やわらかな春の陽射しを瞼の裏に感じる。
 目覚ましはまだ鳴っていなかったが、祐一はそれより先に目を醒ましていた。
 暫く、暖かな布団の中でまどろむと、やがて、ぴぴぴ、と目覚し時計が電子音を奏ではじめる。
 ゆっくりとベッドから身を起こし、目覚し時計をオフにする。
 祐一はそのまま窓辺に立ち、窓を開ける。
 朝の涼しい空気が部屋に流れ込んできた。
 空は快晴。立ち並ぶ家々と木々の向こうに、背の高いビル群が見渡せる。
 十数年、ずっと見慣れていた景色。
「長閑だねい…」
 祐一はパジャマ姿なのも忘れ、暫く窓辺に肘をついて外を眺めてしまう。

 春休みに帰ってきた実家での生活は、至極のんびりしたものだった。
 従妹を起こすという日課も、ここ一週間ほどはご無沙汰。
 いつものような焦りは無いものの、それはそれで少々物足りなさを感じることもある。
 あと数日で四月。今日も東京は暖かくなるだろう。
 実家で迎える朝も、今日で終わりを告げる。



かえるところ





 アメリカに赴任していた両親が一時的に帰国すると祐一が聞かされたのは、まだ雪深い二月の事だった。
 仕事が一段落つき、二週間ほどの休暇が出たという。
 もっとも、休暇が終わればまたすぐ合衆国にとんぼ返りするそうだが。
 帰国するのは三月。一年と数ヶ月ぶりの親子の再会という事もあり、また高校を卒業する祐一の進路についての相談もあり、祐一は一週間ほど実家で過ごす事になったのだった。
 三月中盤の日曜日。祐一生まれ故郷の街へと旅立った日も、北の街は雪に覆われていた。



 祐一が同居している従妹の名雪と付き合っていることは既に叔母である秋子を通じて伝わっていたらしく、祐一は母親にさんざんからかわれ、父親になど半ば本気で殴られそうにもなったものだ。それでも祐一は久しぶりの両親との再会、そして故郷での生活をそれなりに楽しく思いもした。

 それでも、故郷で朝を、夜を迎えるたびに、祐一は自分でも気づかないまま何度かふと遠い目で彼方を見つめることがあった。

 実家で迎えた最初の夜。祐一は両親に告げた。
 まだ、暫くこの東京に戻る気持ちの無い事を。
 選択肢は幾つもあった。生まれ育った街に戻ること、あの雪の街に残る事、どちらにもそれぞれ魅力があり、思うところもあった。
 悩んだが、それでも祐一はあの街でもう暫く暮らす事を選んだ。
 両親はそれについては特に何も言わなかった。
「判ってたよ。最初からな。お前、帰ってきたとき、『ただいま』って言わなかったんだよ。気づいてないかもしれないけどな」
 父親が後で、そう言っていたのを祐一は鮮明に覚えている。



 階段を降りる足の裏にも、特に冷たさは感じない。
 いまだ冬の中にあるあの街とは違うのだということを痛感する。スリッパ無しで廊下を歩いても、刺すような冷たさに襲われることは無かった。
 そして、そんな何気ない事を少し不思議に感じている祐一。
 いつの間にか、北の街での生活の方を日常に感じている、そんな自分がいた。
 祐一にとって、それが、少しおかしくもある。

 曇りガラスから薄い朝の光がさし込む玄関には、祐一が持って帰る荷物がまとめられている。
 昨日、日本を発った両親はもう、向こうに着いているだろう。
 祐一も、今日この街を発つ。
 明日からまた暫く主の居なくなる家は綺麗に片付いていて、祐一の足音以外に物音はしない。
 家族三人が生活するには充分の広さの家はしんと静まり返っていて、それがどこか寂しさを感じさせる。
 祐一の目に、その光景が、なぜか強く焼きついた。

