「パパ、お星さま欲しい!」
 そう言ったら、お父さんはあたしをベランダから引っ張り上げてくれた。
 2階建の屋根の上。
 夜空には満天のお星さま。
 そんなことをしたって、お星さまには届かないって知っていた筈なのに、お父さんは傾いた屋根の上であたしを肩車してくれた。
「どうだい、届いた?」
 ううん、手を伸ばしても掴まえられない。
 掴まえられる、わけがない。
 暗い空に高く伸ばしたあたしのちいさなてのひら。その間からお星さまの光がこぼれ落ちる。
 冷たい風が、着ていた幼稚園生用のスモッグの中にまで入ってきて、あたしのぷくぷくした体はぶるぶる震えて、お父さんの頭を抱いていた。
「もう、いい!」
 そう言うと、何も言わずにあたしを下ろしてくれて、そっと抱きしめてくれたお父さん。
「寒かったろう」
「寒いけど、あったかい」
 お父さんの肩の向こうで、星がぴかぴか輝いてる。こんなに近くに見えるのに、全然届かなかった。
「お星さま、取れなかったね」
「うん、取れなかった」
 お父さんの体が離れる。またお腹がひやっとして、少し淋しい。
「でも、ありがとう。あたし、大きくなったらパパのお嫁さん、なってあげるね!」
 そう言うと、戸惑った表情で笑顔を浮かべたお父さん。
 今は、町役場のちょっと頑固な室長さんとして、きっとごま塩頭を撫でながら仕事に励んでいるはずだ。







『藤林、今日も一日がんばります!』








「ごめん、あたし先に帰るわ」
 そう言うと、歌っていた海砂がマイクを握ったまま、えぇっと真っ先に非難の声をあげた。
「なーに、杏。やっぱりあんたも『友情は、モテナイ女の避難場所よ』なーんて思ってたってわけ?」
 そんなんじゃないわよ、とあたしは右手を振った。
「もう新学期始まっちゃったしさ、明日も朝早いからあんまりハメ外せないのよね」
「なーんだ、オトコはオトコでもガキンチョかぁ」
 そう言うと、目の粗いストッキングを交叉させてレモンハイをぐいっと飲み干す。
「あんたもつくづく男運が無いわよね。職場もオトコ日照りだって言うしさ。――なんて言うか、青春の無駄遣いをしてるって感じ?」
 ちょっと言い過ぎよ、と隣に坐っていた尚美が海砂の袖を引っ張る。
「いっそのこと、将来性のありそうなガキンチョに手を出しちゃえばぁ? そしたらあんたが40になってもさ、ひぃふぅみぃ……むぐっ」
 最後のむぐっ、は、尚美が彼女の口を塞いだ時の声だ。
「ごめんね、ちょっとコイツ酔いすぎみたい。お仕事、大変だと思うけど頑張ってね。一段落したら、またカラオケしよう」
「うん、でもあたし、好きでやってることだから。それじゃあ」
 そう言って今度は左手を振ると、あたしはルームの扉を閉じる。
 そしたらもう、さっきまでの喧噪は向こう側の世界。
 仄暗いカラオケ屋を出て、人気の無い道にでる。今日は絶好のお花見日和! と言いたくなるくらいの快晴だった。そんな日は、夜になって瞬く星々もくっきりと見える。
 この街は何も無いけれど、こんなにも星が綺麗なことだけは、きっと誇ってもいいと思う。
 あたしが南に歩くと、星たちも南に動き出す。
 あたしが立ち止まると、星たちも一斉に立ち止まる。
 アルコールで体はぽかぽかしている。冬の冷たさを残した風のリアリティがおでこや髪を優しく撫でる。
 きっと、あたしは夢をみていたんだ。
 恋人ナシの友達たちと、暗くて狭い部屋で歌ったり踊ったり。
 年甲斐もなく、キャーキャー騒いじゃって。
 そして夢から覚めると、ひとりぼっち。
「友達なら、いるんだけどさ――」
 あたしだって年齢のクリスマスを目前にして、それ以上の誰かが欲しいと思うことはある。
 独り寝の宿が見えてきた。地上の星の光がきらきらこぼれる、マンションの片隅。



