過去に捧げるプレリュード


「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」

 放課と相成った図書室、その一角にある長机にて。
 美坂香里は、そう呟いた。

「何だって?」
「だから、円周率が3.05より大きいことを証明しなさい」
「ああ、そりゃ簡単だな」

 突然の問いかけに初めは面食らっていた相沢祐一は、しかし今度は平然と答えた。

「あら。これは結構な難問なのに」
「だってそうだろう? 円周率は3.14なんだから」

 何の躊躇もなくそう言ってのける祐一の得意顔を見ながら、香里は深いため息をついた。

「……本当に受験する気があるのか疑問になるわね。証明の定義から理解が必要なんじゃない?」

 無論、彼の解答が冗談だというのは香里も分かっている。だが『勉強を教えてほしい』と乞われて割いたはずの放課後を、こうやって何度も無為な軽口で浪費されているのだから、少しくらい言葉が尖ったところで罰は当たるまい。
 高校三年の冬。師走を迎えた受験生の一刻一秒がどれほど尊いか。それは目の前の男にも等しく与えられている運命であるはずなのに……と香里は考えるが、さて。

「そもそも、随分前から世の中では『円周率は3』なのよ。3.05より小さいじゃない」
「それはけしからんな。円の何たるかを、現代の子供たちは知ることなく育ってしまうのか。日本の将来が不安だ」
「何言ってるんだか」

 くるくると右手でシャープペンをもてあそびながら、香里は脱力した視線を彼に投げかける。

「3.14だって近似値じゃない。有効数字がいくつなのかという問題でしょう」
「だったらπに統一すればいいんだ。そうだ、π! π! πがいいぞ!」
「ちょ、ちょっと、こんなところでパイパイ言わないでよ! あなた、言ってることメチャクチャよ」
「ほう、じゃあこんなところじゃなければ、パイパイを聞きたいと?」
「殺すわよ」

 香里が頭を抱えるのも、無理はないだろう。

「πは素晴らしい。例えばπ(x)という関数がある。これのxに栞を代入すると、π(栞)=79という結果が得られる」
「あんた……そんなことをよく恥ずかしげもなく……」
「さらにπ(名雪)=π(香里)=π(栞)+4が導ける」
「何を導いてしまっているのよ! っていうかどうして知ってんのよあんた!」
「俺は円周率(パイ)マスターだからな。そして世界中のスーパーコンピューターは、日々このような数値を延々と演算しているわけだ」
「爽やかささえ感じる血税の浪費ね……って、そんなわけないでしょうが!」

 ドン、と机を叩いて香里が祐一の暴走を止める。

「はぁ。相沢くんを見る限り、3.14世代の優位性は皆無ね」
「ぐっ」
「全く。こんな調子で、相沢くんはいつ勉強してるの? あたしにちょっかいかけてる余裕があるならいいんだけど」
「ま、まぁな」
「一昨日、物理の小テストで呼び出しを食らってなかった?」
「ぐふっ」

 たちまち形勢逆転、反論を許されない所を突かれ、たまらず突っ伏す祐一。その哀れな男にどんな感情を抱いたのか、今度こそ香里は海よりも深くため息をついた。

「もう十二月も終わりだけど、大丈夫? 相沢くん、行きたい大学あるんでしょ?」

 香里は呆れた表情を崩さずに問いかけを続ける。だがその言葉には、二人の間にある訳知りのニュアンスが含まれていた。

「勘弁してくれよ〜香里〜」

 西日に染まる机に頬を貼り付けたまま、情けない声で祐一が降伏を宣言する。

「勘弁できないわよ。あなたの身の振りようによって、妹の未来も変わっちゃうのよ。本当、あたしほど苦労してる姉も居ないわよ」

 そして、彼女ほどの姉バカも居ないだろう。

「全く。本当、どうしてこんなことになっちゃったのかしら……」

 その妹が、見ている方が恥ずかしくなるくらい締まりのない顔で、目の前の男とベタベタしていた光景を思い出し、姉の顔が強張る。そしてにわかに表情と精神が加齢する。

「相沢くん、分かってるの!? どうせ栞は、『祐一さんと一緒がいいです〜』なんて理由で大学決めちゃうの分かってるんだから。あなたには滅多な所に行ってもらうわけにはいかないのよ!? それをあなたと来たら……」

