しあわせ、もういちど
「会いたいか、会いたくないか。それが距離を決めるんです」
栞は目の前の台詞を口にしてみて、動いていた視線と手足を止めた。
自分に会いたいと思ってくれる人は、どのくらいいるのだろう。ふと、しばらく考えてみた。
しかし、指は一度も動かなかった。悲しいくらいにピクリともしない。
栞にはそんな人がいない。それは同時に、彼女が会いたいと思える人も、またいないということ。彼女には生まれてからこの15年間、恋人はおろか、友人でさえ作ることを許されなかった。
それなら――会いたいと思ってくれる人も、思える人さえもいないと言うのならば、自分は世界中のあらゆる人から距離を置かれている、ということなのだろうか。誰にも気づかれず、心配もされず、何事も無かったかのように消えていっても構わない、と言うのだろうか。
きっとそうなのだ。
そしてそれは、寂しいことだと栞は思う。
例えこの世から消えることになっても、何も感じてもらえない。生きていないことと何の変わりも無い。
いなくてもいい、と言われているようなものだから。
――そんなことを考えて、読んでいた小説を閉じた。風船が割れんばかりに、勢い良く。
その一瞬、時が止まったようだった。夕方の賑やかだった繁華街、その音たちが水を打ったように静まり返り、近くにいた歩行者たちの視線が栞へと向けられる。
「あ……」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
「えっと……えへへっ」
可愛らしく笑ってみたが、逆効果らしかった。さらなる恐怖感を募らせたようだ。皆、足早に彼女の前を過ぎ去っていく。
人々の絶妙な距離感が、自分には本当に遠い。百聞、一見に如かず。えうーと叫びながら、逃げるようにわき道の奥へと走った。
「うう……やっぱり私にはこっちのほうが似合ってますね」
借りていた小説をストールの中にしまい込み、代わりにスケッチブックを取り出した。姉が以前持ってきてくれた小説は、とかく小難しいことが多過ぎる。やはり、もっと単純に表現出来るほうが自分の性格に合っている。
挟めていたペンを取り、ページを捲っていった。そこには、今までに栞が描いた作品がビシリと埋め尽くされていた。名前のわからないような花、窓から見えた風景、白い清潔感のある部屋、そして看護士たちの顔。そのほとんどが病室で描かれたものだ。
後半になると、ようやく街の様子が増えてくる。最近、彼女は外出をするようになった。
そして最後のページに辿り着く。ここだけがまだ、白いままだった。
「んー」
持っていたペンを唇の上に乗せ、栞はしばらくそのページとにらめっこを続けた。しばらくしてもインスピレーションが湧かない。スケッチブックを上に持ち上げてみたり、下から覗くようにしてみたが、それでもダメだった。横からならどうでしょうと意気込んでみたが、ポトリとペンが地面に落ちただけだった。
モチーフは、なかなか決まらない。
その葛藤を彼女はこの数日間、続けている。
「……なかなか決まらないですねぇ」
それまでは毎日一枚のペースで描けていた絵も、最近はきっかけすら掴めていなかった。最後の一枚を何にするかも、まだ決まっていない。今まであんなに簡単に描けていたことのほうが、逆に不思議に思えるくらいだ。
完璧なものなど目指してはいない。けれど、悔いの残らないものを描き上げたい、とは思う。
――これを描き終える頃にはもう、生きてはいられないだろうから。
「よいしょっと」
ペンを拾うために、身を屈めた。最近は雪があまり降っておらず、地面にも細々と積もっている程度だ。足を滑らせる心配も無ければ、ペンを見失うこともない。そこまでは何事も無かった。
驚いたのは、栞の目の前に少女がいたことだ。
そこでようやく、二人の視線が合う。
「わ、わ!」
「う、うぐぅ!」
「あ、あの、す、すいませんでしたっ。わ、わたし何かしたでしょうか――って、あ、あれ?」
