第一章

 彼女を初めて見かけたのは高校の三年生に進級して数日が経った、なんでもない平日の昼休み。
 いつものように学食で昼を済ませ、ようやく新しい同級生の顔と名前が一致し始めた昼過ぎの教室に一歩足を踏み入れた瞬間だった。
 これまでなぜか無人だった教室の窓際の座席。彼女はひとり静かに座っていた。
 一目惚れだった。ビビッときた。なんかもう、一発で参った。
 まるで聖母のような後光を持つ彼女(のようにこのときの僕には見えた)。マンガだったらバックに色とりどりの花が咲いていただろう。それほどまでに衝撃の出会いだった。
 恋は何時だって唐突だ。
 そんなフレーズを昨日見たドラマの中で誰かが言っていた。アホらしい。僕はテレビを見ながら鼻で笑ったが、もう笑えない。本当にこんなに唐突にやってくるものだなんて。こういうのを運命の出会いっていうのだろうか。うん。きっとそうだ。そうであるに違いない。
「なあ」
「ん?」
 暴走する頭を抑えて、僕は教室にいた友人の山田を捕まえて聞いた。
「あの子、誰だっけ?」
 窓際に座る彼女に視線を向けつつ訊ねた。極力平然を装って。にしては質問がストレートだっただろうか。ええい、構うもんか。
「んー。知らないなあ。あんな子、学校にいたっけ」
 山田が腕を組みながら答える。
「俺知ってるよ」そう言って別の友人が話に割り込んできた。「古河さんだろ」
 古河。下の名前は何というのだろう。
「お前、一年か二年のとき同じクラスだったのか?」
 自分の知らない彼女を知っている目の前の友人に微かにジェラシーを感じつつ僕が尋ねると、友人は首を横に振った。
「んーん。なんか先輩に聞いた話によるとな、あのひと一年留年したらしいぜ」
「留年っ?」
 組んだ腕を解いて、山田が大袈裟に驚いた。
「バカ、声が出けーよ」
 僕は慌てて山田の頭を叩く。
「あ、悪い……」
 山田はバツが悪そうに俯いた。僕は彼女―――古河の方へと目をやった。僕たちの話が聞こえたのか、聞こえなかったのか。それは分からないが、彼女はただ椅子に座り、その顔は黒板の方へと一直線に向けられていた。それ以外は何も見えていないかのように。
 不思議と何も考えず、彼女の方へと自然に足が一歩動いた。
 それと同時に教室の前の扉がガラリと開き、担任が顔を見せた。周りが慌しく自分の席へと急ぐ。名残惜しさを感じつつ、僕も急いで席に着いた。
 ふう、と溜め息をひとつ吐く。
 僕は今彼女になんて声をかけるつもりだったのだろう。
 彼女の席は窓際の三列目。真ん中の一番後ろの僕の席からは、彼女の後姿がよく見えた。
 さっきの友人の言葉を思い出す。
 留年。
 実はというと、僕もちょっと驚いた。1コ上かあ。なるほど、どうりで今まで顔を見たことがなかったわけだ。そんなに成績が悪かったのだろうか。そんなふうには見えないけどな、なんて勝手なことを考えてみたりした。
 何か事情でもあるのだろうか……?



 古河渚と初めて話す機会が出来たのはその数日後。
 ここ数日間の彼女を見る限り、特に頭が悪いというわけではないらしい。授業中に当てられた問題もスラスラと解けていた。留年の理由は別のところにあるようだ。病気による長期間の欠席か、もしくは別の事情か。まあ、そんなことはもうどうでもよかった。留年してくれたおかげで彼女と出会えたのだから。なんてことを思ったら失礼だろうか。ともかく。
 古河渚とバッタリ出くわしたのは放課後の部活動の時間帯。教室に忘れ物をした僕は、体育館から教室へと向かう途中、廊下の向こうから歩いてくる彼女の姿を見つけた。
 うそだろ。こんなところで!
 体に緊張が走った。もしかしたら動きがぎこちなくなっていたかもしれない。
 声をかけるべきか。でもなんて?
 そもそも、向こうが僕のことを知っているかどうかがまず怪しい。教室での彼女はひとりでいることがほとんどだった。女子ですら一言二言、最低限の会話を交わすだけだ。男子に至っては、誰かと喋っているところを見たことすらない。同じクラスなのだから当然面識はあることになるのだが、果たして僕のことを覚えてくれているのだろうか。下手に話しかけるのは逆効果か?