「今日も一日頑張ります」
「今日も一日頑張ります」
 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
 幼稚園のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で門をくぐり抜けていく。
 ――乙女っつっても、ガキンチョだけどね。
 あたしは職員室の窓からその様子を眺めながら、エビアン水のペットボトルに口をつけた。
 園長先生が決めたこっ恥ずかしい挨拶の文句を、表で元気に口ずさんでいるのは年長組の生徒たちだ。
 あたしが受け持っている年中組は、授業の開始が年長組より30分遅いので、この時間、あたしは屋内で先輩たちへのお茶くみとか、事務処理とかをやっている。
 遠くから眺める子供たちは本当に天使みたいで、窓から彼らを眺められるこの時間が、あたしは一番好きだ。
 近付くと、ぶちたくなることもあるんだけど。
「今日も一日頑張ります。……藤林さん、どこか具合でも悪いんですか?」
 そう言って話しかけてきたのは、宮沢さんだった。
 今日も一日――とは応じず、あたしは「おはよう」と挨拶を返す。
「昨日夜遅く帰ったら、妹から電話があってさ、『お姉ちゃん、同じ町で一人暮らしなんて馬鹿なことやってないで、家に帰って来なよ』だって」
「椋さんも、結構言うようになりましたね」
「あの子は昔っから言うことは言うのよ」
 他の同僚には聞こえないように、小声で話す。
 宮沢さんは気が置けない。
 同じ高校の後輩ということもあるのだけれど、彼女の瞳にはどんな相手でも公平に映るんだという、安心感があった。
 こういった特殊な、話し相手になれそうな人さえ少ない職場において彼女は貴重な友達だ。
 もっとも、椋がその後に「どうせ彼氏もいないんだし」とトドメを刺しに来たことは、友達であるところの彼女にも内緒だけれど。
「そう言えば、あの子たちには慣れましたか?」
 いつまでも“お友達モード”は良くないと思ったのだろう。“同僚モード”の透明な良く通る声で、彼女は話題を切り替えた。
 あの子たち、とは年少組を受け持つ彼女から引き継いだ、今は私が担当している年中組の生徒たちのことだ。
「うん、大分ね。――あっ、そう言えば」
 あたしは小振りなペットボトルをくしゃっと握りつぶして、手近なゴミ箱に投擲した。
「ちょっとあなたの席で話したいことがあるんだけど――」

 彼女の席は、職員室の窓際――と言っても、別段彼女の職場での評価と関係あるわけではない――に置かれていた。
 几帳面な人で、机の上はいつも整理されている。あたしなんていつもぐちゃぐちゃで、隣の席の先生に嫌みを言われるくらいなのに。
 朝方のこの時間は白い光が入って眩しいんだけれど、彼女の席は植え込みの木の陰になっていて、事務整理をするにはかえって丁度良い明るさだ。
 そういった場所を計算無しでさらっと自分のものにしてしまう彼女のセンスに、あたしはちょっとした嫉妬を彼女に向けてしまう時があった。
「何のご用でしょう?」
 あたしにコーヒーを――自分のためには紅茶を――淹れながら、彼女は笑顔で尋ねた。
「うん。例の子のことなんだけどね」
「岡崎汐ちゃんの事ですか?」
 半ば予期していたのだろう、彼女は笑顔を崩さないまま、あたしの話を聞き始めた。



 幼稚園にも内申書があると聞いて、驚く人はどれくらいいるだろう?
 小学校の「お受験」の存在なんかを考えて貰えば、案外、納得して貰えるかも知れない。
 もっとも、受験に必要なのは調査書というもので、内申書とは違うのだけれど。
 とにかく、宮沢さんのクラスを引き継ぐことになったあたしは、彼女が生徒たちとの1年間の触れ合いを通して得た、貴重な情報が書かれた内申書にも、一通り目を通している。
 その3枚目に、彼女の名前はあった。

 1.児童氏名: 岡崎 汐(おかざき うしお)

 これを読んだその時、すぐにアイツのことを思い浮かべた。
 高校時代はそれなりに仲良くしていたのに、卒業してからは手紙一つ寄越さない、まぁ、過去に埋もれてしまった友達の一人だ。
 が、あたしはその可能性をすぐに打ち消した。
 高校を出てからまだ7年しか経っていない。その間にここまで子供を育てるというのは、いくら何でも早すぎる。
 そんなあたしの推測は、しかし次の項目によって外れていたことが分かった。

 2.保護者氏名: 岡崎 朋也(おかざき ともや)

