奇蹟、と言う言葉がある。
 簡単に要約すると、現実では考えられない、起こりえない不思議なことが、起こることを言う。
そんなものは絵空事だと言う者もいるかもしれないが、しかしその言葉を用いない限り説明できないことが数あるのも、また事実。その事実から目を背けるということはできない。しかし……しかし、だ。
 ならば奇蹟とは、どのようにして起こり得るものなのだろうか? 奇蹟を願う当人達の想い? たしかにそれもあるだろう。それは必要不可欠なものだろう。しかし、その想いは誰が聞き届けるのだろうか。奇蹟という神秘的なものを貶めてしまうかもしれないが、例として郵便局を上げよう。遠く離れた相手、または直接には言葉にできないことを伝えたい相手などに、想いを伝えたいものがその想いを手紙に認めて郵便局、または郵便ポストに出す。そして、それを受け取った係りのものが丁重に送り先まで運び、その想いは相手へと届くことになる。この例に倣って奇蹟を願ったものが居たとして、その願いは一体誰が聞き届けるのだろう?
 決まっている。人の手では起こしえない神秘を起こすことができるとするなら、その願いを叶えることが出来る者がいるとするならそれは、唯一人しかいない。そう足った一人しか────


ひとりぼっちのかみさまとゆびきり




 カチカチカチッ
 白で埋め尽くされた室内。その六畳程の狭い室内で、時計が秒針を刻む音が木霊する。
 カチカチカチッ
 秒針は寸分も狂うことなく、無機質な音を刻み続ける。そんな室内の窓際、そこにこれまた白色をしたベットが置かれていた。この室内でそれ以外にあるものと言えば、ベットの傍に鈍く輝くステンレス製のT字型をした長い棒状のものがあるのみで、他には何もなかった。そんな室内で、どこか潔癖感のある、その場所のベットの傍で呆然と、意思の欠落したかのような瞳をして、伊吹公子は対面にいる白衣を着た男の話を聞いていた。
「え? すみません。もう一度、言ってもらえますか」
「はい、手術自体は成功しました。しかし……どうやら事故の時、頭を強く打ったようでして、その後遺症か、眠り続けています」
 白衣を着た男、この病院の医師は、そう言いながら傍のベッドを見る。そこには、一人の少女が瞳を閉じて眠っていた。公子も、そんな医師に倣うように眠っている少女──最愛の妹である、伊吹風子のことを見る。長く艶やかな黒髪、まだ幼さの抜け切っていない可愛らしい顔。いつも通りだった。事故にあったというのが悪い冗談に感じるぐらい擦り傷一つなく、まるで今にも「おねぇちゃん、おはようございます」と言って、むくりと起き上がりそうだと公子は、思った。だが、現実はそんな公子の想いを嘲笑うかのように、残酷で冷たかった。
「いつ、ふぅちゃんは、目を覚ますんですか?」
 公子は、声を震わせながら、医師に訊く。
「今日か明日か……最悪、ずっとこのままということも、考えられます」
 医師は、言いづらそうに、不自然に言葉を切りながら話す。その言葉を聞いた公子の体が、まるで紐が切れた操り人形のようにグラッと揺れる。そんな公子を先ほどから隣にいた男性が慌てて、彼女の肩を抱いて支える。公子は、油の切れかけた機械のように、ぎこちなく自分の肩を掴んでいる手を見て、そして視線をその男性の顔に向ける。その男性の顔を見た公子は、震える声で話し出した。
「ねぇ、祐くん。こんなのおかしいですよね? ふぅちゃんは、今ちょっと疲れてて、だから眠っているだけですよね?」
 公子は、まるで自分に言い聞かせているように、その端正な顔を歪ませ、無理やり笑顔を作りながら男性──芳野祐介に話しかける。
「公子さん」
 祐介は、そんな公子のことを、悲痛な顔で見つめながら、そう呟いた。
「だって、ふぅちゃんは、高校で友達を一杯作るんだって」
「公子さん」
「凄く人見知りをする、ふぅちゃんが、そう言って、入学式の日からがんばっていたのに、なのにおかしいですよね? こんなの嘘ですよね?」
「公子さんっ!」
 熱病に冒されたかのように、言い続ける公子の体を祐介は無理やり自分のほうに、向かせて抱きすくめる。公子は最初、そんな祐介の行動に驚いたように目を見開いたが、すぐに祐介に体を預けて瞳を伏せ、涙を滲ませながら「ふぅちゃん、ふぅちゃん」とうわ言のように呟き続けた。


※ ※



「こ、ここは一体、どこですか!?」
 草木生い茂る自然に覆われた高原で伊吹風子は叫んだ。それもそのはず風子には、こんな場所に見覚えもなければ、ここまで来た記憶すらないのだから。目を開けた瞬間、風子はこの場所に佇んでいた。
「はっ、これはもしかして、誘拐という奴ですか!?」
 しばし、考え込むような仕草をした後、風子はまた唐突に叫んだ。
「しまったです。風子のような、れでぃは外に出れば10人ぐらい敵がいるというのに迂闊でしたっ」
 そう言って、風子は頭を抱える。伊吹風子と言う少女が、れでぃであるかはさて置き、たしかに年頃の若い娘が行き成り見ず知らずの場所に、佇んでいたとなれば真っ先に思い浮かべるのは誘拐だろう。しかし、それにしては少しばかり今風子が置かれている状況はおかしかった。普通、誘拐されたのだとすれば、人目に着かない倉庫かなにかに手足を縛って監禁するものだろう。だが風子がいる場所は高原のど真ん中で、もちろん手足も縛られてはいない。これでは、逃げてくださいといっているようなものだ。なにより、この場所には人の気配というものがまったく感じられなかった。
 しばらく、騒いでいた風子も、漸く自らが置かれている奇妙さに気付き、騒ぐのを辞めて疑問に満ちた顔になる。そして辺りを忙しなくキョロキョロと見回した後、ここに来る前に自分が何をしていたのかを思い出せるところまで思い出そうと、自己の内へと思考を埋没させていく。
「えーと、たしか今日もおねぇちゃんに起こされて、いつものパン屋さんのパンを食べて、それから学校へ行く支度をして家を出たんでしたよね……学校? あ、ああぁぁぁぁぁぁっ!!」
 風子は、そこまで考えたところで、何事かを思い出したようで奇声を上げる。
「そうでした、学校です。今何時ですか? って腕時計忘れました!? というより風子の鞄がありません!」
 先ほどの奇声を皮切りに、風子は大事なことを思い出したようで慌てふためいた。
 一通り騒いだ後、風子は荒くなった息を落ち着かせようと短く深呼吸をする。そして息が落ち着くと、眼前に広がる草花を視界に収めながら一度コクリと頷いてから呟いた。
「こ、こうしちゃいられません。遅刻なんてしたら、風子、不良の仲間入りをすることになってしまいます。そんなことになったら、おねえちゃんに何て言われるかわかったものじゃありません。速く学校へ行きましょう」
 そういって風子は、自らを鼓舞する意味も込めて高原を力強く歩き出した。それは、今現在自分が置かれている奇妙な状況からくる不安を必死でかき消そうとするための行動でもあった。覚えの無い鞄の消失、なにより学校に向かっていた所から風子の記憶は、この場所へと直結していた。その奇妙な時系列の繋がりは、風子の心を不安で塗り潰すには十分な効力を持っていた。


