秋の虫が鳴いている。

「ホント、ありがとうございます」

 彼女は、高校時代のクラスメートには決して見せなかった表情で、オッサンに頭を下げた。
 双子の妹が、姉にやや遅れてリボンを揺らす。続いて、木彫りのヒトデを胸に抱いた少女も。

「まぁ、大したもてなしもできねぇが、ゆっくりしてってくれや」

 そう言ってオッサンは頭の後ろを掻くと、奥の間に通じる障子を閉じた。







『月見』









 案内されたのは、縁側のある10畳ほどの客間だった。
 渚は胸に汐を抱いて、子守唄を歌っている。
 その様子を風子はちらちらと興味深げに眺め、それから胸の彫り物を一層強く抱いた。

「古河さんと岡崎くんに会うのは、何年ぶりだったっけ?」

 意外にも、先に口を開いたのは妹の方だった。

「最後に会ったのは渚さんの卒業式で、私はもうすぐ大学を卒業するから――」
「椋、もう『古河さん』じゃないわよ」

 そう言った杏の表情には、何度か見覚えがあった。何かを噛みしめるような――彼女にそうさせるような何があるというのだろう?

「そっか、もう岡崎さん、だったね。――この子も」

 藤林は軽く唇を噛むと、渚の傍に寄っていった。二人が顔を見合わせると、女性にしか分からない何かが伝わったのだろうか、渚も藤林も、まるで何度もそうしてきたと言うように、なめらかな仕草で微笑みを浮かべる。



 いいですか?
 どうぞ。



 藤林は、渚から受け取った赤ん坊を抱いた。ようやく生えそろった汐の柔らかな毛が、夜風になびいた。
 さっきまでこいつが大暴れしていたなんて、信じられない。
 風子のヒトデを追いかけて、家中をかけずり回って、どこかにぶつけるとと大泣きして。でも、今はこの夜よりも静かに眠っている。
 はじめて授かった子だからだろうか? たったそれだけの事が、随分と不思議に感じられた。




 こいつは今、どんな夢を見ているんだろうか?




「古河さん――いえ、渚さん、ひょっとして疲れてますか?」
「あっ、どれどれ。あたしが見たげる。――うーーーーーーん」

 耳聡く杏が二人に割って入る。



 俺は縁側に坐り直した。
 すすきの穂が傾きはじめた。少し風が出てきたようだ。








「――そりゃあ、そうよね。もう、一児のお母さんなんだもんね」

 渚の声はここまで聞こえてこない。杏の声だけが縁側に響いていた。

「うん、うん、そうよね」

 杏は、何度も深く頷いていた。それから、俺の方に向き直る。

「あんた、仮にも旦那なんだから、しっかりと渚を守ってやんなさいよ」
「俺は俺なりにちゃんとやってるつもりだぞ。――そりゃ、渚には頼りっぱなしだけど」
「分かってるなら、よろしい、です」

 最後の言葉は、妹のものだった。

「――でも、岡崎くんも大変なのは分かりますけど、できるだけ渚さんを大切にしてあげてください」

 決して命令するような口調ではなかった。祈るような表情だった。
 俺はまだ半人前だし、渚だって強く振る舞ってはいるけれど、その体は硝子のように脆い。
 だけど、藤林は俺たちを助けることはできない。他人だから。


 でも、他人だから、心配している。


 それが肌に冷たいようで、でも冬の寒さに比べればずっと温かい、まるで今吹いている秋の風のように感じられた。

「がんばるから。――とにかく俺、頑張るから」

 そう言うと皆が、風子さえもが嬉しそうな表情を浮かべた。








 なんだかしんみりしてしまったな、とひとりごちて、俺は発泡酒の缶を手にとり、小さく掲げた。みんなも呑もう。
 めいめいがビールや、焼酎や、オレンジジュースの缶をとりあげた。

 かんぱーい。

 缶が軽くぶつかり合い、くぐもった音をたてた。
 明日からは、また会社だ。
 なぁに、悪いことばかりじゃない。
 飲み始めにいつもよぎる憂鬱を、今夜は一生懸命プルタブを開けようとする、風子の姿を見ることで忘れた。

