お話をしましょう。
それは何でもない日常のお話。
日常にたくさん埋もれている小さな幸せのお話。
当事者達の間には笑顔が溢れていて、いつか思い返した時にも、自然と笑みが零れてくるような──
そんなお話をしましょう。
あの切なくも悲しく、やさしい想いで満ちていた冬より幾許かの月日が過ぎたある日。
桃色の花びらが舞い踊る商店街の通路を一人の少女が歩いてた。少女は、まるでこの春という季節を現すような、喜びに満ち溢れた顔をしている。
「にっくま〜ん。にっくま〜ん」
「にゃぁ〜」
少女が嬉しそうに突如、奇妙な歌を歌い始めると、まるで少女に追奏するように、少女の頭……ツインテールに結ばれた、その頭頂部に絶妙なバランスで乗っている一匹の猫が鳴く。
「あはっ、ぴろ、春ってポカポカしてて気持ちいいね」
少女の問いかけに、ぴろと呼ばれた猫は「なぁ〜」と気持ち良さそうに返事をする。少女は、ぴろの返答に満足したようで嬉しそうな表情を、より一層深くする。少女の名前は、沢渡真琴。いや、少し違うか。
あの冬の日、真琴は突如皆の前から消えたと思ったら、最近ひょっこりと水瀬の家に帰ってきた。そして身寄りのないと言う真琴を、水瀬家の家主である水瀬秋子が、正式に養子として迎えたのである。だから、今は水瀬真琴。
「にっくま〜ん、にっくま〜ん」
「にゃ〜、にゃ〜」
真琴とぴろは奇妙な歌を合唱しながら、商店街を進んでいく。そうして、ある店の前で立ち止まった。そこは、この商店街に一件しかないコンビニの前。真琴は頭上に乗っているぴろを持ち上げて、自分の眼前へと持ってくる。
「いい、ぴろ。ぴろを連れて中に入れないみたいだから、おとなしく、いつもみたいに鞄の中に入っててね」
その真琴の言葉にぴろは、わかっているのか、いないのかはともかく「にゃっ」と短く返事をする。その返事を聞くと真琴は軽く頷き、肩に掛けている少し大きめの鞄にぴろを入れる。そして、おとなしくしているか、見届けることもなく、店の入り口に進む。どうやらその行動は、もう定番のものらしい。
真琴が店の前まで来るとドアは真琴が手を触れることもなく開く。自動ドアのようだ。真琴は驚くこともなく店内に入っていった。
しかし、今となっては驚くこともなくなったが自動ドアの存在を知らなかった当初の真琴は、それはもう、驚いた。というより逃げた。全力疾走でその場から離れ自宅にまで帰り、ドアを勢いよく開け放つと、水瀬家に養子に入ったことで姉となった水瀬名雪が、ちょうど玄関で靴を脱いでいたので、その背中に思い切り抱きついた。そして、混乱のため呂律の回らない口で説明していると、何事かと2階の自室から降りてきた相沢祐一に大笑いされたという苦い記憶があったりする。
店内に入ると、ドア付近に設置されたレジにいる青と白の縦縞の服を着た若い女性の店員が「いらっしゃいませー」と元気よく来店の挨拶をしてくる。真琴はレジの前まで駆けて行くと、店員に負けないくらい元気な声で話かけた。
「にくまん2つ、ください!」
「え、にくまん?」
店員は、真琴の一言に何故か驚いたような声を上げる。
「あぅ?」
「あ、ごめんね、お嬢ちゃん。にくまんは昨日で販売、終わちゃったんだ」
「ええぇぇっ、なんでよぅ!?」
「うん、もう春だしね。暖かくなってきたから」
「そんなぁ」
真琴は店員の一言に、先程までの喜色満面の表情が嘘だったかのように落胆する。
そうして落ち込んでいた真琴であったが、しばらく経つと、縋るような瞳で店員に再度話しかけた。
「他の所にはある?」
「へ? あ、も、もうないんじゃないかな」
店員の女性は答えてから、しまったと思った。嘘でもなんでもいいから言って、ここはお帰り願うのが無駄なトラブルを省くやり方のはずだ。なのに自分ときたらバカ正直に答えてしまった。しかし、仕方ないではないか。この少女の、まるで迷子になってしまったかのような瞳を見て、一体誰が嘘を吐けるというのだ。
