K,1

「やっほー! 大爆発!!」
 叫んでみても、なにも変化がない。
 何があったのかといいますと、目が覚めたら、髪の毛がすごいことになっていたという例のアレ。リンスを忘れたせいだ。
 お天道様にありがとう。今日という日にありがとう。杏という名の自分にありがとう。ぶつぶつ呟きながら鏡を見て、そっちこっちに伸びている髪をつまんだり引っ張ったり。駄目だこりゃ、朝シャン決定。ごめん、寝起きでちょっとテンパってるかも。
 そんな私だけど、いい日には、無性に町を歩き回りたくなる。
 天気がいい日、気分がいい日、どうでもいい日。たくさん。
 悪い日は大きく二つある。自分の部屋から出たくない日と、やっぱり町を歩き回りたくなる日。
 どっちでもない日ももちろんあって、そんな日は大抵、町を歩き回っている。
 うーん。
 結論としては、私って、年から年中町を歩き回っている人?
 その事実はけっこうな衝撃となって心に響く。ぐわんぐわんぐわんぐわん。
 そうこうしているうちに、妹が部屋に来た。そしてこう言った。
「お姉ちゃん、今日は出かけないの?」
 ぐわんぐわんぐわん。
 ちょっとおっぱい大きいからって、ひどい。騒ぎ立てて部屋から追い出す。
「それ、関係ないと思う……」
 小声で反論する椋をえいえいと押しやって、部屋の真ん中であぐらをかく。さて。

 日曜日は、まだ始まったばかり。



T,1

 時計の針は午前九時をさしている。一息で布団から跳ね起きて、洗面所で水をひっかぶる。冷たい。冷たくていい。
 高校のころは、平日だってこんな時間に起きることは稀だったのに。休日は安心して寝られるからありがたい。鏡に映った顔を見てそう思うのは、俺が変わったということなんだろう。仕上げに頬を引っぱたいて、心を引き締めてポージング。うんこれ、いい角度……何やってんだ俺。
 太陽を見ようと、狭い部屋にひとつだけある窓ガラスに向かった。内側から隠しているカーテンを左右に引いて、光を部屋に入れる。窓も開けて空気も入れ替える。ついでに俺も着替える。Tシャツの襟に首を通しながら、町にでも出てみようかと考える。思い立ったが吉日、さっそく実行へ。
 玄関を出て、アパートの階段を下りていく。カンカンと響き渡る小気味いいリズム。気分がよくなって、その場で踏み鳴らしてみたりする。タップはさすがにやめておく。
 今日もいい天気だ。












 一人と一人のはないちもんめ












K,2

 春の風につられて、一人で散歩に出てみた。そういうことにしておく。目的はあくまで散歩であって町の徘徊ではなく、その理由は春風にあたりたくなったからであって決して妹のキツめの一言ではなく、つまりなにも気にすることなんてないわけで。強引に納得して、沈みかけた気分を無理やり上にもっていく。自分で無理やりだって認めていることに気づいてまた下がりかけるけど、朋也のことを考えて、なんとか持ち直した。なんたって私の最終兵器ですから。
 ひざ下まである薄桃色の軽いスカートにショルダーバッグひとつ下げて、パンプスは歩きづらいからお気に入りのサンダルで。上はタンクトップの重ね着に、コットンのパーカー。色は薄めで決めてみたけど、全体的にどうかと思う組み合わせ。でも、晴れているからこれでいい。椋もほめてくれたし。
「あれ、あんた来たの」
 いつのまにか隣にはボタン。気取った顔して、相変わらずめざといやつめ。
 仕方がないので並んで歩く。即席彼氏のできあがり。誰かになにかを言われたら、これが彼ですって言おう。見た目は役不足でも、私にぞっこんというところは変わらない。……って、いや、別に、奴がぞっこんかどうかはわから……内緒だけど。



