いますか


風子です


あなたのお名前はなんていうんですか


教えてください


風子とお友達になって、一緒に遊びましょう


楽しいことは……


……これから始まりますよ













」」」」」」」」











 まぶたを開くと、目の前に女の人の顔があった。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 同じ言葉を返す。
 あまりにも突然で、それ以外言葉が浮かばなかった。
「お友達です」彼女は続ける。「一緒に遊びましょう」
「遊ぶ?」
「はい」
 笑顔で頷く彼女とは対照的、わたしは目の前の出来事をうまく処理できていなかった。
 勢いで挨拶は交わしたものの、この女の人のことをわたしは全く知らないし、それなのにどうして一緒に遊ぶのかも分からないし、そもそも――
「……え?」
 ばっと身を起こす。わたしは今までずっと横になっていたのだ。そんなことにも気づかないなんて、ぼんやりするにも程がある。
 周囲を見渡す。
 わたしのすぐそばには大きな木が立っていた。この木陰で、芝生を布団に今まで眠っていたようだ。
 少し離れたところには見た目にも分かるほど新しく、そして大きな白い建物。どうやらわたしたちは、病院か何かの中庭にいるらしい。
 とにかくと、わたしは頭を軽く振って記憶を探った。
 ――でも。
「……あれ? わたしどうしてここに?」
 思い出せない。今以前の自分の行動というものを、わたしは全く思い出すことができなかった。
 無意識の内に身体を震わす。これはいったい、どういうことなんだろう。
 分からないことだらけの中、それでも必死に記憶を探る。
「お昼寝です」
 と、突然かかる女の人の声。わたしは顔をあげ、彼女を見つめて聞き返した。
「お昼寝?」
 自分のことを相手に尋ねるなんて、なんとも変な話。
「はい」
 こくと頷いて、神妙な顔付き。右手の人差し指をぴんと立てる。
「今日のように天気が良い日に、こんな気持ち良さそうな木陰でやることなんて、お昼寝以外には考えられません」
 妙な説得力があった。
「町でクレバーと評判の風子です。言うことに間違いはありません」
 少し難しい顔をして言う。多分、真剣に話しているんだろう。
「風子さんっていうんですか?」
「風子は、風子です。さっきも名乗りました」
 むぅっと膨れる。
「あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてたみたいで」
 さっき?
 思い返しても、名前を教えてもらった覚えはなかった。きっと、わたしがぼんやりしている間のことだったんだろう。
「それで、あなたのお名前はなんていうんですか?」
「え、と」
 言われて、考える。名前、名前、名前……
「……あれ?」
 でも、当然出てくるはずのそれが、どうしても出てこなかった。
 そんなはずはない。ちゃんと思い出せ。わたしはなんと呼ばれていた?
 あの白くて寒い世界でわたしはなんとよばれ――
 ――――。
 白くて寒い世界?
 一瞬脳裏をよぎった言葉。自然に浮かんできたそれを、でも、わたしは知らない。
「お名前、忘れてしまったんですか?」
「……え、と、なんか、そうみたいです」
「それは大変ですっ」
 風子さんが慌てて言う。
 たまたま声をかけた人間がどうも記憶喪失らしいだなんて、本当に、大変なことだと思う。
「これは、可愛い名前を考えなくてはいけませんっ!」
「そっちっ!?」
 思わず、つっこんだ。


