夢。



夢を見ている。



真っ白な夢。



終わらない、夢……。











夢、時、繋ぐ回廊











 陽平は、一本の電話によってその報を知った。

「……嘘だろ?」

 受話器の向こうの人間は、高校時代一緒に馬鹿騒ぎをしていた杏だった。
 ただ、その頃の快活で強気な雰囲気は無く、まるで泣いていたかの声に感じた。
 それも、伝えられた事が正しいとすれば、その様子にも合点がいく。

「汐ちゃんが死んだって……本当なのか?」
『そんなあけすけに言わないでよっ!』

 ノイズが入るほどの大きさで、怒鳴られた後、向こうからすすり泣く声が聞こえる。
 ……そうだ。確か、杏は汐ちゃんの担任もしていた筈だった。今の、軽薄な自分の言葉で、彼女はどれだけ傷ついただろうか。

「ああ……ゴメン」

 遅くも気付いた陽平は、非礼を謝る。相変わらず謝るのは嫌いだったが、恥知らずではない。
 陽平は、一度だけ汐に会ったことがある。
 渚の葬式の時……生まれたばかりの汐を、一度だけ。
 あんなに小さかった子がいつの間にそんな大きくなったのかと思うと同時に、自分よりも早く散った命に陽平は動揺を隠せなかった。

「早ければ、今日の夕方には着くよ」
『うん、わかった』

 その後二、三話して、陽平は受話器を置いた。

「……おにいちゃん」
「……ああ。芽衣も行くか?」
「当然」

 丁度何かの知らせかの様に、一人暮らしのアパートには世話焼きの妹がやってきていた。
 芽衣は以前古河家に世話になった事があり、芽衣にとっても今回の事はとても大きく衝撃的なことだった。

「……岡崎さん、大丈夫かな」
「……」

 陽平は、もう一つ聞いていた。
 ……同時に、朋也も目を覚まさない状態にあると。








 最初は、見てるだけだった。
 終わらない世界を。
 始まらない世界を。
 ……もう、終わっている世界を。










 久しぶりに見た朋也は、陽平の記憶にある面影とは違っていた。
 幸せの絶頂だったあの頃から、一体何があったのだろう。
 渚を亡くし、それから五年間、実の子に向き合う事無く、ただ仕事を続ける毎日だったと杏から聞いた事がある。
 それから一年しない期間の間に、この父子に何があったのだろうか。
 それは、昔の親友の姿をここまで変えてしまうものだったのか。
 全てを知る本人がこうして眠ったまま起きてこない今、それを知るすべは無い。

「……遅かったじゃない」

 朋也の脇に座っていた杏がこっちに顔を向けず言う。

「……ちょっと事故があってね」

 夜になって済まない、と謝る春原。
 力なく首を横に振り、杏は朋也のほうに目を向けた。

「容態は?」
「眠ってしまっている事以外はもう異常なし」
「は?」
「……でも、目覚めないのよ」
「……それって、俗に言う植物状態ってやつ?」
「さあ」

 そんな事はどうでも良い――いや、そんな事は考えたくないのだろう。何故なら、植物状態ならば、何時目覚めるか本当に判らないのだから。

「雪の降る日に、二人で道に倒れているのを発見されたの。まるで、どこかに行く様な格好だったらしいわ」
「どこかへ? その……こんな事になったって事は、汐ちゃんはそれなりに弱ってたって事だろ?」
「さあ……どこへ行くつもりだったのかも、その真意も判らないけど……渚のお父さんから、不思議な話を聞いた。……聞く?」
「あの人の不思議な話……? ……ああ、この状況が理解出来るなら聴くよ」
「……わかった。このお話は、渚が子供のときから始まるの」

 そして、杏は暫く話し出した。
 ……この町と渚についての、諸々を。








 ガラクタを使って、彼女は僕の身体を作ってくれた。
 彼女はにこりと笑った。

――ぎぎぎ。

 お礼を言おうと思っても、声が出なかった。
 ……そうだ、口が無いからだ。

「やっと、会えたね」

 彼女は、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
 独りぼっちで、寂しかったからかも知れない。
 ……なんで、こんな世界に独りぼっちなんだろうか。

