懐かしい音がした。
 木枯らしの、ヒューヒューとした音の隙間から聴こえるそれは、昔の自分の姿を思い起こさせる。イメージを止めて、私はそっと合唱部のドアを開け、音のなる方へと向かった。音は、隣の教室から鳴っていた。私は、片目分だけドアを開け、そっと中を覗き込んだ。
 そこには、きれいな姿勢でヴァイオリンを構える、一人の少女がいた。





記憶の肖像と世界の歩み







 その人は、夏休み前に出会った先輩の一人だった。両側を子供っぽい髪飾りで結えたその髪型に見覚えがある。名前を思い出そうとして、それを失念しているのに気付く。
「あっ」
 教室の中の先輩が、私の存在に気づいたようだ。こちらをじっと伺っている。私は、ドアを開けて先輩の元へと歩いた。あそこまで見つめられては、ドアを閉じてさよならする訳にはいかなかった。私が近づいて、先輩はどこか強張った面持ちになった。見るからに緊張している。
 やはり、私から話しかけねばならないのだろうか。でも、名前も直ぐに思い出せない人と、どうやって会話すればいいのだろう……。
「仁科りえちゃん」
「えっ」
 私が思い悩んでいる間に、先輩はさっと、私をフルネームで呼んでくれた。
「……りえちゃん?」
「えっ、えー、仁科りえです」
「うん、りえちゃんりえちゃん」頷きながら「こんにちは」
「は、はい、こんにちは」
 ……どうしよう。名前が思い出せない。この人は、直ぐに名前を言えたというのに。
「……」
「……」
 それだけで会話が終わってしまう。彼女を見てみると、さっきの緊張がどこかへ行ったように笑顔をたたえている。それはそれで、私の方が辛かったりするのだけれど。
「ヴァイオリン、どうですか?」
 仕方なく、私は名前を知らないまま話をする事にした。
「うん、とってもいい音」
 その言葉は、自分の音を褒めているというよりは、ヴァイオリンの音を褒めているというニュアンスに聞こえた。
「それは良かったです」
 私は微笑んだ。確かに、私をここへ導いてくれたあの音は、悪いものではなかった。以前聴かせてもらった時は、あまりに前衛的な音で、ある意味でさっきの音よりもイメージが強いのだけれど。
「あの、もう一度聴かせてもらえませんか?」
 私は、話をつなげる意味で、彼女にそう勧めた。
「え……」
 先輩は急に不安げな顔になった。
「んとんと」それでも最後は「いいよ」と返事をしてくれた。
「はい、ではお願いします」
 そう言って、私は手近にあった椅子に腰掛けて拍手した。
 彼女は、その拍手にちょっとだけビクッとなり――やがて、先程のように綺麗にヴァイオリンを構えた。
 そして――。

「――――」
「わぁ」
 小さく、感嘆の息が漏れた。技巧としては足りない部分ばかりだけど、最初聴かされたあの音から考えれば大きく進歩したといえると思う。時折、ぎこちない音が出てしまうのは、さっきと違い、私という観客がいるからだろう。
 演奏しているのは、練習用のフレーズだと思う。同じようなフレーズが何度も行き来しているから。私が知らないということは、昔ついていた先生が先輩用に考えたものなのかもしれない。

「ありがとうございました」
 そう言って、先輩はぺこりと頭を下げた。私は小さく拍手をする。
 私の拍手に、先輩は照れくさそうに笑った「恥ずかしいの」
「今の演奏なんですが……」
「?」
「あれって、練習用のフレーズですよね?」
「うん、そうなの」
「小さいころに習ってたものですか」
「……」
 きょとんとした、顔をされた。
「ねぇねぇりえちゃん」そうしたら、急に近づかれた「りえちゃんって、エスパー?」
「それはつまり……」
「正解、なの」
 先輩は、嬉しそうにそう告げた。たぶん、当てられたのが、本当に嬉しかったのだろう。あの綺麗な姿勢にしても、一つのフレーズを丁寧に何度も繰り返すのも、小さい頃レッスンを楽しんでいた証拠。それが今もなお体に染み付いているのだろう。そんな彼女が少し羨ましく感じる。
「りえちゃん、すごい」
 先輩が、音を立てずに拍手をした。手を叩きながら、私をじっと見つめている。僅かに潤んだその瞳には、驚きと尊敬が混じっているように感じる。
「……そんなに凄い事じゃありませんよ」
 恥ずかしさに耐え切れず、私は言葉を返した。
「? どうして?」
「それはですね……」
 私は、さっき感じた事を説明して、先輩にエスパーの種明かしをした。
 すると彼女は、
「りえちゃん、すごいすごい」
 さっきよりも、私をじっと見つめるようになり、私は余計に恥ずかしくなった。

