卒業
去年の今頃には満開だった桜も、どうやら今年は頑張りが足りなかったらしい。未だ固く閉ざされたままの蕾を見上げながら、水瀬名雪は静かに佇んでいた。乾いて節くれだった枝の隙間から、漸く春の気配を漂わせる穏やかな陽光が差し込んでその額を白く照らす。
と、光に切り取られるように照らされたその部分が、小気味良い軽い音と共に叩かれた。緩慢な動作で横を向いた名雪の視界に、右手に持った黒い筒状の何かを突き付ける人影が飛び込んで来る。
「痛いよ、祐一」
「痛いよ、じゃないぞ名雪。忘れ物だ、お前の」
そこには、どこかぼんやりとした様子の名雪に呆れた表情を向ける従兄弟の姿があった。見慣れた紺のブレザー姿。名雪と同じ高校の制服に身を包む相沢祐一は、彼女の従兄弟であると同時にクラスメートでもある。
正確には、クラスメートだった……だ。ついさっきまでは。
祐一が差し出したままの黒い筒――――自分の卒業証書に視線を落とした名雪は、しばらく無言で祐一の手元を見つめていたが、やがて幼い子供のように無造作に両手を伸ばすとそれを受け取った。
「……軽いね」
「当たり前だろ。中身は紙一枚だぞ」
呟く名雪に、何を今更と言わんばかりの口調で切り返しながら、祐一は肩に掛けていた自分の荷物を担ぎ直す。卒業式に持ってくるのには不似合いな、大型のスポーツバッグが重たげに揺れた。名雪は一瞬だけそちらに眼を遣り、すぐに何事も無かったように視線を逸らせる。そんな名雪を見つめる祐一の顔が僅かに伏せられた。無言のまま立ち尽くす二人のすぐ隣を、同じ卒業生達が何人も通り過ぎて行く。談笑する者、別れを惜しむ者、感慨深げに校舎を見上げ、語り合う者。ざわめく校庭の中にあって、二人の周囲だけが不思議な静寂に包まれていた。
「やっぱり、桜が無いと寂しいな」
不意に、裸の桜を見上げて祐一が呟く。行き過ぎる人の流れを眺めていた名雪は、その言葉に怪訝な表情を浮かべて振り返った。
「そう? そう云うものかな」
冬には一面雪で覆われるこの街にとって、今の季節に桜が咲いていないのは大して珍しい事でもない。むしろ、満開だった昨年が異例と言えるだろう。雪の残る日に卒業式を迎えた事さえある名雪には、桜のある風景の方がどこか違和感がある。
「……思い入れはあるさ」
唇の端に笑みを浮かべた祐一はそう答えると、枝の隙間から零れる陽光に眼を細めた。その瞳は遠く、此処には無い幻の桜を見つめている。此処よりずっと遠く―――――彼の故郷に咲く桜。毎年、旅立つ者を見送る桜。横顔を見つめても、彼を包むように降る桜吹雪は見えない。それは、祐一が遠い地の人である事を実感させる瞬間だった。
そして今日、彼はそこへ帰って行く。
「行こっか」
「ああ」
沈黙は数回の瞬きの間。小さく頷き合うと、二人は並んで脚を踏み出した。その姿はざわめく人の流れへ溶け込んで行く。敷き詰められたタイル一つ一つの模様をも記憶に焼き付けようと、流れはゆっくりと進んで行く。
そして、大抵の者がそうであるように、二人も校門の前で足を止めた。無意識の内に校舎を振り返り、その白い姿を見上げる。一人で、みんなで……そして二人で、此処に刻み付けたものは沢山在る。在る筈なのに、何か言おうと動いた名雪の唇から言葉が零れる事は無かった。
今にして思えば、それはある種の揺り返しだったのだろう。
「まだ練習してるのか?」
いきなり掛けられた声に、さっきから眉間に皺を寄せて自分の足下を凝視していた名雪は顔を上げた。すると、目の前僅か数センチ程の至近に人の顔があって、驚いた名雪は思わず動きを止める。上目遣いの名雪と眼を合わせて、覗き込むように身を乗り出した祐一が笑っていた。その顔が不意に遠ざかると、入れ違いに伸びてきた人差し指が名雪の眉間を突っつく。