「あううぅぅぅ」
「ほ、ほらお嬢ちゃん。肉まんはないけど、あそこにあるお菓子とかどうかなぁ。とっても美味しいよー」
店員は、真琴を必死で元気付けようとしている。割といい人のようだ。
だが真琴の肉まんに対する想いは、お菓子などでは代替がきくわけもなく、真琴の表情はドンドンと暗くなっていく。というより泣きそうである。現に瞳の端には涙が溜まっている。
「ああ、じゃぁ、お菓子好きなだけ持っていっていいから。お金なんて、もちろんいらないわよ! お姉さんが立て替えて上げる」
どうやら店員は、真琴の様子を見て相当テンパってるらしい。自分がどれだけデンジャーなことを言っているのか、わかっていない。もしここで真琴が「じゃぁ全部」とか言ったらどうするつもりなのだろう。確実に店員は自分を見失っていた。
と、その時、自動ドアの開く鈍い音が微かに店員の耳に届いた。店員にはそのいつも聞き慣れたはずの音が、その時ばかりはどこだかの合唱団が歌う賛美歌のように聞こえたことだろう。店員がドアのほうへ視線を向けると、そこには、歳の頃は真琴と大差ぐらいの少女が立っていた。
店員は、その少女に向けて精一杯の想いを込めた救いの熱視線を送る。普通に考えて客が助けてくれるとは思えないが、今の店員は藁どころかミジンコにでも縋りたい気分だった。ぶっちゃけ店員、かなり必死。すると店員の想いが少女に届いたのか、はたまた神様に届いたのか、先程店内に入ってきた少女は真琴に話しかけた。
「わっ、真琴さん、どうしたんですか? そんな世界の終わりがきたみたいな顔して!?」
「あうぅ、しおりぃ〜」
「と、とにかく、ここから出ましょう。あ、ちょっと待ってください」
そう言って栞と呼ばれた少女は、コンビニの奥のほうにあった冷凍ボックスまで早足で向かうと、冷凍ボックスの中からカップ型のバニラアイスを2つ取り出し向かった時と同様、早足でレジへと戻ってきて、店員にそれを差し出した。
「すみません、これ下さい」
「え、あ、はい」
店員は、渡されたバニラアイスを袋に入れると、それを栞に差し出した。
「えっと、あの、お金……」
「お金はいいのよ」
「え、でも」
「いいの、これはお姉さんからの感謝の印だと思って受け取って、ね」
「はい? あの感謝と言われましても、私、何にもしてないんですけど」
「いいのよ。さぁ、これを持ってお友達を慰めてあげて」
「はぁ……よくわかりませんけど、でもお姉さん、ありがとうございました。それじゃぁ、真琴さん行きましょう」
栞はそう言って真琴の手を引きながらコンビニを後にした。その後姿を見ていた店員は、2人が出て行くのを見届けると胸のあたりで手を組み、天上を見上げて祈った。
「ああ、神様。今まで信じていませんでしたけど、今は神々しく輝いているあなたの姿が見えるようです」
しかし、店員の目に写るのは後光が差した神々しい神の姿ではなく、微妙に薄汚れたコンビニの天井だけだった。
美坂栞はコンビニを出ると、そのまま真琴の手を引いて近くにある公園へとやって来た。そして公園の端にあるベンチに真琴を座らせると自分も真琴の隣に座って事情を聞く。
「一体どうしたんですか、真琴さん?」
「あぅっ、にくまんが〜、にくまんが〜」
「えっと、もしかして肉まんが販売終了してたんですか?」
「あうぅぅぅ」
真琴は栞の言葉に、死刑を通告された囚人のような顔をする。
「あぁ、真琴さん、そんな落ち込まないで。ほら、バニラアイスを食べて元気を出しましょう!」
栞は、なんとか元気付けようと先程買ったバニラアイスを差し出す。しかし、真琴はそれを一瞥しただけで短く「いらない」と答えただけだった。
「ど、どうしてですか!? バニラアイスですよ。とってもおいしいんですよ!!」
バニラアイスを拒否された栞は、まるで車は海を走るものです、とでも言われたかのように驚き、真琴に詰め寄る。そんな栞の様子を真琴は見るとはなしに見ながら、ポツリと誰にも聞こえないような声量で呟いた。