「ふぅちゃん」
 声に振り向くと、そこには綺麗な女性の姿があった。穏やかで優しそうな雰囲気だった。
「なにしてたんですか、おねぇちゃん。来るのが遅すぎます」
 おねぇちゃん。風子さんの言葉に、瞬間、二人の顔を見比べる。確かにちょっと似てるかも。
「ふぅちゃんがはやすぎるの。なにも、走って行くことはないでしょう」
「いいえ、時は金なりといいます。とてもビジーな風子は、一秒たりとも無駄にするわけにはいきませんから」
 こうしてる時間は無駄って言わないのかな。
 当然浮かぶ疑問も、口にはしない。無駄だと分かっていた。
「ええと、私、ふぅちゃん――この子の姉で、伊吹公子といいます。この子がご迷惑をかけてしまったみたいで……」
「風子、迷惑なんかかけてません」
「知らない人にいきなり馴れ馴れしく話しかけられたら、普通迷惑するの」
「おねぇちゃん間違ってます。知らない人じゃないです」
「え?」
 そうなんですか、とわたしの方に目を向ける公子さん。
 いえ、わたしにもなにがなんだか、と私も視線で応える。
「お友達です」風子さんが言う。「一緒に遊ぶんです」
「お友達?」
「はい」
 ぐっと胸を張る風子さんが嬉しそうに見えたのは、多分気のせいじゃなかっただろう。
 公子さんが再びわたしの方に目を向ける。
「え、と、なんかそういうことみたいです」
 少し苦笑い。
「あ、でも、本当に、迷惑とかないですよ」
 少し繕うような言葉になってしまったけれど、公子さんはふうわりと笑みを浮かべた。
「そうですか。ありがとうございますね」
 聖母ってこういう人のこというんだろうな。あまりにも素敵な笑顔に、そんなことを考える。
 穏やかで、優しくて。
 きっと、こんな人だった。
 私の――
 ――――。
「おねぇちゃん、それどころじゃないんです。大変なんです」
 風子さんの声に引き戻される。
 何か。何かを考えていた。思っていた。でも、思い出すことはできなかった。
「大変って、ふぅちゃん、どうかしたの?」
「可愛い名前を考えてあげなきゃいけないんです」
「名前?」
「はい。どうやらこの子は名前を忘れてしまったみたいなんです。風子、腕の見せ所です」
「え……」
 瞬間、公子さんが少し固まった。それはそうだろうなと、ちょっと人事みたいに思う。
 それでも公子さんはすぐに回復すると、改めてわたしの方に向き直った。
「本当……なんですか?」
「はい」言いにくいけれど、わたしは続けた。「どうして自分がここにいるのか、その記憶も無くて。……正直自分でも信じられないぐらいなんで、こんなの信じろっていうのが無理な話だと思うんですけど」
「いいえ」
 公子さんは、ゆっくり左右に首を振って、それから笑みを見せる。
「信じますよ。ふぅちゃんのお友達の言うことですもの」
「でも……」
 信じるという言葉はすごくありがたかった。
 でも、本当は、わたしと風子さんは友達と呼べるほどの間柄ではなくて。そのことは公子さんも、やり取りの中で了解しているはずだった。
 疑問が顔に出ていたのだろうか、公子さんは言葉を続ける。
「ふぅちゃん、こう見えてもかなりの人見知りなんですよ。ちょっと知らない人が相手だと、すごく警戒して、近づこうともしないんです。わたしの後ろに隠れちゃったりして」
 困ったものです、と苦笑い。
「でも、そのふぅちゃんがあなたにはすごく懐いてるみたいで、それだけでも、あなたが嘘をつくような人じゃないって、分かるんですよ」
 私自身人を見る目は持っているつもりですしね、と公子さんは付け加えた。
 照れくさいけれど、素直に嬉しい。
 記憶喪失だなんてとんでもない状況で、この人たちに知り合えたこと。神様に、感謝。
「おねぇちゃん失礼です。風子、人見知りなんてしません。それに懐くなんて言葉はアダルトな風子には不適切です。即時の撤回と謝罪を要求します」
 公子さんの言葉が不服だったらしく、風子さんは、むすっとした表情。
「無理に難しい言葉使おうとしないの」
「無理なんてしてません。ごく自然に口が滑っただけです」
「それ、使い方間違ってるよ」
「わっ、おねぇちゃんにはめられましたっ」
「そんな言葉使わないの。もう、まったくこの子は……」
 言いながら、でも公子さんの顔は楽しんでいるように見えた。
 ちょっと手間のかかる妹と、面倒見の良い姉。見ているだけでこっちも楽しくなってくるような、仲の良い姉妹。
 いいな、と思う。
 そんな二人が羨ましくて、温かくて、そして少しだけ寂しかった。




   」」」」」」」




 世界は悲しかった。

 そこに新たな生は無く、だから、わたしはただ一人、時間を積み重ねた。
 いつから世界がそうあったのか、わたしは知らない。いつからわたしがそうあったのか、わたしは知らない。
 時間だけがあった。
 いつ朽ちるとも分からない世界と、わたしと、それでも、時間は数え切れないほどにあった。
 十だけ、眠りと目覚めを数えた。変化もなく、意味もなく、それからは数えることをやめた。
 わたしは知った。

 世界は、悲しい――




   」」」」」」」




 妙な夢に目が覚めた。悲しい夢だった。
 少しだけぼーっとして、夢は夢だからどうしようもないと割り切ることにした。
 それからまず最初にしたことは記憶の確認だった。そうしないと、またこぼれていきそうで怖かった。
 昨日、風子さんと公子さんに出会ったわたしには、自分の名前から一切の記憶がなかった。わたしが目を覚ました場所は病院の敷地内で、でもその病院を尋ねてみても、わたしらしき人物が入退院や診察を受けたという記録は残っていなかった。
「記憶喪失、ね」
 とんでもないことになったな、と改めて思う。
 昨日は目が覚めた時から終始風子さんに流されて、事の重大さをきちんと認識していなかった。もしかしたら、認識したくなかったからなのかもしれない。
 でも、そんなとんでもない状況の中、風子さんと公子さんに出会えたのは本当に幸運なことだった。二人、特に公子さんがいなかったら病院で診察を受けることもできなかったし、今こうして布団の上で朝を迎えることもできなかったに違いない。
 病院では風子さんも診察を受けていた。もともと、二人はそのためにあの場に来ていたようだ。
 その間に公子さんから話を聞いた。風子さんが長い間、病院のベッドの上で眠り続けていたということ。順調に回復してはいるが、こうやって定期的に検診を受ける必要があること。
 元気をその身で表現しているような風子さんだっただけに、俄かには信じられなかった。
「あの子は頑張りましたから」
 でも、公子さんの言葉には実感がこもっていて、何より彼女がそんな嘘をつくはずもなくて。
「一つ、お願いがあるんです」公子さんが言った。「あの子は、ずっと眠っていました。でも、そうでなくても人見知りの激しい子でしたから、友達がなかなかできなかったんです」
 ああ、本当にこの人は、妹のことを大切に思っているんだ。
 すごく、温かかった。
「公子さん、言わなくても大丈夫ですよ」
「はい?」
「もうわたしたち、友達ですから」
「そう……ですか」
 公子さんはにこりと笑った。
「あの子と、仲良くしてあげてくださいね」
「はい、もちろんです」
 わたしも、きっと笑っていた。