「表情が固いぞ。恐いよお前」
「だって、この格好動きにくいんだよ〜」
何時も通りの、少し斜に構えたからかいを含む笑みを浮かべる祐一の顔を上目遣いで見上げながら、淡いブルーのドレスを身に纏った名雪は頬を膨らませた。拗ねたような表情も、強張った顔を両手で揉みほぐす仕草もどこか子供っぽく、大人びた装いには似合わない。上背もスタイルも顔立ちも、もはや少女を卒業しようとしているのに、時折非常に幼い内面を覗かせる。外見と精神のアンバランス。水瀬名雪にはそういったちぐはぐさが何時も付いて廻っていた。こんな場面では、特にそれが際だっている。
生徒会主催の舞踏会。高校の行事としてはあまり類を見ないが、この学校では伝統的な行事とされている。尤も、強制ではなく自由参加の集まりの為、講堂に集まった人数はそれほど多くない。その内の多数を占めるのは卒業間近の三年生達だった。一、二年生の頃から参加しているのはよほど裕福な家庭育ちの者か、一部の物好きな者達だけしか居ない。普通の高校生にとっては、ドレスとタキシードとワルツの世界は何処か遠い場所にあるものなのだ。それでも、折角だから最後の年ぐらい参加しようかと考える者は多いらしく、この会は何時の間にか卒業前最後の行事として認識されるようになっていた。
立ち尽くしていた名雪の隣に、祐一が身体を滑り込ませて来る。講堂の壁に寄り掛かった祐一は、ざわめく会場を楽しげに眺めていた。その視線を追って、名雪も着飾った生徒達が談笑している姿を見回す。パーティーは予想していたよりもずっと賑やかで、大きな笑い声が幾つも飛び交っていた。舞踏会とは云っても開催者も参加者も高校生なのだし、当然と言えば当然なのかも知れない。
「香里達は?」
「ん? 楽しそうだったからな、お邪魔だと思って逃げてきた」
不意に真横を見上げて口を開いた名雪に、祐一がにやりと笑って答えた。
名雪もまた記念にと参加した一人なのだが、彼女と祐一の二人については別の事情も含まれている。二人と、そして二人の共通の友人である美坂香里を舞踏会へと誘ったのは、やはり共通の友人である北川潤だった。二年生の頃から祐一、名雪、そして香里と四人グループで行動している事が多い彼が、三人を何かに誘う事は珍しくなかったし、何より彼は一年生の時から舞踏会に参加している物好き組だ。何時になく力を込めた口調で折角だからと主張する潤に、三人は特に躊躇もなく頷いた。但し、祐一と名雪だけは一瞬目線で合図しあったが。
不器用なムードメーカーと素直になれないブレーキ係は、いま漸く輪の中で手を取りあい踊っている。
「そっか……香里、良かったね」
人波の向こうの親友を、名雪はそっと祝福した。自分の事のように幸せそうな表情を浮かべる横顔を、穏やかな瞳で見下ろしていた祐一は、視線に気付いた名雪が振り向いた途端に何時もの飄々とした顔に戻る。
「直接言ってやれよ」
「やだよ〜。わたしだって邪魔者になりたくないもん」
茶化した口調で言う祐一に、名雪は頬を膨らませてそっぽを向いた。その反応に、祐一が声を出さずに笑っているのが判る。姿が見えなくても、声が聞こえなかったとしても、こんな時祐一は笑っているのだ。
今までずっと、それは変わらない光景だったから。
その時、ひときわ大きな音を鳴り響かせて一つの曲が終った。微かな余韻を感じ取ろうとざわめきが消えて、不意に静寂がその場を支配する。
唐突に、名雪は世界から投げ出されるような感覚に襲われた。理由はよく判らない。ただ漠然とした不安が、息を吸い込んだまま呼吸を止めた胸の内から滲み出してくる。