 アイツだ。
 あたしは、アイツの子供を受け持つことになる。
 胸が急に高鳴った。
「ふむふむ、どれどれ」
 そんな自分に照れ隠しするように――誰が見ているというわけでもないのに――あたしは声を上げて彼女のプロフィールを読み始めた。
「――6.学習の記録、……って、全部+(良い)じゃない。アイツの娘にしては随分優秀ねぇ」
 言ってから、母親の事に思い当たった。
 古河さん。
 病気がちな人で、あたしが彼女と話したことは数度しかない。
 それだけではなく、あの頃あたしは朋也にちょっと憧れていた。
 だから、彼女はあたしの恋敵、ということになる。
 でも、決してあたしは、彼女の事が嫌いでは無かった。
 一見目立たない子だったけど、控えめなようで大切なところはしっかり守っている子だった。勉強にも熱心で、一学期は成績上位者一覧にも載っていた、そんな彼女のことを、むしろ尊敬していた。
「そっかー。汐ちゃんは母親似かぁ。きっと可愛い子なんだろうなあ」
 なんとなく、微笑ましい気分になる。
「9.行動の記録。自主心、向上心、創意工夫、思いやり……、うそ、これも全部+だ」
 学業成績だけは全部+、というのなら珍しい話じゃない。
 早熟な子というのは、どこのクラスにも一人はいるものだからだ。
 だけど、性格や行動は加齢よりも、持って生まれた気質の影響が大きい。
「良いところはお母さんによく似たのねぇ。これは将来有望だわ」

 9.行動の記録 所見: 優秀で頑張り屋なのですが、この歳にして他人との境界を厳しく守っているように見えます。

「あれ、ここは朋也だ。あんな風に歪んじゃわないように、あたしがちゃあんと指導してあげなくちゃ」
 胸の奥がぽっと暖かい気分でいっぱいになる。
 こんな気分を味わうのは、久々だった。
 あたしの好きだった人と、あたしが尊敬していた人の子供を、あたしが預かることになる。
 はやく、この子に会いたいと思った。
 古河さんや、朋也にも。

 12.特記事項:

 普通は空欄であるはずのこの場所に、赤文字でこう書かれていた。

・家庭に問題あり
 出産時に母親が死亡し、父親からの虐待を受けていたようです。
 現在は、母方の祖父母の元で育てられています。



「あたし、この子のお父さんの同級生だったことがあるのよ。――だから、信じられないわ」
 特記事項を読んだ時の、胸の奥に氷嚢をぶちこまれたような気分。それを吐き出すような言い方になってしまった。
「あの子を見たわ。普通の、――むしろそこに書かれている通り、とっても良い子だった。確かにお母さんは亡くなってたみたいだし、迎えに来るのも朋也じゃないけど、だからってアイツが虐待してたなんてっ」
 宮沢さんはちいさくけほん、と咳払いした。
「――ごめんなさい。つい感情的になってしまって」
「虐待、と言っても、汐ちゃんのお父さんはあの子に特別何かをしたわけでは無かったと聞いています。でも、お父さんは元々問題のある家庭に育ったそうですし、奥さんを亡くされて精神的に不安定、能力的にも不安な状況だったこともあり、お役所の方とも話し合われて――」
 これでも、彼女が言葉を選んでくれていることが良く分かった。
 朋也は汐ちゃんに『特別何かをしたわけでは無かった』のではなく『何もしなかった』のだ。
 ネグレクト――育児放棄。
 虐待と言うと殴る蹴るといった暴行のイメージが強いが、子供に必要な愛や食物を与えないという形での虐待は、公の調査では暴行に次いで二番目の事例数が――おそらく潜在的には暴行よりも圧倒的多数――存在している。
 彼女の言っていることは、つまりはこういうことだ。
 古河さんを亡くした朋也は心神喪失状態になり、自分の娘を振り返ってやる余裕さえ無かった。それは児童相談所をして『虐待』と定義せしめる程に娘の心身に悪影響を及ぼし、最終的には古河さんの御両親が汐ちゃんを預かることに落ち着いた、と。
 あるいは、古河さんの御両親が先手を打って児童相談所に申し出た可能性もある。いや、そちらのほうがありえそうな話だ。そうやって周りが必死に汐ちゃんを守ろうとしている中で、当の本人は妻の忘れ酒でもあおっていたんだろう。
 ばかやろう。
 朋也の実家の事情なら、宮沢さんよりもあたしの方が良く知ってる。
 虐待の被害者になった児童は、9割が大人になったら今度は自分の子供に対して虐待の加害者になるって話は聞いてたけど、あんたがそんなに弱い人間だったなんて。
 頼れる人間だって周りにいただろうに、同じ町なんだから、あたしにだってちょっと相談するくらいできただろうに、結局一人で抱え込んで、そしてこんな結果を……。
「問題なのは、汐ちゃんの方です」
 あたしの葛藤が収まるまで待ってから、穏やかに、しかしピシャリと宮沢さんは言った。
「あの子は問題の無い良い子よ。あなたもそう書いたじゃない」
「表面上問題のない子が、実は一番問題なんです。――それに、両親の愛情を十分に与えられて育った子と、そうでない子はやっぱり『違う』んですよ」
 さざ波のように彼女は笑った。
 それで、あたしは彼女も特殊な家庭の中で育ってきたことを思い出した。
 今日の彼女はいつになく饒舌だった。それも、彼女自身、こう言った問題に余所事ならぬ想いがあるからなんだろう。
 それでも、彼女に対する感謝の念は変わらない。だから、それを素直に言葉にすることにした。
「ありがとう」
「いいえ。何かお手伝いできることがあったら、遠慮せずに言って下さいね」
 きっと、これも社交辞令ではないはずだった。



