8月の上旬。大学の夏休みが始まってまだ間もないこの時期は、いかにここが北国だといっても暑苦しい。うだるような暑さだ。天気予報によると今日の夜も熱帯夜になるという。事実、太陽はもうとっくに西の空へと沈み、夜の闇が空を支配しているというのに気温は一向に下がる気配をみせない。少し動いただけでTシャツの下が汗ばむほどだ。
 駅前のバイト先からの帰り道、どうにかしてこの暑さをまぎわらすため、俺はのんびりと周りの風景を見ながら歩いた。国道に沿う川のせせらぎとても涼しげに感じられた。が、これぐらいのことではじっとりとした真夏の空気は大して変わってはくれないようだ。Tシャツの下の背中がじっとりとした汗で濡れていく。これがあと三ヶ月か四ヶ月かすれば身も凍らすほどの白銀の世界へと様変わりする。この街へと来てからもう何年かを過ごしてきたが、未だにこの奇跡のような変化に慣れることはできないでいた。
 すぐに慣れるよ。
 ずっと昔に言われた従兄妹の言葉が頭に浮かぶ。あれは確かこの街の冬の寒さについて言われたことだったか。寒さには慣れても、これには慣れないよなあ。
 そんなことを考えているうちに、家の前へと着いた。これでようやくこの暑さともおさらばだ。
「ただいま」
 真夏の空気を背中に残し、水瀬家の玄関の扉をくぐる。
 冷房の効いたリビングの冷気が廊下まで流れてきていた。涼しい。汗と一緒にバイトの疲れも消えていきそうだ。
 廊下の奥からはカチャカチャと食器を洗う音が聞こえてきた。玄関の鍵を閉め、とりあえず俺はキッチンへと顔を出した。
 そこにはひとりで食器を洗っている秋子さんの姿があった。名雪もこの時間なら家に帰ってきているはずだが、その姿は1階には見えない。もう自分の部屋にいったのだろうか。
 俺に気がついた秋子さんは「あら」と振り向き、食器を洗う手を休めた。
「お帰りなさい、祐一さん」
「ただいま帰りました。すみません、最近帰りが遅くて」
 時間は午後の9時を少し回ったところ。バイトの後ではいつものことだが、一応頭を下げた。
「いいんですよ。アルバイト、お疲れ様です。夜ご飯はちゃんと食べてきましたか?」
「はい。向こうで済ませました。えーと、名雪は?」
 この時間ならまだ起きているはずだが。
「今日は部活で疲れたみたいでね、もう二階の自分の部屋でぐっすり寝てるわよ」
 にしたって、まだ9時だぞ。いつものことだが、俺は思わず苦笑した。
「よっぽど疲れたんでしょうね」秋子さんも微笑みながら続けた。「今夜はゆっくりさせてあげてくださいね」
 何か含みのありそうな秋子さんの言葉と笑顔に一瞬ドキリとしたが、俺は平然を装い、「もちろんですよ」と返した。変に声が裏返っていた。
 秋子さんはにっこりとしながら頷く。
 ……見透かされてる? 皿洗いを再開させた目の前の大人の女性の横顔は、「お見通しよ」とでも言っているふうに見えた。もしくは「名雪から聞きましたよ」だ。いや、まさか。
 そこでふと考える。秋子さんは一体どこまで知っているのだろう。その、俺と名雪のことを。この人のことだ。たぶん全部知っているのだろう、それはもう完璧に。うわー、だとしたら死ぬほど恥ずかしい。自分の頬が紅潮するのを自覚し、苦し紛れに口を動かした。
「今日は暑いですねー。じっとしていても汗かいちゃいますよ」
 この部屋はクーラーが効いているのにか。心の中で自分に突っ込みをいれ、自らの首を絞めているだけのような気もしたが、だけど続けた。
「こんな日はビールで一杯やりたいですね」
 秋子さんはお酒を飲まないだろうが。再び己に突っ込みをいれ、さらに言葉を続けようとしたところで秋子さんが口を開いた。
「いいですね」
「は?」
 意外な言葉に思わず聞き返す。
「一杯、いきましょうか?」
 そう言いながら最後の食器を洗い終わり、それを乾燥機の上へと乗せた。水道の水を止めると途端に静かになる。俺の方へと向いた秋子さん顔は冗談を言っているようには見えなかった。
