「―――嫌いです。あなたのこと」
 そう言われて、もう一週間が経った。
 やっぱり、足が重い。
 学校に行くことそれ自体だってイヤなわけだけれども、そういう風な言い方じゃなくて、やっぱり、端的に重い。
 ごめん。
 って言いたかった。言いたくなった。
 後から考えれば考えるほど、その思いは強くなった。
 横を見ると、楽しげに談笑しながら歩いていく同級生たちの姿がある。もちろん上級生もいるし、下級生だっている。スカーフの色が沢山あって、同じ色で組んだり、違う色で組んだり、本当にカラフルで、まぶしい。
 ほんの一週間前までは、確かに俺たちもそうだったはずなのに、その記憶からはもはや、色と言うものが奪われている。


例え、誰が覚えていなくとも




「相沢くん? まだ来てないわよ」

 そうですか、と彼女は答えた。
 顔色一つ変えずに答える香里の表情を見ていると、すでにあいつには何もかもお見通しじゃないのかって、怖くなる。実際にあいつは怖いし、頭もいいから、こういう時はついそんな風に思い込む。
 彼女はと言えば、やっぱり表情を変えているようには見えない。普通の人にはきっと分からない。今の俺だって分からない。彼女の顔が、ほんの少し沈鬱だって言ってみたとしても、それが俺の思い込みでないなんていう保証はどこにもない。
 結局、俺は教室に入れなかった。それどころか、学校をサボってしまった。



「何してるんですか、祐一さん」
 
 ん、っと顔をまぶたを開くと、栞がいた。あいつの影が俺にかかって、それで太陽の光が眩しいということはなかった。
 栞といっしょだよ、と言うと、じゃあ祐一さんも自主休講ですね、と栞が笑う。俺も笑った。
 今日はバニラアイスはないんだな、って言うと、祐一さんに買ってきてもらうつもりですから、って栞はのたまう。またかよ、と大仰にため息をついてみせると、栞は甘えた声で、祐一さんと食べるバニラアイスは美味しいだろうなぁ、なんて言ってくる。
 大体、俺が授業をサボって、それで栞と会っちまう日には、このパターンで小銭が消えていく。
 美味しいです、って笑いながらバニラアイスを口に運ぶ栞を見ているのは、そんなに悪い気はしない。最近はコンビニにいくと、あのヘラみたいなのは無くなって、透明なプラスチック・スプーンを渡される。だから、栞がいま使っているのもそれだ。
 ザ・カップ、超バニラ。
 栞のお気に入りで定番のバニラアイスだが、今日はあいにく一個しか残っていなかった。幸運にも、と言うべきか。
「祐一さんは食べないんですか?」
「一個しかなかったんだよ」
「そうなんですか」
 そう言うと俯いてしまった。しまった、と思った。実はおなかの調子が悪いんだ、とでも言っておけばよかったかもしれない。
 が、そうは言わなくてよかった。と言うのも栞の奴は、俯いたかと思ったらすぐに顔をあげて、
「ハイ」
 とスプーンにバニラアイスひとすくいを乗せて差し出してきたものだからだ。
 思わず俺は止まってしまった。意味もなく、差し出されたバニラアイスを凝視してしまう。白い、ただひたすらに白い。今はもう辺りに雪はないから、多分そのせいでこの白さが際立っているのだろう。実際、これより白いものはここには無い。
 スプーンの大きさは親ゆび程度のもので、それを上手く覆う形で乗っているバニラアイスは、既に端っこが溶けかかっている。
「食べないんですか?」
 栞が不思議そうな、どこか悲しそうな顔をする。差し出されたスプーンがちょうど俺と栞の間をさえぎって、その透明なフィルターが栞の表情を歪ませたのかもしれない。白いアイスが盛られたところは、そもそも単なる壁になってしまっている。
 溶けた雫が流れるのより、俺がスプーンをくわえるのが早かったのは、多分、単なる偶然だろう。
「わぁ」
 俺の早業に、栞が思わず感嘆の声を漏らす。俺は2、3秒ほど舌先でもごもごして、飲み込んだあとひとこと、「バニラだな」と言った。
「バニラ以外だったらびっくりです」
 と言う栞に俺は、
「分からんぞ、アイスに似せた紙粘土かも知れない」
 と言った。
「でも、買ってきてくれたのは祐一さんです」
「つまり、俺の見ぬ間に栞がすりかえたということになる」
「私はどんな凄腕なんですか」
「そうだな、栞の手癖の悪さには全米が舌を巻く」
 と、そこまで言ったところで、栞はくっくっと笑いを漏らして、「そんなこと言う人、嫌いです」と言った。栞の視線が俺に向かっているのにつられて、俺も笑いをこぼした。
 だが、その笑いが引きつっていない自信はなかった。



