眠りにつく前に、できるだけ部屋を真っ暗にする。オレンジ色の間接照明も切る。瞬く間もなく、闇は隙間無く訪れる。けれど、ここに住む闇は仮初め。すぐに部屋の形が浮かび上がる。白い壁。白い天井。ドーム型の照明も白い色。わたしはベッドに仰向けになって、部屋一杯に星空を投影する。わたしはさながら水平型のプラネタリウム。あの星がうしかい座のアークトゥルスだって教えてくれたのは誰だったのか。記憶は欠損していく。それは夜、夢を見ている間にそっと失われる。もしくは昨日が今日に変わる瞬間、悪い夢と一緒にバクに食べられている。
 わたしをわたしたらしめているもの。その連続性について、最近よく考える。
 夜空を消して、兄の姿を映し出す。それは永久の眠りにつく前のファンタズマゴリア。兄のことを記憶しているわたしという名の装置。まだ憶えている。兄の顔を憶えている。兄の体温を憶えている。声を憶えている。髪質を憶えている。指の形を憶えている。
 わたしはこうして、魔法を使う。





 魔法の使えなくなった魔法使い。





 窓の外は夜に似ている。今日は朝からひどい雨が降っていた。学校に閉じこめられてしまったような閉塞感。湿気を含んだスカートの裾が足に張り付いて、その気持ちを更に助長している。ごうごうという雨の音。こんな時、兄だったらなんていうだろうか。わたしは眉間にしわを寄せてから、思う。
 うーわ、超雨じゃん。
「ど、どうした宮沢……」
 資料室の隅で本を物色していた朋也さんが目を丸くしている。朋也さんが取りこぼした本が床に広がって、蝶の羽根みたいだった。
「はい?」
「いや、今いきなり『超雨じゃん』とか言うから」
「あ、すいません。思わず口に出してしまいました……」
「何かに取り憑かれたかと思ったぞ……もしくは二重人格とか」
「あはは、大丈夫です。わたしはわたしのままですし、乖離性同一障害も患っていません」
「ひょっとして、誰かの物真似とか?」
「はい……。ちょっと兄の真似をしてみました」
「はは。たぶん、似てるんだろうな」
「うーん、どうでしょうか……」
「いや、会ったことないからなんとなくだけどさ」
 朋也さんは少し困ったように笑っていた。わたしもつられて、不器用に笑う。その声に混じって、キンコンカンコンと予鈴のチャイムが鳴り出した。
「やば……悪いけど先に行くな。次の数学、当てられそうなんだ」
「あ、はいー」
「宮沢もちゃんと授業出るんだぞ?」
「あはは……はぁい」
 わたしはわざと間延びした返事をする。朋也さんはひらひらと手を振って、資料室を出ていった。
 わたしは飲み終わったコーヒのカップを洗う。濡れた手をハンカチで拭いて、椅子に座り、そのままふにゃあと脱力する。しばらく机に伏した後、首だけ捻って、また窓の方を見る。机に触れた左の頬が冷たい。指で唇に触れた。指先は冷たくてあの日の朋也さんの唇には似ても似つかない。窓の外には相変わらずの雨に刺されて、にへらと笑う兄がいる。



 $$$



 昔のことを少し思い出していた。小学校高学年の頃、わたしの声が届かなくなった日のことを。

 そういう日に限って、学校を休んでうたた寝したくなるくらい穏やかな天気だなあと思ったことを覚えている。その日からわたしは突然、クラスの女の子グループから無視されるようになった。原因があって結果があるなんて、そんな理路整然とした世界ではなかったんだと思う。それはいじめというより子供の残酷な遊びのひとつで、たまたま今回、その生贄がわたしだったのだ。飴玉をゆっくり口の中で溶かしていくようにその現状を理解していくと、悲しいのか寂しいのか悔しいのかよく分からない感情がドロドロになり、血液と混じって身体の隅々に流れていった。その日、わたしはこれからどうしたらいいのかさえも分からずに、窓の外ばかり見て過ごした。

 そんな日が三日ほど続くと、わたしはあるひとつの疑念を抱くようになる。ひょっとして、わたしは他の人と同じ言葉を喋れていないのではないだろうか。世界に様々な言葉が混在するように、あのクラス――もっと言ってしまえば、この街にもこの街特有の言葉が存在していて、わたしはいつの間にか、この街の言葉が喋れなくなってしまったのではないか。もしそれが本当で、わたしがどんなに伝えたい言葉を絞り出しても、それが届かなかったとしたら……。それから、わたしは口を閉ざして過ごした。家で母に話しかけられても、頷いたり首を振ったりして答えた。もし、「おかあさん」と呼びかけても返事が返ってこなかった時のことを思うとそれだけで怖かった。それが本当なのだと、知ってしまうのも怖かった。
 わたしは生まれて初めて、底を這うような涙のこぼれない悲しさを知った。

