幸せなら手をつなごう



[0]



 坂の下で、ただ上だけを見つめていた少女。踏み出せない一歩が、今もまだ同じ場所にある。一人では、この坂道は上れない。だから、その背中を優しく押して、寄り添ってやる人が必要だった。
 少年は少女に声をかける。二人で踏み出した一歩が、お互いを支え合う礎になる。
 だから、繋いだこの手を離さない。
 少年が振り返ると、坂の下には数え切れない程の人々がいた。途方も無い坂道を、未だに上ることが出来ない人が、これだけ残されている。けれど、彼はたったの一人しか背負えない。それ以上を望むのは、あまりにも傲慢で、許されないと知っていた。
 坂の下から、彼を見つめるもう一人の少女がいる。その双眸は、悲哀に満ちた宝石のようで、どうしても視線を逸らせない。その瞳が、確かにこう言っている。助けて。誰にも聞こえないその叫びは、まるで心を引き裂くようで。
 たった一人の少女だけを守ろうと、硬く硬く、まるで殻に閉じ込めるように決意した誓いでさえ、一瞬で揺らいでしまう。少年は、耳を塞ぐ。だが、その隙間から届いた想いが、体の芯をきりきりと締め付ける。

 ねぇ――、お願いだから、こっちを向いて。
 ちゃんと、ここにいるよ? ここでずっと、見てるよ?
 ねぇ――、気付いて?
 生きてるよ。この世界で。今もずっと。


[1]



 誰もいないはずの教室に、朋也は足を踏み入れる。窓際の席、逆光を浴びるようにして、一人の女生徒の姿が見て取れた。一心不乱に手を動かし、彼が入ってきた事に気付く様子もない。握り締められたナイフの刃先は、もう片方の手にある木片に向けられている。それを削る音だけが、静かに響いている。
 少女はゆるゆると息を吐き出す。集中のあまり、呼吸を止めていたのだろう。ようやく、破れた静寂に、少女の横顔が朋也へと向き直る。口を半開きにして、驚いたように目を大きくさせた。その時、ふと包帯の巻かれた手に目がいく。そこには、点々とした血の跡が滲んでいた。
「だれですか」
 答えずに、朋也は少女の下へと歩み寄る。逃げようとしたのか、思わず席を立ち上がるのも無視して、眼前まで近寄る。そうして、不器用に握ったナイフをかすめ取る。包帯の感触を確かめるように、そっとその手に触れると、抗議しようと口を開きかけていた彼女は顔をしかめる。再び離された手は、微かに震えていた。
「こんな傷で、彫刻なんて出来るはずないだろ」
「放っておいて下さい。傷だろうが何だろうが、風子はこれをやらなきゃいけないんです」
 そう言って、ずいと朋也に詰め寄る。差し出された左手は、未だ震えていた。
「俺ってさ、周りの奴らから何て言われてるか、知ってるか?」
 突然に投げ掛けられた質問に、自らを風子と称した少女が首を傾げる。意図が分からないのだろう、無理もない。それを尻目に、朋也は制服のポケットにナイフを押し込むと、薄く笑いを浮かべて見せた。
「不良だよ。だから、俺はお前からこいつを巻き上げる。文句なんて聞く耳持たない。返して欲しいんなら、その包帯が取れるようになってからだ」
「そんな横暴、聞いたこともないですっ。とにかく、風子にはそれが必要なんです。返して下さい」
「不良に、理屈が通用するかよ」
 そう言って、踵を返す。しばらく呆然としていた風子は、朋也が扉から出ようとしているのに気付いて、彼の前に立ち塞がる。その瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいて、思わず意表を突かれてしまう。
 半端な善意で奪い取ったナイフが、ずしりと重い。彼女にとって、今の行為はお節介なばかりか、偽善に過ぎなかったのではないか。そう思ってしまう程に、真剣な目を彼女はしていた。自分の行動を善と捉えて突き通すか、偽善とみなして放棄するか。どちらかが正しいのかは、分からない。
「お願い、します」
 言葉の破片が、心に突き刺さる。朋也は少女を押し退けると、なおも追ってくるのを無視して、教室を後にする。後ろ手に扉を閉めると、背後で彼女の小さな呟きが漏れ聞こえた。
 二人の間を遮る一枚の扉が、少年と少女の道を別つ。そうして、彼女は取り残される。明るい暗闇の中で、たった独りで、世界に閉じ込められる。そうして、机の上には、作りかけの木彫りが一つ、削り屑と共に置かれている。不恰好で、未熟な技術だけれども、それは確かに想いの形だった。
 少女は肩を落とし、その輪郭を闇に溶かすように、歩き出す。透明なガラス窓からは、淡い陽光が今も燦然と降り注いでいる。だが、それはこの世界の闇をより一層際立たせていた。彼女は手元にある木彫りを手に取って、その小さな胸へとかき抱いた。
「おねぇちゃん……」
 この世界の全てに向けられた言葉は、決して誰にも届かない。絵の具の白が、黒に塗り潰されてしまうように、混ざり合った想いは、やがて深淵へと堕ちていく。これを作ると決意した日から、泣き言は言わないと彼女は誓った。けれども、その想いとは裏腹に、物事は思い通りに進まない。
 どうすれば、いいんだろう。ただ、そう自らに問いかけた。四方を見渡してみても、一寸先は闇と言うように、希望に繋がる道は伸びていない。玉砕を覚悟で、何処かに足を踏み入れてみる勇気すら、今の彼女には無かった。そうして、やはり痛感する。自分は独りぼっちで、孤独な存在なのだと。
 ふと、天井を見上げる。今日は何故か、この手が届きそうな錯覚に陥る。夜空の星に向かって、手を伸ばすのとは訳が違う。息苦しさに、胸が潰れそうになる。少女は、この広くて狭い世界から、未だに逃げ出せないでいる。だから、ここでいつまでも悩み続けるだけだった。
 両手に刻まれた傷跡が、ぎりぎりと疼く。必要な木彫りの数までは、途方もなく遠い。どれだけ頑張ろうとも、到底間に合わないのかもしれない。その前に、心が折れてしまうかもしれない。先程の不良に対して、本当は、取り返す為に、いくらでも抵抗が出来たはずだった。
 けれども、少女はそれをしなかった。心の奥底で、きっと、言い訳を欲しがっていた。ナイフを奪われたのだから、仕方がない。それは自分のせいではない。彼女は唇を、強く、強く噛み締める。ここには、ただ逃げ道ばかりがあった。自分は未来に向かって、後ろ向きに歩いていた。そんな滑稽な行動ばかりを選んでいた事に、今さら気付く。
 まだ、遅くはない。引き返すなら、今しかない。包帯の巻かれた両手を、ぐっと握り締める。痛みに思わず目が潤むけれど、制服の袖でしっかりと拭う。そうして、もう絶対に振り返らないのだと、改めて思い直す。左手に信念を、そして右手に決意を持って、少女は新たな一歩を踏み出す。
 差し込んだ光が、闇を綺麗に取り払う。黒白の世界は、やがて光に満ちるだろう。