「今日もやってるな」
 丁度良いところに、助け舟がやってきた。私の他にも誰かがこの教室に入った来たのだ。
「朋也くんっ」
 扉を開けた場所で立っている彼にも見覚えがあった。朋也……そう、岡崎朋也先輩だ。
 この人にも、確かに面識はあったけど、私はそれ以外にも彼を知っている。何かと噂される人だからだ。この学校では珍しい、所謂不良と呼ばれる人。この学校の一つ上の学年には、岡崎朋也ともう一人(名前は忘れた)が、有名になっている。授業に出ていない、必ずといって良いほど遅刻する、平気で早退する、などの素行で教師に目をつけられているからだ。もちろん悪い意味で。
 だけど、私の印象は決してそこまで悪くはなかったりする。以前に会ったときにも、決して不良しているようには見えなかった。そして、今この時の姿を見ていても、あんまり悪い印象は受けない。
「今日もちゃんとやってるみたいだな」
 そう先輩に話しかける彼を見て、不良だと思う人は居ないように思える。
「うん、りえちゃんがいたから」
「?」
 今気付いたかのように、こちらに視線を向けてきた。
「お前は――」
「仁科です。こんにちわ」
「ああ、そうか、あの時の」
「お久しぶりです」
 そう言って微笑んでみせた。この人も、先輩も、対面して自然と笑顔を作れる。
「ことみ、どうして仁科がここにいるんだ?」
「えっと」
 先輩はそこで、どう説明していいか迷っていた。
「私が迷い込んできたんです」
 口を挟んで、理由を述べた。
「ヴァイオリンの音を聞いたら、引き寄せられるようにここへ」
「そうか、今はヴァイオリンの音になってるしな」
「むむむ」
 岡崎先輩のその言葉に、彼女は眉根にしわを寄せる。「冗談だ」と言って、そんな彼女の頭をポンッと優しく叩く。そんな小さなやり取りが、二人の仲を想像させる。
「こいつのヴァイオリンはどうだった?」
「え?」
「いや、こいつのヴァイオリンはどんな感じだったか、聞きたくってな」一歩踏み込むように「ヴァイオリンやってるんだろ?」
 その言葉に少しだけ胸が痛んだ。
 ――今は、やっていないから。ヴァイオリンを手にする事は出来ても、自分の思い通りには出来ないから。
 私は、負の感情が押し寄せる前に、返事をすることにした。
「いえ、以前やっていただけで、今は。それと感想ですね」
 我ながらせわしない、と思うペースで言葉を続ける。
「良い、と思います。あの時みたいに力いっぱい弾いてるような感じはないですし。元々、弾く時の姿勢は良いですから、リラックスして弾けばこれからも上達すると思いますよ」
「ほう」
 岡崎先輩は、私と先輩を交互に見やりながら、そう息を漏らした。
 ……少し気取った評価の仕方だったかな。そう思って、恥ずかしくなってきた。
「ごめんなさい、偉そうに意見してしまって」
 恥ずかしさに耐え切れなくなって、私は謝まってしまう。
「いや、別に構わない、それより」
 気にした風も無く、そう返事すると先輩に向き直った。
「ことみ良かったな、上達するってよ」
「うんっ」
 そこでようやく、先輩の名前がことみである事を思い出した。ことみ……一ノ瀬ことみ先輩だ。
「もっともっと練習するの」
 一ノ瀬先輩はヴァイオリンを構えた。それを見て、私は席を外す事にした。
「あっ」
 私が教室を出ようとするのに気付いたのか、先輩が声を上げた。
「行っちゃう、の?」
 しゅん、とした顔でこちらを見つめてくる。
 そんな顔をされたら、出にくくなってしまう。私は困ったように苦笑いした。
 私のそんな反応を知ってか知らずか、岡崎先輩が格好を崩して、
「だ、そうだ。どうする? 都合が良ければ残ってもらいたいんだが」
 そう頼んできた。その脇では、先輩がさっきの表情のまま私を見つめていた。
 仕方なく、私は曖昧に微笑んで答えた。
「じゃあ、もう少しだけお邪魔させていただきます」


 穏やかで居心地の良いような感覚。
 演奏を一通り聴いて、浮かんできたのはその言葉だった。それは、演奏によって生み出された効果とは違う気がした。
 今、目の前には教室を掃除している彼女と、椅子を片付けている岡崎先輩がいる。
 ――きっと、居心地の良さというのは、この「二人」によるものだろうな。
 私は漠然とそんな事を考えながら、掃除を手伝っていた。机や物を移動させてまでの大掛かりな掃除じゃないから、三人いれば直ぐに終わる。数分もしないうちにちりとりが出されて、ゴミはまとめて捨てられた。
「終わったの」
「はぁ、疲れた。なんでこんな疲れることしなきゃなんないんだ?」
 肩をぐるぐると回しながら、岡崎先輩がそう愚痴っている。普段からあまり掃除をするタイプじゃないのだろう。
「最近は、渚ちゃんよりもこの教室を使っているから掃除するの」
「まあ、やるのが道理っちゃ道理なんだがな……」
 理解はしているものの、しぶしぶとした表情をしている。そんな二人のやり取りが「らしく」ていいな、と思った。
 掃除を終えた二人は、帰り支度を始めている。といっても岡崎先輩は、特にやる事もなく、ことみ先輩が支度を整えるを待っている。二人の様子を見て、私も帰る準備をした。
「それじゃあ、失礼します」
「おう、またな。ことみ、別れの挨拶」
「うんっ」
 一ノ瀬先輩がこちらに寄ってくる。
「りえちゃん、また明日」
 また明日。
 そう一ノ瀬先輩は挨拶をした。



 家に帰って、直ぐに自室にこもった。なんとなくやる気が起きず、ベッドに飛び込むように横になる。長年住み慣れた部屋なだけあって、数えたくなるようなシミも天井にはあったりする。しばらくして、私はベッドから降りた。

 なぜそうしたかは、自分にも分からない。
 だけど、気が付けば私は、クローゼットの奥に隠すように仕舞いこんでいたハードケースを取り出していた。ハードケースを勉強机の上に置く。そして私は、中身を見ようと、留め金に手をかけて――それを止めた。


 翌日の放課後、部活を終えた私は部員の二人を見送った後も、教室に残っていた。窓の外を見てみると、運動部の人たちは、まだ活動をしていた。
 合唱部の活動時間はそこまで長くない。創立者祭のある一学期は、遅くまで残って練習したけれども、学校でのイベントが存在しない二学期は、元より活動時間を長く取らないとみんなで決めていたからだ。進学校であるこの学校では、二年の二学期になってしまえば、既に受験の準備期間へと入ってしまう。だから、部活にばかり気を取られるわけにもいかないのだ。結局、私達の当面の目標は十一月に開催されるこの町での小さな合唱コンクールだった。
 それだけでも、私には十分だった。もしかしたら、ずっと音楽に関わることなく生きていたかもしれない私が、こうやって関わっていられるのは本当に幸せなんだと思う。我侭だったのは私で、そんな私に見かねて気にかけてくれた、幸村先生には感謝してもしきれない。