「秋子さん、お酒、飲めるんですか?」
 とりあえず一番最初に頭に浮かんだことを口に出した。今まで秋子さんが酒を飲んでいる姿は見たことがない。その姿を想像することもできなかった。この人と酒はなんかもう根本的に合わない。秋子さんでも酔ったりするのだろうか。
 そんな俺の頭の中を見透かしたように、秋子さんは「あら」と声を弾ませた。
「私だって飲みたくなる日はありますよ」
 特に今日みたいな日はね。最後に小さくそう呟き、一瞬だけ瞳を下ろした。一度も見たことがない、どこか陰のある表情をチラリと覗かせる。
「秋子さん?」
 俺の呼びかけに顔を上げた秋子さんはもういつも通りの表情だった。
「名雪が二階で寝ていることだし、近くのコンビニでビールでも買ってきましょうか」
「はあ」
 力なく頷く。
 今のは気のせいか? 少し気になったが、それを確かめる術もなく、しょうがなく頭の隅へとしまい込んだ。まさか「今のはなんですか」なんて聞いてみるわけにもいかない。
「自家製のビールはさすがにないんですね」
 代わりに冗談っぽく声をかけると、
「造ろうと思えば造れますよ。時間と手間はかかりますけど」
 秋子さんはさらりと返した。
 マジでか。確かにこの人なら本気で作ってしまいそうだ。
 だけどビールなんてどうやって造るのだろう? 醗酵とか? まさかこの家で造るのだろうか?
「それじゃあ、いきましょうか、祐一さん」
 答えの見えない問いを中断させるかのように秋子さんは玄関へと向かった。
 ビールの件を含めて腑に落ちないことがたくさんあったが、それらは取り敢えず横にでも置いておいて、俺は秋子さんの後を追った。
 秋子さんと酒を交わす。
 まあ、たまにはこういうのもいいだろう。



 家から徒歩で10分の場所にあるコンビニで缶ビール一束と酒のつまみをいくつか買い、俺たちは互いにビニール袋をぶら下げて家へと戻った。
 無数の蝉がやかましく鳴き狂う中、サンダルとアスファルトが擦れあうジャリっとした小さな音がいつもより大きく耳に響く気がした。
「こうして祐一さんとふたりで歩くのなんて久しぶりですね」
「そうですね。ふたりっていうのはもう何年もないかもしれません」
 いつもはこの間に名雪の元気な姿が加わる。まあ、それすらも大学に進学してからは減っていったのだけれども。名雪は大学の陸上部に、俺はゼミとサークルとバイトに振り回される日々。こんなふうに秋子さんとのんびり歩くのは本当に久しぶりのことだ。
 にしても、と考えてみる。今の俺と秋子さんは外野から見たらどんなふうに見えるのだろう。案外見ようによっては恋人同士に見えたりもするのだろうか。
 ちらりと秋子さんの横顔を覗き見た。甥と叔母の関係には見えないよなあ。とてもじゃないが、おふくろと大して歳の違わない叔母さんには見えない。むしろ歳を重ねる毎にきれいになっていくような気がした。その血を受け継ぐ名雪も同じようにきれいになっていくのだろうか。だとすれば、それはなんともありがたい。
 のろけてるなあ。俺はひとりで小さく笑った。
 それに気づいた秋子さんは、「どうしたんですか」と首を傾げた。
「隣にいる女性があまりにもきれいだったんで。俺は幸せ者です」
 俺が冗談っぽく言うと、秋子さんは口元を緩めた。
「言うようになったわね。だけどそんなことを言うと名雪に叱られちゃいますよ」
「あ、名雪には秘密にしておいて下さいよ。今月ピンチなんですよ。イチゴサンデーをおごる余裕がなくて」
 秋子さんは「ふふふ」と声に出して笑った。
 俺もそれに釣られてケラケラと笑う。
「祐一さん、何歳になりましたっけ?」
「え。今年で21ですけど」
「みんなどんどん大人になっていくんですね。名雪も、祐一さんも。あの頃はまだあんなに小さかったのに」
 瞳を閉じ、ひとり言のように秋子さんは言った。