「おかえりなさい、祐一さん」

 家に帰ると秋子さんが出迎えてくれた。
「今日は早いんですね」
「たまたまです」
「奇遇ですね」
「そうですね」
 と言うのも、俺が帰宅したこの時間は、到底秋子さんが帰ってきている時間でもなくて、それはもちろん俺についても同じで。
 秋子さんの格好はいつもどおりの白いセーターにピンクのカーディガンで、けっして今さっき帰宅してきたようでもなければ、これから仕事に出ようという雰囲気でもない。
「もうお昼はすみました?」
 靴を脱いで家に上がるとき、後ろから秋子さんがそう声をかけてくる。「いえ、まだです」
「じゃあ、一緒に食べましょう。私もまだでしたので」
 そのセリフに、どこか有無を言わさぬものを嗅ぎ取ってしまったのも、俺のかってな妄想なのかもしれない。
「……献立は、なんでしょう?」
 立ち止まった俺は、思わずそう聞き返した。それに遅れて首をひねってそちらを向くと、秋子さんはいつもの、あの左手を頬に添えたお決まりのポーズをしていて、穏やかに笑っていた。
「グラタンがあるんです、ホワイトソースの」
 じゃあそれを頂きます、と言おうとしたとき、何か俺は不可解な気持ちを覚えた。理由はない……分からない。秋子さんは、俺のことを黙って見ているだけだ。
「美味しそうですね」
 俺は声をひねり出す。
「はい、私もそう思って買ってきたんです」
 秋子さんは笑っている。
「テレビで見て」
 笑っている。

 秋子さんがキッチンに入って準備をしている間、俺はぼうっと、リビングでテレビを眺めていた。ほんとう、眺めているだけで、内容はぜんぜん頭に入ってこない。音もいちおう鳴ってはいるが、それこそ右の耳から入って左から抜けていく感じだ。
 番組よりはコマーシャルの方がまだ目に留まった。洗剤のコマーシャル。うちでも使っている、A TOPとか言う商品ので、秋子さんのお使いで買って来たことがあるから、かろうじて記憶に残っている。
 テレビの中で、エプロンをつけた女性が、子供のシャツの黄色い汚れを目にして困っているところが映されると、続けて実験用の二つのビーカーとそれだけしか置かれていないテーブルが登場して、そこでは誰のものか分からない右手が、汚れがついた布が沈むビーカーに洗剤をおちょこのような入れ物から慣れた手つきで注いでいく。片方のビーカーの前にはA TOPと書かれたプレートが置かれて、もう一方には他社製品と書かれたものが置かれている。取り出した布の様子は、当然のごとく、A TOPの方は、まるで汚れそのものが最初から無かったかのように、綺麗さっぱり漂白されてしまっていた。一方、比べられる他社製品の方は、いまだその汚れの痕跡をかすかにではあるが、ちゃんと分かる程度に残していた。
 どうも、さっきからその映像のことばかりが頭によぎる。俺は、何に引っかかっているんだろう。
 テレビの横にはサイドボードがあって、そこには家族の写真が立てられているのだけれども、そこにすら何か不自然さを感じてしまう。
 子供、か……。
「祐一さん、出来ましたよ」
 遠巻きにかかる秋子さんの声に、俺はそのけだるい雑音から目覚めた。