T,2

 あたたかい日だと、外に出てまず思った。風はゆるやかで、日ざしはさんさんとやさしく降りそそいでいて、空気は静かに落ち着いている。これならば、陽気に誘われてふらふらと町に遊びに出る奴がいてもおかしくない。杏はそんなタマだろうか。なさそうで、ありそうな気がする。なにせ、俺だってあるのだから。
 EDWIN の503に久しぶりに足を通し、上には、朋、と大きくバックプリントされた黒のTシャツ。もちろん杏からもらったやつだ。知り合いに見つかったら絶対死ねるぞ、これ。そう贈り主に言ったら、笑顔で死んでって言われた。かなわない。そして、意地でも愛用してやると決意した。死んでやろうじゃないか。
 でも、できれば知り合いには見られたくない。この矛盾。
 いや、もう。
 なるようになれ、って勢いでひとつ。



K,3

 商店街で小物を見て回る。夏物はこないだ見たから、アクセサリや雑貨を中心に。
 手始めに、百円ではない雑貨店に足を運んだ。目にとまったのは、ガラスのカラスの置物。商品名が『カラガラス』なのには、どう反応しようか迷った。キリギリスみたいだと思ったけど、だからと言われるときつい。それにしても、存在そのものがシャレって、すこしばかり可哀想だ。陽平みたい、と思ったことは本人にしか言わないようにしよう。機会があったら。
 続いて目をつけたのはポケット辞書。キーホルダー型のうんとちっさいやつ。持ち運びは便利だけど、攻撃力の点においておおいに改善の余地がある。でも一応、買っておくことにする。辞書コレクターの血が……じゃなくて、ほら、なにか使い道があるかもしれないし。
「ぷひ」
 ボタンも頷いてるし?
 ペットの連れ込みを確認していないと気づいて、慌てて引っつかんで胸の中に押し込み、何事もないようにレジへ。いろいろ教え込んでよかったと思うのはこんなときだ。これで絶対にばれないんだけど、なんとなく後ろめたいのでさっさと出ることにする。
「……あ」
 ぴ、ぴ、ぴ。スキャンの音が多いと思ったら、カラスも入れてしまっていた。合計1890円になります、と機械にまけじと無機質な顔をしたお兄さんの冷たい声。ついでに無頓着だとありがたいのだけど、買ったその場でつき返すのはあまりにも不自然だ。
 結局、包装までお願いしてしまった。
「あー、どうしよう、これ」
「ぷひっ」
 ボタンはいたく気に入った様子。
 うーん、とすこしだけ考えて、決める。それほど値が張ったわけでもないし、これもなにかの縁だと思えば。せっかくなので、部屋の一員として迎え入れるのも悪くない。
 それにしても。
「おなかすかない?」
「ぷひっ」
 そういうわけです。



T,3

 商店街はそれほど混んでいなかった。ちょっと来なかった間にちらほらと新しい店も立っていたりして、新鮮だ。町が生きているみたいで、自分で違うだろと思いつつもなんだかグッときてしまう。初めての店に手を振りそうになって、やめる。それじゃ危ない人だ。
 どこに入ろうか迷って、とりあえず目についた百円均一の雑貨店に入った。右左を交互に見て店内を回る。利用価値があるのかないのかわからないものが目白押しで、そこを無理やり見出すから面白いのだろうか、などと雑考したり、あとは客の服装を観察したりして時間を潰す。普通に使えるものもたくさんあるが、俺はあえて雑貨としか呼べないような、よくわからないものを見て回った。それが通っぽい行動だと思ったからだ。まあ、一回目だけど。
「む」
 俺のアンテナが反応する。さまざまなデザインのキーホルダーが並んでいる棚にステキなものを見つけた気がした。
 それはポケット辞書だった。近寄って手に取り、色や種類でいくつかあることを確認する。辞書コレクターである杏も、これは持っていなかったはず。買うことにする。値段じゃない、気持ちさ気持ち、と心の中で唱えつつ。
 どれを選ぼうか若干迷ったが、杏には青が似合うことを思い出して、青いポケット英和辞典を掴んでレジに持っていった。にこにこと愛想のいいおばさんが貼り付いたような笑顔で対応していた。すこし遠慮したかった。
 というか、どんな色であろうともうまく着こなすんだよな、あいつは。
 ぴ、ぴ、とスキャンする音を聞きながら、今さらながら杏はセンスがあるという事実に驚く。驚きついでに、電子音につられてか、ぐう、とお腹が鳴る。音的には勝った。でも色々と負けた。おばさんはやっぱりにこにこしていた。
 そういえば今日はまだ、メシにありついていなかった。



