最後に話はできなかった。彼女は昏睡状態のまま、何も言わずに逝った。
 目の前の戸には、番号と"美坂栞"とプレートがかかり、その下には"面会謝絶"と貼り付けてある。深呼吸をしてから控えめにノックをすると、憔悴しきった父親が出てきた。最初こそ怪訝そうな顔をしていたものの、祐一を認めるとすぐに病室の中に入れた。
 鈍い照明が、部屋の中を隅々まで照らしている。部屋は白一色で、不思議なことに窓にかかっているカーテンが黒く、その箇所だけはこの白い部屋とかちあっていなかった。栞の母親がいて、隅には医者と看護婦らしき人もいた。
 目が痛くなりそうな程明るい照明の下に、栞がいた。真っ白いベッドに横たわって、彼女の顔に白い布がかかっている。着ている服は白、シーツも白、彼女は何もかもが白くて、その様は入院患者というよりも、白い部屋と一体化してしまった哀れな人間のようだった。
 おぼつかない足取りでベッドの前まで歩み寄って、何も言わずに栞を見下ろす。彼女の母親が泣きながら、父親に付き添われて出て行った。医者と看護婦が何か話をしていたが、やがて祐一には目もくれずに出て行って、部屋には祐一と栞の二人だけになる。
 栞の手を探して、そっと握る。微かな温かみは感じられたのに、手の形をした蝋を掴んでいるみたいだった。
 香里はどこにいるだろうか。本来なら妹のそばに付き添っていなければならないのに、いつからか彼女の姿を見ていないことに気がついた。
 白い部屋、無色の明かり、黒いカーテン、彼女の白い手。あまりに不自然な色合いだった。
 隅にある機械は電源を切られていて、それが祐一の目には不自然なものとして写った。ドラマや映画のこういうシーンでは機械が絶えず稼動していて、絶え間なく電子音を響かせている筈だ。その音が聞こえないというのはこの場においてまさに異常なことだった。
 気分が悪い。熱中症にでもかかったみたいに頭が呆けて、何か大切なことを忘れている気がする。何が大切なのか分からない。分からないのに忘れてしまった。
 栞の手を強く握る。白い手を見下ろすと、本来その中に無ければいけないものが抜け落ちてしまったように見えた。
 どうして。どうして。何もかもが分からない。一体どうしてだ。
 栞の白い手。色が無い。魂も無い。当たり前だ、彼女は既に
 それに香里の手。栞とは対照的に真っ赤だった。相反、逆向き、何もかもが噛み合わなかった。その彼女も既に
 吐き気がする。気持ち悪い。ここにいてはいけない。俺がここにいてはとても悪いことが起き(思い出す)てしまう。
 彼女の形相。濡れた髪の毛。ぼやけた明かり。鈍い輝き。白い、赤い、黒い、色。
 ぐるりと目の前がひっくり返る。視界が歪む。逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ。ここから出て行くんだ。早く。
 真っ黒に塗りつぶされていく視界。覆い隠されぼやけていく。
 その中で、栞の白い白い手だけが、とても印象的だった。

 
 二月一日の深夜に祐一が目を覚ました時、最初は栞の姿を見つけられなかった。彼女が残したスケッチブックを握り締めて、絶望しきって尚、祐一は栞の姿を求めた。その果てに何が待っているのか想像もできなかったけれど、動かないなんて選択肢は取ることは出来なかった。
 そうやって栞の姿を見つけたのが、一時間後だった。雪がそぼ降る深夜の町を走り回り、学校を訪れ水瀬家を廻り、最後に来たのが栞の家だった。
 彼女は家の玄関先で、力尽きたように倒れていた。祐一が最後に彼女の姿を見たときと同じく、雪が体中に降り積もっていた。相当の時間、こんな状態でいたに違いない。
 泣きながら恋人の名を呼んで、スケッチブックを放り投げて、祐一は栞を抱き起こした。温かみの欠片も無い雪みたいに、栞の顔は真っ白だった。何をしてやれるかも思いつかなくて、抱きしめようとした。
