fox in the snow , where do you go
to find something you can eat?
駅前の歩道橋の階段を転げ落ちて怪我をした。
といっても軽い打ち身と捻挫が数箇所あるばかりで、複雑骨折などの重い傷はなかった。鼻血が止まらなかったので折れたのかと思ったが、「折れても問題はないでしょうね」と言われ安堵した。実際折れていたのだけれど。
「お前、びっくりしたよ。いきなり転ぶんだものよ。オレ、一瞬息できなくなったもん」
いやいや北川君、息できなくなったのはお前じゃなくて俺なんだよ。段差に背中をしこたま打ちつけながら俺は階段を落ちた。背骨が折れたらどうなるのだろうという不安はなく、あーあ俺何してるんだろうという疑問だけが胸の内にあった。上空は真っ青だった。無力な俺を馬鹿にしているみたいに。
しかしながら肩を並べて歩いていた北川のお陰で軽傷で済んだのかもしれないかと思うと、にやにや笑って見舞いに来る北川を無下にはできないし、そもそも親友と呼んでも差し支えない間柄である。俺は口を尖らせてはいるが、結局は嬉しいのである。
「でも相沢らしくないよな。躓いたの?」
「誰かが背中に触ったんだよ。だから驚いて踏み外したんだ」
「いや、ありえないから。オレとお前しかいなかったじゃん」
確かにあの歩道橋を渡っていたのは俺と北川のみであり、他に人の姿はなかった。しかし確かに誰かが俺の背に触れたのである。まるで久方振りの邂逅に思わず手を伸ばしたような、そのような軽い接触だった。小さく温かい手のひらの感触が俺の肩甲骨に残っている。
そしてそれが俺の背に触れた瞬間、俺はあぅという吐息とも嗚咽ともつかぬ声を確かに聞いた。
まことだった。
風が俺の髪を引っ張った、ような錯覚を抱いた。いたずらっ子のように。いたずらっ子という言葉はある少女を連想させる。気持ちをすぐ表情に出す少女だった。彼女の髪の毛は草原の香りがした。そんなことを覚えている。
俺は小高い丘に寝転がっている。何をしているというわけでもない。放課後だった。級友たちは大学受験という人生の第一関門に果敢にも挑んでいて、もちろん俺も同じ状況にいるし、従姉妹の名雪もそうだ。しかし全てを奉げようという気力が湧かず、俺はただ無人の芝生に背中を預けているのである。まるで永遠に続くモラトリアムに囚われてしまったかのようだった。
というのも俺が愛した少女がいなくなってしまったからである。比喩ではない。文字通り、霧のように消えてしまった。俺の目の前で、彼女はいなくなったのだ。この場所がそうだ。俺は彼女を吸い込んだ丘にいる。空に雲はなかった。もうすぐ本格的な夏が始まる。雪国とはいえ、夏は夏なのだ。暑いだろう。
俺の真っ白いワイシャツをテントウムシが這っていた。つまみ上げようとすると羽根を広げて飛んでいった。自由でいいなと思ってしまう。翼があればなどとは考えない。俺が後悔しているのは、しっかりと手を掴んでいれば、彼女は消え失せなかったのではないのかということだ。一体どこに行ってしまったのか。俺には想像もつかないのだが、彼女はこの世に確かに存在しているのだという証として、俺が彼女の手首や肩や背中を離さずにいれば、あるいは彼女はこの世にとどまっていられたのかもしれないという甘ったるい願望があるのだ。
真琴。俺は彼女の名を呟く。何。脳天気な答えが返ってくるようなことはない。俺は無力だ。いつだって何もしてやれないのだから。
歩道橋転落の結果、俺が得たものは数箇所の打撲と捻挫、そして鼻骨骨折だった。
春に進級し二年生になった天野美汐は物静かな女だが、出会った当初に比べると幾分か饒舌になったように思える。学校では友人と仲良さそうに会話をしているところを見かける。そのせいか、疎遠になっている。もちろん俺には受験勉強があるのだから、当然といえば当然なのかもしれない。こうやって人は出会い、別れていくのだろう。
と、しんみりした夜に天野から電話がかかってきて、明日会えないかと訊ねられた。大丈夫だよ。そう答えると、心なしか明るくなった声色で、では明日、と言うのだった。
大丈夫。俺は天野にそう答えたのだったが、翌日になってみると、一体何が大丈夫なのかわからなくなってしまっていた。確かに予定はない。彼女と会うことはできる。しかし俺は本当に大丈夫なのだろうか。現状を省みるに、ちっとも大丈夫ではない。
それでもそう返答してしまったのだから、彼女に会わなければならないのだった。俺は昼過ぎに家を出た。水瀬家に厄介になって数か月が経過している。この町での生活にもすっかり慣れた。
こんにちは。
いい天気ですね。
ええ。もうすぐ夏ですね。
やっぱり暑いんですか?