「あの、お礼というわけでもないんですけど」公子さんは続けた。「もし良かったら、しばらく、わたしたちと一緒に暮らしませんか?」
 あ、もちろん、警察の方にも行ってみてからですけどね。公子さんは付け足した。
「えっ、でも……」
 帰る家すら分からないわたしにとって、その提案はひどく魅力的だった。
 でも、ここでの診察を含めて、もう十分にお世話になった二人に、これ以上迷惑をかけるのは何とも心苦しくて。
 考えるわたしを、公子さんはやはり笑顔のまま見つめた。
「友達が困っていたら、助けてあげるのは当たり前のことですよ。それに先生もおっしゃってたでしょう? 身体に異常はないから、できるだけ普通の生活を送った方が記憶も早く戻るだろうって」
「……そうです。おねぇちゃんの言う通りです」
 診察から戻ってきたらしく、風子さんが突然加わる。
「おかえり、ふぅちゃん。どうだった?」
「健康過ぎて、もう病院に来るなと言われました」
「お医者様はそんなこと言いません」
「おねぇちゃんは、風子が嘘をつく人間に見えますか?」
「今ついてるでしょ」
「わっ、ばれましたっ」
 途端にぎやかになったことが何だかおかしくて、わたしはくすくすと笑いを漏らした。
「ほら、ふぅちゃんが変なこと言うから笑われちゃったじゃない」
「違います。今のはきっとおねぇちゃんを笑ったんです」
「はぁ、もうそれでもいいです」
 少しわざとらしくため息をついた後、公子さんはまたわたしの方に向き直った。
「それで、うちに来るという話、どうでしょう? この子も望んでいますし」
 少しだけ考えて、返答する。
「その……本当にご迷惑じゃ、ないでしょうか?」
「はい。そうしていただけると、私もこの子も嬉しいです」
「その通りですっ」
「じゃあ、せっかくなんで、甘えさせてもらいます。しばらくの間、よろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
 こうして、わたしの居候先が決まった。