互いにその一瞬は混乱したが、すぐにそれも無くなった。じぃと、しばし見つめあう。栞はすぐにその少女のことを思い出していたが、相手は判断に迷っていたようだった。
たまらず、声をかける。
「あ、あゆさん? そうですよね?」
「あーっ、やっぱりキミだ!」
ずっと見てたんだよ、と楽しそうに語る少女。後で訊いたところ、栞が悶絶しているしているあたりから、観察されていたらしい。何でも、怖くて別人かと思ったとか。凄く失礼な話だった。
少女は笑いながら、話しかける。
「ねぇねぇ、ここで何してたの?」
月宮あゆとの再会は、こんな平凡なもの。
運命にも、奇跡にも、ドラマチックにも程遠い。
けれど大切な、再会だった。
§
一通りの自己紹介を終えた頃には、余所余所しさはもう無かった。
「なるほど、じゃあ栞ちゃんは絵を描いているんだね」
「です。でも次のモチーフがなかなか決まらなくって」
「それは何でもいいの? 例えば食べ物とか」
「そうですねー、特にジャンルは制限してないです。これだっ、と思ったものは何でも描いてますよ」
「じゃあたい焼きとかどうかな、たい焼き」
「た、たい焼きですか。どうしてです?」
「おいしいからねっ」
端からは、十数年来の関係に見えたかもしれない。それくらい、二人の会話はスムーズに流れた。
けれど栞は、自分の病気については語らなかった。ほぼ初対面の相手に話すことではないし、説明したところで、余計な気遣いをされるだけだ。それで何回も嫌な思いも、してきた。
しかし、こちらから訊きたいことはいくつかあった。
「今日は祐一さんと一緒じゃないんですか?」
そう言って、すぐに後悔した。あゆが下唇をギュッと咬んだからだ。
形の良い眉が、少しずつ八の字を作り始める。
「……祐一君とは最近、会ってないんだ。なんか忙しいみたい」
会っていない、のフレーズで、栞は先程読んでいた小説を思い出した。
彼女には会いたいと思える人がいる。けれど相手は会いたいと思ってはくれない。栞とは似て非なる境遇に、彼女もいた。どちらが不幸なのかは、栞にはわからない。けれど、そんな風に悩めるのが羨ましかったし――それもまた寂しいことなのだろうと思う。
「じゃ、じゃあ。あゆさんはここで何をしてたんです?」
栞は強引に話を変えた。再会して間もなかったが、あゆの悲しげな表情は、見ていても辛い。
「うん? ああボク? ええとね、探し物をしてるんだ」
「探し物、ですか。それってなんですか?」
「見つけにくいものだよ」
栞は吹き出した。
「鞄の中も、机の中も、探したけれど見つからないんだよ……」
「せ、選曲が渋過ぎです……」
そうかな、と言い、そうですよ、と返す。
しばらく見詰め合って、二人は顔を見合わせて笑った。いつ振りに笑っただろうと、栞は思う。
あまり他人と話すことが無かった彼女も、あゆの人柄は心地良かった。隣にいてくれるだけで、こちらまで元気をもらえるような明るさがある。
それに、あゆはとても近い距離で話している。お互いのパーソナルスペースは、ほとんど零に等しいと言ってもいい。肩と肩は触れ合い、感情の動きが手に取るようにわかる。それが嫌に思わないのも、彼女の性格故なのだろう。
もう少し一緒にいたい。
そう、思ってしまった。
「あ、あの」
「ん? どうしたの?」
友達になってくれませんか。
そう言おうとして。
「――すいません、やっぱり何でもないです」
けれど、栞は踏み止まった。
「何でもないの? 何か言いたそうな顔してるけど」
「はい、何でもないんです。気にしないで下さい」
これ以上、他の人たちに迷惑をかけたくなかった。
彼女の家族でさえ、自分のせいで狂わせてしまっている。父と母は幾度と無く喧嘩を繰り返し、唯一人の姉には愛想をつかされた。それを栞はずっと見て、感じて、耐え続けてきた。それで、せめてもの罪滅ぼしになればと思って。
彼らは誰一人として悪くない。悪いのは、今もこうしてのうのうと生きている自分なのだと、何度も言い聞かせてきた。
理不尽だとは思った。どうして私だけがこんなことに、と泣いたこともある。けれど、自分がいなくなれば全て上手くいくとわかっている。
