――この窓から飛べない空を見ている――



1.

「春原は何をそんなに不機嫌そうにしているんだ」

 そんなことを声量を落としもせずに口にしているのが僕らより1年後輩の坂上智代だ。
 確かに今の僕は不機嫌だ。
 もともと、僕はこの出来すぎた転校生が気に食わなかった。
 一見普通の女の子が、うちの学校にバイクで現れた不良たちをひとりでねじ伏せてしまった。
 絶対にヤラセに決まっている。だいたい女が男より強いなんてありえない。
 僕は何かと理由をつけて智代にケンカを売った。
 まぁ、僕が本調子じゃなかったから今のところ連敗記録を更新中なわけだ。
 しかも、聞くところによると、どうやら勉強の成績も良く、人当たりが良く、リーダーシップもあって人気者なんだとか。
 さらに、生徒会長に立候補しようと考えているらしい。
 まるで僕たちとは住む世界が違うような、そんな女だ。
 聞けば聞くほど、何かよくわからない感情が僕を締め付け、不機嫌にさせる。

「それはだな。次の連休に春原の妹が来るからみたいだぞ」
「アンタが僕のフリして電話に出なければこんなことにはならなかったんですけどねっ」

 勝手に智代の質問に答えた岡崎に僕は言い返した。
 岡崎がふざけて、芽衣から電話に出てそういう約束を取り付けてしまったらしい、なんて迷惑なことだ。
 そうさ。今日、僕が不機嫌な理由は、別に智代にせいでもなんでもない、芽衣が今度ここに来るっていう事実だ。

「春原と血のつながった妹だからな、どんな珍獣なのか。想像を絶する生物に違いない」
「人の妹のことを珍獣呼ばわりしないで下さいっ! 一体、どんなのを想像してるんですかっ」
「目が3つあったりとか、角があったりとか、しっぽがあったりとか、ネコミミだったりとか」
「僕の妹はちゃんとした人間ですからっ」
「え、でも。春原の血がつながってるんだろ? おまえ、人間じゃないし」
「アンタ、実は僕のこと嫌いでしょっ!?」

 岡崎は、この学校で唯一、いっしょにバカやってくれる友達だ。
 でも、僕のことをからかっているだけにしたって芽衣のことをそうやって言われるのはムカッとくる。
 芽衣は……、僕の妹は、僕とは違ってまともなやつなんだからな。
 だから、僕は岡崎に言い返そうと口を開きかけて、

「妹さん、おまえのこと心配してたみたいだから。当日に逃げようなんて考えるなよ」
「……っ」

 急にそう切れ返されて、言葉を失った。

「じゃあ、俺はそろそろ行くから」

 言いたいことだけ言って岡崎は去っていった。きっと渚ちゃんのところだ。
 どうにも岡崎は最近付き合いが悪い。らしくないことに岡崎は渚ちゃんと演劇部を作ろうと動いているらしかった。
 高校最後の1年を、そんな風に過ごすなんて本当にらしくない。おかしいことだと思う。
 まぁ、無為に日々を過ごしている僕に言われたくはないだろうけど。
 しかし、ここで岡崎に席を立たれるのは非常にマズかった。
 智代と二人きりにされると困る。
 今日は芽衣の訪問時に偽の恋人役となってもらう人物を探していたのだ。
 それを切り出す仲介役として岡崎は必要だった。
 智代は僕のことは良く思ってないが、岡崎については好意的な印象があるみたいだからだ。
 せっかく智代を呼び出したのに、まだ何も話せていない。黙っていてはいけないことはわかっていたが言葉が出なかった。
 焦りと気まずさで頭の中がぐるぐるする。
 そんな沈黙を破ったのは智代のほうだった。

「春原は……妹のことが嫌い、なのか」
「え?」

 予想外の展開にそんな声が出た。
 僕の気のせいかもしれないが智代の表情と声はいつもとは少し質が違う気がした。
 会話の流れからすれば、芽衣がこの街に来るのを歓迎していないのは明らかだったから当然の反応かもしれない。
 しかし、実はその質問に対する答えは単純には表現できない気がした。

「好きか嫌いで言うなら、もちろん好きだよ……。大切な家族だからな。
 僕の妹は……、僕なんかと違ってしっかりしてるし、勉強も出来るみたいだ。両親も妹のことは良く褒めるし、友達も多いみたいだし。僕とは正反対の良く出来たヤツだよ」
「……そうか」

 そうだ。芽衣はとてもいい子だ。
 だけど、口にしながら僕が思い出していたことは芽衣ではなく別のことだった。
 それは両親だったり、故郷の知り合いだったり、先生たちだったり、そんな顔だった。
 しかも、どちらかと言えば見たくない類に入るほうの。

「……妹は、僕の贔屓目を差し引いても、いい子だと思うよ。
 周りの人たちもみんな、そう言ってたしね……。よく言われたよ『妹はこんなに立派なのに、兄は』って」

 芽衣が悪いわけじゃなかった。芽衣のことは妹として好きだった。
 だけど、周りの人間が僕を素直に芽衣を好きにさせてくれなかった。
 それは筋違いの怒りだ。
 けれど、魔法のような呪いのような周りの言葉の繰り返しで、僕は「妹なんていなければいいのに」って何度も思った。
 親にも期待されず、僕の気力は削がれていった。やっても無駄だと思える行為には力が入らない。
 それでも続けられたのは自分の居場所があると感じられたサッカーと、こんな駄目兄のせいで芽衣が嫌な思いをしないように恥ずかしくないように普通の成績を取り続けることだけだった。

「……こんなのは兄貴失格だよな……」

 懺悔のように、僕はその全てを。中学卒業するまでに芽衣について思っていたことを、しゃべってしまっていた。
 誰にもしたことのない話を、智代は嫌な顔一つせずに聞き続けてくれた。
 
 だから、僕はその続きをしゃべった。
 サッカーのおかげでスポーツ特待生としてこの高校に入れたこと。
 サッカーしか取り柄のなかった自分が、他校との暴力沙汰を起こして居場所を失ったこと。
 スポーツ推薦で入った男が、堕ちていくのは出来すぎた喜劇みたいだった。

