解夏気







Chapter.1


「暑いな……」
「暑いです……」
「暑い〜……」
 現在の室温、三十九度。
 窓を全開にしているにも関わらず、この気温だ。
 直射日光こそ遮られているものの、安物のスレート屋根や薄っぺらいコンクリート壁に断熱効果など期待できようはずもなく、蒸発したH2Oが充満して蒸し風呂状態になっている室内は大気圏に突入するスペースシャトルのように灼熱している。部屋の隅っこで一人だけ楽しげに首を振る扇風機には穴の開いたバケツ程の価値も無く、電気を使用しているだけむしろ無駄な熱を放出してしまっているのではないかと陰鬱に思うほどだった。
 そんなわけで、岡崎家……現在絶滅の危機に瀕しております。
 恐竜は隕石の衝突とそれに伴う急激な気温低下によって絶滅したというが、人類は全く逆の末路を辿るのかもしれない。今の俺ならCOP6に全面賛同するだろう。
 しかし……仕方が無いのだ、とため息を吐く。
 今朝まではこんな地獄ではなかった。久しぶりの何も予定が無い休日に、ふと思い立って早起きし、早朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで「あぁ、俺って健康的だなぁ」と意味も無く優越感に浸り、三文分くらいは得した気分になりながら愛妻の用意した朝食を愛娘と共にのらりくらりと摂り、さてこれからどうしてくれようかと考えていたのだが……。
 不幸と言うのはまるでウィルスが添付されたメールの様に何処からとも無く唐突に、しかも逃れようも無く襲い掛かってくるもので、暑くなってきたしそろそろエアコンでも点けようかと未だしつこくビニールの保護シートが張り付いたままのリモコンを操作したその瞬間、壊れた。ガガガガ、ボフンッという断末魔の悲鳴と共に。それはもう、弁慶だってケツを差し出すほどに見事な大往生っぷりだった。
 これでも電気配線を扱っている肉体労働者なのだからとあれやこれやと三十分ほど調べてみたのだが、結果は惨敗。嫁と娘の最初は期待に満ち満ちていた瞳が徐々に遠く薄っぺらくなっていくのが何とも痛かったが、こればっかりはどうしようもない。慌てて修理会社に電話してみるものの、予約がいっぱいで即日には対応できないらしい。
 そんなわけで、現状。三人揃って畳の上で砂浜に打ち上げられた海月だってもう少し優雅だと思えるくらいにグテリと倒れている。
「しっかし……もう秋だよな」
「暦の上では秋ですよね」
「アッキー?」
「なのになんでこんなに暑いんだ?」
「まだ夏が終わってないんでしょうね」
「アッキーぃっ!?」
「違う」
「パパ、冷たい……」
 スマン、娘よ。暑すぎて付き合ってやれる気分じゃないのだ。
 今日は家で一日中ゴロゴロと怠惰に過ごそうと思っていたのに、こういう日に限ってこんな羽目にあうのだから、神様は残酷だ。きっとサイコロ遊びが大好きな上にイカサマ野郎なのだろう。気を紛らわせる為にテレビをつけてみても、そこに登場するツヤツヤした楽しげな笑顔の芸能人たちなど見ても心はポルポト政権下のカンボジア並みに荒むばかりだ。
 そんな荒んだ気分を癒す事が出来るのはアレしかないと渚に提案。
「風呂にでも入るか」
 もちろん、水風呂。気化熱バンザイ。
「さっきも入りました」
「汐は入ってない」
「もう一回」
「汐は寝てたから入ってない!」
「疲れるから嫌です」
 珍しく直裁的な否定。本当に疲れているからなのか、それとも悪戯が過ぎたからなのか。
 どちらにしてもしばらくは付き合ってもらえないだろう。かなり残念。
 と、チョイチョイと袖を引っ張られる感触。
「パパ、汐と入ろ」
「汐は大人になってから彼氏とな?」
「朋也くんっ!?」
「冗談だろうが……」
 マジ切れカッコ悪い。とはいえ、実際に汐が大きくなって彼氏と一緒に風呂に入ってあんな事をしていたら、たぶん俺もキレるだろう。親馬鹿はカッコ悪くない。真理だ。
 ハテナ顔の汐が具体的な説明を要求してくる前に別の話題を探す。と言っても狭苦しい我が家の中にそのヒントは転がっておらず、また暑さの所為でハングアップ寸前な脳みそはカランコロンと軽やかな音をたてそうなくらい正常な動作を放棄していた。
 結局何も言えず、その代わりに天井を見上げる。
 家の中には扇風機の音と家族の呼吸音以外に何も余分なものなど無く、窓の外からときおり車の排気音とか自転車のベルの音とか子供たちの笑い声とかが聞こえてくるのみだ。それらはまるで鏡の向こう側から届く誘いの様に遠く、まるで自分が孤島に取り残された飛べない鳥になってしまったかのような錯覚を呼んだ。麻痺し始めている意識と肉体は幽霊の様に薄ぼんやりと蕩けていく。夢の淵に佇んでいるかのような感触。
 そんな不可思議な感触から逃れるように隣に寝転がる汐の手を握る。汐は天井を見上げたまま、しかし俺の手を握り返し、そして反対の手を母親の手に委ねた。
「なぁ……」
「はい?」
「なぁに?」
「どっか、行くか?」
 室内気温、四十度突破。