 公子さんの作ってくれた朝食は、文句のつけようがない出来だった。容姿、性格、料理。わたしが男だったら、きっとこんな女性を好きになる。
 朝食の後、片付けはわたしがやることにした。ではよろしくお願いしますと、公子さんは割とあっさりわたしにその役目を任せてくれた。
 昨日からお世話になりっ放しだったわたし。これぐらい、わたしにもできることぐらいはやらないと、本当にただの迷惑な人間になってしまいそう。
 多分公子さんは、わたしのそういう気持ちを分かってくれていたんだと思う。本当に何から何まで頭が上がらない。
「お散歩に行きましょう」
 食器を全て洗い終わったところで、風子さんに誘われた。
 嬉しそうに言う彼女に、わたしはそう悩むことなく頷く。
「ちょうど食器も洗い終わりましたし、行きましょうか」
「はい。今日もいい天気です」
 早く行こう早く行こうと急かす風子さん。
 こんなこと言うと彼女は怒るのだろうが、その様子はまるで小さい子供のようで、すごく可愛いかった。
「公子さんも一緒に?」
 ふと疑問に思って、風子さんに聞いてみる。
「いいえ」
 ぐっと胸を張って、何故か自慢げな表情で。
「おねぇちゃん、今日はユウスケさんとデートです」
「ユウスケさん?」
「その辺りのことも、お散歩しながら話して差し上げるとしましょう」
 だから早くしてください、と少し偉ぶって言う風子さん。
 でも多分、言いたくて言いたくてたまらないんだろう。早く早くとわたしを急かすのは、きっとそのせい。
 公子さんとそのユウスケさんという人の仲が、風子さんには本当に嬉しいみたいだ。
「いってきますっ」
「いってきます」
 外に出ると、風子さんは、うーん、と大きく身体を伸ばした。
 つられて、わたしも大きく伸びをする。目に入った空は高く、青く、風子さんが言っていた通り、いい天気に違いなかった。すごく、気持ちがいい。
「どこに行きますか?」
 風子さんがわたしに尋ねる。
「えーと、それじゃあ……」
 考える。わたしが頻繁に訪れたはずの場所。
 記憶を呼び覚ますためにも、できればそういうところに行ってみたかった。
「商店街って、歩いて行ける距離にありますか?」
「商店街ですかっ。それはとても良い選択です。是非ペットショップに行きましょうっ!」
「ペットショップ?」
「はい」満面の笑みを浮かべて風子さんは言う。「それはそれは可愛いヒトデが――」
「そんなに可愛いヒトデがいるんですか……ってヒトデっ!?」
 思いもしなかった単語に、わたしはつい声を大きくしてしまった。
 慌てて自分の口を両手で押さえる。でも、すぐに、声を出してしまってからではその行動にはなんの意味も無いことに気づいた。
 口にやった手を戻しながら、少し俯く。今の行動を笑われてしまいそうで恥ずかしかった。
「…………」
 だけど、わたしの不安とは裏腹、いつまで経っても風子さんからは何の反応も無い。
 おそるおそる顔を上げ、上目遣いにそっと風子さんを覗き見る。
「…………」
 固まっていた。視線は虚空、その瞳はキラキラと輝いている。どうやらわたしの心配はとてもとても無駄なものだったらしい。
 特に急いでいるわけでもないので、このままもうしばらく待ってみることにする。
「…………」
 ただ待つのに飽きて、彼女の目の前、ひらひらと手を振ってみる。
「…………」
 ――反応無し。
 それではと、指でほっぺたをつついてみる。
 ぷにぷに。
 非常に心地良い。
「…………」
 ――またしても反応無し。
 では次と、ほっぺたを両手のひらで挟んでみる。
 ぷにぷに。すべすべ。
 非常に気持ち良い。
「…………」
 ――それでも反応無し。
 最後の手段と、ほっぺたを両手で摘んで、上下左右に痛くならない程度に引っ張ってみる。
 ぷにぷに。すべすべ。びよーんびよーん。
 非常に面白い。
「……はっ。ふうほ、ひょっひょほーっひょひへはひひゃ」
 と、やっとのことで風子さんは復帰した。でも、わたしがほっぺたで遊んでるせいで、何と言っているのかよく分からない。
 さすがの風子さんも自分の頬が弄られていることには気づいたらしく、顔をぶるぶると振るわせて抵抗する。ほっぺたは更に右に左に伸びるのだが、多分、風子さんは気づいていないのだろう。
 その様子がまた可愛いかったのだけれど、でもいつまでもこうやっているわけにもいかない。
 もう少しこうやってじゃれ合っていたいという気持ちを抑え込んで、わたしは両手を離した。
 途端、ばっ、とわたしから離れて、距離を取る。
「風子、陵辱されましたっ」
 ほっぺたを両手で包んで、風子さんはそんなこと恐ろしいことを言った。
「ご、ごめんなさい……その、痛かったですか?」
「いいえ、幸い、そんなに痛みはありませんでした」
 でも、と彼女は続ける。
「力ずくで取り押さえられて、好き放題されたという事実に変わりはありませんっ」
 なんて、とんでもなく危ないことをのたまった。
 慌てて彼女のもとに駆け寄る。
「ちょ、風子さんっ」
「んーっ、もう風子、お嫁にいけません」
 興奮状態にあるのか、わたしの言葉は届いていないようだった。
「そ、それは大袈裟ですって」
「こうなったら、責任を取ってしほちゃんにお婿に来てもらうしかありませんっ」
「お婿って……あれ?」一瞬前、風子さんの言葉を思い出して。「……しほ?」
「はい」
 少しの間考えて、それまでの会話の流れから、それがわたしを指しているらしいと気づく。
「……もしかして、わたしのことですか?」
「はい」ぐっと胸を張る。「しほちゃん。可愛い名前です。気に入ってもらえましたか?」
 風子さんの言葉に、何も言わず、ただこくこくと頷く。
 ――違う。言わなかったんじゃなくて、わたしは、何も、言えなかったんだ。
 何かが出かかって、でも出てこなくて。
 しほちゃん、しほちゃん、しほちゃん。
 何度も反芻するが、思い出せない。
 ただ、とても懐かしい、そんな気がした。
「……しほちゃん?」
「あ、はい」
「名前、気に入りませんでしたか?」
 風子さんが少ししょんぼりとして言う。
「あ、いえ、そういうことじゃなくて」
 どう言ったものか少し悩んで、感じたままに伝えることにした。
「さっき、しほちゃんって呼ばれた時に、何かすごくひっかかるものがあって。何だろう何だろうって考えたんですけど、分からなかったんです」
「そうですか。それは多分……」
 手をあごにやって、ふむふむと口に出しながら頷く。
 何かの真似事なのだろう。お世辞にも決まっているとは言えなかった。
「しほちゃんという名前が可愛すぎたんですねっ」
 多分、違う。