――ぎぎぎ。

 それを訊ねる言葉も、今は出すことが出来なかった。

「前にも、助けてくれたよね。ここから、近くて遠い、場所で」
「?」

 僕は首を傾げた。
 僕は、彼女に会ったことがあるんだろうか。
 それを知りたかったけど、僕には口がなかったし、彼女もそれ以上は何も言わなかった。








 それは、まるでおとぎ話の様な……本当に不思議な話だった。いつもの陽平なら、確実に興味を失って一笑に付していただろう。
 だが、今それを話しているのは涙目の杏であり、そしてその話を悪友だった朋也は信じていた。
 それなのに、自分だけが信じないなど有り得ようか。

「……それが本当だとしたら、岡崎は……」

 この町に弄ばれてるだけじゃないか、と言いかけてやめた。
 そんな事は、誰しもが思っていることだった。
 仮にそうだとしても、陽平たちに出来ることなど何一つ無い。人々がどう抗おうが、津波や地震は防ぐ事が出来ないように。

「――渚ちゃんのお父さんたちは?」

 思い出す限りこの場に絶対いる筈の、二人の姿が無いことに気が付いて思わず陽平は口を開いた。
 当然ある筈のものがない……それが、陽平はとても不自然に感じたのだ。

「ここ数日休まる時が無くて疲労がたまってるから、家に帰ってるわよ」

 そう言った本人も充分疲労してると思ったが、陽平は黙っていた。
 暫く、朋也の様子を見る。
 その姿は本当に眠っている様で、思わず悪戯を仕掛けたくなる。
 そうすれば、今にも起きてきそうで。しかし、それが出来るなら杏もやっているだろう。

「そっか……それじゃあ僕たちは、その……線香も、あげておきたいから」
「……うん」

 終始無言の芽衣を促して、陽平は病室を出た。
 その時、芽衣は静かに呟いた。

「岡崎さん……ここに居ないみたい……」

 ……芽衣は何を感じ取ったのだろうか。
 二人が去った後も、杏の頭の中に芽衣の言葉が響いた。








 僕はこの世界のことしか覚えていないけど、この世界で生まれていない事は判る。
 じゃあ、昔居た世界の「僕」は、どうしたんだろう?
 やっぱり、死んでしまったからここへ来たんだろうか。

――ぎぎぎ。

 頭を掻こうにも掻けず、ただ金属の擦れる音が聞こえるだけだった。
 どうして僕は、ここに居るんだろう。
 どうして、心に隙間風が入るのだろう。

「ただいま」

 彼女が帰ってくる。
 出迎えなきゃ。
 ……いつの間にか、隙間風は凪いでいた。








 春原兄妹は、既に閉まっている古河パンを訪れた。

「おっ、芽衣ちゃんか? よく来たな、さぁ上がってくれ。男は帰れ」
「上がって待っていて下さいね。お茶の用意をしますから。あっ折角ですから、泊まっていって下さい。お部屋も準備しますね」

 相変わらずの夫を意に介せず、早苗は穏和に微笑んだ。

「あ、いや、線香あげに来ただけなので用が済んだらお暇します」

 只でさえ精神的な疲労が溜まっているこの夫婦に、これ以上の負担を強いたくなかった。

「そうださっさと帰れ」
「秋夫さんは黙っていて下さい」
「ぐう……っ」
「こちらは気にしないで下さい。汐も喜ぶと思います」

 その言葉を聞いて、意を決めた芽衣が口を開く。

「それじゃあ、お願いします」
「め、芽衣っ!?」

 絶対今の芽衣はおかしい。陽平はそう感じた。
 さっきの病室での一言も、気の回る芽衣ならば口にしないはずだったのに……。

「はいっ」

 そんな陽平の心の動きも知らずに、早苗は能天気に快諾する。
 男共の意思は完全に無視される形になった。

「それじゃ、中へ」
「お邪魔します」
「はいどうぞ」
「……お兄ちゃんは悲しいぞ」
「……俺も悲しい……」

 変なところで共感を覚える二人だった。








 どうして僕はここに居るんだろう。
 僕は動きを止めて考える。
 それが、今の僕の存在理由かの様に。
 この、すべてが止まり、終わった世界に……なぜ、僕が。
 僕がこの世界に来た意味があるのだとすれば……何なのだろう。

「……どうしたの?」

 傍にいた彼女が、僕に問いかける。
 僕は、慌てて態度で異常が無い事を示した。
 そして、再びガラクタ集めへ。
 ……暫くして、気付く。
 僕は、何故ここが「終わった世界」だと知っているのだろう?
 僕は……前にもここに来たことがあるのか?