Chapter.2


「暑いです……」
「暑いな……」
「暑々〜……」
 のらりくらりと足を進めながら、家族そろって呟く。
 家の中に居て暑かったからと外へ出たところで、もちろん涼しくなったりするはずもなく、むしろ死期が近づいたような気がしないでもない。空を見上げると未だ真夏の装いを残す仕事熱心な太陽さん(約50億歳)がこれでもかと言わんばかりに紫外線を垂れ流している。まさに出血大サービスだ。
 時折緩やかな風が吹くもののそんなものでこの体内に溜まりに溜まった熱を冷却出来ようはずも無く、捨て猫を愛でるだけ愛でてそのまま放ったらかしにして帰っていく自称動物好きの様に、さんざ希望を煽るだけでどこにも救いが無い。しかも暖められたアスファルトの地面から輻射熱が放出されているもんだから、上から下から熱気のオンパレードで、俺は食パンかと文句を言いたくなる。世界は俺の知らない内にオーブントースターになってしまったようだ。こんな世界に誰がした、と大声を張り上げてワケも無く叫びだしたい衝動に駆られるが、汐が真似したら困るので脳内補完で済ませる事にした。
 そんな灼熱という言葉に腹抱えて笑ってしまいそうな地獄の暑さの中を、俺たち三人は横並びに歩いていた。こんな致死的な暑さの中を好き好んで歩こうという愚か者など居る訳が無いので、三人広がっていても邪魔にはならない。汐を真ん中に俺が右手を掴み、渚が左手を掴んでいる。それだけ見れば美しい家族愛の象徴の様にも思えるかもしれないが、いい加減汐がバテ始めていて力が抜けているもんだから、なんというか、まるで宇宙人を確保したCIAの様に見えなくも無い。
 何とかしなければと泣いている子供を探すなまはげの様に周囲を探っているとコンビニを発見。イスラエルの砂漠で水源を発見したユダヤの民の様に一斉に駆け寄る。マイム、マイム。
 緩慢な動作で開く自動ドアの向こうからこちら側へと決壊したダムのごとき勢いで溢れ出してくる冷気が震えるほど心地良い。あぁ、神様仏様原子力発電所様およびその職員様、どうもありがとう。
「アイスだ! アイスを確保しろ!」
 要人を人質にした立て篭もり事件を強行突入で解決しようとするSWAT気分を味わいながら隅っこに置かれている冷却ボックスまで一気に駆け抜ける。周囲に敵性戦力があるかどうか、はたまたブービートラップがあるかどうかの確認もそこそこにガラスケースを開けた。
「はわぁぁぁぁ〜」
 店内の冷房よりも更に強力な冷気に家族そろって歓喜のため息。きっと今の俺たちは天使だって匍匐後退で逃げ出すくらい極上の表情をしている事だろう。パチリと写真に収めておければ様々な雑誌が使わせてくれとオファーしてくるだろう事は請け合いだ。ただし、主に詐欺に片足を突っ込んでいる怪しげな商品広告が八割方を占めそうだが。
「好きなの選んでいいぞ」
「やたー」
 汐は歓声をあげてそのままガラスケースの内側に潜り込もうとしているかのように身を乗り出して、内部を漁り始めた。そんな行儀の良くない行為も、今は叱る気にはなれない。というか、むしろ代わって欲しい。
 ちなみに、
「渚はミルクバーな」
「限定ですか?」
「咥えるんだ。そして出来る事ならば垂らせ」
「やっぱり限定なんですね?」
 さんざん悩んだ挙句、汐はやけに鮮やかなピンク色をしたチューペットを選んだ。安上がりな娘の選択を喜ぶべきなのか、それとも将来を心配すべきなのか。俺はガリガリ君(ヨーグルト味)を選び、渚は汐と同じチューペットだった。ロマンの分からない嫁でスマン。