   」」」」」」」




 その世界にも、季節は存在した。
 冬が嫌いだった。嫌なことを思い出しそうになった。
 他の季節に、何かを感じることはなかった。
 周囲の景色も気温も、わたしにはあまり意味のないことだった。綺麗だと、温かいと、そう言い合う相手が、わたしにはいなかった。
 一人の時間は、ゆっくりと、でも確実に流れていった。季節の巡りが、わたしにそのことを教えてくれた。
 そして、幾度目かの、冬ではない時。
 わたしは、一つの光を見つけた。




   」」」」」」」




 また妙な夢を見た。今朝と似たような夢だった。
 少し気にはなったが、やはり、現実のわたしに何ができるわけでもないと、それについて考えるのはやめた。
 隣を見ると、風子さんの寝顔。
 つんつんと何度かつついて、でもそれ以上のことはしなかった。起きた時にまたとんでもないことを言われては敵わない。
「さて、と」
 身体を起こして、あくびを一つ。それから、大きく伸びをした。
 机に目をやる。目に入るのは二つの木彫り。わたしと風子さんがそれぞれ削っているものだ。
「まだ完成には遠いかな」
 お互い、何を作るのかは秘密ということにした。ただ、彼女の作りそうなものはなんとなく分かっている。
「わたしの方は……絶対分かんないだろうなあ、これ」
 例え綺麗に完成させたとしても、それが何なのか、他人に分かるとは思えなかった。
 そもそも、どうしてわたしがそれを作ろうと考えたのか、自分でもよく分からない。もっとかっこいいものとか、可愛いものとか、そんなのはいくらでもあるはずだった。
 ただ、何かを作ろうということになった時自然と思い立ったのは確かにそれで、でも、だからこそ、どうしてそんなものが浮かんだのか、不思議でたまらないのだ。
「ま、いいか。思ったより楽しいし」
 考えるのをやめて、わたしは、休憩のために中断していた作業に戻ることにした。『お昼寝休憩』という名前からしてちょっと幼いそれは、もちろん、風子さんの提案によるものだ。
 風子さんも起こした方がいいのか少し悩んだけれど、あまりにも気持ち良さそうな寝顔を見て、起こす気はなくなった。
 形として抜け駆けということになるのだろうか。でもまあしょうがないと、机の前に座って、彫刻刀を握る。完成図を頭に思い浮かべて、そして、刀を入れる前に、ふと思う。
「……これ、公子さん喜ぶかな?」
 ちょっと遅すぎる疑問だった。
 近々結婚するという公子さん。そのお祝いに、手作りの木彫りをプレゼントすることにしたのだ。
 結婚のお相手は、風子さんが今朝口にしていたデートの相手、ユウスケさん。風子さんの話によると、二人は長い間ずっと交際を続けていたそうだ。
『風子のせいでおねぇちゃんは幸せになれなかったんです』その時の彼女の言葉を思い出す。『だから、その分も、おねぇちゃんは幸せにならなくちゃいけません』
 似たような話を、わたしはその前にも聞いていた。それは、昨夜、公子さんの言葉だった。
『ふぅちゃんには、今まで眠っていた分も、これから幸せになってほしいんです』
 お互いがお互いを、同じように思いやる。
 それはとても、温かいことだった。




   」」」」」」」




 その光は、一定のリズムを守って点滅を繰り返していた。
 それは鼓動だった。命だった。
 わたしは、すぐに接触を試みた。
 でも、それに触れることはできなかった。生を失ったこの世界において、それはあまりにも異質な存在だったから。
 依り代(からだ)が必要だった。それも、なるべくわたしと馴染み深いものがいい。
 わたしは、そのための材料を集めることにした。
 この世界で初めての、「意味」だった。