 自分は今日、ここから旅立つ。帰るべき場所へ。
 自分が生まれ育ったこの家、この街は、今日は帰るべき場所ではないのだ。



「うーむ…」
 祐一にしても両親にしても一週間ほどの滞在でしかなかったから、そう食料品を買い込むわけにもいかなかった。暫く家を空ける以上、冷蔵庫の中に物を残すわけにはいかないからだ。そんなわけで祐一は、空っぽになった冷蔵庫を前にして唸っていた。
 朝食になるようなものがなかった。
 祐一は唯一残っていたカップのヨーグルトだけを出すと、ぱたん、と冷蔵庫の扉を閉めた。
「これだけじゃ…なぁ…」
 そう言いつつも朝とはいえ、昨夜きちんと寝ていたからそれなりに空腹ではある。
 スプーンを流しで洗い、テレビを点け、ひとり食卓でヨーグルトだけの朝食を摂り始める。話し相手のいない食事というのは一人暮らしの経験の無い祐一にとってはなかなかに退屈だった。八時も過ぎ、テレビの内容は朝のニュース番組からゴシップ満載のワイドショーに変わっている。生憎、余りその手の話題に興味の湧く性質ではなかった。
「むう…暇だ。昼は豪勢に行こうか」
 昨夜から独り言が多くなっている事に、祐一自身はまだ気づいていない。



 こちらに帰ってきてから取った新幹線の指定席は夕方の列車だったから、出発までにはまだ時間があった。
 祐一は昼食を外で摂る事に決めて、自転車を漕いでいた。
 何しろ、実家での生活もわずか一週間。
 やれ掃除だ、父親の実家への訪問だ、地元の友人との遠出だとなかなか一人で暇になる時間もなかった。せめて最後の日くらいは何も予定を立てないまま過ごすのも悪くない。
 一年以上ガレージに放っておかれていた自転車は、それでも多少空気を入れ、油を差す位で、至極快調に走ってくれていた。
 両耳に挿したヘッドフォンからはお気に入りのポップスが流れる。
 祐一はリズムを取るようにハンドルを叩く。
 路地の一つひとつまで知り尽くした街。
 軽く自転車を傾けて、坂の途中の交差点を曲がった。
 天気は相変わらずいい。気温も丁度良く、気持ちのいいサイクリングだった。



 一年以上離れていた街は一見いつもと変わらない表情をしていたものの、その実、細かな変化は数多くあった。いつ見ても草が生えているだけの空き地に立派な家が建っていた。商店街の店が入れ替わっていた。建設中だったビルにお洒落なテナントが入っていた。そんな、些細な変化。
 記憶と風景の差異を見つけるのも、また楽しいものだ。

 街の変化は、一つの時間の流れに沿って間断なく続いてゆく。
 自分の記憶だけがその流れを離れ、そしていつか交差する。
 いつしか祐一は、この街の流れとは違う流れに乗っている事を感じていた。
 しかしそれは寂しさとは違う気がした。
 もっとポジティブな、何か別の感情。



 昼食に立ち寄った店は、高校生の頃友人と連れ立って何度も立ち寄った喫茶店。
 店のドアを開けた祐一はそこで、思いがけない懐かしい顔に出会った。
「あー、ひょっとして相沢くん? 帰ってたんだ」
 アルバイトらしいウェイトレスの少女は、祐一の姿を認めて軽い驚きの表情を浮かべた。
 中学校、高校と、祐一と何度か同じクラスになったことのある友人。
「久しぶり」
「だねぇ」
 柔らかい笑みが返ってくる。

 住宅地にある店で、しかも平日だから、昼時とはいえ店内に祐一以外の客はほとんどいない。
 祐一はカウンターに座り、熱いラザニアをゆっくりと食べながら友人の少女と軽く話していた。
「相沢くんに会うとは思わなかったよー。転校以来だもんね」
「親が帰国しててな。先週からこっちに帰ってたんだ」
 出来たてのラザニアは熱いが美味しい。祐一は少しずつスプーンでラザニアを掬う。
 湯気に乗ってチーズの匂いが鼻を刺激する。
「そっか。もしかして春からはまたこっちに帰ってくるのかな?」
「いや…今日帰るんでね、ちょっと色々見て回ってたところ」
「そうなんだ。帰る…かぁ」
 暫く黙りこむ友人に少し妙な感を覚えつつも、祐一は残りのラザニアを片付ける。