 ここでも居場所がない。
 この高校は勉学の方のレベルは高くついていけなかった。もしかしたらなんとかなっていたのかもしれないが、あのときは失った傷みの方が大きくて、やる気を失っていた。
 こうして、一人のヘタレ男が誕生したわけだ。
 気がつけば、岡崎以外に話せるやつはほとんどいない。何もしないまま、無為に過ごしただけで、もう高校3年生だ。
 なんて、なんて駄目な兄なんだろう。

 もう智代に偽彼女役を頼もうなんて思えなかった。これ以上説明しなくても智代は僕が妹が来るのを拒んだ理由がわかるだろう。
 嫌いだからなんかじゃない。少しでもいい兄を目指していた僕は、もう芽衣の兄を名乗れない。逃げた自分が悪いのだけどこんな姿を見られたくなかった。
 だから、サッカーをやめた本当の理由は芽衣には言ってないし、彼女が出来て今の生活は充実しているなんて嘘をついている。
 あまりにも、無為な2年間だった。
 そして、全ては腐ってしまった。心も身体も何もかもだ。

「……確かに、現在のおまえは駄目なヤツだな。でも、妹のことを大切に思っていること。それは悪いことじゃない」

 智代は、はっきりと僕を「駄目なヤツ」と言った。
 けれど、全てを言い終えたためか僕は全く不快感をおぼえなかった。
 わかっていたはずだ、とっくに。
 認めようとしなかっただけだったんだ。

 僕は、認められなかった。
 手に入れた怠惰な時間も、それはそれで楽だったんだ。
 でも、始まった瞬間からこの世界の終わりがいつか来るってことは、わかっていたはずだった。

 今はきっと、そのツケを払わされる第一歩なんだろう。わかったところで絶望的なことは変わらなかったが、それでも、僕は智代の言葉に安堵を感じていた。

「春原……。私には弟がいるんだ……。今では心から誇れる最高の弟だ。でもな……私は、春原なんかとは比べ物にならないほど、ひどい姉だった……」
「え……?」

 何をしゃべっているのだろう、と。混乱する。
 誇れる弟が居る? ひどい姉? 全くわからない。
 だが、理解もせずとも、促さずとも智代は話を止める気はないみたいだ。

「私の噂を聞いたことがあるか? おまえは信じていないみたいだが、全て本当だ。以前までの私は手に負えないほど困ったやつだった」

 智代は噂に関して具体的なことは話さなかった。
 両親の不仲が原因で親の愛情を知らずに育った智代。
 そんな状況から逃げ出すために智代は荒れた生活を送っていた。
 たった一人の弟にさえ辛く当たっていた。
 そんな状態が続けばもう家庭は崩壊に行き着くしかなかった。
 両親が離婚を決めて家族がばらばらになってしまう、そう思われたその時。
 智代の弟は意外な行動に出た。
 自分から道路に飛び出し大怪我を負うことで、家族を繋ぎとめようとした。

「私には何も出来なかった。逃げていただけだった。だが、鷹文はなんとかしようともがいていたんだ。そして、繋ぎとめた」

 怪我をした弟の車椅子を押しながら、涙でにじんだ目で見た満開の桜。
 『すごく、桜、きれいだよ……』と鷹文は笑った。あんなにひどいことをしてきたのに。

「私は弟が好きだ。尊敬している。そして、あの思い出の桜並木を残すために、私は生徒会長になろうと決めたんだ」

 智代はああしろこうしろとは言わなかった。
 だが、言いたいことはなんとなくわかった気がした。
 それらのことを全て理解し受け入れることが出来るほど僕はもちろん出来た人間じゃない。
 でも、ただ素直に一つの言葉が口から出た。

「……さんきゅ……」

 智代は、はじめて僕に微笑んでくれた気がした。




2.

 母の誕生日がすぐ近くまで迫っていた。
 私は弟の鷹文と二人で、プレゼントを選びに行こうと家を出た。
 事故の怪我から回復した鷹文は今年は受験生だ。受験するところは私と同じ、あの思い出の桜並木に続く高校だ。
 勉強は大丈夫そうか、とか。互いに学校でこんなことがあったなんて世間話に花を咲かせながら並んで歩く。
 こうして二人で歩けるようになっただけでも、本当に嬉しかった。
 だから、私は今までの分も含め、恩返しをしていけたらなと思っている。

 私たちが目指しているのは駅前にあるそこそこ大きなデパートだ。
 この町はファミリーレストランのひとつもないような小さな町だけれど、駅前はそれなりに栄えてる。

 駅前の待ち合わせによく使われる白い塔みたいなところを横切って、私たちはデパートを目指す。
 ちょうど、白い塔の下には一人の女の子が立っていた。
 黒い髪を黄色いリボンで2つに横に分けている。その瞳はきょろきょろしていた。
 もの珍しそうに駅前のデパートや連なる店を眺めている。

「はぁ〜。やっぱり都会は違うな〜」

 可愛らしい感嘆の声がその唇から紡がれた。
 少女は、この町の住民ではないのだろう。
 それにしてもこの町を「都会」と呼ぶ辺り、一体どこから来た子なんだろうと思う。
 私はそこで女の子に対する興味を失った。
 今は鷹文と買い物に行くことのほうが重要だ。

「……鷹文? 行くぞ」
「え? あ、ああ。……うん」




「ねぇちゃん。これなんかいいんじゃないかな」
「どれどれ? うん、それもいいな。でもこっちも母さんに似合うと思わないか?」

 互いに意見を交わしながら、のんびりこの時間を楽しむようにデパートを回る。
 時間をかけて母へのプレゼントは決まった。
 きれいにラッピングしてもらったそれを抱えて、二人で満足そうに笑った。
 他にも互いにちょっと欲しかったものを購入したりしてデパートを出た。
 駅前を通り過ぎようとするとまた同じ姿が目に入った。

「あの子。さっきも居たな」
「迷子とかじゃないのかな」

 待ち合わせの場所にただ立っているだけならば、そうではないと思った。迷ったなら通りがかりの人に道を尋ねるくらいするだろう。
 しかし、私が否定の言葉を口にするよりも早く、鷹文は女の子の方に向かって歩いていた。
 仕方なしに私も後を追う。

「こんにちは。あの……、さっきからここにいるみたいだけどどうしたの?」

 鷹文がにこやかな笑みをたたえたまま尋ねている。
 女の子は自分が話しかけられたと思っていないのか微妙に首をかしげていた。
 私もフォローするように後に続く。

「こんにちは。見たところ地元の人じゃないみたいだけど。行きたいところがあるなら私たちが案内しても構わない。私たちはこの町の住民だ」
「あ。こんにちはっ。親切にありがとうございます。でも、待ち合わせをしているだけですので大丈夫ですよ」