 草花が、咲きほこる道を風子は歩いている。先ほど風子がいた高原もそうだが、今目の前に広がる景色も赤や黄など色々な花が色鮮やかに咲いており、また時折そよいでくる涼しげな風も相まって人の心を和やかにさせるには十分なシュチュエーションであった。しかし、今の風子には、気持ちよくそよぐ風も道中を鮮やかに彩る花たちにも、目を向けて楽しむ余裕は残されていなかった。風子は、唯ひたすらにどこを目指すとも知れずに歩き続けていた。不安や恐怖のためであろう、風子の顔は今にも泣き出してしまいそうに歪んでいる。訳もわからず見も知らぬ場所に1人で立っており、行けども行けども自分の知っている景色に出会えず、おまけにここがどこだか訊きたくても人にまったく会わないため、それも叶わない。
 風子はずっと昔、姉と逸れて、1人見知らぬ街で泣きながら彷徨い歩いたことを思い出していた。姉と逸れて見るもの全てが未知数で全てが自分を脅かす脅威に思えた。普段なんともない信号機やポストまで恐くて仕方がなかった。だがあの時でさえ、今、この状況に比べれば幾らかマシなような気がする。あの時は、たしかに全てが恐怖の対象だったが、それでも人の息吹きを感じられた。子供の頃はわからなかったが、それは心のどこかに安心感を与えてくれていたように思う。
 だが、今はどうだろう。どこに行こうと人の息吹きなど感じることはできない。まるで世界に自分1人しかいないような、そんな気さえしてくる。真なる孤独。それは10代の少女には耐えられるわけもないものであった。それでも風子は、その場に蹲ってしまいそうな気持ちを奮い立たせ歩き続ける。一度蹲れば立ち上がることが出来なくなる。昔、迷子になった時は息を切らせた姉が見つけ出してくれたが、今回は……ココには姉は来ることはない。風子には何故だかそう思えた。それは直感的なもので、まるで根拠に乏しい思いなのだが、風子は根拠などないその思いに確信をしていた。故に蹲ることなんて出来ない。自分でなんとかしなければならない。
「風子は、大人の女性なので、こんなことで泣いたりしません。へっちゃらです」
 そう声に出すことで、まだがんばれると自分に言い聞かせ、両の頬を伝ってきた水を服の袖で乱暴に拭きながら歩き続けた。
 そうして宛てもなく、しかし唯一点を見据え歩いていると、しばらくして風子の眼前にココに来て初めて見る物が目に飛び込んできた。少し古ぼけて簡素な作りではあったが、ココに来る前は当然として風子が目にしていたもの。それは、小屋だった。今まで見てきた草や木とは違う明らかな人工物。少しの間、小屋を呆然と見つめていた風子の目に徐々に喜びの色が広がっていく。それは、あたかも砂漠でオアシスを見つけた旅人のような気分だったことだろう。途端に風子は小屋目掛けて走り出した。人工物。それはつまり人がいると言うこと。それを理論的にではないが、直感的に理解した風子は脇目もふらずに走る。ココに来てまだそんなに時間は経っていないが、風子にとってその小屋はとても懐かしい建造物に感じられた。ここがどこだかわかるかもしれない。風子の目には喜びと同時に希望の光も宿っていた。
 風子は、小屋の入り口と思われるドアのところまで来ると、走ったことで乱れた息を整えようともしないで、ドアの左端に着いているノブを捻りドアを開けて中に入っていく。
 小屋の中に入り、そして開けたドアを閉めることなく室内の様子を仰ぎ見た風子は呆然とした。室内は、太陽の光が入ってきているため気付き難いが、電灯がついていなかった。それどころか見上げてみれば電灯を吊るしているはずのそこには、ワイヤーに取り付けれられている埃避けがあるのみで、電灯は取り付けられていない。風子は思う。思ってしまった。考えたくないのに考えてしまった。
 
