オスとメスが交尾をして子孫を残す。
 動物は本能として交わり合い、種を絶やさないようにする。
 それだけが目的であるのなら感情などというものはいらないのではないか。
 では、何故。人間には心があるのか。
 人は何故、生まれてきたのか。
 人は何のために、生きているのか。 
 人は何故、恋をするのか。
 その答えが、まだわからない。





 仕事を終えて、職場から徒歩15分の距離にあるアパートへ帰る。
 郵便受けを確認すると結婚式の招待状が入っていた。
 親友の結婚式に呼ばれたり。大学時代の先輩から届く年賀状に子どもの写真が写っていたり。型は様々だが周りは変わっていく。
 そんな中で俺は家庭を持つという事態には至っていない。
 それについてはいろいろ思うときもあるし、思わないときもある。
 ただ、今日に関しては意識しないのは不可能な出来事があった。
 いつもどおり仕事に出かけた。問題なく仕事をこなした。
 何の出来事もない日だと思った。社長室に呼ばれたこと以外は、

「君を昇格するって話があるんだけど。引き受けてくれるかな」

 穏やかな笑みをたたえながら社長の口から紡がれた言葉は、予想と逆の内容だった。ホッとして、返事すら忘れていると社長が続けた。

「君は最近よくやってくれている。企画書もなかなか興味深かった。新しい仕事も任せたい。引き受けてくれるね」
「はい」

 今度は間髪入れずに返事をする。
 社長に直々に呼ばれての激励。社会人の一人として貢献できているのだと実感できる。

「ところで相沢くんは、恋人とかいるのかな」
「……いえ。特定の相手はいません」

 社長は自席に座ったまま沈黙する。意図が読めないまま、俺は直立不動で待つしかなかった。

「そろそろ、そういうことを考えていい時期だと思わない? 一人の社会人として」

 真顔で固まった。 
 自分は自分といえど、人の中で生きる限り、社会と切り離して生きることなど出来ない。
 社会人になって以来、こういう話題はどうしてもついて回るものだ。
 親族、友人。そして職場。
 年齢を重ねることで初めてわかる実感。
 自分でそのままを望んでいても周りはいくらでも干渉してくる。
 それは責めることはできない。
 例えば、結婚しないと決めたとしても周りからいろいろと言われることを覚悟しなきゃいけない。

「お見合いする気ない? いい話あるんだけど」

 その後も相手の話を社長は続けた。正直、その内容は耳に入らなかった。
 肯定も否定もできずに立ち尽くすことしかできなかった。

「いい返事を期待しているよ」



 チン。
 電子レンジの音で回想は途切れた。
 中からスーパーで買った惣菜を取り出す。
 味気のない栄養を摂取して、目的もなくテレビをつける。画面にさほど集中力は使わない。
 脳内で同じことを考えている。今まで何度となく考え、解の出ない問に対して、答えの出ないままに。





 次の日は職場の飲み会があった。
 面子は俺と同じかそれ以下の若いメンバーだった。
 お決まりの上司の愚痴や同世代の近況、くだらない話。

「田中のヤツ付き合い悪くなったよね」
「子どもが生まれるんだよ。奥さん不安定な時期らしくて最近は定時で飛んで帰るぜ」
「鈴木も新婚だしな……」
「上原は? まだ独身組だろ」
「例の年下の彼の実家に、明日行くからどうしても無理なんだと」
「……今から、重大発表をします! 3ヶ月後に結婚します。寿退職だ〜」

 ここでもそういう話題だった。
 彼氏彼女のいる者、いない者。
 そういうことに不安を感じている者、いない者。
 他人に仲間意識を確認する者。他人を心配する者。
 集まったメンバーでもいろんな人がいる。けれど、大半の人間はそういうことに興味を持っていて、あるいはすでに家庭を持っていて、そうじゃないやつが少数派だということを改めて教えてくれているような気がしていた。
 少し離れたところで俺は静かに飲んでいた。
 隣には1つ下の後輩である藤村七恵が、さっきからいろいろと俺に話しかけてくれていた。

「先輩。これ、おいしいですよ」
「先輩。この『店主のオススメ(はあと)』とか怪しくないですか?」
「先輩。聞いてくださいよー」
「先輩〜。この前、串揚げのおいしい店見つけたんですよー」