 いつの間にか、運動部の人たちは用具を片し始めていた。それを見て、私も帰ることにした。
 部室のドアを閉めて、廊下を見渡した。夕焼け色に染まったリノリウムの床を歩く人は、誰もいなかった。
 ふと、気になって私はある教室へと向かう事にした。使われていないはずの空き教室、昨日一ノ瀬先輩たちと会ったあの教室へ。
 教室の前に立ち尽くす。昨日のように、ヴァイオリンの音はしない。私は中に誰も居ないと判断して教室に背を向けた。
「りえちゃんっ」
 だから、背中からそう声をかけられたのにはびっくりした。
「っ、一ノ瀬先輩ですか」
「……」
 私の返事にに何故か不満げな反応を示す先輩。
「ことみ」
 しばらくして、先輩は私に向かってそう言った。
「えっと」
「ひらがなみっつで、ことみ」
「あの」
「呼ぶ時はことみちゃん」
 そこまで言って、再び黙る先輩。
「……」
「……」
「分かりました、ことみ先輩」
「うんっ」
 どうやらそれで納得してくれたようだった。……正直、先輩をちゃん付けで呼ぶのは辛いので助かった。
 笑顔の先輩は、そのまま昨日と同じ所定の位置に戻って、ヴァイオリンを構えた。教室の前に立ち尽くすのもおかしいので、つられるように私も教室に入る。昨日と同じ椅子に腰掛けて、演奏を待った。小さい拍手も忘れずに送る。ことみ先輩は、それで切り替わったように表情を変え、弓を弦に撫で付けた。

「―――」
 昨日と同じフレーズだった。以前聞かせてもらったときは、複数の曲を演奏していた(とはいえ、判別はつかなかった)けど、昨日今日と同じフレーズを演奏している。自分なりの課題を見つけて、それに一番相応しいと思っているのがこれなのかもしれない。もちろん、自分の好きな曲の中で、という前提で。音から判断すれば、昨日よりは緊張は薄れている気もする。だからもう私は安心して聴くことができた。きっと、あんな音はもう出ない。
 そして演奏が終わる。弓を弦からゆっくりと離し、私に向かって礼をする。その真っ直ぐさに少し恥ずかしくなる。私は口元を隠すように拍手した。

「ことみー」
 先輩を呼ぶ声が聞こえる。記憶にあって、だけどはっきりと思い出せない声。振り向くと、左側の髪の一房をリボンで巻きつけた女の人が教室に入ろうとしていた。
「杏ちゃん」
 そう呼ばれるのを聞いて、私は彼女が藤林杏という名前の三年生だと思い出した。以前、音楽室にあったヴァイオリンで色々と縁のあった人だ。
「こんにちは、仁科さん」
「あ、はい、お久しぶりです」
「昨日朋也から聞いたのよ、あなたがことみの演奏聞きに来たって」
「聞きに来たというより、音に誘われた、といった方がいいかもしれないですね」
「へぇ、ことみの演奏で人がねぇ」
「むむむ」
 言葉の端に含まれる、柔らかな皮肉にことみ先輩が眉根を寄せる。
「あの時は、ごめんなさい」
「なに、別にいいのよ。それに今来てもらってる訳だしね」
 あの時とは、夏にやったらしいことみ先輩の演奏会の事だ。ことみ先輩のヴァイオリンが修理から戻ってきた日に、演奏会が催されたらしく、私は藤林先輩に誘われたのだけれど、その日は別の用事があって出られなかった。
「ま、あの時よりも、今来てもらった方が、正解なのは確かだし」
 やっぱり。修理されるのに三ヶ月は掛かったみたいだから、演奏は私達に最初聞かせた音と大差なかっただろう。
「いつも、ここに来てるんですか?」
「ううん。受験近いし、流石に毎日はね。ことみと朋也は毎日のように来ているけど」
「え、大丈夫なんですか?」
 ちょっとびっくりして、ことみ先輩に向き直る。
「うん、勉強は家でするから」
「一応これでも、学校一の秀才だしね」
「岡崎先輩は、どうされてるんでしょうか?」
「朋也君も私の家に来て、一緒に勉強してるの」
「えっ!? なにそれ、あたし知らないんだけど」
「あっ」
 ことみ先輩が静止する。しまった、と顔に書いてあるような表情。
「こっとみー。ちょっぴり向こうで、お話でもしましょうか」
 さっきの驚きの表情から打って変わって、笑顔になる先輩。言外の凄みを感じるのは気のせいではないと思う。
「私、なんにも知らないの」
 こっちもこっちで、さっきと変わって泣きそうな表情。何となく、普段どんなやり取りしているのか想像できてしまう。
「ごめんね、仁科さん。あたし達急に用事が出来ちゃったから、ちょっとだけ席外すね」
 連行という表現がぴったりくるような動きで、藤林先輩がことみ先輩と一緒に教室を出て行った。耳をそば立てれば何か聞こえてきそうな気もするけど、それはやめておく。