身体の前で組んでいた両手は、無意識の内に解かれていた。指先から何かが抜け落ち、力を失った両腕はゆっくりと下がって行く。自分が立っている床が、急に頼りなく感じた。指先から抜けていった何かは、足元で渦を巻いてその場所を崩れさせて行く。
名雪は思わず目を閉じた。すぐに始まる筈の次の演奏は、いつまで経っても始まらない。無数の生徒達のざわめきも、その気配さえも感じられない。未だ曖昧なままの巨大な不安感だけが、名雪の全身に拡がって心を押し潰していく―――――。
「名雪」
名を呼ぶ声と共に、熱を持った大きな掌が投げ出された名雪の手に触れ、そのまま強く握り締めた。我に返り顔を上げる名雪。振り向くと、いつになく真面目くさった顔の祐一が見下ろしている。
「一回くらいは踊るぞ」
「え?」
きっぱりと言って、祐一は名雪の手を握ったまま前へ歩き出した。急に手を引かれて名雪はつんのめりながら一歩を踏み出す。それが合図であったかのように次の演奏が始まった。舞踏会のざわめきが戻ってくる。そのざわめきの中心にある輪に向けて、祐一はどんどん進んでいく。
手を握り締める祐一の熱に、何時の間にか名雪の内の不安感は溶けて消え去っていた。このまま祐一に全てを委ねていれば、それで良いのだと思った。祐一の隣に居る事が名雪にとって全てであり、それそのものが幸福だった。ただ無邪気に。子供のように。
輪の中で手を取り合い、祐一と名雪は踊る。名雪は相変わらず眉間に皺を寄せて自分の足元を見つめながらだったし、対する祐一はと言えば、こんなもんは度胸だなどと言い放って堂々たる自己流だったが。それでも二人は幸せだったのだ。
そしてこの夜は、水瀬名雪がそのように在る事が出来た最後の時間となった。
ずっと止められていた時計の針が、ようやく動き出した時から。
ガラス戸を叩く音がして、薄闇の中で蹲っていた名雪は顔を上げた。月明かりが差し込むベランダへと顔を向けて、名雪は一瞬ぎょっとする。ガラス戸の向こう、腰辺りの高さから真横に首が突き出していた。不気味な光景に名雪が凍りついていると、突き出した首の隣に手が滑り出てきて、指の動きだけで何度も手招いた。
「ゆ、祐一?」
思わず声を上げかけて、今が深夜である事を思い出し慌てて口を押さえる。急いでガラス戸に駆け寄った名雪は、鍵を外して扉を開けた。ガラス戸の脇の外壁に寄り掛かってしゃがみ込んだ祐一が、にやりと笑って片手を挙げる。
「よう、名雪」
「よう、じゃないよ祐一」
声を潜めたまま、名雪は意味も無く周囲を見回した。部屋の中に入るよう促したが、祐一は首を横に振って動かない。仕方なく名雪も床に膝を突いて目線を合わせ、祐一の顔に自分の顔を近づけた。そして同時に、あ、と声を上げる。
「泣いてたのか?」
「え? う、うん」
今更ながら、自分が泣き腫らした眼をしているだろう事を思い出し、名雪はパジャマの袖で目元を擦った。ずっと泣いていて、鏡も見ていないからどんな酷い顔になっているか判らない。名雪は少し恥ずかしくなって俯いた。
「それよりも、祐一……それ、伯父さん?」
問い返しながら、上目遣いに祐一の左頬を覗き見る。祐一の左頬骨のあたりに、大きな痣が出来ていた。只でさえ青褪めたそれは、月光の薄明かりの中では黒くも見える。名雪の心配げな視線に、祐一は苦笑を浮かべてそれを撫でた。
「いや、これはお袋。いきなりグーでやられた」
「……伯母さんが?」
「ああ。久しぶりに会ったけど、相変わらず秋子さんと姉妹とは思えないぜ」
そんな事を言いながら祐一は笑う。名雪はとても笑えなかった。
「痛く……ない?」