 会計を済ませる。レジでお釣りを渡した少女は笑顔で手を振った。
「またね、相沢くん」
「おう、今度帰ってきたら、また寄るよ」 
 またね。
 いい挨拶だと思った。
 これから別れ。そしていつかまた出会うことを信じている。
 そういう挨拶だから。
「じゃあ、またな」
 祐一はそう返事をした。

 さて、次に訪れた時、この街はどんな表情で自分を迎えてくれるのだろうか。
 それではまたいつか。次に会う時まで。
 祐一は心の中で、生まれ育った街に別れの挨拶をした。




 水滴が車窓を流れてゆく。
 どうやら、峠を越したところで天気が雨に変わったようだ。
 すっかり日が落ちて黒々とした車窓を、雨粒がひっきりなしに滑り落ちてゆく。
 祐一は傘は持っていたっけかな、と少し考え、水瀬の家を出るときに、いつも使っていた折り畳み傘を荷物に入れたことを思い出してしばし安堵する。
 日暮れ時の東京を出た新幹線は、北へと滑るように進み、三時間が経った今はこうして夜の盆地を走っている。
 二つの街を隔てる距離は遠いようで、それほど遠くはない。
 オルゴールの電子音に続いて車内放送が入る。もう数分で終点。

 空調の利いた新幹線の車内から、祐一はホームに一歩踏み出す。
 懐かしい寒さが体に染み込み、祐一は手に携えていた上着を着込んだ。
 終着駅だけあって、列車からはそこそこの人数が降りる。
 祐一は人波に流されるように改札を抜けた。
 列車を降りた乗客が散ってしまうと、二十一時を回ったコンコースに人影はまばらになってしまう。
 高い屋根と既に閉店した売店が、妙に寒々しく感じられる。
 祐一は立ち止まって携帯電話を懐から取り出し、メモリーに記憶されている水瀬家の番号を少し見つめ、通話のボタンを押した。
「なるべく早めに帰るって言ったからな…」
 ちょっとふくれ気味の名雪の声が容易に想像できて、祐一は頬が緩むのを感じる。
 だが、無機質なコールが五回、十回と鳴り、そのまま少し待っても、電話口に誰かが出る気配はなかった。
 普段なら、名雪か秋子、少なくともどちらかは家にいる時間なのだが。
 自分が帰ることは伝えてあるし、出かけているのにしては遅い時間である。
「ふむ…?」
 微かな違和感を覚えつつも、祐一は通話を切った。
 今日に限ってたまたま出かけている可能性は無いわけではないといえ、少し釈然としないものを感じるのも事実だった。
 どの道、鍵は持っているのだからそれほどの問題はないのだが。
 祐一はフリップを閉じ、階段へと向かった。その足が、いつもより幾分速い。



 祐一は傘を開き、雨がアスファルトを叩くロータリーを水たまりを避けつつ歩く。
 一瞬、タクシー乗り場に目が行く。だが、乗り場に並ぶ人の列と客待ちのタクシーの数を勘定すると、自分も並んだとしても、暫くは待たされそうである。
「誰も考えることは一緒かね…」
 祐一はかぶりを振り、点滅する歩行者用信号に追い立てられるようにロータリーの横断歩道を渡った。

 風が出てきた。
 奔放に舞う雨粒は容赦なく祐一の体と荷物を濡らしてゆく。
「さむ…」
 祐一は傘を持った手をすり合わせ、息を吹きかける。
 吐いた息が白く染まり、体が軽く震えた。
 向こうは春の陽気だったが、こちらは未だに冬を抜けきっていない。
 シャッターのあらかた閉まった駅前通りに人影は少なく、車のヘッドライトだけが次々に祐一を追い越してゆく。
 祐一は風に煽られるように、暗い街を進む。
 微かな不安感と寂しさがいつしか胸に忍び込んでいた。
 足の運びが速くなるのは、体が冷えてゆくのを感じたのだけが理由ではなかった。



 玄関のドアに、鍵はかかっていなかった。
「ただいま」
 いつもなら笑顔で迎えてくれる秋子の姿はそこにはない。
 いつしか習慣になっていた帰宅の挨拶もそこそこに、祐一は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えてリビングへ向かう。
 リビングの灯りが点いているのを確認して、祐一はドアを引いた。
「ははっ」
 思わず笑いが漏れる。胸に暖かいものが広がってゆくのが判る。
 しんと静まり返ったリビングに、こたつに突っ伏した名雪の微かな寝息だけが聞こえていた。
 秋子の姿が無いということは、恐らく仕事の都合か何かで帰宅が遅いのだろう。
「電話に出ない訳だ…」
 祐一の肩から力が抜けた。