   」」」」」」」




 今日は公子さんも一緒に、三人で散歩することになった。
 なるべくわたしと関わりがありそうな場所を回ってくれるという。
 風子さんはそれを、「記憶集め」と表現した。なかなかに適切な言葉だと思う。
「商店街には昨日行きました。二人で可愛いヒトデを――」
 固まる。
「……また飛んじゃいましたね」
 突然動かなくなるという一種病気染みた風子さんの癖。三日目ともなると、それにもすっかり慣れてしまった。
「本当に、この子はもう……」
 公子さんがため息をつく。
「でも、ヒトデが好きだなんて、風子さん、ちょっと変わってますよね」
「ですよね。この子がもうちょっと普通だったら、私も安心できるのですが」
「あは、でも、そんなの風子さんじゃありませんよ。風子さんは、ちょっと人と変わってるから、風子さんなんだと思います」
「……ですね」
 可笑しくなって、二人、笑いあう。
 何だかんだで、わたしも公子さんも、今の風子さんが好きなんだ。
 ひとしきり笑った頃に、風子さんは戻ってきた。
「おねぇちゃんたち、何か面白いことでもあったんですか?」
 わたしたちの様子に気づいて、風子さんが尋ねる。
「ううん、何でもないの」
「何でもないんです」
 二人で言うと、またちょっと可笑しくなった。ここで笑うとまた風子さんの追究にあうのは分かっているから、何とか、笑みを押し殺す。
 公子さんの方に目をやると、どうやら彼女も笑いを抑えているように見えた。
「それで、今日はどこに行きますか」
 風子さんの言葉に、誤魔化しが成功したことを確認する。公子さんと軽く目配せをした。
「そうですね……」公子さんが言う。「しほちゃんは多分中学生ぐらいだと思いますので、中学校に行ってみるというのはどうでしょう」
「さすがおねぇちゃんです。風子と同じところに目をつけましたか」
「そうなの?」
「はい。風子も全く同じことを考えていました」
 間違いなく嘘だろうなと思って、でもそれを口に出すことはしなかった。言及してしまえばまた話がそれていくのは目に見えていた。
 公子さんも同じ判断をとったのだろう。そのことにはそれ以上触れなかった。
「中学校って、この辺にいくつもあったりするんですか?」
 少し不安に思って、聞いてみる。いくつもあったら、それを全て回るのはちょっと骨だ。
「歩いて通える距離には一つだけですね。この辺りに住んでいる子は、ちょっと離れた私立の中学校に行く場合を除いて、だいたいそこに通っています」
 良かった、と胸を撫で下ろす。
「途中には幼稚園もありますから、そこものぞいてみましょう。もしかしたら、何か思い出すかもしれませんから」
 そうして、三人、「記憶集め」へと向かった。



 しゅっしゅっと木を削る音が重なる。彫刻刀にも大分慣れた。
 向かいに座る風子さんの木彫りを覗き見る。やはり予想通りの星型になりそうだった。
「お互い、大分進みましたね」
「はい。しほちゃんもなかなかの腕です。風子には敵いませんが」
「そうですね。まだまだです」
「謙虚な心が上達への近道です」
 こくこくと頷きながら風子さんは言う。
 正直、風子さんよりは上手く彫刻刀を扱える自信はあったけど。
 風子さんは、今も三十分に一度のペースで確実に怪我を増やしていた。それでも、大分数は減ったのだ。最初の頃がどうだったのかはもう思い出したくもない。怖いから。
「……はっ、風子少しぼーっとしてました」
 相変わらず、風子さんは時々固まった。その頻度は徐々に増していて、それは多分、完成が近づいているからなのだろう。
 木彫りを見つめたまま動かなくなる風子さんはすごく幸せそうだった。それを持つ手は絆創膏だらけだった。でも、それは彼女の勲章に違いなくて。
「公子さん、きっと喜んでくれますね」
「はい」
 嬉しそうに、風子さんが頷く。
 大事なのは結果ではなくて。風子さんを見ていると、そのことを強く思う。
 公子さんのために何かをしたいという気持ち。風子さんのその気持ちが、怪我の一つ一つが、公子さんにとってきっと何よりのプレゼントになるのだろう。




   」」」」」」」




 材料を集めて体を作ると、光はその中へと入っていった。
 そして、それは動き出した。
 様々な機械で作られたその体。まるでロボットのようだったけれど、確かにそれは生きていた。
 この悲しい世界で、唯一の新しい命。
 嬉しくて、でも同時に、そんな気持ちになったのは初めてだということに気づいた。
 それは、とても寂しいことに思えた。
 でもこれからは、独りではないから。たくさんの嬉しいがあるはずだから。
 二度目の嬉しいを、わたしは感じた。




   」」」」」」」




「できましたっ」
 風子さんの大きな声に、わたしは意識を取り戻した。
 ちょっとうとうととしていたらしい。
「とうとう完成ですっ」
 言いながら、風子さんはできあがった木彫りを両手で頭の上に掲げる。
「…………」
 そして、そのまま固まった。
 風子さんの手の中にあるのは、予想通りの星型。でもそれは間違いなく星ではないのだろう。
 実は私の木彫りも既に完成していた。風子さんよりも早く出来たなんていうと、またちょっと面倒なことになりそうだったから隠していたのだけれど。
 わたしの木彫りは、風子さんのものとは対照的に角を一つも残さない形だった。つまり球体。
 完成はしていたけれど、一つだけ不安があった。
「これ、絶対何か分からないね」
 風子さんが戻ってきたら聞いてみることにしよう。これ何に見えますか、って。


