君は誰だ
 どんな奴なんだ
 背は高いのか、それとも低いのか
 ブサイクか
 いや、それほど酷くはないだろう

 金持ちか
 生活していけるだけの稼ぎがあればいい
 その、なんだ、あいつのどこが好きなんだ
 まさか容姿で選んだのじゃないだろうな
 うん、僕の自慢さ

 決心は固いのか 
 二人でちゃんと話し合ったか
 泣かせたりしたら許さない
 あまりにだらしのない男だったら、僕がぶん殴ってやる

 幸せに……
 幸せになってくれ
 ただ、これだけは言っておきたい
 君はどんな時でも守る事ができるか

 大切な何かを




名残雪の人


 〜いずれ訪れるだろう君へ〜




1.

「オレに何の用なんだ、相沢」
「北川、忙しいのに悪いな……」
 うららかな日差しが降り注ぐ四月の放課後。桜が咲き、待ち望んだ春に草花の生命が鮮やかな色彩をもたらす。雪に閉ざされた北国の冬が夢のような想い出に変わり、頬を撫でる風に芳しい土の匂いが混ざる。
 三年に進級して、ようやく将来の選択が現実味を帯びてきた祐一と北川は、人気のない校庭の片隅に座ってグラウンドを眺めていた。石灰の白い線が描かれたトラックでは、新入の陸上部員が歓声を上げている。前に祐一が見た時は一面の雪山だったはずのグラウンド、そこは何もない白い世界だった。だが、雪が溶けた今はサッカーのゴールネットが埃っぽい風に揺れ、西に幾分傾いた太陽が様々な模様を地面に映している。旗がたなびく高いポール、校舎とそれを巡るフェンス、木立、部活動の生徒。そして二人の頭上にもくもくと湧いている白い雲がすーっとその薄い影を走らせ、懸命にコースを駆ける生徒を追い越していった。
 いつもならいとこの名雪と帰宅するはずの祐一が、芝生に座って北川を相手に話をしようとしているのには訳があった。

「曇って意外と速いんだな、北川……」
「はあ?」
「お前まで進学塾へ行くなんて、俺にはまだ信じられない」
「相沢、オレだって真面目に考える事くらいあるんだぞ」
「偶には、な」
「そう、偶にはなぁ……って相沢、わざわざからかうために呼んだのかよ」
「いいや、そうじゃないんだ。まあコレでも飲んでくれ」
 祐一が差し出す缶コーヒーに北川は少々戸惑った。二年の途中で転校してきた祐一はそれほど人付き合いの良い男ではないし、どちらかというと無愛想で皮肉っぽい。それに何を考えているのか解らない事が多い。クラスで一番仲が良い北川とはいえ、理由もなく奢ってもらった記憶はなかった。いや、仲間内で喫茶店へ行った時や、くだらない賭けの結果で渋々ということはある。しかし今日は何かが違った。祐一は差し出した手をそのままに、ぼーっと空を見上げている。
「受験のことなら、オレより美坂にでも訊いた方が確実だぞ」
「それは解ってる」
「なんだよ、はっきりしろよ相沢」
 缶コーヒーを受け取った北川が、リングプルを開けて一口飲んだ。
「まあ、オレで役に立つなら相談には乗ってやるけどな」
「……多分、役に立たないと思う」
「相沢っ」
「いや、悪い。そう言う意味じゃない」
「お前は何がしたくてオレを呼んだんだよ」
 あぐらをかいて草の上に座る北川が、呆れたように祐一の横顔を見つめた。そしてもう一口コーヒーを啜って”ふんっ”っと鼻を鳴らす。視線を落とした祐一は育ち始めた緑の若葉をむしり、心地よく吹いてくる風に任せて飛ばそうと大きく腕を振って空へと放る。しかしそれは、直ぐ目の前にはらはらと落ちただけだった。
 