 結局、僕たちは無言のまま擦れ違った。ああ、僕って……。根性ねーな……。
 が、互いに通り過ぎる瞬間、彼女は小さく頭を下げた。
 僕は慌てて振り返った。
「古河さん」
 気がついたら彼女の名前を呼んでいた。
「え?」
 彼女の方も振り返る。
 初めて目が合った。僕は慌てて口を動かした。
「え、えーと。これから部活?」
「あ、はいっ。……えっと」
 古河は困ったように顔を俯けた。ああ、やっぱり覚えられていなかったのか。予想はしていたけどショックだ。結構へこむ……。
「あ、いきなりゴメン。俺、同じクラスの……」
「知ってますよ。木村さんですよね」
 そう言って古河は小さく微笑んだ。
 あ―――。
 アホらしいが、なんか感動した。僕のこと、覚えていてくれたんだ。
「木村さんも部活ですか」
 微笑を残したまま、彼女は言う。
「あ、ああ。俺、バスケ部なんだ。古河さんは?」
「えっと、演劇部です。部員は少ないですけど」
「へえ」
 演劇部なんてこの学校にあったのか。知らなかった。
「頑張れよ、演劇」
「はいっ。木村さんもバスケット頑張ってください」
「もちろん。じゃあ」
「はい。それじゃあ」
 僕は右手を軽く上げ、古河はペコリと頭を下げて別れた。
 笑った顔は初めて見た。それはとてもとても優しい笑顔だった。



 それから僕と古河は突然親しくなった。なんてことは全くと言っていい程なく、残念ながら別段これといって大きな変化は望めなかった。せいぜい朝会ったときに挨拶を交わすぐらいだ。
「おはよう」
「おはようございます」
 それだけ。
 くそっ。
 教室では古河とはなんとなく話し辛かった。窓際に座る彼女の周りには、見えないバリアーがはってあるように思えた。人を寄せつけない、透明な膜。いや、違う。バリアーをはっているのは彼女ではなくその周りだ。もしくは「留年」というただ言葉。どちらにしろ、僕がそのバリアーを突き破ることはしばらくなかった。そもそも共通の話題が何一つない。我ながら情けないなと思う。
 そうかと思えば、昼休みはいつも不在。放課後もいつも即行で教室を抜け出していた。
 確か部活は演劇部と言っていたはずだ。
 演劇部、か。昔、活動していたというのは聞いたことがあるが、最近はその姿を見ていない。去年の誕生祭でも演劇の公演は行われなかったような気がする。
 ちょっと興味が湧いたので少しだけ調べてみた。その結果は思いもよらないものだった。
「演劇部は廃部」
「はあ」
 職員室での教師の答えに僕は呆けた。間抜けな返事をして職員室を後にする。
 わけがわからない。
 が、おかげで話題ができた。
 明くる日。僕はクラスの中で初めてバリアーの膜を破った。
「古河さん」
「はい?」
 バリアーはあっけなく破れた。
 同時に好奇の視線がクラス中から注がれる、気がした。気のせいではないだろう。耳を澄ませばいたるところからヒソヒソ話が聞こえてきそうだ。この学校の生徒はどうも精神年齢が低いヤツが多すぎる気がする。まあ、そんなこと今はどうでもいい。僕は初めから本題に入った。
「この前、演劇部だって言ってたよね」
「はい」
「でも昨日、演劇部は去年廃部になったって聞いたんだ。それで、その、なんか気になって」
 そこまで僕が言うと、古河は少し俯き、表情が暗くなった。これもやはり初めて見る顔だった。
 やばい。いきなり本題から入るのはまずかったか。やはりここはもっと身近な天気の話から順を追って話を進めるべきだっただろうか。
 数秒の沈黙の間にそんな心配をしていたわけだったが、やがて彼女はちょっと意外なほど自然と口を開き、自分の周りのことを話し始めた。
 確かに演劇部は一年前に廃部になったこと。
 それでも演劇がやりたくて、今ひとりで部活を再開させようと頑張っていること。
 それを別のクラスの友達が手伝ってくれているということ。
 それでも部員が足りず、あと2人集めないと部活として成立しないこと。
 顧問の先生が決まらないこと。などなど。
 僕は終始「へえ」と頷いていた。
 なんかちょっと意外だった。もっとおとなしい女の子だと思っていたからだ。ひとりで部活をおこそうなんて、なかなかできるものではない。古河は僕や教室のみんなが思っているよりもずっと活発な女の子なんじゃないだろうか。だけどそれは彼女の魅力をより一層引き上げた。
 古河の話が一通り終わり、最後に「わたしなんかが部長じゃ誰も入りたがらないですよね」と舌をちょこんと出した。
「そんなことないよ」
 マジでそんなことはないだろう。逆に古河のこの性格ならばとてもいい部長になれるのではないだろうか。演劇に興味を持っているやつなら、入ってみようと思うひともきっとたくさん出てくる。
 それをそのまま言葉で伝えると、古河は「別のクラスの友達にも似たようなことを言われました」と笑った。
「ありがとうございます。でも……」
 古河が何かを言いかけたところで、教室の扉から担任が姿を表した。聞き耳を立てていた観がある周りの生徒たちがドタバタと慌てて席へと着く。
 タイミングの悪いところで。思わず舌打ちをしたが、僕だけ席に着かないわけにもいかない。
「頑張れよ。応援してる」
 僕もそれだけ伝えて席に急いだ。古河が笑顔を返事にしてくれたのが見えた。
 手伝うよ、とは言えなかった。できればそう言いたかったが、僕のバスケ部だって新入部員やら新レギュラーやらなんやらで大変な時期だ。高校最後の試合も近い。それに何だかんだ言って僕ももう受験生だ。ここで演劇部の手伝いをするとなると、それら全てが中途半端になってしまうような気がした。
 それでもできるだけのことはしてやりたい。それは古河の気を惹こうとか点数アップとかそういうことではなく、ただ単に力になれたらなあという気持ちだった。
 古河を手伝っているっていう別のクラスの友達もきっとそんな気持ちなのかな。
 窓際に座る、いつもと同じ彼女の背中を見ながら、そんなことをぼんやりと思った。



 それから僕と古河は突然親しくなった。なんてことはやはり全くと言っていい程なく、残念ながらこれといって大きな変化は望めなかった。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日はいい天気だな」
「そうですね」
 それだけ。
 くそっ。
 相変わらず教室の中では古河の周りにバリアーが張られ、たまに演劇部のことを訊いても状況が芳しくないらしく、会話はそう長くは続かなかった。
 そんなふうにいつまでも進展がないまま、時間だけが虚しく流れた。
 再び古河とまともに話ができる機会が巡ってきたのは4月の終わり。そのシチュエーションはあまりにも意外なものだった。




第二章

 それはなんてことはない平日の放課後。部活の始まる少し前に同じバスケ部の山田と一緒に体育館で体を動かしていると、入り口のほうで部員の群れができていた。練習前のこの時間にあれだけ人が集まるのは珍しい。なんだあれ?