「だって肉まんより、おいしくない」
さて、人間の耳とは不思議なもので遠く離れた人達の話し声は聞こえないのに、それが自分の悪口となると何故か、はっきりと聞き取ることができたりする。まったく、どういう構造をしているのか。まぁ、そこら辺はその内、有名な医学の先生方が立証してくれることだろう。とにかく、真琴はボソリと聞こえないように言ったにも関わらず、栞はその言葉を、はっきりと聞いた。そりゃぁもう一字一句間違えずに聞いていた。どうやら栞の中ではアイスクリームへの冒涜の言葉は自分の悪口を言われるのと同列であるらしい。
「な、なななななんてことを言うんですか!!? そんなことあるわけないじゃないですか!」
「あぅっ、だって」
「だって、なんですか!? ああ、わかりました。どうやら私は真琴さんという人を勘違いしていたようです。真琴さんと一緒にアイス食べるの、とっても楽しみにしていたって言うのに、そんなこと言うなんて!?」
栞は、そこまで一気に捲くし立てると、頬を膨らませて明後日の方向を見る。
「あぅっ、栞、怒ったの?」
「……」
「あの、ごめんなさい」
「真琴さんなんて、もう知りません」
「あうぅぅっ、栞ごめんなさい。なんでもするから許して」
真琴は、栞が今も見につけているストールの端を摘むと泣きそうな声で栞に謝罪した。栞は、そんな真琴の様子を横目でチラリと見ると頬を膨らませたまま真琴に話しかけた。
「ホントに、なんでもしますか?」
「うん」
「もうアイスをバカにしませんか?」
「うん、真琴も栞と一緒にアイス、食べたい」
「じゃぁ、元気出しますか?」
「うん」
「それじゃぁ、許しちゃいます」
栞はそう言って真琴に笑いかけた。
「ホント?」
「はい、もちろんです。それではアイスを食べましょう?」
「うん。あ、そうだ。ぴろも一緒に食べよぅ」
真琴は、そう言って鞄の中で大人しくしていた、ぴろを出すと栞と真琴の間のスペースに置く。それからアイスを受け取ると蓋を外して中身の半分をその蓋の上に載せぴろの前に置き、早速食べようとする。栞も、そんな真琴の様子を見届けると自分も蓋を開け、食べ始める。
ぽかぽかと辺りを優しく照らす太陽。大切な友達と一緒に食べるアイス。それは、とても幸せな出来事。
しばらく2人で、そうしていると、ふと栞が短く声を上げた。
「あっ!」
「あぅっ、栞どうしたの?」
「あ、えっと実は、今日コンビニで買うはずだった物を買うのを忘れていたので」
「あう、ごめんなさい。それって真琴のせいだよね」
「え、そ、そんなことありませんよ。忘れていた私が悪いんですから」
「でもっ」
「でもじゃないです。真琴さんは悪くないんです。それにそんなに気にすること、ありません。またコンビニ行けばいいんですから」
「あ、じゃぁ真琴も!!」
「はい、じゃぁ一緒に行きましょうか。今から行きますか?」
「うんっ、ほら、ぴろも行こ?」
しかし、ぴろはベンチから飛び降りると「僕は先に帰ってるよ」とでも言うように一鳴きして、公園から出て行ってしまった。真琴はぴろのそんな気まぐれさには、もう慣れっこになっているようで別段、呼び止めることもせずにぴろの姿を見送る。そしてぴろの姿が見えなくなったのを見届けると2人はベンチから立ち上がり、近くにあった屑篭に食べ終えたアイスのカップを捨ててから、コンビニへと向かった。
商店街に一件しかないコンビニ。その店内で店員の女性が1人で店番をしていた。しかし、その女性は勤務中にも関わらず客がいないのを良いことに携帯電話で友人と話をしていた。
「だから、何度も言うけど神様はホントにいるんだって!」
『はぁっ? 高々、泣きそうな女の子の相手をしているところに偶然、その女の子の友達が入ってきただけで、何でそうなんのよ?』
「だから、それが奇跡じゃない。きっと困り果てた私を見て、神様が向かわせてくれたのよ」
