞と佐祐理さんのところでもご馳走にはなったが、天野の茶はなんというか……違う。
熱過ぎもぬる過ぎもしない温度、それによって引き立つ香り……ただの緑茶がここまで美味く感じられるとは。
さすが、天野美汐。おばさんくさいだけのことはある。
「……なにか?」
少々心に思っただけで、すかさず顔を出す天野。油断できない。
「もう少し、待っていてください。今、真琴と二人で調理中ですから」
「うむ、よしなに」
「……はぁ」
ため息つきつつ、天野は引っ込んだ。
さて、やることがなくなる。
ただじっと待つだけというのも、苦である。なにか時間を潰したい。
かといって、他人の家で好き勝手というのも、問題あり。
仕方なく、おとなしく待つ。
『ねぇ美汐、油揚げの油抜きって、氷水に漬けるんだっけ?』
『そんなことをすれば、油揚げが痛んでしまいますよ』
洩れ聞こえる会話に、耳を澄ます。
『かつお節を山盛り!』
『真琴……お願いだから、分量を考えて……』
『ぐつぐつ〜!』
『ああぁ、出汁が煮えて……風味が……』
天野、卒倒しなけりゃいいが。しかしこれでは、日ごろの真琴の生活も想像できるというものだ。
天野に、毎日迷惑をかけているのだろう。無自覚に、悪びれもせず。
それが悪いのかは、俺には判断できない。天野自身が迷惑と思っているのか、それすらもわからないのだから。
ただ、天野は真琴のことを受け入れている。静かな包容力を持って、包んでいる。
口出しは、すべきじゃない。本人たちが幸せなら、それでいい。
「……ふぅ」
疲れたような雰囲気を漂わせて、天野が俺の元へとやって来た。
「お疲れさん。あれの相手で料理なんて、大変だろ?」
「素質はあると思うのですけど……経験が足りませんから」
経験しても変わらないとは思うのだが。
「任せてきて、大丈夫なのか?」
「下ごしらえは終わりましたから、後は真琴一人でも」
俺の隣に腰掛ける。きちっとした正座。崩れが無い。
俺との距離は、微妙な開き。寄り添うでもなく、他人でもない。
押し付けがましくないのは、好みだが。
『全部まとめて、ど〜ん!』
真琴の暴虐が、聞こえてくる。
「……」
俺と天野の間には、会話もなく。
ただ、じっと。静かに。
「……相沢さん」
沈黙が、途切れる。
「なんだ?」
応える。
「噂を、聞きました」
居住まいを正し、俺に向き合う天野。俺は、崩れた態度を改めず。
「この街を出る、本当ですか?」
「天野にまで知られるってのは、機密保持が甘いよなぁ……緘口令もいい加減だ」
「茶化さないでください」
どうも今日は、天野は怒ってばかりいるような。
その態度も、全て俺が原因なのだろうが……。
「本当に、行くのですか? なにもかも置いて、この街を……」
「まぁ、な」
じりっと、膝でにじり寄る天野。その瞳は、真剣。
「理由は、聞かせていただけるのですか?」
「理由って……いい加減、ここにも飽きた。他所で暮らしてみたい。それだけだぞ」
「……嘘ですね」
天野が鋭いのか、俺が迂闊なのか。
どちらでもいい。彼女は、真意のかけらを知る。
そして、その性格からして、追及の手は途切れぬだろう。天野は他人に深く関わりはしないが、大切だと思えば、望まぬとしても踏み込む。
天野が真琴と、こうして暮らしているのも、その結果だ。
捨て置けない、ならば自分が面倒を見る。天野は、そういう人間だ。
「この街に留まりたくない理由、あるのですね?」
「……黙秘」
「離れたいなにかが、あるのですね?」
「……沈黙は金」
「いつもなら、余計なことまで話したがる相沢さんなのに?」
否定はしない。だが、ここで話して聞かせるようなことじゃない。
特に、相手は天野なのだ。俺の話を聞いて、勝手に感情移入し、悩みださないとも限らない。
聞かせる、べきではない。
「まぁさ、色々あるんだよ、俺にも。天野の気にすることじゃないさ」
「……それでお別れを、しようと?」
「真琴には話すなよ。うるさいだろうから」
「……」
ついっと、天野は下がった。いつの間にか狭まりすぎていた、互いの距離を離すために。
それでいい。俺たちは、近づき過ぎるべきではない。
天野は、真琴の面倒を見ればいい。俺に情をかける必要はない。
背負い込みすぎれば、誰だってもたない。シンプルな構図を保つのも、生き方だ。
本当に、自分にとって必要なものを見極める、それが大切なことなのだ。
「相沢さんは、勝手過ぎます。いつだって、相沢さんは……」