[2]



「昨日、岡崎さんに言われた通り、ポスターを描いてきました。先生には申請してありますので、今からでも掲示しようと思います。それから、こちらは勧誘用のビラです。まだ部活に入ってない生徒の方に配って、演劇に興味を持ってもらおうと思います」
 演劇部を復興させようと、渚と共に決意してから、準備は着々と進みつつある。これからは、文化祭に向けて、部員を集めなければならない。今のままでは、満足に劇を展開させる事が出来ない。かつての演劇部は、部員が揃わなかった故に、失われてしまった。今また、同じ道を歩ませる訳にはいかない。
「ちょっとそれ、見せてくれ」
「はい、どうぞ」
 手渡されたポスターは、一面にだんご大家族が描かれていた。内容とは似つかわしくないが、これが渚の精一杯だった。絵の具で丁寧に色まで塗られており、淡く優しい雰囲気を醸している。また、ビラの方に目を向けてみるが、これはポスターの縮小版とでも呼ぶべきだろう。
 どちらにも、手抜きは一切見られない。これを完成させるため、渚は睡眠時間を削ったに違いない。あるいは、徹夜をしたかもしれない。彼女は、昔から体が弱い。それを言い訳にして、期限を延ばす事は、いくらでも出来ただろう。そうでなくても、病弱なのは事実なのだから、そうする事に罪はない。
 だが、渚はそうしない。朋也が声を張り上げて説得しても、彼女はそれを拒否するだろう。自分の体が切り刻まれようと、雄々しく、強く立ち続けようとするだろう。きっと、一般の生徒から見れば、彼女は小さく弱い人間の一人に過ぎない。だが、それに反するようにして、心に信念の剣が在る。決して折れない、光に満ちた意志が在る。
「……頑張ったな」
 渚は、微笑む。ただ、それだけで、報われたとでも言うように。
 その言葉に、重みなんて無かった。ただの高慢な思い上がりに過ぎない。朋也は、静かにそう思う。これを口にするのを許されているのは、今までの人生を、逃げる事なく生き抜き、自分に誇りを持てる存在だけだ。自分のように、日々を諦め、当てもなくふらつき、世間を見下す一介の不良には、あまりにも重すぎる。こんな偉そうな事を言うのは、あまりにも滑稽だろう。
「それじゃあ、わたしはポスターを張ってきますので、宜しければ、岡崎さんは先にビラを配っていてもらえないでしょうか? 後ですぐ、行きますから」
「ああ、分かった」
 ビラを受け取り、渚とは別の方向に歩き出す。そうして、ふと考える。どうして、自分は彼女の為に、これ程の事をしているのだろう。所詮は微々たる労働とは言え、今までこんな風に、自発的に動こうと思った事は一度だって無かった。ましてや、他人の為にやるべき事など、何も無いと思っていた。
 もう一度、自身に問いかける。どうして、俺はこんな事をしているんだ?
 分からなかった。ただ、一つだけ確実なのは、朋也に欠落してしまった何かを、渚は持っているということだった。そうして、その一方で、彼女に足りない何かを、彼は持っているということだ。互いに不完全な存在だから、相手を求めて手を伸ばす。そうやって、引かれ合う。いつかはふたり、手を繋ぐ。
 人通りの多い廊下に出て、気合いを入れ直す。しかし、所詮はすれ違う生徒に、ビラを渡すだけ。小学生にも出来る単純な工程だと、朋也は高を括っていた。始めてからものの数分で、彼はその考えの甘さを知る。彼の背中に貼り付けられた、不良という名のレッテルは、全校中に知れ渡っていた。
 訝しげな視線を投げて、足早に素通りしていく生徒。声を潜め、数人で固まって陰口を叩きながら、通り過ぎていく女生徒。彼らは朋也の存在を無視し、厄介事には関わりたくないと言わんばかりに、立ち去っていく。ビラを差し出した手は、中空で意味のない弧を描く。
 湧き出てきた感情は、怒りではない。果てしなく途方もない、虚無感。そして、悔しさだった。朋也は自分の立ち位置に気付かされる。誰からも疎まれ、邪魔者として扱われ、白い目を向けられる。それこそが、逃れようのない現実。認めざるを得ない事実。虚しさだけが、世界に溢れる。
「岡崎さんっ」
 背後から、駆け寄ってくる渚の姿が、見て取れる。彼女は息を切らして、彼の元へと辿り着く。そうして、一枚も減っていないビラの束を一瞥する。きっと、様々な感情が渦巻いたに違いない。どう表情を作っていいのか分からない。だから、分からないから、笑ってみた。そんな感じの、本当に悲しそうな笑顔だった。
 途端に、朋也は何と応えていいのか分からなくなる。不甲斐ない自分の姿を見て、渚は失望しただろうか。そんな風に見られてしまう事が、辛かった。焼いた鉄の棒を、胸に差し込まれる気分だった。地面がどろりと融解し、底無しの沼に引き込まれていくような感覚。頭の芯が、きりきりと痛んでいる。 
「悪い、古河……」
「そんなこと、ありません。仕事を押し付けてしまって、ごめんなさいはわたしの方です」
 渚はビラを半分ぐらい受け取ると、一緒に配りましょうと言って笑った。彼女が一人で配った方が、遥かに能率が良いのは、分かりきっていた。だが、それでも、彼女は二人でやる事を選んだ。そうやって、選んでくれた。不良と共に活動をしていても、何ら良いことなんてないはずなのに。ともすれば、悲願だった演劇部での活動が、全てぶち壊しになってしまうかもしれないのに。