 暗がりのためその表情はよく見えなかったが、さっきと同じ、どこか陰のある顔を表へと出す。それは他の人が見れば僅かな変化だったのかもしれないが、もう何年も同じ家で生活していればそんな小さな変化でも気になる。秋子さんは滅多なことがない限り、そういう表情を周りに見せることはないから。いつも全てを包み込むように笑ってくれているから。
 しかしそれもやっぱりほんの一瞬の間だけだった。俺たちの横を車が通り過ぎ、そのライトに当てられた秋子さんの横顔は既にいつも通りの笑顔に戻っていた。
「着きましたよ。入りましょうか」
 気がつけば家の前まで戻って来ていた。
「……はい」
 聞くべきなのだろうか。今日の秋子さんはいつもとちょっと感じが違うこととも関係があるかもしれない。普段は飲まない酒のことといい、何かおかしい。
 おかしいとは思ったが、聞いて何になるという思いもあった。人には触れてほしくないことというものが必ずある。俺にだって、ある。できれば忘れたい、幼い頃の思い出の数々。
 結局俺は何も言葉を発することなく秋子さんの後に続いて家の中へと入った。
 もしも今日の秋子さんに何か思うことがあるのだとしたら、俺が聞かなくてもきっと向こうから話してくれるだろう。話してくれないのであれば、それはそういうことであったというだけだ。
 そうやって後一歩が踏み出せない自分に言い訳をしながら。



 窓を締め切り、冷房が切られた家の中は外の蒸し暑さとはまた少し違う、乾ききった熱気に包まれていた。二階で寝ている名雪はもしかしたら溶けているのではないだろうか。いや、と瞬時に頭の中で否定する。アイツのことだから汗ひとつかかずにスヤスヤと寝息をたてているのだろう。どんな状況でも寝ていられるというのは実に幸せなことだ。
 秋子さんは部屋の電気を点け、リビングの窓を全開にした。外界の空気をおだやかな風が運んでくる。思っていたよりずっと涼しげな風だった。窓際の風鈴がリンと小さな音を立てた。
「天気予報ははずれね。今日は随分涼しいわ」
 網戸を閉めながら秋子さんは言う。
「祐一さん、冷房は点けなくてもいいですか」
「はい。十分です」
 俺はソファーに腰を下ろし、テーブルの上に缶ビールとつまみを広げた。ふたりで飲むには十分な量だ。よく考えたらつまみなんてわざわざ買わなくても、この家にならいくらでもあるんじゃないのか。自家製の枝豆とか。
 口に出して聞いてみると、残念ですけど枝豆もないですよという返事がきた。作ろうと思えば作れますけどね、と付け足すのを忘れずに。
「はあ」と俺は無性に感心した。ビールといい、何でも作れるんだな。
 そんな俺の反応を見た秋子さんはうっすらと微笑み、俺の前のソファーに座った。枝豆のことはとりあえず忘れ、はい、と缶ビールを渡す。ありがとうございます、とそれを受け取る秋子さん。
 俺と秋子さんは同時に缶の上蓋を引いた。シュッといい音が鳴る。
「えーと、それじゃあ、とりあえず」
「はい」
「乾杯」
「乾杯」
 カツンと小さい音を立てて缶と缶がぶつかり合う。
 グビっとビールを喉に流し込む。体の渇きが潤されていく。仕事の後の一杯は最高だぜ! なんてオヤジみたいなことを思ってみたりもした。
 酒の味を覚えたのは大学に入ってからだ。といっても、サークルの宴会や友人との付き合い以外で飲むことはほとんどない。だからたまにはこんなふうに家でのんびりと飲むというのもいいかもしれないと思った。ますますオヤジ臭いな。

 それから少し秋子さんと話をした。それは他愛もない世間話のようなものがほとんどだったが、酒が入っていたせいか、なんかいつもより余計に色々と話せた。天気のことに始まって、昔のこと、今のこと、これからのこと。それはまるで昔から知っている女友達みたいに俺たちはくだらないことで笑いあった。
 秋子さんが4本目のビールに手を伸ばした頃、一度会話が途切れた。
 サークルで散々鍛えられた俺はこれくらいならまだまだ余裕だが、秋子さんの方は酒が回ってきたのか、その顔はほんのりと赤い。紅潮した頬が無性に色っぽく見えた。