 上着を着たままだったのに気づき、祐一は一度ハンガーに上着をかけに玄関に戻った。
 無意識のうちに放っていたらしい荷物が玄関先に無造作に置かれていたが、片付けるのも面倒だ。片付けは後回しにして、祐一はリビングに戻る。

 リビングに戻っても、名雪はまだ目を醒ましていなかった。こたつの上には名雪が用意したのだろうか、夕食を取る準備が整えられていた。後は料理を温めればそのまま食べられるだろう。
 寒さに弱い祐一のリクエストで今冬購入されたこたつは、水瀬家のリビングにしっかりとその地位を築きあげていた。
 祐一は平和そうな名雪の寝顔にふと悪戯を思い立った。
 突っ伏す名雪の背後に回り、両手を名雪の頬にぴたりと当てる。
「ゃ…つめたいよ…」
 もごもごと名雪が身を起こした。
「あ……祐一だ」
 振り向いた寝起きの顔がふにゃっと笑う。
「おそいよ…わたし、待ち疲れちゃった」
「ああ、それは悪かった…」
「でも、こうやって祐一の顔が見れたから、許してあげる」
 至近距離での恋人の笑顔に、不意討ちに近いものを感じた。
 思わずそのまま両手を肩に手を回して引き寄せる。
 じんわりと暖かな熱が伝わってくる。
「…祐一、体、すごく冷えてるね」
「寒いからな…この街は…」
 暖かさから、祐一は目を閉じてそのまま名雪にもたれかかる。
 名雪の体に冷たい、幸せな重みがかかった。
「なんか祐一、甘えてる?」
「んー、そういう積りじゃないけどなー。でもまあ、寒いのは事実だし」
 目を閉じたまま、少し間延びした声で祐一は答える。
「わたしはこのままでもいいけど…、そうだ、こっちおいで」
 名雪は祐一の手を引き、こたつの自分の横に祐一を招きいれる。
「やっぱり冬はこたつでこうしてるのが一番、あったかいからね〜。
「そうかもな…」
 祐一は名雪にもたれかかるように体を預けた。
 誰かの体温が伝わってくる、その幸せな感覚に、少しづつ眠気が襲ってくる。
「会えなくて、寂しかった?」
「……かもな」
 沈黙。
 名雪の吐息、名雪の心音さえ伝わってくるような距離で、祐一はゆっくりと目を閉じた。
「お腹、すいてない?」
「今はちょっとだけ、寝る…」
「はいはい」
 くすり、と笑う。
「名雪」
「なに?」
「もうちょっとだけこうしててくれないと…明日から起こしてやらないからな…」
「祐一ってさ、ほんと素直じゃないよね…」
「…ほっとけ」
 時間はゆっくりと流れる。
 時を刻む秒針の音だけが聞こえる。
「ただいま……」
 意識が落ちる寸前で、祐一はつぶやくように言った。
「おかえり、祐一」
 額にキスされるのを、半分夢の世界に落ちながら感じた。



 帰宅した秋子はその光景をひと目見ただけで、全ての事情を理解した。
「あらあら…」
 寄り添うように安らかな寝息を立てる娘と、甥。
 それは、余りに幸せな光景。
 邪魔するのも無粋に感じ、秋子は足音を極力立てずにキッチンへ向かう。娘が用意していた料理は後は温めるだけだった。
 秋子はエプロンを着け、手際よく遅い夕食の支度を始める。
 料理の匂いがすれば、二人の子供は起きてくれるだろうか。それとも明日の朝まで眠ったままだろうか。
 どちらでも構わない、そう思った。
 眠る子供たちを見つめながら一人で食べる夕食も、それはそれで幸せだと思えるだろうから。



 雨はいつしか雪に変わっていた。
 明日の朝には多分、ふたたび白く姿を変える街。

 そこが、祐一の帰るところだった。
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