「なーにカッコつけちゃってんのよ」

 杏が隣に腰掛けた。
 渚は、と捨て眼を使うと、汐につきっきりでこちらを窺う余裕はなさそうだった。

「あんた、また一段と格好良くなったわよね」
「やぶから棒になんだよ」
「やっぱり仕事してる男は違うのかな」

 黙っていると、腕を掴まれた。

「随分太くなったわね。――ほら、ちゃんとこっち向きなさいよ」
「お前、酔ってるだろ?」

 杏の後ろから、汐のむずがる声が聞こえた。他の3人は汐の周りに円座しているが、杏は一顧だにしない。

「ビール余ってる?」
「ああ、発泡酒だけどな」
「じゃあ、あたしのと交換しない? こっちはビールだけど、飽きちゃった」

 言うなり、畳の上に置いてあった発泡酒を取り上げてしまった。

「ほら、朋也はこっち」

 半ば強引にビールの缶を握らされる。

「やだ、ちょっと、赤くならないでよ。変なことしてる気分になるじゃない」
「花の大学生と違って、そういうことには疎いんだよ」

 何を言ってるんだ俺は。

「そういや、彼氏はできたのか?」
「ん……、まぁ色々あるわよ。大学生だし」

 そう言って照れたように笑った。高校時代の彼女の笑い方だった。

「変わらないな」
「ん、何が?」
「いや、お前一人だけ、高校の頃から全然変わってない気がした」
「そう、かな?」

 あまり嬉しくないようだった。
 確かに失礼な言い草だったかも知れない。

「いや、他の連中は良い意味でも悪い意味でも大人びてきたじゃないか。――風子は元がアレだけどな。杏も成長したと思ったけど、なんか、高校時代の可愛さをそのまま残してるなってこと」

 嘘ではなかった。
 高校時代、俺は確かに杏を可愛いと思っていたし、自分のそんな気持ちに気付かなかっただけだ。

「そう、ありがと」

 言葉とは裏腹に、杏の表情は変わらなかった。
 昔だったら、こんな話になるとすぐに照れだして、突然大きな声を出したりしたんだけど――

「あーあ、そっか! 朋也は渚が好きなんだ」
「なんでそうなる」
「否定するの?」

 俺はかぶりを振った。
 言葉で肯定するのは気まずかった。

 杏はうん、と頷いた。形容詞の見つからない笑顔で。

「じゃ、あたしは汐ちゃん見てくるね。それと、缶の中身、ちゃんと呑んでおきなさいよね」
「お前の呑みかけを呑めるか馬鹿っ」

 そう思って缶を握り締めると、中はカラだった。

「あははっ、そういうことだから。じゃ」

 すっと立ち上がって、杏は離れていった。








「隣、良いですか?」

 二杯目の発泡酒に手を伸ばしたところで、聞き慣れない声に顔を上げた。

 藤林だった。
 杏とは違い、彼女は本当に変わった。高校時代に感じていたオドオドした印象が消えて、声だけでなく顔つきまで大人びている。

「汐の方は?」
「また眠ってしまいました」

 藤林が手で示す部屋の隅で、汐が眠っていた。その隣でうつらうつらと、渚も船を漕いでいる。

「疲れてしまったんですね」

 逆の隅では、杏と風子が話し込んでいる。

「何を話してるんだろうな?」
「お姉ちゃんと伊吹さんが話してるのが、そんなに意外ですか?」
「ん、まあ、な」

 何気なく発した藤林の一言だったんだろうが、女性のやりづらさを久々に感じた。
 杏は、きっと俺が思ってる以上に繊細でいいヤツだからなんだろう、性差を感じさせないように振る舞っているし、渚は気心が知れている。
 仕事で関わる人間はそもそも、男女を意識することがなかった。

「岡崎くんは、いい女性に出会えて良かったですよね」
「ああ」

 それは、本当に。

「実は私は、あんまり男性に恵まれてるとは言えないんです」
「はあ」

 そこで藤林は一回言葉を切り、缶の中身を飲んだ。
 俺も合わせて、発泡酒を喉に流し込む。

「聞いてくれますか?」
「ああ」

「私が好きになる人って、どこか反社会的なんです」
「いきなり重いな」
「ええ、これからどんどん重くなりますから、覚悟して下さい」

 また一口を流し込む。
 ようやく月が、植え込みの陰から頭を出したところだった。

「今の彼もそうですし、私が高校時代に好きだった人も、やっぱりそうでした」
「へぇ、藤林にもそんな人がいたんだな」
「ええ、岡崎くんも良く知ってる人ですよ」
「もしかして春原――なんてことはないか」