 他人との境界を厳しく守っている。と、宮沢さんは書いていたが、実際、汐ちゃんに特定の友達ができる気配はなかった。
 話しかけて来る子には笑顔で対応するし、喧嘩だってしない。ただ、いつもつるんでいる相手というものがいない。
 しかし、それはこのくらいの歳の子供にとっては、別段問題ある状態とは言えなかった。
 まず、子供は親から愛されることに始まるのだ。
 十分に親の愛を受けると、ある時期を過ぎてから段々それが鬱陶しくなり、友達を求め出すようになる。
 5歳という年齢の子は、いわばそのプロセスの半ばにある。言い換えれば友達作りを既に開始しているかそうでないか、その点において最もばらつきのある年代だと言える。
 あたしが不安だったのは、彼女がその過程をこれからきちんと辿ることができるかについてだった。
 汐ちゃんが友達を作るようになれば、それは逆説的に彼女が「実の両親と共に暮らしていなかった」という状態にそれほど悪影響を受けなかったことを証明する。
 あたしは、早くそれを見て、安心したかった。
「私も、患者さんを見て、お姉ちゃんと同じ気持ちになることが良くあります」
 椋に電話で相談――もちろん実名は出さずに――したら、彼女はそう言った。
「そんな時、あんたはどうするわけ?」
「信じるんです。『医者は病気を診るけれど、私たちは人を看ている』んだって」
「どういうこと? それ」
「ナイチンゲールが看護婦の信条について語った言葉なんですけど――お医者様は患者さんの病状を診断して、どうすれば良いかの助言を与えたり、薬を処方することはできます。でも、結局病気を克服するのは、患者さん自身。だから、私たちは患者さんのお世話をしたり、話し相手になりながら信じるんです。きっとこの人は良くなってくれる、頑張って病気を克服してくれる、って。届くかどうか分からない、祈りみたいなものですけど、私はそれを信じているからこそ、看護婦という仕事を続けられるんです」



 教室内に泣き声が響いた。
 この歳の子供たちは本当に良く泣く。理由なんてなくても突然わんわんやりはじめるのだ。
 彼らは生まれたばかりで、まだこの世界を信じられないのではないのだろうか。混沌の恐怖を常に生々しく感じているからこそ、こんな風にすぐに泣き出してしまうのかも知れない。
「どうしたの、江流くん」
 むやみに彼に触れたりはしない。
 まだ新学期が始まったばかりで、あたしと彼らとの間には十分な信頼関係が築けていないからだ。
 あたしは彼らの言葉に耳を傾け続けなくてはならない。
 この時期が、一年間で最も辛抱が必要な時期だった。
「あのね……かってたいぬのアイバーがね……しんじゃったの」
「そう……」
「……せんせい、しんじゃったアイバーは、これからどうなっちゃうの?」
「…………」
 一瞬、躊躇う。
 どう答えれば幼稚園の先生として一番適切なのかは、知っていた。
 この世代の親御さんの多くは、適当な事を言って曖昧に誤魔化すことでこの質問に応えているからだ。
 そのやり方の是非は敢えて考えない。先生は親の教育方針に異を唱えられるほど偉くはない。
 自分の教育方針は、自分自身の子供に対して貫けば良いのだ。
 だけど、やはり嘘をつくことに躊躇いがあった。
 あたしに向けられる純粋な瞳を、純粋な信頼を裏切ることに、罪悪感を覚える。
 でも、それだって子供たちが真実を知ったときに自分が『嘘つきの先生』になりたくないという、衒いに過ぎないのかも知れない。
「……アイバーはね、お星さまになっちゃったのよ」
「ほんとう?」
「本当よ。死んじゃった人でも動物でも、みんなお星さまになっちゃうの。だから、アイバーはきっと夜のお空を見上げればそこにいるはずよ」
「……うん」
 泣き疲れたこともあってか、江流くんはべそをかきながらも大人しくなった。
 やれやれ――そう思ったのも束の間、今度は廊下側の席に座っていた粧祐ちゃんが大きな声で叫んだ
「せんせーっ、せんせいっ! うしおちゃんがきょうしつをでていっちゃいましたっ」