 見た目は実の年齢よりずっと幼く見える。小柄で童顔で、制服でも着れば高校生で通りそうだ。
 どうして懐かれたのかは覚えていないが、そんな藤村とくだらない話をしながら居るのは嫌ではなかった。
 
 一次会が終ると二次会に付き合うか聞かれる。
 いつもは二次会までは付き合うようにしているが、今日は例外。
 相談があるから二人きりで別の店に行きたいと先約があった。

 藤村が案内してくれた店で飲みなおす。
 一通り注文して、改めて乾杯して、グラスを2回ぐらい空にする。
 そうして、やっと。藤村は本題を切り出してきた。

「先輩ぃ〜。お見合いするって本当ですかぁ」
「……もう社内で噂になってるのか」

 藤村の発言に軽くため息。一体どこから漏れたんだか。

「いえ……私、たまたま社長室の近くを通ったときに聞いたんです。他のみんなはまだ知りませんよぅ」
 ぷぅ、と何故か頬を膨らませて藤村は答えた。

「断らなかったってことは……先輩、付き合ってる人って……そのぅ、いないんですか」
「ま、そうなるな」

 でも、断ることになると思う。

「す……好きな人とかは?」

 流石にこの辺りで俺も気づいた。
 よく考えてみたら、藤村は全くと言っていいほどその手の会話を振ったことがなかった。
 だからこそ、ずっと隣に居ても違和感がなかったのかもしれない。
 あっさりと承諾したが藤村と二人きりで飲むことも初めてだった。

 同僚の中でもグループはある。
 それは気の合うやつだったり、考えが同じの者が集まることが多い。
 藤村や俺の関係もそうだと思っていた。
 だけど、俺の横に藤村が居たのは違う理由で、

「先輩……私が先輩のことを一人の男性として好きだって言ったら迷惑ですか?」

 目の前に知らない藤村がいた。彼女の目は、まっすぐだった。
 若い男女が二人なら絶対にカップル。なんてことはないし、男と女の友情だって成り立つこともある。
 しかし、いつの頃からか藤村はそういう目で俺を見ていた。

 藤村の告白は続く。
 俺の好きな部分、好きになったと感じたところ、仕事でも頼りになること、ひとつひとつ話してくれる。

「藤村。それは俺のいいところばかりしか見てないからだ。俺の醜い部分なんて知らないだろ? 本当の俺はそんな人間でもなんでもないんだ」

「それなら、本当の先輩を私に見せてくださいっ」

 熱を帯びる藤村の言葉に対して、身体が冷たくなる。
 本当の俺を知ったらきっと、藤村は――俺のことを軽蔑するよ。
 軽蔑されたくないから言わない。それ以上に失いたくなかった。どこか自分と似た雰囲気を感じる藤村を。

「私……そんなに魅力、ないですか?」

 そういう問題ではないと告げたい。
 しかし、言葉は説得力をもたない。
 藤村のことは好ましく思っている。
 ただ、そういう関係としてやっていくには、きっと、俺は彼女を不幸にしてしまう。
 揺れる瞳。
 改めて見る藤村は、俺が思っていたよりずっと女だった。

 その目を見ながら、俺は記憶の海を泳いだ。




 
「北川ができちゃった婚とは意外だった。そういうのキチンとしてそうなのにな」
「でもな。ある意味いい機会だと思った。高校の頃から想ってた香里と付き合うことになって、上手く行き過ぎたせいかタイミングを失ってた気がする。いつかそうなるだろうって、オレも香里も思ってたからすぐに結婚ってならなかった。両親にはちょっと急かされてたけど」
「惚気か? それにしても妊娠中に見えないな、香里の花嫁姿」 
「まだ初期の段階だから。病院の検査でお腹の様子を見せてもらったら感動した。自分たちの新しい命が生まれるんだって。当たり前のことだけど、オレや香里や相沢……みんな俺たちの両親が同じような経験をして生んでくれたんだ。オレもやっとそんな人たちの仲間入りができるんだ」