 飲みかけの缶ビールを片手にしばしその姿に見とれていると、「祐一さん」と唐突に声をかけられた。
「あ、はい」
 慌てて視線をずらし、缶をテーブルの上に置く。顔が熱くなったが、酒のせいにしてしまえばいい。
「なんすか?」
「祐一さんはタバコ、吸わないんですか」
 タバコ? これまでの会話の流れを無視した質問だったが、とにかく答えた。
「今は吸ってませんよ」
 短い間だが以前は吸っていた時期もあった。これも友人との付き合いで。
「あら、どうして?」
「名雪が嫌がるから」
 そう答えると、秋子さんはまじまじと俺の瞳を覗き込んできた。俺がギョッとして身を硬くすると、秋子さんは少ししてから悪戯っぽくくすりと笑った。
 そのしぐさはまるで10代の女の子のようだ。
「あのひとと同じことを言うんですね」
「あのひと?」
 思わず聞き返す。
「わたしの夫です」
 微笑を残したまま、秋子さんはさらりと言ってのけた。
「えっ?」
 夫? 秋子さんの?
 あまりにも自然に不自然な言葉を発したので、一瞬何のことなのか分からなかった。
「いいえ。亡き夫、ですね。今日が命日なんですよ」
 めいにち?
 またしても何のことか分からなかった。ああ、命日かと、頭の中で漢字に変換するのにいくらかの時間がかかった。もしかしたら少し酔っているのだろうか。いや、そうじゃないな。あまりにも唐突な単語だらけで俺は混乱していた。救いを求めるように視線を忙しなくキョロキョロと動かす。見慣れた部屋に不似合いな缶ビールとつまみ類。最後には再び秋子さんの顔へと戻った。その顔がいつもと全く同じ表情をしていたので、俺はますます混乱した。
 そんな俺のうまく働かない頭を他所に、秋子さんは続けた。表情を変えることなく、いつも通りの声で。
「こんな日にあの人と同じことを言うなんて。ずるいですよ。お陰でまた少し思い出しちゃった……」
 秋子さんは瞼が重そうなとろんとした目をテーブルの上へとやった。缶を置き、テーブルに頬をペタンと重ねる。その瞳の奥にはわずかに光が見えた。
「秋子さん?」
 呼びかけても返事がない。
 そのまま秋子さんはズルズルとテーブルに体を預け、ゆっくりと瞳を閉じていった。
「夢の中でまた会えるのかなあ」
 その頬に一筋の滴が伝う。
 俺は手を伸ばし、「秋子さん」ともう一度呼ぼうとした。しかし俺が言葉を発するより前に秋子さんの口が動いた。
「……あの子は、泣かせないでくださいね」
 最後にひとり言のようにか細い声で呟いた。
 胸が痛み、カッと目頭が熱くなった。伸ばしかけた手が止まり、開きかけた口が唇を噛んだ。
 抱きしめたい。思わずそんな衝動にかき立てられたが、ぐっと耐えた。
 そんなことをしたって秋子さんの悲しみは薄れないと分かっていたからだ。それぐらいはアホな頭でも理解できた。
 夢の中でまた会えるかなあ。
 秋子さんの目に映るのはもうきっと、別の男性なのだから。

 途端に静かになった部屋に、秋子さんの規則的な寝息だけが小さく響くようになった。いつの間にか風も止んでいる。風鈴の音も聞こえなくなっていた。
 泣かせないでくださいね。
 風鈴の代わりのように響いた言葉。同時に浮かぶ秋子さんの暗い表情。それを隠すためのようにも見える切ない笑顔。
 何度も、何度も。心の中に繰り返す。
 泣かせないでくださいね。
「はい」
 俺が小さく、だけど力強くそう頷くと、寝息が一瞬だけ止んだ。
 秋子さんの口元がかすかに緩んだ気がした。



 時計の針が11時を回ってしばらく。頃合を見てから俺はテーブルの上のものを片付け、秋子さんを背中に背負って部屋のベッドへと運び込んだ。途中、秋子さんは全く起きる気配を見せなかった。名雪と同じで、どうやら酒には弱いらしい。
 秋子さんの体をベッドに寝かせ、俺は部屋の出口へと向かった。
 ふと、鏡台の上の写真立てへと目がいった。妙な違和感を感じ、それを手に取る。高校の卒業式に俺と名雪と秋子さんの三人で写した写真。違和感の原因はその一番隅。写真立ての隙間からもう一枚の別の写真が僅かに覗いていたからだ。
