お店を出ることもあまりなく、よそいきを着る機会のめっきり減った昨今ですが、
それでもこの日だけはおしゃれをして行こうといつも思っています。
「じゃあ秋生さん、お願いしますね」
「はいよ。気をつけてな」
笑顔で送り出してくれます。最近の彼はわたしにもっと遊べと言います。
わたしが遊ぶと秋生さんが遊べなくなりますよ、と反論してもいいから遊べ、遊びまくれ、そう言います。
人のことばっかり気にするんですから。でもわたしはそういう夫が大好きです。

月に二回の約束の日。その場所に行く前にわたしは駅前の花屋さんに向かいます。
最初は菊とか百合とか、そういう決まりきったものだけを持参していたのですが飽きてしまいました。
このごろはわたしがその時期ごとに好きな花を持って行くようにしています。
でないと、あの子達も飽きてしまうような気がするのです。
もうすぐ夏です。不思議と二人のところに行く日はお天気が多いような気がします。
梅雨の晴れ間の青空の下で、にじんだような色彩の紫陽花が目にとまりました。
花びらに触れながら選んでいると
「古河さん」
鈴が鳴るようなやさしい声がわたしを呼びました。
「公子さん……」
振り向くと娘が一番なついていた先生が落ち着いた黒いブラウスに身を包んで立っています。
挨拶を交わしたあと彼女はわたしが手に持っている花束に目をやると、にこっと微笑み
「お二人によろしくお伝えください」
そう頭を下げるとバス停のほうに歩いていかれました。
公子さんも、やっぱり花束を持っていました。
時々体調を崩して入院される妹さんのお見舞いに彼女は出かけます。
彼女が花束を手向ける先にいる人はいくら調子が悪くてもそこにいます。
そのことが少しうらやましく思われました。
彼女が乗る隣町行きのバス停から少し離れたところにわたしの乗るバスは止まっています。
平日の昼間、病院の名前と霊園の名前をそれぞれ車体の前に表示した二台のバスは
それぞれ逆の方向を向いて同時に走り出して行くのです。

岡崎家先祖代々之墓。周囲よりひとまわり小さなその石にはそう刻まれてあります。
本当はすごく遠いところに本家のお墓があるらしいのですが
朋也さんが手を尽くしてこちらに分祀という形で小さな石の祠を建てました。
お父さまもおばあさまも反対はされなかったと聞いています。
わたしはいつもどおり水をかけ、たわしで磨き、花を活け、香をたきました。
広さや立派さでは周りのお墓に負けますが、お花の数とぴかぴか度なら負けませんよ。
「さあさ、きれいになりましたね」
手を合わせて語りかけます。最近あったこと、わたしのこと、秋生さんのこと、朋也さんのこと。
そうそう、最近の大ニュースを発表しなくちゃ。
「朋也さん、彼女ができたみたいなんですよ」
最初は驚きました。でももう、八年もたつんですよね。渚が世を去って。
喜んであげなきゃ、て思うのになんだか渚がお嫁に行くときのような、複雑な気持ちなんです。変ですよね。
「ここにも連れてくる、って言ってました」
渚はどんな顔するんでしょうね。秋生さんが焼いたコッペパンのようにすべすべした
ほっぺたを膨らませて抗議するのでしょうか。いやいや、あの子の事だから
ふわっと微笑んでおめでとうございますって言うんでしょうか。
しおちゃんなら新しいお母さんの出現にどういう顔をしたでしょう。
その人の胸の中で泣くことができたでしょうか。
でもきっと、朋也さんの好きになった人だから、やさしくて温かい人ですよ。渚のように。

いつもここにいると時間が過ぎるのを忘れてしまいます。
気が付くと日が翳りだしていました。また秋生さんにずっと店番させてしまいました。
おなかをすかせていることでしょう。わたしは帰らなければなりません。
もう一度手を合わせてバス停に向かいます。
霊園のすぐ側には保育園があり、長時間保育のお迎えに若いお父さんお母さんがいらっしゃっています。
子供達はみんな待ちかねたようにその胸の中に飛び込んでいきます。
その横をちょっと目を伏せて、わたしは通り過ぎていくのです。
これだけ時間がたっても、その中にいるはずのない人影を探す自分がいますから。
ぷしゅーと音を立てて止まったバスに乗り、一番後ろの席に腰を下ろします。
わたしのほかに誰も乗客のいないさびしい車内です。
窓を流れていく家並みからもれる暖かい光を感じながら夕食の段取りを考えているうちに
いつのまにかうとうとと眠ってしまいました。