「美味しいですよ、これ」
「そうですね。上手く作れたみたい」
 秋子さんは、俺がグラタンをいくらか口に運ぶのを見守って、その後、俺の表情が明らむのを見て、自分も口にしてみた。じっさい、秋子さんの作る料理はなんでも美味しいし、これもその定理から漏れなかっただけのことにすぎない。
 だから秋子さんがやっていたことだって普段どおりのことにすぎない。舐めるように観察するがごときあの目は、単に、自分の料理がちゃんと美味しく出来ているか、それが気になってのもの以外のなにものでもない。
 そうに決まってる。
「本当は上手くできるか自信がなかったんです」
「またまた。秋子さん謙遜しなくていいんですよ」
「いえ本当のことですから。私、ちゃんとしたホワイトソースを作ったことがなかったんです」
 ごくっ、と俺の喉が鳴った。
「ちゃんと綺麗に白くなってよかったです」
「そう、ですよね。料理って、見栄えとか風味とかも含めてのものですもんね」
「はい」
 秋子さんは笑っている。
 俺はスプーンを持つ手をたゆまずに動かし続けた。
 ――ピンポーン。
「……あら、誰かしら。ちょっと行ってきますね」
 俺が返事をする間もなく、秋子さんはスプーンを置き、玄関へと歩いていく。俺も追いかけるようにスプーンを置いた。そのときグラタンは、ちゃんと、綺麗に、残さず平らげられていた。思わず大きく深呼吸をしていたことに気づいたのは、グラタンを完食したことを頭で確認した、その後のことだった。
「……あら、祐一さん?」
 キッチンから、秋子さんが困惑する声がする。理由は分かってる。俺がいないからだ。食事が終わった俺はリビングに戻って、また見るとも無しにテレビの前でぼうっとしている。
 俺の存在に気づいた秋子さんがこちらにやってくるほどには、うつらうつらとしていた頭に、なおいっそうの霧がかかっており、もう起きているとはとても言えなかったのかもしれない。
「郵便屋さんでした。小包とはがきが一杯……あら、このはがき、あて名がないわ。どなたからかしら……。まあ、裏にも何も書いてない、白紙だわ」
 ―――――――――眠い。



 ―――夢。
 夢を見ている。
 忘れられた少女の夢。今まさに忘れられてゆく少女の夢。
 あいつの声が聞こえない。あいつの声が消えてゆく。
 世界が白に染まっていく。世界が白く消えていく。
 白が世界をうずめる前に、なんとしても思い出さないと。
「ねえ祐一くん、どうして忘れちゃったの?」
 バカ、忘れてなんかいない。もし忘れていたりしたら、今こうやって話すなんてこと出来るわけないじゃないか。名前だって呼べる。お前は
「違うよ祐一くん、あの子のこと」
 あの子、そうだ、分かってる、分かってるよ、だってほら、俺は、あいつのことをこんなに気にして
「忘れてるよ」
 悲しそうな目をしてやがる。何だよ。忘れてくださいって言ったのはそっちのくせに。
「だからあの子に嫌いって言われちゃうんだよ」