「ふぅ」
 部屋の外から聞こえる喧騒もやがて遠くなり、完全に一人になった。こうやって、落ち着いた状態で部屋を見渡すと、色んなものがあるのが目についた。
 いくつかあるダンボール。その中にある色んな道具。演劇部の道具のようだ。とはいえ、この学校に演劇部は存在しないから、これは昔使ったものなんだろう。
 でも、一番目に入るのは、やっぱりことみ先輩が置いていったヴァイオリンだ。少し悪いと思いながらも、私は手を伸ばして「それ」に触れた。
 弓を手にして構える。そういえば、私とことみ先輩が出会ったのって、私が少しだけ音を鳴らしたからだった気がした。
 音が鳴った。だけど弾いてすぐに気付く。自分のイメージに実際の演奏が追いついていない事に。原因はすぐにわかる。ブランクと……握力。
 すぐに手から疲労の信号が伝わってきた。私は、コントロールがまったく出来なくなる前に、演奏をやめた。いつの間にか、岡崎先輩が部屋に入っている。
「よっ」
「こんにちは」
 軽く会釈。なんだか、どう言っても御座なりな返事になりそうで、簡潔な言葉だけに留めた。
「ことみより全然上手いな、って当たり前か」
「いえ、ことみ先輩の方が上手ですよ」
 本当にそう思う。望む音を決して出せない私なんて、きっと誰よりも劣る。
 ヴァイオリンを元の場所に戻す。後は、持ち主が帰ってくるのを待つだけだ。
「ことみはどうした?」
「聞きたいことがある、って藤林先輩が言って一緒にどっかに連れてかれました」
「どっちの藤林、ってそんなのするの杏に決まってるか」
「何が杏に決まってるって?」
「って、戻ってきたのか。……ことみ?」
「……」
 岡崎先輩の視線の先には涙目のことみ先輩がいた。何があったかはだいたい想像できる。
「朋也君、お家のこと、しゃべっちゃったの」
「おほほほ、後で朋也からも聞くことあるからね」
「ああ……そういうことか」
 顔の前を手で隠して俯くのが見える。どんな内容なのか想像付いたみたいだ。
「で、あんたここで何してたの?」
「仁科の演奏聞いてた」
「あ、そうか、あなた演奏できるんだったのよね?」
「え、ええ、一応」
 どう答えて良いのか、分からなくて曖昧な返事をする。
「一応なんて、普通に上手いぞ」
「うん」
 岡崎先輩はともかく、何故かことみ先輩も同意を示した。
「りえちゃんの演奏は、今でも覚えているから」
 その言葉を聞いて驚く。私が聞かせた演奏って、出会ったときの一回だけだ。それを先輩は覚えていると言う。
「ふーん。じゃあさ、ことみ。あんた仁科さんからヴァイオリン教えてもらったら?」
「えっ」
 藤林先輩の言葉に、私は驚く。
「あー、それはいいかも」
「……」
 三人の視線が一斉に私に集まる。一方私は、まだ驚きが勝っていて、反応があまりできない。
「りえちゃん先生」
「いや、その語呂は良くないだろ」
「ヴァイオリンにしろ、ピアノにしろ、楽器の場合って良い先生がどうしても必要になるからね。ことみが良いって言うなら、先生になれると思うんだけど?」
「あの、えっと」
 ようやく、頭がはっきりとしてきた。どうしよう。部活もあんまりやらないし確かに余裕はそれなりにあるけれど。
「別に、付きっ切りでやるんじゃなくても、今日みたいに放課後に来て、気になるとこ指摘したりだとか、そんなんでもいいんじゃないか?」
 岡崎先輩の言葉。それだったら、時間的な拘束はほとんどない。気軽にここに来れる理由付け、みたいにも取れる。

「りえちゃん」
 ことみ先輩が伺うように、こちらを見ている。期待と不安、どっちの色を瞳に宿しているのかは分からなかった。
 だけど、その目を見て、私の返事は決まった。
「それじゃあ、よろしくお願いします」

 時間も時間だったので、今日はそれでお開きとなった。明日は合唱部の部活動があるので、明後日からがスタートになる。
 夕暮れの時間。夕陽で真っ赤に染め上げられた空を、雲が絶えず動いている。それはまるで、人の世の中を表しているようにも見える。世界は変化を続け、人はその中でとまらずに歩んでいく。どんな日であろうと、それは決して変わらない。見上げていた視線を地面に戻し、私は家に帰った。


 昨日と同じように、家に帰ってきた私はそのまま自分の部屋にこもった。昨日と同じ見慣れた光景。私が最も時間を共にした場所だ。

 私の部屋には幽霊がいる。

 そんな言い方は不自然かもしれないけれど、私には幽霊と呼ぶ以外に「それ」を形容する言葉を持たなかった。
 物は主を得た瞬間に生命を得る。ではもしその主が、主である事を放棄したなら、物は一体どうなるのだろうか。「それ」に存在するのは過去の主が残した意識や記憶だけで、新しい記憶が植えつけられはしない。きっとそれは、幽霊と呼ぶに相応しい存在な気がする。
 クローゼットの中、ハンガーに掛けられた衣服たちの向こうに、ハードケースに閉じ込められたヴァイオリンが安置されている。栄光と歓喜と苦悩と、そして喪失の記憶。それらの残滓が集約されたそれこそが、私の飼っている幽霊だ。他のどのヴァイオリンに触れることが出来ても、私が私であった頃の記憶が最も強く残っているそれを触れるのは出来なかった。合唱部が出来て、音楽がまた好きになった今でさえも、私はまだヴァイオリンに向き合えないでいる。

 私はクローゼットを開け、奥にあるハードケースを取り出した。昨日は留め金に手を掛けた。今日はどこまで? 答えを知ってるのは自分だけなのに、机に置いたまま手は一向に動いてくれない。つまりこれが答えなのだと理解した。迷わず取っ手を掴み、元の場所に仕舞い込む。自分でやっている事なのに、一連の行動がどんな意味を持つのか分からなかった。
 当たり前だ。私は私の幽霊が怖いのだから。







 合唱部の活動がある曜日が終わり、その次の日。私は約束どおり、いつも先輩たちが居る部屋に行った。部屋に居たのはことみ先輩だけ。他の先輩方は、と聞くと今日はみんな来ないとのことだった。
 立ち話もそこそこに、ことみ先輩が用意していたヴァイオリンを構える。私も一昨日と同じ席に座った。
 紡がれる演奏。前と同じ練習用のフレーズを少し弾いてから、エチュードへと切り替わった。音は、しっかりとヴァイオリンの音をしている、というと失礼かもしれないけど、自分の出したい音を出そうという姿勢がうかがえた。
「――終わり、なの」
 弓を弦から離してしばらくしてから、先輩が呟いた。私は小さく拍手をしてから、先輩に近づいた。
「よかったです」
 私は素直な感想を伝えた。少なくとも先輩の演奏は、嫌いじゃない。好きか嫌いかで答えるなら、間違いなく好きと答えるだろう。
「恥ずかしいの」
 先輩はちょっぴり頬を染めて、こっちを見返した。
 それから私は、気になったことを口にした。まともな演奏の出来ない私は、お手本を見せる事は出来ない。先輩達は私の左手のことを知らないだろうけど、わざわざ言うつもりはなかった。
「こう?」
 私が口述したことを、その場で実行する先輩。噂の秀才だけあって、言葉で理解するのは得意みたいだった。
「そう、そんな感じです。あ、右手に力が入っちゃってますね」
「むむむ」
 どうやら先輩は右手の構えが苦手のようだった。肘から伝える重みを、手から先で強く伝えてしまう。大事なのは手の力を抜きながら、重みを伝えることなのだ。手にこもってる力は、ヴァイオリンを聞かせたいという想いが、力みとして表れてる結果なんだと想像する。
「む〜、こう?」
「そのまま、腕全体を動かすイメージです」
「あっ……いい音」
「ええ、そうですね」
 先輩が微笑むのを見て、私も微笑み返した。
「やっぱり正解」
「え?」
「りえちゃんが先生になって、正解」
「えっと」
 その真っ直ぐな瞳を前に、私は戸惑った。
「ありがとう、ございます」
 どうしてなのか分からず、とりあえずな返事をしてしまう。先輩はそれに気付かなかったのか、もう一度音を鳴らし始めた。
 レッスンが好きなのは知ってる。以前見た演奏の態度や、今の嬉しそうな表情を見てもそれはわかる。レッスンがあまり好きじゃなかった私からすると、先輩の感覚は分からないような気がするけど、その一方で分かるような気もした。
「りえちゃん、ここはどうかな?」
「あ、はいっ。手の力は抜いてくださいね」