そんな言葉が口を衝いて出た。言ってしまってから、馬鹿な質問だなと自分で思う。
「ま、痛いわな。当然」
名雪から目を逸らして、祐一は肩を竦めた。より深く俯いて、名雪は自分の頬を抑える。その痛みが自分にも与えられない事が辛かった。いとこ同士であるからと云う理由で引き裂かれるなら、その痛みは自分にも与えられるべきだと思った。
いとこ同士で惹かれ合う事が禁忌だとは今でも思っていないし、それに実のところ、水瀬名雪は相沢祐一をほとんど従兄弟として認識していない。
物心付いた時には祐一は名雪の隣に居た。幼い名雪には「従兄弟」の概念は理解できていなかったし、理解する必要も無かった。それでも何年か後、成長した名雪は自分と祐一が「いとこ同士」と云う他の友達等とは違う関係である事を知ったが、そのせいで名雪の祐一に対する認識が何か変わった訳でもない。子供同士の関係なんてそんなものだ。
だから、名雪が祐一に対し幼い恋心を抱いたのにも、従兄弟である事など何の関係もなかった。そしてそれは、長い年月と数々の出来事を経て恋人同士になった今でも変わらない。
勿論、名雪だって頭では自分達がいとこ同士である事を理解している。でも、本当は何も判っていなかった。それがどういう意味を持つのかについては、全く意識していなかった。いまはまだ親しい友人しか知らない二人の関係も、いつかは母や祐一の両親に打ち明ける事が出来ると、その時にはきっと祝福されると信じていた。
舞踏会の熱気が覚めないままに帰宅した二人を、祐一の両親が沈黙で出迎えるまでは。
祐一は両親を前にただ立ち尽くしていた。名雪は救いを求めて自分の母を振り返ったが、母は目を伏せて名雪からも祐一からも顔を背けた。
この時初めて、名雪は自分達が本当はどんな状況に立っていたのかを理解した。
禁忌に触れていた訳ではない。けれど、選択するにはあまりにも険しい道を、祐一と名雪は歩いていた。名雪はそれを判っていなかった。祐一に手を引かれるままに歩き、祐一の背中だけ見ていたから。
伯母に促されて、母は名雪を部屋へと連れて行った。名雪は呆然としていて、それに逆らう事さえ考え付かなかった。祐一とその両親だけが残ったリビングで、その後何が起こったのかは判らない。明かりを消したままの部屋で、哀しげな表情を浮かべた母はそっと名雪を抱き締めた。母の腕に抱き締められて、しかし名雪は涙を流さなかった。未だ混乱していたのもある。けれどそれ以上に、母の腕の中で泣いてはいけないような気がして、名雪は無言のままじっと耐えた。
そして、母がそっと部屋を出て行った後、声を立てずに泣いた。あまりにも唐突に全てが終ってしまった事が哀しくて、一人で泣いた。
でも。
祐一は今でも、痣を拵えても、笑って名雪の所へやってきた。あの後、リビングでどんな遣り取りがあったのか名雪には判らない。けれど、信じてもいいのだろうか。祐一の手を、自分はまだ無邪気に取っていいのだろうか。
「祐一……」
躊躇いがちに呼ぶ声に祐一が振り向く。その頬に向けて、名雪はそっと手を伸ばそうとした。
「名雪、俺は」
硬い声。頬に触れようとしていた手が止まる。祐一は真剣な眼で名雪を見つめて、そして静かに告げた。
「俺は、卒業したら向こうに帰る事にする」
押し留められていた時間は、きっとその分だけ激しく流れ始めていた。
「今更言ったところで、言い訳にしか聞こえないけど」
祐一が口を開く。
「俺は、このままじゃいけないって、ずっとそう思ってた」
久しぶりの百花屋は珍しく空いていて、二人の周囲の席には誰も座っていない。