ええ。暑いですよ。なにせ夏なんですから。
ですよね。
すれ違う人に声をかけると、愛想のいい笑顔で言葉を返してくれる。俺は近隣の住民ともすっかり顔馴染になっている。いい人ばかりであると思う。この町には不満なんてない。
不満があるとすれば、俺自身なのである。宙ぶらりんの状態のまま見て見ぬふりをしようとしている自分は愚かで、ばかばかしい。真琴はいないのだ。通行人の中に彼女の姿を探してしまう自分の無様さが嫌になる。
ものみの丘にある最も大きな岩に天野は腰かけていた。茶色のブックカバーをつけた文庫本に目を落としていた彼女は芝生に吸収されてしまう俺の足音に気付かない。俺は彼女の名を口にする。あ。天野の唇が円を作った。相沢さん。彼女のひきつったような声を聞くのはめったにないことだ。驚いているのだろう。俺は口元を緩めた。
驚かせないで下さいよ。
いや、声かけただけなんだけど。
そうですね、と天野が笑う。出会った頃は笑顔にさえ影がさしていたのだが、今ではその痕跡も見られない。どこにでもいる普通の少女だ。かすかに吹いた風に髪の毛の襟足が揺れた
俺たちは見つめあったまま、何故だか言葉を発せずにいた。ときが止まったかのような錯覚さえ覚え、息苦しさがつのるようだった。
天野。俺はそう言おうとする。用事でもあったのか。昨晩の電話では彼女は俺にどういう用件があるのかを言わなかった。もちろん用件がなければならぬというわけでもなく、例えようもなく、暇つぶしの相手にするために呼び出されたのだとしても、俺は一向に構わないのだ。俺にとって人生とはそのような無駄そのものなのだから。
天野。ようやく俺が声を発したのはどこかから獣の叫び声が聞こえたときだった。硝子に亀裂が入るみたいに、停止していた俺たちの鼓動が現世に戻った。天野は頬を紅潮させ、照れくさそうに顔を伏せた。
すいません。
なあ、天野。何か用でもあったのか。
彼女は答えない。立ち上がって背を向けた。絹糸みたいな髪の毛が俺の鼻をくすぐり、こそばゆさを覚えた俺は顔を背ける。
歩き出した彼女の後ろを追う。ついてきて下さい。天野は静かにそう言った。俺は何一つ言い返さずに、従っている。何も訊ねず、無言のまま森を歩く。誰かが見ていたら、不審を抱いていたかもしれない。俺たちの道行は葬式みたいで、陰気臭かった。なあ天野。耐えきれなくなったおれが声をかけると、彼女は立ち止まる。しかし立ち止まったまま動かないので、俺は彼女の肩越しに向こうの景色を見た。
森の中に小屋のようなものがあって、そのすぐそばには大きな木が生えており、枝から縄と板切れで作られたブランコがぶら下がっているのだが、縄は切断されていて、潰れかけたような小屋の中は夜盗にでもあったかのように荒れ果てている。
天野、何だよ、これ。
俺が問うと、彼女は今度ははっきりとした声で答えるのだった。
昔、私がよく遊んだ場所です。秘密基地だったんです。
秘密基地。今の天野の雰囲気に秘密基地という言葉ははっきりいって似合わない。しかしながら俺は幼き日々の彼女を知らないし、きっと今の落ち着き払った天野にも暴れたい盛りの幼年時代があったのだろう。
俺は小屋の中に足を踏み入れた。きっと森の中で拾い集めてきたのだろう。床には萎びた枝や枯れた花が散乱していた。カビだらけの机に置かれた透明のプラスティックケース中でかぶと虫がひっくり返っており、金魚鉢のような形状をした硝子の置物は割れて崩れていた。
思わず、ひでえ有様だなと口にする。すると外からええ、ひでえ有様ですねと答えがあった。窓枠だけになっているところから顔を出すと、天野は板切れを拾い上げている。地面にあるときは気付かなかったが、板の裏面には苔やきのこがびっしりと生えていた。
片づけに来たのか? 俺を手伝いにしようと……
違いますよ。
にべなく、彼女は俺の言葉を遮る。では一体どういうつもりなのだろうか。俺は小屋の中にあった椅子に腰を下ろし、思案にくれようと思ったのだが、木製の椅子の足は腐敗していたようだった。俺が腰を下ろした途端に豆腐みたいに崩れ、俺は埃や泥でいっぱいの床に倒れてしまう。笑い声がした。小屋の入り口に天野がいて、俺を見下ろしている。
何だよ。笑うなよ。
え? 私笑ってませんよ。
確かに天野は心配そうな顔で俺を見下ろしていたのだった。
天野が持っていたトートバッグの中にはスポーツタオルがあった。俺がこのように汚れてしまうことをあらかじめわかっていたような用意周到さである。俺はそれをありがたく借りることにした。しかし前述の疑いは割と真剣に抱いたものである。ハンドタオルならまだしも、スポーツタオルはなかなか持ち歩かないだろう。