 会釈をしながら少女の可愛らしい丁寧な声が耳に残る。やはり、迷子ではなかったな。
 しかし、鷹文の方はまだ突っ込んだことを聞く。

「でも。さっきからずっとここにいるみたいに見えたんだけど?」

 それは私も感じていた疑問だ。待ち合わせにしては不自然なほど時間が経っている。

「私が早く来すぎてしまっただけなんです。兄に会う前に都会でちょっと買い物をしてみたいと思いまして」

 少女はそれを示すように右手の紙袋を揺らしてみせた。確かにそれはこの近所の店のものと一致していた。
 ずっとここにいたわけではなく、待ち合わせの時間まで駅前を周って、時間が近づいてきたから戻った。それだけのことだった。
 しかし、何か私の中で引っかかる。
 兄と待ち合わせをする妹……これと似たような話を最近どこかで聞いたような。

「僕は坂上鷹文って言います。よろしく。お兄さんがこの町に住んでるんだ? それで遊びに来たの」 
「はい。そうなんです。兄の様子見をかねて、ちょっとこの町に来てみたかったので……。わたしは春原芽衣と言います」

 ああ。と頭の中でやっとつながった。春原の妹さんだったのか。
 それはつい先日、春原から聞いていた。小柄で可愛らしい春原の妹。
 春原が妹のことを語るときは少しだけ目が優しかった気がした。私が今の鷹文を弟として好きなように、春原を妹のことを大事に思っているのだと感じてちょっと嬉しかったのを思い出した。

「私は、鷹文の姉……坂上智代だ。よろしく」
「……坂上……智代、さん……?」

 にこやかな表情一辺倒だった春原妹は驚いたように目を丸くした。何故だか目が輝いている気がする。そして感嘆のため息。なんなのだろうこの反応、春原が私のことを変な風に話しているんじゃあるまいな。

「坂上さん。ということは……あなたが兄の恋人なんですねっ」

 ……ちょっと待て。誰が誰の、恋人だって?

「すいません。失礼をしました。改めてご挨拶させて下さい。兄がお世話になってます。こんなきれいな方が兄の彼女だなんてすっごくびっくりです。私ってばてっきり……。兄は不器用ですけど。本当は優しい人なんで、その……よろしくお願いします」

 さっきまでの様子とは一変して、春原の妹は頬に朱を散らし、声も高くなっていた。私が反論するタイミングを失っている間に自分の兄のことを頼みもしないのに語っていくのだがその表情と動作がとても微笑ましい。
 春原。おまえは妹に愛されてるぞ。良かったな。

「わたしが幼い頃……イジめられていたときなんか、いつも飛んで来てくれて『芽衣を泣かすなーっ!』って私を助けてくれたんです」

 私が知らない春原の(妹さんから見た)過去を聞くのは嫌ではなかったが、そろそろ否定させてもらおう。
 鷹文も「ねぇちゃん、恋人いたんだ」とか「芽衣ちゃんのお兄さんなら、きっといい人なんだろうねぇ」なんてさっきから妙に嬉しそうに言うのがなんだか腹立たしい。
 にこにこと嬉しそうな春原の妹には悪いが、違うものは違う。
 そう決心して、私が言葉を紡ごうとしたその時、

「あっ! おにいちゃんだー」

 嬉しそうに小さな身体全体で、意思表示をする春原妹。
 その視線の先には兄の方の春原が青ざめた顔でこっちを凝視していた。
 瞳の色は困惑――どうして私がここにいるんだと語っている。

「おにいちゃ〜ん。こっちこっち〜」

 妹の純真な笑顔をとは逆に春原のそれは明らかに引きつっていた。諦めたようにふらふらと近づいてくる。
 休日の春原は普段学校で会うときとなんら変わりないように見える。違うところがあるのは制服を着ていないところだけだった。だらしない格好ではないが特別なオシャレをしているわけでもない。
 私の方も、特別髪型を変えているわけでもないので同じではあるのだが。

「おにいちゃんにこんなきれいで優しそうな彼女がいるなんてびっくりっ!
 疑ってごめんね、おにいちゃん。わたし、てっきりおにいちゃんが嘘ついているのか思ってた」

 正解。少なくとも私は春原の彼女ではないからな。
 同時についこの間、朋也と春原に呼び出されていたときと話がつながったような気がする。

「ちょっと、待ってもらっていいか?」

 私は春原にちょっと来いとジェスチャーをする。春原も慌てて返事をする。
 鷹文と妹さんと少し離れたところまで移動して、向こうに聴こえないようにひそひそ話をする。

(おい、妹さんに見抜かれてないか? あと……いつから私はおまえの恋人になったんだ?)
(……知らない! 僕は「彼女がいる」って嘘はついたことはあるけど、それが特定の誰かの名前を出したことなんてない。多分、岡崎のヤツが勝手におまえの名前でも出したんだと思う)
(全く。どうして、そんなくだらない嘘をつくんだ……。妹さんのことを大切に思っていると感じて少しは見直していたのに)
(今思えば僕だって馬鹿だったなぁ、って思えるさ。けど……いや、いい。どうせ正直に言おうと思ってたんだ)

 春原の反応に少しだけ安堵した。
 このまま恋人のフリをし続けてくれ。などと口にしたらいつものように蹴り飛ばすつもりだった。
 密談が終わり、私たちは二人の元へ戻る。
 鷹文と妹さんはこっちを不審そうに眺めているということもなく、二人で雑談をしていたようだった。

「あ、お帰りなさい」
「お帰り〜」

 穏やかな声で二人が応えた。
 対して春原の顔は全く穏やかではなかった。
 清々しさもない。
 苦しそうだ。
 でも、止まって欲しくない。
 止まっては駄目なんだ、春原。
 春原の脳裏には今、何が巡っているのだろう。どんな傷みを感じているのだろう。
 前に進むのが怖いのだろう。逸らしていたものを直視するのは、そういうことだ。

 でも。
 逃げること、ごまかすことが……妹に対して正しいことかどうか。
 自分に対して良いことか悪いことか。
 逃避は傷みを隠すことはできても、埋めることはできないのだから。
 どうせなら、上手く埋めたい。傷と上手く付き合って生きたい。
 失った時間は戻らないのだから。
 感じてるだけでは満足しちゃいけない、だから行動するんだ。