『やっすぃ奇跡ですこと〜』
「なんだとっ、あんたにあの時の私の気持ちがわかるのかーーー!」
『ああ、もう、あんたは大げさ過ぎんのよ』
「大げさなもんですか。よし、わかった。今度、あの女の子が来たら、あんた呼ぶからね。覚悟してなさい!?」
『はいはい』
と、店員とその友人が、そこまで話したときコンビニのドアが開く、あの鈍い音が響いた。
店員は急いで、携帯を下に降ろして来店したお客さんに見えないようにすると、営業スマイル全開で来店の挨拶をする。
「いらっしゃいま……」
しかし、店員は挨拶を言い終わる前に顔を強張らせ、体を固まらせた。来店した客、それは2人の少女。言わずもがな、もちろん真琴と栞である。店員は油の切れたブリキ人形のごとく持っている携帯電話を耳に当てると電話口の友人に話しかけた。
「あの、来たんだけど。あんたも、来ない?」
『ご免蒙る』
電話口からガチャッという音が鳴り、通話終了を知らせる。店員は、ギギギッという音を立てながら真琴と栞のほうを向き、引き攣った笑みを見せる。
真琴はそんな店員に目を留めると店員の傍まで駆けて行き、頭を下げた。
「あの、さっきは我が侭言ってごめんなさい」
「え、へ、ほ?」
店員は真琴の一言に面食らったようで奇妙な声を上げる。しかし真琴の上目遣いでこちらを伺う瞳を見ると弾かれたように喋りだした。
「や、やぁねぇ、我が侭だなんて、そんなことないわよ。お姉さんは全然気にしてないぞっ」
「ホント?」
「うん、ホントホント。それよりお嬢ちゃんは偉いわねぇ。ちゃんと謝れるなんて。お姉さん尊敬しちゃうわぁ」
「と、当然よ。真琴は大人なんだから」
「そう真琴ちゃんって言うのー。良い名前ねぇ。それで今度はどうしたの?」
「あ、そうだった。栞の目的の物、買いに来たの」
「栞ちゃんって言うんだ、友達はー。それじゃぁ、ゆっくりしてってねー」
「うん!」
真琴は元気に答えると、すでに目当ての品が置いてあるコーナーに向かっている栞のほうへ駆けていく。
「栞、目的の物は見つかった?」
「あ、はい。ここにありました」
「あう? これって手紙?」
「はい、実は昨日テレビでやってたんですけど、日頃お世話になっている人に手紙を出そうって、それを見て私も書きたくなっちゃって」
「ふ〜ん、誰に出すの?」
「はい、まずはお姉ちゃんに出そうかなって思ってます。あの冬の時、辛い思いをさせちゃいましたから」
そう言って栞は目を伏せる。栞はあの冬の時の香里の行動について、もちろん恨んで等いない。むしろそれとは逆に辛い想いをさせてしまい香里を苦しめたことを心苦しく思っていた。あの冬の当事者である真琴も立場は違えど、栞の気持ちは痛いほどわかった。だから、次に真琴の言った言葉も、とても自然で当たり前のことだったのだろう。
「じゃぁ、真琴も書く!」
「あ、それはいいですね。一緒に書きましょう」
「あう……でも真琴、手紙なんて書いたことない」
「大丈夫ですよ。気持ちさえ篭っていれば。でも、そうですね、まずは送る人の良い所を上げてみるっていうのはどうでしょうか?」
今にして思えば、この栞の一言が引き金となったのだろう。
最初、和気藹々とお互いの手紙を送る相手の良い所を言っていたのだが、栞があまりにも自分の姉のことを自慢するものだから、真琴は持ち前の負けず嫌いを全力で発揮し、自分の姉である名雪のことを対抗するように自慢しだした。すると大のお姉ちゃん子である栞も負けじと対抗する。気づけば2人は言い争いを始めてしまっていた。
「ふんだ。私のお姉ちゃんなんて、この前、お姉ちゃんが大切にしていた腕時計、私がほしいって言ったらくれたんですよ!」
「なによぅ、名雪なんか、いつも一緒に買い物に行くと、皆にはないしょだよって言って、肉まん買ってくれるんだから!」