 まるで、そう、まるでここには人が住んでいる生活臭というものが感じられない。
 
 それに気付いてしまった風子は、その場で膝を折りへたり込む。歩き続け漸く希望を見つけたというのに、その希望は無情にも潰えてしまった。やっと見えた希望から絶望に叩き落とされた風子には、もう立ち上がる力は残されていなかった。ふいに今まで堪えてきた涙が堰を切ったように瞳に溢れてくる。風子は、その涙を拭うこともせずにすすり泣き始めた。
 と、その時、風子の耳にガチャリと何かを落すような音が聞こえてきた。風子は、慌てて音の聞こえてきたほうに顔を向ける。するとまた、今度はさっきより重量のあるものが落ちる、ゴトッという音が聞こえてきた。それではっきりとした。その音は、疲れから来る幻聴ではない。風子は、両腕の裾で流れる涙を拭くと、立ち上がり音の発信源を目指す。音は、風子がいる廊下に面した左右にある数個の扉の一番奥にある右側のドアから聞こえてきていた。足が縺れて何度か転びそうになりながらも、風子はその部屋を目指して駆ける。そうして一番奥のドアの前にたどり着くと、逸る気持ちを抑えられずに、ドアにタックルをするようにしてドアノブを捻り部屋の中に入っていく。
 部屋の中に入るとそこには、白いワンピースを着た栗色の綺麗な髪をした少女が1人、何に使うかわからないようなものが山形に詰まれたガラクタの前で、部屋に突然乱入してきた風子のことを不思議そうに見つめていた。しばし、風子と少女は互いを見つめる。すると唐突に少女が、まるで風子の登場を喜んでいるかのように風子に笑顔を向ける。風子は、少女の笑顔を見て、まるで金縛りが解けたように少女に詰め寄り話しかけた。
「あの、あなたは誰ですか? こんなところで何してるんですか? というかここはどこですか? どうして風子はこんなところにいたりするんですか!?」
 久々に話し相手を見つけた興奮もあるのだろう、風子は少女に向かって、やや早口になりながら、そう捲くし立てた。少女はそんな風子の様子にも、びっくりした様子を少しも見せることなく、風子の右手を掴むと再度笑顔を向ける。風子は、その少女の笑顔を見て毒気を抜けれたかのようになり口を噤む。それを確認した少女は、風子の手を包んだまま言った。
「ねぇ、あそぼっ」
「はい?」
 その少女の言葉の意味を理解できず、風子がキョトンとしていると少女は、ふいに風子の手を離して部屋の外へと駆け出した。
「あ、ま、待ってくださいっ!」
 風子は、慌てて少女の後を追って、部屋を飛び出す。部屋を出ると、少女は風子から1メートルほど離れたところで、風子に向かって手を振っていた。
「はやく、はやくー」
 そう言って少女は風子に背を向けて、また駆け出した。
「だ、だから、待ってくださいっ!」
 自分の言葉を聞いてくれない少女の背を見ながら、風子も同じように駆け出した。そうして、しばらく小屋の中を彼方此方と駆け回っていたが小屋の中は当たり前だがそう広くはなく、程なくして2人は小屋の外、そこに広がる草原へと場所を移した。
 少女と風子。たしかに風子は年齢の割りには小柄なほうではあるが、それでも10歳になるかならないかの年齢であろう少女と比べれば、風子のほうが歩幅は広い。ならば先ほどまでの室内ならいざ知らず、遮蔽物のほとんどない草原なら風子にとって少女を捕まえるという行為はそう苦ではないはずである。だが、小屋から草原へと出てしばらくしても風子は少女のことを捕まえられずにいた。その理由は、少女の運動能力が優れていたためだろう。対して風子のほうは運動が苦手っという程ではないが、それはただ体を動かすのが好きっというだけであって、運動能力でいうなら中の下というところである。そのため風子は少女に離される事はないが、追いつくこともできずにいた。そうして風子と少女の追いかけっこは続いてゆく。その間、少女はとても楽しそうに笑い続けていた。
 
 
 