「ずばり、おだんごですっ」
 一発で当てられた。
 それはそれで、何だか悔しかった。
「風子さんのは、ヒトデですよね」
「はい、その通りですっ」最高の笑顔で風子さんは言う。「さすがは風子です。見事にヒトデを再現してしまいましたっ」
 反撃のつもりでこちらも当ててみせたら、逆に喜ばれてしまった。やっぱり悔しい。
「それで、いつ公子さんに渡しますか?」
「結婚式の時なんてどうでしょう」
「いいですね、それ」
 すごく感動的な光景になりそうだった。
「いつ頃なんですか?」
「まだ決まってません。でも、そんなに先ではないはずです」
 二人はらぶらぶですからっ、と嬉しそうに付け加える。
 そんな風子さんの様子に、公子さんの交際相手、ユウスケさんという人を一度見てみたいと思った。
「……あの、それで」おずおずと、風子さんが言う。「おねぇちゃんの結婚式、しほちゃんも来てくれますか?」
 普段と違う、不安そうな声だった。
 だからわたしは、風子さんが安心できるよう、できるだけの笑顔を浮かべて。
「当たり前じゃないですか。言われなくても行きますよ」
「ありがとうございますっ」
 満面の笑み。
 わたしも、嬉しくなった。




   」」」」」」」




 独りでない時間は、独りのそれよりも随分と早く流れていくようだった。
 仲間を増やそうと、わたしたちは、二人で新しい体を作ることにした。
 でも、きっとそれに命が宿ることはない。わたしには分かっていた。
 それでも、二人で何かをするということは楽しかった。
 例えそれが何の結果を残さなくても。わたしはもう独りじゃないから。意味は彼の中に残るから。
 独りでない時間は、独りのそれよりも随分と早く流れて。

 そして、冬が来た。



   」」」」」」」




「今日は公園の方に行ってみましょうか」
 公子さんの言葉に、わたしと風子さんは揃って頷く。
 午前中の「記憶集め」は既に日課となりつつあった。
「しほちゃんがどうしてもというのなら、風子、一緒にブランコに乗ってあげてもいいです」
 道中、風子さんが言い出した。
「そんなこと、しほちゃんは言ってないでしょ」
「じゃあおねぇちゃんですか」
「私もそんなこと言ってません」
「わっ。それじゃあまるで、風子がブランコに乗りたくてたまらないみたいじゃないですかっ」
「違うの?」
「違いますっ。風子大人ですから、ブランコなんて本当は乗りたくありません」
「じゃあ乗らないの?」
「んーっ、乗りますっ」
 風子さんと公子さんは相変わらずで、わたしはそれを見ているだけでも飽きそうにない。
 しばらく歩くと、目当ての公園が見えてきた。
「早く行きましょう、二人とも」
 風子さんは一人先に走り出した。
「まったくあの子は……」
「でも、すごく風子さんらしいです」わたしはくすっと笑って、言った。「わたしたちも行きましょう。急がないと、怒られちゃいますから」
「そうですね」
 揃って、わたしたちも走り出した。


 公園には、わたしたちの他にもたくさんの人がいた。
 子供同士の集まりに、母親同士の集まり。
 そんな中だったから、わたしたちはきっと異質で。でも、そんなこと、気になんてならなかった。
「ちょうどブランコ空いてるみたいだよ、ふぅちゃん」
 公子さんの言葉に、風子さんはすぐ食いついた。
「んーっ。行きましょう、二人ともっ」
 走り出す風子さんに、それを後ろから追いかけるわたしと公子さん。
 それはいつも通りのわたしたちだった。
「汐っ、置いていかないでくれよ」
「しおちゃん、ちょっと速いですっ」

 ――この、瞬間まで。

「パパ、ママ、はやくっ」

 女の子が、振り向く。
 そして、笑顔で両親を呼んでいた。


 それは――わたしだった。





 そうして、わたしは思い出した。
 わたしが以前どういう存在であったのかを、思い出していた。
 同時に、今のわたしがどういう存在であるのかを理解した。それはとても悲しい事実だった。
「大丈夫ですか、しほちゃん。今、おねぇちゃんがハンカチを濡らしてきてくれてます」
 風子さんの声が聞こえた。わたしはベンチの上で横になっていた。
「はい、大丈夫、だと思います」
「あの……しほちゃん」風子さんが言う。「風子、なんとなく分かります」
「分かるって、どういうことですか?」
 一瞬の間。
 風子さんは、ゆっくりと口を開いた。
「しほちゃん、もうすぐいなくなるのでしょう?」
 その言葉に、胸がつまる。
 きっとそれは、真実だった。
「風子、秘密にしてたことがあります」
 聞いてください、と彼女は続けた。
「今のしほちゃんと似たような状況に、風子、一度なったことがあるんです」
 彼女の顔はひどく真剣だった。
 冗談などではなくて本気で言っているんだと、痛いほどそれが伝わった。
「風子は、記憶をなくしたりはしませんでした。ただ、一つの場所から離れることができませんでした。その内に風子、だんだんみんなに忘れられて、一人ぼっちになりました」
 忘れられていく。それは考えるだけでも恐ろしいことだった。
 風子さんは、目の前の彼女は、そんなことを経験してきたのか。
「でも、風子、ここに戻って来れました。温かい光が、連れてきてくれたんです」
「光?」
「はい」風子さんは、わたしを見つめたまま言う。「だからしほちゃん、忘れないでください。しほちゃんを大切にしてくれた人のこと、忘れないでください」