Chapter.3


 そのままコンビニで一時間以上時間を潰してから俺たちは外へ出た。というか、実際にはほとんど追い出された。まぁ、アイスを齧りながら店内でしりとりを始める一家がいれば店員にとって邪魔な存在である事に間違いはないし、まして極悪非道の「る」責めで大敗を喫した汐が泣き出してしまったのだから、もはや営業妨害以外の何ものでもなかった。
 そんなわけで、言葉尻は丁寧ながらも有無を言わさぬ迫力の店員に追い出されてしまった俺たちは、再び地獄の道中を歩む羽目になってしまった。
「さて……どこに行くかな」
「当てがあったわけじゃないんですね」
「……実は」
「朋也くんはいつもいつも無計画すぎます」
「むけ〜かく〜」
「でも汐は無計画の産物じゃないぞ。ちゃんと計算して狙い撃ちだ」
「朋也くんっ!?」
「狙い撃ち〜!」
「汐ちゃんも真似しちゃダメですっ!」
 同意。だが、いずれは知っておくべき大切な事だ。
「しかしだな、あのまま家にいたら今頃俺たちは確実にミイラになってたぞ。そしてスミソニアン博物館に展示されていた事だろう」
「国宝〜」
 宝ではない。
「汐ちゃん、どこか行きたい所ありますか?」
「遊園地!」
「遠い」
「動物園!」
「暑い」
「水族館!」
「場所知らん」
「むむむ〜」
 悩む汐。
「プール!」
「水着がない」
「映画館!」
「ぜってぇ混んでる」
「アシガバード!」
「何処?」
「トルクメニスタンの首都」
「知るか!」
 なんでいきなり施設名から地名に飛ぶんだ。しかも選択が微妙にマニアックだ。
「むむむむむ〜」
 再び悩み始める汐。
 そんな汐を見て渚が「デパートに行きましょうか」と提案したが即効で却下。確かに近いし涼む事はできるかもしれないが、決して買う事は無いくせに延々と売り物を眺め続けるだけの数時間は俺にとって拷問に近い。店員の視線が鋼鉄の処女だってビックリなくらいに鋭く突き刺さってくるのだ。
「どこかゆっくり出来る場所が良いなぁ」
「ゆっくり出来る場所なら知ってるよ」
「へぇ、どこだ?」
「こっち」
 汐に手を引かれて連れて行かれたのはだだっ広い空き地だった。芝生と呼ぶには成長し過ぎだと言わざるを得ないただの雑草が青々と茂る丘陵地。というかほとんど山。自分の住んでいる町がこれほど田舎だったのかと再認識せざるを得ない未開発の土地だ。視線を少し奥へ向ければ林に繋がっていて、妖怪に出会う確率と自殺者に出会う確率とが同じくらいの怪しげな雰囲気をこれでもかと言わんばかりに醸し出している。
「きょーせんせーが教えてくれたの」
「あいつ、こんな場所ばっか知ってるのな」
「ナベのお嫁さん探しのためだって言ってた」
 ボタンの嫁を探す前にまず自分の婿を探すべきだと猛烈な勢いで思ったが口には出さなかった。壁に耳あり障子に目あり身内にスパイあり。獅子身中の虫のごとく戸を立てることのできない汐の口から俺の発言が逐一報告されてしまうのだから、迂闊な事を言おうものなら近日中には彼岸の桜を見る羽目になるだろう。
 林と空き地の境にある一際大きく育った木の下へ向かい天然の日傘が作り出しす陰に入る。気温そのものが大きく変化したわけではなかったが直射日光を避けられた事は家に泥棒が入って金目の物を全て持っていかれたもののギャルゲーの初回特典には手がつけられていなかった程度には幸福な事だった。
「ピクニックみたいですね」
「弁当でも用意すりゃ良かったかな」
 三人、川の字で雑草のベッドに寝転び、木漏れ日に目を細める。どうして木漏れ日ってのはこんなに綺麗に見えるのだろうか。元は同じ太陽の光なはずなのに、枝葉に遮られたそれはこんなにもキラキラと輝き、まるで宝石を閉じ込めた万華鏡の様に幻想的だ。緩やかに流れる大気が運ぶ土と草の匂いはどこか遠く懐かしく、平穏という言葉の全てがここにあるかのようにさえ思えてくる。
 そんな穏やかな空気に真っ先に敗北したのはやはり汐で、気づいたときには既にくぅくぅという可愛らしい寝息を繰り返していた。次に屈したのは渚で、俺もその衝動に抵抗する事なく飲み込まれていった。
 とりあえず、一家心中の図に間違われない事を祈りながら。