2人の口論は終わらない。肉まんとアイス、どっちも好きと先程言った真琴もこればかりは引けないとばかりに栞に食って掛かる。もちろん栞も引かない。どちらも自分の姉が大好きなため口論は平行線を辿っていた。しかし、2人の言い争いが堪らない人物がここに1人。そう店員である。店員は言い争いを始めた2人を見ると、一目散にそちらに向かい、オロオロしながら場を治めようとしている。
「私のお姉ちゃんは──」
「名雪はねぇ──」
「あの真琴ちゃん、栞ちゃん。2人とも仲良しなんだから喧嘩はダメよってお姉ちゃんの話聞いてる?」
「あなたは私のお姉ちゃんじゃありません!」
「あんたは真琴のお姉ちゃんなんかじゃない!」
店員は2人のあまりの剣幕に口を噤む。もう店員はどうしたらいいのかわからなくなっていた。はっきり言って泣きそうだった。というか、すでに泣いている。
だが、神の存在を信じた彼女を神様は見捨てなかったようだ。
「ちょ、ちょっと栞、あんたなにやってるの!?」
「ま、真琴もどうしたの!?」
ドアの開くあの鈍い音が僅かに店内に響くと同時に店内に入ってきた、2人の女性が言い争いを繰り広げている真琴と栞を止めに入ったのだ。
「あ、お姉ちゃん」
「あ、名雪」
「一体、ここで何してるの!?」
「真琴もだよっ!?」
「えうぅ、だって真琴さんが〜」
「あうっ、だって栞が〜」
「と、とにかく、ここを出ましょう」
「あ、香里、ここからなら、わたしの家が近いよ」
「そうね。名雪の家に行きましょう。行くわよ、栞」
「ほら、真琴も行こ」
先程、店内に入ってきた2人──水瀬名雪と美坂香里は、それぞれの妹の手を引きながら、店員に向かって「失礼しましたー」と言うと、コンビニから出て行った。1人残された店員はレジへと向かうと、そこに置いていた携帯電話を取って、無言でリダイヤルボタンを押す。
『もしもし、今度はなに?』
「やっぱり神様はいるんだ」
『はぁ?』
数ヵ月後、どこぞの協会でカソックを着た店員の姿を見たとか、見なかったとか。
所は変わり、ここは水瀬家のリビング。そこではコンビニから手を引かれて帰ってきた真琴と栞が、未だに口論を続けていた。帰ってきた当初、名雪と香里は止めようとしていたが、現在に至って、微妙に止め難くなってきてしまったため、仕方なく2人の様子をリビングにある椅子に座って見守っていた。一方、口論を続けている真琴と栞は、ここにきてかなりヒートアップしているらしく、もはや自分が何を言っているのか、わからなくなっていた。そうして、姉が見守る中で妹が姉自慢をするという奇妙な空間がしばし続く。
しばらくすると、玄関から「ただいま」という2つの声が聞こえてきた。声の主達はほどなくしてリビングにやってくると、リビングの様子を見て呆気に取られたような顔になる。
「あ、お母さん、祐一おかえり。買い物ご苦労様」
「秋子さん、相沢君、お邪魔してます」
「あ、はい、いらっしゃい香里ちゃん」
水瀬秋子は、そう言いながらも視線は口論を続ける2人に釘付けになっている。
「なぁ、名雪」
「ん? なに祐一」
「あいつら何してるんだ?」
「え〜っと、姉自慢?」
「姉自慢?」
祐一は、何か腑に落ちないものを見るような目で真琴と栞を見る。
「名雪さんなんて可愛くて、足が速くて、プロポーションも良くて卑怯です!」
「なによぅ、香里だって綺麗で、頭良くて、大人っぽくて卑怯じゃない!」
「ねぇ、名雪?」
「なにお母さん?」
「私には、真琴と栞ちゃんがお互いの姉のことを称えているようにしか見えないんだけど」
「俺にも、そうとしか見えないんだが」
名雪と香里は、そんな2人の言葉に顔を見合わせて「あ、やっぱり」と同時に呟いた。つまりはそう、止め難い理由とは、そういう事だった。
それから少し時は過ぎ、真琴が辺りの様子を見回すと、リビングには夕食の支度をしている秋子と名雪の姿しかなかった。真琴は不思議そうな顔で辺りをキョロキョロと見る。テーブルに皿を並べていた名雪がその様子に気づき、真琴に近づく。
「どうしたの、真琴?」