 もうどこをどう通ってきたかも曖昧になるぐらい走り続けていると、しばらくして少女ぐらいの背丈ならその姿を、すっぽりと隠してしまえるような背の高い真っ白い花が左右に咲き乱れ、それがまるで壁のように、ずっと先まで続いて一本の細い道を形成している場所に出た。その一本道を中腹まで進んだ少女は、ふと先ほどまで後ろから聞こえてきていた足音が止んだことに気づき、振り返って後ろを伺う。そこには前を向いてた時と同じように、左右に背の高い白い花が咲いているだけの、先ほど自分が通ってきた道だけが存在していた。風子の姿は、どこにもなかった。
「あれ?」
 少女は、その様子に首を傾げながら、歩いて道を戻り始める。
「あれれ?」
 辺りをキョロキョロと忙しなく見回しながら、少女は風子の姿を探す。しばらく風子の姿がないことを疑問に思っていた少女は、どこを探しても風子がいないことがわかるとその瞳に涙を滲ませ始めた。
「うっ……ひっくっ」
 溢れてきそうな涙を懸命に抑えながら、少女はトボトボと元来た道を戻る。しかしその歩みも少しして、止まってしまう。
「うっ…うあっ……ひっくっ」
 そして、遂には抑えていた涙を止めることをやめ泣き出そうとした時、少女の横、そこに生い茂っている花の間からガサガサッという音が聞こえてきたかと思うと、そこから風子が勢いよく飛び出してきて少女の腕を掴んだ。
「捕まえました!!」
 そう風子は、勝鬨を上げるかのように高らかに言い放つ。その声を聞いて呆然と風子のことを見つめていた少女だったが、急いで手の甲で溢れていた涙を拭うと、風子に顔を向けて頬を盛大に膨らませた。
「むぅ、卑怯だよ。隠れてるなんて」
「卑怯ではないです。戦略というものです」
 風子は、少女の声にそうしたり顔で答える。その言葉を聞いて頬をより一層膨らませた少女だったが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「じゃぁ、今度は、わたしが鬼ね」
 少しして、少女は頬を膨らませるのをやめると風子と会った時のような笑みに戻って、そう言った。
「はい、わかりました……あれ?」
 少女の言葉に頷きかけた風子だったが、何か腑に落ちないことを感じて首を傾げる。
「そういえば、風子、どうしてあなたのこと追いかけていたんでしょうか?」
「じゅー、きゅー」
「ああっ、ちょっと待ってください!」
 だが、その疑問は少女の突然のカウントダウンによって掻き消され、風子は慌てて少女から逃げ出した。
 そうして風子と少女は、鬼になって追いかけたり逃げたりを繰り返し2人だけの追いかけっこを繰り返した。ココは、まるで春の日差しのように暖かい気温をしていたが、いつまでも走り回っていたため2人とも汗だくになっていた。しかし2人ともそんなことをまるで、気にすることなく嬉しそうに、幸せそうに草原を駆け回る。
 しばらく経って、風子と少女は走り疲れたのか、草原のただ中に2人並んで座って穏やかに吹く風に身を委ねていると、少女は近くに落ちていた物を拾い上げ、しげしげと見つめていた。風子はそんな少女に向けて話しかける。
「それ、なんですか?」
 そういって風子は、少女の手の中にある物を隣から覗き見る。そこにあったのは、くすんだ鉛色をした、何かの成れの果てのようなものだった。それはあの小屋で少女を囲んでいたガラクタの数々に似ているなっと、取りとめもなく風子は思った。風子の疑問に、少女は手の中のガラクタを愛しそうに撫でながら答える。
「これはね、体だよ」
「体?」
「うん、大切な人の体」
 少女は、そう言うと唐突に立ち上がり駆け出した。
「あ、待ってください!」
 風子は、そんな少女の様子に面食らいながらも慌ててその後を追う。少女は、あれ程遊んだのにどこにまだそんな体力が残っていたのか、どんどんと走る速度が速くなっていく。そんな少女に、風子は息も切れ切れになりながらもなんとか着いていく。
 そのまま、風子がなんとか着いていっていると視界に見慣れたモノが写った。それは、最初に少女を見つけたあの小屋だった。少女は小屋に着くと走ってきた勢いを衰えることなく、いや、どころか勢いを増して小屋の中へと入っていく。風子は、どうしてまた走ってあの小屋を目指しているのだろうっと酸欠気味になってきた頭で、益体もなく考えながらも少女と同様に小屋の中へと入っていった。
 小屋の中に入ると、もうそこに少女の姿はなく、あの生活臭のまるでない、どこかもの悲しい雰囲気を帯びた室内だけがそこに存在していた。風子は、そこで膝に手をついて走ることをやめて休憩する。自分の頬が上気しているのがわかる。風子は、新鮮な空気を一度大きく吸い込み深呼吸をする。そうして呼吸を落ち着けると、歩き始める。少女の居る場所が風子にはわかっていた。いや、正確にはソコしか考えられなかった。風子は小屋の奥に進んでいくと、その右側のドアの前で止まる。ドアは風子達が出て行った時同様開け放たれたまま室内と、その一室を繋いでいた。風子が、その場所から中を覗くと、思ったとおりそこにはガラクタ達に囲まれて少女が居た。少女は、対面にあるガラクタに先ほど拾ってきたガラクタを取り付けようとしている。ソレは……最初見たときには気づかなかったが、ソレはまるでロボットのように風子には見えた。風子は、真剣な表情でロボットにガラクタを取り付けようとしている少女に声を掛けることなく、近づいていく。
「わたしはね、待ってるんだよ」
 少女は、近づいてくる風子に気がついていたのか、視線を動かすことなくそう呟いた。風子には、最初何を言っているのかわからなかったが、しばらくしてそれが最初に風子が問いかけた質問の答えであることに気がつく。
「待ってるって何をですか?」
「希望が集まるのを」
「希望、ですか?」
 風子には、少女が何を言っているのか理解できなかった。ただ……ただ先ほどまで一緒に遊んでいた少女が、あの楽しそうに嬉しそうに微笑んでいた少女が嘘のように、悲痛な、今にも泣き出しそうな表情をしていることが風子には堪らなかった。
「ココは、この場所は、あの街の絶望の果てだから、ここは時から乖離されたセカイだから」
 カチンっと、甲高い音を立てて、少女の持っていたガラクタがロボットにはまる。少女はそれを感慨深そうに、先ほど、草原でしたように愛しそうに見つめると、風子に向き直った。
「ごめんなさい、ふぅちゃん。あなたをこのセカイに連れてきたのは、わたしです」
 そう言って少女は、風子に向けて頭を下げる。それを見た風子は、心底訳がわからないっと言った顔になり、少女に問いかける。
「え? ど、どういうことですか? それにふぅちゃんって、なんであなたがその呼び方を?」
「ホントはいけないことだって、わかってた。ふぅちゃんは、ここに存在してはいけないんだってわかってた。でも、でも!」
 少女は、急に体の力が抜けたかのように崩れ落ち、地面に座り込むと顔をくしゃくしゃにしながら、泣きじゃくり始めた。
「でも、もう嫌なの。一杯一杯積み重なって、悲しみで満たされていく。みんなみんな幸福になってほしいのに、あの街にいるみんなには笑っていてほしいのに、わたしにはそれができるはずなのに。なのにいつも上手くできない。あの人だけ、笑っていられなくなる。そんなの見たくない。何度も何度も何度も何度も、パパのあんな悲しそうな顔見たくないのに! ……もうひとりぼっちでいるのは、辛いよ」