 ベッドへと振り返り、おだやかな寝息を立てる秋子さんに「すみません」と小声で謝り、俺は写真立ての裏のふたを開けた。
 中に入っていたもう一枚の古い写真にはどこかの旅館を背景に、若い頃の秋子さんと若い男性がふたりで写っていた。
 恐らくこの人が秋子さんの夫なのだろう。いまはもういない、亡き夫。秋子さんを泣かせるなんて一体どんな不届きものなのだろうかと密かに怒りを感じていたのだったが、写真の中で秋子さんの隣にいる男はとてもとても穏やかな、おおよそ人を憎むことも憎まれることも知らなさそうな顔立ちだった。少し照れたような笑みをこっちへと向けている。ふたりともとても幸せそうに。
 名雪の異常な程にのんびりな性格はこの人の血か。そう考えると、自然と口元がにやけた。
 空気の抜かれた風船のようにさっきまで感じていた怒りが急速にしぼんでいき、代わりにこの人はなぜ亡くなったのだろうかという疑問が頭の中にムクムクと膨らんできた。
 そういえばこの家には仏壇がないことに今さら気がつき、それも何か関係があるのかと秋子さんの方に顔を向けた。
 意外と穏やかな寝顔がそこにあった。
 ……これもいつか話してくれる日が来るのだろうか? 今日みたいに、お互いに酒を交わしながら。そのときは俺も何かを話せるだろうか。例えば昔のこの街のこととかを。
 写真立てを元の位置へと戻し、もう一度秋子さんの顔へと目を向けた。夢の中であの人と会えただろうか。その中には俺はいないのかな、なんて思ってみたりもした。
 わけもなく笑みがこぼれ、それから俺はこの部屋を後にした。



 パタン、となるべく音を立てずに秋子さんの部屋のドアを閉めると、後ろに人の気配を感じた。
 振り向くと、予想通り、そこにはパジャマ姿の名雪が立っていた。
「おつかれさま」
 目が合うなり、名雪が言う。何も言わなくたって全部分かっています。そんな顔だった。
「ああ」と、俺はとりあえず返事をした。「珍しいな。名雪がこんな夜まで起きてるなんて。疲れて寝てたんじゃなかったのか」
「うん。ちょっとね」
「今日、お父さんの命日だったらしいぞ」
 迷いなく俺は言った。
「うん。知ってるよ」
 さも当然のように名雪は頷いた。予期していた答えだ。ここで名雪の姿を見たときからそんな気がしていた。
「毎年、お母さんは隠そうとしてたみたいだけどね」そう言って名雪は目を細めた。「何年も一緒に暮らしていれば嫌でも気づくよ。お母さん、今日もお父さんのお墓参りしてきたみたい」
「なんだ、そこまで知ってるのかよ」
「うん。わたしも毎年ね、お母さんには秘密で日にちずらしてお父さんのお参りしてるもん」
「別に秘密にする必要ないんじゃないのか?」
「祐一と一緒だよ」
「は?」
「わたしも待ってるんだ。いつかお母さんが話してくれるまで」
「……」
 俺は口を閉ざして、名雪から目を逸らした。
 名雪は毎年、と言った。毎年、繰り返されてきたのだろうか。去年も、一昨年も、その前の年も。
 俺がこの街で住むようになってからもう三年以上が立つ。これまでに三回もその日をこの家で過ごしていたのにも関わらず、俺は今年まで一度もそれに気がつかなかったんだな。秋子さんは隠れながらひとりで悲しみに暮れ、今日のように涙を流していたのだろうか。
 名雪はそんな母親の姿を知り、支えたくてもそれができずにひとりでずっと待っていたんだろうか。いつか、話してくれるそのときまで。
 なんか自分自身にガッカリした。なぜ気がつかなかったのだろう。なぜ気づいてやれなかったのだろう。ずっと昔にこの家族の一員になれたんだと思っていたのに。
 くそっ。俺は一体何を見ていたんだ。
「悪い」
 たまらなくなって、俺は名雪に謝った。
「変なの。なんで祐一が謝るの?」
 優しく名雪が笑う。全部包み込んでくれるみたいに。これまでこの笑顔に何度救われてきただろうか。
 じゃあ、俺にできることは何だ?