「あう、栞は?」
「栞ちゃんなら、さっきまで真琴と一緒にぐっすりと眠ってたから祐一がおんぶして、香里と一緒に帰ったよ〜」
「あぅ……そうなんだ」
真琴は名雪の言葉に表情を暗くする。
「どうしたの、真琴。悲しそうな顔して?」
「ううん、なんでもない」
「嘘だよ。なんでもないって顔じゃないもん。ねぇ、わたしに話してくれないかな。それとも、わたしじゃ頼りないかな?」
「っ!! そんなことない」
名雪の言葉に真琴は弾かれたように顔を上げて、名雪を見る。
「それじゃ、話してくれるかな」
「……栞と喧嘩しちゃったから」
「そっか。真琴は、栞ちゃんと喧嘩しちゃったことを後悔してるんだね」
「あぅっ、うん」
「じゃぁ、真琴はどうしたいのかな?」
「……栞と仲直りしたい」
「だったら、何をしたらいいか、真琴ならわかるよね」
その言葉に真琴は、しばらく無言でいたが、やがて小さくコクンと頷いた。
「それじゃぁ、栞ちゃん家に電話しよっか」
「あぅっ、名雪」
「なにかな?」
「手、握っててくれる?」
名雪は、その言葉に満面の笑みと共に答えた。
「うん、もちろんだよ!」
そうして、リビングにある電話の前に来ると、真琴は恐々と言った様子でダイヤルをプッシュしていく。ダイヤルを全てプッシュし終わると受話器を耳にあてた。しばらくのコールの後、ガチャッという音が繋がったことを知らせる。
『はい……美坂です』
電話口からは、さっきまで真琴と言い争いをしていた栞の声が聞こえてきた。しかし、その声色はとても沈んでいる。真琴は電話に出たのが栞であるとわかると、泣きそうな顔で隣にいる名雪を見る。それを見て名雪は、握っている手をギュッと強く握り「大丈夫だよ」と短く答えた。姉に背を押された真琴は、恐々とではあるが栞に話しかける。
「あの、栞?」
『あ、はい。真琴さんですか?』
「うん」
『あの真琴さん……今日は済みませんでした』
「ううん、真琴のほうこそ、ごめんね。それで出来たら仲直りしたいん……だけ…ど」
『あ、はい。もちろんです。私も仲直りしたいです』
「ホント?」
『はい、本当です』
「じゃ、じゃぁ、仲直りね!」
『はい!! あ、そうだ。真琴さん、仲直りの印って訳ではありませんけど、当初の目的どおり手紙、一緒に書きませんか?』
「うん、わかった! じゃぁ、明日また手紙、買いに行こうね」
『はいっ!!』
しばらく経ったある日、名雪と香里が学校から帰ってくると自室の机に一通の差出人不明の封筒が置かれていた。2人は封筒を開けて中の手紙を見ると、何度も何度も目を通してから、手紙をそっと皺にならないように胸に抱きしめた。
【香里お姉ちゃんへ
あの冬から早いもので結構な月日が経ちました。私は、もしかしたら、もうこの世界にいなかったのかもしれません。それを思うと今も偶に怖くなります。でも、私はここにいます。お姉ちゃんと一緒に笑っていられます。お姉ちゃんと一緒に……学校へも通えます。私は今、幸せです。
お姉ちゃん、あの時は、悲しい想いさせてごめんなさい。辛い想いさせてごめんなさい。でも、これからは一杯楽しいことをしましょう。一杯面白いこともしましょう。一杯一杯、一緒に幸せになりましょうね。
お姉ちゃんのことが大好きな妹より】
【名雪お姉ちゃんへ
えっと、手紙って初めて書くから、なにを書いたらいいのかわからないけど、でも、ありがとう。真琴を受け入れてくれて、ありがとう。真琴と遊んでくれて、ありがとう。えっと、それから、とにかくいっぱいいっぱいいーっぱい、ありがとう。
真琴は、今すごく幸せ。だから、はるがきて、なつがきて、あきがきて、ふゆがきて、そしてまたはるがきても、真琴は名雪や皆と一緒にいたい。真琴は皆がいれば幸せだから。だからこれからも、よろしくね。
名雪のことが大好きな妹より】
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