 本当のところをいえば、彼女が好きだった人の事なんて検討もつかない。それくらい、俺は藤林のことを知らなかった。
 そんな彼女が何故、今俺に話しかけているのか、それ自体が不思議ですらあった。

「違いますよ。――でも、その頃のことはもう良いんです。今は好きでもなんでもない人ですから」
「ふぅん、そんなものか」
「ええ、そんなものです」


「私が好きになる人って、結局のところ、自分を認めて欲しいとしか考えてない人なんだと思います」
「それは手厳しいな」
「普通に育ってきた人なら気にもしないようなことで、プライドを傷つけられたと怒り出したり、まるで自分がこの世の不幸を一身に背負っているかのように苦悩を気取ったり、かと思うと、本当に些細な事で無邪気に喜んじゃったり。――でも、そういう人って、時々本当に格好良いんですよ。きっととても不器用なんですよね。だからこそ、一生懸命生きてるって感じがして、私は憧れてしまうんです」
「――そんなヤツのどこが魅力的なんだ? いや、椋の好きな人をそんなヤツなんて言ってすまないけど、俺にはそんなタイプの人間に近づいたって、傷つくようにしか思えない」
「岡崎くんの言うとおりです。何度も傷ついたし、傷つけられました」

 何故だろう。そこで彼女はちょっと笑った。

「でも、高校時代よりは良かったかなぁ、って。あの時はその人に近づくことさえためらってて、結局別の人に取られちゃいましたから。でも、結局その方が良かったんだと今は思うようにしてます。なにせ、私は悪い男に引っかかりやすい女ですから」
「そいつは酷い言いようだな」
「思ったよりは、甲斐性あったみたいですけどね、私の初恋のその人は。少なくとも顔は良いまんまです」
「なんだ、藤林って意外と面食いだったのか。案外、本当に春原だったりしてな」

 彼女はまた笑うかと思ったが、今度は少し呆れたような表情を見せるだけだった。
 なんだかんだでアイツは良いヤツなんだけどな。と、心の中で小さく春原のことを弁護しておく。
 今日のお月見にも、急な仕事が入って出られなくなった本当にゴメン、と今朝電話で何度も謝っていた。

「そういう人を好きになってしまう私って、やっぱり、本質的にどこか寂しいんだと思います」
「寂しい?」
「ええ。――ほら、この街って、私たちが小さい頃は特に、本当に何もなかったじゃないですか」
「ああ。小さい頃は本当に何もなかったよな。空き地でバスケばっかりやってた気がするよ」

 今度は彼女も微笑んでくれた。

「私は岡崎くんのように、夢中になれるものがありませんでしたから。いえ、一つだけあったんですけど、あまり友達と仲良くなれるようなものじゃなかったんです」
「椋が夢中になれたものって、占いだろ? そんな風には思わないけど」
「占いは話の切っ掛けにはなれるかも知れないけど、それだけなんです。――ううん、結局私が弱かっただけですね。友情を育む勇気が足りなかった。だから、安易に手に入る幸せに、ずっと憧れてました」

 藤林が手に持った缶が、煌々と輝き始めた。彼女はそれを、ぺこん、と凹ませた。

「不幸って、不幸な境遇そのものにあるんじゃないんです。それでも与えられる事を期待して、それを裏切られること、それがきっと不幸なんです。岡崎くんは知ってましたか? 私は、つい最近実感したことなんですけど」
「それが藤林の場合、ちょっと格好良かったり、刺激的な男だった?」

 俺の場合、ちょっと大きくなった時には既にいなかった母さんだったり、二人分の重みを背負わせてしまった親父だった?

「うーん、半分正解、かな。まず、私が好きになる男性の格好良さは、ちょっとどころじゃないです。そして、刺激の方なんですけど、それは私のお姉ちゃんが担当してくれてますから」

 ぺろっと、彼女は舌を出した。

「お姉ちゃんのああいう性格って、多分、私の為でもあったんです。――隠してるつもりでも、自然とお互いの足りない部分を感じ合ってしまって、埋め合おうとしてしまう。それはきっと幸せな事なんだと思いますけど、ちょっと重いこともありますよね」
「椋って、最近杏と喧嘩でもしたのか?」
「なんででしょう? 仲いいですよ」

 ただ、思ったままを口にしただけだったのか。
 そのことが、俺にとっては軽い驚きだった。
 恵まれている人にとって、家族というのは本当に軽いものなんだ、ということを改めて実感したからだった。気軽に重いと言えてしまうくらいに。

 自分の家族と呼べる人たちのことを考えてみる。
 俺は、渚に知らず知らずのうちに、負担をかけてないだろうか?
 将来、俺は汐にとっても重い存在になってしまうんだろうか?
 もしかして、俺は親父にも無理な期待を背負わせたことがあったんじゃないか?

