未来に奏でるポストリュード


 立方体の中に、俺は居た。
 四方――――いや、六方を全く同じ大きさの正方形に囲まれていた。
 壁は真っ白だ。宇宙の真ん中に白い角砂糖が一つだけあって、それを全て反転させたような感じだった。
 上を見る。右を見る。左を見る。前を見る。後を見る。下を見る。同じだ。何も変わらない。重力は、下に向かっている。重力の方向を下だと定義すると、右に重力が向かえば、それは右ではなくて下になる。
 俺は常に下の上で生活をしなければならない。つまり理論上、常に俺は下に属している。
 右が下になった時のために、できるだけ右に居よう。そうすれば、右が下になった時、俺は転落することなくそれを受け入れることができる。
「そんなことしても無駄なの」
 そう思って立ち上がった時、後からことみの声が聞こえた。
「どこに居たって同じ。右に居ても、左が下になったら朋也くんは死んじゃう」
「ああ、そうだな」
 ことみの言うことは正しい。危険を完全に消すなんてこと、俺もできるとは思っちゃいない。
「でもな、隅っこに居れば、二つの可能性に対して無事で居られる。右前の隅に居れば、前と右が下になった時、俺は大丈夫なままだ。方向が変わる可能性があるのは五つだから、危ないのは5分の3だぞ。随分な進歩じゃないか」
「それは朋也くんの思い込みなの。方向は五つじゃなくて、無限なの。例えば前方だけ取っても、前と右の間、それと右の間、それと右の間という風に、朋也くんを通る直線はいくらでも引けるの。もしそうなったら、無限の定義が隅っこの優位性を崩してしまうの」
「ああ、そうだな」
 正直なところを言えば、そんなことは俺だって分かっていた。そういう高等数学的なアプローチをことみがしてくることも、薄々感づいていた。
 だが予想通りの返事が聞けたからといって、爽快な気分になれたかといえばそうではない。むしろ逆だ。俺は少しイライラした。俺に向かって勝手に直線を引くんじゃない。俺を串刺しにする気か。それこそ死んでしまうじゃないか。
「ことみ。俺は少し頭が痛い」
 嘘だった。困らせてやろうと思った。
「えっ、朋也くん。どうしたの?」
 案の定、ことみは心配そうに俺に近寄ろうとする。
「やめろ!」
 やや遅れて、俺に充足感が満たされてきた。そうだった。
 ことみのことが嫌いだからなんて、とんでもない。ことみは俺の大事なU(J)だ。そうとも。大事なU(J)なのだから。
 ただ、俺が自分の全てを擲って決めた覚悟に、彼女の本領であろうとも、科学を持ち出すことはやめて欲しい。そのことを、知らせたかったんだ。
「やめてくれないか、ことみ」
「うん。それは仕方ないね。私、無神経だったかもしれない。ごめんなさい」
「いや、俺が前を前として、下を下として、それを自分の世界観として決めてしまったことを、教えるのが遅かった。でもこれからは、同じコースを走っていけると思う」
「うん。私もそう思う」
 よかった。さすがは俺のU(J)だ。
「でもな、ことみ。俺は探してるんだ。いや、本当はことみとかU(J)に頼っちゃいけないと思ってるんだ。でも、ここに来てしまった。俺、何してるんだろうな」
「ううん。仕方ないの。ここは真っ白だから」
「そうだな。本当、反省する」
 いや、本当に俺は反省しているのだろうか……?