 暫く地面を見つめていた祐一が顔を上げ、決心したかのように重い口を開いた。
「……名雪の事なんだ」
「え?」
「自分が考えた事を誰かに聞いてもらいたかった」
「そう言えば、水瀬さんの母さんはまだ入院してるんだったよな」
「ああ」
「もしかして、その、具合良くないのか」
「いや、そういう訳じゃない」
「驚かすなよ、相沢」
「…………」
「どうした相沢。おばさん元気になるんだろ? 事故に遭って災難だったろうけど、いずれ退院できれば元通りじゃないか。何が心配なんだよ、水瀬さんだってこの頃は元気になったみたいじゃないか」
「北川、名雪はずっと秋子さんと二人きりで暮らしてきたんだ。秋子さんが事故に遭って、名雪の落ち込み方は酷かった」
「暫く学校休んでたからな、みんな心配したぞ」
「名雪には父親がいない」
「……知ってる」
「名雪は心細かったんだと思う。普段はおっとりしている様に見えるけど、あいつなりに我慢したり色々と気を遣っていたんじゃないかって気がする。迷惑をかけたくないとか、我が儘を言っちゃいけないとか。嫌われたり、仲が悪くなって独りぼっちになるのが怖かったのかもしれない。あいつは俺にまで心を閉ざそうとしたんだ。俺はその時、ようやく気付いた。何年も前から、当たり前のように名雪が傍らにいた。俺はあいつが好きなんだ。もう一度あの笑顔を見たかった。なんとかしてやりたかった……」
 一気に話し終えた祐一は大きく溜息をつき、また空を見上げる。
「そりゃ親戚なら普通そうするだろ。相沢、お前は優しい奴だよ、うん」
 北川が、頷きながら祐一の肩をポンポンと叩く。

「……そうじゃない。俺は、女性として名雪を好きになったんだ」
「なんだって?」
「昔の約束をようやく果たせた」
「ははは、相沢、もしかして水瀬さんとそんな関係になっちゃったとかか?」
「ああ」
「おいっ! オレは冗談で言ったんだぞ!」
「それだけじゃなくて、その、何て言うか……」
「うん?」
「だから……」
「…………」
「…………」

「相沢っ! お前、それはいくら何でもマズイだろ!」





2.

「わたし、コーヒーにする」
「え? どうしたのよ、名雪」
 商店街にある喫茶店『百花屋』。メニューを取り上げようとした香里の動きが止まった。
「名雪がイチゴサンデー頼まなかった事ってあったかしら?」
「いつも食べてるわけじゃないよ」
「そうかしら」
「それに、ちょっと相談したい事があるから」
「相沢君との事?」
「えっ、どうして解ったの、香里」
「誰でも気付くわよ。いつもは相沢君と一緒に帰るのに、今日に限って一人であたしを誘うんだから」
 街の喧噪をBGMに、ゆったりとしたテンポのクラシックが流れる店内。香里を誘ったはずの名雪は、居心地が悪いようにもじもじと窓際の席に座っている。そんな姿を見て香里は微笑ましい気がした。
 祐一が転校してきた日、名雪は今まで見てきた中で一番嬉しそうな表情をしていた。何があったかは知らないが、ここまで元気になったのはきっと祐一のおかげなのだろうと香里は思う。一時は希望を失ってどんよりと曇った瞳が、今は以前と変わらない様に見える。いや、前のようにただニコニコと笑うだけでなく、名雪はしっかりと自分の意見を言うようになっていた。なのに今日は何かがおかしい。戸惑いからか、大きな瞳が落ち着き無くきょろきょろと動く。

「あなたにとって、相沢君は特別な人なのね」
「それは、いとこだし……」
「違うでしょう、名雪。親戚だからとか、血のつながりがあるとかじゃないはずよ」
「…………」
「好きなのね」
「うん……わたしね、前から祐一が好きだったの」
「良いじゃないそれで。相沢君だってそう思ってるわよ、きっと」
「祐一がいてくれて、わたし、とっても心強かった……」
 心強い――。誰かがいてくれる。悲しいときや辛い時に、一人ではないんだと思える事。恐怖や不安と戦いながら、もう駄目だと思う瞬間「そんなことはない!」と力強く励ましてくれる言葉。体に暖かい力がみなぎり、勇気が湧いてくる友情や愛情。たとえ此処で倒れてしまったとしても、前に向かって進まなくてはならないと決心させる顔、行かなくてはならないと決断させる理由。いつでも傍に在る優しい眼差し。
 だがそれは具体的に何かをしてくれる訳ではないし、魔法のように問題を解決をしてもくれない。もしかしたら何の役にも立たないことかもしれない。一人の人間にできることなど限られている。それは小さい、小さすぎる力だ。