 少女は、最後にそういって、後は声にならない声と嗚咽で泣き続けた。
 それは懺悔によく似ていた。少女には、全ての事象を可能にする力を与えられていた。それは、少女の祖父が昔取った行動が起こした奇蹟であり、母が持っていた資質のためである。少女の母は繋がっていた。彼女は生死の境を彷徨っている最中、あの森林の生い茂る場所で、願った。ただ純粋に、ただただ無垢に『一緒に居たい』とそう願った。そして、その願いは叶うことになる。街の想いをその身に宿すという結果を残して。皆のことが好きだった街の、皆幸せであれっという、あまりにも純真な想いをその身に宿して。
 しかし、その想いは、大きすぎた。1人の人間が宿すには、あまりにも雄大で果てが無さ過ぎた。その証として彼女は何度も何度も体調を崩し、そして遂にはその生命を終えてしまう。自分の分身である少女を残して。しかし、その少女もいつかは彼女と同じ運命を辿る。否、街の願いとともに生まれた少女はその母より強く、その願いと繋がっていた。故に彼女ほど生きることなくその生命を終えてしまう。
 それは、なんという皮肉な悲劇だろうか。街は皆の幸せを望んだが故に、彼女を救ったというのに、しかし、その行為のために悲しみは広がり満たされていく。そんなことを、望んだ訳ではなかった。そんな悲劇なんて見たくなかった。だから街はこの絶望の果てで願った。彼女の分身である少女が、あちら側で生まれると同時に同一の存在として、こちら側にも生み落とされた彼女の分身であり、街の分身でもある少女に託した。希望を集めよと。だが、希望を集めることができるのは、今そこに生きているものだけである。なら全てが終わってから救おうとしている少女には、何ができるというのか。そう、願いよ叶え、と祈り続けるだけ。届くかどうかもわからない声を、悲劇を断ち切れる者に対して叫び続けるだけである。
 全てを叶える力を持っていながら、救えるものは、過ぎ去ってしまったモノの中にしかありはしない。見た映像を繰り返し見るだけの傍観者。通り過ぎた出来事を後悔と悔恨で埋め尽くすだけの、ひとりぼっちの哀れなかみさま。それが少女だった。
 少女が本来なら、ココに呼ばなければいけないのは風子ではなく、悲劇を断ち切れる存在である少女の父の意識を呼ばなければならなかった。だが、繰り返し繰り返し起る悲劇に少女は、耐えられなかった。ひとりで願い続けることに、少女の父の仮の体を組むことに疲れてしまった。
 そうして、魔が差した。本来なら少女の父がまどろみにいる時に、意識の一部を仮の体に移さなければいけないところを、物語の……少女の母と父が出会う前まで戻り、事故を起こした直後の風子の意識を、そっくりそのままココへと呼び寄せてしまったのだ。
 それは、やってはいけないこと。昏睡状態にあるとはいえ、あちらに存在する人間をココに呼ぶということは、してはいけないこと。その理由は、少し考えればすぐに思い当たる。何故、少女は自分の父を仮の体に入れて意識の一部を持ってくるという回りくどい真似をしたのだろうか。昏睡にしても睡眠にしても、意識が現実から遠ざかっている時に呼ぶというのなら、父が睡眠をしている時にそのままコチラ側に呼ぶことも可能であるはずだ。ならば何故、呼ばないのか。呼べば唯の傍観者ではなく助言者として悲劇を断ち切ることができるというのに。
 ココは時から乖離された場所。つまり時の流れより切り離された場所である。そんな場所に、あちら側で時を刻み続ける世界の住人である者を連れてくるということは、それはあちら側に帰ることができないという可能性を多分に孕んでいるからである。帰れたとしても、そこが元いた自分の時代だとは限らない。10年後かあるいは100年後か、元いた時代に戻れる保障はどこにもない、行きだけの片道切符。そんなことを、少女は嗚咽混じりにしゃくり上げながら語った。
「ふぅちゃんなら……わたしと一緒に、本当に楽しそうに遊んでくれたふぅちゃんなら、ここでもまた一緒に、遊んでくれるような気がしたんだよ。でも……ごめんね、ごめんね、ふぅちゃん、わたしのわがままで、こんなところに連れてきちゃって」
 少女は、嗚咽混じりに瞳から止め処なく流れ落ちる涙を止めようともせずに、そう風子に謝り続けた。風子は、そんな少女に掛ける言葉が見つからなかった。少女の発した言葉は、風子にとって何一つ要領の得ないものに聞こえた。そんな自分が、何かを言ったところで少女の悔恨は消せはしないだろう。だが……
 風子は、ゆっくりと、しかし、しっかりと一歩一歩を踏みしめながら少女の傍へと向かう。
 一歩。
 少女は、その端正な顔をくしゃくしゃに、歪ませながら泣き続けている。
 また一歩。
 そこで、風子は漸く気づく。ああ、この少女はどこか自分に似ている。『外』を恐れて狭い殻の中から抜け出そうとしなかった自分と。
 更に一歩。
 風子は、少女の姿を見ながら、自分の最愛の姉の言葉を、なんとはなしに思い出した。
 最後に一歩。
 悲しみにくれて、泣き続ける少女の小さな体は、もう風子の目の前に在った。だが少女は風子が目の前に立っていることにも気づけないくらい泣き続けている。風子はそんな少女の小さな体を、そっと優しく──力強く抱きしめた。少女は、自分の体を包む暖かい体温に驚き、弾かれたように顔を上げる。
「こうして抱きしめるのは、悲しみや辛さを、お裾分けして貰いたいからです。あなたは一人じゃないんだよ、一人で我慢する必要はないんだよって知って貰いたいからです。一人で泣かれていると、私も悲しいんだよってことを知って貰いたいからです」
 少女は、朗々と語る風子の言葉を呆然と聞いていた。そんな少女を見ながら、風子は「大好きなおねぇちゃんの言葉です」と付け加えて、はにかむように微笑んだ。風子には、少女のいった言葉は理解できない。故に少女の悔恨を真なる意味で消すことはできない。だが、それでも、そうだとしても風子にたった一つだけ出来ることがある。唯一つ、たった一つシンプルに、友達を元気付けるということを。
「もう戻れないかもしれないんだよ。大好きなおねぇちゃんにも、もう会えないかもしれないんだよ!?」
「大丈夫です。なんとかなります」
 悲痛に叫ぶ少女に風子は笑顔を崩さずに、そう答えた。
「ふぅちゃん、真面目に聞いてっ!」
 そんな風子の様子を見て、少女は怒ったように語彙を荒くする。
「失礼です。風子は、いつだって真面目です。いいですか、聞いてください。風子は、あなたのことを友達だと思ってます。あなたはどうですか?」
 少女は、突然の風子の問いかけに、面食らったような顔になりながらもなんとか答える。
「え? あ、うん、わたしも、ふぅちゃんのことを友達だと思ってる。でも、わたしは、ふぅちゃんに許されないことをしたんだよ」
「でも、じゃありません。それは最初は、ココに連れてこられてびっくりしましたが、でも、あなたに必要とされて風子はココに来て、今は、あなたの力になりたいと思っています。なら、それでいいじゃないですか。許すも許さないもありません。友達が困っていたり、悲しんでいたら、助けるのは当たり前です。だから、全部大丈夫です。ココに来られたんですから、帰りもなんとかなります」