K,4

 休日に一人でいると、どうしてもここにきてしまう。きっと昔からそうだった。
 見渡す限りの緑一色。
 最近友達がはまってる麻雀ゲームにも同じ字の手役があった気がする。読み方はさすがに違うだろうけど、きっと共通しているのは一面の緑というその一点。
 嬉しそうにあたりを駆け回るボタンを見ながら、自分もゆるゆると体を動かす。へんてこなラジオ体操なんてしたりして、ストレッチまでこなして、手ごろな石を掴む。それを二、三度手のひらでもてあそぶと、すこし離れた木を狙って投げた。
 なだらかな放物線を描いて、石は幹の真ん中にヒットした。
 高さも申し分ない。
 速度はどうだろう。
 そっか。と呟く。腕は、まだなまってないか。右手をひらいたりとじたりしながら、それでもなにかさみしいものを感じた。あんなに手に馴染んでいた辞書の感覚がやっぱり色濃く残っていて、それがどうしてか切ない。
 きっと、広すぎる空のせいだ。

 木陰に座って昼食タイム。
 歩きながら食べれるといえばファーストフードで、ボタンの好物はポテト。ひょい、と一本つまんで空中に放る。ボタンがそれを口でキャッチする。犬みたいに大きな口でもないのに、とても器用に。自分もハンバーガーをかじる。ボタンみたいに小さくはないけど、やっぱりそれほど大きくない口で、器用にレタスをよけながら。
 基本的に、好きなものは最後までとっておく。

 でもたまに、それはもったいないのかもしれない、なんて思う。



T,4

 俺は傷ついていた。
 空腹を満たすという動物なら至極自然であるはずの行為によって、俺は傷ついた。
 誰も見ていないことを確認してから、電柱の影で頭を抱える。
 休日のファミレスに一人で入って、大量の家族連れに囲まれて孤独に飯を食うというただそれだけの行動が、こんなに恥ずかしく、これほどまでに屈辱的なものであるなんて、一体誰が知りえるというのか。
「って、普通に考えればわかるだろうが!」
 一人だから誰もツッコんでくれない。気が滅入る。
 和風おろしハンバーグ定食を二分で掻き込んだために喉の入り口までやばいことになってる。最悪の最悪だ。こっそり反芻して、肉をよく噛んでまた飲み込む。それを何回か行って、ようやく胃は消化活動を開始してくれた。牛か、俺は。誰も見ていないはずなのに、人間としての尊厳がどんどん奪われていってる気がする。喝、とそんな自分に気合。それを見てうわぁと散っていく小学生。……もう呼吸しかしない方がいいかもしれない。
 店をハシゴするのもそろそろ飽きてきた。相変わらずのいい天気で、もっと他になにかをしないともったいない。ちなみに俺は、好物を最初に食べる人間だ。可能性は低くても、食いそびれるともったいないから。
 じゃあ、今は、何をしそびれるともったいないのだろう。

 それは杏に訊くことにした。



K,5

 学校に行こう、と思った。



T,5

「というわけで、杏に会いに来たんだけど」
 出迎えたのは椋だった。実はかなり久しぶりの面会である。
 彼女の妹で元クラスメイト、という微妙な立場の椋は、最近は姉に近づくために髪を伸ばしている最中だ、というようなことを語ってくれた。俺の生活はまあ、実の姉から散々聞かされているだろうから言わない。それどろこか余計なことまで聞かされているだろうから、言わないし訊かない。こわすぎる。
「学校に行くって言ってました」
「さんきゅ」
 礼だけ言ってその場を後にする。髪型はなるほど、ほとんど杏と一緒のところまで伸びていたが、見た瞬間に椋だとわかった。どうだろう、これ。愛のなせる技ね、とか本人は言いそうだが。
 ついでに占ってもらってもよかったかもしれない。

