生きて行く為の感情は、絶望だけでよかった。
その為の深い虚無を望んだ。
果たされる事の無い約束と、消えてしまった絆と。
後悔が色濃く残る思い出と、取り戻せない時間。
それだけが、乾ききって崩れかけた命を潤している。
潤しているのは、血か、涙か。
けれど、それでよかった。
きしんでいる心を優しく、そして苛むように包んでくれるから。
……それだけで。
交差感情
人に、世界に、そして自身にさえ壁を作って生きる事を始めたのはいつからだったろうか?
今は、「倉田佐祐理」という人形を、名も無きわたしが操っている。
自己を客観視する事によって生まれた、「わたし」が。
それはもしかしたら、わたしが最も望んでいた事かもしれない。
名前は要らない。
それに付きまとうわたしの物ではないイメージが付きまとうから。
だから、いつからかわたしは「名前」を、人をかたどり、閉じ込める為の檻なのだと認識するようになった。
檻はその人間にとって世界。
その人間にとって常識。
その人間にとって、判断の全て。
だから…………。
「……はぁ…………」
嫌になる。
自らの過ちを、罪を。そんなくだらない理論で正当化しようとする自分が。
酷く嫌いだ。
自らを正当化する事を「仕方が無い事」と弁明する自分が。
「どうして……世界は佐祐理を裁いてはくれないんでしょう……」
わたしは「佐祐理」が嫌いなのと同時に、世界が嫌いだった。
罪人の自分。裁かれたい自分。
それを、裁いてくれない世界。
罵る事無く、弁明し、正当化しようとする世界。
……だから。
――切ったらどう?
わたしは「佐祐理」に、そう言ったのだった。
世界が裁いてくれないなら、自らで制裁を加えるしかない。
純粋な、思いだった。
わたしの言う通りに手首を切る「佐祐理」。
いつからか、とは思わない。
わたしと「佐祐理」は最初からこういう関係だった。
わたしが言えば、「佐祐理」はその通りに行動する。
「佐祐理」に影響があれば、その影響はわたしに帰って来る。
優しく傷つけあうような、そんな関係だった。
今も、「佐祐理」が傷ついた故に消えてゆく世界をわたし達は眺め続けている。
「佐祐理」は、今度はもう少し深く切ろうと思いながら。
わたしは、吐き出した悪意が、空に浮かび、切り裂かれるように霧散していくような思いに駆られながら。
気付いた時、世界は変わらず目前にあった。
「佐祐理」も感じた通り、切る深さが足りなく、生き延びてしまったようだった。
わたし達の関係もまだ続きそうだ。
「……随分と大仰に巻かれたものですね」
手首に巻かれた包帯を見て、見たままの感想を述べる。
必要ないな。と、思ったのはどちらも同じらしかった。
本当に痛いのは……。等と、利己的な自分が自分勝手な考えを囁く。
そんな事は誰だって知っているんだ。きっと。
「佐祐理」の心が病んで、痛んでいるなんて、誰だって知っている。
一弥がいたあの頃の、ほんの少しだけ姉でいられた僅かな時間がいつまでも続く事を、手遅れになった今もずっと夢見ている事を。
痛む心を抱えて、さまよう様に日々を送っている事を、誰だって。
けれど、知っているからと言って、何かが出来るほど人は完成された生物ではない。
だから、傷ついた外面を覆う事しか出来ない。
自ら望んで傷ついた者の思いに触れる事はせずに。
もしかしたら、それしか出来ない自分に、心を痛めて。
「……もしも……たとえば…………」
もしも、自身がこの世界にたった一人だけの生物なら。
たとえば、自分以外の誰もが存在しない世界に行けたなら。
傷つくのは、一人ぼっちの自分だけでいいのに。
ああ。それは、何て素晴らしい事なのだろう。
罪人を苛む事が無い代わりに、許す事も無い世界。
孤独である事が罰であり、自身が無くなるまで延々とその罰が続く世界。
そこには何も無くて。ただ、青い空が綺麗で。
「行きたいなぁ……そんな世界……」
「行きたい、なぁ……」
涙が出た。
乾いた瞳から一滴の涙が静かに頬を伝う。
涙と共に浮かぶ想いは唯一つ。
「……もしも」
……もしも本当にそんな世界に行く事が出来たなら、誰も傷つけなくてすむのに。
他者を傷つけずに自身に罰を与え続け。
時に、後悔が大半を占める思い出に心を馳せる。
そんな、甘美な回顧に揺れる事すらも可能かもしれない。
……けれどそれは、本当に、そんな世界があったら。の話。
ただの夢想論でしかない。
近付く事はおろか、目にする事すら出来ない、遠き理想郷。