俺たちはすぐ近くにある大きな岩石に肩を並べて座っていた。幼い天野がここで遊んでいたときからあったのだという。ブランコや小屋は時間によって消え失せるだろうが、自然が現出させたこの巨大な石は何十年立ってもこの場にとどまるのだろう。ざらついた表面はすこぶる冷たく、夏の暑さを少しだけ癒した。
この小屋を発見したときは私はあの子と一緒でした。
持っていた飲み物で喉を潤した天野は唐突に語りだした。あの子というのは天野にとっての真琴のことだろう。俺はあえて口を挟まず、彼女の語りを聞くことにした。天野は俺ではなく、真正面に広がっている深い森を見ていた。まるで誰かが現れるのを期待しているかのように。
子供の好奇心を満たすための探検。それが私たちの夏のテーマで、そのときの私たちがこの場所についたとき、もう何十マイルも歩いてきたような疲労感があって、それでも見つけたものが大きな充足感を与えてくれたんです。
マイル? おいおい、何で単位がマイルなんだよと聞いてしまいそうだったが、俺は黙っていたのだった。
私はあの子と何度も遊びに来ました。あのブランコも二人で拵えたものなんです。でもあの子の体力はどんどん弱まっていきました。
俺の心臓が大きく跳ねた。つい数ヶ月前の出来事を思い出す。自分の名前も箸の持ち方さえも思い出せぬほどに弱りきった少女の姿は鮮烈に残っている。目を閉じるとより鮮明になり、まるで瞼に焼きついているようである。真琴。お前のことだ。俺は心の中で呟く。
直に歩けなくなるほどになって、もう私のこともわからないんです。最期は私はあの子をおぶっていました。どうしても二人だけの秘密基地に来たかったんです。どうしてでしょうね。どうしてそんな無茶をしたんでしょうね。そのことであの子に余計な負担がかかったのかもしれません。あの子はちょうど丘の上で、私の肩から消えました。圧し掛かっていた体重が消えたというのに、私は耐えきれなくなって地面に倒れ込みました。草原が残酷なくらい柔らかかったと今でもはっきりと覚えています。
朴訥と話を続ける天野は目線を動かそうとしなかった。俺も真似をするように、彼女の顔ではなく正面を見ていた。耳だけを彼女に向けた俺はまるで何もない虚空に存在しているような錯覚を抱いた。時折聞こえる鳥の鳴き声や樹木の震えが彼女の物語に彩りを添えた。俺自身もそのときの丘に、森に、小屋にいたように思えるのだった。彼女の唇を通り抜けて。
それから私は一人になりました。父も母もいましたし、友達だっていました。でもあの子の存在は何事にも変え難いものだったんです。しばらくしてから、私は一人ぼっちでこの場を訪れました。一人でやって来るのはたぶん初めてだったと思います。私はこの小屋の中で泣いて、それからブランコに座って泣きました。自分の心音が聞こえるくらい静かでした。私は木に登って、小屋の屋根に飛び移りました。
俺はそれを見上げている。子供の天野が一生懸命の跳躍力を見せる。彼女の体重が屋根に移った瞬間、みしみしと小屋が軋んだ。揺れているようにも見えた。しばらくして、再び森は凛とした。毅然とした態度で彼女を迎え入れている。
私は屋根に寝転がって、空を見ていた。葉っぱと葉っぱの間から、空が見えるんです。たまに鳥か蝙蝠か何かが飛んでいました。そして私はまた……。
嗚咽だった。幼い泣き声が森に響く。静かなものだから、非常によく響くのだった。俺はいたたまれなくなる。しかし天野の過去は俺の今でもあった。俺は彼女が語り終えるのを待つ。
私は泣き疲れて眠ってしまって、気がつけば夜でした。ああ怒られると思って半身を持ち上げたとき、誰かが私の名前を呼びました。
え?
美汐。ごめんね。
幼い天野が目をぱちくりさせている。
目の前にある暗闇の向こうにあの子がいるように思えてしまい、私は手を伸ばしました。闇を払えばあの子がにやにや笑ってるなんて思ってしまったんです。でもそんなことはなくて、私は屋根から地面に落ちました。
身体中をしこたま打ちつけた彼女は痛がる素振りすら見せず、すぐに起き上がってきょろきょろと周囲を見渡すが、すぐに肩を落とす。それから両目を涙で濡らし、真上に向かって大きな声で、叫ぶのだった。かすれた声で天野は、おそらくほんのわずかな時間を共有した親友の名を。しかし声は俺には届かず、いつしか彼女の姿は大きくなり、俺の隣に座っている。
どうしてそんな話を、俺に?