 今まで見たどんな北川より穏やかな表情だった。
 それでいて瞳は力強く。決して悪い意味ではなく遠い世界の住人のように感じた。

「だから。付き合うきっかけを作ってくれた相沢には感謝してもしきれないくらいだ」
「俺が名雪と付き合い出して、残った北川と香里も気が合った。それだけの話さ」
「それでも礼が言いたかった。相沢が転校してきたことを含めて、本当に感謝してる」

 その姿は俺にはまぶしい。
 結婚して。
 子どもをつくり。
 自分の家庭を築いていく。
 自分たちの命があるということは。
 自分たちの親が、先祖代々が、人類が。それを繰り返してきたからだ。
 それは平凡で、きっと幸せで、多くの人類が行ってきた大変な仕事だ。
 そうだと感じているのに。

「男としての責任感っていうかさ。これでやっと自分の家庭を持つわけだし。人として生まれて。社会人として、これでやっと責任を果たせるっていうか。認められるっていうか。平凡で単純なのかもしれないけど人としての幸せってこういうものだって思う」

 俺には、きっと――それが出来ない。





 子どもの頃、冬休みが来る度に都会ではあまり見ることの出来ない雪が見たくて、母方の親戚の家へ遊びに行っていた。
 俺はそこで過ごす冬が好きだった。
 ある出来事があって一度は近づかなくなった。
 それから7年の歳月が過ぎて、俺は再びその街を訪れて、残りの高校生活をその家で過ごすことになった。
 再会した名雪と仲良くなり、いつしか付き合うようになっていた。

 だが、違和感を覚えた。
 本当に名雪のことが女性として好きなんだろうか。
 告白され、断る理由もなくOKして。キスして身体を重ねた。
 名雪のことは嫌いではないし、オスとして充分に興奮できるちゃんとしたメスだった。
 可愛いと思う。いいやつだと思う。
 でも、名雪を恋愛対象として見れていなかった。
 同世代の仲間が感じるはずの異性への愛しい気持ちがわからない。
 性を開放するだけなら、なにも相手は名雪じゃなくてもいいと感じた。
 何も生身の女性である必要もない。マスターベーションの方がよっぽど面倒がなくて良かった。
 人は身体を重ねることで何かを得られるという。
 でも、俺は何も得ることが出来なかった。
 それだけでは何も変わりはしなかった。
 そんな本能だけで女を求めるのなら。動物みたいに身体だけで満たされるだけならば、これはきっと恋ではない。

 人間には他の動物とは違って心がある。
 それはきっと、「恋」が素晴らしいものだからなんだろう。

 俺は、強くそれを求めるようになった。
 神聖化したイメージ。きっと人生を変えてしまうくらいに衝撃的なことなのだろう。
 今はそのときではないけど。いずれ俺にもそのときが来るはずだ。
 あの人の言葉を信じるなら。

 だから、名雪と別れた。
 まだ見ぬ運命の人を待ち焦がれた。

 高校卒業と同時にその地を離れた。
 大学生活は新しい場所で一人暮らし。
 大学には今までの人生とは違って、知らない他人がたくさん居た。

 恋愛についてもいろいろな考え方を持ってる人が居た。
 付き合ってからの方がいろいろ見えるものかもしれない。会った瞬間に運命を感じるなんて夢のような話だ。めぐり合う努力をしなくちゃいけない、そう感じた。
 何人かの女性と実際に付き合ったりもした。

「恋なんて自分の理想を相手に重ねてるだけでしょ。それがいつしか失望と妥協に変わって、まぁ、こんなもんかってなるのよね」

 恋はそのうち恋じゃなくなるの。と人生で3人目の彼女が言った。
 恋っていうのはもっといいものじゃないのか?
 そう思っていた俺は結局、どの女性とも別れることになった。

「相沢くんってさ。淡白だよね」
「結局。一度も好きって言ってくれたことなかったね」
「あなたって、心の底から何かを好きになったことってあるのかしら」

 どの別れもあまり悲しくないと感じている時点で思った。
 自分の心の方が壊れているのではないか?
 いつか現れる幻想を見て、目の前にいる異性を愛することが出来ない。
 俺は人として間違っているんじゃないのか?