 口真似の部分、顔まで栞に似せて言うのだから徹底している。しかもさすがは実の姉妹、とてつもなく似ているのだから始末が悪い。

「志望校は全滅、何浪もするうちにいつしか受験などどうでもよくなって、末には持ち前の適当な口先を活かして詐欺師に……ダメ、リアルすぎるわ。お願いよ、相沢くん。卒業アルバムも開けないような将来なんてまっぴらなのよ」
「うにゅ〜」
「うにゅ〜じゃないのよ! どうして人が真剣に話をしてるのにそんな態度が取れるのかしら。ちょっと相沢くん、聞いてるの!? キチンと座りなさい!」

 窓のさんを指でなぞる姑もかくや。怒号が炸裂する。

「いいじゃねーか。俺たちの愛は永久に不滅です」

 もはや開き直っている祐一。

「くっ……どうしてこんな男に……!」
「それにしてもすごいな、香里。どうでもいいようなキッカケからどんどんエスカレートして、最終的に相手の生き様について語るところなんて、まさに姑の素質を感じるな。キーワードは『そもそも』。気をつけないとほら、目尻が――――」
「キィーッ!」

 生じた隙を見逃してくれる祐一ではない。相手のツボを知り尽くした彼にとって、妹思いの姉をバーサーカーへと変貌させるなど造作もないことだ。

「挑戦と受け取ったわ。いいでしょう。あなたがあたしをそういう風に仕立て上げたいというなら、そうなってあげましょう。姑! 結構。鬼ばかりの世間、結構。七三分けの似合う男になるまで、あんたに学問の、いえ、人生の何たるかを徹底的に叩き込んであげるわ」
「え、ちょ、おま」
「これはあの子のためでもあるんだから。あの子は一見ぽややんとしてるように見えるけど、っていうか実際してるけど、やらせれば出来る子なのよ。あの子のためにも、あなたには上を目指してもらわないと、中途半端な大学では役不足よ。いっそのこと栞がアメリカの大学にいくことも視野に入れて、相沢くんは一足先にニューヨークのスラム街に行って、サバイバルを通して人生を学んでもらうべきかもしれないわね」
「いや、しかしだね、香里にも自分のやるべきことが」
「聞こえないわね。老いた姑の耳にそんなさえずりは、断じて」

 調子に乗って逆鱗に触れてしまった罰ということだろう。先に立たないから後悔。祐一はその身をもって、彼女の妹溺愛っぷりを味わうことになる。

「ついでに北川くんも更正しましょうか。己を変えるにはまず環境を。くだらないことにだけ燃え上がる情熱をそのままにしておくのはもったいないわ」
「そんな、お手をわずらわせるわけには……」
「何を言ってるの? これはあなたのためでもあるけれど、再三言うけれど、ひいては栞のためなのよ。妹の彼氏が二束三文の馬の骨では、姉として情けない。これは必要なことなのよ。そしてあたしのためでもある。頼もしい友人がいないなら、作り出すまで」

 どうやらこのままでは、熱弁を振るう香里は止まりそうもない。
 だがその不毛な一方通行の話に終止符を打つべく、祐一がボソリと一言放った。

「そんなにプリプリしてると、πがしぼむぞ」
「――――――――」
「――――――――」

 世界は割れ響く耳鳴りのようだ。








「わはははは。傑作だったな」

 暮れなずむ校庭を、のらりくらりと歩く影が二つ。

「あの図書委員、完全にびびりあがってたぞ。貫禄ってやつだな」

 本を探していた人はもとより、受験勉強の場を求めて図書室に来ていた者にとって、先程までの香里たちは迷惑以外の何ものでもなかっただろう。何デシベルとかそういう問題ではなく、神聖な学び舎の一角で死闘を繰り広げてしまったのだから。
 場の静謐を守ることが図書委員の任務とはいえ、まるで文化系の権化のようなその眼鏡っ子にとって、それを止めに入ることは稀代の試練だったことだろう。