 道に出て、歩き出そうとして、踏みとどまった。
 椋の言葉を反芻する。ハンバーグではなく。
「学校……ね」
 杏は大学生だ。



K,6

 まだ離れてから一年も経っていないのに、その場所は思っていたよりもずっと、胸の奥の深いところから感情の塊を引き出してくれた。
「変わってないなあ」
 脇をてこてこ歩いているボタンも、どこか懐かしそうに目を細めている。そうなのかもしれないし、いいにおいがするのかもしれない。
 人影は見当たらず、運動部の掛け声はひとつも聞こえてこない。試験期間中なのかも。というか、そうなのだろう。校庭はまったくの無人で、近くの木の枝から降ってくる雀の声と、遠くの自動車から漏れる排気音だけが、音と呼べる音だった。
 風もないのにサッカーゴールのネットがゆらゆらと揺れている。その犯人はすぐに自分のところまでやってきて、前髪を同じく揺らしていった。一陣、って言葉がぴたりと当てはまるような風。後詰めの部隊は控えてないようなので、私も歩き出した。
 職員玄関があいていた。
 重いガラス戸に手をかけたまま、私は考える。
 こうして実際に足を運んでみて、確信した。変わらないことって、けっこうつらい。まだ変わってくれていたほうがよかった。ここはもう別の場所なんだって、嫌というほど意識させてくれたほうが吹っ切れた。引きずってる何かを断てたのに。何を引きずっているのか、引きずっているのかどうかすらもわからないまま、のんきに顔を出したのが間違いだった。後悔はいつだって気がついたら近くにいて、視界の外から体当たりしてくる。
 どうして今日に限って来てしまったんだろう。来たばかりなのに奥歯を噛み締めながら校舎へと入っていく。でも。でも、だ。下駄箱にきちんと靴をそろえて置いて、やっぱり私は思う。きっといつ来たって、この場所はあたたかくて懐かしいし、そしてどこか冷たく跳ね除けてくるんだ。私は要らない人なのだから。

 屋上に出た。風はない。コンクリートとフェンス、そして雲と太陽だけがそこにある。
 いよいよ、らしくないと思った。苦笑さえ浮かばない自分に。
 今日はいい日なのか悪い日なのか、どちらでもない日なのか特別な日なのか。フェンスに体をあずけて空を見上げる。何かがこみ上げてくる。正体はわからない。わからないまま、傍らのバッグからキーホルダーの辞書とカラスを取り出す。
「ごめんね、あげられなくて」
「ぷひ」
 快く了承をもらって、辞書をフェンスにくくりつける。指三本で形が作れてしまうちいさいそれは、宙ぶらりんになって空気に全身をあずけた。表紙が防水用のビニールに包まれていることに今さら気づいて、ちょっと笑う。
 カラスは、入り口の建物の影にそっと置いた。

 屋上を出た。風はない。コンクリートとフェンス、そして雲と太陽と、辞書とカラスだけがいる場所。職員室を出るときにするように、ぺこりと会釈をした。そういう気分だった。
 それにしても、私は、そんなに学校が好きだったんだろうか。ずっとそこだけが引っかかっている。渡り廊下を歩いても、教室へ入っても、チョークを黒板に走らせても。
 帰りに校庭を横切るときでさえ、心の隙間風は吹きやまない。

 朋也に会いたい。



T,6

 さて、と鉄製のドアの前で仕切り直し。ずいぶんと久しぶりだからか、当時よりもずっと重たそうに映る。錆びついて開かなくなっている様子がないのは、きっと常連でもいるからか。
 ゆるやかだった風は日が傾くほど機嫌を損ねていったから、きっとこの先はかなり吹き荒んでいるだろう。
 杏はいるだろうか。可能性としては、おそらくいないほうが大きい。でも、いるような気がする。
 あてが外れたら外れたで、今日はおとなしく帰ればいいだけで。五年後あたりに笑い話になって、俺の口からこぼれるだろうから。
 気楽に構えて、俺は屋上へと続くドアに手をかけた。