 いつしか悩みは「恋」に対するものではなく。自分の「心」に関することに変わっていた。

 大学に入って二度目の冬にあの街に戻った。
 名雪は新しい恋人を見つけたと言っていた。相手は見なかったが、デートに出かけるときの名雪の顔は、俺と居た頃よりずっと輝いて見えた。だから、きっとこれで良かったんだと思った。
 そのとき、意識不明だった少女が目を覚ましたことを知った。
 俺は閉ざしてしまっていた記憶を呼び覚ますことになる。
 それは、月宮あゆが俺の目の前で木から落下した光景。
 あゆといっしょに過ごした記憶。
 ない。と思っていた運命の出会いは忘れていただけだったのだ。
 俺は初恋をそこで落としてしまっていたのだ。
 そのときの想いを今では感じることはできなかったが、あゆのことが好きだった。
 その出来事が原因で、俺は人を、異性を心の底から愛することができなくなってしまったんだろう。
 そう結論付けた。
 きっとこれが解決の糸口になる。
 そう思って俺は、目覚めた月宮あゆに会いに行った。
 もう一度、やり直す。
 あゆは俺のことなんか覚えていないかもしれない。
 それでも、会いたい。
 俺の運命と出会いたい。

 あゆは俺のことを忘れていなかった。
 あゆと再会を果たし、俺たちは付き合うことになった。月宮あゆこそが、俺の終着点。本気でそう思った。
 だが、数ヶ月もしない内にそれが勘違いだと気づく。
 あゆのことは可愛いと思う。
 だが、今まで付き合った女性と同じように満たされない何かがある。
 何がいけないのかわからない。
 しかし、失われた記憶があった時期に頼るしか俺には思い浮かばなかった。
 だから、あゆと出会った時期の記憶を思い出そうとした。



 小学校高学年の時の話だ。
 第二次性徴についての授業があった。
 男と女の体の違い。
 男性の生殖器で精子が作られ、それが女性の卵子と結びつき生命が生まれる。
 男と女の身体の違い、子どもの作られ方をはじめて知識として教わる。どきどきもしたし、衝撃でもあった。
 クラスの半分は赤面していたに違いない。
 いずれ身体で実感することになる。そういう年頃だ。人間はそういう風に作られている。

 ちょうどそれくらいの子どもの頃、冬休みにこの街に来ていた。
 夜は秋子さんの作ったおいしい晩御飯が待っている。
 そして、お風呂。

「わたしといっしょにお風呂入りましょうか」

 誘ってきたのは秋子さんだった。
 俺は自分の母親と風呂に入るのは保育園時代で卒業していた。
 しかし、冬休みの度にここにくる度、秋子さんは俺といっしょに風呂に入りたがった。
 母親に聞いたところ、自分の息子が出来たみたいで嬉しいのよ、きっと。と優しく言われた。
 だから、冬にこっちに遊びに来る度、何度か秋子さんと風呂に入ったことがある。
 外見がいくら若くても俺の叔母だ。そして俺は子どもだった。
 秋子さんと純粋に楽しくお風呂に入ることが出来た。それくらい子どもだった。
 しかし、それは去年までの話。
 最近、授業で聞いたあの話。それが今まで意識しなかった性差を敏感に感じさせる。
 断ることも出来ず、いっしょに秋子さんと風呂に入る。
 今までとは違ってどきどきする。
 なんとも思わなかった女性の身体に赤面して、でも目が離せなかった。
 自分の母親とは違って若くキレイな姿を保つ叔母の身体に少し興奮していたのかもしれない。
 俺は必死に悟られないようにするしかなかった。
 けれど、秋子さんは去年までの俺と反応が違うのにすぐに気づいた。
 だから、授業の続きみたいに優しく語ってくれた。

「ちょうどあなたたちの歳くらいから、心も身体もだんだん大人になってゆくのよ。そういう変化に不安も覚えるかもしれないけれど、大丈夫だから。誰かのことを意識したり、すこしえっちなことを考えちゃったりするのも自然なことなの。人間の身体っていうのはそういう風に作られているの。本能なんだから悩む必要なんてないのよ。人間は誰かを好きにならずにはいられない生き物なの。早いか遅いかはわからないけれど、必ずどこかに「縁」が合って、あなただけの運命の人に出会うのよ」