 そう風子は、笑顔をより一層深いものにして言った。その風子の言葉は、物事を軽く楽観的に見ていると言われても仕方ないとされる言葉だったが、だが、少女は思う。ああ、なんてこの人は強いのだろうっと。自分のしてしまった過ちを、責めるでもなく、許すでもなく、そんなのは当たり前のことだと言い放った。それは、もしかしたら唯の強がりなのかもしれない。もしかしたら帰れないという想いから無理やり目をそむけているだけなのかもしれない。でも、だとしてもそれを自分に言い聞かせることができるぐらい、なんてこの人は強い心と純粋な心を持った人なんだろう。
 風子の言葉に、たしかに少女はちょっとだけではあるが、少しだけではあるが救われた気分だった。そんな少女の心を知ってか知らずか風子は「それに」と短く言葉を続けると、少女を抱く腕に力を一層込めて少女の頬に自分の頬を摺り寄せながら、恍惚とした表情をして先を続けた。
「可愛いは正義、です」
 最初、その風子の言葉を聞いた少女はキョトンとした表情をしていたが、その内涙を流したため真っ赤になっている瞳で、くしゃくしゃになっている顔で可笑しそうに、楽しそうに肩を揺らして笑い始めた。
「あ、あははっ、もう、ふぅちゃんには敵わないなぁ」
「当たり前です。風子は、大人のれでぃですから」
 可笑しそうに笑う少女の言葉に、風子は胸を張って答える。
「うーん、ふぅちゃんは、れでぃって言うより、可愛い人って感じだと思うんだけど」
「……それは喜んでいいのか、悲しんだほうがいいのか、微妙な言葉です」
「あははっ、もうふぅちゃんたら……あのね、ふぅちゃん、聞いてくれる?」
 先程まで風子と一緒に、楽しそうに笑っていた少女は、唐突に真剣な表情になると風子の瞳をじっと見つめる。風子は、そんな少女の様子を不審に思いながらも「はい、わかりました」と短く承諾して、抱いていた少女の体を離す。少女は、風子に体を離されると立ち上がりそのまま数歩下がって風子との距離が、ちょうど1メートルぐらい開いた位置で振り向いて、そこで風子のことをじっと見つめた。
「ありがとう、ふぅちゃん。わたしのわがままに付き合ってくれて。わたしのわがままを受け入れてくれて。でも、もうそれもおしまいにしないとね」
「え、おしまいってどういうことですか?」
 風子は、少女の言っている言葉の意味がわからず、困惑しながら聞き返す。
「ふぅちゃん、ふぅちゃんのおねぇちゃんが、結婚することになりました」
「え、ホントですか!?」
 少女のいった言葉に、風子は喜色満面になり聞き返す。少女は無言で頷き先を続ける。
「うん、本当だよ。でもね。ふぅちゃんのおねぇちゃんは、ふぅちゃんが目を覚ますまで結婚する気はないみたいなの」
 その言葉を聞いて、風子は鈍器で頭を叩かれたような衝撃を受ける。誰よりも姉の幸せを願っていた自分なのに、今自分が姉が幸せになることの足を引張っている。その事実に風子は打ちひしがれそうになる。
 少女のことを恨んではいない。それはホントのことだ。少女を助けたいと、友達を助けたいと思った気持ちに嘘はない。今もそれは変わらない。だが、自分がココにいることで姉が幸せになれない。誰が悪いわけでもない。誰も間違ったわけではない。それはわかっている。だが、その事実だけは許せなかった。そんな風子の気持ちがわかったのか、少女は穏やかに、けれどもその瞳に強い意志を宿しながら風子に語りかけた。
「大丈夫だよ、ふぅちゃん。ふぅちゃんは、絶対にあちら側に帰す。ふぅちゃんは関係ないって言ってくれたけど、ココに呼んだこと、それはやっぱりわたしの責任だから。何があっても、絶対に帰すよ。だからね、ふぅちゃん……強く願って。あちらに帰りたいって。おねぇちゃんの結婚式を見たいって強く願って。願いは、きっと届くから、ね」
「……風子に出来るでしょうか?」
 風子は、先ほどまで少女を元気付けていた時とは、打って変わって不安げに眉を寄せながら、少女に聞き返す。
「大丈夫だよ。だって、ふぅちゃんは、願いはきっと届くって、わたしに教えてくれたんだから」
 少女は、先程、風子がそうしてくれたように、満面の笑みをして答えた。その少女の笑顔を見て、風子も不安そうな表情を消し満面の笑顔で頷いた。
「わかりました。風子、がんばります」
「うん、がんばって」
 少女が、その言葉を言った瞬間、風子は自身の体が後方へ思いっきり引っ張られるような感覚に襲われた。慌てて風子は、視線を自身の体に向けるが、体は後方に引っ張られてなどなく変わらずその場に在った。ふと、風子は理解した。引っ張られているのは体ではなく意識だ。意識が急速に収束し、現実の世界へと引き戻されている。風子は、慌てて自分の体に向けていた視線を少女に戻す。少女は変わらず笑っていた。
「待ってください。あなたは……あなたは、どうするんですか!?」
「うん、わたしは大丈夫だよ」
「でもっ──!?」
 自分のせいで、姉が悲しみに暮れている。なら自分は、速くあちら側に帰らなければならない。それは風子にもわかっていた。だが、それでも自分がココからいなくなるということは、また少女がひとりぼっちでココに残されるということ。たしかに大切な姉の悲しみを速く消し去ってあげたい。しかし、少女をまた一人きりにするという、その事実から目を背けることは、風子にはできなかった。
「でも、じゃないよ。あ、これ、さっきふぅちゃんがわたしに言ってくれた言葉だよね。うん、でも、じゃないよ。わたしは、もう大丈夫。だって、ふぅちゃんに分けてもらったから、元気を。教えてもらったから、願いは届くって事を。だから、大丈夫だよ」
 そう語る少女の表情は変わらず笑顔。だが、その瞳からは、涙が一滴。
「まだ、あなたとやりたいことだって一杯あります。缶蹴りだって、隠れんぼだって……ヒトデ祭りだって、一緒にやりたいです!」
 風子は、途切れそうになる意識を必死に繋ぎとめながら、少女に手を伸ばす。だが、何故か足がまるで鉛にでもなってしまったかのように動こうとしない。いや、足が鉛になったわけではない。風子の存在が足から徐々に消えかけているのだ。故にたった1メートル、それだけの距離も、もう詰められない。それでも諦めずに風子は手を伸ばし続けた。
「うん、そうだね。いつか一緒にやりたいね」
 少女は、いつかそういう日が来ることを望むような憧憬と叶うことはないと知っている悲しみから、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「それなら、指きりしてください!!」
 そんな少女を見ながら風子は、届かない距離をもどかしく思いながらも力の限り叫ぶ。再会の約束を。
「うん、わかったよ」
 そういって、少女は伸ばされた風子の手へと向かう。そして風子の目の前まで来ると、もう殆ど消えかけている風子の小指に指を絡めた。そして、そのまま上下に軽く振る。
「「ゆーびきーりげーんまーん、嘘ついたら針千本のーます」」
 その指切りは、最後の最後。その約束が完了したという証である指を切るという行為を終える間もなく、無情にも風子の存在はココから跡形もなく掻き消えた。
 そうして少女は、先程まで風子の小指と絡まっていた自分の小指を、ボンヤリと見ながら呟いた。
「それじゃぁ、パパとママ、それからもう一人のわたしのことをよろしくお願いします。最後の希望の光を持った人」