舞踏会の夜から一週間が過ぎていたが、名雪と、少なくとも表面的には祐一も、日々の生活には殆ど変化は無かった。朝起きて学校に行き、同じ教室で授業を受けて学校が終れば帰ってくる。変わったことと言えば、名雪が祐一に起こされずに自力で目覚めるようになったくらいだ。
祐一も名雪も、別に相手を避けるようなことはしていない。学校の中では普通に話もするし、仲間を交えて笑いあったりもしている。二人で話すのはあの夜以来だったが、それも単に機会がなかっただけで。
「死ぬまで隠し通すなんて出来る訳ないし、出来たとしてもそんな事したくない。いずれ、明かさなきゃならなかった」
でも、二人になるとわかる。もう以前の二人ではない事が。
「反対されるのは判ってた。反対されたら、俺達はどうする事も出来ない」
名雪の手にしたスプーンが、イチゴサンデーのクリームを抉り崩落させる。
「だから俺、まず俺が一人でも名雪を守れるようになろうと……」
次第に湯気の線が減ってゆくコーヒーに手を付けず、ずっと正面から名雪を見て話し続けていた祐一が不意に口を閉ざす。
名雪は顔を上げた。祐一の表情は真剣そのもので、名雪には祐一が本心を語っているように見えた。
「……いや、悪い。これはホントに今更だよな。そうじゃない。そうじゃなくて」
崩れかけたイチゴサンデーの向こうで、祐一は言葉を捜すのに苦労している様子だった。
名雪はその様子をじっと見つめている。祐一の表情は真剣そのもので、名雪には祐一が本気で何かを伝えようとしているように見えた。
「親父達に知られて、連れ戻すと言われた以上、これはもうどうしようもない……そりゃ俺も、駆け落ちの一つもやらかそうかと思わなかった訳じゃないけど」
祐一は冷めたコーヒーを漸く一口啜って、それからテーブルの上で両肘を付いて指を組んだ。
「でも、俺の親父やお袋はともかく、秋子さんの事考えたら、そんなのダメだって思って」
判るだろ? と問う祐一に、名雪は頷く。そして、それは祐一のお父さんお母さんだって一緒だよと言った。
「……ああ、そうだよな。だから俺」
僅かに紅いソースが残る透明な器を横に遣る間に、祐一は組んでいた指を解いてテーブルに両手を着き、半ば身を乗り出して名雪と正面から向き合った。
「今は我慢しようと思う。俺はそのつもりで向こうの学校受けてたから……」
祐一の表情は真剣そのもので、名雪には祐一が本気でそう思っているように見えた。
「……祐一」
でも。
そのどれもが、名雪が見たことのない祐一だった。
あの舞踏会の夜から、ずっと見てきた筈の、水瀬名雪の幼馴染としての相沢祐一の姿を見つけることは出来なくなっていた。
名雪が全てを委ね、その手を引いた祐一はもういない。或いはとうの昔にそんなものは消え去っていたのかもしれない。
一年前の雪の日、止まっていた時間が流れ出したその時から、幼い頃に名雪と共に在った祐一は居なくなっていたのだろう。
名雪が見ていた幻像以外には。
「約束する。きっと迎えに来るから」
だから、そんな事を言われても、わたしは。
「だから信じてくれ、名雪」
もうどの祐一を信じればいいのか。
時間が止まったままのつもりでいたわたしは、気付かない内に激流に呑まれて。
「……わからないよ」
「え?」
大きなスポーツバッグを揺らして、祐一が振り返った。唐突に口を開いた名雪を怪訝そうに見つめている。
さほど大きくないこの駅のホームにも、今日は人が溢れていた。行き交う人々が奏でるざわめきに混じって、構内アナウンスが列車の到着を告げている。
振り返った祐一の向こうに、祐一の両親の姿があった。その隣には母の姿もある。
「……この前の答え。わたし、まだわからないよ」