 運命の人。この言葉は秋子さんから聞いたのだと、今更ながらに思い出す。

 もういっしょに入ろうなんて言わないから安心して。と秋子さんはいつもの微笑みをくれた。
 その夜、俺は夢を見た。
 夢の中の秋子さんはふわふわで、気持ちよくて。その身体はとても魅力的で、夢の中の俺は秋子さんの乳房にしゃぶりついていた――

 次の日、目を覚ますと俺の下着は濡れていた。
 この歳になってお漏らしなんかしない。
 初めての夢精だった。

 昨夜、秋子さんは恥ずかしがらなくていいと言った。でも、それは無茶な話だった。
 この下着を見られたくない。何より……初めて見たえっちな夢が秋子さんだったなんて知られたくなかった。
 俺は水瀬家に居るのが恥ずかしくなって外に出た。
 そこで――あゆと出会った。
 秋子さんと顔を合わせたくないから、毎日のようにあゆに会いに行った。
 俺はあゆにどきどきする自分が不思議で恥ずかしかった。
 きっとあの授業のせいだ。秋子さんの話のせいだ。
 そういうことを意識した時期だったからだ。
 きっと恋だと思ってた。縁だと思ってた。

 でも、それはきっと違ったのだろう。



 この10年間、その冬の出来事は全て忘れてしまった。
 あゆのことも、秋子さんがお風呂で語ってくれたことも、無意識下で覚えていただけだった。
 だから、俺が自慰を覚えたときの初めての女性は思えば彼女にそっくりだったのだ。

 生身の女性と身体を重ねるより妄想の方が良いの感じることがあった。
 それこそが俺の理想の恋焦がれた女性だと自覚した。
 そうだ。俺は――あの日以来、ずっと秋子さんに恋してたんだ。



 絶望的な結論だった。
 今でも秋子さんを見るとどきどきする。
 今まで付き合った女性よりも、ただ見ているだけで頬が熱くなってしまう。
 俺の心にはずっとあの人がいて、他の女性を見てても秋子さんを求めていて。
 きっと最初に名雪と付き合うのを拒まなかったのも、秋子さんの娘だったからで、でも、本人とはやっぱり違って、名雪を傷つけて……他にも付き合った女性を全て傷つけていたに違いない。

 俺は逃げるように下宿先に戻った。
 自分の異常性に気がついた。
 世間的、常識的にもおかしいと感じる思いを表に出せるわけはなかった。
 この変態性を隠して生きるしかないと思った。
 けれど、長年の無意識下の理想を簡単に消すことなんて出来なかった。
 俺はまだ、彼女を求めている。
 この気持ちがなくならない限り、俺は恋なんて出来ない。
 誰とも付き合うことなんてできない――

 神様はどうして誰かを好きになる気持ちを人間に与えてくれたのか。
 どうして大半のまともな人の中に、俺のような欠陥が生まれてしまうのか。
 どうして、恋に理屈はないのか。
 その相手は、どうして必ずしも「普通」ではないのか。
 こんな恋なんて少しもいいものじゃない。

 例えば、テレビでニュースを見る。
 世の中でいろいろな犯罪が起こっていることを知る。可哀想だと思いながら、自分じゃなくて良かったとか。こいつらよりはマシだと勝手に思っていた。
 でも、それは違う。俺も一歩間違えればそういう人間の一人なんだ。
 頭の中に「淘汰」という言葉が浮かんだ。
 人間として不出来なモノは気づかない内に世の中から消されてしまうのだろう。
 ニュースで罪を犯すようなやつはそれが表立った例で、知らないうちに俺みたいな欠陥品は淘汰の渦に飲まれてしまうのだろう。
 だから、まともな人間って言うのは、一体なんなのだろうと考えた。

 迷惑をかけない。
 家庭を築く。
 社会に貢献する。

 生きていくためには、もう恋なんてしちゃいけない。家庭を築けないのならそういう気持ちは隠して、立派に一人で働いて、社会に貢献し、人に出来るだけ迷惑をかけない。
 そうしないと生きている価値もない。そうでなければ淘汰されてしまうと感じた。





 それ以来、俺は男女の付き合いをやめた。
 そういう話をしてくる相手には、表面だけは合わせて深く関わろうとしなかった。
 大学を出て、就職をして仕事に専念した。
 職場の付き合いはするが俺のプライベートには他人を極力近づけさせない。
 他人と距離を置くことで友人は減った。けれど、自分の異常性が表に出ないよう気を遣わなくなる分だけ楽だった。
 せめて、こんな俺でも生きていて構わないと認めて欲しい。
 そうでもないと呼吸すら許されない気がした。