 その週の日曜日。首にそっと手をあてがわれているような息苦しさ。眠れない夜がわたしの首を押さえつける。わたしは一人で、何ひとつ希望のない月曜日の朝のことばかり考えていた。そして、その訪れを恐れていた。身体がこわばって、足の裏が痙攣を起こしそうになる。仕方なくわたしはもそもそとベットから起き上がり、何か飲もうとパジャマのままで居間に下りる。階段を下りたところで、居間から明かりが漏れていることに気付く。そっと扉の隙間から様子を伺うと、教科書を広げてノートに鉛筆を走らせる兄の姿が目に入った。兄は中学に入ってから、毎日のように夜遅くまで塾に通うようになった。両親は兄に期待していたし、兄はその期待に答えるだけの能力が備わっていた。この頃、兄はまだ不良と呼ばれる人達とは縁遠い優等生だった。ただ、兄が両親の期待に応えようとすればするほどに、わたし達の会話は以前より少なくなり、何だかわたしは二人の距離がひどく離れてしまったように感じていた。
 ねえ、お兄さん。わたしの声、聞こえる?
 心の中で思っただけの、わたしの声に反応したみたいに、兄がふっと顔を上げる。視線が絡まる。自分の意志に反して、びくんと身体が萎縮した。兄は忙しなく走らせていた手を休め、わたしに向かって微笑む。兄が手で『こいこい』という仕草をし、わたしをソファーまで招く。わたしはその手に導かれるまま、兄の右隣に座った。「どうした、眠れない?」わたしはその言葉にこくこくと頷く。兄が怪訝そうな目でわたしを見ているのを感じる。「ちょっと待ってて」そう言って、兄はキッチンへと消えていった。その間、一人ぽつんと残されたわたしの指が、居場所なさげにじゃれあっていた。しばらくして、兄が二つのカップを持ってキッチンから出てくる。そして、その内の一方をわたしに手渡す。カップの中で暖かい牛乳が湯気を立てていた。
「眠れなくてお困りの、愛しい妹の為のホットミルク、俺仕立て。有紀寧、ここだけの話だが、実はカルシウムは凄いんだ。有紀寧を優しい夢の世界へ連れていってくれる」
 カルシウムたっぷりのカップラーメンはどうかと思うけどな。兄はそう続けた。
「俺さ、ひとつだけ自惚れてることがあるんだ。有紀寧のことはけっこう……いや、かなり分かってる、って」
 兄がわたしの隣に座る。肩が少し触れる。兄の指がわたしの目元を拭う。いつの間にか、ううん、本当はずうっと前から、泣いていたんだ、わたしは。
「話してごらん?」
 わたしは涙が混じった声で、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「あの……あのね? お兄さん、わたしの声……聞こえてる……?」
 兄は不思議そうな顔をしてから、わたしの質問の意図を飲み込むように、ミルクを口に含んだ。

「――――」


 どうしてだろう。
 兄の口の形が歪んで、声を発しているはずなのに、その声が聞こえない。
 お兄さん、声が、聞こえないよ――。



 $$$



 がばっと音が立つくらいの勢いで顔を上げた。ざあざあと雨の音がしている。コーヒーの匂いがしている。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。スピーカの横に備え付けられた壁掛け時計を見る。針は三時を回っていた。授業はおろか、ホームルームまでとうに終わってしまった後だった。
「ようやく起きたか。この不良娘が」
 急に声をかけられて、心臓が跳ね上がる。朋也さんがわたしと相向かいの席に座って、コーヒーを飲んでいた。
「宮沢、ほっぺた赤くなってるぞー。それと、よだれを拭いた方がいいな」
「えっ、あっ、あっ、あっ……」
 わたしはがたんと音を立てて椅子から立ち上がり、スカートのポケットの中からハンカチを出したり、ティッシュを出したり、ありもしない手鏡を探したりしてしまう。
「いやいや、よだれは冗談だから」
「あの、あの! わたし、ごめんなさい! 夢を見ててお兄さんの声が聞こえなくて朋也さんのこと全然気付かなくて気付いたら眠ってて授業が終わってて!」
「わかったわかった! 宮沢、いいから落ち着けって!」
「あ、れ……?」
 ぼたぼたと机に涙が零れていく。滅茶苦茶になった感情が暴れ出して、どんどん溢れていく。
「あれ、あれ、おかしいな……どう、して、わたし、泣いて……」
 真っ白になっていく。空っぽになっていく。なにもわからなくなる。机に零れた涙の粒だけが増えていく。次の瞬間、突然目の前が真っ暗になった。世界が朋也さんの匂いだけになる。朋也さんの指がわたしの髪に絡む。そのまま、朋也さんに頭を抱かれて、わたしは少しだけ泣いた。その間も、雨の音が耳鳴りみたいにぼわんと聞こえていた。
 どのくらいそうしていただろう。わたしが泣き止んだのを見計らって、朋也さんはわたしを椅子に座らせた。わたしは机の上にあった自分のポケットティッシュで目頭を拭って、鼻をちいんとかんだ。
「落ち着いたか?」
 わたしはこくんと頷いて、小さな声でごめんなさいと言った。
「悪い。宮沢があんなに動揺するなんて、思ってなかったんだ」
 朋也さんが頭を下げて謝る。
「あの、違うんです。朋也さんのせいじゃないんです……」 
 わたしは朋也さんにさっき見た夢のことを拙く話し出した。小学校の頃の出来事。兄と交わした会話。思い出せない言葉。そして、段々と兄の記憶が薄れていっていること。
 人の記憶はどれくらい保つのだろう。昨日のわたしと今日のわたしはどれくらい違うのか。そんなことより、本当はどうだったのか。わたしの記憶はどのくらい事実に基づいたものなのか。
 わたしの記憶はどれくらい本当なのだろうか。
「なあ……お前の兄貴ってどういう人だったんだ?」
 わたしの話が途切れて、それまで黙って聞いていた朋也さんがぽつりと漏らす。
「どんなことでもいいから、聞かせてくれないか」
「どうして、ですか?」
「お前の兄貴のこと、俺も憶えておこうかと思って。そうしたら宮沢が忘れちまった時、教えてやれるかもしれないだろ? お前の兄貴はこうだったろうが、ってな」
 朋也さんは続ける。
「俺さ、母親を交通事故で亡くしてるんだ。俺がその時小さかったからっていうのもあるけど、母親のことはほとんど思い出せない。でも、たぶんそれは、母親のことを懐かしんで思い出話をするような、そういう相手がいないからなんじゃないかって思うんだ。……まあ、色々あって、父親とも仲悪いし、な」
 朋也さんは何だか恥ずかしそうに、茶化すように笑う。
「でも寝坊した朝なんかに、心地いいベッドの中でたまにこう思う。こんなにも情けない姿をどこかで母親が見てんのかなあって」
 わたしは宙を泳ぐ朋也さんの視線の先を思う。それはたぶん、わたしの目に映る兄とは似て非なるものなのだ。
「上手く言えないけど、俺達は生きてるから、少しくらい、忘れたっていいんだ。そうして生きていけるなら、それでいいんだ。それに人と人とはそう簡単に別れられないと俺は思ってる。だから今でも、お前の兄貴はどこかでお前のことを見てるよ。宮沢の記憶が薄れたって、お前の声は、ちゃんと届いてる」