「二人とも、聞いてくれ。智代は……僕の恋人じゃない」

 言った。
 その瞬間。私は自分の握る手の中に汗を含んでいたことに気づいた。
 妹さん――芽衣の表情はほとんど変わらない。その唇からは的外れな発言が飛び出す。

「え? フラれちゃったってこと? もう、おにいちゃんがしっかりしないから――」
「そうじゃない。最初から嘘なんだ。僕に恋人なんかいない。サッカーをやめた僕を心配していた芽衣に対する、ただの方便だったんだ」

 春原は芽衣に隠していたサッカーをやめた本当の原因を話した。それは先日、私が聞いていたものと同内容だ。
 ただ、そこから先が。私が知らなかったこと。
 春原がサッカーをやめたことは原因までは伝わらずとも芽衣や家族にはバレてしまった。
 そこで、マイナス方向の理由ではなくプラスの方面の理由でやめたと嘘をついたのだ。
 つまり。
 自分にとってサッカーより大事なもの(このとき春原が考えたのが彼女という言葉だった)を見つけたから。
 これからはサッカーではなく、もっと大事なもののために頑張るのでサッカー部を自ら辞めたという嘘だった。
 だが、現実は春原には彼女はいないし、サッカーを出来なくなった原因は別の理由だし、それ以来腐ってしまった。
 春原は、覚悟はしていたとは言えど、やはり苦しそうに、それでも出来るだけ感情的にならないように言葉を選んで話し続けた。
 その姿は、他の者にはどうかわからないが、少なくとも私は、真剣さを感じた。
 最初の頃は、何か口を挟もうとしていた芽衣も、次第に黙って聞き続けていた。内容を吟味するように、噛み締めるように。
 春原はその事実を告げ終えると押し黙る。
 他にも色々と言うことはあるのだろうが、少なくもこの嘘に対しての誤解の説明以上のもは今は不要だ。
 私は春原兄妹の表情を交互に眺め続けた。
 そうしている間がどれくらいの長さなのかわからない。重たい沈黙の中、それを破壊したのは兄妹の言葉ではなく、私の弟から発せられた音だった。

「……立ち話もなんですから。どこかお店に入りませんか? ちょうどお昼時ですから」

 鳴った自分のお腹を恥ずかしそうに撫でながら鷹文が提案する。「それはいいアイデアだな」と私は多少わざとらしいくらい明るい声で賛同してみせる。
 春原兄妹に地元民しか知らない隠れた名店に案内してやる、と私たち姉弟はアイコンタクト。
 返事も待たずに、私は春原の手を、鷹文は芽衣の手を取って歩き出した。




3.

 今日の計画は何ひとつ思い通りにいかない。
 この前、智代と話をしたときに、芽衣に説明をしようと決めていた。
 それでもすぐに言い出そうと思ってなかった。
 今日一日、芽衣のご機嫌を取りながら、話し出せるタイミングを探る予定だった。
 しかし、最初の一歩目からいきなりつまずいた。
 待ち合わせの場所にたどり着いた僕の目に入ったのは芽衣だけでなく、見知った顔と見知らぬ顔がひとつずつあったのだ。
 二人だけだから芽衣には説明するつもりだったのに、智代がいる。
 それだけで、僕の胸は激しい動悸の襲われた。
 あれだけの話をした智代の前では嘘はつけない。逃げることはできなかった。
 話を否定せずに聞いてくれた智代に、きっと僕は嫌われたくなかったんだろう。
 結果こうして、4人で昼食を取り、それなりにいい雰囲気で話せるようになってきた。
 そういう意味では最初は呪いたくなるような偶然も、今となってはこの姉弟が居合わせてくれて本当に良かったと感じている。

 芽衣の表情を観察する。
 傍目にはさほどショックを受けたようには見えない。
 僕に彼女がいないことは薄々感じてたみたいだし。ただ、サッカーをやめた理由とか、卒業もやばいくらいに僕が不良学生だってところはやっぱりショックだろうな。
 結局のところ、実家を離れてこの町に来たこと自体が逃避行動だったのかもしれない。
 僕が芽衣のことを大切にしたいという気持ちと、それは別に「良く見せたい」と思ってた部分があって。後者は芽衣の目に入らない場所にきたら出来なくなってしまっていた、それはやっぱり無理をしていた嘘の自分だったのかもしれない。
 続けていれば本物になるかと思ったけど、結局のところ僕では駄目だった。

 今は穏やかな雰囲気で僕を含む4人でいい雰囲気で話せている。
 こんな時間がずっと続けばいいのにな。そんなことを思い始めてた頃に、芽衣がついに切り出した。

「ところで、おにいちゃん。卒業した後の進路はどうするの? お父さんたちも心配してたよ」

 冷たくなるような熱くなるような感覚が脳を襲う。
 色々な感情が混ざり合って、叫びだしたいような衝動にもかられて、必死で抑えつける。
 卒業したら……、それは霞がかった世界だった。
 光の届かない、霧で包まれた不安定で先の見えない世界。
 それは僕が勝手に抱いているだけのただのイメージ。
 考えないようにしていたから、わからないフリをしていたから、闇は闇のまま照らされない。
 僕はサッカーをやめる前までの自分を思い出そうとする。
 あの頃だって、本当は未来のことなんてほとんど考えていなかった。
 ただ、それでも。漠然とした先に見える何かがあったのだ。
 日々を生きる目的があったんだ。
 だから明日を見ていた。考えろといわれれば、きっといくつかの光を見つけて言葉にすることが出来ただろう。
 だが今はどうだろう?
 あの事件でサッカー部を追い出されて以来、僕は明日が見えなくなった。一日先のことを考えても何も光が見えない。だから僕は考えることを放棄した。
 次の日を生きる光すら見れない今の僕が、卒業後の未来を直視できるわけがなかった。
 真剣に眺めても、痛みが伴う。
 それを承知で必死で見ても、光が――僕には見えない。霧と暗闇の、前進することが恐怖しかないようなそんな世界にしか見えない。
 だから、僕は――