 その夜は、昼で言う「快晴」だった。
 星がきらきら輝くのを見ていると、芽衣は小さな頃に読んだお話を思いだす。

『お父さんはお星様になったのよ』

 慌てて首を振り、星空から目を背けた。珍しく明るくはっきりした星々を見つめていたせいか、部屋の中が暗く感じる。
 星空を眺めるために消していた灯を点け、はぁとため息を吐いた。その後に訪れる、静寂。
 宛がわれた部屋を出て、居間に向かう。
 そこでは、秋夫と早苗が酒を飲み交わしていた。

「おう、お前も飲みに来たのか?」
「えっと……あ、はい頂きます」

 一応芽衣はこれでも未成年じゃない。最近二十歳になったばかりだ。
 突き出された酒を受け取ると、口をつけた。
 余り強くはないが、お酒は嫌いではない。

「……わざわざ、ありがとうございますね」

 静かにしていた早苗が、口を開く。

「あ……えっと」

 どう言ったら良いか迷う。
 きっと、芽衣なんかより悲しみが大きいはずだ。そんな人に、自分が慰めるというのは傲慢ではないのか。
 そうやって返答に迷っているうちに、早苗が続ける。

「あなたが色々気負う必要はありませんよ。ただ、来てくれた事に対して私がお礼を言いたいだけです」
「早苗さん……」
「だから……ありがとうございました」
「いえっ、別に大した事じゃないです」

 いつもより恭しくなってしまう芽衣。
 それと同時に、芽衣の頭に疑問が湧く。

――何故こんなに、穏やかなんだろう?

 娘が死に、孫が死に、そして娘の夫は眠り続けて……。
 その状況で、何故この二人は、こんなに強く生きられるのだろう。

「……どうして」

 余りにも強いその疑問が、芽衣の口を動かす。

「……さあな」

 秋夫が一言、答えた。
 酒をくいっとあおって、言葉を続ける。

「強いて言うなら、渚も汐も、認めたくはないがあの小僧も、頑張って生きてきたからだろうな」

 頑張って生きてきたのなら、それで良いのだろうか。
 その結果が、こんなに悲しい事だったとしても。

「何故あいつが汐を病院に連れていかなかったかも、一応解るし」
「汐ちゃん、そんなに悪かったんですか?」
「ああ、渚の遺伝みたいでな。まあ、渚の『遺伝』は、肉体的なものより精神的なものが大きかった様だが」
「『遺伝』、ですか……」

 精神的な遺伝、それは『遺志』。

「あいつは最初から最後まで家族第一だった。特に自宅出産をしたいなんて言い出したのなんかその最たるもんだな。対して俺たちも、『最終的に子供の意思に任せる』って前から決めていたんだ。だから、あの時も心配だったが渚の判断に任せることにしたんだ」

 酒が入ってる所為か、よく語る秋夫。酔ってもなおしんみりするというのは彼の柄ではなかったが、誰も何も言わなかった。

「小僧の家庭もそれなりに問題があったらしくてな。多分あいつは家族というものを余り知らなかったんだろう。だから、渚の言う『家族』の通りにそれを実現しようとした。……汐の容態は渚の時の経過によく似ていたそうだ。あいつは『家族』として、何かをしてやりたかったんだろうなあ」
「それで、どこかに出かける様な格好で倒れていたと……」

 芽衣の言葉に、沈黙で返す秋夫。

――岡崎さんと古河家は、根が純粋なんだ。

 芽衣はそう思う。
 真っ直ぐで、意地っ張りで……自分の考えを曲げられない人たち。
 それは子供っぽいけれど、一生懸命それに向かって進む姿は格好良い。
 ……でも、それは「現実」を度外視したときの話。恋をするには良い材料だけど、それだけじゃ人間やっていけない。
 この夫婦は、死ぬまで「大人になろうとする子供」を続けるのだろうか。
 慈愛だけで大人になれるのなら、教育次第で幼稚園児でもなれる事になる。

「……私、もう休みます」

 だけど、そんなこと、この夫婦に言う事は出来なかった。
 ここまで自分を信じてやってきたのに、今更否定なんか出来ない。仮に芽衣が感じたことが正しいとしても、そこまで他人の人生に干渉するべきではない。