「誰かがいてくれるって、そういう事なのよね。独りきりでいるのは辛い事なのよね……」
「香里、どうしたの?」
「ううん、何でもないわ」
 香里は名雪の視線を避けるように窓の外を見た。通りでは、荷物を提げた母親と少女が笑いながら歩いている。平和な、幸せそうな光景だった。
「それでね、祐一がずっと一緒にいてくれるって約束してくれて、いつまでも一緒だって約束して……」
 とぎれがちに話す名雪の言葉を聞きながら、香里は全く違うことを考えていた。不幸な人たちが救われる物語、そんな話はたくさんある。主役は堂々と胸を張り、いつだって毅然とした態度で描かれる。でも、彼らだって迷ったり悩むことがあるのではないだろうか。怖くなって逃げだしたくなることがあるのではないだろうか。自信がなくなったり、運命を呪って諦めかけたり、もどかしさや、いくら頑張っても辿り着かない焦りから歩みを止めたくなったりはしないのだろうか。それに――自分の殻に閉じこもったヒロインは、ただ奇跡を願って待ち続けるだけなのだろうか。
 現実はそう、たくさんの失敗や食い違いが起こる。気付いた時には遅すぎるという事も。勇敢に駆けつけた救出が間に合わなかったり、語られる事もなくひっそりと人が死ぬ。そういった物語は綴られる事がない。

「香里、聞いてる?」
 ぼーっと外を眺めている香里に、名雪が少々拗ねたように訊いた。
「えっ」
「もう、香里ならちゃんと聞いてくれると思ったのに」
「ゴメンゴメン。……それで、名雪は何がそんなに心配なのかしら。ちゃんと約束したんでしょう? 少し変わってるけど、相沢君は良い人だと思うわよ」
「そうなんだけど、二人だけで暮らしてるといろいろ……」
「あ、相沢君って何も手伝ってくれなさそうよね。でも家事のことならあたしじゃなくて北川君に聞いた方が良いわ」
「そうなの?」
「ええ、あの人って一人暮らしなのよ。なんだか複雑な家庭環境みたいであんまり詳しくは聞かなかったけどね。ねえ名雪、あたしにできる事なら協力してあげるから悩みを話してみなさいよ」
「うん……。お母さんが事故にあったとき、祐一がいてくれてとっても心強かったの」
「それはさっき聞いたわ」
「それでね……」
「…………」
「…………」

「ぶっ!」
「わっ、香里汚いよ〜」
「水…、水取って、名雪」
「は、はい」
「はぁ…はぁ……」
「大丈夫、香里?」
「”大丈夫”ってあなた、あたしが言いたいわよ!」
 香里におしぼりを差し出しながら、名雪が言った。
「ねえ香里、明日は休みだし、うちに寄って行かない?」
「あたしが行っても、何の役に立つか解らないわ」
「なんか普通に、今までみたいにご飯が食べたいから……お母さんへ話す前に気持ちの整理もしたいし。祐一と二人きりだと緊張しちゃって。あ、晩ご飯は祐一が用意してるから大丈夫だと思うよ」
「もうわかったわよ、心配だから行ってあげる」





3.
 
 学校帰りの制服のまま、祐一と北川は連れだって商店街にあるスーパーの自動ドアをくぐった。夕方近い店内は家族連れの買い物客で溢れている。カートを自慢げに押す子供が、歓声を上げながら母親の元へ走っていった。夕食の買い物があるからといって校門で別れようとした祐一だったが、北川は頼まれもしないのに「一日くらいは付き合ってやる」と言って飄々とついてきた。

「どこまでついてくる気なんだよ、北川」
「相沢、あんな話を聞いたら気になるじゃないか」
「男二人で買い物なんて恥ずかしい……」
「一人より良いじゃないか、さっさと買って帰ろうぜ。おっ、今日は売り出しの日か」
「先ず野菜は……特売のコレで良いか」
「おいおい、見た目でかごに入れるなよ相沢。手に持って重い方が身がつまってる」
「え?」
「相沢、お前さ、あんまり料理しないだろ?」
「実はつい何ヶ月か前まで、カップ焼きそばくらいしか作ったことがなかった」
「おいおい」
「でも、名雪ばかりにやらせてたんじゃ悪いと思って」
「そうか……って、あー駄目だ相沢。それは解凍物だぞ。そんなに値段変わらないからこっちの生の奴にしろ」
「そうなのか? 北川、お前って詳しいな」
「こう見えてもオレは自炊が長いんだ」
「え?」
「……いや、なん〜でも〜なぁ〜い」
 パックに入った切り身をぷにぷにと突つきながら、北川がわざとらしく自分の言葉を誤魔化す。普段は奇妙なほど陽気なコイツも、やっぱり色々と抱えている物があるんだなと、祐一は思った。