「っと」
 ごう、と風の塊が全身で体当たりをしてきて、俺は一歩踏み入れた場所でたたらを踏んだ。風ってのはこうも、穴があくとそこに全力で入ろうするのはどうしてか。
 杏はいなかった。
 フェンス際まで行ってぐるりとあたりを見渡したが、人影はない。立て付けを確かめてから、そこに背中をあずけて目をつむる。ため息をひとつ挟んで、視線は空へ。青い。青くて、雲が流れていく。
「自信あったのにな」
 呟いて、右手がフェンスではない何かをつかむ。ちゃり、と音がする。
「……ん」
 それは辞書だった。
 俺がさっき買ったやつよりはもうすこし高そうな、でも同じキーホルダー型の、ポケット辞書。どれくらい野ざらしにされていたのか、表紙のビニールから中のページまででこぼこにひしゃげてて、色もすっかり褪せてしまっている。錆びついた鉄の輪をなんとかこじ開けて、フェンスから取り外す。辞書の開閉をつかさどるボタンも閉じっぱなしで錆びていて、本気でひっぱると本ごと破壊してしまいそうだ。
 諦めて、そのまま持ち帰ることにした。似たようなものを拾ったのも何かの縁。部屋に飾れば風情があっていいかもしれない。
 踵を返して入り口のほうを向き、ふと、何かはみ出していることに気づいた。フェンスと建物のわずかな隙間。人が一人通れるくらいの道が、ぐるりと裏側まで通じている。
「あれは……」
 目を細めて輪郭を捉える。ガラスで出来た何かであることは確かだった。角度を変えて見るたびに日光を反射して、ちかちかと光っている。
 急ぐ必要もないので、するすると歩いていく。相手が逃げ出すなんてことは起きないから。
 あと三歩というところで、足がとまった。ガラスでできた鳥の他に、また違うものがそこにいた。

 気がつくと、風はやんでいた。

「やっほ」
 弱々しい声と笑顔。俺は、三歩を全力で駆ける。
 ガラスの向こう側で、今にも泣き出しそうな顔で座り込んでいたのは、杏だった。



K,7

 ここで会うなんて偶然ね、と言ってぎこちなく笑う。あんまりいい笑顔じゃないのは自分でもわかった。朋也の顔を見ると、余計にそう言っていた。
「なにやってんだ」
 言葉を選んでから朋也は言った。二十歳の誕生日に私が贈ったTシャツを着ていた。
「なんだろね」
「おい」
「いや、あたしもよくわかんなくて」
 よくわからない。自分で言っておいて、自分の言葉に自信がもてない。
 なぜなら私は、なんとなくわかっているはずだから。年に一回こうして高校の屋上に足を運ぶわけを。
「隣、いいか」
「どーぞ」
「ああ」
 肩がぶつかる距離に朋也が腰をおろす。よっこらしょ、って不意打ちが聞こえて、とたんにのどかな気持ちになって笑ってしまった。
 理由に自分で気づいた朋也が、憮然としつつも納得して、頭をぽりぽり掻いている。社会人四年目だから、朋也ももう若くはない。
「ね、朋也さ、ここ来るのはじめてだっけ」
「ん? ああ、まあ。今日も偶然だし」
「って、偶然なの? ほんとに?」
「いちおう椋に訊いてみたら、学校に行った、って言ってたから」
 だからここに来てみた。いつかの私のように空を見ながら、照れくさそうに続けた。いつかの私と、表情は正反対だ。
「実は、ちょっと自信あったりな」
「それ、根拠は?」
「俺のカン」
 言い切られる。それだけで、どんな反論も無意味だと悟る。
「ちょっと……ごめんね」
「ん」
 朋也がここに来てくれた。その事実がようやく心に落ちて、私はたまらなくなった。
 頭を背中にあずけて、そっと目をとじる。思っていたよりもずっと広くて、あたたかい背中だった。
「なあ、杏」
「うん」
 ひとこと喋るたびに、朋也の体を通して声が体に響く。一文字一文字が、私の全身に染み渡っていく。
「お前、ここにはじめてきたのって何年前だ?」
「えーと……三年前。一年のころ」
 あのときも、最後に朋也に会いたいって思った。でも会えなかった。
 だから、いまここにいるのは、ひょっとすると意地だった。
「それから毎年きてたのかよ」
「そうねえ」
 はぁーっ、と一度いっぱい吸って、大きくため息をつくのがわかった。
 そして朋也は心底呆れたふうに言った。
「俺も呼べよ」
 それもそうだ。
「ったく、よりによって一人で、んな泣きそうな顔しながら」
「タイミングがね、悪かったのよ。ちょっと一人でいたときに、こう、ふらふらっと」
「ふらふらっと孤独を楽しみに出かけるようじゃ、あんま一人にはしたくないな」
「って、そんなんじゃ」
「ん? 違うのか?」
「ちが……あー……わ、ないかも」
 私は、この時間を、楽しんでいた。どうだろう?
 笑ったりはしゃいだりはしないけれど、一人で思い出に浸ったり、一人でいることに浸ったり、それでちょっとロー入ってみたり。
 それがわかっていて、毎年ここにきたり。
 そういうのを、孤独を楽しむっていうんじゃないだろうか。
「お前ってさ、意外ともろいとこあんのな」
「そう、かもね」
 私は、自分が他の人よりも強いだろうというところを知っている。それは自分の長所だと思うし、伸ばしていこうと思ってる。
 でも、ちょっと裏返すと、いくらでも弱点があることも知っている。その中のひとつをこの場所で知った。そして、なるべくこの場所で発散させようとしてきた。自分の中ではそういう口実で、ここに来ていた。
「そりゃ昔からわかってたけどな……一人で癒そうとしないで、俺で埋めろよ」
「へ?」
 なに、いまのくさいの。
「すくなくとも、マイナスイオンよりはお前の役に立てる自信はあるぞ?」
「む、む」
 くさい。くささ爆発。
 しかも本人ノリノリ。
 どうしたものか。
「俺の背中が恋しくなったらいつでもかしてやるから」
「っ」
 もう、駄目。ごめん。