 結果として、ビラは無事に配り終えることが出来た。朋也のビラを受け取る人間は、余程に奇特な一部の人間と、ごく限定された友人のみだった。だから、その大半は渚が渡したものだったが、それでも目標は達成した。これらが、どれだけの効果を果たしてくれるのかは、分からない。
 夕暮れの廊下を、朋也と渚は並んで歩いた。窓から差し込む鮮やかな色彩が、彼等の体を美しく染め上げる。仄かな温かさに包まれて、少年の荒んだ心は次第に癒える。行き進む先には、光。足元を掬われそうになっても、どちらかがその手を握って、引き上げてやればいい。
 玄関に程近い廊下に足を踏み入れたとき、朋也は夕焼けに滲む一つの影を見た。小さく茫洋として、注意しなければ見落とすかもしれない。そんな存在が、確かに其処に立っていた。渚もその姿に気が付いたらしく、雑談をしていた口を唐突に閉じる。誰なのだろう。何をしているのだろう。そんな疑問がお互いに駆け巡っているに違いなかったが、言葉にはせず、歩みも止めない。
 やがて、朋也はその少女の顔に見覚えがある事を知る。何の事はない、先程、彼がナイフを奪い取った女生徒だった。頼りない両の腕で、星型の木彫りを胸に抱いている。俯き加減で、壁に背をもたせかけ、誰かを待っているようにも思える。
 ふと、彼女の顔に笑みが差す。朋也達とは反対側の廊下から、待ち人が来たらしい。慌てて駆け寄って行くが、どうにも様子が変だった。通りがかった男子生徒は、彼女の出現にひどく戸惑っているように見えたのだ。何やらと言葉をかけられるが、彼は訝しげな表情をして去っていく。後に残されたのは、中途半端に笑みを残した少女だけだ。差し伸べた右手が、届くこともなく、ゆっくりと下ろされる。
「あの子、どうしたのでしょうか」
 朋也は、答えられない。ただ、どうしてか、今の彼女は、彼の姿と重なって見える。
「さぁ、な……」
 だから、それだけを吐き出した。現実から目を逸らす卑怯。都合の悪い部分を見たくないという利己。反射的にそれを言ってしまった事を朋也は後悔する。やはり、自分は最低なのだと、自分自身に突きつけられるからだ。単なる一介の不良では、渚には遠く及ばない。共に歩くには、歩幅が違いすぎた。誰の目から見ても、あまりにも、似つかわしくない。
 どちらから言うでもなく、立ち止まる。未だに、木彫りの少女は彼等に気付かない。通りがかりの生徒を見つけては、顔をほころばせて、駆け寄り、大切に抱えた木彫りを差し出す。けれども、彼女が必死になればなるほど、純粋な想いは打ち砕かれ、指の隙間から零れ落ちる。
 幾人もの生徒が、示し合わせていたように、同じ行動を繰り返す。面倒事には、関わりたくない。彼女を無視した人間は、一様にそんな考えを持ち合わせていたのだろう。きっと、彼等を非難する事は、誰にだって出来ないだろう。しかし、一人一人のその行為が、彼女の心を静かに切り刻む。無数の弾痕を穿っていく。所詮は無関係≠ネ彼等にとって、そんな事実は、一生知らないままに違いなかった。
「どうして、誰も話を聞いてあげないのでしょうか。あんなに必死になっているのに、どうして、誰も応えてあげないのでしょうか」
 渚は、ほとんど泣き出しそうな顔で、誰にでもなく疑問を投げる。小さな肩が震えていた。
 立ち去っていく生徒の背後を見送って、少女の瞳から、やがて光が失われる。こうやって、彼女は何度も打ちのめされる。届いて欲しいと願った言葉は、空中で溶け合うように霧散する。
「行きましょう」
 そう言われてしまっては、付き合うしかなかった。少女の所まで歩み寄り、声をかけようとする。
「……あ。不良発見ですっ」
 びしっと人差し指を突きつけられる。事実だけに、否定は出来ない。
「お前、こんな所で何やってんだよ?」
「見ての通りです。この素敵な木彫りを……ですね。そうだ、そこの人、これをあげますっ」
 少女が差し出した星型の木彫りを、渚は訳も分からないままに受け取る。
「それで、ですね。もしよろしければっ。風子のおねぇちゃんの結婚式に、来てくれませんかっ」
「ちょっと落ち着けよ。どういう意味なのか、さっぱり分からない」
「鈍い人ですね。一を聞いて十を知る風子を見習うべきです。仕方ないです。一度しか言いませんので、よく聞いてください」
 そうして、風子と名乗る少女から、二人は事情を聞き終えた。ここで三年前まで、美術の教師をしていたという彼女の姉は、結婚式を間近に控えているらしい。だから、この学校の生徒を一人でも多く招待して、祝ってあげたいそうだ。その為に木彫りを作って、プレゼントしているのだと。
「それは、とても素敵な事だと思います。お姉さんも、きっと喜んでくれるはずです。何かやれる事があれば、私も手伝います」
 朋也の心の奥底で、触れてはならない何かが、軋みを上げる。誰かの手が、心臓を鷲掴みにする。そうして、脅すように言う。お前には、一人しか背負えないのだと。やがて、その声の主が、自分自身なのだと理解して、背筋が凍るような感覚に襲われた。
「岡崎さんは、どうしますか」
 気が付くと、渚の言葉に、彼は肯定の意を伝えていた。
 光と光が組み合わさって、全てを白く塗り替える。だが、誰もが見落としてしまうような、そんな世界の片隅に、小さな小さな闇が生じていた。濃度の高いそれは、異質な光を放ちながら、じわじわと白の境界を侵食しつつあった。



