胸の奥、頼りなく揺れる灯火。
 ソレは今にも消えてしまいそう。今にも見失いそう。
 でも──灯火は、今も必死に揺れている。




Little fire will






 日差しが射し込む昼下がりの学校の廊下。辺りに私以外の人影はない。当然と言えば当然。この廊下は職員室、生徒指導室などしかなく、それに加えて移動授業などで使う教室に行くには、ここを通ると遠回りになってしまうため特に用のない生徒が態々ここを通ることはほとんどない。職員室や生徒指導室の中も、もうすぐ次の授業が始まるため、殆どの教諭は随分前に出払っている。残っているのは2、3人の教諭と先程まで私と話をしていた教頭ぐらいだろう。
 私は窓に寄り、そこから見える広大なグラウンドを見る。そこには次の授業が体育だからだろう、運動着をきた幾人かの生徒が体を解したり、何人かで輪を作り話し込んでいる姿が見えた。その姿を見るとはなしに見ながら、私は教頭との話を思い出す。
 話の内容は、それほど大したことではない。私がこの学校に配属されて今日でちょうど1週間目なので、調子はどうかと聞かれたのだ。私は、その問いに「教師になってよかったと思います」と答えた。事実、その思いに嘘はない。嘘はないのだけど……
「ふぅっ」
 知らず溜息が出た。どうやら自分で思っている以上に、疲れが溜まっていたらしい。たしかに、この1週間不安だらけだった。自分が教える初の授業。上手く出来ているだろうか? 私の言ってることは伝わってるだろうか? 悩みは尽きない。それでも他の教諭の方々の助けもあり、なんとかやってこれた。だが、やはり心労は溜まっていたのだろう。
「がんばりましょうっ」
 胸の前で握り拳を2つ作り自分自身を鼓舞する。そう、がんばろう。そして少しずつ馴れていこう。私は意気込みを新たにすると、窓から離れ次の授業に備えることにした。たしか次は移動教室だったはずだ。そろそろ向かわないと遅れてしまうかもしれない。
 私は、一度職員室の中に入り自分の机から教材を取ると職員室を出て、4階にある教室に向かうため階段を上る。途中、幾人かの生徒とすれ違う。その時、皆「こんにちは先生」と言ってくれる。私は「こんにちは、もう少しで授業が始まりますよ」と返事をしてから階段を上る。けど、未だに先生と呼ばれるのは、ほんの少し照れる。顔が赤くなってるいるのに、気づかれていないといいのだけど。
 

 しばらく階段を上っていると微かに音色が聞こえてきた。その音色は階段を上るごとに鮮明になっていく。3階に着くと、はっきりと聴き取ることができた。アコースティックギターの音色と男の人の声。誰かが歌っているらしい。私はその歌の発生源のほうへ、ゆっくりと廊下を進む。そして、廊下の突き当りにある、今は使われていない空き教室の前で止まる。歌はそこから聴こえてきていた。
 私は、そっとドアを少しだけ開けてみる。そこには部屋の真ん中で、こちらに背を向けて椅子に座っている男子学生がいた。彼は手に持っている一本の古びたアコースティックギターを弾きながら歌っていた。私は彼の歌から……彼から視線を離せずに、その場から動けないでいる自分に気づく。彼の歌は確かに上手いけれど、それ以上に彼の歌には人を引き付ける何かがあった。しばらくして、私はソレが何なのかに気づく。
 
 ああ、この人はなんて楽しそうに歌うんだろう。
 
 私は、それで理解した。彼は『歌』が好きなんだ。それは混じりけのない気持ち。それはとてもピュアな気持ち。だからこそ、こんなに人を引き付けるんだ。私は目を瞑り彼の歌に聴き入る。彼の歌っている歌は私の知らないものだった。もしかしたら彼のオリジナル曲だろうか? 頭の片隅でそんなことを考えながらも、私の心は曲に釘付けになっていた。
「──絆よりも強く、運命よりも深いモノが欲しいと願った。ソレを君と逢って見つけた。雨が降ったとしても、風が全てを吹き飛ばそうとも、いつか見失っても。何度でも思い出すよ。君が見つけてくれた大切なモノ。だから、俺は歌う。唯一つ、たった一つソレを気づかせてくれた君のために。いつまでも歌い続けるよ。声が枯れても歌い続けるよ。君を愛してると」
 