「なあ」と僕は隣の山田に声をかけた。「なんかあったのか?」
「ん? ああ」山田はボールを止めて頷いた。「道場破りだろ」
 道場破り? ますます分からない。
「なんだそれ」
「なんか三年生の誰かが3on3の勝負挑んできたらしいよ、俺たちバスケ部に。理由は俺も知らないけど。でもバカだよなあ。シロートが俺たちに勝てるわけがないのに」
「はあ」
 僕は気の抜けた返事をした。
 確かにバカだ。勝てるわけがないし、勝負を挑む意味もわからない。今時とんでもないバカがいたもんだ。
 しかしそれに負けずに劣らず、そんな勝負を受ける僕たちも相当なバカなんじゃないだろうか。試合前の大事な時期だというのに。恐らくは遊び好きのキャプテンの小西辺りが面白がって承諾したのだろう。やれやれ。
 どれ、そんなバカどもの顔を拝んでやろう。
 道場破りの3人はすでにコートに出ていた。その3人、いや、正確にはスコアボードの横にいる付添い人らしき女の子を合わせて4人だ。意外なことにその4人はいずれも見知った顔だった。
 1人は春原陽平。この学校ではちょっと名の知れた奇跡的なアホだ。二年のとき同じクラスだったが、春原は学校を休みまくっていたためにほとんど話す機会はなかった。その金髪は遠くからでも嫌でも目に付く。なんで退学にならないんだろう。
 2人目が坂上智代。確か二年生だったはずだ。この春に生徒会長に立候補したことでその名前を知ったのだが、いたるところに妙な伝説を残しているらしい。この子もやるのだろうか。ていうかスカートだし。お色気作戦か? なんか変なメンツだな。
 3人目が岡崎朋也。こいつの顔はよく知っていた。中学のバスケの試合で一度だけ当たったことがある。ポジションは僕と同じポイントガード。
 正直すごいと思った。40分間の試合の最中、一度も抜くことが出来なかった。ドリブルも、パスも、シュートも、全てが僕を遥かに上まっていた。
 完敗―――。そんな言葉がよく似合う試合だったなと、しみじみ思い返してみる。当時はちょっとしたトラウマにもなったものだ。そしてそれが僕にとっての中学最後に試合になった。
 その岡崎朋也が同じ高校に入学したというのももちろん知っていた。そして右肩の事故のことも。
 最後にスコアボードの横にいる付き添いの4人目が……、古河渚?
「はあ……」
 思わず大きな溜め息をついた。なんでここにいるんだよ。ますますもっておかしなメンツだなあ。
 僕はスコアボードの横にいる古河へと近づき、緊張した顔の彼女に「よお」と声をかけた。
「木村さん?」古河は驚いたように僕の顔を見上げた。「なんでここにいるんですか?」
 それはこっちの台詞だ。苦笑しながら僕は答えた。
「俺、バスケ部だから」
「あ、そういえば……」
 バツが悪そうに俯く。
「木村さんと戦うことになるなんて」
「おいおい。戦うとは物騒だな」
 僕は笑った。
「そういえば演劇部はどうなった? なんか進展あったか?」
「いえ、演劇部の方はちょっとお休みしてるんです」
「お休み?」
「はい。今はもっと大切なことがあるから」
「ふーん」
 その大切なことというのがこの3on3なのだろうか。だとしたら随分とチャチというかなんというか。
 コートへと目をやると、道場破りの3人とバスケ部の3人が向き合っていた。どれも補欠の二年生。まあ、当然といえば当然か。
「木村さんは出ないんですか」
 古河がコート上の3人を見ながら言った。
「ピンチになったら出るよ」
「余裕なんですね」
 古河が微笑む。
「古河には悪いけどさ、」僕はちょっと迷ったが、続けた。「あの3人に勝ち目はないぞ。ウチの高校、なんだかんだ言って地元じゃ強豪って呼ばれてたりもするからな。自慢するわけじゃないけど、たぶんあの色物3人とウチとじゃあ勝負にもならないと思うぞ。うん、絶対無理」
 そこまでハッキリと言い切って、自分に対する妙な違和感に気がついた。いつもよりちょっとキツ目の口調でベラベラとよく喋る自分。
 もしかしたら僕は少し苛立っているのかもしれない。何に? それはもちろん岡崎朋也にだ。アイツの顔を一目見た瞬間からムラムラっと何かが来た。中学のときの嫌な思い出が甦り、どす黒い感情が頭の中に広がっていく。
 夢にまで出た遠くなる背中。消し去りたいトラウマ。
 僕は慌ててそれを振り払った。やめろ、昔の話だ。今さらそんなことを思い出して何になる。
 だけど同時にこうも思った。もう一度だけ、岡崎と勝負してみたいと。今がそのチャンスなんじゃないだろうかと。
 しかしそんな苛立ちや期待を別にしたとしても、岡崎たちに勝ち目はないだろう。
 いくら岡崎が中学のときにエースプレイヤーとして名を馳せていたとしても、ブランクは3年。しかも肩の怪我。さらにメンバーはアホの春原にスカートの女の子だ。色物メンバーとしては上出来だが、おおよそバスケをやるメンツではない。古河たちが何を考えてこんな勝負を挑んだのかは知らないが、勝てるはずがない。ハッキリとそう思った。
「……それでも、きっと勝ちます」
 隣で古河がポツリと言った。どこか一点を見据えた、真剣な顔で。これも初めて見た顔だ。思わずドキッとした。
「朋也くんなら、きっと」
 朋也くん……?
 同時に試合開始の笛が鳴った。コートの中心でバスケットボールが宙を舞う。ジャンプボール。
「みんな頑張ってください!」
 古河の一際大きな声が体育館に響いた。
 だけどなんで3on3でジャンプボールなんだ? しかもオールコートでやってるし(3on3は通常ハーフコートで行うのだ)。やっぱり遊びでやっているだけなのだろうか。それにしてはすぐ隣にいる古河の瞳も声も真剣そのものだった。
 先にボールを取ったのは道場破りチーム。春原からパスを受け、岡崎がボールを手にした。
 どれ、お手並み拝見。
 短いドリブル。悪くない動きだ。なかなか上手い。マークが2人付いたところでゴール前へとパスを出す。少し慌てたような感じを受けた。案の定、パスミスだ。高すぎる。やっぱりブランク3年は大きいということなのだろうか。
 が、そうではなかった。コート上の1人が一際長い髪をなびかせてブワっと宙に飛んだ。坂上だった。空中でボールを掴む。そのままゴールへ。ガツンといい音が響き、ゴールネットを揺らした。そして華麗に着地。
 ………。
 はあ!!?