[3]



 演劇部の活動をする傍ら、渚と朋也は、精力的に風子を手伝った。内容が内容だけに、素直に受け止めてくれる生徒は少なかったが、それでも着実に前には進んでいる。それから、たった三人だけだった演劇部にも、何人かの生徒が、新たに加わった。これからは、文化祭に向けて、練習の日々が始まる。
 脚本の候補として、第一に挙がっているのは、『世界に独りだけ取り残された少女』の話だ。渚が幼少時代に聞いた童話をベースにしているだけに、完成度は非常に高い。独特の静謐な雰囲気を醸すだけに、映像化には向かないかもしれないが、演劇としては悪くなかった。
 練習の期間を考えれば、脚本を選り好みしている余裕は無い。ただ、登場人物が二名に限定される難点がある。部員が少ないとは言え、これでは華にも欠ける。だから、来週までに、素筋程度の脚本を全員が持ち寄るという方向で落ち着いた。その役割の一端は、もちろん朋也も握っている。
 その日も部活動が終わってから、遅くまで残って、朋也と渚と春原の三人は後片付けをやっていた。文句を垂れ流しながらも、ここまで付いてきた春原は、以前とどこか変わって見えた。こんな事をやっても、何の利益にならないと知りながら。それでも、こうする事には意味があるはずだった。
「あの、二人とも、ありがとうございます。後は、もう鍵を職員室に返すだけなので、わたしがやっておきます。お疲れ様でした」
 その言葉に、春原は安堵の息を吐き出し、放り出していた荷物を肩にかつぐ。朋也は一足先に部室を出て行く彼を見送りながら、その場に留まっている渚をしっかりと見すえて、こう伝える。
「玄関で待ってる」
 渚は一瞬、面食らったようだったが、すぐに笑顔で頷いた。
 朋也は急ぎ足で、先に行った春原に追いつくと、暗い廊下を並んで歩いた。安物の上靴が、リノリウムの床を叩いて、間抜けな音を鳴らす。他に誰もいないこの空間で、それが反響する。普段は人の賑わう場所だけに、無人になった時との落差は大きい。肝試しでは、学校が舞台に選ばれる事も多いが、それも分かるような気がした。
「おい岡崎、誰だよあれ」
 春原が指指す先に、小さな黒い影があった。濃い黒色が、薄い暗闇を上書きして存在しているような。廊下の片隅で、それは動きもせずに留まっている。不審気に首を傾げる彼の傍らで、朋也はすぐにその正体を知った。だからなのか、ただただ、胸が痛んだ。どうしてなのか、どうしたいのか、分からない。ただ一つだけ確かなのは、心の根源に在るものを、熱く、熱く、突き上げる衝動だった。
 呼びかける言葉が、見つからない。どうしてだろう。彼女との距離は、こんなにも近い。近いはずなのに、それなのに、伸ばしたこの手は届かない。彼女の心に触れられない。揺らせない。響かせられない。故に、朋也は悟る。知る。痛感する。ああ、こんなにも彼女は遠い。

 風子は――、
 明るい教室の片隅で暗闇≠フ中に閉じ込められ。
 賑やかな学校の片隅で孤独≠フ中に閉じ込められ。
 残酷な世界の片隅で叶わない希望≠フ中に閉じ込められている。

 数多の矛盾が、彼女を包み込んでいる。だからこそ、朋也は救いたいと願ってしまう。坂の下にいる彼女の背中を、そっと押してやりたいと想ってしまう。そして、それが無理な事も知っていた。ちっぽけな人間が背負える人の数なんて、せいぜい一人に過ぎない。
「――風子」
「……岡崎さんですか。こんな時間まで学校にいるなんて、いけない人ですっ」
 言葉は普段通りだったが、語調からは完全に毒気が抜けていた。取り繕ったような表情からは、風子の疲弊の程が窺える。原因は何なのだろう。愚問だった。混沌の渦巻くこの世界、欺瞞に満ちた人間、そのいずれもが、彼女を強く締め付ける。砕けない鎖が、その幼い体を縛り付け、自由さえをも奪ってしまう。
 風子には、きっと、一片の落ち度さえも無かったに違いない。それなのに、彼女はこうも報われない。その苦しみの根源が、何処にあるかも分からない。理不尽な想いを吐き出したくとも、その相手が見つからない。だから、彼女の心は傷つくだけだ。癒される術もなく、徐々に崩れ落ちていく。
「は、何言ってんの。お前こそ、早く帰れよ。親だって心配してるだろ?」
 春原が、呆れたように言う。悪意なんて無くて、皮肉でも無くて、ただただ、自然と喉から滑り落ちた言葉の刃。その見えない刃先が、風子の心臓を容赦なく抉り抜いた。何ともない風を装う彼女の演技は、完璧であるはずなどなく、気丈に立っているつもりでも、心の揺らぎが朋也には伝わってきた。
「……風子は大人の女性なので、貴方にごちゃごちゃ言われる筋合いはありません」
 でも、それは彼女をよく知らない人間を騙すには、十分過ぎる程の演技で――。
「あのなぁ、意地張ってないで、早く帰れよなっ。このまま学校で野宿でもする気かよ?」
 だから、彼女は取り残される。
 この世界に。
 坂の下に。
「春原、もう突っかかるのは止めろ。……悪かったな、風子」
 朋也は、未だに納得がいかない様子の春原の背を押して、先に進もうとする。
「いえ……。あ、そういえば、ナイフ、返して下さい」
 朋也は振り返り、前はあれだけ渋ったナイフを、今度は素直に差し出した。
 そうしなければならないと、本能が告げているような気がした。
「ありがとうございます。それと、もう一ついいですか。次の日曜日、大事な話があるので、正午に校門の前まで来て下さい。――……って、言っちゃいましたっ。んーっ、風子、ぷち大胆ですっ」
「ああ、別にいいけどさ、今言うのだと駄目なのか?」
「はい、無理です。岡崎さんは、でりかしぃが無さすぎます」
 そう即答した彼女と別れて、彼らはその場を後にする。しばらくして、玄関で合流した渚に話を聞くと、風子は廊下に座り込んだまま、帰る気がないように見えたそうだ。ここにいる三人には、帰るべき家がある。また、渚には、帰宅を待ち侘びてくれる家族の存在がある。それは、風子にも当然あって然るべきだった。
 校門を抜けてから、朋也は背後の校舎を振り返る。風子は今この瞬間も、たった独りであの中にいる。いつ、彼女はここから出られるのだろう。どうやって、彼女はここから出るのだろう。闇を照らすはずの光は、何処にも見当たらない。暗く、寒く、荒涼とした世界には、明けない夜が訪れていた。



[4]