「そんな話はなしにしよう。せっかくいい雰囲気でしゃべってたんだから」

 この場を壊したくなかったのは本心だった。ただ、僕には何もないからこの話はしたくない。
 今まで我慢してきたことが全部駄目にしてしまう一言を叫びだしてしまいそうな恐怖があった。
 だから、今日この場は避けなければいけないと思った。芽衣だけじゃない、ここには智代たちもいるんだ。聞かれたくない話なんだ。
 芽衣に「後で話すから」とアイコンタクトを送る。芽衣はしょうがないな、というポーズをした。
 これで最悪の事態は回避できた。そう思った。
 しかし、思わぬ方向からそれを阻止される。

「たまにはそんな話題もいいんじゃないのか。私も聞いてみたい気がする。……こんな機会でもない限り春原のそういう話は聞けそうもない気がする」

 やっぱりおまえに感謝なんかしてやらない。
 発言主は特別表情を変えるでもなくこっちを見るでもなく、紅茶を口につける。
 ただ、大声出して全てを破壊してしまいたいような衝動は霧散し、心が落ち着いているのを感じていた。
 智代がこの前語った内容を思い出す。
 彼女には灰色に包まれた過去が合った。
 それを清算して、努力をし続けて、智代はここにいる。
 当時に智代の荒れ具合なんて僕にはわからない。想像することしかできない。
 そして、今は生徒会長を目指している。
 智代には先を指し示す光がある。
 相当の努力をしたことくらいわかっている。けれど……、それは智代に才能があったからだ。
 僕だって中学校までは頑張っていたこともある。
 けれど、智代みたいに僕は輝けなかった。
 まるで遠い空のような存在に感じた。

 だから、やっぱり。僕ができるのはせめて、現状を正直に言うくらいしかできなかった。

「正直な話……卒業した後のことは全く考えていない。そもそも卒業できるかどうかも危ういかもな」

 期待に沿える答えなんてできない。僕には何もないから。ない物をあるなんて、それじゃ今までと同じだった。
 本当は実の伴わない話ならば、どちらにしろなんにもならないんだろう。
 けれど、それを他に転化させるのは違うと智代に言われている気がした。

「それよりもっ。芽衣の方はどうなんだ。おまえも今年、高校受験だろう?」

 返される前に先に質問を投げかける僕はやっぱり臆病者なのかもしれない。
 その言葉に、芽衣は少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「そうそう。今日ここまで来たのは、そのためでもあるんだ〜」
「……なんだって?」
「わたしね。おにいちゃんと同じ高校を受けようと思ってる。だから、学校と寮を見せてもらおうかなと思ったの」
「え! そうなんだ。僕も来年、同じところ受けるつもりなんだ」
「そうなんだ! 良かったっ。知ってる人がいないのは少し不安だったから。今日、鷹文くんと知り合えて良かった〜」
「うん。それにねぇちゃんもいるよ。3年生になるから1年間だけど、先輩としていろいろ教えてもらえばいいよ」
「うん、なんでも相談にのってやるぞ」

 芽衣が、この高校を受ける。
 スポーツ推薦で入るような僕とは違って芽衣は勉強も良くできる。
 だから、受験するレベルとしては悪くない選択肢に思えた。
 ただ、僕は別のことに引っかかりをおぼえる。
 また、智代が語っていたことを思い出す。
 智代は生徒会長になって、桜並木を守ると言った。
 家族のために、弟のために、自分のために、智代は何かを残そうとしている。
 それに引き換え、この僕はなんなのだろう。
 来年になれば、留年という恥ずかしい結果以外にこの学校にいることはない。
 僕は、妹のため、自分のために、何か残せるものはあるんだろうか?

 僕は窓の外を見た。
 遠い空。飛べない空。あそこまで届かない、光が見えない。
 だけど、思えば。
 欲しいものに手を伸ばさなければ何も手に入るわけはないのだ。
 僕は、道しるべがなくても、痛みを伴っても、何をしていいのかもわからないけれど、このままじゃいけないってことだけはわかっていた。
 もう一度、手を伸ばしてみよう。飛べない空へ。





4.

 人はそう簡単に変われない。
 考えても考えても、僕には絶望の中なら微かな光さえ探し出すことができない。
 授業を真面目に聞いてみたが、今までのブランクがありすぎて理解ができない。
 体育の時間。真面目に身体を動かしてみる。しかし、二年間サッカーをしていなかった身体は、当時のキレからは程遠い。
 演劇部を作ろうと動いている岡崎と渚ちゃんに協力をしてみる。だけど、吹奏楽部を作ろうとしている連中と言い合いになって足を引っ張ってしまった。
 どうやっても上手くいかない。そんなときは智代に相談を持ちかけてみたりもした。
 智代は、僕に色々なアドバイスをくれた。
 恥ずかしいが、やるべきことが見えない状態での僕の救いは、智代の叱咤激励だけだった。
 だが、そんな日々も長くは続けられなかった。
 問題は、僕が智代と話すことだ。
 悲しい自慢になるけれど、ここは優等生の多い学校だ。その中で不良と呼ばれる人種はほとんど存在しない。だからこそ目立つんだ。僕とか岡崎のような存在は。
 智代は僕に何も言わないが、どうにも僕のような不良と何度も話しているのは他人から見るとイメージダウンにつながるようだ。
 確かに僕のような不良にとって生徒会はいいイメージのひとつもない。
 つまり……、彼女の目標である生徒会長になること。それを僕は邪魔していることになる。
 それに気づいたら、もう智代のところに行く気になんかなれなかった。
 智代が鷹文や家族のことを大事にしようとしているかは、いろいろ見てきた僕にはわかっていた。
 なによりも、僕のせいで誰かの邪魔になるなんて、自分のあるはずのない価値がさらに下がるような気がして嫌だった。