 一瞬の静寂の後、驚愕交じりの大歓声が体育館を支配した。バスケ部員はどいつもこいつも口をあんぐりと開けたまま、閉じるのを忘れている。もちろん僕も含めて。
 あ、アリウープ!?
 初めて見た……。高校生で出来るヤツなんていたのか? しかも女の子が? しかもスカートで?
 ま、マグレだろうか。しかしまぐれでアリウープを決めるのは普通に考えて不可能だろう。
 信じられないものを見てまだ呆然としているバスケ部チームの隙を突いて、岡崎がパスカット。すぐさまさっきとほぼ同じ高さにボールを放った。
 再び飛ぶ坂上。バスケ部チームはブロックしようにも、高すぎてとてもじゃないが届かない。彼女に邪魔者は皆無だ。
 開かれたゴールに豪快にボールをねじ込む。再度大きな歓声が沸いた。
 一度目がマグレなら二度目はなんだ? まぐれのまぐれか?
 道場破りチームの快進撃はさらに続いた。バスケ部チームは必死に抵抗するが、点差はひらくばかりだった。
 いつの間にか体育館はギャラリーで埋め尽くされていた。坂上がシュートを決めると、四方八方から黄色い声援が湧く。
「智代さまサイコー!!」
 確かにサイコーだ。すげえよ、すごすぎる。あんなの二年の補欠に止めろっていうのが無理だ。
だけど周りは坂上の派手さに目が眩んで、肝心なところを見ていない気がする。敵からボールを奪うのも、ボール運びも、的確なパスを出すのも、全て岡崎が中心となっているということを。岡崎を中心に坂上と春原が思う存分動いている。それは三年前と同じ、追いつきたくても追いつけなかった憧れのポイントガードの姿そのものだった。
 20点の差がついたところで、キャプテン小西が我慢を切らしたように声を上げた。
「交代だ!!」
 その顔には明らかな焦りの色が浮かんでいた。そりゃまあ、気持ちは分かる。
「木村と山田っ! 来い!」
「俺かよ」
 コートの向こう側では、山田が慌てたように小西のもとへ向かっていた。
 やれやれと僕は溜め息を吐いた。だけど口元は微かに笑っていた。実はさっきからこれを待っていたりする。
「行ってくるよ」
 僕は隣の古河に声をかけた。
「余裕じゃなかったんですか」
 全く悪気のない顔で古河は言った。
「バーカ。これからが本場だ」
 僕はそう笑顔で返してコートに向かった。
 小西のもとに僕と山田が集まったところで、僕は他言無用で言った。
「俺は岡崎につく。小西、お前は坂上に、山田は春原につけ」
「なんでお前が指示するんだよ」
 小西が顔をしかめる。
「負けたくないんだろ、遊び人キャプテン」
 僕がニンマリ笑いかけると、小西は「うっ」と視線を逸らした。
「自信満々で勝負を受けておきながら、あんな道場破りみたいな奴らに負けたら強豪の名が泣くもんなあ」
「分かったよっ!」
 小西は顔を赤くして言った。こいつも扱いやすいもんだ。
「いいか、ふざけた3on3だけどそんなの関係ない。マンツーマンでいくぞ。岡崎は俺が止める。あんな高いパスはもう絶対出させない。坂上は確かにすごいけど、小西の方が身長はずっと高いから平面の勝負だったらお前に分があるはずだ。山田は春原にボールが渡ったらプレッシャーかけろ。見た感じアイツが穴だから、たぶん簡単にボール奪えるぞ」
 小西と山田が頷くのを確認して、僕は最後に気合を入れた。
「よっしゃ、行くぞ!」
 ボールは僕たちの方からゲームが再開した。始まってすぐにボールが僕に回ってきた。ディフェンスは岡崎朋也。トラウマを消し去るチャンスは早くも巡ってきた。
 一対一。
 岡崎は腰を低く落とす。ブランクを感じさせない、いいディフェンスだった。三年前と同じ姿だ。
 チラリと中学のときの試合の光景が頭の中に浮かんだ。岡崎は僕のことを覚えているだろうか。三年前のことだ。もう記憶にないだろう。それどころか、岡崎にとってバスケットは嫌な思い出の塊のはずだ。自ら中学のときの輝かしい記憶を封印してしまっていてもおかしくはない。
 ん? 待てよ。ならなんで岡崎は今ここにいるのだろう。ともすればボールなんて触りたくもないはずなのに。
 ほんの一瞬、チラリと周りを見た。必死に動く春原と坂上が見えた。スコアボードの横で、いつになく真剣な顔をした古河が見えた。
 ああ、そうか。なんとなく分かった。
 これはふざけた3on3なんかじゃなかった。
 色んな意味や、たくさんの想いが詰まった試合だった。
 ここにいる3人は、みんなお前のために戦っているんだな。さっき古河が言っていた「もっと大事なこと」の意味がやっと分かった。
 僕はうっすらと笑みを浮かべた。なんだ、思っていたより幸せものじゃないかよ、お前。感謝しろよ、こいつらに。
 一瞬、首でフェイクを入れた。岡崎が左にピクリと反応する。お前は僕のことを覚えていないだろう。だけど僕は覚えてる。あの試合のお前の動きも、癖も、全部―――。追いつきたくても追いつけなかった憧れのポイントガードの背中。だけど今は違う。僕はすかさず右から抜きに入った。
「あっ」
 次の瞬間には岡崎の声は僕の背中から聞こえた。
 よっしゃあ!!