 約束の日曜日、朋也は早朝から古河のパン屋を訪れていた。手伝いも兼ねて、予定の時刻まで暇を潰すつもりだったのだが、そこで待ち受けていたのは、微熱を出して病床に伏す渚だった。枕元には秋生が座り込んでおり、朋也の姿を見て取ると、「よぉ」と小さく呼びかけ、手を挙げた。
 渚の下に駆け寄り、彼女の顔を見つめる。苦しそうに喘いでいたが、意識までは失っていない。朋也をしっかりと見つめ返し、弱々しく笑って見せた。それを見た秋生が、渚の額に乗せられたタオルを取って、洗面器に溜めた水に沈める。それを力強く絞ってから、また同じ場所へと戻す。彼はずっと、この行為を続けてきたのだろう。今日に限らず、今まで、ずっと。
「おっさん――。こいつの看病、俺にやらせてくれないか」
「あ?」
 秋生は不機嫌さを隠しもせずに、そう返す。
「頼む」
「ちっ……。その代わり、いい加減な看病するんじゃねぇぞ」
 しばしの逡巡の後に、秋生は怒気を荒げてそう告げた。それから、用事を思い出したように踵を返す。その背中に向けて、朋也は「ありがとう」と投げ掛ける。部屋を出て行く彼には、確かにその言葉が聞こえていたはずだったが、そのまま振り返りもせずに去っていった。
 二人だけが残された空間で、朋也は壁に背中を預ける。渚に伝えるべき事は、分かっている。自分を騙す事さえ出来ないぐらいに、この気持ちが成長していることも。だとすれば、足りないのは踏み出す勇気だった。空気を吐き出し、吸い込む。酸素が薄いような感覚は、緊張から来るものだろうか。
「……渚」
「はい」
 初めて、彼女を名前で呼んだ。それだけの事なのに、胸が熱く高鳴った。
「……好きだ」
 だから――。
 離れたこの手を、差し伸べる。
 どうしてか、渚はいつもの落ち着きを讃えたまま、静かに息を吐く。きっと、薄々感づいていたに違いない。彼女は笑わなかった。仄かに上気したその頬が、ぴくりと痙攣する。自分で額のタオルを取り払い、上半身を起き上がらせて、朋也を見つめた。
「わたしなんかで、いいんでしょうか……」
 だから――。
 その肩を、優しく抱いた。
「ありがとう、ございます……」
 渚の瞳から、大粒の涙が零れる。堪えるように、口を引き結んでも、それは止まらない。
 彼女から生まれた雫は、朋也の服に染み込んで、微かな温かさを感じさせた。触れ合った体の向こう側で、確かな命の脈動が伝わってくる。乱れた呼吸が、耳元で聴こえる。乾いた心が、彼女を求めていた。溢れ出した感情の全てを閉じ込めるように、彼は胸の中にいる彼女を抱き寄せる。
 この儚く小さな存在が、決して壊れてしまわないように、優しく。
 けれど、この大切な存在を、決して手放してしまわないように、強く。
「今はもう寝てろ。こんな事、本当はお前が元気な時に言うべきだった。悪かったな」
「いえ……嬉しかったです。それで、あの、一つだけお願いしてもいいでしょうか……?」
 悪戯っぽく、渚が笑いながら、問いかける。朋也は首を小さく頷いて、それに応える。
「次にわたしが目覚めた時にも、わたしの傍にいてくれますか……?」

 曇天という名の怪物が、巨大な翼を押し広げて、世界を飲み干そうとしていた。蒼穹は喰らい尽くされ、陰鬱とした雲だけが、満遍なく空を覆っている。そこから吐き出されるのは、無数の槍にも似た雨粒。地上の全てに降り注ぎ、草木には潤いを、そして人々には静寂を与えていく。
 雨粒が地面を穿つ音を聞いた。時刻は十時を回った頃で、それから、次第に天気は乱れていった。風が窓枠を軋ませ、嫌らしい異音を奏でる。透明なガラスの向こうに見える世界は、普段と違って暗かった。
 それに追い討ちをかけるようにして、渚の容態は悪化していった。何度か熱を測ってみたが、その度に高くなっているようだった。看病を怠っていた訳ではない。病魔が彼女の体を蝕んでいた。朋也は座して、虚空を睨みつける事しか出来ない。
 雨は激しさを増していく。痰が喉に絡み付いたような咳を、渚は何度も繰り返した。現実に揺り起こされては、再び夢に堕ちていく。朦朧とした意識のまま、呻いている姿は、見るに耐えなかった。いっその事、完全に眠ってくれれば、中途半端に苦しむことも無かったに違いない。けれど、それは許されなかった。
 悪天候が続くなか、風子との約束の刻限が迫っていた。窓越しに外を覗いてみると、尋常ではない風が吹き荒れ、雨が流れ落ちている。渚の容態を理由に、彼女との約束を破る事は出来る。後で、きちんと謝れば済む問題だ。だが、朋也はその恐ろしい考えを打ち消した。自分の都合を言い訳にして、他人を傷つける訳にはいかない。
 しかし、渚を無視して、出掛ける事も出来ない。いつ目覚めるか分からない彼女の為にも、今は、傍で見守ってやらなければならない。苦悩の末、彼は一旦部屋から出ると、秋生の元へと向かった。
 居間に佇んでいた秋生は、テレビの画面をぼんやりと見つめていた。その顔には、いつもの覇気が無い。彼は朋也が入ってきた事に気が付くと、リモコンを操作して電源を切り、真剣な表情でこちらへと向き直る。そうして、この場を制すように、疑問を投げ掛ける。
「おい。渚の調子は、どうなんだ」
 ただ、雨音だけが聞こえる。この世界は、あまりに寂しい。
「あんまり、良くない。だけど、それとは別に、頼みたい事がある」
「ちっ……またかよ。なんだ、言ってみろ」
「今日の正午に、知り合いの奴と校門で待ち合わせしてるんだ。そいつに、俺が急用で行けなくなったって、伝えて欲しい」
 その言葉に、秋生は眉根を寄せた。
「渚の熱でもうつったのか? そんなもん、人に頼む事じゃねぇだろ。自分で言いに行け。その間は、俺があいつを看病するから、安心して行ってこい。こんな雨の中、誰かを待たせるなんて馬鹿のやる事だ」
 この選択が、どれだけ利己的で、自己中心的で、意味が無いか、そんな事は百も承知だった。けれど、渚が目覚めるまでは、彼女の傍を片時も離れたくなかった。そうでなければ、繋いだこの手ごと、心が離れてしまうような気がしたから。
 未だに動こうとしない朋也を見て、秋生の表情が呆れを通り越して、苛立ちへと変化する。
「あのな、てめぇで取り付けた約束すら、お前は守れないって言うのか?」
 答えられない。その通りだった。大切な約束でさえ、自分には守れない。そうする勇気さえ無い。
「ちっ……腰抜け野朗め。分かった、行ってやる。そいつは、どんな奴なんだ。それだけ教えろ」
 たどたどしい言葉で、風子の特徴を告げる。秋生は時計を一瞥すると、舌打ちをしてから、部屋を出て行った。傘を引き抜く音が聞こえ、玄関がばたんと閉まる。小さな足音が交差し、やがて消えた。
 重い足取りで、渚の元へと戻る。幸いな事に、彼女はまだ目覚めていなかった。安らかな寝顔をしていることから、今は小康状態を保っているらしいと分かる。ただ、心だけがどうしようもなく痛んだ。時計の針が時間を刻む音が、何故か大きく聞こえる。
 正午を過ぎ、それから三十分が経過した頃になって、秋生は帰ってきた。出迎えると、彼は全身濡れそぼっていて、髪の先端からは雨粒がぽたぽたと落ちている。傘を差していても、これだけ横殴りの雨では、意味が無かったのだろう。
「――……いなかった」
「え?」
「学校には、誰もいなかった」
 短くそれだけを言うと、秋生は洗面所に入っていった。彼がタオルで頭を拭く姿を、朋也は呆然と見ていた。嘘をついているとは、到底思えない。だとすれば、本当に風子はいなかったのだろう。こちらが断りをいれるまでもなく、彼女は約束を破っていた。この天気では、無理だと思ったのかもしれない。
 心のつかえが取れたような気がした。所詮は、相手にもされていなかったということ。深刻に考えるだけ、時間の無駄だった。朋也は秋生に礼を言うと、渚のいる部屋へと引き返す。
 二時頃になって、ようやく渚の熱は引いていった。まだ万全とは言えないが、このまま安静にしていれば、悪化する事もないだろう。粘り強く看病していたのが幸を奏して、しばらくすると、彼女は目覚めた。意識も大分はっきりしているようで、朋也を真正面から見て、嬉しそうに笑った。
「朋也くん、傍にいてくれました」
「ああ。約束だからな」
 傷だらけの心に出来た隙間が、少しずつ塞がっていく。そこに入り込んできたカケラは、彼女の心そのものだったに違いない。二つの命が、響き合うように、優しく脈を打つ。きっと、繋いだこの手は離れない。彼は盲目的に、そう信じていた。