そろそろ着くかな、と目を覚ましたわたしは見慣れない風景に驚きました。
どうもバスを間違えてしまったみたいです。あわてて次の停留所で降りると、全く別方向行きの
バスに乗っていたことがわかりました。いい年をしてもドジで困ってしまいます。
落ち着いて周りを見回してみると、どうも見覚えがある景色。
バス停の名前を確認してみると、そこには娘の母校の名前が記されています。
気付くと、わたしは学生寮の横を通り、学校へ向かう坂道を登り始めていました。
部活動で遅くまで練習していた子供達が笑いさざめきながら坂を下って行きます。
視界に人がいなくなると同時に、坂道の両側にある木々の枝が風に揺れてざわざわと音を立てました。
門を一歩はいると、暗い校舎の輪郭が懐かしい景色を呼び覚ましてくれます。
なにせ人より余計に通ったところですもの。
校舎へ向かう道で、背の高い男の子と特徴的な前髪の小柄な女の子の二人連れとすれ違い、驚いてしまいました。
よくよく見直すと全然わたしの知っている二人と違うシルエットなのに、
こんなに心臓がどきどきするなんて、一番割り切れていないのは、やっぱりわたしなのかもしれません。

校舎の鍵は開いていましたが、人影はもう見当たりません。
スリッパが廊下を擦る音だけが誰もいない校舎に響きます。
病気がちだった渚は同じ学年で二回違う教室を経験しました。
学校に呼ばれて、わたしはよく教室で担任の先生と渚の進級や進路について話をしました。
先生たちは例外なく困ったような顔をしていましたが、わたしはあまり気にならなかったものです。
別に誰かと競っているわけでも、比べているわけでもありませんでしたから。
渚がやりたいように、やれるだけやってくれればいいと、それだけを思っていました。
大半の時間をたった一人ですごし、でも家では弱音を吐かない、心の強い子でした。
教室の真ん中あたりの席に腰を下ろしてみます。
こんなに広いんですね。一人でいると。
朝から夕方まで、どんな気持ちで渚は過ごしていたのでしょう。
でも朋也さんと出会ってからはさびしくなかったよね、渚。

見覚えのある教室を全て回り、階段を下りようと廊下を歩きます。
時計の針は八時を回っていました。秋生さんに謝らなきゃ、と足を速めようとしたとき
上の方で、きい、と金属がきしむような音がしました。
下りかけた階段をまた登ると、教室のある最上階からさらに階段が続いています。
屋上へ出る扉が施錠されないままゆっくりと風に揺れています。
私はさび付いた扉を押して、外に出ました。
雨が近いのでしょうか、湿り気を帯びた重い空気がふわりと流れていきます。
屋上の周りをかこむ金網に指をかけて街のほうを眺めると、無数の光がちかちかと瞬いていました。
わたし達の家の方角にも、渚と朋也さんが住んでいたあたりにも、
同じ密度で、同じ明るさで光が広がっているのです。金網の格子模様がなんとなく目障りでした。
よっ、と声を出してわたしは金網をよじ登ります。きっと秋生さんも朋也さんもこんなところ見たら驚くんだろうな。
そう思うとなんだか楽しくなってきました。スカートが風にはためきます。
金網の一番上から顔を出すと、視界を邪魔されることなく街の夜景が広がっています。
こんなに大きな街だったっけ。そう思うくらい視野の端から端まで光で覆いつくされていました。
もっと高いところから見たいな。この上に立って、街を見てみたい。体をさらに上にあげようとしたその時
「早苗さん」
と誰かがわたしを呼びました。振り返ると、作業服姿の若い男性がこちらを見上げています。
暗くて表情がわからないその男性は右手を差し出しかけて下ろし、左手をそっと差し伸べました。
「帰りましょう」
静かな声にわたしはうなずいてそこから降りました。