 そうして、彼女の身体が痙攣しているのに気がつく。寒さに耐え切れず震えるのではなく、死にかけた身体が発する最後の信号だった。それは人間が出すものとは思えなかった。栞の身体が栞でない何かに乗っ取られたみたいだと祐一は思った。
 ふと、栞はもう助からないことをこの時悟った。どんな神や天使が起こす奇蹟も彼女を拾い上げることはできなくて、栞はただ沈んでいくしかないのだと。
 この世界に、自分と栞の二人だけが取り残されたようだった。人間も、草木も、月も、雪すらも、周りの全ては凍りついたまま動くことはなく、存在しているのは二度と動かない栞と無力な自分だけだった。
 祐一は泣いて、叫んで、呪った。どうして栞が死んでしまうのか、自殺まで考え、踏みとどまり、生きることを選択した彼女の命が刈り取られてしまうのか、ひたすらに呪った。何が彼女を追い詰めたのか、苦しめたのかも分からないままに。
 かつて誰かが言った言葉を、その時思い出した。
 『あの子、何のために生まれてきたの』と。
 本当に、心底からその通りだと思った。栞が遺したい物も、伝えたい物も、まだまだたくさんあるだろうに、それなのに彼女は死のうとしている。
 祐一を残して、香里を残して、両親を残して、これまでの友達を、これからの友達も、みんな残して去っていく。
 何度も何度も、行くなと叫んだ。嘆願した。彼女は何も答えず、まるで何もおかしなことは起こっていないように雪が静かに舞い落ちるだけだった。このあたりの生き物が全て死んだか消えたのか、周りは静寂そのものだった。
 そのうちに家の中の明かりが灯った。玄関の戸が開き、栞の両親が出てくる。祐一に彼らが分かったのは、家の話を聞いたときについでに両親のことも聞いたと思い出したからだ。きっと何が起こっても対応できるように、ずっと起きていたんだろう。祐一はそう思った。
 最初に出てきたのは父親だった。隈を作った目で栞と祐一の姿を認めて、すぐに家の中に引き返した。代わりに母親が外に出てきて、泣きそうな顔で祐一と栞を家の中に入れた。母親は祐一から離れるとき、今まで本当にありがとうございました、と告げた。祐一は何も答えられなかった。
 栞を彼女の部屋に連れて行って付き添っていると、香里が静かに部屋に入ってきた。振り向いて見やると、彼女の頬はこそげてやつれて、二週間前までは元気そうだったその様子は見る影も無い。
 もう死ぬのかしら、と香里は言った。まるで吐き捨てるような言い方に、祐一は今更のように怒りが湧いて出てきた。
 血を分けた実の妹だというのに、今までその存在を無視してきた挙句、今際の時でさえそんな扱い方をするのか。何が姉だ、何が私には妹なんていない、だ。お前のどこに姉らしいところがあるんだ。どうして栞の絶望を一緒に分け合おうとしなかった!
 本当にもう少しで、香里の胸倉を掴みあげているところだった。今にも潰さんばかりに奥歯を全力で噛んで、怒りをなんとかこらえた。
 今まで無視してきた妹の最期だぞ、せめて看取る位したらどうなんだ、と精一杯の皮肉をぶつけた。暫く立って、声が聞こえた。
 私だって、助けられるものだったら、と聞こえた。淡々と、哀しみというよりはそれを既に通り越してしまい、何もかも諦めたような声だった。それから声が途切れて、ドアが閉まる音が聞こえた。振り向くと香里はもういなかった。
 香里に対して何の怒りも沸いてこなかった。彼女に対する激情は不完全燃焼のまま残り、ただ軽蔑の念だけを覚えた。
 それから何分かして、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。栞が乗せられ、彼女の両親を先に行かせることにした。後から向かうと祐一は二人に話して、父親と母親は救急車に乗り込んだ。そうしている間、香里は一切姿を見せなかった。
 やがてサイレンの音と共に救急車が夜の向こうに消えて、後には祐一が残された。
 香里はまだ家の中にいるのだろうか。妹が死のうとしているこの時に、のんびりと布団でも被っているのだろうか?