 たった今聞いたばかりの椋の言葉が蘇る。
 不幸って、不幸な境遇そのものにあるんじゃないんです。それでも与えられる事を期待して、それを裏切られること、それがきっと不幸なんです。



 すっと、人の温かみが離れていく気配があった。
 俺は顔向けができずに、ただ庭の一点を凝視していた。

 寂しい。
 確かに、俺もずっと寂しかったのかも知れない。
 小学校の頃は家にいるのがいつも苦痛で、外で遊ぶことが多かった。
 親父にいつも怒鳴られたり殴られたりしたから、夜は苦痛だった。
 中学校に入ってからは、部活をするために学校に通っていた。
 成績が『普通』から、『下』に変わったのもこの頃だった。
 元から成績が良かった奴らはもちろん、内心でどこか軽んじていた連中も勉強を積み重ねるようになって、俺は落ちこぼれていった。
 バスケットボールさえできればそう言った連中を見返すことだってできる、という思いもあったけれど、それ以上に、部活には仲間がいた。
 その中で、自分の立場を築いていくことが何よりも楽しかった。活躍できたときには、自分が認められていると実感できた。
 それから、高校時代。
 今思い返せば、悪いことばかりでもなかった。
 どん底の時期に出会えた人たちは、小学や中学の友人と違って今でもこうやって付き合いがある。何より、渚と出会って、ここまで登ってくることができた。

 考えてみれば、渚と出会うまで自分は孤独だと思っていたけれど、それも違った。
 常に誰かに出会うことを求めていたんだ。誰かに出会って、認めて貰いたくて、尊敬し合う関係を築きたくて、そうして生きてきた。
 椋も、同じだったのかも知れない。いや、人ってのはみんな、そういう生き物なのかも知れない。

 風が凪いで、草が起きあがる。
 虫の声が星空に吸い込まれていく。
 その調べにのせて、子守唄が響いていた。



 ふと人恋しさに襲われて振り返ってみる。
 誰一人として欠けていなかったことに、安堵した。
 渚も杏も椋も風子も、坐ってぼんやりとしている。
 女性がこうやって時間を過ごすとき、男として何かしなくてはと、詮ない焦燥に駆られたときもあった。
 今は、時の流れるままに身を委ねることを、ただ気持ちよいと感じられた。








 こんな風に時を過ごしたことがあった。
 夜の校舎に忍び込んで、キャンドルに炎を灯して、クラッカーを鳴らして。
 あの日は春だったけれど、ちょうど今日と同じくらい風が涼しかった。

 風子との出会いは、奇縁と言って良かった。
 突然姉の結婚式を祝いたいと言って現れた彼女は、台風のように俺たちを巻き込んで、珍騒動を起こして回った。
 今思えば、人見知りをする彼女がよくあれだけ、積極的になれたものだと思う。
 彼女は見た目とは裏腹に気難しくて、プライドが高い。ある意味俺によく似ていた。
 俺と違っていたのは、彼女が意外に素直な努力家というところだった。だからこそ、あんなにレベルの高い高校に入れたのだろう。
 だからこそ、自分が大変だって時に、あれほど姉の為に必死になれて、人見知りの性格も乗り越えることができたのだろう。
 受験に向けて余裕のなかった連中も、本当は日々をつまらないと感じていたのだろうか、そんな彼女にいつのまにか、皆が引きつけられていた。あの時だけは、学校中の皆が一丸となって、お祭り騒ぎを楽しんでいた。

 あの後は渚とのことで精一杯な日々が続いていたから、それが学生生活最後の楽しい思い出だった。
 俺にとってあの頃は、モノクロに色彩を失うのではなく、セピアになるほど美化されているわけでもなく、ただ夕暮れが始まるほんの少し前の、黄みがかった弱々しい光に照らされ続けているような気分をずっと残していた。
 暖かくでも、これから自分が何処に向かうのか漠然とした不安に満ちた生活。それでもこうして何とかやっていけているのは、きっと渚がいたからだった。