「なあ北川、ウチで晩飯喰ってかないか? 一人じゃ寂しいだろ」
「な、なに訳のわかんねぇ事いってんだよ、相沢」
「わざわざ付き合ってもらったし」
「別にオレはそんな……」
 頑固に拒もうとする理由があると思った祐一は、こう言い換えた。
「北川、ついでに作ってくれ。っていうか俺に料理を教えろ」
「はあ?」
「お前、料理得意なんだろ?」
「ははは、別に良いぞ」
「頼む」
「相沢、オレの教え方は厳しぞ。覚悟しとけ!」
 しょんぼり悲しそうに俯いたかと思えば、途端に普段通りの馬鹿になる。つくづくこの男は良く解らない奴だと祐一は思う。だが、多分自分の事を心配してついてきてくれたコイツは良い奴だ。そう言えば、変な時期に転校してきて、ほとんど誰も知らないクラスで始めて声をかけてきたのが北川だった。





4.

「ただいま」
「お邪魔するわ」
「あれ?」
 玄関を開け、香里と一緒に帰宅した名雪が首を傾げた。きょとんとした表情で不思議そうに家の中を覗き込む。
「どうしたの、名雪?」
「いい匂いがするよ」
「え?」
「おかしいよ、そんなはずないんだよ〜」
 名雪が慌ただしく靴を脱いで台所へ駆け込む。キッチンには、大きな鍋をかき混ぜている祐一と包丁の音を響かせる北川がいた。
「おっ、美坂も一緒だったのか」
「お帰り名雪。それに香里」
「相沢君、あたしはついでなのかしら?」
「ただいま、祐一。料理を作ってたのは北川君だったんだね、安心したよ〜」
「名雪、それはどういう意味だ」
 鼻歌混じりでまな板に向かう北川が、笑いながら答えた。
「水瀬さん、オレは相沢を手伝っただけだ。ほとんど、いや、半分くらいは……あー、その、下ごしらえの所までは相沢がやった。最初は手を出さないようにしてたんだが、不器用すぎて見てらんなくなっちゃってさ。おまけに相沢ときたら包丁でいきなり指刺しやがった」
「えっ、大丈夫なの祐一」
「名雪、心配しなくて良い。ちょっと血が出ただけだ」
 そう言いながら、シチューを煮込む祐一が指の絆創膏を隠す。大した傷でもないのに心配される事が、なんとなく気恥ずかしかった。
「相沢、もうそれくらいで充分だ。みんな揃ったところで飯にしようぜ。さあさあ、水瀬さんも美坂も座って座って、せっかくの料理が冷めちまう」
 北川に急かされて名雪と香里がテーブルにつくと、家計を預かる名雪が材料費を心配するほど、次から次へと料理が盛られた大皿が現れる。それは、二人だけの食事では広すぎると感じていたテーブルから、はみ出しそうになるほどだった。テーブルの上も賑やかなら今日はそこに座る人間も賑やかだ。全てのメニューが並べられて、四人全員がテーブルを囲む。今日は四人、昨日は二人、数ヶ月前は三人、その前は二人。どうしてこの家にこんな大きな食卓が必要なのだろうと不思議に思っていた祐一だったが、なんとなくその理由が解った気がした。昨日よりも今日、そして将来。多分そんな暖かい家庭を夢見た人がいたのだ。

「名雪、味はどうだ?」
「やっぱりみんなで食べると美味しいよね、祐一」
「だとさ、相沢」
「北川、その思わせぶりな言葉は何だ?」
「家族が増えるって事は嬉しいじゃないか。いやぁ、めでたい。お前はめでたい奴だなぁ〜相沢。この幸せ者がっ!」
 にやにやと北川が笑った。名雪と香里は複雑な表情でお互い目を見合わせる。箸を置いた祐一が、睨むように北川を見据えて言った。
「……北川、ちょっと待ってくれ」
「うん?」
「俺は、まだ決めた訳じゃないんだ」
「どういうことだよ相沢、さっきオレに話してくれたじゃないか。お前の将来の夢をさ」
「だが、それが一番良いことなのか自信がないんだ」
「なに?」
「学校を辞めて、働いて……、いや、そんなのは問題じゃない。俺は家族を守っていけるか不安なんだ。本当にできるか自信がない。俺で良いのか解らなくなってきたんだ」
「…………」
「…………」
「相沢君、あなたはそうしなくちゃならないんじゃないの? 名雪、さっき話してくれた事を相沢君に言ってやりなさいよ」
「わたしも、迷ってるの……」
「え?」
「いつも祐一に頼ってばかりで良いのかなって。わたしのせいで祐一が困るのは嫌だよ」
「だけど、悩んでなんていられないだろ? もう、その……なんだ。相沢と水瀬さんはさあ……」
「どうするつもりなの、名雪?」
「病院の先生に言われたんだけど、今ならまだ処置できるって……」
「処置?」