 ――時は流れる。

 智代は無事に生徒会長に選ばれた。
 僕は相変わらずだった。
 やることなすこと、疑問だらけだ。
 智代がいないからだ。
 誰か、僕のやっていることが、正しいのかどうか教えてくれ。
 勉強はすぐに諦めた。例えば大学に行きたいわけでもない。興味を持てる学問分野も特にはなかった。
 運動もそうだ。岡崎みたいに肩を壊したわけじゃないから身体の問題はないはずだ。時間はかかっても何かできるかも知れなかった。
 けれど、それほどまでにサッカーをやりたいのだろうか。サッカーそのものが好きだったのだろうか。
 スポーツ推薦だったとは言えど、例えば全国大会とかに出れるとかそんな特別上手かったわけでもないのだ。サッカーをやり直すことを芽衣が望んでいるのだろうか?
 演劇部の件はなんとかなった。
 幸村のジイサンが2つの部を兼任で顧問になってくれることになった。渚ちゃんや岡崎を見ていると思うんだ。僕もなんかしなきゃって、力になりたいって。
 僕も音響を手伝った、二人の役に立てただろうか。
 将来のことを考える。
 僕は何がしたいんだろう。
 みんなはどうして進路を選ぶのだろう。
 僕は実家に戻るのだろうか。そうじゃないんだろうか。就職するのか、しないのか。その程度の想像しかできない。
 智代との仲もさして大きな変化もない。
 もともと僕たちは仲がいいわけでもなんでもなかったはずだ。
 智代が頑張っている理由は知っていたから、僕は距離を取っていた。でも、避けてるわけじゃない。
 顔を合わせればちょっと話を交し合うくらいはできるようになっていた。だから元の関係に戻っただけだ。
 いつもように相談していた時間のほうが異常だったんだ。
 ……どうしてだろう。
 智代を見る度に、2つの感情に襲われる。
 智代は輝いている。
 その光に対して、羨ましいような妬ましいような感情を覚える。それと同時に近づきたいと思ってしまうのだ。あの光に、僕にはない場所に。
 でも、僕なんかがいくら頑張っても足元にすら追いつけはしないのだ。

 ――やがて、春が終わり、夏が終わり、秋も過ぎて、冬が過ぎ。再び春はやってくる。

 結局のところ、僕は変われたのだろうか。
 これまでの2年に比べ、いろいろ悩み、考えて過ごした1年だったのは間違いない。
 けれど、なんとか卒業はできたものの僕の進路は未定のままだった。
 岡崎はこの町の電気工事会社に就職することが決まっていた。渚ちゃんは去年の途中で病休に入り、結局卒業は出来なかった。

 卒業が決まったら寮を出ることになる。住むところがないなら実家に戻るしかない。
 それだけは報告してあった。戻ったら両親たちと長い話をすることになるだろう。
 荷物をまとめて、駅に向かう。
 この町で、僕は何か手に入れられたのだろうか。何か残せたのだろうか。わからないけれど、僕はこの町を出る。
 たったの3年間だ。思い出は2年間、岡崎とバカをやり続けたこと。ジイサンが僕たち二人を引き合わせてくれなければ駄目になってかもしれない。これはオーバーじゃない。
 最後の1年はどうだろう。つらかった。何も考えていない頃よりずっと。考えて行動しても、何も残せなくて、本当に自分はなんだったのだろうと、自分の力に空しさを感じる。

「……春原、卒業おめでとう」

 唐突に、見えるはずのない影がそこに居た。
 駅前の白い塔の下、11ヶ月ほど前に、芽衣を迎えにここに来たとき居たみたいに、彼女はそこに居た。
 その微笑みは――やっぱり僕にはまぶしすぎて、何故だか泣きたくなってくる。

「どうして……ここに?」
「うん。芽衣からな。おまえが今日、電車に乗って帰ることを聞いていたからな。おまえを待つなんてのも長い人生の貴重な体験かなと思って、ここで待っていたぞ」

 なんだそれ、って軽く笑う。
 なんとなく。これで最後なんだろうなと思った。
 結局、変われなかったけど。智代には感謝しているんだ。そして、それと間逆の感情を持っていることを伝える最後のチャンスだと思った。

「……僕は結局、何も変われなかったよ。僕なりに考えたんだ、出来ることもしてみたんだ。でも、何にも見えないんだ。出来ないんだ」
「春原……? 何を言っている」
「よく考えたら不思議だよな。僕とおまえじゃあ知り合いにすらなれなかったはずなんだ。あんまりにも違いすぎる。ただの偶然の重なり合いだ。
 僕には智代と違って、何もないんだよ。
 これといった特徴も、自慢できることも、才能も、やりたいことも、友達も、何にも……ない。何の取り柄もない」
「どうして、そんなことを言う? 自分を卑下するな……春原」

 ずっと抑えていた負の言葉が、もう溢れそうになっていた。
 おまえを見ていると、歯がゆくて、もどかしくて、でもそれは。

「僕は初めて見たときからおまえみたいなやつは気に食わなかったんだ。
 何やっても出来るマンガの主人公みたいなヤツは。そういうのになりたくたって、いくら努力したって、なれない人間がいるんだ」

 見る度に、自分の無力が、突きつけられて。いつだっておまえは正しくて、泣きたくなる。
 僕は芽衣のために頑張ってたつもりがそこまでなれなかった。でも、おまえはあっさりと僕がなりたいものになっている。
 そんなおまえを見て、自分を律してこの1年やってきたけれど、やり直してみたけれど。
 勉強も、運動も、やりたいことも、誰かの力になることも、就職することも、何も出来ない。
 
「くそっ、そんなに悪いことか? 何の取り柄もない人間はそんなに遠慮しなきゃならないのか!?
 自分を律して、これだけやっても、何にもなれない! しあわせになることも、何も……」

 智代を見る度。励まされる度に、まだ諦めちゃいけないって、頑張ってきた。
 叫びたい気持ちを殺して、耐えて、自分で考えうる努力を精一杯やって、やって。
 たかが、1年の我慢で、僕は、全てを壊してしまった。

 こんな言葉、出しちゃいけない。いつもみたいに、黙って乗り越えなくちゃいけないのに、智代をみて、いつもみたいに奮起を出さなきゃいけないのに。
 溢れてしまった。

 僕は、顔を上げない。智代の表情を確認することが怖かった。
 もう、僕たちは終わりだ。
 今頃気づく、こうなりたくないからずっと我慢してたということを。智代に嫌われたくないから、僕は1年間耐えてこられたのだと。

「……春原。気は済んだか?」

 かけられた声は、僕が思っていた以上に穏やかな響きを持っていた。その言葉には呆れたような感じもない、いつもの智代の声。

「すまなかったな……。そんなに溜め込むまで一人で悩まなくて良かったんだ。そうやって気を吐き続けるだけじゃいつか潰れてしまう。心と身体が合わなくて自己嫌悪してしまう」

 智代の言葉はどこまでも優しい。智代が謝ることなんてないのに、悪いのは僕なのに、受け止めてくれる。
 心と身体がまるで別の生き物のような僕に必要な言葉を智代はいつもくれている。