「寒くないですか?」

 汐の替え用のブランケットを手に持って、渚が立っていた。

「ん、渚が傍で坐ってくれたら暖かい」
「えへへ、じゃあ、御言葉に甘えて」

 月は大分高くまで登っていて、渚が坐ると、その顔が照らされてさっと明るくなった。

「汐は?」
「今は椋さんたちが預かってくれてます。気を利かせてくれたんですね」

 渚が隣に坐ると、やっぱりほっとする。
 ここが、俺の居場所だって実感するからだった。

「お茶、飲みませんか?」
「ああ。でもちょっと待ってくれ」

 俺は缶の中身を飲み干すと、渚の持ったお茶の缶と交換した。
 缶は随分とぬるくなっていた。

「いつの間にか、椋さんって呼んでましたね」
「んっ」

 唐突に言われたので、お茶と一緒に空気まで飲み込んでしまい、喉がつまる。

「だ、大丈夫ですか?」
「はぁ、びっくりした」
「気を付けて下さいね」


「渚」
「はい?」


「ひょっとして怒ってる?」
「いえ、何でですか?」


「ああ、悪かったよ。俺は渚のことが本当に好きだからさ」
「あ、ありがとうございます」


「べ、別に、本当に朋也くんのこと、怒ったりしてないですから」
「あ、うん。ありがとう」

 気まずい雰囲気になったので、渚の肩を抱き寄せてみた。

「ちょ、ちょっと朋也くん」
「あ、もしかして嫌だった。ごめん」
「そ、そうじゃなくて、みんな見てます」


 また、肩が離れる。
 妙な緊張感が辺りを包んでいた。

「渚、一緒にいてくれて本当にありがとうな」
「えっと、えっと」
「俺がいまあるのは、渚のおかげだと思う」
「あ、ありがとうございます」
「ありがとうを言いたいのは俺の方だって」

 本当は気兼ねせずに言いたかったが、後ろの視線が気になるのでひそひそ声で話す。

「渚、愛してる」

 やっぱり小さい声で。

「あ、ありがとうございます。わたしも朋也くんを愛してます」

 ここで、普段のノリなら抱き合うんだが、あいにく後ろの人たちがそうさせてくれない。
 グッと我慢する。そして、

「なぁ、渚」
「なんですか?」
「お前って小さい頃は、どんなやつだった?」

 なるべく『性的に盛り上がらない』話を選んで、渚に振ってみた。

「わたしですか……」



 ぱちぱちぱちぱちぱち。
 開幕のブザーが鳴って、緞帳が引かれる。
 大勢の人の前で渚は寝そべっていた。
 手作りのセットは、会場の暗さと舞台の明るさの境に拙さを覆い隠し、荒涼とした世界、一面の雪景色を見事に演出していた。
 壊れかけた、不細工な人形が渚の頬にかかった雪を払い落とす。
 それが始まりだった。



「わたしは、普通だったと思いますけど……」
「その普通が訊きたいんだ」
「えっと、小学校の頃は、やっぱりあんまり出席できなかったんですけど、学校では友達と折り紙をしたり、ビーズ細工を作ったりしてました」

 渚は縁側の木を、とんとんと指でつついた。

「友達も多くはなかったですけど、優しい人ばかりでした」



 世界に、ふたりぼっちだった。
 少女と壊れた人形。
 どうして人形が突然動き出したのか、何故世界に生きている人間は、少女しかいないのか、わからぬまま物語は進む。
 壊れたブランコだとか、良く分からない生き物だとか、枯れ果てた草原だとか、僅かに開いたふすまだとか。
 雪だとか、光だとか。
 少女は新しい人形を何度も作ろうとして、何度も失敗していた。
 失敗することを、人形はどこかで喜んでいるようだった。
 それは、その人形に代わりがないことを意味するのだから。



「中学校は、ちょっと大変でした。小学校の頃は、何日も休んでも、学校に行けばまた話しかけてくれる友達がいたんですけど、中学校はそうじゃなかったんです」

「なにもかもが曖昧だった小さな頃と違って、中学校は部活とか、家に帰るときのお付き合いとか、そういったものが大切になっていきました。――わたしは、その中には入れなかったんです」