「……そうか」
「おやすみなさい」

 そのまま、真っ直ぐに部屋を出て、宛がわれた部屋へ向かう。
 ふと、足が止まる。そこは、渚の部屋。
 今は……汐がそこにいる。

「……おやすみなさい」

 そう呟いて、芽衣は部屋に戻った。







 終わらない世界の向こうに、暗雲が見えた。
 それが近づくにつれて段々と活動が鈍くなっていゆく彼女を見て、僕はここから逃げ出す事を決意した。
 彼女はここに留まる事を望んでいたが、とうとう折れて旅路支度を始めた。


 もう二度とは戻らない旅。
 雪から逃げて、この世界から出る為に。僕たちは歩いた。

――ぎぎぎ。

 体がきしむ。
 ……何故僕がこんな所へ来たのか、ずっと、解決出来ないでいた。

「……私、わかっちゃった。私が、何でこの世界にいたか」

 歩けなくなりうずくまる彼女が、呟くように言った。小さいのに、耳元で囁かれている様な、とてもよく通る声だった。

「私、この世界になるんだよ」

 彼女はもう、半分『世界』になっているらしい。
 僕が何故この世界に、そしてこの場所に来たのかを、彼女は教えてくれた。
 僕は、やり直しにここに来たんだ。
 不恰好でも、自分が一生懸命に積み重ねたものは……全て置いていくことになるけれど。
 でも、そんなことは『家』を出る前に覚悟していた。
 それは、彼女の……いや、この『世界』、町に手伝ってもらって、築いたものだから。
 周りに助けてもらいながら、作り上げたものだから。
 だから、捨てなきゃいけない。
 全部を捨ててでも、やり直したいから。

「光を集めて……私の、こころを……」

 光。
 全てを集めることが僕に必要なことなら、僕は全力でやろう。
 足りるまで繰り返さなきゃならないとしても……それで、僕にまた、笑ってくれるなら。
 何年でも。
 何十年でも。
 何百年でも。


 彼女を包んでいた光が、強くなる。
 辺り一面が、ただ白く包まれた。
 そして、聞こえる声。

「さよなら……パパっ」

 ……俺と『娘』だった人との、永遠の別れだった。








 陽平たちが帰って一週間ほど経ったある日の昼下がり、朋也は眠るようにその生涯を閉じた。
 その葬儀には、その歳に似合わぬほどの参列者があった。学校の人間は殆どおらず、その他は会社など、卒業してから関わった人たちであった。
 陽平は少し肩身が狭いと同時に、朋也はこんなに人望があったのかと驚かされた。
 渚ちゃんが居たからさ、と自分を肯定してみるが、それだけではないとすぐに思い直す。

――一生懸命やった結果だ。

 入社してから、自分はどれだけ真面目にやってきたのだろう。
 陽平は思い返す。自分が今までどの様に生きてきたか。
 自分と同類だと思っていた奴が今やこれだけの人間を呼ばせたのに、自分が死んだときはどれだけ来てくれるか。
 陽平に、不思議とあまり涙は流れてこなかった。
 状態を知っていたからかも知れない。だが、多分それは主たるものではないだろう。
 親友であると同時に、『戦友』だと思っていたからかも知れない。
 思い通りにいかない『人生』と戦う、友として。

「僕は、泣かないからなっ」

 儚く散った戦友へ、陽平は呟いた。

 棺桶の周りには、古河の夫婦、芽衣、杏などが揃っていた。
 早苗さんや杏、芽衣はぼろぼろ涙をこぼし、いつも目の敵にしていた秋夫まで涙を溜めていた。

「……これが『町』の意思だとしたら、何の為にこんなに人を悲しませるんだよ……」

 『町』は、住人に意思を伝える術を持たない。
 そんなことは、陽平にも解っている。
 土地神は、喋らない。


 朋也の体は車に乗り、火葬場へ。
 そして、釜の中へ恭しく入れられると、朋也の父、直幸が小さなスイッチの前に立つ。
 そのスイッチを入れれば、棺桶に火が放たれる。

「……このスイッチは、俺がお前に押してもらう筈だったのになあ」

 穏やかで、静かな声が響く。
 全てを捨てて、必死で育てて……辿り着いた先が、このスイッチの前。

「お前が生まれて間もない頃、敦子が死んだ時も……もう八年くらい前にもなるかな、お前と喧嘩していた頃も……毎回思ったけれど、今こそやり直す事が出来ればと思った事はないよ」

 そう言って、直幸はスイッチを押した。









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