話を終えてすっきりしたような顔をしている天野に俺は問いかける。天野はしばし思案し、こう返すのだった。
相沢さんが落ちたって聞いたからです。自分も屋根から落ちたことがあるので、何となく思い出しちゃったんです。
彼女の声は心なしか震えていたが、郷愁と慈しみに満ちていた。と、俺には感じられた。それから少し押し黙り、続けた。
姿形がないだけで、あの子たちはどこかから私たちを見ているのかもしれませんね。
ある日俺は自分の鼻がぐにゃぐにゃと歪むことに気づく。折れてしまったからだ。真琴がいたら、きっと馬鹿にするのだろうなと思う。それでもいいと、俺は自分で鼻をいじってみる。
妖狐というものが本当に存在するか否か。
答えはないのだが、俺は受験勉強の合間に図書館や郷土資料館などに赴き、色々と調べてみたのであった。確かに天野の言う通り、この地には妖狐と呼ばれる妖しの伝承がいくつもあるようだった。
だからどうしたと言われれば、俺は返答に困ってしまう。しかし妖狐の存在が真実か虚構かはともかく、言い伝えがあるという事実は確かにあるのである。そして俺も天野も彼らの存在を信じるに充分な経験をした。
一度消えてしまった彼らを呼び戻す方法についてかかれた文献はなかった。人の姿でこの世に現れた彼らが消えていくまでの物語がほとんどで、細部が異なるだけで大まかなパターンは全く同じだった。
呼び戻す方法の記述が一切ないということは誰一人再会を経験していないことを意味しているのだろう。俺は少しだけ落ち込んでしまう。何かにすがりつきたいのだが、俺の指の間をすり抜けていってしまう。
しかし救いがあるとしたら、彼らは死んだわけではないという記述を発見したことである。人の姿に耐えられるだけの能力を失っただけで、魂か、あるいはそれに準ずる存在はこの世にとどまっているのだという。それは天野がいつか言ったことに似ているし、俺もそうであって欲しいと思う。
つまり俺にとっては彼らの存在は真実なのである。
夏が終わる頃、俺は怪我をした正にその場所である歩道橋を通りかかった。今度は一人だった。北川はいない。電車で数駅のところにある予備校の帰りで、いつもなら北川と一緒なのだが、用事があるらしく駅前で別れたのだった。
本来であれば、歩道橋は渡らない。俺は青信号を待つ。しかし俺は理由もなく、錆び付いた水色の手すりに魅せられて、階段を上った。車通りがほとんどないので、歩道橋が必要であるとは思えなかった。景観のためだとすれば、全く無駄な出費であると心の中で毒づきながら、階段を上りきった
歩道橋のてっぺんからはかなり開けた景色が望める。北川と歩いたときも思ったが、たまに見るのはいいものだ。いつもだと飽きてしまうし、それはとても勿体無いことだ。しかし忘れた頃にこの景色は効いてくる。夕焼けだった。真っ赤な太陽が半円のようになって、道路のはるか向こうの地平線に吸い込まれていた。
不意に誰かに肩を叩かれた。振り返っても誰もいない。気の迷いかと思い、俺は歩道橋を渡る。おぼろげに揺れていた。風があったからかもしれない。歩道橋の中央で、誰かが俺の名を呼んだ。
祐一。
え?
祐一。
俺は瞬間的に四方八方を凝視するが、俺の他は誰もいない。しかし誰かが俺の肩に触れた
ごめんね。ありがとうね。
うわ、お前がありがとうなんて信じられねーよ。
あぅ、ひどいよぅ、祐一。
幻聴だったのか。幻覚だったのだろうか。そうとは思えなかった。俺はしっかりと真琴の声を聞いたのである。俺は止めていた足を動かし、歩道橋を渡り終える。何事もなかったかのように。それきっり真琴の声は聞こえなかったが、俺の足は軽くなっていた。
スキップのように軽やかな足取りで、俺は階段を下る。今度は足を踏み外さない。アスファルトの力強い感触を確かめながら、俺は歩を進める。口元が緩んでいるのがわかる。真琴だった真琴だったと俺は笑う。俺は自分の肩甲骨に指を伸ばす。柔らかな温もりがはっきりと残っている。
they listen to your crazy laugh
before you hang a right
and disappear from sight
(belle and sebastian / fox in the snow)
感想
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