「―――!?」
「わっ、わわっ!?」
 跳ね起きた俺の横っ面にそんな驚きの声と吐息がかかる。
「ごっ、ごめん祐一、まさか起きてるなんて思わなかったよ」
 あたふたとそんなことを言うのは……名雪だ。
「……お前、何してんの?」
「え、えっと、もうすぐご飯だから、祐一のことを起こしてあげようって」
「ごはんって、さっき食べたばっかりだぞ」
「もう、祐一やっぱり寝ぼけてる。はい」
 と言って、棚の上においてあった目覚まし時計を両手で掴んで俺の目の前に差し出してくる。
 七時半。
「………………ああ」
「うん」
 嬉しそうに頷く名雪。何が嬉しいんだかさっぱり分からない。ごはんが嬉しいのだろうか。そう言えば名雪の奴は既にパジャマに着替えているし、風呂上りなのかホカホカ上気している風でもある。どちらにしてもまず昼下がりってことはなさそうだ。
 ケロピーの形を模した時計を思わずじっと眺める。透明なプラスティックの表面に、覗き込んでいる俺の顔がぐっとアップになって映っている。どことなく憔悴した顔、色の薄い瞳、額に刻まれた肉の字……肉!?
「おい名雪これはどういうことだというかそこに転がっているマジックインキはなんだおいまて逃げるなちゃんとしろ」
 説明を。
 そろりそろりと外へ行こうとする名雪の首ねっこをつかまえて俺が問いただすと名雪は
「にゃあー」
 と言った。
「いつからお前は猫になったんだ」
「にゃんにゃん」
 話にならない。
「名雪、ちょっと舌を出してみろ」
「にゃ?」
 ちろっと舌を出す名雪。俺は迷わずそれを指先で摘む。
「ほへっ!?」
「にゃ雪くん、君に少々聞きたいことがあるのだが」
 猫語が移った。
「にゃ、にゃにはにゃ、うーいき」
「僕の額に見覚えのない聖痕が出来ているようなんだけれども、心当たりはないかね」
「ひははいひははい、わはひへんへんひははいよ」
「名雪、指に羽虫がついてる」
「わっ、わわっ、ひゃふっ!?」
 驚いてたじろいで俺が指で舌を摘んでいるのに暴れるものだから舌を引っ張ってしまった。というか唾液がだらだら流れてきて滑ってしまったのだが。
「うー、痛い」
「自業自得だ」
「虫さん、いなくなった?」
「ほれ、お前の人差し指のとこ」
「え、わ、くろ……、って、ゆーいち、これはインクの跡じゃない。ひどいよーーー」
「そこでだ名雪くん」
 俺はがしっと名雪の肩を掴む。
「どう見てもお風呂上りな君の手にどうしてインクなんてついてるのかねぇ」
「えっ、でもほら、これ水性、だよ」
 にこっとする名雪。
「なおさらじゃああああああああああああああああああああ!!」
「わあああああああ、ごめ、ごめん、つい出来心でえ」
 俺が奴の髪を引っ張って頭を口元に寄せて耳元で叫ぶと名雪はそんな風にようやく自分の非を認めたようだ。
「くそ、小学生じゃあるまいし、つまらないいたずらを」
「だってぇ」
 と、いったん切って、
「祐一の寝顔、すぅっごく、かわいかったんだよお」
「………………」
 ポカリ。
「あうっ」
 思わず無言で殴ってみたりする。軽く。
「バカバカしい……俺も風呂に入ってくるよ。夕飯は上がってから食べるから」
 そう言って俺は部屋を出ようとする。


 ――― あうー、祐一なにするのよー! ―――


 その言葉が、まるで電撃にも似た衝撃で、俺の体をつんざいた。
「おい、今―――」
 そう言いながら、閉めかけた扉を開いて部屋の中を覗き込むと
「うにゅ」
 ほんの少し涙を目に溜めてベッドの上に座っている名雪の姿がある。
「……ん、どうしたの」
「名雪、さっき俺のことを呼んだか」
「え、何のこと」
「……いや、なんでもない」
 そう言って、俺は部屋に名雪以外の姿がないことを確認して、今度こそ外に出て、扉を閉めた。
 階段を下りながら考える。確かに声はしたはずだ。でもそれは名雪のものじゃない。
 風呂場について、服を脱いで、浴室の扉を開ける。
 するとそこから一挙に湯気が吹き込んでくる。目もくらむほどの湯気、視界が一気に白く染まる。
「うわっ」
 俺は思わず湯気を両手でかきわけた。しかしその程度でどうにかなるわけもない。
「名雪め、風呂のふたを閉め忘れたな」
 と、毒づいてみたが、しかしちゃんと見てみると、風呂のふたはちゃんと閉められている。おかしいな、と思った。となると、名雪が俺の部屋に来たのが風呂から上がったすぐあとだったのか、それとも秋子さんが上がったばかりだったとか、いずれにしても誰かが使ったすぐあとだったということなのだろうか。
 よく分からないしどうでもいいことだが、とりあえず風呂のふたをあけることにしよう。
 俺はふたの両端を掴んで風呂を開いた。するとそこからも同じくやはり湯気が吹き上げ、そこからはあの味噌汁の匂いがした。
「……は、何だって?」
 俺はもう一度、吹き上げてくる湯気に身をさらし、その匂いを嗅いでみた。別に味噌汁の匂いなどしない。
 なんだ、この違和感。いやそうじゃない。何なんだ、この既視感は。
 思わず俺は波一つ立っていないその穏やかな水面に手を入れると、風呂に張られたお湯を手のひらにすくって、一口飲んでみた。
 ……別に、なんの味もしない。
 浴室の扉を開け放していたせいで白い湯気はどんどん消えていき、もやが晴れるように現れた水面に映る俺の顔は、ぐにゃぐにゃとうねっていて、全然すっきりなどしていない。
 俺は思わず水面を殴った。砕け散った俺の像は、しかし、あっという間に元の姿に戻ってしまった。