※ ※



 まず目に入ったのは、縦と横に切り込みが等間隔に入っていて幾重にも四角を形どっている、真っ白い天井だった。
「こ……ここ、は」
 声を発しようとして、ふと違和感を感じた。声が上手く出せない。どころか声を発しようと、声帯を振動させると口の中、その奥のほうに鈍く痛みのような感覚が広がる。ああ、そうかっと彼女は合点が行く。自分は喉が渇いているのだ。それは、もうカラカラに。
 ためしに口の中を、もごもごと動かし微量の唾液を形成し、それを一気に飲み込んだ。まるで地面が干上がったかのように、カラカラに乾きすぎていた喉は、それだけで痛みを引き起こしたが、しかしそれだけで、幾分声を出しやすくはなった。
「ここは、一体どこですか?」
 そう先程、言おうとした言葉を口に出してみる。ボンヤリとしている目を、僅かに動かすと目に移る景色は真っ白。それは、どこか潔癖的と言えるほど白で埋め尽くされた室内だった。その場所の窓辺に設置された、これまた真っ白いシーツに包まれて自分が仰向けに横になっているということに、彼女は気づく。
「ここは、一体どこですか?」
 再度、同じ言葉を呟いてみる。と、その時、彼女のいる室内にガチャリっという金属質な音が僅かに響いた。その音につられる様に、音のしたほうを見ようと彼女が首を動かすと、室内の出入り口であるドア、そこで一人の女性が息を飲んで彼女のことを見つめていた。
「ふ…ぅ、ちゃん?」
 女性は、震える声で彼女──風子に呼びかける。その声を聞いて風子の胸の中は、懐かしいような、安心するような穏やかな気持ちで包まれていく。
「おねぇちゃん、おはようございます」
 そう風子は笑顔で、最愛の姉である伊吹公子に言った。その声を聞いた公子は、その瞳に涙を湛えながら窓際のベットで横になっている風子の元へ走って向かい、風子の体へと縋り付いた。
「ふぅちゃん、ふぅちゃん、ふぅちゃん!」
「んー、おねぇちゃん、苦しいです!」
 風子は、突然自分の体に覆いかぶさるように縋り付いてきた公子に向けて、そう不満の声を漏らす。その声を聞いた公子は、慌てて風子の体の上にあった自分の上半身を退けると、代わりに風子の左手をギュッと握り、笑顔で謝罪の言葉を発した。
「ふぅちゃん、ごめんなさい。ふぅちゃんが目を覚ましてくれたことが嬉しくて、つい」
「え、風子、そんなに眠ってましたか?」
 姉の言葉に僅かびっくりしたように、風子は声のトーンを少し上げる。
「はい、ふぅちゃん、寝坊し過ぎです」
 公子は、風子のことを思いやってだろう。風子の言葉に、少しちゃかすような雰囲気を出しながら答える。その言葉を聞いた風子は「そうですか」と短く答え、姉から視線を外して、真っ白な天井を見つめる。
「おねぇちゃん、聞いてくれますか?」
 そう風子は、天井を見つめたまま公子に話しかけた。その言葉に、今までと違う声色を感じた公子は、訝しみながらも「はい」と短く答える。
「夢を見ていました」
「夢、ですか?」
「はい、そこで風子に友達ができました」
「それは、素敵なことですね」
 公子は、本当に嬉しそうに笑顔をより一層深いものにして言う。その言葉に、風子は頷きながら先を続ける。
「変な髪をした面白い男の人。いつも風子のことをからかって、でも、一緒に居ると楽しかった男の人。笑顔が可愛くて、風子のことをぎゅっと抱きしめてくれた、やさしい女の人。それと……それと、あれ?」
 風子は、そこまで言って首を傾げる。
「どうしたの?」
「もう一人……もう一人、友達になった人がいたはずなんです。大事な大事な友達のはずなのに、なのに、どんな人だったか思い出せない」
 そう風子は言って、なんとかもう一人の友達のことを必死で思い出そうと記憶を探る。しかし、その友達の記憶は、まるで最初からなかったかのようにごっそりと抜け落ちていた。それが信じられなくて、風子は「どうして、どうして」と呟き続ける。っと、そんな風子の頭に、やさしくそっと手が置かれる。天井から視線を外し、そちらを視線を向けると公子が穏やかな笑顔を崩さずに、風子の頭をやさしく撫でていた。
「大丈夫ですよ、ふぅちゃん」
「おねぇちゃん?」
「思い出せなくても、ふぅちゃんが会いたいと願い続ければ、会えますよ。だって……願いは必ず届くんですから」
 風子の話は夢の話である。普通なら、そんなものは夢の話だと一笑に伏されてもおかしくはない。だが公子は、そうはしなかった。絶対に会える。会いたいと望み続ければ必ず、もう一度会うことができる。公子はそう言い続けた。それはそう待ち続け、そして再会を望み続け、それを叶えた公子だからこそ、言える言葉。人の心に届けることが出来る言葉。
「だから、諦めないでね。ふぅちゃん」
 最後に、公子は、とびっきりの笑顔を最愛の妹に向けて、そう言った。
 風子は、そんな公子に「はい」と短く答え、瞳を伏せて静かに嗚咽すらなく、涙を流した。