 湯気の立つ料理を目の前にして、誰も手を伸ばして食べようとはしない。そんなものは見えないとばかりに意識から消す。そこに存在しているにもかかわらず。
 何も見ない、何も聞かない、何も知らない。幸も不幸も知らない。多分それが一番利口な生き方。希望を捨てれば絶望も感じない。本当に手に入れられるか自信がなければ、黙って俯けば良い。頭の上を奇跡の羽根が通り過ぎるのを、ただ見送れば良い。自分には関係のないことだと。
 選択するということは他の選択肢を切り捨てること、可能性を狭めることに他ならない。進む道はたくさんあるが、そこから選べるのはただ一つ。何を夢見るか、何を求めるか、その為に何を諦めるか。犠牲と言っては語弊がある。引き返すことができない、もう戻れない分かれ道があるというだけだ。
「最初から、何もなかった事にもできるんだ……」
「意味を解ってて言ってるのか、相沢?」
「うん、祐一にだって将来の夢があるんだよね、いま全部あきらめちゃうのはもったいないよ」
「名雪、あなたはそれで良いの?」
「……うん」
「俺も名雪がそう思うのなら……」

「お前らいい加減にしろ」
 北川が声を荒げた。
「相沢、さっきオレに言った事と違うじゃないか。お前は水瀬さんが好きなんだろ!」
「名雪、あなたは生まれてくる意味のない子がいるって言いたいの? 人が人の命を裁くなんてあたしには許せないわ」
「相沢、お前は良い奴だと思ってたのに、みんなで飯が喰いたいからってオレは手伝ってやったのに……なんでそういう結論になるんだよ」
「北川、現実に考えれば妥当な答えだろ」
「オレはそんな現実なんて嫌いだ」
「じゃあなにか、北川。高校途中で二人とも退学して、世間の冷たい目に名雪を晒せと言いたいのか。ずっと一緒だけで良い生活が幸せなのか。そんな責任を負うなんて今の俺には無理だ……」
「祐一……」
「俺は、後悔してる」
「後悔?」
「こんな面倒なことになるんだったら……」
「止めなさいよ、相沢君!」
 香里にたしなめられた祐一が横を見ると、名雪が下を向いて震えていた。
「そう、だよね。うん、祐一の気持ちがわかったよ……」
 無理に笑いながら、名雪は席を立って俯いたまま二階へ上がっていく。食卓に残された三人が呆然と後ろ姿を見送る。
「相沢、今ならまだ間に合う。水瀬さんを追いかけろって」
「…………」
「はら、早く行けよ!」
「俺にはできない、できないんだ」
「相沢、お前にとって何が大切な夢なんだ?」
「解らない……」
 頭を抱えて言葉を拒絶する祐一が髪を掻きむしる。エプロンを畳み、無言で椅子の背にかけた北川が大きな溜息を漏らして言った。
「オレ、帰るわ」
「…………」
「悪いが、付き合い切れない」
「あたしもお暇するわ、相沢君」
「相沢、お前には無理だって解ったよ」

 北川と香里が去ったテーブルに、祐一独りが取り残された。目の前に置かれたたくさんの料理が逆に寂しさを感じさせる。律儀に箸置きに揃えられた四人分の箸が、つい先程の賑やかさを物語っている。大きなテーブルに独りきり。みんなで晩ご飯を食べるなんて、当たり前の事だと思っていた。でもそうじゃなかった。幸せってなんだろう。自分が望む夢とは何なのだろう。
 祐一は気付いた。”笑顔を取り戻してやりたかった””助けてやりたかった”。やりたかった? 何かを”してやりたい”と思っていた。名雪のためにだと考えていた。悲しみや辛さを抱え悩んでいるのは名雪の方だと決めつけていた。助け出さなくてはならないと感じてた。
 でも、そうじゃなかった。助け出されるのは二人ともなんだ。どちらかが強く、どちらかが保護を求める弱者じゃない。自分も必至になって希望を求めていた。信じたい同じ夢を願っている。誰かのためじゃなくて、自分が求める夢のため。