「それにな……ちょっとショックでもあったぞ。
 少なくとも、私は春原のことを友だちだと思っている。友だちがいないなんて言わないでくれ。
 何も取り柄がないなんて言わないでくれ」

 僕は、本来は嬉しくなるはずの言葉に、とてつもない悲しみを感じた。
 出来すぎた言葉のはずなのに、僕ごときが智代に「友だち」って言ってもらえるなんて、それだけでも満たされなきゃいけないはずなのに。

「そろそろ、電車の時間だから……。さよなら、智代」

 僕は、ありがとうすら言えなかった。智代の顔を確認しないように、下を見たままで、駅に向かって走り出した。

「春原……っ!」

 僕は速度をあげた。追ってくる気配はなかったけど、一刻も早く智代の声が届かない場所へ、視線が届かない場所へ逃げたかった。
 ではないと、溢れ出しそうなものが隠せないだろ。
 僕は――智代に、友だちと呼ばれてはじめて……友だちじゃ嫌だと思ったんだ。

 ――僕は、智代のことが好きだって、やっと気がついたんだ。




5.

 実家に戻った僕は、俗に言う「フリーター」という身だ。
 フリーターという言葉が甘いとニュースでたまに耳にするのを聞いたことがあるがまさしくその通りだと思う。
 仕事を持っていればいいとか悪いとかそういうことでなく。何かをやっているかやっていないかでは判断されない言葉であるからだ。
 無職18歳、春原陽平。
 僕の肩書きなんて、たったそれだけだろう。
 両親との話合いは思ったよりも激しい言い合いにはならなかった。
 それは僕がこの1年、悩み抜いて考えた結果だからなのだろう。
 思っていることを話し合って、僕は今、家の手伝いとアルバイトで過ごしている。
 余った時間は、勉強に費やしている。
 僕は、進みたい道を両親に話したのだ。
 幾度の話し合いを経て、両親の妥協ラインと自分の意思を交わした。
 2年間やって駄目ならば、親に勝手に進路を決められても文句は言わないと約束させられた。

 バイトと勉強の日々を続けて、最初の夏が来た。。
 僕はその日もバイトに行き、家に帰る頃には芽衣が夏休みで帰省することになっている。
 ただいま、と家に入る。居間で複数の声がする。芽衣だろうと思って、顔を出す。
 おかえり、と言うつもりがその光景を見て、言葉を失う。

「あら。お帰り、陽平」

 母親が僕にいち早く気づいた。
 問題はそこに芽衣を含めてさらに3人の影があることだった。

「ただいま、おにいちゃん」
「こんにちは、お邪魔してます」
「久しぶりだな、春原」

 坂上姉弟がいた。
 芽衣とは連絡を取っていたから、芽衣が鷹文と付き合うことになったのは知っていた。だが、実家につれてくるとは思っていなかった。しかも、智代までついてくるなんて。
 完全にふいうちだ。自分の感情を認めてから彼女を見るのは初めてだった。

「な、なんだよ。おまえまで来てるなんて、びっくりだ」

 上手く言葉が出なかった。少なくとも言いたい言葉とは違ったはずだ。でも、どうしようもなかった。

「しばらく、世話になる」

 智代は、穏やかに笑った。




6.

 ウチの風呂は大きい。
 それはわかっているが、なんで僕が鷹文といっしょに湯船に浸かっているんだ?

「それは、将来のお義兄さんとなる方ですから。今のうちから裸の語り合いも悪くないですよ」
「……気が早いね」
「そうですか? 僕としては芽衣ちゃんとずっといっしょにいたいと思っていますから。本気です。あと、お義兄さんとねぇちゃんがもっと仲良くなってくれたら嬉しいかなとも思ってます」

 絶句する。
 何を言い出すのだろう鷹文は。
 しかし、僕が返事せずとも鷹文は話を続けた。
 それは智代についてのことだった。僕の知らない、鷹文から見た智代のことを、ゆっくりと時間をかけて話し続ける……




7.

 お風呂をご一緒して下さい。と芽衣に誘われたのでいっしょに湯船に浸かっている。
 春原の実家の風呂は大きかった。

「将来、お義姉さんとなる方ですから。たまにはこういう経験も必要かなって」
「……気が早いな」
「そんなことないです。わたし、鷹文くんと本気でおつきあいしてます。本気です」

 芽衣の瞳は真剣そのものだったので、そうかとうなずいた。

「それにしても……、智代さんってスタイルいいですよね、うらやましい。私なんて、全体的に小さいし……でも、鷹文くんはそれでもわたしを優しく激しく求めてくれたんで嬉しかったです」

 なんだか、今。とても問題のある発言まで聞いてしまった気がした。ここはどういう反応をするべきなんだろう。
 広いお風呂を堪能しながら、目を閉じる。
 私がここまで着いてきたのは、やっぱり春原に一度会いたかったからだと思う。
 春原の方からは会ってくれなさそうな気がした。待つのは性に合わない。私は春原とあんな終わり方は嫌だと感じていた。
 春原の実家はいつか芽衣が口にしていたように、私たちの住んでいる街が都会に見えるくらいにド田舎だった。
 明日は春原にこの辺りの案内でもしてもらおう。春原が育った場所。芽衣と過ごした場所、それに触れたいと感じていた。

「なぁ……。春原は子どもの頃、どんな風だったんだ?」
「そうですね……おにいちゃんは、わたしにとって――」

 そう語る芽衣の瞳は、とても幸福そうに見えた。




8.