Chapter.4


 夕焼けの中でお子様用パックの花火を取り出す。
 眼が覚めた途端に下された汐の指令で近くのコンビニに買いにいかされたのだ。
 俺一人で。
 父親というのはどうしてこうも損な役回りばかりなのだろう。例えばレンタカーで何処か遠出した時など、行きは人の迷惑顧みず騒ぎまくり、帰りは帰りで渋滞という多大なストレス下に晒されているこちらを無視して二人揃ってクゥクゥ眠りやがる。その幸せそうな寝顔を見ていると時折、クラクションを鳴らして叩き起こしてやりたい衝動に駆られるのは俺だけではないはずだ、きっと。
 急いで、という非情な指令に何故か反発する事ができずゼェハァと呼吸を荒げながらダッシュでコンビニへと走り、980円のパックをゲットした帰り道でライターを忘れている事に気づきUターン。レジの姉ちゃんが向けてくる何故か哀れみの籠った視線に曖昧な微笑を返し、再びダッシュ。帰ってきた俺を待っていたのは汐の「わ〜い、花火〜」という残酷な歓声と渚の「ライターは忘れませんでしたか?」という鋭すぎる指摘だけで、長年思いを募らせていた隣の家に住む幼馴染の女の子に彼氏が出来て窓越しにその嬌声を聞いている童貞少年の様などす黒い感情が込み上げてきた。が、
「パパ、一緒にやろ!」
 一秒で氷解。娘は偉大だ。
 汐はビニールの袋を乱暴に破り、細い棒状の花火を何本も合わせて鷲掴みにし「火をつけて」とこちらへ向ける。豪快な娘である。わんぱくでも良い。馬鹿でも運動音痴でも不良でもオタクでも、この際『男の子』になっても構わない。とにかく育て。それが一番だ。
 一方の渚はというと汐とは違い直径十センチ程の筒状の花火を取り出していた。
「それは何だ?」
「だんご大家族花火です」
「……なんだと?」
「だんご大家族花火です」
「…………」
「この筒の中からだんごの家族たちが次から次へと飛び出し、夜空を無数のだんごたちで覆いつくすんです。それはそれは、とても美しい光景ですよ」
 言われて、ちょっと想像してみる。
「悪い。恐ろしい光景しか想像できない」
 っていうか、なんでお子様用パックにそんなのが入ってるんだ?
「売れ筋だからですね、きっと。大人気商品なのです」
「逆じゃないのか……たぶん」
 つまるところ、在庫処分。
 そんな俺の鋭いツッコミを意図的に無視して、渚はそれに火をつける。短い導火線を伝って筒へと火が届き、もしかしたら不発なのではないかと心配になってくるぐらいの時間をかけてポンッと先端の紙製の蓋が爆発した。中から火の玉が舞い上がり、上空十メートルくらいでちっぽけな華を咲かせる。
「いま飛び出したのは次男です」
「分かるのか!? いや、まて。答えなくて良い。聞きたくないから」
 花火以上に華やかな表情で解説を始めようとする渚を遮る。
 その後もだんごの家族たちは次々と空へと舞い上がり体内に隠していた火薬の力で爆散し、その醜い肉片を周囲へと撒き散らしていった。
 それ以外には特殊な花火は無いらしく、ごく普通の火花が前方向に広がるだけの安っぽい花火ばかりだった。ロケット花火はないらしく、俺としては少し残念だ。ま、有ったとしてもぶつける相手が居ないので詰まらないだろうが。尚、たいへん危険ですので絶対に真似しないでください、と言ってみる。
 シューシューと吹き出る火花は頻繁に色を変え、鮮やかに世界を染め上げているが、なんとなく物足りない。なので場を盛り上げる為にと昔これで虫を焼き殺したり草を燃やして小火を出したりした逸話を語ってみたら思いっきりひかれてしまった。