 本当ならその場でガッツポーズでもしてやりたかった。が、その気持ちを抑えたまま僕はレイアップでボールを放った。頭上でネットを揺らす音が聞こえ、コートの外のバスケ部員からは歓声が上がった。
 ゴールの下で僕は岡崎に顔を向けた。
 向こうの視線もこっちに向けられていた。
「やっぱり中学のときのようにはいかないか」
 ―――え?
 額の汗を拭い、岡崎はそう言った。
 中学のときのようにはいかないか―――?
「覚えてたのか?」
 なんだかドキドキしながら僕は聞いていた。
「いや、いま思い出した」
 岡崎はそう笑いかけた。
 嬉しかった。本当に嬉しかった。このアホな勝負を受けてたった小西に感謝のひとつでもしてやろうという気にもなった。僕も笑みで答えた。
「今度は俺がお前を止める番だな」
「止めれるもんなら止めてみろよ」
「ふふん。望むところだ」
 今日ほど思い通りに体が動いてくれる日はなかった。ときたま、本当にときたまあるこの感じ。僕たちの中で何かがカチリと噛み合った。それはまるで1000ピースのジグソーパズルの最後の1ピースをはめ込んだときのような、そんな感じ。体が軽い。自然と声が出る。小西と山田が自分の手足のように自在に動いてくれた。なんて楽しいのだろう。こんな時間が永遠と続いてくれたらいいのに、なんて思ってみたりもした。
 一旦波に乗ると、僕たちバスケ部チームは強かった。坂上のアリウープを封じ、バテてますます穴が広がった春原からボールを奪っていく。点差は徐々に縮まっていき、終了一分前にはついに僕たちは逆転した。
 一際大きな歓声が体育館を包む。
 しかしまだ勝負がついたわけではない。残り一分で相手ボール。恐らく相手は時間を一杯まで使って攻めてくるだろう。たぶんこれがラストプレイ。決まれば向こうの勝ち、止めればこっちの勝ちだ。
「最後は坂上で来る!」
 小西はそう推測した。確かにそれはいい読みだ。いつもなら僕もそう考えていただろう。が、それでも僕は「最後は岡崎」説を主張した。
「でも岡崎は今日一本もシュート打ってないよ」
 そう心配する山田だったが、僕は自信たっぷりに首を横に振った。
「アイツは絶対最後に一本打ってくる」
 確信に近いものがあった。こういうのを第六感というのだろうか。この試合の中で、僕たちの五感は極限にまで研ぎ澄まされている気がする。そうでなければ考えられないようなすごいプレイが今日は何度もできた。インターハイ予選を直前に控え、これ以上ないぐらいの最高の仕上がり方だった。だとしたら第六感までもが高まっていたとしても、それは何ら不思議なことではないと思った。
 そんな僕の気持ちが伝わったのか、小西と山田はそれ以上何も言わずに頷いてくれた。仲間の出来上がり方も最高だ。今の僕たちならどこまでだって行ける。そんな気すらした。
 チラリとコートの外を見た。古河は両手を編んで、ギュッと目をつぶっていた。
 古河には悪いけど、手加減する気にはこれっぽっちもなれなかった。かといって、かっこいい姿を見せようとかそういう気持ちもなかった。もしかしたら僕はもうとっくに気がついていたのかもしれない。この試合で、彼女の視線の先に僕の姿は存在しないということに。
 笛が鳴り、最後のプレイが始まった。ボールは道場破りチーム。
 最初にボールを手にしたのは坂上だった。が、それは一瞬。すれ違いざまに岡崎がボールを受け取った。その場で数回ドリブルする。すぐさまゴール下へと切り込んだ。
 来た、読み通りだ。外から見れば虚を突かれたように見えるだろうか。だけど甘いぜ。岡崎がレイアップのモーションに入る。同時に僕は飛び上がった。シュートコースは完全に塞いだ。入れれるものなら入れてみろ!
 しかし、岡崎の手にしたボールは前へは飛んでこなかった。レイアップの体勢から空中でバックパス。上手い。そう思ったときにはボールは春原の手に渡っていた。
「山田!」
 僕が叫ぶ前に山田は春原に覆いかぶさる勢いで走っていた。
 にやりと笑う春原の口元が見えた。まずいと思った瞬間、春原はボールを力一杯床に叩きつけていた。
 なんだってっ!?