 ―――――もしそうだったら、本当に殴ってやらなければ気がすまない。後で誰に何と罵られても、俺は香里を殴るだろう。
 祐一は家の中に入り、水でも飲もうと台所を探した。考えてみれば栞の家の中に入るのは今日が初めてだし、この家だって前に彼女に教えてもらったから来れたのだ。
 そうやって家の中をうろうろしているうちに、ある部屋の明かりがついているのが目に入った。脱衣場と洗面所が隣にあったから、多分風呂だろう。単に電気を消し忘れたのかもしれないが、どうしても気になった。
 かららと戸を開けて中を覗き込んで、ぎょっとした。目の前の光景が何かを頭は理解しているのに、現実離れしすぎていて心が凍りついた。栞のことも、病院のことも、この一瞬だけは消し飛んでいた。
 今まで見ていなかった香里がそこにいた。湯気が立っているバスタブの中に腕を突っ込んだままくずおれていて、そのバスタブの中は赤黒くなっていた。水に赤と黒の絵の具を溶かしていっしょくたにしたようなその色に胸焼けを覚えた。今まで決して長い年月を生きては来なかったが、過去にあんな色を見たことは絶対に無かった。
 それから、頭、背中、手、足、体中のすべての血管から血の気がどんどん引いていき、ただ魅入られたようにそれを眺めているだけだった。天井のぼやけた明かりがより一層非現実感を増して、誰かの悪夢の中にでもいるようだ。
 あまりの光景に呆然としてから、はっと我に返ると駆け寄った。湯船に浸かっていた手首から夥しい量の血が流れ出ていて、横には模様のように血がついた包丁が落ちていた。
「くそ、しっかりしろ」香里の体を抱き起こした。だらんと手足が伸びきって、祐一にはもう死んでしまったように思えた。どうか本当にそうなりませんように、と願った。
 風呂場から香里を引きずり出そうとしていると、唐突に彼女が「相沢君」と言った。 
 その声を聞いたとたん、背筋が凍りついて、筋を抜き取られたような、気持ちの悪い感覚が全身を支配した。香里の声には、憔悴や苦痛とか、人間として大切なものがごっそりと抜け落ちたようで、例えるならば、人形が出すような声を発していた。
 目の前の少女は確かに美坂香里だった、けれども少女には何かが欠けていた。決定的なものが、香里として無くてはならないものが消えていた。身体だけが美坂香里で、心が誰か壊れた人間のものと取り替えられたみたいに思えた。
「私を殺して」彼女はぽつりと、ただ一言そう言った。その彼女の目は、泥のように濁っていた。
 驚きや混乱の感情は全く起こらなかった。むしろ、祐一にはそう言ってくる方が自然なように思えた。
 香里は近くにあった包丁を掴むと、無言で祐一に向かって柄を突き出した。それを握れ、と香里は目線で告げていた。けれども祐一は受け取らなかった。それ以前に手が動かない。かちんこちんに凍り付いて、その状態のまま土の底に埋められたようだ。
 鬼か夜叉のような形相で睨み付けてくる香里が何を感じ、何を考え、何を決意したかは分からなかった。しかし事実として香里は包丁で自分の手首を半ばまで切り、死にかけた体で眼前の怯えた男に、自分を殺せと包丁を突き出している。やがて時間が経てば二人は全く違う集団の中に入れられ、何もかもが別々となるのだろうけど、今この場では祐一と香里の二人しかいなかった。
 どんなに事実や世界を捻じ曲げ百万の嘘をついて誤魔化そうとしても、厳然としてその事実は祐一の眼前にあった。
 美坂香里という少女が祐一に自分を殺せと頼み、血に濡れた包丁を突きつけている。その事がどこまでも恐ろしくて、どこまでも現実離れしていた。
「だめだ」瞬きをすると、目が痛くなる。微細な猛毒の粒子が目の中に入って、そこかしこで暴れまわっているみたいだ。だとしたら何だ、それを放出しているのは香里か?
 逃げようとしても、足が動かない。突き放そうとしても、手が動かない。頭の動きも止まっているのかまともに考えることすらできない。返事をすることができたのは、生き物としての本能が働いたからだ。
 香里はますます鬼の如き形相で睨む。ああ、確か昔に似た話を読んだことがある。自殺を図った病気の弟が、兄に自分の喉下に刺さった剃刀の刃を抜いてくれと懇願するのだ。そのときも弟は尋常じゃない目で兄を見据えていて、兄はそれからどうした? そうだ、刃を抜いて弟を殺したんじゃないか。それからは、様子を見にきた近所の人に見つかって、お役人に捕まえられて流刑になったんだ。ざまあないははは。
 ふと気づいた――――止めを刺す必要なんて無いじゃないか。手首の傷からは止め処なく血があふれ出てきて、医者が見るまでも無く致命傷だ。だとすれば、俺はこのまま彼女から逃げれば良い。家の外まで出られればこっちのもの、追いかけてきたとしても途中で出血多量で死んでしまうに違いない。
 手が動くかどうか、微かに力をこめると、指先が反応した。もう片方に力を入れても、感度は良好だった。
