今日、風子は卒業します。
楽しいことがたくさんあった学校を。
ひとり残された場所を。
『風の生まれる日。』
朝。
いつものように起きると、おねぇちゃんに髪をセットしてもらいます。
今日は特別な日なので、いつもよりじっくりとやってくれてます。
「おねぇちゃん。いつもありがとうございます」
「どうしたの? ふぅちゃん。珍しいね、そんなこと言うなんて」
おねぇちゃんの言葉だと、風子は普段すごく失礼な人だって言っているみたいでした。
でも風子は大人なので、そんな細かいことは気にしません。
「ふぅちゃんの髪、キレイだよね。
お姉ちゃん、ちょっと羨ましいんだよ」
「そうですか…。それはありがとうございます」
相手がおねぇちゃんでも、そんなこと言われるとちょっと照れます。
そういうおねぇちゃんは、風子の髪をときながらニコニコしてます。
念入りに、念入りに…。
ちょっと様子がヘンでした。
おねぇちゃんは、何度も何度も、風子の髪の同じところをといていました。
顔を上げて、鏡に映るおねぇちゃんの顔を見ました。
…どうしてでしょうか。
おねぇちゃんは、泣いてました。
「どうして泣いてるんですか」
風子は不思議でした。
今日は風子にとって特別な日です。
なのに、どうしておねぇちゃんが泣くんでしょうか?
おねぇちゃんは、しばらく風子の髪を梳いていましたが、梳くのを止めて、
後ろから風子を抱きしめていました。
おねぇちゃんに抱きしめられるのは…気持ちいいです。
胸の膨らみとかが凄く柔らかです。
頭のてっぺんあたりが濡れてくるのがわかります。
おねぇちゃんが泣くのを観るのは、初めてかもしれません。
風子のために泣いてくれているんでしょうか?
風子は幸せです。
おねぇちゃんにこんなに大切に想ってもらってます。
わけはわかりませんでしたが、すごく温かい気持ちになりました。
すると、後ろからおねぇちゃんの声が聞こえました。
「ふぅちゃん……長かったけど、やっとだね…」
「…はい」
風子は、おねぇちゃんが勤めてたこの学校に入って、5年も経ってしまいました。
でもこうやって、無事に卒業します。
抱きしめてくれてるおねぇちゃんの腕に、風子の手を重ねました。
するとおねぇちゃんも、さっきよりぎゅっ、と強く抱いてくれました。
「そろそろ時間じゃ無いのか?」
おねぇちゃんでも風子でもない声が聞こえました。
「あ、祐くん」
おねぇちゃんは風子から手を離すと、目をごしごしとこすっていました。
「ん? どうしたんだ?」
「ううん、何でもないよ」
おねぇちゃんが泣いていたことを隠すと、風子の髪をリボンで纏めてくれました。
これで風子の身支度は完成ですっ。
「おっ。風子ちゃん、今日も可愛く仕上がったな」
「ありがとうございますっ、ユウスケさん」
この声の主は…ユウスケさん。
おねぇちゃんの結婚相手です。
とても素敵で、格好の良い人です。
風子にも凄く優しくしてくれます。
さすがはおねぇちゃん。
人を見る目がありますっ。
でも、ユウスケさんは風子の一番好きな男の人ではありません。
ユウスケさんはおねぇちゃんのものですから。
「祐くん、今日はお休み取ってくれたんだよね?」
「ああ。…でも、良いのか? 俺も行って。2人だけで行ったほうが良いんじゃないのか?」
ユウスケさんはたまに、風子とおねぇちゃんに遠慮することがあります。
風子たちのことを大切に思ってくれているからだとは思いますが、
家族なのにちょっと水くさいです。
「祐くん、遠慮しすぎ。ね? ふぅちゃん」
「はい。ユウスケさんも見届けて欲しいです」