 ダムと大きな音がして、ボールは高く宙に舞った。
 春原の予測不能な行動に僕たちは一瞬唖然とした。誰もがボールを見上げていた。このとき誰よりも早く動いたのは坂上だった。例の大ジャンプで飛び上がり、宙に浮くボールを両手でキャッチする。
 その瞬間、僕は岡崎の姿を見失っていた。春原の行動に呆然としたコンマ数秒。その一瞬を岡崎が見逃すはずがなかったのだ。見つけたときには全てのマークを振り払い、フリースローのライン際に立っていた。一直線で坂上からのパスが伝わる。山田も小西もその位置からではブロックは間に合わない。完全にフリー。
「朋也くん、シュートです!」
 そんな声がどこからか聞こえてきた。
 岡崎の右腕がほとんど上がらないのは知っていた。この試合の今までのプレイを見てもそれは明らかだった。だけど岡崎はシュートを打った。上がらない右腕で。体勢を崩しながらも。岡崎の手から放たれたボールは、しかしきれいな弧を描いた。
 静まり返る体育館。
 ビデオのスローモーションのようにボールの軌道がはっきりと目に映った。
 パスっという、ゴールネットを揺らす音が一際大きく耳に響いた。
 わあっと割れんばかりの大歓声が体育館に響く。勝者への祝福と喝采の拍手とともに。それとほぼ同時に試合終了の笛が鳴った。
 ネットをくぐって床でバウンドするボールが妙に目に付いた。
 ゲームセット―――。
 呆然と立ち尽くす僕たちの前で、道場破りの4人は互いに精一杯喜びを分かち合っていた。
 ふう、と僕は大きな溜め息をひとつ吐いた。
 悔しくないと言えば嘘になる。それでも本気で喜ぶ4人の顔を見ていると、そんな気持ちもどこかへと消えていく気がした。山田と小西も溜め息を吐きながらも、その顔は清々しく、うっすらと笑みさえ浮かんでいた。
 そんな様々な思いをぶち壊すかのごとく、聞きなれた怒声が体育館の中に無遠慮に響いた。
「げっ」
 コートをぐるりと囲っていたギャラリーが悲鳴を上げて散っていく。その群集をなぎ倒すかのように数人の教師が僕たちのほうへと向かってきていた。その中にはバスケ部の鬼顧問、大上の姿まであった。やばい、下手したら殺される。
 岡崎たちは体育館の裏口へと向かって走っていった。
 僕たちも逃げようか。そんなことを思ったが、顧問の前では僕たちバスケ部員は逃げる場所も隠れる場所もないことに気づき、しょうがなくその場に留まった。どちらにしたってもう顔はバッチリ見られた。お咎めは避けられないだろう。
 逃げる岡崎と古河の背中をぼんやりと眺めていると、不意に古河が転んだ。しかもなぜか弁当の中身をぶちまけて。おいおい。
 僕は古河のもとに駆け寄ろうとした。
 その足がピタリと止まる。
 僕が駆け寄るよりも遥かに早く、岡崎が古河へと手を差し出した。古河はなんの躊躇もなく差し出された手を掴んで立ち上がった。ひとことふたことその場で会話を交わし、やがてふたりで床に散乱した弁当の中身を拾い始めた。
 そのときの古河の表情を見て、うっすらとは気がついていた何かが段々と確信に形を変えていった。僕の頭の中でその何かが完全に形を変えきった頃、別の何かがプッツリと終わった。そのあまりにものあっけなさに僕は途方に暮れた。わけのわからない感情が心の奥底から湧き上がってくるようだった。さっきの試合で乱れていた呼吸がさらにひどくなる。不意に鼻の奥がキインと痛くなった。飲んだこともないのにヤケ酒でもしたい気分だ。
 ようやく弁当の中身を拾い終わると、古河は岡崎の肩を借りて体育館の正面口へと向かった。よく見ると古河は片足を少し引きずっていた。
「おい、岡崎!」と僕のすぐ隣で大上が怒声を上げた。
 なんだよ、うるさいな。
「残っていろ」
 いいじゃん。行かせてやれよ。
「こいつが足をケガしたんだ。保健室まで連れていかせてくれ」
 ホラ、こう言ってるんだからさ。
「逃げる口実だろ。似合わないことをするな」
「でも本当にケガしたんだ」
「なら付き添いはお前じゃなくてもいいだろ」
「俺じゃなきゃ嫌だ」
「わがまま言うな」
 別にわがままじゃないだろ。
「ホラ、小西。お前が代わりに付き添ってやれ」
 止めとけよ、恥かくぞ。
 本気で言ってやろうかと思ったが、その前に小西はふたりのもとに駆け寄っていた。
 しかし古河は離れない。
「あの、わたしも朋也くんがいいです」
 ……ほら。
「え? どうして」
 聞くな、バカ。
「俺、コイツの彼氏っすから」
 やけに静かだった。小西も、大上も、他のバスケ部員も、何も分かっていない教師陣も、すべてが数秒時を止めていた。体育館の外から誰かの笑い声が聞こえてきた。とてもとても楽しそうに。くそ。誰だよ、こんなときに。急に目頭が熱くなった。
「行こう、渚」
「はい」
 完敗―――。あのときと同じ、そんな言葉がよく似合う。
 なんだか負けっぱなしだな、お前には。
 思った瞬間に目から溢れ出たものを慌てて右手で拭った。
 出口へと向かうふたりの背中を見ながら、恋の終わりに僕は少しだけ涙を流した。




第三章

 再び古河とまともに話す機会が巡ってきたのはバスケの試合から11ヶ月も経ってからだった。
 試合の一週間後、創立祭で体育館の舞台の上に立つ古河を見つけた。
 彼女を一目見るなり隣の友人が「この学校にあんなかわいい子いたのか!?」と驚愕の声を発した。僕は苦笑して、「さあー」と答えた。ついでに「狙うつもりならやめとけよ。絶対彼氏いるぞ」とも付け加えておいた。「だよなー。あんなかわいいもんなー」友人はひとりで悔しがっていた。僕はなんだかおもしろくなって「くっくっく」と笑いを噛み殺した。それから改めて古河に目をやった。
 その友人ではないが、確かにステージ上の古河はとてもとてもかわいくて、きれいだった。舞台衣装もよく似合う。青白いライトに照らされる彼女の顔はまるでどこかのアイドル女優のようだった。古河を眺めていたらまたちょっと泣けてきそうになったが、それは必死になって押さえ込んだ。
 古河のひとり演劇。何があったのか知らないが、なかなか話が始まらなくてちょっと不安にもなった。なんか泣いているようにも見える。さらに訳の分からないオッサン乱入でますます不安は募ったが、やがて彼女は瞳を閉じ、口を開いた。
 始まった演劇は、正直言うとよく分からなかった。ていうか、なんで最後にだんごの歌なんだろう。もしかすると喜劇だったのか? さっぱり分からない。
 だけどそれより何より僕が思ったのは、ああ、本当に演劇部を復帰させたんだなあっていう喜びとも驚きともとれない、そんな気持ちだった。
 歌が終わり、同時にステージの幕が閉じていく。観客からの拍手を受け、律儀にペコリと頭を下げる古河を見て、僕はやはり少しだけ涙を流した。



 創立祭の次の学校の日、古河は教室へは来なかった。次の日も、その次の日も。担任は毎日「古河は風邪で欠席」とだけ繰り返していた。再び無人になった窓際の古河の席が妙に寂しそうに見えた。
 風の噂で古河の体は生まれつき弱いのだということを聞いた。それで去年も学校にほとんど来られず、そのために一年間留年したのだとも。
「登校拒否じゃねーの」
 クラスのバカな男子が輪になってゲラゲラと笑っていた。
「そうかもなー。アイツいつも教室でひとりでいたしさー」
 他の男子もおもしろがってそれに続く。
 無性に腹が立った。
 よくもそんな頭の悪いことをベラベラと。お前たちが一体古河の何を知っているっていうんだ? 本人がいないところでそんなことして楽しいか?