もう何も望まず、考えず、静かに余生を過ごすことが使命であり、義務なのだと。
そう考えていた。
「あ、そうだっ」
なのに、あゆはそんな栞に優しく微笑む。
「栞ちゃんって、ここによく来るの?」
「え、えと、そうですね。とりあえず、今は結構来てます」
「それならさ、今度から二人で協力するってどうかな?」
「……え?」
栞が心の奥底に仕舞い込んできたものに、光を当てるように。
「ボクは探し物、栞ちゃんは絵の題材。街で会うことがあったら、一緒に探すんだよっ。一人よりも二人で探したほうが、きっとすぐ見つかると思うんだ。これはなかなかナイスアイデアじゃないかな?」
やはり誤魔化すことなど出来ない。
一人は、寂しかった。
「いいん、ですか? 私なんかで」
栞は怯えるように表情を伺う。なのにあゆは「うぐぅ?」と何とも奇怪な声を出し、心底わからないという顔だった。少しだけ首を横に傾ける仕草が、何とも彼女らしい。
「だってもう、ボクたち友達でしょ?」
ほら、それより早く行こうよ。そう言って、あゆは栞の手を握った。話しているのも飽きたのか、早速今から実行に移すつもりのようだった。もう日が暮れ始めているというのに、お構いなしということらしい。
全く以ってせっかちだと栞は思う。
感慨に浸る時間も無いではないか。
「……も、もちろんですっ」
だから、自分からあゆの手を引っ張った。彼女の前を走るためだ。
そうすれば、泣いているところを見られる心配も無い。
嬉しくて涙を流したのは、いつ振りだったのか。栞はもう覚えていなかった。
そうして栞は街で会う度、あゆと一緒にいた。
今まで失っていたものを、取り戻すかのように。
「うん? これは何かな?」
「ストロベリーサンデーですね。前に一度だけ食べたことがあるんです」
「し、栞ちゃん上手っ。とってもおいしそうだねっ」
「えへへ、ありがとうございます」
「特にこの上に乗ってるカボチャとか」
「あゆさん、それイチゴです」
喜んだり、怒ったり、哀しんだり、笑ったり。
たった数日に、いろんな表情が溢れていた。
「うぐーっ! 栞ちゃん、助けてっ」
「はい? ……ってあゆさんっ。後ろの人は誰ですか!」
「ボク追われてるんだよ!」
「ていうかこっち来ないで下さい!」
「説明はあとっ。とりあえずこっちから逃げるよっ」
「ああもう……でもこれも何かドラマチックでありですねっ」
栞は、毎日が本当に楽しかった。
このままずっと続くんじゃないかと幻想するくらいに。
「雪。『き』だよ」
「黄色。『ろ』、ですね」
「ろ、ろ、六っ」
「栗です」
「……さっきから、ラ行が多過ぎるんじゃないかな?」
「気のせいですよ、気のせい」
わかっていたのに。
そんなこと、あるわけが無かったのに。
§
その日は、空がいつもより儚く見えた。
いつもの蒼い晴天に、水で薄めた紅が筆で塗られていく。それは夕日の色だ。次第に、世界は赤く染まっていく。
最初から青い空など、無かったかのように。
そしてそれが終われば、そこにあるのは夜の暗闇だけだ。
同じように、赤を黒く塗りつぶしていく。
そんな風に思うと、自分の境遇を重ねているような心地がする。何となく悲しくなって、栞はそこから目を逸らした。
「あゆさん、今日はこんなのを持ってきました」
湿った感傷を覆い隠しながら、ストールから一冊の本を取り出す。
「うん? 何かな、それ」
「『伊勢物語』っていう小説です。あゆさん、在原業平って知ってますか?」
「……え、偉い人?」
「ま、間違ってはいないと思います、ね」
物語については、特に必要の無い部分だったので、簡単に概要を説明した。姉の影響でいろんな本を読むようになってから、栞の言語機能は飛躍的に向上している。あまり他人と話すことのなかった栞への心遣い、そう気づいたのは最近になってからだ。
けれど、それでも説明には時間がかかった。
「……あゆさん、聞いてます?」
「えっ、あ、ええと……ゴメン。もう一回、いいかな」
「はい、わかりました」