「朋也君はね、私が不安になるといつも頭を撫でてくれるの」
「あの、頭をぽんっと、叩くのですか?」
「うん。そうした後にね、朋也君はゆっくり頭を撫でてくれるから」
 休憩中に岡崎さんのことを少し聞いてみたら、いつのまにか惚気話が展開されていた。二人が付き合っているのは、以前の藤林先輩とのやり取りから分かったけれど、ここまでノロケられるとは思ってなかった。多分、天然なんだろう。それが仇となって、藤林先輩みたいな人に弄られる。ある意味で分かり易い。
「???」
「どうしました?」
「りえちゃんが、とっても笑ってるから」
「いえ、なんでもないです」
 おかしいと思っていたのが、表情に出ていたようだ。私は目尻を指の腹でなぞって、表情を整えた。
「朋也君がいて、今はりえちゃんも傍にいて、私はとってもしあわせ」
 恥ずかしげもなく、ことみ先輩はそんな台詞を言った。そんな言葉を言ってしまうのは、この人の特徴的な性格のお陰で、だから嘘を言っていないとわかる。
「りえちゃんは、今しあわせ?」
「そうですね……」
 肯定とも迷いとも取れる言い回しの返事。実際にそれは、今の私の心境を正確に言い表していると思えた。
 いつの間にか私は、別の誰かの日常に組み込まれていて、その人の日常は幸せそのものだった、そんな気分。だとしたら、私自身の心境はどうなのだろう。考えても答えは出なくて、私はただ、今ある日常をもうしばらく過ごしてみようと考えることにした。先生の時間は、もう少し続く。


 中学三年の冬、私は左手の機能を失った。なんてことは無い休日。一人で近場の本屋に買い物に出ていた私は、連鎖的に起こった玉突き事故に巻き込まれた。聞こえたのはブレーキ音と、繰り返されるごとに次第に大きくなっていく衝突音。急ブレーキで止まろうとした車が、後続車に追突されて、前へ出る。対向車線にまで飛ばされた車が、横殴りに車とぶつかりスピンを起こす。それが一番大きくて不快な音で、そこから先は覚えていない。
 気が付いた時、私の左腕は横転した車の側面に押しつぶされていた。狙い済ましたかのように左の前腕を抉る鉄の感触は、酷く熱かった。服と肌と鉄が接触している面から、血が滲み出しているのが分かる。服に血が染み込み、私の左腕を侵食していくかのように、赤が広がっていく。まるで眠れない夜のように、頭の中が冴えわたる。鮮明な思考でありながら、何を考えるでもなく、ただ痛さと熱さだけが頭の中を支配し、やがて意識は途切れた。
 不幸中の幸い、とでも言うのだろうか。私の怪我は、左腕のみだった。あの連鎖事故で、怪我の部位が一箇所で済んだのは私ただ一人だったという。よく分からない、それが私の最初の思いだった。あの時の私は、事実を認識するなんて出来なくて、まるで力が感じられない左手首から先の部位も、必死に見ぬフリをしていた。
 失ったものに目を向けた時には、既に世の中は回り始めていた。いや、違う。私に事故が起きようと起きまいと、世界は絶えず動いていた。
 そして私は音楽のハイスクールへの留学を諦め、地元の高校へと入学した。取り残されずに付いていくには、それしか選択がなかったのだ。


 演劇部室は賑やかで、笑い声が耐えない。最初の日は、ことみ先輩一人だったけど、日によって藤林先輩やその双子の妹さん、古河先輩も来るときがあった。岡崎先輩はもちろん出席率一番で、色々と私に話しかけてくれた。
「……とまあ、そういう訳であいつはツッコミの練習をしているわけだ」
「はぁ」
 部屋の隅で「なんでやねん」と言いながら、右手を床と平行に素振りしていることみ先輩を見て、私は苦笑いをした。今は休憩時間で、私と岡崎先輩は適当なお話をして、ことみ先輩はツッコミの練習をしていた。というか、休憩の意味が無いような……。
「で、実際にどうなんだ? ことみの上達具合は」
 ことみ先輩に聞こえるかどうか、そういうのをあまり気にしてない風な声量で、岡崎先輩が質問した。私は軽く咳払いをしてから答えた。
「成長は、早いと思いますよ。言ったことをその場で理解して実践しようとしますから。意識さえしていれば、結果はいつか付いてきますから」
「そっか。いや、ことみは良い先生を持ったなぁ」
「あ、ごめんなさい。なんだか偉そうでしたね、今の私」
 先生みたいに講釈している自分に恥ずかしくなって、私は俯いた。
「別にいいんじゃないか? 先生なんだし。思ったことはっきりと言わないと、ことみの為にならないしな」
 岡垣先輩がフォローする。だけど、それでもどこか恥ずかしくて、私は顔を上げられなかった。
「ま、あまり気にするな。いい先生しているみたいだし」
 そう言って、岡崎先輩は俯いて晒された私の頭に、手をポンと乗せて撫でつけた。
「えっ、ええっ、えええ!」
「おわっ、しまった」
 頭を撫でられた私は、羞恥のあまりに、顔が一気に熱くなった。耳も真っ赤になってるんじゃないだろうか。
「悪い、いつもの癖でつい」
「ええっと、癖っていうのは」
「ああー、恥ずかしい話だが、ことみの頭に手を乗せたり、軽く叩いたりするのが癖になってるから」
「それで、私の頭も?」
 そういえば、以前ことみ先輩の惚気話にそんな内容の話があった気がする。
「丁度いいポジションにあったからな、普通に手が伸びてた」
 深呼吸をして、ようやく落ち着いた。こっちの会話が聞こえているのかいないのか、ことみ先輩は今もひたすら「なんでやねん」と呟いていた。