 僕は拳を握り締めた。殺気を含んだ瞳を馬鹿笑いしている輪へと向ける。一発殴ってやろうか。沸騰した頭は抑制を失い、乱暴に自分の席を立った。
「木村?」
 声をかけたのは山田だった。
 ハッとした。
 思わず拳を解く。
 熱くなっていた頭がサーと冷めていくのが感じられた。
「あ……」
 僕だって古河の何を知っているというのだろう。数回、本当にわずか数回だけ会話を交わしただけ。それだけだ。
 相変わらずゲラゲラ笑うバカのグループへと目をやる。ここで殴ってしまったらアイツらとやっていることと何も変わらない気がした。
 この学校は精神年齢の低いガキが多い。ずっとそう思っていた。だけどそれは違う。僕だってガキだ。好きな子に告白も出来ず、いつも遠くから眺めて、学校に来なくなると不安になり、こんなことで勝手に頭に来る。古河という女の子のこと、何ひとつとして知らないくせに。
「どうしたんだよ。なんか切れてない?」
 心配そうな表情の山田が僕の顔を覗きこむ。
「……なんでもねーよ」
 そうやって首を振るのが精一杯だった。



 それから先も古河は学校へ姿を現さなかった。
 一週間、二週間……。
 一ヶ月、二ヶ月……。
 季節は春から夏へ、夏から秋へ、雪の舞い落ちる冬へと……。
 再び巡ってきた春。
 いつしか僕たちは卒業の日を迎えていた。
 卒業式。その前の待ち時間の教室で、古河はもう一年留年することが決定したらしいというのをやはり風の噂で聞いた。
 まあ、そりゃそうかとは思った。一年の大半を休んでいて、それで卒業できたとしたら、この学校はどうなっているのだということになる。
 だけどもう一度会いたかったな。
 少なくとももう二度と、この学校で会うことはないのだろう。
 体育館で卒業証書を受け取り、そんなことだけを思った。



 受験も終わって後は大学の入学式を待つだけとなった3月の末の昼下がり。僕は偶然にも古河と再会した。
 古河の背中を見つけたのは学校への上り坂。開花予想よりも少し早めに咲いた桜並木の坂の上。満開のソメイヨシノの薄い桃色の花びらたちに囲まれて、校門の前で彼女はひとり佇んでいた。懐かしい、そしてどこか寂しそうなその背中は、一直線に学校の校舎へと向けられていた。
「古河?」
 僕は古河の後から呼びかけた。
 彼女の背中が小さく揺れた。ゆっくりと振り返る。
「あ、……木村さん?」
「ひさしぶり」
 11ヶ月前とほとんど何も変わらない顔の彼女がそこにはいた。春らしい、薄手の水色のワンピース。そういえば私服姿は初めてだ。体のほうは少し痩せたようにも見えるが、顔色はよかった。
「どうしたんですか、こんなところで」
「俺は散歩。古河こそどうしたんだよ、こんな日に」
「わたしも散歩です。とってもいいお天気だから」
 そう言って古河は少しだけ目を細めた。なんとなく寂しそうな笑顔だった。
「体はもう大丈夫なのか?」
「はい。おかげさまでもうすっかり大丈夫です。四月の始業式から登校できそうです。すみませんでした、全然学校行けなくて。本当は皆さんと一緒に卒業したかったんですけど……」
「別に謝る必要ないさ。体悪かったんだろ? しょうがないよ」
「あの」
「ん?」
「ずっと木村さんにお礼が言いたかったんです。ずっと言いそびれちゃってたから……」
「お礼?」
 何の?