 『有紀寧の声はちゃんと届いてるよ。俺にはいつだって、ね』

 クリアに再生される声。
 鮮やかに映し出される表情。
 ホットミルクの甘さ。
 差し出された手の感触と温度。

 失われたものを思う。失われた愛情の形を思う。時間だけが、ただそれを攫っていった。胸の痛みや涙の量が減っても、結局わたしは今まであの場所から一歩も進めずにいたんじゃないだろうか。兄の友達や、兄を慕ってくれていた人達みんなに、幸せになってもらいたいと思っていた。でも心のどこかで、わたしだけはぽっかりと空いた傷口を抱えて、誰がいなくなっても、一人で立っていなくちゃいけないんだと思っていた。出会いが、それと同時に別れを告げているのは知っている。流れる時間の中、失われていくものだっていうのは知っている。夢や希望は、常に深い不安と共にある。
 だけど今、わたしはあなたに、簡単に『雨が嫌いだ』なんて言わないで欲しかったんだ。  

「わたし、思い出しました……。あの時のお兄さんの言葉……思い出しました」

 この気持ちをどうやって伝えればいいだろう。言葉にしてしまえば、もう違うものになってしまいそうな、この気持ちをどうやって伝えればいいんだろう。震える手を伸ばして、朋也さんの制服の袖を掴んだ。朋也さんは何も言わずにわたしの髪をくしゃっと撫でる。急に頬が熱くなって、わたしは下ばかり見ていた。誰かを信じることが、こんなにも怖くて、こんなにも暖かいものだっていうことを、わたしは長い間、忘れていたんだ。


 わたしの中の兄の欠片が、どくんと脈をうった。



 $$$



 たぶん誰も、あたりまえの言葉が足りなかった。
 正しい言葉はいくつも知っているのに、それを言ってくれる他人の声が足りなかった。
 そして、わたしも同じように、その声を求めていたんだ。

 朋也さんと並んで、家路につく。雨は小降りになっていて、わたし達の傘にぱらぱらと降っては流れる。会話は少ないのに、別れ道はあっけなく訪れてしまう。わたしはさようならを言う前に、もう一度だけ謝った。朋也さんは「やっぱり、ごめんなさいよりありがとうの方がいいよなあ」と笑った。
 一人になると、途端に周りの風景が目に入ってくるようになる。揺れる木々や水溜まり。立ち上る土の匂い。遠く聞こえる車の音。強く咲く紫陽花。
 もう、あの悲しさとは別れられないけれど、世界のありようはたぶん、わたし次第なんだ。
 この雨が止んだら、みなさんの所へ兄の話を聞きにいこう。たくさんの人達の中で息づく、小さな兄の欠片を集めにいくんだ。わたしは傘を閉じて、柔らかい雨にうたれる。こんな時は、こういう気まぐれも悪くない。制服に染み込む雨。肌に触れるその温度を何故か暖かく感じながら、わたしはそっと目を閉じた。


 ほら、魔法の使えなくなった魔法使いが、雨の上がった街の真ん中で、微笑んで空を見上げてる。
感想  home