「だから、勉強をしようと思いました。わたしにできることを一つずつこなせば、きっともっと幸せになれると思ったんです」



 ある日、二人は遠くに出かける。
 どこまでも、どこまでも遠くに。
 それはきっと、寂しさに耐えきれなかったから。
 そして二人は雪に包まれて――



「渚の演劇、良かったよ」
「あっ、ありがとうございます。――でも、いきなりどうしたんですか?」
「話を聞きながら、思い出してた。なんていうか、あの物語、この街そのものだったんだな」
「この街?」
「うん。ここはあんまり何もない街だったけど、住んでいるみんなが頑張って、発展させていって、そしてもっと幸せになろうとする。そんな物語のように感じた」
「そうですか」
「でも、きっとその中で置き去りにしてきたもの、変えなきゃならないものがあったんだ。俺たちは、それを受け容れないとならない」
「はい」
「だけど、決して変えちゃいけない、大切なものだってあるんだよな。俺には、渚の演劇がそういう物語のように感じた」
「朋也くんがそう感じたなら、多分それで良いんだと思います。わたしは朋也くんの感じたことが、とっても素敵だと思いました」

 なんとなく渚と俺の唇が近づき、キスをした。


 目の端に、杏の笑顔が映って同時に唇を突き放した。

「ひゅーひゅー、朋也、渚」

 椋は口元に掌を押しあて、風子は覗き込むようにして俺たちの姿を見守っていた。

「ホント、思惑通りに動くヤツ」

 俺はそれほどショックでもなかったけれど、渚は顔を真っ赤にしている。
 何故か、椋も顔が真っ赤だった。

「はあ。――おまえら、月見に来たんだろ。そろそろこっちこないと見えなくなるぞ」

「はーい。じゃあ今からそうするわ」

 気がつかないうちに早苗さんがおいていってくれたのだろう。だんごの積まれたお盆を杏は抱えた。椋は中身の入っている缶を持ち、風子は木彫りのヒトデを抱えている。
 ――仕事しろよ風子。

「だんごっ、だんごっ」

 やっぱり歌うのか渚。

「だんごっ、だんごっ」

 風子も歌い出した。

「だんごっ、だんごっ」

 杏や椋もくすくすと笑いながら、二人に合わせて歌い出す。

 ――しかたがないなあ。

 俺は笑うと、4人に合わせて歌い出した。
 近所迷惑にならないように静かに、それでいて楽しく賑やかに。

「だんごっ、だんごっ」
「んん」

 赤ん坊のむずがる声に、皆は一斉に後ろを振り返った。
 汐がブランケットから手を伸ばし、眼を擦っている。

「汐ちゃん、ゲットですっ」

 風子がぱたぱたと近づき、汐に抱きつく。
 汐も、風子の事を信頼しているからだろう、安心した笑みを浮かべた。

「ねえ、ひょっとしてあの子も歌いたがってるんじゃないかな?」
「えっ、流石にまだ早いんじゃないかしら」
「おいおい、何言ってるんだ。真に受けるなよ、風子」
「――この子に歌を教えて、良いですか?」

 風子は俺の言葉は無視して、渚に訊ねた。
 真剣な眼差しだった。

「ええ、しおちゃんに歌を教えてあげて下さい」


「えーと、汐ちゃん、今から歌を教えてあげます。風子の真似をして下さいね」
「うぅん」

「だんごっ、だんごっ」
「ふぅー」

「汐ちゃん、風子の真似をするんですよ。だんごっ、だんごっ」
「あーん」

「だんごっ、だんごっ」
「いやぁ」

「だんごっ、だんごっ」
「ひゃあん、あーあっ」

 ちょっと似てきたよね? と、杏が俺に眼を合わせた。

「いいですか。だんごっ、だんごっ」
「ひゃああっ、ひゃああっ」

 もう一息ですっ。椋が小さく呟く。

「だんごっ、だんごっ」


 ぷぅっ。


 明らかにおならの音だった。
 その方向は――

「ぷうこ?」
「ちっ、ちがいますっ。風子そんなはしたないことしませんっ」
「でも、今確かにそっちから」
「信じて下さいっ。違いますっ」

 襖が開いた。

「悪い、今のはオレだった」
「お父さんっ」
「あんたかっ」

 部屋は哄笑に包まれた。
 たまには、こんな風に時間を使うのも良いもんだな。そう思うと、急に溢れてきた涙を俺は止めることができなかった。








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