T,7

 今日は、人に会っては変な目で見られる日なんだろうか。ファミレスで、道端で、そして屋上で。
 さんざん笑ってくれたそのうちの一人は、もう、すっかり本調子に戻っていた。
「普通そこって泣きつくとこだろ? 爆笑しながら背中を殴打するなんてひどすぎるに一票」
「普通なら、の話でしょ?」
 まだお腹を押さえてるし。
「ま、ともかくだ。来年は俺も呼べな」
「え、なに。また来るの?」
「つもる話もあるだろうし」
 唇の端を持ち上げながら、杏を見据える。
 からかったつもりなのだが、目をぱちくりさせて、何を言われたのか頭が追いついてないようだ。やっぱり、まだ本調子じゃない。
 真剣に向かい合った。
「あのな、今度は笑うなよ」
「……うん」
「一人じゃなくて、今度は二人で思い出に浸ろうってこと」
「思い、で?」
「大体だな、別れてもいないうちから過去を掘り返しにきているって時点で俺はかなり頭にきてんの。わかるか?」
「……あ」
 ようやく、目に光が戻った。
「あのころはよかったとか、この場所でこうしたっけなとか。なんつーか、そういうのは、俺と一緒にいるときか、俺と別れてからじゃないと許さないぞ、っと」
 いつもと逆で、今日は俺が饒舌な日。滅多にない。
 杏は黙ったまま。
「……おーけー?」
 不安になって、訊いてしまう。
「朋也、あたしと別れる気がある、の?」
 何を聞いてるんだろう、このばかちんは。
「だから、そのネガチブしんきんぐをやめろって言っ、てる、だろー、が!」
「わっ、って、ちょっ、とも…や」
「俺は別れないしお前も別れないから、つまりなんだ俺の言いたいことがわかるかああん?」
 あまりにも頭にきたので、思いっきり抱きしめて言葉をぶつけてやった。
 抵抗はない。
 反応もない。
 一分経過。
 一分半経過。
 そして、そろそろ謝罪の言葉を選びにかかった方がいいかも、なんて考えだしたころ。
「…………ばか朋也」
 耳元で、それだけ聞こえた。
 この状況で、一方的に悪者にされてしまう俺。なんて理不尽。

 でも、まあ。
 こういう理不尽さなら、そう悪い気はしない、なんて。



Glasscrow,

 その高校の屋上の物影に、ひっそりと置いてある。
 つい先ほどまで恋人らしい男女が肩を並べていたその場所にはもう誰の姿もなく、コンクリートにわずか残ったぬくもりだけが彼らの痕跡だった。それすらもなくなって、いつもそうであるように、人工物と自然が稀につむじ風を起こす、ただの屋上へと変わる。
 何の変哲もない屋上にあるのは、コンクリートとフェンス、そして雲と太陽とガラスのカラス。
 もう一つ。

 カラスの首に下げられた二組の辞書が、ゆるやかな風に揺られてかすかに音をたてた。

感想  home