 その歌詞は、私の心の奥のほうに深く強く響く。とても不器用な歌詞だったけど、とても素直な歌詞だと思った。曲はそのフレーズで終わりらしく、彼はアコースティックギターを隣にある机に立てかけて、体を伸ばす。
 その姿を見て、私は弾かれたように両手を何度も打ち鳴らす。彼は、当たり前だが聴いている人がいるとは思っていなかったらしく顔を強張らせながら、私を見る。だが、私はそんな彼の表情も意に介さずに、音楽室の中に入り話しかける。
「凄いですね。とても良かったです。感動しちゃいました。この曲はあなたが作ったんですか?」
 私にしては、珍しく捲くし立てる様に尋ねる。どうやら、かなり興奮しているらしい。彼は強張った顔は治ったものの憮然とした表情で私を見つめる。私は、そこでやっと冷静になる。
「あ、すみません。あの近くを通りかかったらあなたの歌が聞こえてきて、つい聴き入ってしまいました」
「……あんたは」
「あ、私は伊吹公子です。今年からこの学校で美術を教えることになりました。あの、あなたは?」
 少しの沈黙の後、彼はぶっきらぼうに答えた。
「芳野祐介」
「芳野、祐介君ですね」
 私は彼の名前を復唱する。芳野君の顔には見覚えがなかった。多分、まだ彼のいるクラスを担当してないからだろう。
「芳野君は音楽が好きなんですね」
「は?」
「あ、いえ。芳野君、とても楽しそうに歌っていたので、芳野君は歌が大好きなんだなって思ったんです」
「……」
「あれ、違いましたか?」
「いや、多分好き……なんだと思う」
「思う、ですか?」
「音楽は俺が何をやっても認めてくれる。何をやっても許される。音楽が唯一の俺の居場所なんだ」
 芳野君は、あまりしゃべり慣れてないのか、そこまで話すと一度言葉を切り息を短く吐き出してから、続ける。
「だから、好きかどうかなんて考えたことはなかった」
「そうですか、なら私が断言しちゃいます。芳野君は音楽が大好きなんですよ。絶対に」
 私の言葉に、芳野君は呆気に取られたような顔になるが、私は構わずに続きを話す。
「音楽と言う字は【音】を【楽】しむと書くんです。芳野君は、とても楽しそうに歌っていました。私にはそう見えました。芳野君が音楽を好きだと断言する理由は、これだけで十分です」
 芳野君は、呆気に取られた顔のまま固まっている。
 
 その時、教室に備え付けられているスピーカーから声が発せられる。その声が私の名前を呼ぶ。そこで私は、やっと思い出した。そういえば次の移動教室に向かう最中だったことに。
「よ、芳野君。ごめんなさい。私、次の授業があったのをすっかり忘れていました。すみませんが、これで失礼しますね」
「あ、ああ」
 芳野君の返事を聞くと私は小走りで出口へと向かい、ドアを開ける。そして、出て行こうとしたところであることを思い立ち振り返る。
「芳野君。あの芳野君の歌、また聴かせてくださいね。お願いします」
 芳野君は少しの間黙り込んだ後、自分の名前を名乗った時のように、ぶっきらぼうに答えた。
「放課後は、大体ここで歌ってる」
 私はその言葉に満面の笑みになる。
「はい! 芳野君も早く自分の教室に戻ってくださいね。授業に遅れちゃいますから」
 私は、そう伝えると空き教室から小走りで出て行った。







 