「それで結論が出るなら、いいと思うの。朋也くんは、優しいから」
「やめてくれ。ことみからそんな言葉は聞きたくない」
 自分が少し、嫌になる。
「分かってるの。でも、ここには朋也くんが探してるものはないと思うの」
「そうみたいだな。ありがとう」
 もはや、ことみと話すことはないだろう。頭の中でそう考えながら、次に進むべき道のことを考えた。
「ところでことみ。俺はここを出たいんだが……」
 振り返ると、そこにことみは居なかった。いや、居るんだが、俺が分からないだけだった。
 置き土産のようにそこには出口があったから、出て行こうと思う。



「ひどいよ! 私、そんなこと思ってないもん!」
「嘘ばっかり! あんたは上品だからそういう経験がないのよ!」
 俺がそこを出ると、教室で椋と杏が喧嘩していた。
「おい、何やってるんだ」
 この二人が喧嘩するなんて珍しい。
「あ、聞いてよ朋也」
 杏が俺を見つけるなり、こちらに近づいてくる。
 この教室には、椅子と机が見当たらない。だから、杏は俺に最短距離で近づくことができた。
「ダメです! 岡崎くん! お姉ちゃんの言葉に耳を貸しちゃ!」
 椋の言葉が矢のように鋭く俺を貫こうとし、俺は即座にその場から身を引いた。
 数瞬前に俺が居たその空間で、杏の鋭い野生が空振りをした。
「よかった……岡崎くんが無\事で……」
 俺の無事を確認したらしい椋は、それだけ言うとドサリと床に倒れた。
 すぐに助けなくては! と俺は心配したが、それにも増して過剰な反応を見せたのは杏だった。
「椋! 椋ったら!」
 いつの間に、杏は変身する技術を身につけたのだろうか。全身は褐色の体毛に覆われ、所々に黒い斑点が模様を成している。なるほど、これでは椋が俺の身を案じたことも納得ができる。
「大丈夫のようね……」
 よく見れば、椋は浅い眠りについただけのようだった。
「どうしたんだ。二人とも喧嘩なんてして。らしくないじゃないか」
 俺がそう言うと、杏は表情を綻ばせて再び俺に近寄ってきた。
「それがね。聞いてよ」
 杏はその話をしたくて仕方がないという様子だった。
 だが、さっきの椋の言葉が思い出される。
「いや、待て。杏の話を聞くと、俺はvoid main()になってしまうんだ。だからやめてくれ」
 そうやって耳を塞ぐジェスチャーをしてやると、一瞬、杏はキョトンとした表情になったが、すぐにニヤニヤといやらしい笑みに切り替わった。
「またまたぁ。あたしがそんなひどいことすると思う〜?」
「思う」
 U(J)を裏切ることは、よくないことだと分かっている。だからこそ、俺は杏の虚言症を信用してやらなくてはならないだろう。
「そんなバカな……」
 杏は呆れたような、絶望したような、妙な表情を浮かべた。
「うまくいくって言ったのは、椋だったのに……」
 またも踵を返し、杏は椋のもとへ歩いていく。その美しい肩と髪を見るたび、俺は畏怖の感情を何度も反芻する。
 残念だ。俺の求めるものはここにはない。今、不足しているもの。俺の不甲斐なさを断絶するもの。それは決して、U(J)から搾取できるものではない。
 俺は馬鹿か。
「ね、椋。あたしにはもうあんたしか居ないわ。いや、あんたさえ居ないわ。この世はだって、黄色い角砂糖なんだもの」
 横たわる椋の穏やかな寝顔を覗き込む杏の眼から涙が零れ落ちる。
 ああ、俺は彼女らをこれほどまでに追い詰めるというのか。いったい、何をしているんだろう。俺は。
 ポタリ。ポタリ。ポタリ。
「でも仕方ないよね。朋也には朋也の、あたしにはあたしの、U(J)にはU(J)の、†には†の人生がある。あたしだって、本当は」
 ポタリ。ポタリ。ポタリ。
「一番だと思ってたのに……一番……一番」
 ポタリ。ポタリ。ポタ



 目の前には二つの扉がある。その他は一面の黄色。黄色い正方形六つが、俺の周りを取り囲んでいる。
 それはまるで黄色い角砂糖だった。宇宙の真ん中に黄色い角砂糖が一つだけあって、それを全て反転させたような感じだった。
 そんなどうでもいい空想に浸っている場合じゃない。俺はこの扉のどちらかを開かなくてはならない。
 左、右。どうだ。どっちが正しい。
 いや、そもそも正しいって何だろう。正しいって、比較するものがあって初めて、分かることじゃなかったか?