 一人の人間にできることなど限られている。それは小さい、小さすぎる力だ。それでもなお人は渇望する。希望を、共に夢を見ることを。
 祐一は階段を上がり、以前したように名雪の部屋の前に立った。

「名雪、聞いてくれ……」





 君は誰だ
 どんな奴なんだ
 背は高いのか、それとも低いのか
 ブサイクか
 いや、それほど酷くはないだろう

 金持ちか
 生活していけるだけの稼ぎがあればいい
 その、なんだ、あいつのどこが好きなんだ
 まさか容姿で選んだのじゃないだろうな
 うん、僕の自慢さ

 決心は固いのか 
 二人でちゃんと話し合ったか
 泣かせたりしたら許さない
 あまりにだらしのない男だったら、僕がぶん殴ってやる

 幸せに……
 幸せになってくれ
 ただ、これだけは言っておきたい
 君はどんな時でも守ることができるか

 大切な何かを





6.

「あらあら、二人で来てくれるなんて嬉しいですね」
 翌日、祐一と名雪は揃って病室の秋子さんを見舞いに訪れた。
「お母さん、元気?」
「ええ、大丈夫ですよ。来月には退院できそうです」
「秋子さん、そんな薄着で寒くないんですか」
「はい」
「四月なのに、今日は結構寒いと思うんですけど」
「そうかもしれませんね」
「あ、家からなにか暖かい服を持ってきた方がいいね」
「名雪、そんな心配はしなくて良いですよ」
「え?」
「この季節になると、思い出します……」
 秋子さんがベッド脇にある写真立てをぼんやりと眺める。そこには正装した男性が写っていた。その顔は若く、自分とそれ程変わらない年齢だと祐一は思った。なんとなく、優しく微笑んだ眼差しに心を見透かされているような気がした。

「それで、今日はどうしたんですか?」
 不審そうに眺める秋子さんの視線の先、名雪の瞳は少し赤く腫れていた。
「…………」
「…………」
「ほら、祐一から言ってよ……」
「え、いや……名雪の方が話しやすいだろ」
「だめだよ、祐一がちゃんと言ってくれないと」
「そうだけど……、あの、秋子さん?」
 その時、病室にノックの音がした。
「こんにちは、美坂です」
「クラスメイトの北川で〜す」
「家に行っても誰も居なかったから、きっと此処じゃないかと思って」
「相沢、やっぱりお前独りじゃ心許ないと思って来てやった」
「頼んだ覚えはないぞ、北川」
「素直じゃないな、お前」
「それで答えは決まったの? 名雪」
「……うん」
「それはどっち?」
 香里は訊いたが、そんな必要はなかった。今までで一番の笑顔が名雪の顔に表れていたから。

「秋子さん、お話ししたい事があります。聞いてください」
「いきなり改まってどうしたんですか、祐一さん……あら?」
 病室にいる全員が外を見た。薄暗い雲間から僅かに病室へ差し込む日の光、薄い花びらを辺りに振りまく桜の大木。敷き詰められた花弁が夢のような舞台を創り上げていた。そして時期外れの雪が、湿った冷たい雪が、冬の最後を告げに空から舞い降りている。

「名残雪ですね……」





 君は誰だ
 どんな奴なんだ

 ……名残惜しい
 君も、この子も、やり残した仕事も
 この子が大人になるまで見守りたかった
 もしかしたら僕には果たせなかった願いを、君が叶えてくれ

 優しい、優しい大人になって欲しい
 辛いことがあっても
 悲しいことがあっても
 誰かに助けてもらってもいいんだ

 いずれ出会うだろう君へ
 娘をよろしく
 僕には見える、名残雪の降る故郷の街が……
 桜の花に滴る春の雪だ


 ”水瀬、しっかりしろ!”


 すまない、秋子
 もう、お別れしなくてはならないようだ
 最後に聞いてみたい
 僕は大切なものを守れたのだろうか
 今ではない、いつか訪れるはずの希望を

 心に夢を宿した人たちの想いを




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