「早苗さんがまだ帰ってこないってオッサンが心配してたから」
階段を並んで下りながら、朋也さんはポツリと言いました。
「よくここにいるなんてわかりましたね。やはり運命でしょうか」
「そうかもしれませんね」
おばさんの苦し紛れの冗談に朋也さんは少し笑ってくれたようでした。
「それに俺も時々ここに来るんです」
そのあと校舎を出るまで押し黙っていた彼は今いた建物を見上げて言いました。
「学生のときはあんなに嫌いだったのに、不思議なもんです」
湿った風がまた吹いて、朋也さんの男の人にしてはさらさらした髪を乱しました。
また二人黙って歩きます。わたしに気を使ってゆっくりと隣の人は歩いてくれます。
校門まで来たところで朋也さんは口を開きました。
「早苗さん。オッサンはすごくさびしがり屋なんですよ。そして俺も」
言葉を選んでいるかのようにとつとつと。わたしは何を心配されているか悟りました。
大丈夫ですよ、と言いかけてなぜかそこで詰まってしまいました。大丈夫、のはずなんですけどね。
だから大丈夫ですよ、って言う代わりに私は一つのお願いを朋也さんに投げかけます。
「手をつないでくれませんか。この坂道の終わりまで」
「どうしたんですか?」
朋也さんは夜目にもわかるくらいきょとんとしていました。かわいい人です。
「渚はいつもどういう気持ちで朋也さんとここを歩いていたのかな、って」
しばらく考えていたその人は、わたしの指先を柔らかく握ると坂道を下り始めました。
大きくて、ひんやりしていて、秋生さんとはまた違う手の感触です。
ちょっと弱くなっていたわたしの心を慰めてくれるような、そんな手のひらでした。
そういえば渚はよく言っていました。朋也くんの手は優しいのです、と。
見上げたわたしに気付き、彼は少し微笑んでくれました。
ああ、この人が渚の愛した人。渚、あなたは本当に幸せだったのですね。
「こんなところをオッサンに見られたら俺の命はないですよ」
朋也さんはいたずらっぽくわたしの目をのぞきこんで言いました。
「今のわたしは渚ですから」
自分でもどうしてそういうことを言ったのかわかりません。でも自然にそう言葉が出てきたのです。
「だからお父さんもきっと怒らないです」
まるで心の中に本当のわたしでない誰かがいて、そう言っているような感覚でした。
朋也さんは息をのみ、その顔は驚きにおおわれ、そして悲しそうな表情に変わりました。
「早苗さん、そういう冗談は……」
最後まで聞かずにわたしはつないだ手を引きました。広い背中に腕をまわします。
彼はしばらくためらっていましたが、やがてわたしを強い力で抱きしめました。
朋也さんの気持ちが、接している全ての部分から流れ込んできます。
その瞬間、暗い並木道から、桜が舞い散る時のあの香りがしたような気がしました。
わたしの心の中にあいた真っ黒な部分に桜の香りが漂いはじめ
流れ込んできた朋也さんの気持ちとわたしの中のあの子とが交わっていきます。
だきしめる腕の強さが、髪を撫でる手のひらの優しさが、耳元にかかる吐息の音が、
働いた証の汗のにおいが、首筋にかかる涙の熱さが
わたしの五感を通して渚に全部伝わればいい。そう、思いました。
「渚、ごめん……俺は……」
わたしは、いえ、わたし達は彼の腕の中で彼が謝るたびに何度も首を横にふりました。
謝る必要なんてないんです。
あの子の願いは、わたし達の願いはたった一つ。あなたが幸せになることなんですから。

坂道の終わりで秋生さんが待ってくれていました。
あわてて離そうとした朋也さんの指をわたしは強く握って逃がさず、
秋生さんには空いているほうの手を差し出しました。
「ごめんなさい」
わたしが思っていた通り、秋生さんは怒りませんでした。わたしの謝罪にうなずき、くわえタバコのままにかっと笑うと
やさしく、でも力強く差し出した方の手を握り、じゃあ帰るか、と明るく言いました。
街灯の下でぽつり、ぽつりと雨滴が地面の色を変えていきます。
二つの大きなやさしさに包まれて、いつしかわたしは歌っていました。娘の大好きだった歌です。
しばらく聞いていた二人もやがてそれに和してくれました。そのときわたしの耳は確かに聞いていました。
手をつないでいる二人に愛された、かわいい子供達の声を。
朋也さんは後ろをそっと振り向くと、誰もいない暗がりに向かって小さくうなずきました。
桜並木の坂道で、いつも途方にくれていたというあの子。朋也さんは坂道でたたずむあの子を見たのでしょうか。
わたしはそれに気付かないふりをしてひときわ大きくうたいました。
湿った風は水のにおいを運んできて、雨は思ったより強く地面を叩きはじめています。
肌を流れる雨のしずくがわたし達を素直な気持ちにしてくれているような、そんな気がしていました。
雨にぬれながら家に帰りつくまで、三人で、いや五人で歌い続けました。
次元を超えてわたし達を結び付けているその歌を、ずっとずっと忘れないように。
そして最後の一回をうたい終えたとき、わたしの耳にあの子達の声はもう届いてきません。
南の国にふるような激しい通り雨はいつしか止んで、空には静けさが戻ってきていました。
「今度その人を連れてきます」
朋也さんの言葉にわたしは笑顔でうなずき、秋生さんはばんばんと彼の背中を叩きました。
「わたし達は最後の一人がいなくなるまで家族ですからね」
同じだけ悲しみを背負ってきた人は、少年のように顔をゆがませると
それでもけん命に微笑んで頭を下げ、帰って行きました。
「あいつでよかった」
秋生さんはそう小さくつぶやいて家に入り、早く体を拭けよ、とタオルを投げてくれました。
わたしは体にかすかに残った朋也さんの香りを抱いて少しだけ、泣きました。
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