「あなたが変なこと言うからでしょう!」
「いや、ナイスファイトだった」
「クラスの子も居たわよ。明日からあたしはどの面下げて学校に来ればいいのよ……」

 悪びれない祐一の態度に、もはや香里は感服さえしていた。
 器が大きいというか、底が抜けているというか。

「あなたといると、知らないうちにとんでもないことが起こるから怖いわ」
「失礼なやつだ」

 サクサクと新雪を踏みしめつつ進んでいく。今は雪は降っていない。厚い雲の隙間から覗く斜陽が、二人の制服を朱に彩った。うろこ雲にその色が染み込んで、さながら幻想的なシアターだ。何もかもが朱い世界。
 しかしやがて、釣瓶は落ちていく。

「……慣れたものね」
「ん? 何がだ?」

 文脈のない疑問は、もしかすると彼女の癖なのかもしれない。それを今日は、決まって祐一が聞き返していた。

「今月で一年でしょう。相沢くんが越して来てから」
「ん、ああ。そうだな」
「最初は寒い寒いが口癖だったのに、慣れたわね」
「いやまだ十二月だしな。先のためにその言葉は取っておいてるんだよ」

 クスリ、と美坂香里は笑う。

「ホント、口が減らない人ね。栞のこともそんな感じで懐柔してるのかしら」
「人聞き悪いな」
「……ね、相沢くん。ちょっと付き合わない?」

 その言葉に、祐一はビクリと香里の表情を覗いた。そして『いや、俺には栞がいる』と口にしようとして――――馬鹿だと思った。

「勉強見てあげたんだから、送ってくれるぐらい構わないでしょ?」
「あ、ああ。そうだな」

 夜の帳が降りていく。



「一年といえば」

 歩き慣れない他人の帰り道を新鮮に面白がりながら、祐一が呟いた。

「香里のイメージも随分変わったよな」
「誰のせいかしらね」

 さっきの一幕をまた揶揄されているのかと、香里が悪態をつく。

「いや、そうじゃなくて。そうだな……例えばさっきの事件も、確かに昔の香里ならあり得なかったしな」
「全然そうじゃなくないじゃない!」
「そういえばそうだな」
「……もう勝手にしてよ」

 熱くなりかけた香里だったが、もはや気力をそがれたようだ。

「俺が言いたいのは、うーん、明るくなったなってことだよ」
「……そうかしらね」
「そうだ」

 そこで言葉がやむ。それは一方が相手の傷の深さを、もう一方がその配慮の距離を、互いに測っている証拠だった。

「栞、いつも元気だぞ」

 やがてそんな駆け引きは自分に似合わないとばかりに、祐一は切り出した。

「だが実際、栞の体調はどうなんだ? この前、俺の手で確かめてやろうと思ったら張り倒されたよ」
「俺の手って……。あなた、ホント普段何をしてるのよ」
「いや、もう隅々まで知り合った仲だしな」

 香里が語尾の掛詞に気づかなかったのは、祐一にとって幸運だった。

「普通、姉の前で言わないわよ……全く」

 そんな祐一に、日々『らしさ』を感じているのだから、香里の心情も複雑だ。

「健康面は、浮き沈みがあるけど、全体として回復してる」
「そ、そうか。それはよかった」
「精神面は……あなたの方がよく知ってるんじゃない? 悔しいけど」

 本当に悔しそうな表情で、祐一をチラリと見る。

「大体、あたしにいちいち聞かなくてもあの子に聞けばいいじゃない。隅々まで知り尽くした仲なんでしょう?」
「う、いや、その、な」

 祐一はざっくばらんに振る舞っているくせに、実はものすごく奥手だ。それに香里は既に気づいていた。そしてそこを突くたびに主導権を取り戻せることにも。

「もしかしたら強がっているのかもしれないじゃないか」

 こと栞の強がった振る舞いについて、祐一は自信がない。それを見抜かせまいとする彼女の精神力としたたかさは、まさしく一年前に体験済みだ。仮面の下に隠された悲痛な表情の可能性に、祐一は恐怖さえ覚える。不安なのだ。