「そうか…。なら俺も行かせて貰おう」
おねぇちゃんも風子と同じことを思っていたみたいです。
風子とおねぇちゃんのお願いは、ユウスケさんなら絶対聞いてくれます。
今回も聞いてくれました。
今日は3人でお出かけ気分です。
学校に着きました。
まだ桜並木に花は咲いてませんでした。
せっかくの風子の門出だと言うのに、ちょっとくらい気を利かせて欲しかったですっ。
校門のところで、見知った顔を見かけました。
「三井さんですっ」
風子が初めて、お友達になってください、とお願いした人です。
復活してからは、受験だと言うのにすごくよくしてもらいましたっ。
風子は三井さんの元へ走りました。
「あ、伊吹さん」
相変わらず、三井さんの笑顔は素敵でした。
風子は三井さんの傍らに駆け寄ると、ごあいさつをしました。
「お久しぶりですっ」
そう言うと、三井さんもニコリ、と笑って、
「こちらこそ、お久しぶりです」
と、あいさつしてくれました。
でも、制服姿で無い三井さんを見るのは初めてだったので、少し緊張します。
びしっとスーツを着ていて、かなり大人に見えます。
格好良いです。
風子が三井さんのスーツ姿に見とれていると、三井さんが少し照れてました。
「そんなに…おかしいですか? この格好…」
「いえ…そんなことありませんっ。すごくお似合いですっ」
思わず風子はそう言い返してました。
でもそれは風子の本心から出てました。
三井さんはまだ少し照れてましたが、いつもの優しい笑顔に戻ってくれました。
「こちらは…お姉さんですか?」
「はいっ。風子のおねぇちゃんですっ」
三井さんはおねぇちゃんを見ると、軽くお辞儀してました。
おねぇちゃんもつられてお辞儀してました。
「ふぅちゃん…風子のお友達ですか?」
「はい。三井と言います。伊吹さんの友達です」
「あなたが三井さんですか。妹がいつもお世話になってます」
「いえいえ。こちらこそ、伊吹さんにはいつも楽しませてもらってます」
おねぇちゃんには、よく三井さんのことは話してました。
三井さんにも、おねぇちゃんのことはよく話してました。
2人とも、風子にとって大切な人です。
そんな2人が仲良くしてくれると、風子はすごく嬉しいです。
おねぇちゃんと三井さんは、その後も少しお話してました。
「それでは、頑張って下さいね」
「はいっ! 頑張って卒業しますっ」
「失礼します」
ぺこり、とあいさつをして、三井さんと別れました。
「いい子そうだよね、あの子」
「当然ですっ」
「…そうだよな」
あ。
三井さんに夢中で、ユウスケさんのことをすっかり忘れてました!
風子、とんでもない失態を犯してしまいましたっ。
「すみませんでした、ユウスケさん」
「…ん? 何が?」
ユウスケさんに悪いことをしてしまいました。
反省です。
校庭の中に入ってしばらく進むと、看板がありました。
"右・卒業式会場、左・校舎"
って書いてあります。
と言うことは…。
「ここでふぅちゃんとはお別れだね」
「…どうやらそのようです」
「じゃあ頑張ってな、風子ちゃん」
「じゃあ、お姉ちゃんたちは席で見てるからね」
「わかりました」
ここでおねぇちゃんたちとはお別れでした。
風子は1人、校舎へと向かいます。
少し立ち止まって、風子はおねぇちゃんたちの背中を眺めてました。
仲良く肩を並べて歩いてました。
…どうしてでしょうか?
風子は2人の間には入れない気がしました。
もちろん、おねぇちゃんもユウスケさんも大好きです。
ですが、2人にとって風子はどういう存在なのでしょうか?