 では、選択しなかったもう片方の内容が分からない限り、正しいというものはない。
 ならどっちでもいい。左にしよう。ガチャリ。
「な、誰だっ!?」
 中を見るとそこは風呂屋の脱衣所で、広大な部屋の中でただ一人、春原が服を脱いでいる最中だった。
「死ね」
 そう一言だけ言い残して、俺は扉を閉めた。
 そして俺は、きっと正しいであろう右の扉を見る。
 だがその先には何が待っているのだろう。俺の望む未来だろうか?
 数分後の俺はいったいどうなっている? 笑っているか? 泣いているか? 生きているか? 死んでいるか?
 不安だ。石橋を叩けば、すぐに亀裂が入って奈落へと落ちていくんだ。安全な地点から叩かないと、叩きながら渡っていたのでは、単にその耐久性に水をさすだけだ。もし叩かなければギリギリで渡れるほどの強度だったらどうするんだ?
 それに、叩いて、それが崩れ去って危険が判明したところで、どうするんだ? 他に渡る手段があるなら構わない。だがそれしかなかったとしたら、どうするんだ? 世界の全てが俺を転落させようとする。転落があるべき運命であるかのように。下り坂は下っているうちは心地よい。そのブレーキの故障に気がつきさえしなければ。
 無責任だ。無責任すぎるだろう。そんなのは。チクショウ、俺は――――
「大丈夫ですよ。朋也くん」
 不意に、背後から声がかかった。
「大丈夫です。朋也くんなら、耐えられます。男の子ですから」
 その声は紛れもない。渚だった。
「ああ、渚。居たのか。居たのなら言ってくれよ」
 嬉しかった。どうしてだろう。渚が、とても神々しい存在に感じられた。
 どんくさくて、おっちょこちょいで、不器用なだけの、ただの†だというのに。
「どうしたんですか? 朋也くん、もしかして泣いてますか?」
「ば、馬鹿を言うな。俺は泣いたりしない。これは、心の汗だ」
 不本意だが、嘘をついてしまった。
 でも仕方がない。こいつが†である限り、こう言わないといけないのだ。
「こんなところをうろちょろとしていないかと思ってな。心配で、探しにきたんだ」
 いや、真実は逆なのだろう。俺こそが、この世で最も絶望していたのだ。渚こそが、俺を心配してここまで来てくれたのだろう。とても心強い事実だ。
「そうでしたか。ありがとう、朋也くん。わたしも、ここがどういうところなのかよく分からないんです」
「ああ。俺が思うには――――」
 頭の中を、ユサユサと振ってみる。俺の懐かしさの全てが詰め込まれた無数の星屑の中から、より適当なピースを探して、当てはめる。
「これは、夢だと思う」
 俺は、とても不安定だ。頭の中は、冷蔵庫に入れ忘れたパンプキンスープのように混沌として、ねっとりとしている。だから、これは夢に違いない。
「夢、ですか」
 渚は俺の言葉を反芻するように、真剣な表情で顎に手を当て、
「それはとても素敵ですねっ」
 と言った。
「夢の意味を勘違いするな。お前の言ってる夢と俺の言ってる夢は違う」
「そんなことはないです」
 渚は笑う。
「朋也くんは、大変です」
 渚は、にこにこする。
「俺が?」
「はい。朋也くんは大変です」
「へえ。俺は大変なのか」
 渚に言われると、どうも悪い気がしない。何故だろう。やっぱり†だからか。
「渚が俺を探しに来たのは分かった。でも、ここがどこなのかもどうせ分からないから、とりあえずこの扉を開けて進まないか?」
 このまま話しているのも悪くはないんだが、立ち往生も何だと思い、落ち着ける場所に移動することを提案してみた。
「あ、はい。そうですね。わたしもそれがいいと思います」
 先を促す俺の声に慌てたのか、渚がドアノブに手をかけようとする。