名雪は真っ直ぐに祐一を見つめて、もう一度そう言った。祐一は何の事か即座には理解出来なかったらしく、しばらく呆気に取られた表情で見返していたが、やがてその事に思い至ったのか表情を硬くした。
「わからないって……」
「祐一を信じていいのか、わからない。だってわたし、祐一の事全然知らないから」
いつも祐一だけを見ていたつもりだった。どんな時も祐一に手を引かれて、その背中だけ見て歩いていた。その背中は、二人の時間が一度止まってしまう前の幼い頃のそれで、名雪はずっと、ただそれだけを見ていた。
「祐一がどんな事を考えて、どんな気持ちでいたのか。どんな祐一が信じていい祐一なのか、わたしは全然知らなかったから」
長い時と様々な出来事を経て、ずっと祐一は変わり続けていたのに。
「あんなに一緒に居たのに、わたし何やってたんだろうね。祐一の言葉を信じていいのかどうか、わからないよ」
「名雪……」
今にして思えば、それはある種の揺り返しだったのだろう。
ずっと止められていた時計の針が、ようやく動き出した時から。
押し留められていた時間はきっとその分だけ激しく流れ始めていた。
時間が止まったままのつもりでいたわたしは、気付かない内に激流に呑まれて。
唐突に、永遠不変だと思っていた世界から投げ出されてしまった。
「だからわたし、わからないとしか言えないよ」
今は、確かな物なんて何もないのだから。
真っ直ぐ見つめてくる名雪を、祐一が見つめ返す。互いに見知らぬ人を見る視線で、互いの奥底まで知ろうとする視線で。
「そうか」
祐一はそう呟いて、名雪に背を向けた。
「じゃあ、俺は忘れる。この前話した事も、約束した事も。全部忘れるから、お前も全部忘れろ」
「うん」
名雪は振り返らない。目を逸らさずに、祐一の後ろ姿を見つめている。いままで見たことのない背中を見つめている。
「俺はもう、ここに帰ってくることはない。お前と再会することはない」
「うん」
一際大きく、構内アナウンスが流れる。人々のざわめきが大きくなり、遠くから無数の重い車輪が廻る低い音が響いてくる。
「だから、もし俺が出会うならそれは知らない誰かで、そいつにとっても俺は知らない誰かだ」
「うん」
祐一が一歩前へと進み出た。その熱い掌が名雪の手を握り締める事はもうない。名雪はその場から動かない。
「でも、多分俺はそいつの事が好きになる。そしたら、出来る事ならそいつにも俺を好きになって欲しいと思うだろう」
「うん。そうだね」
名雪が頷くと、祐一はもう一歩だけ踏み出して、そこで動きを止めた。遠くから響いていた電車の音は今はもう轟音となって、ホームのざわめきも何もかも呑みこんで掻き消して行く。
電車が走り込んで来た。巨大な鋼鉄の塊が、激流にも似た勢いで目の前を行き過ぎていく。
今はまだそれに抗う事は出来ない。不自然に押し留めてきた時間の重さを、二人は支える事が出来なかった。
だから、これはここでおしまい。二人が守ろうとした幼い恋は、ここで砕けて流される。
そして、重々しい音を立てて電車が走り去った後の閑散としたホームを背に、名雪は静かに歩き出した。
去年の今頃には満開だった桜も、どうやら今年は頑張りが足りなかったらしい。未だ固く閉ざされたままの蕾を見上げながら、水瀬名雪は静かに佇んでいた。乾いて節くれだった枝の隙間から、漸く春の気配を漂わせる穏やかな陽光が差し込んでその額を白く照らす。
「うん。そうだね」
名雪は呟く。大人びたその表情に、外見と精神のアンバランスさはもう感じられない。
「やっぱり、桜が無いと寂しいかもしれないね」
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