どうしたのだろう、と栞は思う。今日のあゆには集中力が欠けている。
まるで何かに焦っている――いやむしろ、時間に追われている、そんな印象を受けた。
嫌な予感といえば、そうだったかもしれない。けれど栞には、それを詮索したところで答えは出なかった。何でもない、何でもないはずだ、と言い聞かせながら、説明を続けていく。
お互いに違和感を残したまま、そうして今回の中核となる『かきつばた』の部分に至る。
「それじゃあ、初めの文字は決まっていて、そこに意味が繋がるような文章を作る、ってことかな?」
「ですね。例えば、あゆさんの好きな『たいやき』だったら、『た』、『い』、『や』、『き』がそれぞれ文頭に来ます。そこに、思い思いの文章を入れ込んでいくわけですね」
「うぐぅ……難しそうだよ」
「何事もチャレンジですよ。上級になると季語とかリズムもありますけれど、それはまぁ置いておきましょう。ただのお遊びですから、気楽にやればいいんです。さっきので言えば、ええと……『た』のしく、『い』つも、『や』まで、『き』こりさん、とか。そんな感じです」
うーんと声を漏らし、あゆはしばし考えていた。けれど、次の言葉はなかなか出てこない。少し難しい遊びを提案してしまっただろうかと、栞も不安になる。
その不安は、的中した。
「栞ちゃん、ゴメンね。ちょっと思いつかないや」
「やっぱりですか……いえ、こちらこそすみませんでした」
「ううん、いいんだよ。だから、これはボクの宿題。考えておくよ」
――もしまた会うことがあったら、きっと伝えるね。
あゆはそう、笑って言った。
「あ、あゆさん?」
「ボクね」あゆは続ける。「探し物、見つかったんだ」
栞の鼓動は、その言葉で急激に高まる。
それが意味するところを、何となく気づいていたからだ。
「そ、そうですか。……おめでとう、ございます」
「ありがと」
あゆの背後には、今にも沈みそうな夕日がある。
消え入りそうなその橙の光は、この少女も一緒に溶かしてしまいそうだった。
「それでね……もうこの街にはいられないと思うんだ」
何か声をかけなければいけない。
そう思っていても、栞の考えはなかなか纏まらない。
「たぶん、栞ちゃんとも会えなくなると思う」
あゆはまだ、笑っている。
引きつった顔を強引に綻ばせて。
「本当に、本当にゴメンね。……でももう、行かなくちゃいけないんだ」
栞ちゃんと一緒にいた毎日、楽しかった。
そう言って、静かに手を振る。
「あ、あゆさんっ」
何も考えずに、栞はただ叫んだ。
その言葉は、届いたのだろうか。
「ばいばい、栞ちゃん」
瞬間、一陣の風が栞の視界を奪い。
次に目を開けた時には、あゆはもういなかった。
何事も無かったかのように。
この世界から、消えてしまったように。
§
栞は走っていた。
あの後彼女は地面に膝から崩れ落ち、動けなくなっていた。もう会えない、二度と会えなくなってしまうのだと、諦めていた。けれどその足元に、小さな足跡が残っていることに気づく。あゆの足跡だった。
次の瞬間、栞の足はもう動いていた。街中を抜け、辺りは木々に満ち溢れている。知らない道を進むのは不安も伴ったが、それ以上に栞の気持ちを昂ぶらせている想いがある。
このままでは、終われない。
あゆの足跡は、森の奥まで続いている。それを辿っていくと、少し開けた場所に出た。そこからは街が一望出来る。近くには大きな切り株があり、人の手によって伐採されたことがわかる。
栞はそこで、あゆの匂いを感じた。
少女はここに、いる。
「あゆさん? あゆさんっ」
けれど、そこで何の前触れも無く、足跡は途切れていた。どこかへ跳んだ形跡も、足跡を逆に辿ったような細工も一切無い。あるとすれば唯一つ、羽根が生えて飛んでいったとしか思えない程、あゆを追う手がかりはもう無くなった。
息を乱しながら、栞はその場に座り込んだ。ちょうど切り株を背もたれにして、倒れるように。決していいとは言えない体調が、必死に休息を訴えている。空気を求めるように、栞は空を見上げた。
「あ……」
そこで、気づいた。
雪。
雪が降っている。