「待て」
 俺も慌ててそれを制止する。
「どうしたんですか?」
「いや。そこは俺が開けるよ」
 そう言ってドアノブを握る。ビリッ、と小さな静電気が走ったが、構わず手首をゆっくりと回した。
 ガチャリ。
 開錠の音がする。その僅かな振動は、指を伝い、腕を伝い、肩を伝い、空っぽで何もない俺の胴体の中へとこだました。
 少しだけ、神経が解けていく感触。とても冷たい。そして寒い。身体中の血液がピシピシと音を立てる。
 どうした、岡崎朋也。いくら待っていても、†は前へ進めないぞ。熱が欲しいなら、この先いくらでも蓄えればいい。それを求める者が居るのなら、その分も蓄えればいい。俺は泣いていたのか? 泣いてはならない。悟られてはならない。今までのどんな理不尽が責めようが、†が責めようが、U(J)が止めようが、void main()だろうが、俺は進まなくては。
 扉が開いていく。ああ、なんて眩しい光だろう。赤、黄、青、緑、よかった。ここは美しい。いや、違うな。美しく塗り替えたんだ。俺が。よかった。とても、よかった。



「…………」
 こんなにも世界は美しいというのに。渚の魂は笑ってはいない。
「どうしたんだ」
 俺は心配になって渚を振り返る。
「ここで、よかったんじゃないのか」
 上を見る。左を見る。右を見る。前を見る。後を見る。下を見る。下はいつだって下だし、俺は転落してなどいない。よかったじゃないか。何が不満なんだ。
「見ろよ。赤が緑と一緒に飛んでいるぞ」
 俺の右上を、赤が緑を背負う形で飛んでいた。見ているだけで、心躍る。空っぽだったはずの胴の中は、いつの間にか所狭しと敷き詰められたタービンでいっぱいだ。最高の一日だ。
「ほら、渚」
 渚が顔を上げる。その瞳の動きを俺は追った。上、左、右、前、下。右上。そしてそれがゆっくりを右へと動き、最後に俺を見た。
「どうだ。暖かくて、いい場所だろう」
 渚は、うんと頷いた。
「ここに、そうだな。別荘を建てよう。色んな光も飛んでるし、退屈しない。たこ足コンセントだって、いくらでも作ればいい」
 †と一緒に。そうだ。誓ったじゃないか。俺は、何よりも、一番最初に。
「朋也くん」
 渚が言う。
「わたしは別に、光がなくたっていいんです。それに、朋也くん。そんなに無理することはないんです」
 渚は言う。
「朋也くんは、いつも大変です。わたしは、別に朋也くんを正当化するためにこう言ってるんじゃないんです。これは、ただの朋也くんの気づきです」
 †じゃない。
「いつも見てます。見えてないわけがないです。朋也くんだって分かってるはずです。朋也くんは、大変です」
 そうだ。分かっていた。俺は結構、いや、相当無理してる。分かってる。
 いや、そうじゃないんだ。これは無理でもなんでもない。渚だって言ってただろう。俺は男だと。男にとって、このくらいの試練が乗り越えられないでどうするんだ。このくらいのこと、造作もなくできないでどうするんだ。いや、造作なくというのは出来すぎだが、こなせないで何が岡崎朋也だ。
「わたしはいつも言っています。わたしは別に光がなくなっていいんです。分かりますか?」
「渚」
 †の名を呼ぶ。
「お前に聞きたい。……いや、本当なら†に聞きたい。それは岡崎朋也のエゴじゃないんだな」
「…………」
 チュチュチュ、と小鳥のさえずりが聞こえる。それに手を伸ばし、俺のものにしたいという衝動を抑える。それが渚の言う光に過ぎないことがどうして分からない。この期に及んで、まだ。
「わたしは†ではないですから、どう言えばいいのか分かりません」
 そうだ。俺は何をしている。偶像としての†に救いを求めてどうする。