 家に帰って、風子さんにだんごの木彫りを預けた。
「これ、あげます。おねぇちゃんのは、また今から作ればいいですから」
 そう言って、風子さんは、彼女の作ったヒトデの木彫りをくれた。
「だから、風子のこと、忘れないでください」


 終わりは、それからそう遠くなかった。




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 冬が来て、わたしの身体は確実に弱っていった。同時に、世界は崩れていく。
 今までこんなことはなかった。わたし以外の命が生まれたことで、この世界自体が変わってしまったのだ。
 後悔はなかった。
 独りではなかったから。
 例えそれが一時のものであろうと、彼と過ごした時間は、孤独の内に過ごすどんな永い時より、遥かに大きな意味をもっていた。
 だから、後悔はなかった。


 ――でも。

 だから。だからこそ。
 もっとわたしは、生きていたかった。
 独りではない時間をようやく手に入れた。温かいという心を知った。
 なのに、どうして。
 わたしは生きていられなくなるのだろう。世界がなくなってしまうのだろう。
 ああ、結局。
 最初に行き着いた答え、それが、結論だった。


 世界は、悲しい――




   」」」」」」




 ――忘れないでください

 その言葉を、思い出した。




   」」」」」」」





 光を見た。



  ――もし、できるなら……演劇部をまた、作りたいです
  ――もしさ、あんたのこと好きって娘がいたら付き合う?
  ――今日もご本に囲まれて、しあわせ
  ――自分で言うのもなんですが、可愛くできました
  ――当然だ。付き合って、不幸になどなってたまるものか
  ――それは、人の心が変わってしまったからではないでしょうか
  ――占いはあくまで占いですから
  ――そん時は、僕の背中はおまえに任せるぜっ
  ――食べてみてください、自信作です
  ――この町と、住人に幸あれ



 優しかった。
 温かかった。
 世界は決して悲しくないんだと、光は、そう伝える。たくさんの思いを、わたしに示す。
 悲しくなんかない。
 世界は、こんなにも、優しくて、温かい。

 最後まで、一緒にいてくれた人がいた。
 どうして忘れていたのだろう。姿を変えてまで、一緒にいてくれたのに。
 白く冷たい雪の中にあって、血の通わない身体にあって、それでも、わたしに温もりをくれた。
 この世界は決して悲しいものではない。ずっとそう伝え続けてくれる人がいたのに。
 抜け出そう、と彼は言った。
 歩いても、歩いても、でも抜け出すことはできなかった。
 それは、わたしの心が、この幻想の世界に囚われていたからだった。一人、悲しんでいたからだった。

 世界はわたしで、わたしは世界。
 それはずっとわたし一人の問題だった。
 幻想の世界は、つまりわたしの心。悲しいと感じるのは、いつもわたし一人だった。
 世界が悲しいのではない。
 ただ、わたしが悲しんでいた。


 抜け出そう。
 彼はそう言った。
 抜け出すことができると。
 わたしにはそれができると。






 ――だから。



 幻想(ゆめ)の世界は、これでお終い――







   」」」」」」」








 目を覚ましてまず感じたことは、すっかり凝り固まった身体に対する不快だった。
 だから大きく伸びをしようとしたのだけど、身体は思ったように動いてくれない。大分長い間眠っていたんだなと、そんなところで実感する。
 ふと、手の中の何かに気づく。起きた時からずっとそこにあったから、気づくのが随分と遅れてしまった。
 苦労して腕を動かし、布団の中からそれを取り出した。
 星型の木彫りだった。手作りらしく、少し不恰好だったけれど、でも、どこか、温かい。
 どうしてわたしの手の中にそれがあったのかは分からない。
 でも、それが何をかたどったものであるのか、不思議とわたしは知っていた。
 何故知っていたのだろうと考えて、すぐに、まぁいいやと諦める。
 それよりも先に、考えなければいけないことがわたしにはあった。
「あ、あ」
 発生練習。
 久しぶりに出した声は、震えて、何とも心細かった。
 これは今の内に練習しておかなければ、と改めて思う。
「おはよう。……違うかな」
 ずっと待たせた人への第一声。
「ただいま。ってのもちょっと変だし」
 長い幻想(ゆめ)から覚めて、これからは、新しい現実の世界。
 一人悲しむなんて、そんなのはもう終わり。
 世界は、優しくて、温かい。
「うーん、どうしよ……」
 さあ、だからわたしよ考えろ。よーく、考えろ。
「だいすき。って、これじゃわたし変な子じゃん」

 楽しいことは、そこから始まるんだから。


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