俯いて、畳の目を数えるように、天野は。
「誰かの心を、かき乱すだけで……」
「……すまん」
謝る以外に、俺になにができるだろう。
「美汐っ! おなべが噴いちゃった!!」
真琴が駆け込んできて、嫌な雰囲気は断たれた。
「はいはい、今行きます」
天野は立ち上がり、ちらと俺を一瞥して。
「火は、止めたのですか?」
「あ、忘れてた!」
もう、感情を見せることは無く───
天野の家で、きつねうどんをご馳走になった。
ほとんどを俺が平らげ、真琴は争うように俺に対抗し、天野は微笑ましげに、それでも少し複雑な笑顔で、そんな俺たちを眺め。
別れ際に、天野は言った。
「真琴、お別れを」
「いいじゃない。どうせすぐに会えるんだから」
「……お別れを。相沢さんに」
真琴に強いる。
「あぅ……祐一、さよなら」
しぶしぶと、天野の態度に納得できないように、真琴は口にする。
「今度会った時は、めためたにしてあげるんだから!」
「あぁ、期待してる。無理だとは思うけどな」
「あぅ〜っ!!」
真琴の頭を軽く小突き、俺は二人と別れた。
そんな、最後だった。
「……さて、と」
舞と佐祐理さん。真琴と天野。彼女たちとの儀式は終わった。
次に、俺が成すべきこと。
まだ、別れを告げねばならない子がいる。
午後の日差しが、差し込む空。
道を歩けば、春の足音を感じる。
道端の草木は、青々と。
空渡る鳥は、生き生きと。
なだらかな道を歩み、あの地へ向かう。
梢の連なりの中を進めば、目指す場所はすぐそこ。
子供の頃は、この道のりすらも遠大で、好奇心を満足させるものだった。
今は、はるかに短く、当たり前の光景。
そして、俺はたどり着いた。
「……久しぶりって、奴か」
俺の前には、切り株ひとつ。
木々に囲まれ、そこだけぽっかりと空が抜ける、空間。
既に主は存在しないのに、周りの木々は遠慮するかのように、枝葉を伸ばさない。
ここが、俺の原点。
「……会いに来たぞ、あゆ……」
その名を、呼ぶ。
あゆ。月宮あゆ。
恐らくは、俺の初恋の少女。
ここに存在した、一本の大樹を元にした、つかの間の出会い。思い出す。
輝いていた、あの日……。
しばらく、切り株を見下ろしていた。
よく見れば、そこには小さな新芽。切り倒されても、命は尽きることない。
時と共に、命は廻る。
「お前も、元気でやってるのかな?」
あゆは、ここで失い……そして、取り戻した。
入院して、意識もなかったものが、再び目覚めたと聞いたのは、いつのことだっただろう。
小さな奇跡として、ずいぶんと評判になったものだった。
今は、だいぶ落ち着いている。
ずいぶんと前に、彼女から手紙が届いた。
幸せそうな日常報告と、最後に一言、会いたいと、書かれていた。
俺は、会いに行かなかった。
少し足を伸ばせば、すぐにでも出会えるのに。俺は、それをしなかった。
怖かったのだと、そう思う。
会うのが怖いのではない。あの時のことで責められる、そんなことはない。あゆは、それをしない。
だが、怖かった。
気付いてしまうのが、怖かった。
もう、俺の恋は終わっているのだと、それを知るのが怖かった。
だから、会わなかった。
何度も手紙は届き、その度に俺は引き出しの奥にそれを突っ込んだ。
一度目を通し、それっきり二度と表に出さぬよう。
……逃避だ。
ついこの間、また手紙が届いた。
あゆは、親戚に引き取られ、別の街に行くらしい。
もう、簡単には会えなくなると、だから最後に一目だけでもと、そう書かれていた。
俺は紙の束の一番上に、それを置いた。
そのまま、荷造りの箱の中へと。
省みる事、なしに。
俺にとって、あゆという少女は、この地にいるのだ。いつまでも、変わることなく。
俺が彼女と出会えるのは、ここだけなのだ。
「あゆ、俺……引っ越すことにした」
「お前と別れるのは、二度目になるのかな……」
切り株に、語りかける。
「多分、もう会いには来れないと思うんだ」
「だから……もう……」
止まった空気は、抗議の色を含んでいるようだ。
「俺にだって、色々とあるんだよ。お前に文句言われる筋合いはないぞ」
それは、言い訳だ。
「自分を向上させるためにも、新たなる旅立ちは必要なんだ。冒険を恐れては、なにも得られないんだからな」
抗議の雰囲気は、やむことがない。
「……わかったよ。全部嘘だって。本当は、ただこの街から逃げたいだけなんだ」
白状してしまう。