空から、数え切れない程の雪が地面に舞い降りてきた。
時間の経過とともに、世界が白く染められていく。
木々や地面が次第に輪郭だけを残し、表情を失っていく。
少しずつ、少しずつ消えていく。
あゆがお別れを告げているみたいだった。
あゆが泣いているようだった。
「――そんなの」
栞は声を振り絞るようにして、叫んだ。
「そんなの、嫌ですよ!」
それは、寂しいことだと思うから。
栞はストールからスケッチブックを乱雑に取り出した。ペンを右手に構えて、勢いよくページを捲っていく。
あの日、あゆと再会したその瞬間から、モチーフなど既に決まっていたようなものだった。配置、配分、配色、そんなものはもう関係ない。自分の絵にとってはそんなもの、実に些細な問題でしか無かったし、考えようとも思わなかった。どんなに陳腐で、滑稽で、理解されなかったとしても、いつも信じていたのは自身の感性だけだ。
あと必要だったのは、きっかけ。
それももう、揃った。
「えいやっ」
――それはまさに、一筆入魂という説明が相応しい。
下書きなどは無く、バランスも考えずに、栞はただその絵を描き始めた。
最初に顔の輪郭を、それから髪を加えていく。そこに赤いカチューシャを付けた。続くように、よく似合っていたダッフルコートを仕立て上げ、ミトンの手袋を添える。天使の羽根が付いた、可愛いバッグも忘れない。最後に、いつも溢れんばかりに眩しかった笑顔をゆっくりと描いた。
「……これ、あゆさんですからね。芽の出たジャガイモとかじゃないですから」
そこまでで一度筆を止め、栞は空に向かって語りかけた。大体、ここら辺で余計な一言が入っていたからだ。
ちょうど紙を五分割した真ん中辺りに、彼女が楽しそうに笑っていた。
短い間だったが、ずっと見てきた。感じてきた。
全部覚えている。
「じゃあ、続けましょうか」
再度筆を動かす。けれど、今度はなかなか進まない。手が震えて、前に動かなかった。
身体の疲労は、もう限界を超えている。そろそろ視界も覚束かない。何よりも眠気が酷かった。寒さがそれを助長して、栞の体力と気力を徐々に奪っていく。目を開けているのが、辛い。
「……あゆさん、『ばいばい』って言いましたよね」
だから、独り言を続けた。
彼女に言いたかったことは、何一つ伝えられていない。
「私、その言葉嫌いなんです。なんかこう、もう二度と会えないみたいじゃないですか」
語り出してからは、またペンの動きもそれに習うよう、滑らかだった。向かって左側に、新しく輪郭と髪を描いていく。胴体は、見本が目の前にあるから楽だった。白いセーターに、赤と黒の色合いが綺麗なスカート。膝まであるソックスの下には、まだ新品の匂いが残るローファーを加える。そして、それらを包み込むようにチェックのストールを入れた。
「人って、会えないとだんだんその人を忘れていきます。そうしたくないのに、勝手に消えていっちゃいますよね。……まぁ、私にはそういう大切な人がいなかったので、そんなには困りませんでしたけど」
それが出来上がると、次は空いていた右側のスペースに取り掛かる。ここからは現実に沿う必要は無い。たい焼き屋、コンビニ、雑貨店、学校、住居、それら二人で回った場所を、ランダムに並べていく。そのほとんどは縦長の四角に名前を加えただけでの、簡素なものだ。
それでも、街は確かにそこに出来上がった。
そしていつものように、二人で一緒に遊んでいる風景。
「でも今は違います。私は、あゆさんを忘れたくありません」
残った左側の隅に『思い出』と文字を入れて、その絵は完成した。
すぐにペンを置き、それを空へと掲げた。彼女に見えるように、高々と。何粒もの雪がスケッチブックに吸い込まれていき、紙は小さな波模様をいくつも描いていった。どんどん不恰好な絵になっていく。何がどれなのかの判別さえ、出来なくなるかもしれない。
けれど栞は掲げ続けた。届け、と願いを込めて。
「そしてあゆさんにも、私のことを忘れないで欲しいんです」