 渚の家から帰宅の途中、何気なく通りがかった学校。
 朋也はただ、校門の前で立ち尽くしていた。
 雨水が、全てを洗い流すように、世界を濡らす。雄大なこの世界の中に在って、自分自身がどれだけちっぽけな存在であるか、朋也は痛感させられる。そうして、気付いた。風子はきっと、取り残されてしまう事が怖かった。誰にも気付かれる事がないまま、泥沼のような地面に、引き込まれてしまうのではないかと、不安だった。
 だから――。
 その小さな手を、差し伸べた。
「嘘だ……」
 でも――。
 その手は、誰にも、届かなかった。
「嘘だ……嘘だ……」
 朋也は、空虚な言葉だけを呟く。どうして。どうして。疑問符ばかりが、天を衝く。
 秋生の言葉に、嘘は無かったはずだった。
 それなら、どうして、約束の時刻を何時間も過ぎた現在に至って、風子は校門の前にいるのだろう。どうして、全身を余すところなく雨に濡らして、それでもなお、気丈に立っているのだろう。どうして、彼女を裏切った自分に対して、こんなにも、こんなにも、純粋に笑いかける事が出来るのだろう――。
 朋也は、崩れ落ちる。感情の奔流が、あらゆる知覚を串刺しにしていく。事実に追いつかない理性が、ぎりぎりと軋みを上げる。自然と、涙が溢れた。もう、止まらない。それらは、すぐに雨粒と混じり合い、溶けていく。ほとんど這うようにして、風子の前まで近付いて、その顔を見上げた。
「岡崎≠ウん、遅刻するなんて、ぷち最悪ですっ」
 そう言って、彼女はまた笑った。
 どうして――。
 どう、して――。
「でも、ちゃんと来てくれたので、今回だけは許してあげようと思います……」
 どうして、笑っていられるんだ……――。
 風子の体から、安堵のためか力が抜け落ちて、その場にぐったりと倒れる。朋也が慌てて支えたとき、彼女はもう意識を失っていた。顔色は悪く、動悸も乱れている。触れた指先は、すっかり冷たくなってしまっていた。そこには新しい切り傷が、いくつも刻まれている。ナイフを返してから、また張り切って彫刻をしたのだろうか。
 その疑問に答えるように、もう片方の手から、奇妙な形をした塊が転げ落ちる。前に見たものより、一回りか二回りは大きい、星型の木彫り。彼女の手には、これがずっと握られていたのだろう。何故、こんな物を持っていたのか。その理由は、一つしかないに決まっていた。
 木彫りを一つ作るのに、彼女がどれだけ傷を負っているのかということ。これが他の生徒のものより、一回り大きく作られている意味。わざわざ呼び出してまで、渡そうとする事の真意。こんなにも、彼女は自分に対して、手を差し伸べていてくれた。
「風子、お前……」
 朋也は慈しむように、その木彫りを胸へと抱き寄せて、包み込むように体を丸めた。背中に雨粒が容赦なく叩きつけられる。どうしていいのか、どうしたいのか、何もかもが分からない。ただ、涙だけがとめどなく流れた。



[5]



 あれから、一つだけ分かった事がある。風子の存在は、徐々に揺らいでいた。彼女が木彫りを渡そうとする時、最近はことごとく無視されるようになっていた。その原因を突き詰めれば、もう少し早く気付けていたに違いない。それを悟った頃には、もう、何もかもが手遅れだった。
 幸いなことに、風子は疲労による微熱からは、すぐに快復した。あの約束の日を境に、朋也はたくさんのものを手に入れたけれど、同時にたくさんのものを失ってしまった。彼女が差し伸べたはずの手には、今ではもう触れる事さえ出来ない。
「ごめんな……」
「いいんです。慣れていますから」
 傍らにいる風子の姿は、普通の人には見えなくなってしまった。彼女を覚えているのは、朋也と渚、そして春原の三人だけだ。このままでは、彼女の望んだ結婚式など、万が一にも実現しない。一人でも多くの生徒から祝福を受けて欲しいという、その真摯な願いは潰えてしまう。
「……なぁ、風子」
「何ですか?」
 朋也は、手にした紙を握り締める。何度も書き直し、ほとんど徹夜で仕上げた脚本だった。
「演劇部に、入らないか」
 風子は嬉しそうに、だけど、儚げに笑った。
 彼女の姿は、もう誰にも見えないから。誰も覚えていないから。
「無理、です――」
 そう言って、悲しそうに俯いた。その瞳には、もう光が映っていない。
「無理……なんです……」
 彼女は、自らの心を縛りつけるように、同じ言葉を繰り返した。