 休憩が終わって、再度演奏の時間になった。私はいつもの席、岡崎先輩は私よりちょっと離れた場所で、机に寄り掛かって演奏を聴いていた。成長が早い、という私の評価は決して間違ってはいないと思う。ヴァイオリンに限らず、楽器は独学で習得するのはとても困難なものだ。音楽室にあったヴァイオリンを受け取ってからずっと、ことみ先輩は独学で練習を続けていたらしい。それだけであそこまでいったのだから、先生が居ればもっと上達するのは容易に想像できた。……私がちゃんと先生になれているのかは疑問だけれど。
 多分、譜面読みは問題ないだろうから、やろうと思えばもっと幅を広げることも出来ただろう。けど、それはしていない。小さい頃に習っていたという先輩は、その時に教わった曲を繰り返し練習している。きっと、自分の過去の思い出を大切にしているという事なんだと思う。必要以上に緊張しなくなったことみ先輩は、時折視線をどこかへと彷徨わせる。その視線の先を想像すると、なんとなくわかる。

「それじゃ、また今度。明日明後日は合唱部みたいだから、次に会うのは来週か?」
「そうですね。ごめんなさい、あまり見てあげられなくて」
「無理言って頼んでる部分もあるから、あんまり気にしないでいいんじゃないか?」
「そうですね……はい。それではことみ先輩、また来週」
「うん、りえちゃん、また来週」
 私が練習を見ている時、大抵は私が先に帰る。先輩達は部屋の掃除をしてから帰るそうだ。手伝う、と言ったこともあったけれど、先生だからとやんわりと断られた。
 きっと今頃、二人で色んな言葉を交わしながら掃除でもしているんだろう。その姿を想像している自分が、どんな気分でいるのかいまいち分からなかった。まただ、と思った。何故か私は、あの人たちのことを考えていると、自分の気持ちがわからなくなっていく。


 取り残されないように、必死に世界へとしがみついてやってきた学校は、空虚で退屈だった。むしろ学校が、ではなく私がそうだったのかもしれない。付いていって、少しだけ進んだと思ったら、また立ち止まる。あの頃の私は、そんな人間だったのかもしれない。
 そんな私を見かねていたのが恵美ちゃん――本名は杉坂恵美――だった。高校に入る前もずっと私のことを気にかけてくれて、入ってからも同じだった。恵美ちゃんから見た私は、自分で思うよりもずっと酷かったのかもしれない。一年前は、それこそいつも恵美ちゃんが一緒にいた気がする。
 やがて、幸村先生と出会って、合唱部が出来て、私は新しい人生が開けた。そうなってやっと、恵美ちゃんは安心した顔で私を見るようになった気がする。
 新しい音楽の人生が始まって、しかしその一方で気付いていた。私は未だに、私のヴァイオリンに向き合っていないと。

 先生の時間が終わり家に帰って、夕食を食べ終えてようやく部屋に戻った私は、クローゼットの奥を睨み付けた。僅かな恐怖と共に、意識が自衛的に鋭敏さを失っていくのがわかる。その防衛機構はつまり、私がヴァイオリンと向き合って、それで起こるダメージを軽減する役割をしているのだ。
 ――ああ、そういう事だったんだ。
 私は唐突に理解した。ことみ先輩と岡崎先輩と他の先輩方。あの人たちについて考えようとすると、どうして思考が曖昧になるのか。あの人達の姿に、幸せそうにヴァイオリンを奏でる姿に、自分の過去を見出してしまうからなんだ――。


 二日連続で合唱部の部活をして、そして月曜日になった。合唱部の練習も徐々に力が入ってくきている。進学校で受験が第一と言われたって、せっかく出来た合唱部の活動をおろそかにするつもりは、私にはない。これからは一週間の活動日数も増え、時間も後ろに延びていくようになる。
 けれど私は演劇部室に来ていた。先週の約束通りに、この日は演劇部の方に顔を出していた。目の前では、ことみ先輩が演奏していて、私はそれを聴いている。
 さっきまで、藤林先輩姉妹や古河先輩が来ていた。ちょっぴり顔見せに来ていただけだったけど、ことみ先輩の上達ぶりに驚きの声を上げて、そして賞賛の声が続いた。
 幸せそうな光景だった。それを私は、何かフィルターでも通されたかのように、遠巻きに眺めるような感覚で見ていた。
 私が昔住んでいた世界に、そんな光景が有った気がする。ヴァイオリンを弾いているのは私、それを恵美ちゃんやお父さんお母さんが褒めてくれている。コンクールにも出る前、私が身近な人達を歓ばせることに、喜びを感じていた時。さっきの光景は、それの再現だ。
 私はそれに、嫉妬、していた。自覚したらもう、止まらない。

「りえちゃん、何か、ある?」
 演奏が終わり、ことみ先輩が感想を求めてきた。自分の中にある暗い感情が表に出ないよう抑えて、私は今の演奏から気になったことを言った。
「――」
 自分でも何を言ったのか、覚えていない。ただ、意地悪に、今の先輩では理解出来ないレベルの内容を言った気がする。思考と肉体が切り離され、自動的に肉体が皮肉的な台詞を吐く感覚。
「むむむむ」
 当然、先輩は眉根を寄せる。私はさらに言葉を重ねる。言葉の影に棘を仕込んで。
「今日のりえちゃんは、いじめっこ」
 その言葉に、私は嗤う。制御できない感情が、外に漏れ出してるようだった。私のそんな姿を見て、さらに先輩は眉根を寄せた。
「だったら、りえちゃんが試しに演奏して欲しいの」
 私が? 演奏できないのに? そう考えたけれど、左手の事を先輩が知らないのを思い出した。だったら、ここで見せ付けてもいいかもしれない。そうだ、教えてあげればいいんだ。ここに歩みを止めざるをえなかった人間がいることを。
「貸してください」
 ヴァイオリンを受け取って、私は構えた。ここまでは出来る。そして弦に弓を当てた。