「そうだよ、また逃げるんだよ。おかしいだろ、まったくさ」
嫌なことがあれば、すぐに逃げ出してしまうのが、俺という人間だ。
こらえ性が無い、精神的に弱い、なんとでも言えるだろう。
結論付ければ、駄目な男なのだ。
他人に支えを求めるくせに、自分はなにひとつ行わない。それどころか、頼られればさっさと逃げる。
自分の弱さを理由に、それでもそのことを認めるのでもなく。
「俺には、支えきれないものがあるんだ。そんなものに関わらなければ……みんな幸せだったかもしれないのにな」
誰にも、話したことはないのに……不思議と素直に語れる。
俺は未だに、あゆには特別な感情を抱いているのかもしれない。情けない話だが。
それだって、本人ではなく、面影と対話しているだけなのだから、問題ではあろう。
本人を目の前にすれば、きっと俺は素直になれない。自分のことだ、わかる。
現に、あの時、あゆを思い出すまでは……俺は。
「悪かったな。相手をしてやれなくて」
切り株に、触れる。あゆの温もりを、感じた気がした。
「さようならだ、あゆ」
離別。一度たりとも、顔を合わせることもないままに。
『……ずるいよ……祐一君……』
それは、風の音。ささやかな罪悪感をつく、空耳。
どれだけ、あの場所で時間を費やしたのだろう。
独り言のみに終始した時間でも、ずいぶんと長いものであった。
体感時間はそうでもなかったのだが、浪費はしたのだろう。無用な時間とは思えないが……無意味ではあったかもしれない。
どれだけ体裁を整えようとも、俺の一人芝居ではある。あゆ本人を前にできない俺の、逃げである。
しかし、義務は果たしたと、思い込む。
さて、あと一箇所、回らなくてはならない。
そこが、最も重要で、面倒な場所なのだ。
街中に戻り、目的地を目指す。
足が重いのは、当然だろう。気が進まないのだから、仕方がない。
それでも、行かねばならないのが、俺という立場だ。
とぼとぼと、向かった。
「……むぅ」
玄関先に立つ。
どんよりと重いなにかが、胸を塞ぐ。
呼び鈴に手を伸ばす。
「ここで、なにをしているのかしら?」
その瞬間に、背後から声。
思わず飛び跳ねそうになりながらも、振り返る。
「……あら、相沢くんだったの」
そこには、美坂香里が立っていた。
私服なのは、どこかに出かけていたからだろう。そもそも、もはや制服を着る理由もないのだが、どうしても彼女には制服姿のイメージがある。
生真面目な、彼女らしい印象だ。
「それで、人の家になんの用?」
「いや、ちょっと……香里に話が」
「あたしに?」
少し、香里は考え込むような表情をして。
「……あたしには、相沢くんに用はないわ」
俺の隣を潜り抜け、玄関へ向かう。
「あの子を捨てようとしている、あなたには……」
吐き捨てるような、辛辣な言葉だった。
事実、ではある。俺のあの少女への態度は、香里の言うとおりのものだ。
捨てようとしている、そう言われても仕方がない。
事実は、多少違う。だが客観的に見れば、そのようにしか見えない。
俺は、あいつを捨てようとしている。逃げることにより、離れようとしている。
香里が怒るのも、無理はない。
「あの子はね、相沢くんを本気で信頼していた、愛していたのよ? なのに、相沢くんは捨てて……どうしようというの?」
「また、新しい誰かを手に入れるの? そして、同じように飽きたら捨てるの?」
「……最低よ、あなた……」
反論は、しない。
香里は、俺が街を出ることは知らない。ただ俺が恋人を捨て、誰か新しい女の元へと走る、そう思っている。
それについての話を、しようと思っていたのだが……聞いてはもらえそうにない。
印象は、最悪だ。完全に、かつての信頼はない。
親友とも呼べそうな、俺たちの関係だった。でも、今はもう……。
俺の責任だ。壊してしまったのは、俺だ。
もしかしたら、いつまでも続いていくかもしれない仲間だったのに。
修復は、できないだろう。そのつもりも、ない。
壊れっぱなしでも、構わない。
どうせこの先、俺の一言で、更に崩壊は進むのだろうから。
「香里、そのまま聞いてくれ」
戸を開け、中へ入ろうという香里。その背に、言葉。
「俺は、この街を出る。あいつに、よろしく頼む」
「───っ!」
ふと、目の前に壁が迫る。
そしてその壁は、俺の体をしたたかに打ちのめし、転がしていた。
「……あなた、今なんて言ったの?」
体が重いのは、転がった俺の上に香里が馬乗りになっているからだ。彼女が俺を倒した。その怒りの一撃によって。