「祐一、元気ない」
「ああ、何でだろうな」
「おなかが空いてるから……?」
「いや、それは違うと思うが」
 屋上で、帰宅する生徒たちの姿を眺めながら俺たちはそんなことを言っていた。俺はガードフェンスを掴みながら、隣にいる舞は背中越しに身を預けながら。
 校庭には凄まじい数の生徒が歩いていて、誰がだれだか見分けることはできそうにもないし、見分けようという気も起きない。そもそも、なんとなく、どうでもいいことである気がしてならない。
「……ん、何だ?」
「……あげる」
 見ると、横から舞が肉まんを差し出している。一個じゃなくて、一個の半分、多分、自分のを割ったんだと思う。
「お前、どこからこんなもの出してきたんだ」
 受け取ってから俺はその疑問を口にした。
「今日のおやつ」
 舞はもごもごしながらそんなことを言う。
「ほっへほほいひい」
「喰うか食べるかどっちかにしろよ」
 ごくん、と盛大に飲み込む音が聞こえた。
「とっても美味しい」
「そうか、それは良かったな」
「食べないの」
 ふと気づくと、舞の視線が俺の手の中の肉まんに集中している。
「欲しいならやるよ」
 そう言って、俺は手の中にあった肉まんを差し出した。
「わあい」
 などと、喜んだ声をあげて舞が手を差し出してくる。自分から俺にくれたのに、何をやっているんだと思っていたが、すると
「なんて嘘」
 と言って手を引っ込めた。
「おい」
「それは祐一のだから」
 そしてもう一度、背中をフェンスにあずけて言った。
「探し物は、見つかった?」
「――――――――――――――――――あと、少しで見つかりそうなんだ。このもやの掛かった記憶から、大事なことが思い出せそうなんだ」
「じゃあ」
 そのとき、フェンスにかかっていた体重は消え、
「祐一は」
 ぎゅっと、俺の背中にその体重がのしかかってきた。
「次にここに来るまでに、探し物を見つけること」
 俺は後ろを振り向かなかった。振り向くまでもなく舞の感触は分かっていたから。
「……ああ」
 そう、息を吐いた直後に、俺は見つけた。校庭から、揺らぐことなくまっすぐに屋上の俺に向かって視線を刺してくる、彼女のことを。
「じゃあ、……行ってくる」
「うん」
「舞」
「何?」
「ありがとう」



「ここに来るのは一週間ぶりですね、相沢さん」
 そこについて、最初に口を開いた彼女の言葉はそれだった。
「そうだな」
 そして俺も彼女の、あいつの名前を呼んだ。俺たちが互いの名前を呼ぶということは、さながら一週間凍結していた時間を、解凍する合図のようなものだと、そのとき俺は思った。
「―――さわたりさん」
 そういうと、彼女は悲しそうな目をして俺を見る。
 風が吹いて、さやさやと草がそよぎ、何だか甘やかな匂いが広がる。
「一週間前のあの日のこと、覚えてますか」
「覚えてる、半分は」
 それが、俺にできる、一番誠実な答えだったのだと思う。
「……思えば、きっとあのときは、私もどこか心が、おかしかったのだと思います。今だったら、けっして相沢さんがそういう意味で言ったのでないことくらい、分かるのに」
 さわたりさんは、いつしか俺から目を背けて、そう呟く。
「……狐の呪い」
 突然、ぼそっと吐き出されたその言葉に、俺はびくっと震えた。
「もしかしたら、あの子は、最後の瞬間に、私のことを誤解していったのかもしれない。私があの子から相沢さんを奪っていこうとしていると、思われたのかもしれない。事実、そうだったのかもしれないけれど、それでも、私たちは、家族のように仲良く出来ていたはずだったのに、最後の瞬間のあの子には、もはやそれすら見えていなかった。覚えていられなかった。純真なあの子が、呪いなんて残すはずがない、そう思ったけれど、でも、あの子がそうと思っていなくて、自然にやってしまったことなら、それもないことじゃない」
 さわたりさんが、何を言っているのか分からない。
 ただ、俺と無関係のことではないということだけは、分かる。
 だから俺も、ここで口を開かなくてはならない。
「俺は、ずっと謝りたかったんだ」
「……何に対してですか?」