 汐ちゃんのことはすぐに見つけることが出来た。
 彼女は女子トイレの中で泣いていた。
「汐ちゃん」
 だけど、私がそう呼びかけると彼女は泣き声を出すのをやめた。
「どうしたの?」
「うんとね、きゅうにおなかがいたくなったの。だまってでていってごめんなさい」
 違う。
 あたしの教師としての経験が、彼女の言葉に漂う嘘の匂いを嗅ぎ取った。
「……そう。じゃあ、先生ここで待ってるから教室には一緒に帰ろ」
「…………」
 後で考えてみれば、この時のやり方は性急で強引で、その時の彼女を少なからず苦しめたのかも知れない。
 だけど、あの時のあたしは、彼女が笑顔の裏側に何かを隠しているのか、それとも本当に無邪気に笑っているのか、どうしてもそれを知りたかったのだ。
「……せんせい」
「なぁに」
「あたしのおかあさんもしんじゃったんだけど、おほしさまになったんですか?」
「うん、きっとそうよ」
 あたしは、自分が信じていないことを図らずも吐露してしまったことに、気が付かなかった。
 しばらくして、真っ赤に目を泣きはらして、それでも普段通りの笑顔を作った汐ちゃんが出てきた。



 先輩の先生には『これだから若い人は……』と嫌みを言われた。でも別に、あたしは何か偉い人になりたいんじゃない。ただ、こんなことが見過ごせないだけ。
 いつも汐ちゃんを迎えに来る、古河さんの御両親にあたしは相談してみた。――正直に言うと、思いをぶちまけた。
 お二人は想像以上に気さくでしっかりした方で、でも、失礼ながら、だからこそ汐ちゃんが甘えるのは難しいかも知れない、とも思った。
「今日の夜、一時間だけ汐ちゃんを貸してくれませんか?」
 あたしはそうお願いした。
 御両親は快く応じてくれた。



 汐ちゃんと二人、丘の上に立つ。風がとっても寒い。
 でも、こんなにも星が近い――。
「届きそう?」
 汐ちゃんのあったかい体を抱っこする。汐ちゃんは両手を伸ばした。
「うんしょ、うんしょ。とどかない」
「うーん。じゃあさ、あそこの建物の屋上に行ってみよっか。――実はあれ、あたしとあんたのお父さんが卒業したところなのよ」
 あたしは極秘ルートから入手した鍵をじゃらり、と取り出した。
 まだ、桜は散っていない。風に煽られて、校内の街灯の下をキラキラと輝きながら舞っていた。
 幽霊が出るかもー。なんて言いながら二人、真っ暗な校舎を昇った。
 そして、丘の上よりももっと寒い、校舎の上から星を掴まえようと懸命にジャンプした。
「はあ、はあ、……やっぱり無理だったわね」
 汐ちゃんの方を振り向くと、彼女はコンクリートに坐り込んで、にこにこ笑っていた。
「あっ。サボってたな」
 こくん、と頷く。その仕草が可愛くてあたしは吹き出した。彼女も、真似して吹き出す格好をした。
「ねえせんせー」
「なあに」
「ほんとうはしってた」
「なにが」
「おほしさまはとどかないって、おほしさまにおかあさんはいないって」
 笑顔のままだった。
「そっか……」
 ひょっとして、あたしのやってることは空回りだったのかな?
「でも、きょうはたのしかった。だからね」
 汐ちゃんは右手を右手を差し出した。
「せんせーのおともだちになってあげる」



「今日も一日頑張ります」
「今日も一日頑張ります――って、あら?」
 可愛く小首を傾げたのは、あたしの挨拶を受けた宮沢さんだった。
「どういう心境の変化でしょう?」
「うん。なんていうか、この挨拶も悪いもんじゃないなって思ってね。――実は昨日の夜、大切な人ができたの」
「えっ。もしかして――」
「トモダチだけどね。相変わらず男日照りよ」
 でも、それも悪くないな。
 これからも、あたしは頑張っていこう。
 寂しいときに慰めてくれないし、優しい言葉もかけてくれないし、格好良くもない。この、小さな友達たちと一緒に。
 なぁんて思うようになった、そんな春の1ページでした。
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