そんな事は解っている。だからこその理想郷なのだから。
「………………」
一弥が死んだ時から変わらない、空虚な気持ちで天井を見つめた。
星は見えないけれど、そこに一筋の流れ星がある事を信じて、わたし達は静かに願いを口にした。
「………………」
自らの望む世界がありえない幻想ならば、せめて、わたし達の償いを受け入れてくれる人に出会えますように、と。
その後、ゆっくりと季節が廻り、今は春。
望んだ幻想は手に入るはずもなく。また、償いを受け入れてくれる人間にも出会えず。
自らの命を絶つ事もまた、難しくなり。
色彩豊かに青で彩られているだろう空も、相変わらず空虚な灰色に見える日常。
そして、からっぽの「佐祐理」という世界は、変わらず深い闇の中。
進学してもそれは変わる事は無く、誰にも興味を示さない日々が続く。
……はずだった。
「…………!!」
目の前の光景を見た途端に起こる、記憶のざわめき。
目の前にいる女生徒が、あの頃のわたしと、重なる。
そして、彼女とわたしとの決定的な差も一瞬で見えた。
彼女は、優しさであふれていた。
真摯なまでの真っ直ぐさ故の、理解されない優しさが。
それは、わたしには無かった物。
静かに、心が動く。
瞬間、彼女の姿にあるイメージがわく。
それは、雲一つ無い澄み渡った青い空。
いつか、わたしが恋焦がれていた世界の一片を思わせた。
「………………」
想いを固め、心に強く誓いを刻むのに時間は要らなかった。
この空が無くなるその日まで、生きていこう。
その日まで、あの人の為に生きよう。
決意を胸にした時には、すでに駆け出していた。
通り過ぎる度に聞こえる色々な声が気にならない。ただ、あの人の許へ。
そこに着くまで、ほんの数秒。
けれど、一弥がいなくなってから今までで、一番充実している瞬間だった。
わたしは、少しかがんで彼女を見下ろす。
彼女は、それに気付いてわたしを見上げる。
客観的に見れば奇妙な光景。
その中で、わたしは逸る気持ちと高鳴る鼓動を必死に押さえつけ、言った。
「あの、手じゃなくて……良かったら佐祐理のお弁当、食べさせてあげて……」
他者という世界と、自身を交差させる、言葉を伝える為の道。
それは誰もが持っていて。けれど、いつも&ß32363;がる物ではなくて。
そんな事をいつも思っていたから、わたしはもしかしたら震えていたかもしれない。
拒絶される事を、ただそれだけを恐れて。
彼女がその震えに気付いていたかどうかは判らない。
それでも、彼女は喜んでくれた。
不器用な子なのか、笑う事は無かったけれど、わたしには喜んでいるという事が解った。
また少し、今度はさっきよりも大きく心が動く。
思い出すのはあの日、闇の向こうの見えない星に託した願いの事。
きっと、わたしが願ったそこに願い星は無かっただろう。
だから、この人はわたしの願った通りの人じゃない。
けれど、そんな事はもうどうでもよくなった。
結局、わたしは寂しかっただけなのかもしれない。
たった一人の世界を望もうとも、人は一人では生きていけない生き物なのだから。
わたしでさえそうなのだから、この人も、きっとそう。
そして、この人の生き方はそれそのものが彼女を孤独に追いやっている。
人は、孤独の中にいると感情を忘れる。
わたしがそうであったように、誰もが。
けれど、わたしの周りには多くの人がいた。
歪な理由ではあるけれど、わたしは笑顔を作る事が出来た。
じゃあ、彼女は?
彼女の周りには、誰かいたのだろうか。
かりそめであろうとも、笑顔を向けていた人は、いたのだろうか。
……たぶん、いるんだと思う。いや、「いた」のかもしれない。
それはわたしには判らない。わたしは彼女の事を何も知らないのだから。
でも、だからこそ、わたしは彼女の事を知りたくなった。
友達になりたくなった。
この人を、幸せにしてみたい。
共に過ごし、心を通わす日々を過ごしてみたい。
彼女が迷惑ならそれまでだけれど、もし、それを快く思ってくれたなら。
一緒の時間を過ごして、触れ合って、共に笑い合いたい。
そうすれば、いつか。
果てない寂しさから、両手を広げて。
錆び付いた「佐祐理」という世界を抱き締める事が出来るかもしれない。
それは、不確かな未来へと続く、今はまだ遠い新たな理想。
感想
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