子の心親知らず 親の心子知らず
祐一さんはあの娘のことを乗り越えることができなかった。
あの冬の出来事は小さい子供にとって、耐えられるものではなかった。だから、すべてを封印した。
あの日の悪夢は心の奥底に封印され、この街に戻ってきてもその封印が解かれることはなかった。
きっと、今の祐一さんにも耐えられるものではないんだろう。だから、それはしかたがないこと。
でも、あの冬の記憶と一緒に封印されてしまった名雪の想いは、どこに行けばいいのだろう。
洗い物がすんでリビングに戻ると、名雪がソファーの上で眠っていた。
つけっぱなしになっているテレビには、愛らしい子猫が大きく映し出されていた。きっとこの番組を見るつもりで、途中で力尽きたのだろう。
テレビの上に置いてあるビデオデッキが赤く光ってうなっているところをみると、録画もしておいて後で繰り返し見るつもりだったのだろう。
相変わらず本当に猫が好きなんだな。と、名雪の寝顔を見ながら私はくすりと笑った。
誰も見ていないテレビを消して、自室へと向かった。
部屋に入りベッドの上の毛布を取るとリビングに戻り、その毛布をそっと名雪に掛けた。
名雪の命令で仕事をしているビデオデッキのうなり声と、壁に掛かっている時計の鼓動、そして、くーと幸せそうに眠る名雪の寝息だけがリビングに響いていた。
壁に掛かっている時計を見ると、時間は9時25分を指していた。
ここから香里ちゃんの家まで、確か20分くらいかかると言っていた。
祐一さんが香里ちゃんと栞ちゃんを送って家に戻って来るには、あと20分はかかるだろう。
祐一さんが帰ってくる前に、一息入れておこう。
そう思って、私は名雪のすぐそばに座るとお茶を煎れた。
今日は栞ちゃんの退院記念パーティーだった。それを企画したのは名雪だったらしい。
ぐっすりと眠る名雪の寝顔を見ながら、我が子ながら本当に優しい子に育ったと思う。
栞ちゃんの退院をあんなにも素直に喜べるのだから。
私がこのくらいの年だったら、あそこまで素直に喜べないだろう。
ずっと好きだった人の、彼女になった人の退院を。
姉さんから祐一さんを預かって欲しいと聞いたとき、正直少し迷った。あの冬の日の泣いた名雪の顔が浮かんだから。
でも、その話を名雪に話したとき、それは私の杞憂でしかなかったことがわかった。そのことを聞いた名雪は、本当に嬉しそうな顔をしていたから。
そう、それは幼い頃祐一さんが遊びに来ると知ったときに浮かべる表情と、全く同じ表情だったから。
そのとき私は7年経った今でも、名雪の中に祐一さんへの想いが存在していることを知った。
名雪と祐一さんの話をしながら、名雪のその想いが祐一さんに届くよう、私は祈らずにはいられなかった。
でも、私のその祈りは届かなかった。
新しい日々が過ぎて、祐一さんがこっちの生活に慣れたころ、祐一さんと共に家に来た女の子。
祐一さんの彼女としてやって来た女の子。
それが栞ちゃんだった。
突然現れた祐一さんの恋人に、名雪は何を思ったのだろうか。
その恋人が、名雪の一番の友達の香里ちゃんの妹だと知ったとき、名雪はどう思ったんだろうか。
私にわかったことと言えば、そのことで名雪がかなり落ち込んでいたということぐらいだ。
もっとも、名雪は祐一さんの前ではそんな所を全く見せず、逆に、彼女ことで問題を抱える祐一さんを励ましたりもしていた。
その様子は、駅前でずっと祐一さんを待ち続けていた、あの冬の日と全く同じで、
『わたしが泣いたら、祐一は、もっともっと悲しくなっちゃうから。祐一に、元気だしてほしいから……』
そう言って、泣くのをこらえていた幼い日の名雪そのものだった。
私はそんな名雪をじっと見守っていた。もし、名雪が昏い感情に押しつぶされそうになったら、手をさしのべればいい。そう考えていた。
でも、そんな日は来なかった。落ち込んでいる名雪に気が付き、励ましてくれる友人が名雪にはいたから。
その名前は北川君。他にもたくさん名雪のことを見てくれていた人はいたのかも知れないけれど、私に伝わってきた名前は北川君一人だけだった。
北川君は以前にも何度か話題にあがっていた名前だけれど、頻度はそれほど多くなかった。
でも、祐一さんがこっちに来てから、彼の名前が名雪の口からのぼる回数は、日に日に増えていた。
それがただの偶然なのか、北川君が名雪の事が好きで、アプローチをかけてるのかはわからないけれど、話を聞いてると、二人はかなり仲が良いことがわかる。祐一さんを除けば、間違いなく名雪の一番の男友達だろう。
『香里のことでどうしようか迷っているとき、いつも北川君が背中を押してくれたんだよ』
名雪がそう笑いながら話してくれたのを思い出す。
話を聞いている限り、名雪は北川君のことが好きなようだ。
といっても、その好きという感情はまだ名雪の奥底にあって、名雪自身も気がついていないようだけど。
名雪がその気持ちに気がつかない限り、彼とつきあうことにはならないだろう。
仮に、名雪がその気持ちに気がついたとしても、今のままではその気持ちを殺してしまうだろう。
今の名雪は祐一さんに縛られているから。
何かしてあげられればいいのだけれど、幼いときならともかく、今の名雪に私が口を挟むのは良くないだろう。
こういうとき、親は無力だなと思う。子供に対して見ていることしかできないのだから。
私は小さくため息をついて、名雪をじっと見つめた。
いつも幸せそうな寝顔を浮かべる名雪だけれど、今日は少し悲しそうな寝顔を浮かべているような気がした。
そして、その感想は間違ったものではなかったようだ。寝ている名雪の瞼からひとしずく涙がこぼれたから。
「ずっと待ってるから…………お願い、祐一……」
と言う呟きと共に。
悲しいことに、名雪は祐一さんに縛られている。あの冬の想いを凍り付かせて。
その凍り付かせた想いは、祐一さんの記憶の封印が解けない限り、そのまま凍り続けるのだろう。名雪の心の奥底で。
名雪の祐一さんへの想い。その想いが祐一さんに届かない以上、それは名雪にとって束縛にしかならないだろう。
その束縛――呪縛といっても良いそれを名雪は自力で解くことができるだろうか?