「この街から出るって、そう言ったの?」
「……そうだ」
跳ね落とすのは、簡単だろう。香里も女なのだ。力では俺のほうが勝る。
でも、できなかった。ただ、返事だけしか返せなかった。
「……そう……そうなの……」
香里は、ゆっくりと俺から離れた。俯いていて、その表情は窺えない。
それでも、肩が震えていれば……彼女の感情は。
「……消えて。もう、顔も見たくない……」
きっと上げた顔には、ただ怒りだけが浮かんでいて。
「───消えて頂戴!!」
報告は、終わった。結果はどうであれ、俺の役目はこれで終了だ。
あとは、立ち去るだけだ。
だが、タイミングが悪いのが、俺という人間だ。
そこで、出会ってしまったのだ。
「……あ……」
家へと帰ってきた、彼女と。
「栞……」
香里が、罰が悪そうに呟く。
先ほどまでの醜態を、見られたのではと危惧したのだろう。
姉らしい、心配。妹に良くないものは見せたくないという、ささやかな思いやり。
もう、妹を否定することはない、香里だ。だがその付き合い方は、腫れ物に触るような、危うさをもっている。
まだ、普通の姉妹とはいかない。
それでも、香里は努力している。手探りでも、取り戻そうとしている。
笑うことは、できない。
「……」
小さく声を漏らした栞だったが、もう口をつぐんでいる。
堅く、ぎゅっと。
そのまま、静かに向かってくる。
……隣り合う。
…………すれ違う。
視線も交わさず、お互い背を向けて。
「ただいま、お姉ちゃん」
栞は姉に軽く挨拶をすると、戸を開いて家の中へと消えた。
「……相沢くん、なにも思わないの?」
聞かれても、答えようがない。
栞との関係を壊したのは、俺自身。望んで、そうした。
俺からは、なにも言う資格はない。
これで、いい。
「……そう、どうでもいいのね……」
俺の無言を受け取って、香里は結論を導き出した。
なにも変わらぬ、それどころかよりはっきりとした、結論を。
「やっぱり、あなたは消えるべきよ。あたしの……いえ、栞の前から」
「あなたの存在は、もう害悪でしかないのよ。栞、なにも言わないけど……傷ついているのは明らかよ」
「……あの子に正しい未来を歩ませるためにも、相沢くんは邪魔なのよ」
辛辣なのではない。その言葉は、正しい。
「消えてくれるのなら、止めはしないわ。どこへなりとも、好きなようにすればいい。さようなら、相沢くん」
俺は、美坂家を後にした。
全てに、決着をつけて。
あれから数日。
俺は、馴染みのない街にいる。
古ぼけたアパートを借り、来るべき新生活を待つ。
せきをしても一人、とは言うが、あくびをしようが涙目をこすろうが、一人だ。
寂しさを感じる暇もないほどの、孤独。
一人で生きるのは、楽じゃない。なにもかも自己責任というのは、想像以上の苦難だ。
今まで、俺は一人でも生きられると思っていた。だが、修正が必要である。
一人で生きているように、見せる。他者に頼りつつも、自立しているように周囲には感じさせる。
形だけはそうしておかないと、堕落した人間だと思われる。甘えを見せる孤者は、社会的にはつまはじきの対象である。
強く生きなければならない。いや、強がってみせなければならない。
これからは、そう生きなければ。
学生生活を円滑に進めるために、アルバイトを探した。適当に下見をして、アパートに帰る。
考えてみれば、俺には特技のようなものがない。就ける仕事も限られそうだ。
なにかに打ち込んでいれば、そうはならなかったのだろうが……これも怠惰な高校生活のツケと、諦める。
なるようにしかならない。ない袖は振れないというのは、世界の絶対真理である。
搾り出して、生きなければならない。
そんな思いで、アパートの扉に手をかける。
「……ん?」
鍵は、かかっていなかった。
確かに、施錠した記憶はあるのだが……。
些細なミスだろうと思い、戸を開く。
そこには、あの少女がいた。
「お帰りなさい、祐一さん」
信じられぬ、ことだった。
「栞……なんで、お前……」
「大家さんに、祐一さんの妹だって言ったら、すぐに鍵を開けてくれました」
そういう問題では、ない。
栞には、俺の落ち着く先は伝えてはいない。むしろ、ほとんど接触はなかったはずなのだ。俺が栞を避けるようになってからは。
なのに、彼女はここにいる。
「秋子さんに聞いたんです。気持ちよく教えてくれましたよ?」