 よし、これなら、いけ―――――――――
 香里の手が、祐一の手をがっしと掴んだ。ぎちぎちと物凄い力で締め付けてくる。驚愕のあまり放心状態に陥って見下ろすと、手を掴んでいるのは傷付いた方の手だった。手首からだらだらと血液が流れ出て床を汚す。
 嘘だ、ありえない、こんな血が出て、神経も血管もぐちゃぐちゃな状態で手が動くなんて、
「殺して、お願い」
 今度こそ力が抜けた。指一本でも動かせなかった。今更のように足が震え始めて、ああ、もう駄目なんだ、と分かった。何がどういう風なのではなく、体や心の全てが駄目になったのだと結論付けた。
 とつとつと、祐一の手を掴んでいるそれは語りだした。何を言っているのかまともに理解も出来なくて、それは何かを呟くようにして言っていた。
「最初は自分で試したわ。何度も何度も挑戦して、今度こそはと思った。でもダメだった。できなかった。あの子がやったようにやってみたけど、それじゃダメだって分かったの。私だけじゃダメ。仮に遂げられたとしても、あの子みたいに苦しむことができない。
 だから、相沢くんに手伝ってもらわなきゃいけなかったの。あの子が拠り所にしていた、貴方に殺してもらうのが。出来ないなら殺してやる。きっと貴方は見つけてくれると思ってた、こうなると思った」言葉を切って、深く息をついた。血が抜けすぎたのか、顔が真っ白になっているというのに、手を締め付ける力は全く弱まらない。
「ここに包丁をあてて、力を入れてくれればいいの。まだ、これじゃ足りない。それに、これ見て」言うと香里は血に濡れた包丁を落とし、歯で服の袖を引き摺り下ろす。その手首には包帯が巻かれていた。祐一の脳裏を薄ら寒いものが通り抜けていき、それを感じ取ったのか香里が頷いた。段々と彼女の目が輝いていくのが見える。濁った目に光が灯ると、こんなにもおぞましく見えるものだということを祐一は初めて知った。
「とって」香里が言って、祐一は大人しく従った。
 それは一見すると、デタラメに書いた地図のようにも見えたかもしれない。けれどもそれは、決して地図と呼べるものなんかじゃなかった。
 何度も自分で処置したのだろう。手首のところに付けられた何条もの傷跡はぐずぐずになっていた。化膿しかけているのか肉が変色している。こんな状態でよく生活できたものだと思うと、改めて吐き気とぞっとするものを覚えた。
「凄いでしょ、これ。あの子が切った晩とか、その一週間後とか、何回も何回も。本当、驚きよね。あの日音が聞こえて、部屋をのぞいたらあの子が血まみれで、泣いてたんだから」力なくあははと笑った。それからまた続ける。
「頭がおかしくなりそうだった。あの子のために何かしなきゃいけないのに、頭の中の他の部分じゃ、無理矢理にも忘れようとして、他の部分がそれに反発して騒ぎ始めて、二律背反っていうんだっけ、こういうの。あははははははは、だから―――――これでいいのよ。
 あの子は死ぬ。私もきっと死ぬ。相沢君は一人残って、多分私のことは、いつかは忘れるでしょうね。でもいいの。あなたが忘れようとして、それが実ったとしても、きっと心の奥の奥には、塵みたいになっても残りつづけるわ。きっと栞のことも」
 何も言い返せなかった。無茶苦茶な論理を振りかざしている彼女から目をそらすことも逃げ出すことも出来ない。香里は死人のようにぼやけた目をしながら、祐一に向かって、呪いのように語りつづけている。
「だから相沢君、あなたは私たちを背負って生きていくことになるわ。どんな所に行って、誰と話をして、何をしたとしても、ずっと私や栞はあなたと一緒にいるの。ひょっとしたら、貴方が死んだ後もつきまとうかもしれないわね」
 ね、お願い。だからやって。でないと、私は多分貴方に酷いことをすると思う」
 目の前の世界が単調になる。香里がもう何を話しているか分からなかったし、自分自身が何をしているかも、頭の中がぐちゃぐちゃになっていて理解できなかった。
 ぐちゃぐちゃの頭から灰色に染まった思考が浮き上がって、無機質で透明で温かみの欠片も無い光を放つ。
 その光は、祐一が握り締めた包丁が放つ光にとてもよく似ていた。
 握っているのは自分なのに、どこかふわふわした感じがする。現実感がまるで無い。自分の手の上から他の人が手を握っているか、幻を見ているようだった。
 香里が瞳の中に凄絶な光を宿し、「ありがとう」と言った。声が震えていたが、それが嬉しいのかそうでないからなのか分からない。
 手がぶるぶると震える。自分が何をしようとしているのか、さっぱり見当がつかない。気持ちが悪い、頭が痛い。水を飲みたかった。今ならばプール程の容器でも楽々と飲み干せるだろう。
 傷口に刃を当てた。じくりと嫌な感触がして、背筋が震える。
 時間が経っても手が動かない。その時間の感覚もおかしくなってきている。荒い息をついたまま、引くことも押すこともできない。くそ、手が動かないぞ。俺は何がしたいんだ?