 だから昇進の話は嬉しかった。
 こんな俺でも役に立っていると感じることが出来た。
 だが、見合いは駄目だ。
 俺には幸せな家庭を持つことが出来ない。今まで付き合った異性のように相手を不幸にしてしまう。
 心に欠陥を持つ、不完全な人間なのだから。

 俺と藤村は似たもの同志だと感じていた。
 いっしょに居て、俺を脅かせる恋や結婚や子どもやその類の話を全くしない。
 他の周りのようにそういう話を全くしない。
 だからこそ、藤村のことは必要以上に近づこうとも思ってないが、距離を取ろうとは思えない存在だった。
 いっしょに居ても不快にはならない。脅威も感じない。
 彼女は、こんな俺の数少ない友人だと思っていた。

 でも、それも今日で終わるのだろう。
 藤村は俺をそういう対象に見ていて、俺はそうするわけにはいかない。
 藤村を不幸にしたくない。
 幸せになってもらいたい。
 だから理由は話すことなんかできなくて、軽蔑もされたくはなかった。

 無言の時間に堪えられなくなったのか藤村は自分のことを語りだした。
 それは想像もしない内容だった。

「先輩……私、実はおかしい人間なんです」





 自分が選んで付き合ってきた相手が、兄を追い求めた姿だと後で気がついた。
 兄が結婚をすることが決まって初めて自覚した。兄のことを愛していたのだ。
 嫉妬とそれ以上の別の感情が身体を支配して、絶望した。
 今まで付き合ってきた相手に対して満たされない気持ちはそれだったのだ。
 すぐに恋人と別れて、恋をすることをやめた。
 何か別のことに打ち込んでいればそれを忘れられる気がした。
 妹が変態だなんて兄も家族も誰も望みはしないだろう。
 それでもマスターベーションの対象は兄のままだった。
 きっと、この気持ちを隠したままで一人で生きていくしかない。

 社会に出た。
 一つ上の先輩に実の兄以上に、兄らしいものを感じた。
 それは恋心ではない。
 実の兄への思いが恋で、会社の先輩に対する気持ちがまるで世間で言う兄への気持ちのような気がした。
 自分はどこかおかしいなぁ、と笑った。
 いつしか。先輩の存在は実の兄に対する思いに近づいていった。
 
「最初は実の兄を先輩に重ねてるだけだって、こんな思いは嘘だって思いました」

 否定した。
 けれど、想いは消えなかった。
 いつしか、兄の幻想は消えていた。
 妄想の相手は兄ではなく先輩に変わった。

「先輩。人間って誰もが不完全なんだと思います。完全なスタンダードなんかなくて、みんな周りとの違いに苦悩して、生きているんだと思います。だから人って恋をするんだと思います。不完全なものを埋めようとして私たちはきっと生きているんです」

 だから、話してくださいませんか。
 先輩の欠けたものを――私が、それを埋めたい。





 どうして人間には心があるのか。
 人は何故、生まれてきたのか。
 人は何のために、生きているのか。 
 人は何故、恋をするのか。
 
 藤村が言ったことが正しい答えだと確信も出来ない。それでも、最後のチャンスに賭けてみたいと感じていた。
 俺が話す過去に藤村はやっぱり軽蔑するかもしれない。
 しかしそれ以上に、藤村と二人でそれを埋め合うのはとても魅力的だと思った。
 藤村のことを不幸にしたくない。そう強く思うのは何も自己防衛のためだけではないと思った。
 藤村に対するこの思いが、恋かどうかまだわからない。

 けれど……これから、二人で、その答えを見つけ出せそうな予感がした。



















 世の中には常識がある。
 それは世の中の大半の意見というだけの話。
 例えば、性機能に異常を持っていたって。
 禁忌と呼ばれる恋をしていたって。
 本当は生きていていいに決まっている。

「人生の回答なんて、一つじゃなくていいと思うんです。心が目指さす場所はひとりひとり違って当然なんだと思います」

 そんな彼女の笑顔に、今日も救われている。


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