 それから私は偶に、芳野君の所に訪れるようになった。そして歌っている芳野君の邪魔にならないように静かに教室に入り、彼の歌を聴く。歌い終わると私は彼に拍手を送り歌の感想を伝えて、時間があればそのまま話すこともあった。
 芳野君は思った通り口下手のようだったけど、喋り出すとポツポツとではあるが話をしてくれた。彼の話す、その話の節々から彼がどれだけ音楽が好きで真剣に向き合ってるかと言うのが感じ取れて、私は何故かそれが嬉しくてついつい、いつも喋りこんでしまう。
 その日も、放課後に空き教室に行くと芳野君は歌っていた。余程、歌うことに集中をしているようで、私が来たことにも気づいていないみたいだった。私はいつものように目を瞑り彼の歌に聴き入る。しばらく空き教室には彼の弾く、アコースティックギターの音と彼の声だけが鳴り響く。
 そして、彼は曲の最後のフレーズを歌い終わると、短く息を吐き出す。その時に、ようやく私の気配に気づいたようで、少しばかり慌てて振り向く。
「先生、いるんならいるっていってくれ」
「ふふふ、芳野君の歌は何時聴いても素敵ですから、邪魔はしたくないんですよ」
 その返答に芳野君は照れたように頭を乱暴に掻く。
「あ、そういえば、芳野君。さっきの私の授業に出てませんでしたね?」
 途端に芳野君は渋い顔になる。どうやら、どう言い訳をしようか考えているらしい。
「ちゃんと授業に出ないとダメですよ。さっきも、相楽さんが態々探しに行ってくれたんですから。結局見つからなかったそうですけど」
「……なるほど。だから廊下で会った時、いきなりドロップキックをしてきたのか」
「え、なんですか?」
「いや、なんでもない。授業のことは悪かった。今度からはちゃんと出るよ」
「そうですか。わかりました。あ、そういえば今日はどこにいたんですか?」
 芳野君は少しの沈黙の後に喋りだした。
「屋上に行ってたんだ」
「屋上……ですか?」
「ああ、少し考えたいことがあって」
「考えたいこと?」
 オウム返しのような私の返答を聞いた芳野君はズボンのポケットに手を突っ込み、そこから取り出した紙切れを私に見せる。その紙には進路希望調査とゴシック体で書かれた文字の下に3つの四角い枠があった。四角い枠の中は一番上しか埋まってなく、そこには書きなぐったような文字で【ミュージシャン】と書かれている。私がその紙を見たことを確認した芳野君は呟くように話し出した。
「担任もクラスの奴らもプロのミュージシャンになるなんて無理だ、バカな夢を見るなって言うんだ。でも、俺にはこれしかないんだ。音楽以外で飯を食っていくなんて考えられない。俺には……この道しかないんだ」
 芳野君は歯を噛み締めながら話す。その言葉からは強い意志が宿っていることがわかった。それがわかったから、私が言わなければいけないことは1つしかないように思えた。私は彼の傍まで行くと彼の両手をギュッと包み込む。
「たしかに、プロのミュージシャンになるのは難しいことなんだと思います。苦しいこと、辛いこと、色々あると思います。でも……それでも、ずっと続けていれば、きっと叶うから諦めないでね」
 きっと、教師として1人の生徒に肩入れし過ぎるのは、いけないことなんだと思う。けど私はその時、芳野君を応援して上げたいと何故だか強く思った。どうしてそんな気持ちになったのかは曖昧すぎて、はっきりと答えることはできないけど。もしかしたら先程、芳野君の夢を聞いてしまったからなのかもしれない。
 或いは、もっと別の想い。例えば芳野君が歌っている姿を見たとき、例えば夢を語ってくれた先程の芳野君の瞳を見たとき感じた、胸の奥が暖かくなるような締め付けられるような想いのためなのかもしれない。
 やがて私の言葉にポカンとした顔をしていた芳野君は、小さく……けど、その瞳に強い意志を宿して頷いた。