「なあ」
「ん?」
「今年はもう墓参り済ませたのか?」
「まだだよ。今週の週末ぐらいに行こうかなって思ってるけど」
「その、俺も行っていいかな?」
 遠慮がちに尋ねると、名雪はゆっくりと目を細めた。秋子さんに似た笑顔だ。
「うん。もちろんだよ。お父さんもきっと喜ぶよ。一緒に行こう、祐一」
「ああ」
「お父さんに紹介しないとね。彼氏ができましたって」
「何年前だよ」
「祐一はちゃんとお父さんを説得してよ。娘さんを僕に下さいって」
「おいっ。話が飛躍しすぎだぞ。だいたい墓の前でそんなことできるか」
「それぐらいの気持ちでいこうよ。わたしたちにはしんみりなんて似合わないでしょ。わたしたちはこの通り元気ですって。お母さんはまだお父さんのことで泣いちゃうことがあるかもしれないけど、わたしたちふたりで支えていきます。いつか必ず、三人で笑顔でお参りに来ますって。報告しに行こう」
「……そーだな」
 いつか三人で笑顔で。
 そんな日がくるのだろうか。
「ね」と名雪が笑う。
 名雪がそう言うのなら、いつかそうなるような気がした。
 目の前の彼女がそう言うのであれば、なんだって信じられた。
「なあ」
「ん?」
 ずいっと名雪の方へと一歩前に踏み出す。
「今日、どう?」
「えっ。ど、どうって?」
 途端に顔を赤くした名雪を無視して俺は答えた。
「セックス」
「きょ、今日はダメだよお。部活で本当に疲れたし、その、今日は……」
 ごにょごにょと語尾を濁して俯く名雪。その顔は耳まで真っ赤だった。それでも俺は引き下がらない。
「じゃあキスだけでも」
「そ、それならいいけど……。祐一、急にどうしたの?」
 上目使いで聞いてくる名雪の肩を掴み、優しく引き寄せた。
「なんかムラムラっと。といってもいやらしい感情は一切ないぞ。純粋無垢に名雪とキスがしたい」
「祐一、言ってることがメチャクチャだよ」
「お前のことを感じたい気分なんだ」
 そして確認したい気分なんだ。
「すごく恥ずかしいこと言ってる気がするんだけど」
「それは気のせいだ」
 その言葉を最後に口と瞳を閉じ、俺たちはゆっくりと唇を重ねた。
 こうして俺の中の名雪の存在を感じながら。名雪の体温を肌で感じながら。
 守るべきひとりの女の子を確認しながら。
 一度唇を離した。当然、目の前に名雪の顔がある。
「感じれた?」
 なかなかとんでもないことを平然と聞いてくる名雪に、俺は苦笑で返した。
「あと一歩」
 家の外ではまた少し風が出てきたらしい。リビングから風鈴の鳴る音が聞こえてきた。それとともにさっきの秋子さんの言葉を思い出す。
 泣かせないで下さいね。
 誰が泣かせるものか。そう俺は心の中で即答した。
 名雪を、俺のすぐ目の前にいるこの女の子を絶対に泣かせないと心に誓いながら。
 俺たちはもう一度短くキスを交わした。

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