 音が鳴った。ただの音。私が望む音は決して出ない。それでも演奏を続ける。しばらくして、痛みと共に左手が痙攣しだした。指と手首の力が弱まっていくのがわかる。それでもなお私は演奏を続けた。
「……」
 あっけに取られたような、ことみ先輩の表情。構わず弾く。やがて、指先に加える微量な力すらも出なくなって、不快な音が出てくる。痛みの限界で演奏が続けられなくなり、左手を離す。だらんと垂れる左手に従うように、肩と顎で固定されていたヴァイオリンが、ゆっくりと角度を下向けた。落っこちる前に右手で支え、顎を離して完全に右手に持ち替えた。
「え……えっと、あの」
 状況がいまいち理解出来ないのか、ことみ先輩はおろおろしながら、こちらを見ている。キョロキョロと視線の先が左手に移る時もある。
「先輩……」
 肩と肘の力で、左腕を持ち上げる。やや治まったものの、痙攣はまだ続いている。
「私、左手が使えないんです」
 私の言葉に、先輩がぴたりと止まる。
「昔、交通事故で左手を怪我しちゃって。それからずっと握力が人並み以下になってるんです」
「……」
 私の言葉を聞いて、やっと状況が理解できたのか、ことみ先輩の表情は一気に翳りを帯びたように見える。
「あの、私、そんなの知らなくて」
 ことみ先輩の話し方は、その中にある当惑がありありと読み取れて、私の中の善意を呼び起こさせるような気がした。
 はっとして私は別の言葉を継ぎ足そうと、声を出そうとした。けれど、
「ごめんなさいっ」
 先輩はそれだけを告げて、走り去ってしまった。

 一人取り残された私は、事態を理解して、後悔した。
「私、なんてことを……」
 本当は、分かっていたはずなんだ。先輩は一つも悪くないと。だけど止められなかった、許せなかった。
 息苦しさを感じた私は、閉まりきった窓を開け、外の景色を眺めた。どこにもことみ先輩の姿は見えない。まだ校舎の中にいるんだろうか。見上げると、空の中を雲が漂っていた。その光景がじわじわと滲んでいく。だめだ、私が泣くのは卑怯でしかない。泣きたくなるほど傷ついたのは先輩で、そうさせたのは私なのだから。

「悪い、春原に絡まれてたら遅くなっちまった……って、仁科だけなのか?」
 不思議そうな顔をして、岡崎先輩が部屋に入ってきた。置きっ放しのことみ先輩の鞄や、床に放置されたヴァイオリンを見てより一層不思議な顔をした。
「どうしたんだ。いまいち状況が読めないんだが」
「私が……私が先輩を追い出してしまいました」
「はぁ?」
 一層分からん、という顔をした岡崎先輩に、私はこれまでのいきさつを説明した。

「……成る程。で、ことみは逃げ出したと」
「私が追い出したんです。ことみ先輩は悪くないのに……」
 一度落ち着いた心も、先輩のことを考えると揺れ幅が大きくなる。ふむ、と岡崎先輩は何か解ったような返事をする。
「なあ、仁科。ちょっとこれ見てもらえるか」
 深く沈みそうになる私を引き止めるように、先輩が声を掛ける。顔を上げると、備品の入ったダンボールの中にあった、球状の物を取り出して右手で持っていた。
「俺、昔バスケットやってたんだけどな」
 それだけ言って、先輩は球をボールのように構えて、右手を上げようとした。けど、右手は肩と平行の高さまでしか上がらず、そこで球が手から離れる。先輩は再度それをやろうとするが、また地面へと落ちた。
「先輩もひょっとして」
「ああ、怪我して右肩が上がらなくなった。んで、荒れた。一時期は毎日昼から登校してたしな」
 そうか、その時の先輩が、不良と呼ばれる岡崎朋也の正体だったんだ。だけど今は、そんな雰囲気は感じられない。
「でも、ま、俺は変わった。ことみと会って、演劇部室にみんなで集まって、それだけでそこそこ更正できた。ことみっていう教師もいるから、今じゃ大学も考えたりしてるくらいだしな」
 まだ受かる気があんましないんだけどな、と先輩は恥ずかしそうに付け足した。
「今になってわかるよ。荒れてた時の俺は、単に周りを拒絶して前に進んでなかっただけだって。大幅に出遅れたけど、それでも今はそれなりにやってる」
 なんとなく、誰かと似ていると思った。
「お前と、ことみも同じだよ」
「私とことみ先輩も、ですか?」
「ヴァイオリン弾けなくなって、絶望したろ? でも、合唱部として頑張ろうとしてる。ことみも、絶望してた時期があったから」
「本当、ですか?」
「俺が明かしていいのか微妙だけど……あいつ、小さい頃に両親がいなくなって、それからずっと一人だったんだ。ここに集まるまでは」
 衝撃、だった。取り残されていたのは、私一人だけじゃなかったなんて。
「あのっ、それじゃ、私、先輩にとんでもなく失礼なことを!」
「待て、待て。俺はお前が悪いとか、そういうこと言ってるんじゃない。落ち着けって」
「でも、でもっ」
 ぽん、と先輩が手のひらで軽く頭を叩いたのに気付いた。よくことみ先輩にやっていることだ。あふれ出しそうな言葉が止まる。
「って、すまん、またやってしまった」
 直ぐに手を離して、軽く咳払い。
「なあ、仁科。本当は、ことみが憎かったわけじゃないんだろ?」
「え……」
「あの時の俺は、漠然とした怒りと、それとは別の空虚な感じとが、一緒に混ざってるような気分だった。なんとなくで、誰かと嫌って適当な対応してた。それは多分、誰かに対する明確な恨みとかじゃない」
 だからな、と先輩は一拍おいて、さらに続けた。
「きっと、俺達は憎かったんだよ。俺達を置いてきぼりにする世界そのものが」
「私は……」
「でもな、憎み続けてもよくないって、最近になってやっと気付いた」
 けど、私が思考を進める前に、岡崎先輩が更に付け足した。
「『世界は美しい。悲しみと涙に満ちてさえ。瞳を開きなさい。やりたい事をしなさい。なりたい者になりなさい。友達を見つけなさい。焦らずにゆっくりと大人になりなさい』」
 突然、先輩が何かの台詞らしきものを呟く。恥ずかしそうに頬を掻いて一言。
「……ことみの親父さんが、最後の手紙で言った言葉だよ」
 何が言いたいのか、私には良く分からなかった。
 一度家でじっくりと考えてみたらどうだ? と言って、岡崎さんはヴァイオリンと鞄を持って出て行った。ことみ先輩の家にでも行くのかもしれない。
 窓からもう一度外を眺める。しばらくして、ことみ先輩の軌跡を辿るように校門へと向かう岡崎先輩の後ろ姿が見えた。
 