「その心配はないと思うわ」

 無責任なことを言ったのではない。確かに栞には、周りを全て騙し込んでしまうほどの器量がある。見えないどこかで苦しんでいるのではという一抹の不安がないわけはない。
 が、根性ではどうにもならない医学的な数字を、栞は日々更新している。香里にとって、妹の泣き顔が今この世のどこにも存在していないと信用するのにそれは十分な指標といえる。

「そうか。それならよかった」

 肉親の言葉で、彼はようやく安堵できたようだ。
 その様子を見て、香里は思う。

「へたくそね」
「何がだよ」
「あんたたちのことよ。相手を気遣おうと無理して、その場は凌げたとしても結局こうなるんだから。アクティブな意味で相手が自分を騙してるんじゃないかって、不安が常にあるんでしょう。中途半端に崇高な恋愛してるからそんなことになるのよ」
「…………」
「それだけ相手のことが好きなんだから、もう一歩先の信頼関係に踏み出せばいいのに、相手に遠慮しすぎて二人三脚ができない。お互いが優しすぎるのよ。そしてへたくそ。自分が相手の思惑通りの受け取り方をしてしまっているという疑いがあるから、構造的に、幸せな感情にはいつも影が付きまとってしまう。どう?」
「香里……」

 祐一が歩く足を止めて、ズイと香里の前に乗り出す。

「な、なによ」
「……難しくてよく分からないな」

 今、美坂香里はどんな表情でその男を見返しただろう。
 説教をしてやるつもりだった彼女だが、すっかり毒気を抜かれてしまった。

「そ、そう。要するに、あなたたちはお互いに不器用ってことよ」

 気を取り直して香里は歩き始めた。祐一もそれに続く。

「不器用か。それは確かに納得いく」
「でも、むしろそれがいいのかもね……」

 はぁ、と香里。

「またため息か。まるで」
「言わなくていい」

 ギラリと鋭く睨みつけて黙らせる。

「そりゃため息も出るわよ。誰のせいだと思ってるの……。あなたがしっかりしてくれないと、」

 してくれないと、どうなるというのだろうか。その先を彼女は躊躇い、息を呑んで渋った。
 だが祐一は、それに気づかずに言葉を継ぐ。

「分かってるって。そのために、今日だって香里に教えてもらいに行ったんだぞ」

 そうだった。気の合う仲間が集まった一年前、しかしにわかに祐一には栞という大きな絆を持った相手ができた。
 祐一、友人の北川、いとこの名雪、その友人の香里。そこへ栞という新要素が加わり、調和はたちまちのうちに瓦解した。
 何、嘆くべきことではない。友情が脆かったわけではない。ただ問題は、それによって祐一から一歩距離を取らざるを得ない、姉やいとこという間柄だった。
 疎遠では決してない。だが意図して距離を取るのだから、自然と機会は減っていくものだ。
 つまり、今日のような機会は二人にとって、不自然なことではないが珍しいものだった。

「邪魔ばかりして、進んだとはとても思えないけれど」

 だが、こんな言葉の一つ一つがいつの間にか懐かしささえ覚えるものであることを香里は思い出していた。
 一年と彼女は言ったが、それは目まぐるしく、濃密な時間だった。彼女の中にあった積年の問題が一気に清算されていく。それほどに壮大な時間だった。
 次々と彼女を、彼を、忙殺する時間の潮流があった。その中で、概して彼女らは幸せだった。例えば香里にとってみれば、愛する妹の予後に不安材料はなかったし、色んなことで他人に遅れを取っていた栞の一つ一つを取り戻していくために世話を焼くことは、彼女が長く夢見た最高の日常への架け橋だった。
 だがその一方で、あるべき完成図に向かって仕事をこなす作業員のような、透明で乾いた感情も同時に、香里に内在していたのだ。
 彼女は熟考する。美坂香里は確かに、美坂栞の健やかな日常を願った。そしてこの後に逆接など続かない。
 彼女は思い出す。薄暗い、活気のない家の中を。綻びだらけでボロボロな家庭を。この関係が明日、どうなっているのか分からない不安感を。
 戻りたいはずはない。もし、いたいけな妹を責めるものが形ある敵だったなら、即座に彼女はそれを殺しただろう。そういう水準の決意を、彼女は幼い頃に固めたのだ。
 だが今や病魔は去った。見えない敵は死んだ。死の淵にありながら誰よりも生を謳歌していた栞が、こうなってもはや下を向くことなど考えられない。
 来たのだ。勝ち取ったのだ。そしてこれから先には希望しかない。美坂香里はそう確信するのだ。