「俺が、君の名前を間違っていることについて」


「……そうですよね、私が事態を飲み込めたんですから、相沢さんが理解できないわけ、ないですよね」
 そう言って、不意に強く吹き上がってきた風にわたついた前髪を、そっと右手でおさえた。
「それでも、そこまでのことしか気づくことが出来なかった。俺は、本当に大事なことに多分、まだ気づいていないのだと思う。君の名前のことも、そのほかのいくつもの断片のことも、全部、本当に大事なことの、周りのことに過ぎないのだと思ってる。だから」
 俺は彼女を見つめる。
「俺は君に会いに来た」
「……ホントは、相沢……祐一さんが謝ることじゃないんです。だって、私だって、言い出すことができなかったんですから」
 ―――頭を上げてみる。気がつくと、彼女の距離が、さっきより近い。
「ねぇ、祐一さん、これから言うことは、本当は、本当じゃないかもしれません。つらいことかもしれません。……それでも、いいんですか?」
 上目遣いでこちらにそう語りかける彼女の口調がひどく優しい。
「そのために、今、ここにいる」
 すると、彼女が手を差し出してくる。
 彼女は何も言わないのだけれども、俺はその手を黙ってとった。
 多分、それで正しかったのだと思う。
「―――私しかあの子のことを覚えていないのに、あなたは私のことを覚えていない。それは、本当に呪いのようでした。信じたくないけれど、否定することはできなかった」
 俺は黙って彼女の話に耳を傾ける。
「私が、実はあなたと付き合っていたって言ったら、信じてくれます?」
 ―――信じる。
「私たちが、狐の女の子と出会ったって言ったら、信じてくれます?」
 ―――信じる。
「その子の名前が、さわたりまこと、って言うんだって言ったら、信じてくれます?」
 ―――信じる。
「その子が、一週間前に、私たちの目の前で、このものみの丘で、消えてしまったって言ったら、信じてくれます?」
 ―――信じる。
「私の名前が、天野美汐だって言ったら、信じてくれますか」
「信じる」
 
 彼女の名前を思い出した瞬間に、俺は美汐のことを抱き寄せていた。

「どうして…………俺は一週間前にこう出来ていなかったんだろうな」
「分かりません、……仕方なかったことなんです、きっと」
 俺も真琴も天野も等しく傷ついていて、そんなとき、抱き寄せてくれるだろう俺の呼んだ自分の名前が、先ほど消えてしまった真琴の名前であっただろう現実は―――皮肉すぎる。
「バカだよ……ホントにバカだよ……あいつは……。俺の口にだけ自分の名前を刻んでおいて……それで……みんなが忘れてしまってたら……誰も偲ぶ奴がいなくなったら、誰もあいつの墓に参る奴がいなくなったら、そんなの、さびしすぎるじゃないか……」
「それでも……他の誰に覚えていてもらわなくても……祐一さんに呼ばれていれば、あの子は幸せだったのかもしれません」
 ―――たとえその名が借り物でも。
「それでも、あいつはちゃんと存在していた―――」
 いつのかまにか、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、目の前にも、同じように涙で顔をぐちゃぐちゃにした美汐の姿がある。
「大丈夫だ。今、思い出したから、これで一人増えた。これでもう一度、俺はあいつのことを背負えるよ」
 ありがとう。そう言うと、せっかく止みかけた美汐の涙が、また溢れて服を汚す。

 例え、誰が覚えてなかろうとも―――、
「俺はあいつを知っている」「私はあの子を覚えている」

 そう、誓うように口に出し、俺と美汐は口付けた。
 一週間ほど遅れたけれど、やっと、俺たちは、あいつのことを受け止める。













 真琴は。
 俺たちにとって、初めて出来た娘だった。
 誰も覚えていなくても、俺たちだけは覚えてる。
 そのことを確かめるために、俺たちはここに墓を立てた。
 小さな白いお茶碗に、相沢真琴と名を書いて、今日もお菓子を持っていく。
 美汐と、二人で手を繋いで。
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