 ――あなたは、覚えているでしょうか――。
 暗闇から染み出るように、その言葉が客席に投げ掛けられる。
 それが、劇の幕開けだった。
 ――誰もが忘れてしまった、たった独りの少女の名を、覚えているでしょうか――。
 渚の声には、不思議な優しさがある。それは録音されたテープでありながら、彼女の感情の全てを、内側に内包したような、そんな心地良さに満ちていた。静かに、悲しく、聴く人の心に沁み入るように、あるいは溶かすように、語り部の声は続いていく。
 ――人が死ぬとき。それは、どんな時なのでしょうか。この温かく脈を打つ心臓が、止まってしまうときでしょうか。それとも、この思慮に満ちた脳が、動かなくなってしまうときでしょうか。違います。きっと、誰からも忘れられてしまうときでしょう――。
 照明が、灯される。舞台の中央、光によって切り取られた空間に、渚が立っていた。
 ――あなたには、この少女の姿が、今でも見えているでしょうか――。
 目を瞑り、彼女は祈るように天井を見上げていた。遠い過去の記憶を思い出すように、胸の前で両手を絡ませている。その網膜の向こうには、何が見えているのだろうか。真上から光を降り注がせ、少女の姿だけを浮き上がらせる演出は、幻想的な空間を生み出し、客席から感嘆の溜息が漏れる。
 ――この世界は、むかし、止まない雪が降り注ぐ、寒くて、冷たい、とても悲しいところだったそうです。それだけが、彼女に残された、たった一つの記憶。少女は独り、永遠を享受して、振り払う事の出来ない孤独の中に、閉じ込められていました――。
 朋也は舞台裏でその声を聞きながら、壁に背中を預ける。文化祭が始まった、という実感は、未だに湧いてこない。渚と結ばれたあの日から始まり、今もずっと続いている深刻な現実が、全てを黒く塗り潰してしまっていた。だが、この気持ちが、いつかは消えてしまう事も彼は知っていた。
 抜け切らない疲れが、朋也の体の芯を侵していくようだった。誰にも聞こえない声で、ちくしょうと悪態をつく。もう、この言葉を何度口にしただろう。この世には、報われない人間がいる事を知っている。その結果に対して、感情をあらわにしない人間がいる事も知っている。
 でも、きっと、風子は顔で笑って、心で泣いているに違いなかった。救いの無い絶望に放り込まれても、彼女の心は死んでなどいないのだから。そう、小さな体躯に包まれた心臓が、彼女を生かそうと激しく脈を打つように。乾いてひび割れた心は、一滴の水を与えられる日を待ちながら、今も彼女の中に強く息づいている。
 ――けれど、少女は強く在ろうとしたのです。今にも消えそうな小さな命の炎が、美しくも荒涼とした世界を明るく照らす灯となり、彼女の朽ちかけた心と体を支える礎となりました――。
 朋也は、風子から受け取った木彫りを、しっかりと握り締める。
 そうすれば、消えかけた彼女の全てを、いつまでも留めておけるかのように。
 ――ですが、時の流れが、この世界を徐々に変えてしまいました。どれだけの憎しみ、どれだけの悲しみ、どれだけの絶望が、あれほどまでに澄み渡っていた大空を汚したでしょう。どれだけの血肉、どれだけの破壊、どれだけの銃弾が、あれほどまでに雄々しく在った大地を汚したでしょう。いつの日か、輝いていたはずの命は、光を失ってしまいました――。
 少女は座り込んで、顔を伏せる。彼女に当てられていた光が、外側から削り取るようにして、その輪郭を縮めていく。闇に溶けていくような演出は、まるで存在そのものを消してしまうようだった。
「どうして、泣いてるの?」
 何も見えない空間から、声が投げ掛けられる。
「ほら、つかまって」
 僅かに残された光の中に、少年の手が差し伸べられる。
 震える顔を持ち上げて、少女が手を重ねた瞬間、世界に光が満ちた。
「もう、だいじょうぶ」
 そう言って、少年――朋也は、屈託なく笑った。
「きみの名前は?」
「わたしは――……」
 少女――渚は、言うべき名を口に含み、それを吐き出そうとして……続かなかった。
 静まり返る舞台。彼女の焦りが、朋也にも伝わってくる。ここでの台詞は、失念する類のものではない。だからこそ、彼はすぐにそれを理解する。ついに来たか、という諦念にも似た感情の渦が、緩やかに喉元を滑り落ちた。
 他の誰が忘れてしまっても、自分達だけは、彼女の事を覚えていられると、ただ盲目的に信じていた。けれど、実際はただ偶然に出会い、関わり、親密になった、それだけのこと。特別の存在になったつもりでいただけだ。
「……忘れて、しまいました」
 自分を支える記憶を失ってなお、渚は台本に無い台詞を紡いだ。
「でも、とても……大切な名前だったような気がします」
 それを聞いたとき、朋也の中で何かが弾けた。この演劇の全てを投げ出して、叫び出したい衝動に駆られる。今までは、風子が自分達と出会った事に、大した意味なんてないと思っていた。けれど、それが間違っていたと知った。たとえ見えなくても、心はきっと繋がっていて。いつの間にか、お互いの魂に触れてしまっていたのだと、思い知らされた。
 渚の横に、風子が立っていた。そうして、寄り添うように、静かに微笑んでいた。彼女の輪郭が薄くなっているのは、気のせいではないだろう。存在が消えかけている。みんな、忘れてしまう。


「わたしは、独りぼっちでした」
『風子は、独りぼっちでした』

渚の声に、風子の声が重なる。

「でも、今はもう寂しくはありません」
『でも、今はもう寂しくないです』

二人の主役が、言葉を紡ぐ。

「何故だと思いますか?」
『どうしてだと、思います?』

朋也は首を振る。

「きっと、あなたと出会えたからです」
『きっと、岡崎さんたちと出会えたからです』


 少年は両手を前に差し出す。普通なら、握手をするのに、手は片方で十分だ。それに、観客からは一人の少女しか見えていない。だから、余計に変な風に見えたかもしれない。しかし、そんな些末な事は問題にもならなかった。やがて、二つの温かさが、冷え切った両手に伝わってくる。
 朋也は自嘲する。自分は本当に、馬鹿だった。一人の人間しか背負えないのなら、手を繋いでやれば良かったのだ。片方ずつ手を繋いで、共にその坂道を上っていく。繋ぎたいと思う手があって、繋がれたいと思う手がある。互いに望まない限り、その繋いだ手と手は離れない。