「パパ、これは〜?」と紙縒りの失敗作みたいな花火をこちらに向ける汐。
「それはセンコウ花火だ」
「穿孔?」
「なんだか凄く怖い花火みたいですね」
「違う、潜行だ」
「潜っちゃうんですか? でもそれだと見れないような……」
「先公ぅー!」
「汚い言葉使っちゃダメですっ」
 そこに突っ込むのか……我が嫁ながら、まだまだ謎が多い。
 俺は汐の花火の先端に火を点けてやった。
 ジジジジと火花が散り、やがて火の玉となってポツリと地面に落ちる。
 蝉の一生だって壮大なスペクタクル浪漫超大作に思えてくるくらいあっけない終末。
「……ツマンナイ」
「風流ですよ」
「三尺玉が見たい」
「風流だな」
「それはちょっと風流すぎるような気がします」
 過ぎたるは及ばざるが如しの代表例の様な会話をしつつ、もう一本線香花火を持ち上げ火をつける。詰まらないと言えば詰まらないのだが、風流だと言えば風流かもしれない。汐はと言うと十本ほどを纏めて持ち、「フレア〜!」と火の玉を撒き散らしながら壮絶なビームマニューバからスライスターンでミサイルを回避するという無茶をやっていた。彼女にはいずれ航空力学の何たるかを切々と語ってやらなければならないだろう。
 元々子供用の詰め合わせだったもんだから、花火はすぐになくなってしまった。
 最後の火の玉が落ちる頃にはすでに陽は完全に落ちていて、空は濃いブルーへと変化していた。昨今の少子化なんぞ何処吹く風で人口が増加傾向にある準ベッドタウンなこの街の空には、もう星が数えるほどにしか見えない。周囲に充満していた火薬の臭いが夜風に吹かれて徐々に薄れていく。その風に、俺は身体を小さく振るわせた。
 昼の間に汗をたっぷりと吸い込み湿っていた服が急激に冷やされたのだ。先ほどまで身体の奥底から沸き立つマグマの様に込み上げていた冷えた麦酒を欲する猛烈な衝動が、それと共に一気に覚めていく。
 生え放題の草木の隙間からは、日中は何処に隠れていたのか鈴虫の鳴き声が響き始める。最初は寂しげな独奏だったその音に自分の役割をやっと思い出したのか、周りに居る仲間たちも一斉に鳴き始め、やがて賑やかな大合奏へと変わっていく。
 それを聞きながら、
「やっと夏も終わり、か」
「はい」
「アッキー」
「天丼は笑いの基本だな」
「お腹空いたんですか?」
「ママ……酷い」
「渚ってボケ殺しだよなぁ」
 そんな下らない言葉を交し合う。
 そこに意味は無い。どれくらい意味が無いかと聞かれればキモオタが語る女性論くらいだと答えてしまうくらい猛烈に無い。あるいは、政治家の謝罪や反省くらいと言い換えても良いかも知れない。それくらいに何の意味も無い。
 しかし、それで良い。
 だからこそ、価値があるのだから。 
「来年も、こんな風に過ごせたらいいな………………エアコン以外は」
「エアコン以外は、ですね」
 渚はクスリと笑い、
「エアコンさっさと直れ〜」
 汐は大きな声でお星様にお願いをした。
 工事会社が来るまで後4日。
 それまでは、しばらくこんな感じの毎日だ。
 そして、たぶん。
 それからだって、こんな風に三人、生きていく。

 ハレの季節は、もうとっくに終わっていた。




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