「いや、助かったよ。ホント今日はありがとな」

 しかし、欲望とはつくづく相対的なものだと香里は実感する。何気ない日常を嘆願した自分は、浅はかだっただろうか。心地よい幸せに包まれながら、どこかに隙間風を感じている自分は、貪欲なのだろうか。

「また今度よろしく頼、あっ」
「……雪ね」

 もう太陽は地平の彼方に沈んでしまっていた。光の余韻が遠くでどこかを照らすが、もう既にこの辺りは闇の中だ。そして空を覆う分厚い雲からは、チラホラと雪が降り始めていた。

「寒いな」
「あら。その言葉は取っておくんじゃなかったっけ?」
「そうだな……忘れてた――――寒っ!」

 一陣の風が二人の間を吹き抜け、祐一は大げさに寒がって見せた。

「あー、この分だとクリスマスには雪だらけだろうな。嫌だな」
「いいご身分ね。受験生にクリスマスも正月もないはずなのに」
「いやぁ……俺にはなくても、あいつにとってはあるからな」

 香里が、祐一の横顔を盗み見る。

「プレゼントとか、考えてあるの?」
「ん、別に」
「呆れた」
「甘いものが好きだろうから、その辺のケーキでも買ってやろう」
「最悪の発想ね」
「いや、隣町に最近新しいケーキ屋ができたらしくてな」
「へえ」
「そこで食べ放題って感じかな」

 甘味処には疎そうな祐一にしては調べてある。
 それはやはり、それだけ――。

「ま、あいつのリミットならン千円もかかるまい」
「……本当に最悪ね」

 そして、本当にいつも通りだ、と香里は思う。
 飾らない正直な言葉があって、荒削りな優しさがある。それにもたれかかって、言葉を投げつけ合うのを、香里はとても楽しいと思っていた。
 二律背反というべきか。等しく愛すべき二つの対象は、だが両立ができない。栞の幸せは香里の幸せでもある。しかし、香里の幸せが栞の幸せとは限らない。
 いや、何が二律背反なものか、と香里は自戒した。
 願っていたことが叶って、何が心残りになろう。つつがない日常は、今も昔も変わらない悲願に違いないのだ。そこには何も誤りなどないはずなのだ。
 そう。それを確信して、美坂香里は宣言する。

「さよなら、相沢くん」
「え?」

 突然の香里の言葉は、祐一にとって慣れたもののはずだった。
 が、言葉の内容に、祐一は面食らっていた。

「え、じゃないわよ。あたしの家は、ここだから」

 言われて祐一が香里の方を見ると、なるほど、彼女の後ろには美坂家があった。

「送ってくれてありがと。道中は暗くなってたから、助かったわ」
「わははは、香里がそんなの心配するタマか。逆に財布が分厚くなってお帰りましましてそうだ」
「へえ。じゃあ早速やってみようかしら」

 ズイと前へ出る香里に、慌てて祐一が逃げ出す。

「じゃ、じゃあなーー美坂! 今日はサンキュな! また明日!」
「あ、うん。また明日」

 その足で帰路につく祐一。
 そんな去り際が予想できなくて、香里はやや呆然としたままそれを見送った。

「傘ぐらい持っていけばよかったのに……」

 段々と強くなってきた吹雪が、走り去っていく祐一の姿をかき消していった。

 ヒュウヒュウと冷たい音を立てる風と雪が、香里の身体に降りかかる。それは、今しがた訣別したばかりのクラスメートが空けていった穴へと吹き込んでいくようだった。
 今でも彼女は自分の誓いが間違っていたなどとは思っていない。尊ぶべきもの、その優先順位、位置関係、意味付けなどは、決意を固めた時といかほども変わらない。
 ただ一つ。そう、唯一の誤算は、ひたむきで幼い彼女が予想できるはずもなかった、未来の自分が抱く淡い恋心だったのかもしれない。
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