「ありがとう」
『ありがとうございます』


 その一言を契機として、演劇の舞台が切り替わる。照明が絞られ、世界が色を失っていく。本来ならば、すぐ舞台裏に行かなければならないのだが、風子だけが、動かずに同じ場所に立っていた。朋也は慌てて駆け出して、彼女の元へと行く。そうして、気付いた。
 風子はもう、ほとんど見えなくなっていた。彼女の体を通して、向こう側の景色が透けて見える。それでも笑みを崩さなかったのは、決して痩せ我慢などではないのだと、朋也はそう信じていた。だから、彼もそれに応えて精一杯の笑顔を返す。
 満足気な微笑みを讃えたまま、風子が世界に溶けていく。落とされる照明と相成って、まるで世界と同化していくようにさえ思えた。最後に、その唇が小さく動き、「だいすき」と囁いたように見えたのは、勘違いだったのかもしれない。そうでなければいい、などと思ってしまった自分に、似合わないなと苦笑する。
 彼女が消えてしまい、全てを忘れた朋也は、自分の状況を悟り、急いでそこから退散する。どうして、あんな所にいたのだろうかと、首を捻りながら。舞台裏に戻った彼は、自分の右手を眺めて、またさらに不思議に思う。どうして、この手はこんなにも温かいのだろうかと。緊張で冷え切ってしまうはずの手が、何故か今は温かく心地が良い。 
 また、すぐに舞台に戻らなければならない。物思いに耽っている余裕は無かった。これは束の間の休息に過ぎない。朋也は両手をぐっと握り締め――片隅にぽつんと置かれた、星型の木彫りに目を止める。これは何だろう。時間が無いにも関わらず、彼は見えない意志に導かれるようにして、それを手に取った。
 その木彫りは、初めて目にした物なのに、妙に懐かしかった。温かかった。どうしてなのだろう。
「なぁ、これ誰のなんだ?」
 その場にいた春原を呼び止める。すると、彼は呆れたように言った。
「何言ってんだよ、ずっと大事そうに持ってたの、お前だろ?」
 足早に立ち去っていく春原を目で追いながら、朋也は困惑する。この木彫りは、何なのだろう。どうして、こんな物を持ってきたのだろう。そして、誰からこれをもらったのだろう。誰から。どうやって手に入れたのかも思い出せないはずなのに、それだけは何故か自然に浮かぶ。そう、誰かだ。誰なのだろう。
 分からないけれど、この手の温もりが、その人が大切だったことを告げているような気がした。
 舞台の闇から、渚が小さく手招きをしているのが見える。
 朋也は小さく頷いて、光に満ちた世界へと、再びその一歩を踏み出した。



[エピローグ]



 渚と二人で坂を上る。その先の校門は、もう多くの参列者で賑わっていた。
「あれが、公子先生です。それから、隣にいるのが芳野祐介さん」
 人々の中心で、二人は寄り添うようにして、和やかに談笑をしていた。
 美術で渚の受け持ちをしていた教師の結婚式が、この学校で行われる。その話を聞かされたとき、胸の奥が熱くなったのを覚えている。だから、一緒に行きましょうと渚に誘われて、朋也はそれを二つ返事で了承した。
 そうして、初めて見た彼らは、明るいこの空の下にあって、なお輝いて見えた。
 渚が、彼らに挨拶をしてくると言って、その場を去る。どこか取り残された気分になった朋也は、日陰になった樹の下で、退屈そうに俯いている少女を見つけた。ふと、彼は声をかけてみようと思い立つ。
「どうした、暇なのか?」
 少女が驚きに目を大きくさせる。言葉の選び方を間違えたかもしれない。警戒されてしまっただろうか。彼女は押し黙っていたが、やがて呼吸を落ち着けてから、ゆっくりと首を振る。
「いえ、そんなことありません。おねぇちゃんが長話しているので、仕方なく待ってあげているんです」
 それは、暇ってことだろ。思わず突っ込んでしまいそうになるのを、ぐっと堪える。
「ん、お姉ちゃんって、名前は?」
「公子です。あそこにいる人達の中で、一際目立って綺麗なのがそうです」
 ああ、と納得する。結婚式の主役ともなると、この少女に構ってやれなくなるのも無理がなかった。
「それじゃあ、お前の名前は?」
 ふと、朋也は演劇の一シーンを思い出す。
 序盤、暗闇の淵にいる少女に、少年が呼びかけをする重要な場面だ。あの時、何故か演技のほとんどがアドリブで進行していったらしいのだが、全く記憶に残っていない。舞台裏から見ていた裏方の生徒は、相当に焦っていたそうだ。しかし、劇は無事に成功し、曰くつきのそのシーンは、鬼気迫る演技で評判だったのだと、後に聞かされた。
「風子、です」
 淀みなく、少女は言った。
 聞き覚えのある、名前だった。ふうこ。そう口にすると、懐かしい響きがした。
「あの、手、つないでくれますか」
 反論する暇もなく、幼く小さい手を、右手に重ねられる。
 いつかの温かさが、そこにあった。
 ……どうして、忘れてしまっていたんだろう。
「……久しぶり、風子。やっと、思い出した。ごめんな」
 風子が破顔する。それは、今まででいちばんの、とびきりの笑顔だった。
 そのとき、背後から、大きな歓声が聞こえた。振り返ると、無数の生徒達が、坂を上ってくるところだった。そこには、春原の姿もある。風子が届けた想いのカケラは、この世界で生きていた。ずっと死んだと思っていたそれは、皆の心の中で、確かに息づいていた。
 風子はその場で、坂の途中にいる彼等に向かって、大きく大きく両手を振った。
 その横顔に、確かな幸せの形があることを見て取って、朋也は静かに踵を返す。
「おめでとう」
 独り言のように呟いた祝福は、誰に向けられたのかも分からないまま、青空に溶けて消えていった。


 朋也が住むアパートの一室、彼の部屋のベッドの上に、演劇の脚本が置かれている。
 その表紙に印刷されているのは、『幸せなら手をつなごう』という題名。
 そこにマジックで文字が書き足され、『幸せなら手と手をつなごう』となっていた。
 開け放たれている窓から、一陣の風が舞い込み、ページをぱらぱらとめくっていく。
 全員の配役が記されたそのページにもまた、一つの書き足しがある。
 主役である渚の名前の隣、僅かな空白に、はっきりと刻まれた文字。
 伊吹風子、と。
 誰も知らない、もう一人の主役の名前が、そよ風に力強く揺れていた。
 
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