 次の日は、智代と二人で出かけていた。
 本当は4人で良かったんだが、芽衣に「今日は鷹文くんと二人きりで居させて」などと頼まれては仕方がない。
 正直なことを言えば、智代と二人きりで周るには僕は気持ちの整理が出来ていなかった。
 智代のことを好きだと自覚して、それ以来、はじめて二人だけの時間を過ごす。
 別れ方が別れ方だっただけに、ただでさえ気まずい。
 しかし、そう思ってるのは僕の方だけらしい。あのとき智代は僕のこと受け入れてくれていた。勝手に激昂して去っていたのは僕の方なんだ。
 智代が気に病む必要はないし、その方が僕も楽だった。

「……なんだか、しばらく見ないうちにたくましくなったみたいに見えるぞ。日焼けで腕も真っ黒だな」
「ああ。今やってるバイトが肉体労働だから。気がつけば体力も戻ってきたのかもしれないな」

 焼けた僕の腕に触れる智代の指にどきどきしながら、僕は頬が熱くなるのを感じている。
 出かけると言っても、ド田舎のここでは自然しかない。
 子どもの頃に芽衣と遊んだ、川、洞窟、岩場、ぼろい橋、智代が話を聞きたがったので、僕は思い出しながら思い出をしゃべっていた。

「……いいところだな」
「そうかな? 山と川以外なんて、ほとんど何もないところなのに。僕は智代の住んでる町の方が好きだけどね」
「……ありがとう」

 よく遊んだ川の前で僕らは立ち止まった。

「これで、一通りかな。少し休憩したら戻ろう」
「この川は、泳げるのか?」
「ああ。大丈夫だよ、危険はないはずだ」
「そうか。荷物は春原の家に置いてきてしまったが、実は水着も持ってきているんだ。機会があったら泳がせてもらことにしよう」

 たったそれだけで、僕は、智代の水着姿を想像して耳まで熱くなる。
 全く、重症だなと自分でも思った。

「今、僕はアルバイトをしたり家の手伝いをしながら過ごしている。そして、余った時間で試験勉強をしている」
「なるほど、大学受験をするんだな? 大変だと思うけど頑張れ。それで、どんな大学を受けるんだ?」
「……いや。大学には行かない。僕は……公務員試験の勉強をしているんだ。僕は、高校を卒業するとき、結局何も残せなかった、出来なかったと思った。だけど、僕は……あの町のことが、好きになってたんだ。だから、あの町の役場に入りたいと思った。町のために何かしたいと思ったんだ」

 岡崎と出会って、いろいろバカをやったあの町が。
 智代と出会えたあの町が、僕を変えてくれた。だから、恩返しがしたい。
 いや、本当はそれら全てが方便なのかもしれなかった。本当は――智代のことを諦めたくなかっただけなんだ。

 絶望の香りしかしない中で、僕が見つけた針の穴のような希望の光。
 僕だけの太陽、僕はそれに触れてみたい。わずかな可能性だけど、それにすがっていたかった。

 今年はあの町も採用枠があって、試験が行われる。僕はそれを受けに行く。申し込みは既に済ませている。

 僕は足元の石を拾った。

「なぁ。勝負しないか? 悪いけど、僕の得意分野で。石投げをしよう」
「ああ。わかった」

 智代も石を拾う。
 僕は決めていた。この勝負で勝ったら――

「私から行くぞっ」

 智代は脚を上げて、石を投げる。今日の智代はスカートではないので下着がみえるようなこともなかった。
 石が、水面を跳ねる。
 1回、2回、3回と……ビシュビシュと音を立てながら、石は水面を跳ねる。
 さすが智代だと思った。何をやらせても出来る。一投目で10回以上跳ねさせるなんてそうそうできない。
 僕も久々だから、不安だった。
 子どもの頃なら、今の智代の記憶よりも跳ねさせたことは何回でもある。
 でもそれは、確率で言えば5割くらいだし。何よりも、何年も経っている。身体が覚えていてくれるだろうか?

 僕は、石を投げる。
 針の穴の希望目指して。
 光を目指して、運命のスローイング。

 水面をはじく、すべる、跳ねる。
 1回、また1回と跳ねる度、僕の心臓はおかしいぐらいの激しさであばれた。目の前の光景がスローモーションのように長く感じる。
 永遠のように長い時間。
 僕も、智代も、この瞬間は同じものを見ている。

 僕の意思(イシ)はまだまだいける。
 跳ねる石を励ます。
 1回跳ねる度、二人で声をあげる、興奮を隠しきれない。
 そして、智代と同じ回数をはじいた!
 あと、1回で。
 僕の勝ちだ!

 でも、僕の石は。それ以上は跳ねなかった。
 今まで熱が嘘のように、僕たちは静まり返った。
 引き分け――想定外の事態に僕の心が揺れそうになる。

「私といっしょだったな。春原」

 いっしょだな、その笑顔に、僕は勇気をもらう。
 本当はこんなことごときで、智代に並んでるなんて思ってない。
 それでも、僕は……追いかけていく覚悟を決めたんだ。

「……智代。僕は、どうやら……おまえのことが好きみたいだ」

 言った。ついに言った。
 僕は智代の顔を真っ直ぐ見つめていた。
 ヘタレで駄目な僕だけど、ここには逃げ道なんてない。
 自らこじ開けた扉。

 その答えを聞くために僕は待っていた。
 その割合を示すなら期待の方は1割にも満たない。
 ここまでしても、自分の気力を盛り上げただけのことだってわかっているから。
 智代は、どちらにしろ真摯に答えてくれるはずだから。

 僕は、待った。

 その表情をずっと見ながら、待った。
 智代はすこし顔を下に向ける。顔は赤くない。瞳は――よくわからない、困惑しているように見える。

 智代は、言った。

「すまん……。私ではおまえにふさわしくない」

 あ、やっぱり駄目か。と思いながらも当然、海の底に沈んだみたいに落ち込みそうになる。

「私は、おまえのように目標がない。生徒会長になって桜並木を守った。しかし、それを叶えた私にはもう目標がないんだ。鷹文には芽衣がいるし、家族関係も良好だ。
 しかし、いざ自分の進路となれば。私はおまえほど明確なものを持ち合わせていない……これでは、春原とはつりあわない」

 予想外の理由だった。
 だって、つりあわないなんてそんなの僕の方なのに。
 しかも、恐ろしく細い道を今から通ろうとしている最中なのに。いつ波に飲まれるかもわからないのに。

「大丈夫だ……智代なら見つけられる。もし、苦労するなら今度は僕が智代の力になるから」

 智代が逃げないように、捕まえた。
 もう、離さない。

「だから。つりあいとかじゃなくて、今の智代の気持ちを聞かせてくれ。正直に」
「うん……。私は春原のことは……嫌いじゃない。でも、恋愛対象としては全く考えてなかったから。その……まだ、わからない」

 朱を散らす頬を見ながら、僕は心底思う。
 わかってたことだけど、智代はすっごく可愛い。

「だから、時間をくれないか……。結論をすぐ出せることじゃない」
「わかった……焦らなくていい。ずっと、待ってるから」

 智代を握る手に力を込める。
 僕たちはここから始まるんだと思った。


 見上げた空には――細いながらも確かな光が伸びているように見えた。



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