おねぇちゃんとは姉妹の関係です。
でも結婚して、今おねぇちゃんとは名字すら違います。
だから最近、2人の中に入ることを躊躇ってしまいます。
風子は、しばらくその背中を眺めた後、校舎へ向かいました。
「やあ、風子ちゃん。久しぶり」
しばらく歩くと、見覚えの無い人から声を掛けられました。
よく知らない人だったので、素通りすることにしました。
「ちょ、ちょっと。無視はあんまりじゃあないっスかねえ?!」
その人は、風子のことを知っているようでした。
けれど、風子は知らない人でした。
なので、やっぱり無視することにしました。
「僕だよっ。春原陽平だよっ!!」
その人は必死で名乗ってました。
スノハラヨウヘイ…。
どこかで聞いたことのある名前でした。
でも、その人とはつながりません。
…頭に違和感がありました。
風子が頭をじっと眺めていると、その人は必死になって言いました。
「髪の毛は黒く染めたって…。僕の卒業式の時いませんでしたかねえ?!」
…思い出しました。
いつも風子とあの人の近くにいた、髪のヘンな人です。
春原さんです。
その春原さんが、ありえない色の髪を黒く染めてたんです。
「髪のヘンな人が、髪を染めてますっ。ますますヘンなことになってますっ!!」
「いや…だから、僕らの卒業式のときからそうだ…って、覚えてないか……」
春原さんは、ため息をつきながら近寄ってきました。
「無理も無いよね。あの時は、岡崎しか見てなかっただろうからね」
あの時とは、春原さんたちの卒業式のことでしょうか。
確かに、春原さんが卒業した記憶はありません。
風子はあの時、1人の人しか見てませんでしたから。
「岡崎は来てないの?」
「…はい。まだ見てません」
「ふ〜ん。結構ツレないやつだねえ」
春原さんは、笑っているような、怒っているような、そんなわけのわからない顔をしてました。
「僕なら、一番乗りしてるとこだけどなあ」
その意味については、風子にはよくわかりませんでした。
ただ、肝心な人の姿を見ていないことは、少し不安でした。
「……風子ちゃんから離れろ〜〜!!」
遠くから、威勢の良い声が聞こえました。
どうやらあの人たちのようです。
「…え? え? え?
…ちょ、ちょっと……。うわあぁぁぁあぁぁぁあぁぁっっ!!!」
その人たちは、春原さんをどこかに連れ去ったようでした。
仕方ないので、風子は自分のクラスへと行くことにしました。
教室に入り、担任の先生から説明を受けます。
風子は、ぼうっと聞いていました。
来ていない人のことを考えていたからです。
窓際の席でしたから、空を眺めていました。
抜けるような青空でした。
こんな天気になったのは、日頃の風子の行いが良いからだと思います。
きっと、あの人も来てくれているはずです。
来てくれていないと、風子の目的を果たせませんから。
講堂に移動して、卒業式が始まりました。
すごく退屈でした。
校長先生と名乗るおじいさんの、すごくつまらない話を長々と聞かされてしまいました。
生徒代表とか言う人たちの、ありきたりの言葉を聞かされてしまいました。
でも風子には、全く耳に入ってきませんでした。
ずっと、他のことを考えていたからです。
まだ今日、会えていない人のことを。
卒業証書の授与とか言うのが始まりました。
どうやら、生徒ひとりひとりが受け取りに行くらしいです。
「伊吹風子」
しばらくぼうっとしていると、風子が呼ばれました。
仕方が無いので、風子は立ち上がって取りに行くことにしました。
壇上に上がるとき、会場のどこからか、すごい拍手が起こりました。
またあの人たちでしょうか?
恥ずかしいですから止めてもらいたいものです。
卒業証書を受け取り、会場の人たちに向けてお辞儀をしました。
そうしたら、視界の中に見覚えのある人を見つけました。
…岡崎さんです。
何だか、凄く汗だくに見えました。
急いで駆けつけてくれたんでしょうか?