自分たちは誰にも気づかれず、心配もされず、何事も無かったかのように消えてしまうのかもしれない。例えこの世から消えることになっても、何も感じてもらえないかもしれない。生きていないことと、何の変わりも無かったのかもしれない。それは、いなくてもいい、と言われているようなものだ。
けれど、それでも、ほら。
絵の二人は笑っている。
「あゆさん、ちゃんと聞いてくれてましたか?」
二人はここにいる。
思い出は心にある。
自分たちは寂しくなんかなかったんだって。
ちゃんと生きていたんだって、胸をはれる。
「……返事、待ってますから」
言い終えて、スケッチブックは栞の足元に落下する。達成感や疲労感が、彼女にしばしの休息を求めている。身体にはかなりの無理を強いてきたのだ、無理もない。むしろ、描き上げるまで我慢してくれたことに、感謝をしたい。
このまま眠りに就いても、また目を覚ますことになるだろうと栞は思う。そうして、あゆがいなくなったことや、自分がこれから向かう結末を思って、肩を落とすだろう。ああ、やっぱり現実だったんだと思って、泣くかもしれない。
けれど、それはそこで終わり。あとは最後の一瞬まで、笑っていようと思う。
あゆが心配しないように。そして、自分が寂しくならないように。
きっと、きっと大丈夫だ。
あゆのように、笑っていよう。
「ちょっとだけ、休みます、ね……」
そうして、栞はゆっくりと目を閉じた。
§
あれからどのくらいの時間が経っただろうか。
空を見上げると、先程と変わらず雪が降り続いていた。視線を地上に戻すとやはり、彼女以外の全てが白く染まっていた。それ程長い時間では無かったように思うが、短くも無かったようだ。首を振って、頭の雪を振り解く。
二つ、変わっていたことがあった。
一つは、自分を包み込んでくれている小さなコート。そのおかげで、栞の身体は雪に埋もれることは無かった。たい焼きとまではいかなかったが、そのぬくもりは温かい。
そしてもう一つは、スケッチブック。
描き上げたあゆの絵に、新たにセリフが付け加えられていた。
小さな吹き出しに、控えめな文字。
それは、あゆからのメッセージだった。
『し』おりちゃん
『あ』りがとう
『わ』すれないよ
『せ』っかく、ともだちになれたんだもんね!
小さな丸文字で四行、書かれていた。
それは、最後に残していた少女の宿題。
「……えっと」
こんな時、自分はどう返したらいいのか、わからない。綺麗な文章なんて書くことは出来ないし、絵を描くにはもうスペースが足りない。
雪が降り積もる中で、栞はしばらく考えた。
じっと、スケッチブックを見続ける。あゆと自分の絵に視線を移し変えながら。
しばらくして、ようやくペンを動かす。
自画像のところにも吹き出しを作った。それからあゆと同じように、文字を加えていく。彼女に負けるのは何かと悔しい気持ちがしたので、文章は五行にした。絵のようには上手くいかず、何度も書き直す。
「――うん。これでよしっ」
それでも何とか、完成した。
『も』っともっと
『う』れしいこと、たのしいこと
『い』っしょに、みつけましょう
『ち』かくにいると、おもってます
『ど』んなに、はなれていても
書き終えて、立ち上がった。茶色のコートを綺麗に畳んで、スケッチブックと一緒に抱える。そろそろ本格的に夜がやってくる時間帯のはずだ。
街に戻って、早くベッドの中に埋まりたい。
そうして今日の日のことを思って、また眠りに就こう。
上手く表せなかったことは、たくさんある。――だからそれは、まだ心の中にしまっておく。そして、また会った時に伝えればいい。コートだって、絶対に返すつもりだ。これはその、約束を形にしたものになる。
二人はお別れなんてしていない。
少しだけ距離が離れるだけだ。
会いたいか、会いたくないか。それが距離を決めるのだから。
またいつでも――逢える。
二人がそれを望むのなら。
「そうですよね、あゆさん」
空を見上げて、そう呟いた。
感想
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