 それを確認してから私は空を見上げた。眼前に広がるのは、流れゆく雲だ。目を閉じて、開く。その間も絶えず雲は動いていた。目を逸らそうとも、意識を遠ざけようとも、決して動きは止まろうとしない。どんな時にも、世界は絶えず動く。悲しみの中においても、誰かが誰かを傷つけたとしても。
 もし、誰かが死んでしまったなら、その時世界は残された人の為に歩みを止めるべきなんだ。不幸が起きたなら、それから立ち直るまでの間、やさしく見守り、決して置いてきぼりにさせない。そんな世界を私は望んでいた。だけど、そんなことは絶対に起こらない。ヴァイオリンを失って自失していた頃でさえも、時間は進んでいた。意味があって、この学校を選んだ訳じゃない。気が付けば時はせまり、選択の余地なんて与えられなくなっていた。

 ああ、そうだ。私は世界を憎んでいた。そして今も。
 だけど、世界は決して不平等には働かないことも気付いた。私の時も、岡崎先輩の時も、そしてことみ先輩の時でさえも、残酷に時は進んでいった。不平等で、卑怯な真似をしたのは私だ。自分だけが不幸を背負っていると勘違いして、ことみ先輩を傷つけた。それは許されないことだ。ひょっとしたら私は、こうやって人の歩みを止めてしまうのかもしれない。よくよく考えれば、あの時歩みを止めてしまったのは、私だけじゃない。お父さんもお母さんも、そして恵美ちゃんも私のせいで苦しんで、立ち止まったはずだ。なのに私は、またしても人を傷つける。


 家に帰って、私はハードケースを取り出した。私が向き合えなかった過去の象徴。亡骸、幽霊、色んな言葉はある。私の手で葬った、自らが閉ざした心の一部。私が命を吹き込んだこれは、事故だけでなく私自身が歩みを止めさせてしまったものでもあったのかもしれない。
 私は自問する。私がその手で、共に歩むはずの生涯を終えさせてしまったもの。時と共に風化してしまった思い出たち。全てが拒絶するようなものだった? 僅かに向き合えるようになった今、その答えは少しだけ見えてくる、ような気がした。


 どんな時でも、時間は構わず進む。ずっと考え続けて、当たり前になったその事実。予定通り、夜から朝へと空は色を変えていった。空が明らむにつれて、より現実的な問題――どうやって先輩に謝るか――に焦点が移動していくのが、可笑しくて泣きたくなった。結局、その回答は未だ自分の中に無い。授業が進み、放課後の時間がどんどん近づいてくる。何も言葉は浮かんでこない。気が付いたら、授業は全て終わってしまった。

 今日はちょっと遅れるかも、と恵美ちゃんに伝言して私は演劇部室へと向かった。足取りは重い。どう言えばいいのかわからない。けれど、逃げてはいけない。
 そして、教室の前に立った。中に居たのは、岡崎先輩とことみ先輩の二人だけ。私の姿を認めた岡崎先輩は、最後に軽く、ぽんっとことみ先輩の頭を撫でると、そのまま反対側のドアで教室を出てしまった。目で追っかけたけれど、後姿のまま、軽く手を振られるだけで消えていってしまった。
「りえちゃん」
 教室からの呼び声。振り向いて、中に入る。眉をハの字にして、せわしなく口と手を動かす先輩の姿が見えた。
「あのね、えっと」
 未だに、私の中に謝罪の言葉は浮かんでこない。何を言えばいいんだろうと思案に暮れて、
「ごめんなさい、りえちゃん」
 私の戸惑いを余所に、先輩は謝罪を口にした。私の中で何かが決壊した。
「私、りえちゃんの……こと知らなくて、だから傷つけちゃって、ごめんなさ――」

「ごめんなさいっ!!」
 涙が流れるのも厭わずに私は言葉を続ける。
「私こそ、先輩の事情も知らずにっ! 私、私」
「りえちゃん……」
 下げた頭の向こうで、先輩が困惑しているのが分かる。だけど止まれない。悪い事をしたんだから、気持ちの通りに謝る。それだけのこと。
「なのに、先輩のこと……傷つけて、私だけが辛いわけじゃないのにっ」
 言葉を積み重ねる。けれど、そんなことで私が許されることなんてない。私は世界を恨んで置きながら、同じような真似をする人間だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!」
 知っている。ことみ先輩は、私がこんなまねをするのを、喜ぶような人ではない。ひょっとしたら、私を見てより心を痛めるかもしれない。だけど、こうする以外の手が私には浮かばなかった。なにをすればよかったのだろう? わからない。だからひたすらに謝るしか、私にはなかった。


 そっと、頭を撫でる柔らかい手の感触がした。

 顔を上げると、伺うような、それでいて子供っぽい目で先輩が見ている。私は、少しだけ驚いて、言葉が止まってしまう。そうしている間も、ことみ先輩が、迷っているような表情で、私の頭を撫でていた。
「いい子、いい子……?」 
 その仕草が、なんだかおかしくて。だから自然と笑みがこぼれてしまった。
 私が笑うのを見て、なんだかわからない、という調子ではてな顔をする先輩。だけど、釣られたのか、次第に先輩の顔にも笑みが浮かんでくる。それから二人、笑いながら見つめあう。

 ああ、こんな風に手を差し伸べられるのなら、この世界は本当に美しいのかもしれない。
 そう考えながら、私は再び先輩と笑い合った。



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