 香里の方に目を向けて、彼女の頭がもう落ちているのが見えた。ぎょっとして香里の顔を見ると、虚空に視線を漂わせたまま、目からは光が消えていた。
 ―――――死んだ、俺が何もしなくても、もう死んだんだ。そうに違いない。あんなに血が出たんだ、死んでしまうに決まってる。
 香里の体を離して、ゆっくりと息をついた。人を殺さなくて良かったという安堵と、もう少しで本当にやってしまうところだったという恐怖感とがない交ぜになって、心の中がぐちゃぐちゃだ。親友が死んだという哀しみは、どういう訳かちっとも沸いてこない。包丁を振り捨てた。
 祐一は暫く放心状態のままでいた後、いきなり強い吐き気を覚えた。死に物狂いになって立ち上がり、風呂場の外の洗面台に吐いた。何分も吐き続けて、やっと楽になってきたとき、背中の方で嫌な音がした。
 急に力が抜けそうになって、顔を上げる。目の前の鏡には、青ざめた顔の祐一がいた。背中から何かが生えて、木目がぎらぎらと輝いていて、それがとても目に付く。
 その後ろには香里が立っていた。
 千切れかけた赤い手首を片方の手で掴んでいて、その手がぶらぶらと揺れる。幽霊みたいに白い顔をして、血がべっとりとついていた髪がふわふわ揺れる。確かに死んでいたのに、あの時確かに彼女は光を失った瞳をしていたのに、今後ろに立っている。白く白く死人のような顔で。
 背中にゆっくりと手を回して、確かに触れた。それは刃物だった。さっき落とした包丁だった。香里は道理が通じない子供を相手にしているような呆れきった顔をして、無造作に包丁を掴む。さっきよりも嫌な音がして包丁が抜けて、祐一は血を吐いた。
 呻いてから、崩れ落ちる。何もかもがスローモーションに過ぎて、栞みたいに身体が痙攣していた。栞、おまえはいまどこにいるんだ?
 ようやく刺されたことに気がついて、恐ろしさが湧き上がる。必死に力を入れて起き上がろうとしているのに、身体が全く動かない。
 香里が緩やかに祐一の前にしゃがみこんだ。その目は、世界中の狂気を一つどころに集めてごたまぜにしたような感じだった。
 彼女が包丁を振り上げた。
 途端に視界が真っ暗になった。
 

 思い出した。畜生、俺本当に気づかなかった。あいつの言う通り、本当に忘れていた。
 あれが終わった後、家に帰って着替えて、それからここに来た、と思う。途中で何かしたかもしれないけれど、今俺はここにいる。
 ―――――あれ? あれって、……何だ?
 視界が明滅して、白く染めあがる。真っ白になって、それまでの光景が目の中に蘇る。
 包丁。香里。俺。立ち上がる。突き飛ばす。倒れる。手首。彼女の目。刃。赤い物。飛び散ってしゃわしゃわとなって顔が赤くなって白くなって黒くなって雪の中歩く倒れる暗く暗く冥く―――――



 ―――――俺、……………死んでる。



 心臓が痛い。目の前がぐるぐるする。いつのまにか栞の手が香里の手になって、気づいたら香里の家にいた。さっきと全く同じ状況で、違うのは彼女がいないことだけ。手の先には何も無い。彼が握っているのは手首の辺りで千切れた手だった。どこかで誰かの声が聞こえてきたけど、祐一の耳には入らない。誰の声も入らない。
 何かを忘れているはずなのに、どこかに置き忘れて、それをどうしても思い出せない。そもそも、思い出すということが何かさえもわからない。
 一体何がどうなってこうなったのかさっぱり見当がつかない。何か理性や法則やルールとはかけはなれたことが起こってしまって、自分はその中に巻き込まれたアリのようにちっぽけな存在でしかなかった。
 祐一は逃げようとした。どこに行けばいいのかどこが安全なのかも分からないまま、とにかく逃れようと思って暗闇に向かって駆け出そうとする。
 その闇の中から誰かが歩いてきた。祐一には誰か分かっていた。姿が見える前からとっくに分かっていた。会ってはならないものと出会ってしまったことも分かった。
 だからその人物が、ウェーブにした長い髪を赤黒く染め上げて、青白い顔をしてやってきたとしても驚かなかった。彼女の後ろに白い布を被った少女がいても驚かなかった。
 代わりに心の中を満たしたのは、あの風呂場で手を掴まれた時と同じ、絶望と孤独と陰惨な確信だった。
 自分の全ては本当に、これで破滅してしまったのだと。

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