 それからも、芳野君とは会うたびに色々なことを話した。気づけば昼休みや放課後になれば、自然と彼の姿を探すようになっていた。私は芳野君と話すことを、とても楽しみにしている自分に気づく。それは多分、芳野君が夢を語ってくれたあの日、私の胸に在った想いがなんであるのか、わかり始めたからだろう。
 そうして、時は瞬く間に流れて彼がこの学校から巣立つ日がやってきた。私は卒業式が終わった後、卒業生達のお別れの挨拶に答えて回っていた。それが一頻り終わると、私は芳野君と今日は一度も話していなかった事に思い至る。私は芳野君に会いに行こうと、生徒達で賑わう廊下を歩く。多分、彼ならあそこにいるはずだ。
 歩いている途中で、ふとある女生徒の姿が目に写る。その女性徒は賑わう生徒達からは距離を置き、1人窓の外を物憂げな仕草で見つめていた。
「卒業おめでとうございます。相楽さん」
「ん? ああ、ありがとうございます。伊吹先生」
 窓の外を見ていた女生徒──相楽美佐枝さんは、私の言葉に窓の外を見るのをやめて答える。
「相楽さん、どうしたんですか? うかない顔をしてましたけど」
「ううん、なんでもないの。うん、ホントに……あ、それより、さっき芳野の奴が先生のこと探してましたよ」
「え、芳野君がですか?」
「うん、なんか結構、必死そうだった。あたしが見てないって言ったら走って行ったし」
「そうですか。どっちに行ったかわかりますか?」
「ええと、たしかあっちにある階段を上っていった、かな」
 私は相楽さんの言葉に、気づかれないように小さく口元を緩める。やっぱり、私の思っていた通り彼はあの場所へ向かったようだ。
「わかりました。それでは私、芳野君を探しに行きますね。あ、相楽さん、もし何か悩み事があるなら遠慮なく言って下さいね。私で良ければ力になりますから」
「うん、ありがとう」
「それでは、ホントに卒業おめでとうございます。気をつけて帰ってくださいね」
「はい、わかりました」


 相楽さんと別れた後、私は階段を上り3階へとやってきた。すると微かにだが音色が聴こえてくる。まるで彼と出会ったあの時のようだなっと思いながら、私は音の発生源の方へと進む。そして、ある教室の前で止まる。そこは彼とよく話した空き教室の前。私は、そっとドアを開ける。彼はその教室の真ん中で始めて会った時と同じように椅子に座りギターを弾きながら歌っていた。私は、彼の歌をこの場所で聴くのも今日で最後なんだなっと思い目を閉じて曲に身を任せる。
 しばらくして、彼は歌い終わると、ゆっくりと振り向いた。
「芳野君、卒業おめでとうございます」
「彼方此方、探したんだけど見つからなくて、でも、ここに居たら来てくれるんじゃないかと思ったんだ」
「はい、私も、ここにいるんじゃないかと思ってきました」
「先生……覚えてるか? 何時だったか、ここで進路の話をしたよな」
「はい、しましたね。もちろん覚えてます」
「俺、明日この街を離れて上京する」
「はい」
「絶対にプロのミュージシャンになる」
「はい、がんばってくださいね」
「それで必ず有名になる。そうしたら……」
 芳野君はそこで、言葉を切り黙り込む。しばらくして、芳野君は私の目を真っ直ぐに見つめて、重く閉じた口を開き言葉を紡ぐ。
「そうしたら、俺と付き合ってください」
 私は、芳野君の言葉に少なからず驚いた。でも、すぐに驚きは嬉しさに変わる。もう自分の気持ちに気づいていたから。だから、迷うことなく答えることができる。私は出来うる限りの最高の笑顔で彼に告げる。
「はい、喜んで」









 気がつけば彼が卒業した日から、随分と月日が過ぎていた。私は、なんとか教師という仕事にも慣れてきて、今では少しではあるが自信も芽生えてきていた。多分、それは彼のお陰だろう。彼のがんばっている姿を見ると自然と私もがんばらないと、という気持ちになれた。
 今や芳野祐介という名前を知らない人はいない。彼はプロのミュージシャンになるという夢を叶えたのだ。彼の歌は道を歩いていたりすると、何度となく耳に飛び込んでくるし、偶にテレビなどにも出演している。テレビに映る彼は、あの日と同じように、とても輝いていた。
 その日も彼の出演する番組があり、私は仕事から早めに帰ってきて妹と二人でその番組を見ていた。番組はドキュメンタリー物で逆境に立たされていて彼の歌を聴いて勇気を貰ったファンの方達の下に彼が訪れるというものだった。妹の「この人がおねぇちゃんの元教え子さんですか?」という言葉に私は笑顔で頷きながら、今の彼の立派な姿を見て頬を緩める。だが、番組が中盤に差し掛かった頃、私はある事に気づく。
 彼の瞳には、困惑や混乱が色濃く浮かび上がっていた。それに気づいた時、心に黒い染みのようなものが広がっていき、私は堪らなく不安になってきた。気づけば隣にいる妹の手を、握り締めていた。妹が「おねぇちゃん、どうしたんですか?」と言って来るが私は、答えることができなかった。
 