「バスケットの試合、わたしたちと勝負してくれてありがとうございました」
 そう言ってペコリと頭を下げる。
「ああ、あの試合?」
 なんかもう随分と懐かしい。あれからもう一年近くのときが経つのか。
「お礼なんて言う必要ないよ。結構おもしろかったし」
「本当は他のバスケ部の人たちにも言わなくちゃいけないんですけど」
「マジでいいって。むしろ感謝してるよ。俺たちにもいい刺激になったんだ、あの試合」
 事実だった。3on3とはいえ、素人軍団に敗れたことでキャプテンの小西はようやくというか何というか本気になった。
「強豪の意地を見せろっ!!」
 部員の気持ちとチームの結束は最高潮にまで高まり、それがうまい具合に大会の初日まで続いてくれた。その結果、なんと僕たちは初のインターハイ出場をもぎ取ったのだ。
 あの試合で変われたのは岡崎だけじゃなかったんだぜ。
 そう言おうかとも思ったけど、あまりにもキザ過ぎるような気もしたので喉の奥に引っ込めた。
 その代わりに別の言葉が頭に浮かんだので口に出した。
「俺も古河に言いたかったことがあるんだけど」
「何ですか?」
 きょとんとした表情で聞き返す。
「実は俺、古河のことが好きだったんだ」
「えっ」
 自分でも驚くほどすんなりと口が動いた。それはこの先の結果がもう分かり切っているからなのか、もしくはこの場の勢いのせいなのか。とにかく、僕は続けた。
「三年に上がってすぐにさ、教室で古河を見つけた瞬間からもう好きになってた。たぶんこういうのを一目惚れっていうのかな。あんまり話せなかったけど、古河のこと、本気で好きだったんだ」
 それは、うん。たぶん今でも……。
 そこまで言って、僕は古河の言葉を待った。
 不意にふたりの間に風が吹いた。無数の桃色の花びらが舞い、古河の顔の表情を隠した。
「ごめんなさい」
 風の向こうから古河の小さな声が聞こえた。
「木村さんの気持ちは嬉しいです。だけどわたし、付き合っているひとがいるんです。だから……」
 古河が口ごもった。
「うん」と僕はすんなり頷いた。「分かった」
 そうだ。全部、分かっていたことだ。こんなことをして一体何になるというのだろう。もうとうに消えかかっていた心の傷を、今さら広げることになんの意味があるのだろう。
「その、ありがとう」
 頭の中の問いに答えを出さぬまま、僕の口は次の言葉を発していた。
「本当は古河が岡崎と付き合ってること、知ってたんだ。だから振られるだろうってこともなんとなく分かってた」
「あ、知ってたんですか……」
 古河が頬を赤く染める。体育館であれだけ見せ付けてくれたら、僕でなくても知っている。
「だったら、どうして?」
「たぶん、」と僕は答えた。「たぶん色んなことに納得したかったんだと思う。古河とのことは、何もかもが中途半端に終わりすぎたから」
 ああ、そうか。僕は自分の中に何らかの形で区切りをつけたかったのかもしれない。
 岡崎たちとのあの試合の後、心の中にポッカリと穴が開いたような感覚にとらわれていた。それを隠すかのように、僕はがむしゃらに部活や受験勉強に取り組んだ。都合のいいことに、その頃は周りもそういうような雰囲気だった。三月になり高校の卒業式を終え、僕は再び何かの焦燥感に悩まされた。穴はまだ開いたままだった。あとひとつ、あとひとつ何かがどうしても足りなかった。そうだ。その何かを埋めるための告白だったんだ。散歩ついでに何となく学校に寄ったのも、そのあとひとつを探すためだったのかもしれない。
「古河はさ、きっと何かを埋められるひとだと思うんだよ」
「埋められるひと?」
 なんですか、それ? と古河は首を傾ける。
「俺や、バスケ部の連中や、岡崎や、春原に開いていた心の穴を埋めてくれていたんじゃないかな」
 古河はまだ不思議そうな顔をしていた。
「それっていいことですか?」
「穴をなくすのはいいことだ」
 僕は苦笑しながら頷いた。なんだか自分でもよく分からないことを言ってるなあと思ったが、とにかく続けた。
「岡崎なんかは色々ありすぎて穴ぼこだらけのような気がする。これからもあいつの近くで埋めてやってくれよ」
 こんなことを言えたのも自分に納得のいく答えを見つけることができたからだと思う。
 古河はすっと目を細めた。
「あんまりよく分からないですけど、それがいいことなら朋也くんの穴をこれからも埋めてあげたいです。でも、」
「でも?」
「木村さんの言う穴を埋めたのはわたしじゃないと思うんです。たぶん、わたしがやったことっていうのは単なるきっかけにすぎないんじゃないのかなって思います。本当に穴を埋めたのはきっと木村さんや朋也くん自身、自分たちの力なんじゃないのかなって」
 妙に確信めいた口調の古河を、僕は一瞬呆然と見つめた。
 自分の力、か。そんなふうには考えなかった。でも言われてみればそういう考え方もできるのかなあとも思った。
 でもやっぱり、そのきっかけをくれたのは他ならない古河なんだとも思う。
「木村さんはどう思いますか?」と古河は笑顔のまま問いかける。
「ああ」そう言いながら僕も笑った。「俺もそう思うよ」


「古河はこっち?」
「はい。もう一回りして来ます。木村さんは?」
「俺はあっち」
 そう言って坂の下り道を指差した。目的は十分達した。もう家へと帰ろう。今日の夜は久しぶりにぐっすり眠れそうだ。
「それじゃあ」
「はい。今日はありがとうございました」
 何でありがとうございますなんだ? 古河の台詞に疑問を思いながらも、僕は右手を振り、校門の前の坂を下った。
 しばらく進んだところで、「木村さん!」と背中から呼び止められた。振り返ると古河がまださっきと同じ坂の上に立っていた。
「わたし本当は散歩でたまたまここに来たわけじゃないんです。本当は何かを探しに来たんです。このまま、何となく四月を迎えてしまったら、わたしの去年一年間の三年生のクラスは何だったんだろうなって。たった一ヶ月しかいられなかったあのクラスで、わたしは一体何をしてきたんだろうって。木村さんみたいに、何かを埋めたくてここに来たんです」
 そこまで一気に喋り、古河は一度息をついた。それから笑顔になって言った。
「だから木村さんがわたしのことを好きだったっていってくれて、本当に嬉しかったです。ほとんど何も思い出が残せなかったあのクラスで、それでもわたしを見てくれているひとがいて、本当に嬉しかった。わたし、今日、木村さんと会えてその何かを埋められたような気がします」
 もう一度、僕と古河の間に風が吹いた。桃色の花びらの向こう側に見える古河の顔はやっぱり僕が見たことのない―――、いや、一度だけ、去年のバスケの試合の後に見せた表情と同じ笑顔だった。
 ああ、そっか。こんなふうに笑うんだ。
 思いもよらない古河の言葉に僕は驚きながらも、それ以上に僕の心を満たしたのはある種の充実感だった。
 自然と笑みがこぼれた。
「埋めたのは古河の力なんだろ」
「でもきっかけをくれたのは木村さんです」
「うん。僕も古河と出会えてよかったよ」
 正直な今の気持ちを花びらの向こう側へと告げ、「じゃあ」と最後に僕は右手を小さく振った。
 古河に出会えて、恋をして、まあ、結果振られたわけだけど、だけど最後の最後にこの笑顔を見られて良かった。本当に良かったと、一年近くの時間を費やしてようやく思えた気がした。



感想  home