でも岡崎さんは、爽やかに親指をぐっと突きたてて、風子に合図してました。
風子も釣られて、同じポーズで返してました。
目立ちすぎですっ。プチ最悪ですっ。
でもすごく嬉しかったです。
これで風子の目的が達成できるからです。
式も終わり、教室に戻って最後の通知表とかを貰いました。
泣いてる人もいました。
「伊吹さ〜ん。お別れだよ〜」
とか言って、風子に泣きつく人もいました。
確かにクラスのみんなと別れるのは寂しいです。
でも、別に一生会えないわけではありません。
なので、風子には泣くほどのこととは思えませんでした。
風子はクラスのみんなよりはお姉さんなので、いっぱい慰めてあげました。
最後のホームルームが終わると、風子は学校で一番大切な場所へと走りました。
岡崎さんと出会ったあの場所です。
あそこしかありませんでした。
『お友達になってください』
あの日はお友達どまりでした。
あれからも岡崎さんは、風子と一緒にお出かけしたり、遊んだりしてくれました。
でも風子には、あそこでそれ以上の関係を望むことは出来ませんでした。
岡崎さんには……渚さんがいます。
だから、風子は岡崎さんの中で、一番にはなれません。
それでも、風子は言わなくてはなりません。
そうしないと、風子はずっとこの場所で立ち止まったままになります。
前に進まなければならないのです。
岡崎さんは、少し遅れてこの部屋にやってきました。
「やっぱりここにいたか…」
「はい。ずっと待っていました」
風子がそう言うと、岡崎さんは何やら真剣な表情になっていました。
もう、準備は整いました。
あとは、風子の気持ちを伝えるだけです。
「ずっと…。ずっと好きでした」
真っ直ぐに瞳を見て。
心に伝わるように。
はっきりと言いました。
「…風子? おまえ……」
岡崎さんは驚いた様子でした。
でも、風子の真剣な気持ちが伝わったのだと思います。
岡崎さんも風子のほうに向き直って、そして言いました。
「ありがとな。…でも俺には…渚がいるから」
予想通りの答えでした。
そう言われるのはわかっていたので、ショックはありませんでした。
岡崎さんは少し屈んで、ぽん、と風子の肩に両手を置いて言いました。
「ごめんな」
どうしてでしょうか。
答えはわかっていたはずなんです。
ショックも無かったはずなんです。
その一言を聞いた瞬間から、岡崎さんの顔が歪んで見えました。
何かが目から溢れてくる感じがしました。
つーっ。
「…風子」
人前では決して泣かないって決めていたんです。
おねぇちゃんの前でも泣いたことはありませんでした。
岡崎さんの前でも、泣いたことはなかったはずです。
それに、今泣いたら岡崎さんに悪いです。
でも、どうして止められないんでしょうか?
痛かったときは、ぐっと我慢すれば涙は止められました。
今は我慢しようとしても、次から次へと零れてしまいます。
もう目の前にいる人が誰かなんて、全然わからなくなってしまいました。
肩に置いてくれた手の温もりの感触だけ、岡崎さんだとわかりました。
次の瞬間、風子は岡崎さんに抱きついていました。
わんわん泣いて。
岡崎さんは、そんな風子をしっかりと抱きしめてくれました。
その温もりは、岡崎さんの彼女にだけ許されるものでした。
けれど岡崎さんは、じっと泣く風子を抱き止めてくれていました。
風子は…勇気を出してよかったです。
悲しかったのですけど、やっぱり好きになって良かったと思えたからです。
風子が落ち着いた頃、ようやく帰る事になりました。
あの時と同じく、岡崎さんは風子の手をしっかりと握っていました。
「風子…。大丈夫か?」
「…はい。心配ご無用です」
岡崎さんは、最後まで風子のことを気遣ってくれてました。
出会えて本当に良かったです。
校門のあたりまで歩いてきました。
ふと上のほうを見上げました。
「あっ」
「おっ」
そこには、桜の樹がありました。
その桜の樹についたつぼみが、1つだけ開いてました。
桜も、風子の門出に間に合ったみたいです。
「何とか間に合ったみたいだな…」
「はい。ギリギリセーフでした」
花を見上げる岡崎さんも、なぜか嬉しそうでした。
校門をくぐります。
そして風子は、繋いでいた手を離しました。
「風子っ!!」
岡崎さんが叫んでました。
でも風子は、岡崎さんからも卒業しなければなりません。
そして、これからは風子ひとりで生きていくのです。
だからこそ言わなくてはなりません。
最後は笑顔でお別れです。
「岡崎さん、お元気で」
「そして…さようなら」
<完>
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