 そして、私の不安は的中することになる。
 
 あれ程、真っ直ぐで純粋だった彼の歌はあの番組を境に、どこか曇ってしまっていた。しばらくして、彼が音楽活動を休止することがテレビで伝えられると、私は安堵した。今の彼は疲れていたんだろう。だから、ゆっくり休むのはいいことだと思った。そして、また元気になったら元の真っ直ぐで純粋な歌を聞かせてくれると私は信じた。縋る様な思いで、そう自分に言い聞かせた。
 だが、私の考えは甘かったのだと思い知らされる。彼は何ヶ月かの休養の後、音楽活動を再開した。しかし、再開してからの彼の歌はやはり、前の純粋で真っ直ぐな歌ではなかった。彼は疲れていたのではない。道を見失ってしまったのだ。
 それでも彼は歌い続けた。まるで足掻くように歌い続けた。それは迷走しているように私の目に写った。
 私は、彼に今すぐ会いたくなった。だが、それは無理だろう。今の彼は有名人だ。いくら昔、彼に授業を教えたことがあるとは言っても、それだけで事務所の人が易々と会わせてくれるとは思えない。そもそも彼に会って私はなんて言うつもりなんだろう? また、あの時のようにがんばってと安易に言葉を掛けるのだろうか。そんなことはできない。
 もしかしたらあの時も、私は簡単にがんばってなんて言うべきではなかったのかもしれない。なんとかして、彼を思い直させるべきだったのかもしれない。わからない。わからないよ。
「ねぇ、私はどうすればいいんですか。芳野君?」
 尋ねて見ても、その声は彼には届かない。
 

 しばらく私が塞ぎ込んでいると、出かけていた妹が帰ってきた。妹はリビングで塞ぎ込んでいる私を見つけると嬉しそうに話し出した。
「おねぇちゃん、今日は日頃お世話になっているおねぇちゃんに風子がプレゼントを買ってきました。なんだと思います?」
「ふぅちゃん、ごめんね。今お姉ちゃん、そんな気分じゃないんだ」
 だが、妹は私の言葉に構わず、手に持っていた物を私の前に突きつける。妹が持っている物を見たとき、私の息が止まる。
「じゃーん。昔、おねぇちゃんの教え子だった人の新曲です。まだ持ってませんでしたよね?」
「あ……あ…」
「そんな物欲しそうな顔をしないで下さい。さっきも言った通りこれはおねぇちゃんへのプレゼントなんですから、ちゃんと上げます」
 そう言って、CDを差し出してくる。だが、妹の気持ちは素直に嬉しいが今は彼の曲を聴きたくない。私は妹が差し出しているCDをいつまでも受け取らずにジッと見つめていた。
「どうしたんですか? いらないんですか? もしかしてもう持ってますか?」
 妹が少し、涙目になりながら言ってくるが私は、気遣うことも出来ずに力なく首を横に振ることしかできない。
「じゃぁ、どうして受け取らないんですか? 風子、今日は視聴というものをしてみました。これで風子はまた一歩大人の階段を上った訳です。それでこの曲を聴いてみたのですが今回も凄く良い曲ですよ」
 私は、その言葉に力無く「どんな風に良い曲なの?」と投げやりに尋ねた。
「んー、とても一生懸命な感じです。なんというか言いたことはわからないのですが、何かを必死で見つけようとしているような、必死で探しているような、そんな感じがする曲でした」
 瞬間、私は弾かれたように妹の顔を見る。妹は私のそんな様子に首を傾げているが、私は構わずに「ちょっとそのCDをかけてみて」と言った。妹はいぶかしみながらも、リビングにあるテレビの下のCDコンポにCDをセットする。途端に部屋に激しいギターのリフが響き渡る。次いで、まるで叫ぶように歌う彼の声が聴こえてきた。
 私はその歌を聴いて思わず涙を流しながら妹を抱きしめていた。妹の「おねぇちゃん苦しいです」と言う声が聞こえるが、今は我慢してもらおうと思う。なんで気づかなかったのだろう。彼は【足掻いて】いるのだ。彼は今も必死にがんばっているのだ。私は、それが見えなくなってしまっていた。
 でも……もう大丈夫。
 妹が気づかせてくれたから。大事なことを見つけてくれたから。
 私は、そっと胸の中にいる妹に囁いた。
「ありがとう、ふぅちゃん」