/epilogue

 最近になってこの街に出来た大病院。元々、そこは森林が生い茂る緑豊かな場所であったが、しかし最新の医療設備が揃い、清潔感に溢れるこの病院は、変わってしまうという一抹の寂しさを宿しながら、それでも街の人々が望んで出来た施設であった。そんな病院の敷地内で、今2つの人影がなにやら言い争いを始めていた。一人は、栗色の髪をショートカットにした物腰柔らかそうな女性。女性は、困ったような苦笑を浮かべて体面にいる相手のことを見ている。栗色の髪の女性に見られている相手のほうは、長い黒髪を腰の辺りでちょこんとバンドで止めた、幼い顔立ちをした少女であった。2人は先程からずっと言い争いを続けていた。いや、それだと少々語弊が生じる。正確には、長い黒髪の少女が、何か言うたびに栗色の髪の女性が呆れたような声色で溜め息を付きながら相槌を打っている。
「もういいから、ね。ふぅちゃん、早く先生のところに行こう」
「可愛い匂いがします」
「はぁっ、この子は……ふぅちゃん、おねぇちゃんのお話聞いてる?」
「おねぇちゃんこそ、風子の話を聞いてください!」
 栗色の髪の女性──伊吹公子は、対面にいる自分の妹である伊吹風子のその声を聞いて、話を聞かないと梃子でも動かないという雰囲気を感じて盛大な溜め息と共に、聞き返した。
「それで、可愛い匂いってなんですか? おねぇちゃん、可愛いものには匂いがあるなんて聞いたこともないんですけど」
 姉の言葉に、風子は口を尖らせて反論する。
「失礼です。可愛いものには、ちゃんと匂いがあります。知らないなんて、おねぇちゃんおかしいです!」
「おねぇちゃんは、正常だと思うよ」
 風子の言葉に、公子は間髪入れずにそう返す。
「そんなことないです! それじゃぁ風子が教えてあげます。可愛いものの匂いというのはですね……」
 そこまで言って風子は頭を下げて溜めを作るように言葉を切る。しかし、そのまま数分経っても一向に続きを話そうとしない風子の様子を不審に思い、公子が腰を屈めて風子の顔を覗き込んでみると、風子は恍惚とした表情をしたまま固まっていた。
「ああ、またふぅちゃんったら」
 公子は、その様子に頭を抱える。風子は時折、こうして可愛いものを夢想してはその活動を停止させる。その癖も、昏睡状態から目覚めてから高校に新たに通い直し、そこでの円満な学園生活のおかげで少しは改善されたのかと思ったが、まったくそんなことはなく、むしろ風子の破天荒ぶりに磨きが掛かっただけであった。
「ふぅちゃん。ふぅちゃんのその癖で、いつか誘拐でもされやしないかって、おねぇちゃん割と本気で心配です」
 公子が、そんなことを嘆いていると、いつの間にトリップから戻ってきていたのか風子は「では、可愛い匂いのところへ行ってきます」と短く言うと、公子の脇を通って駆け出した。
「あ、ふぅちゃん、待ってください!」
 後ろで、公子のそんな声が聞こえるが、風子は聞く耳持たず病院の敷地の隅、住民達の希望で、そこだけ手付かずで残された狭い森林の中へと入っていった。
 森林の中は、木々の間から光が所々漏れていて、どこか穏やかで幻想的な雰囲気が漂っていた。そんな中を風子は常人には感じられない何かを感じながら突き進んでいく。そうして、程なくして風子は目的地へと到着する。そこは森林の只中にありながら、ぽっかりと円状に開けた場所で、その中央部に大きな木が一本聳え立っていた。その大きな木の横、そこに真っ白いワンピースを着た少女が穏やかな寝息を立てながら眠っていた。その少女を見つけた風子は、先程までの騒ぎっぷりが嘘のように、やさしい瞳をして少女のことを見つめていた。
 しばらくして少女は近くに人がいる気配を感じたのか、その閉じられた目をゆっくりと開けて、上体を起こし辺りをキョロキョロと見回す。ふとその視線が、風子を捕らえた。少女は少しの間、風子の姿をじぃっと見つめると、ふっとまるで花が咲くかのような笑顔を風子に向ける。その笑顔を受けて、風子も同じように笑顔になる。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
 風子の目覚めの挨拶に、少女は笑顔をより一層深いものにして挨拶をする。その挨拶を聞いて、風子は一歩を踏み出す。
「風子、あなたと一杯したいことがあります」
「うん、缶蹴りも隠れんぼもしようね」
「はい、ヒトデ祭りもです。ですから、風子と友達になってくれますか?」
「もう友達だよ」
「ああ、そうでした。風子忘れちゃってました」
 そう話しながら、一歩、一歩。逸る気持ちを抑えるように殊更、ゆっくりと風子は少女の下へと向かう。
「あははっ、もうひどいなぁ、ふぅちゃんは」
「はい、風子、うっかりしてました。ですから、うっかりあなたに訊く事を忘れていました」
 そうそれは、夢の出来事。夢の中での忘れ物。
「ん? なにかな?」
 少女は、夢と、あの世界で風子と遊んでいた時と同じように、いや、それ以上に楽しそうに、幸せそうに笑っている。
 そうして、風子は少女の傍へと辿り着く。風子は、少女の瞳をじっと見つめると、すっと座ったままの少女に小指を差し出した。その指を、じっと見てから少女は風子に顔を向け飛びっきりの笑顔をして、差し出された小指に自らの小指を絡めた。
 
 最後まで出来なかった約束を再開するために。再会できた喜びと、約束を叶えることができる喜びを分かち合うために。

 風子は、尋ねる。
「あなたの名前は、なんて言うんですか?」
 少女は告げる。父の暖かさを感じることができる苗字と母の深い想いを感じることが出来る、その名を。
「わたしのなまえは──…─」
 
 
 ひとりぼっちの哀れなかみさまは、もういない。
 何故なら、かみさまには一緒に笑い合ってくれる友達がいるのだから──


 
 ゆーび、きったっ。
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