「……そうか。で、なんの用だ?」
勝手に入り込むだけの、用があるのだろう。
くだらぬ用事ではないだろう、と。
「祐一さん、本当に一人暮らしできるのかなって。心配になっちゃって。それで、来ちゃいました」
……くだらぬ用事だった。
俺は、栞を振ってきたのに、まだ俺にそのような気持ちを向ける。はっきりと言えば、栞は馬鹿だ。
それでも、自覚はあるのだろう。どこか俺の様子を窺うような視線は、その表れだ。
「……ダメ、ですか?」
追い出すのは、簡単だ。
しかし、栞がこんな場所にいる。その意味するところを考えれば。
「……飛行機も船便も、宅急便ですらも、お前を追い返すことはできない。俺は、金がないからな」
「それって、つまり?」
「向こうから迎えが来るまで、好きにすればいいさ。なぁ、家出少女さん?」
「はいっ!」
それから、短い共同生活が始まった。
大学が始まるまでの、短い間。
俺は、栞と暮らした。
ままごとのような、生活。
改めて少女と向き合って、日々を暮らす。
楽しくないと言えば、嘘になる。
充実した、毎日だった。
家を出れば笑って送り出してくれて、帰ればねぎらうように出迎えてくれる。
試行錯誤しながら家事をこなし、二人で家を保ち、枕を分かち眠りにつく。
なぜ、栞は俺を許せるのだろう。あんな酷い扱いをしたのに。
聞いてみたことがある。返事は。
『祐一さんって、素直じゃないですから。それは、ちょっと落ち込みましたけど……私はいらないのかなって思いましたけど』
『でも、祐一さんの精一杯の強がりだって、わかっちゃいましたから』
『祐一さん、私を幸せにできないんじゃないかって、悩んでいたんですよね? だから、私を遠ざけた』
『……おばかさん、ですよ。わかってないです』
『私の幸せは、私が決めます。どんな未来になっても、自分で選んだ道なら、受け入れられます』
『私は、祐一さんを選びました。だから、本当に捨てられない限りは……一緒にいます』
『迷惑……だったら、ごめんなさい……』
だから、日々は続いた。
ある日、前触れもなく栞の家族が迎えに来た。
栞は、泣いた。泣いて、涙を流して、それでも無理やりに笑って。
俺と、別れた。
孤独が、戻った。
……学生生活が始まり、多忙な日々が続き。
少しずつ、記憶は薄れていく。
あの街で過ごした日々は、遠くなり。上書きされる、日常。
情け容赦のない連続する毎日は、移り変わる空のように留まることはない。
同じ日はなく、置き忘れたあの時は、もう遠い彼方へと。
そして……
ある日、キャンパスを歩いている。
もうそろそろ、秋も終わり、冬が訪れる。
一枚重ね着しただけ、世界が遠くなったような感慨に包まれながら、学生課へと向かった。
この先の講義の日程は、早めに知らなければならない。変更は、押さえなければならない。
面倒でも、学生をやるためには、必要なことだ。
掲示板の前に至る。そこには、先客たちがいた。
じっと掲示板を睨んでいる、複数の人間。どこか違和感を感じる。
「……あぁ、そうか……」
ここに来るまでの間、どうにも見慣れない人間が多いと思った。その理由を、思い出す。
オープンキャンパスとか、そんな日だったはず。
もう間もない受験の日に向かい、最後の下見に来ているのだろう。ご苦労なことだ。
(初々しいのはいいけれど、少し邪魔だな……)
掲示板を、なにか秘密の壁画を読み解くような感じで眺めている一同の間に、割って入る。
「───きゃっ!?」
小柄な少女の足を踏んでしまった。
「あ、すまん。痛かったか?」
「それほどでもないですけど……傷つきました」
振り向く少女。
「責任は、取ってくれるんですよね、祐一さん?」
少し背の伸びた、彼女は。
「罰として、私が合格したら、きっちり面倒見てくださいね?」
冬が来る。
あの街の冬は、長かった。こちらは、どうだろう。
寒く、暗いのか。不機嫌な季節なのだろうか。
でも……構わない。
もう、冬の先を感じられるから。
次に来る季節を、思えるから。
季節は、廻る。途切れることなく、移り変わる。
必ず、暖かなあの日は、やって来る。
──────プリマベーラ───
「大切なものには、自分の足で追いつきたいですよね。だから、もう一度……初めまして。そして───」
───冬来たりなば春、遠からじ。
感想
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