 私は学校の近くにある桜並木を歩いていた。今日は土曜日ということもあり、学校はすでに放課になっている。残っていた書類整理もほとんど終わった私は、帰路につくことにした。
 そういえば、妹に帰りにケーキを買ってきてと頼まれていたのを思い出し、私は商店街に向かうことにする。商店街に行く道の途中にある学生寮の前を通る時、女性が大きく背伸びをしている姿が目に移る。私がその女性をなんとはなしに見ていると、ふとその女性と視線が合った。
「あれ、伊吹先生でしょ? うわっ久しぶりですね!?」
「え、あの、もしかして、相楽さんですか?」
 その女性は私の元教え子の相楽美佐枝さんだった。
「あ、そういえば相楽さん、こちらで寮母さんをやっているんでしたね」
「そうそう。毎日毎日、悪ガキ共の相手で大変でさ」
「ふふふ、とても楽しそうですね」
「まぁ、楽しくないこともないんだけど。目的のために始めた仕事ですけど、それなり充実してます」
「目的? そういえば相楽さんはなんで、こちらの寮母さんになられたんですか? たしか東京の短大を卒業した後、すぐこちらに就職したそうですけど」
「うん、まぁ……人を待ってるんです」
「待ち人、ですか?」
「もう会えるかどうか、わかんないんだけど。なんていうのかな、あの学校から完全に縁が切れると本当に会えなくなるような気がして。あはは、笑っちゃうでしょ? そんなことで就職口を決めたなんて」
「いえ、笑いませんよ。私もある人を待ってますから」
「そうなんですか?」
「はい……その人には色々なことがあって、もう私には会いたくないのかもしれませんけど」
「先生、そんな弱気じゃダメ。相手が会いたくなかろうが、そんなこと知ったこっちゃない。あたし達が会いたいんです。ならそれで十分。だから会えた時には、待たせ過ぎ! って言ってドロップキックの1つでもお見舞いしてやればいいんですよ」
「ふふふ、とても相楽さんらしいですね」
「あ、あはは、そうですか?」
「はい、相楽さんも待ち人に会えるといいですね」
「ええ、まぁ、気長に待ちます。ここの仕事にも馴れてきましたしね」
 相楽さんは、とても素敵な笑顔でそう答えた。
 私達はそれから少しの間話をした後、相楽さんが仕事があると言うことで別れた。そして、私は当初の予定通り商店街へ向けて歩き出す。道を歩いているとバス停にバスが止まっているのが見えた。どうやら先程、止まったばかりらしく下車するお客さん達がちらほらと出てくる。
 最後に、他のお客さん達から少し遅れて、覚束ない足取りで1人の男性が出てきた。その男性を見たとき、私の足が止まる。
 
 最後に出てきた1人の男性──それは私が会いたいと願った人。私の待ち人。
 
 彼はバスから降りて、こちらに歩いてこようとした所で私の存在に気づくと、その場で金縛りにあったかのように立ち竦む。彼の瞳には驚愕、混乱、恐れ、色々なモノが渦巻いている。私は、彼の前まで歩いていくと何も言わずに、じっとその瞳を見つめる。
 そういえば相楽さんは、なんて言ってただろう? たしか、そうドロップキックだ。でも、それは私にはできそうにない。運動神経は鈍いほうだから。
 なら私はどうしようか? そんなの、考えるまでもなく彼の瞳を見たときから決まっていた。彼の瞳には色んな想いが渦巻いてるけど、でも……見つけたから。まるで灯火のように小さく、だけど強く揺れる確かな意志を。

 だから、あの日と同じように私は言おうと思う。精一杯の想いを込めて。







「音楽──まだ続けてる?」

「ずっと続けていれば、きっと叶うから、諦めないでね」


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