それとも、北川君のような男の子の力を借りて解くのだろうか?
何にせよ、早く心から笑えるようになって欲しい。
私はそう思いながら、こぼれた涙を手でぬぐってやり、名雪の頭を撫でた。
幼い子をあやすように、何度も何度も。名雪の悲しみが少しでも和らぐように。
しばらく名雪を撫でていると、ただいまという声が玄関から聞こえた。
二人を送った祐一さんが帰ってきたようだ。
私はぽんぽんと軽く名雪の頭をたたくと、立ち上がり玄関へと向かった。
「お帰りなさい祐一さん。お疲れのところ悪いんですけど、お願いがあるんですけど、いいですか?」
「いいですよ。何ですか?」
「名雪を上に運んでもらえませんか?」
二階に上がろうとする祐一さんに声をかけ、そうお願いする。
これは、名雪に対するご褒美。今の名雪に対して何もできない私からの、ささやかなプレゼント。
祐一さんの呪縛は名雪にとってすごく強い物だから、本当は良くないのかも知れないけど。
それでも、栞ちゃんの退院を喜んであげられる優しい心を褒めてあげたいから。
そして、少しでも名雪に元気を出してほしいから。
リビングに向かう祐一さんの後を追いながら、私はそんなことを考えていた。
「まったく、しょうがないやつだなぁ」
リビングに入るとすぐに祐一さんはそう言って、名雪を抱えるために腰をかがめた。
いつもと同じように、よっこいしょと言う声と共に、祐一さんが名雪を持ち上げると思っていたのだが、今日は様子が違った。
祐一さんがよっと言った瞬間、突然名雪の方に倒れ込んだ。
何事かと思い慌てて近づいてみると、どうやら祐一さんは名雪に引き倒されたようだ。
びっくりして目を白黒させている祐一さんを、名雪はしっかりと抱きしめていた。
「ねこさんだよー。可愛いよぉ」
という声と共に。
先ほどとは違い、本当に幸せそうな表情を浮かべて名雪は寝ていた。祐一さんをしっかりと抱きしめながら。
「こら、名雪、はなせ!」
そんな祐一さんの声も、全く届いていないようで、
「ねこさんあったっかいねー」
そう言いながら本当に嬉しそうな顔をして、祐一さんに頬ずりをする。
きっと、夢の中で子猫にでも頬ずりをしているのだろう。
「こら、名雪、やめろ!」
祐一さんが制止の声を上げるが、その声はやっぱり届いていないようで、名雪は祐一さんに頬ずりを続けていた。
そんな名雪を見て、私はふと思う。
今はまだ、祐一さんとこういう関係でもいいのかもしれないと。
「了承」
だから私は唐突にそう宣言し、リビングから自室へと向かう。
「了承って、この状況の何を見て了承なんですか!?」
突然出された了承に、祐一さんが悲鳴を上げる。
当然、祐一さんの悲鳴を黙殺して、私はリビングの扉を閉めた。
了承。それは、名雪が祐一さんとしばらくこういう関係を続けて行くということを私が了承したと言うこと。
そしてそれは、二人の関係に口を挟まないで見守り続けるという私の決意でもある。
名雪はきっと自分で立ち直れるし、名雪を見守ってくれる友人もいる。
きっと近いうちに心からの笑顔を見せてくれるだろう。夢の中で猫を抱きしめている今のように。
私は早くそんな日が来るといいなと思いながら、自室へと向かった。
うぐぅと言う祐一さんのうめき声が、閉めたドアの向こうから小さく聞こえた。
FIN
感想
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