 何をしに来ているんだよ、俺は。自虐するためなら、いつまでも他所でやっていろ。
 違うだろう。
「でも、朋也くんは自分で分かっているはずです。†は、光よりももっと求めているものがあるっていうことを」
「そう、だな。お前に言われてるぐらいだからな」
「朋也くんは、目が眩んでいるんです。さっきだってそうでした。強すぎる光に身構えて、怖かったはずです。そんな怖い思いは、して欲しくないです」
 正直なところを言えば、そんなことは俺だって分かっていた。そういう深層心理的なアプローチを渚がしてくることも、薄々感づいていた。
 だが予想通りの返事が聞けたからといって、爽快な気分になれたかといえばそうではない。むしろ逆だ。
 俺は哀しかった。そんな猛進を続けるしか芸のない自分が。結果として、†に全てを理解されて、結局、馬鹿なピエロに過ぎない自分が。
「朋也くんは」
 渚は続ける。
「何をしに、ここに来たんですか?」
 俺もそれを、生まれ落ちた時から疑問に思っていた。俺は何をするためにここに居るのだろうか。
 袋の中に手を突っ込んで、最初に指に触れた言葉を、読み上げてみる。
「踏ん切りを、つけるために」
 自分で読み上げて、少し嗤った。まるで子供だ。
 ここまでどういう理由であがいていたかといえば、何、材料は全て揃っていて、レシピもそこにあり、優秀なアシスタントさえ周りに居るのだ。にも関わらず俺は、誰かから『さあ、作りましょうか』の一言を貰いたくて、ここにやって来たのだ。滑稽などを通り越して、もはや哀れだ。
 いや、俺がそれを哀れむ権利などない。一連の論理より取得した、最も適切な解答を理解せよ。俺は何が足りなくて†を苦しめているのか、それを理解せよ。
「そうだ。分かった。ようやく、分かった。†、渚、俺は愚かだ」
 理解することがようやく――本当にようやく――できた今、もうここに、光はない。渚もいない。ことみも、杏も、椋も、U(J)も、渚も、†も、ここには居ない。全ての役者は撤退した。あとは俺の口上だけ。この真っ白な角砂糖の世界を、最高の空間に変貌させるための宣言が必要なんだ。
「†のために、俺は――――」
 ああ。この的を射ない劇が、俺を飛び立たせるための滑稽な儀式だったとするなら、俺の確信をもって、もはやそれは必要がないものになったのだ。不格好だ。我ながら情けない。が、ようやくこれで俺もスタートを切れるということだ。
 †。俺は気づけたらしい。今、そっちに行こう。なあ、†…………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・。









 リリリリリリリリ……とけたたましい音が、狭い部屋の中で鳴り響く。
 五時三十分。いつもの時間。
 まだ外は暗い。太陽が昇り始めるのはもう少ししてからだ。
「う、うう……」
 身体中が痛い。いまだに慣れない重労働に加え、昨日はさらに残業があったせいで、とても寝不足だ。
 床に入ったのは、結局何時だったか……? と、ぼやけた頭の中で考える。が、いかんせんぼやけているので思い出すことができない。
 隣を見る。そこには綺麗に折りたたまれた布団が一つ。そして明るい台所からは、とてもいい匂いが漂う。
「あ、起きましたか? ご飯、できてます」
 少しだけ開いた襖の間から、†がちょこんと顔を出してそう言った。薄暗い部屋の中へ、光と共に現れた彼女は、さながら女神のようだ。冗談ではなく、俺の心を支える最高の存在なのだ。
「あ……ああ。すまん。ちょっと頭がぼーっとしてな」
 夢を見た。とても、不思議な夢を。
 夢を見るような浅い眠りをしているほど、心身に余裕はないはずなんだが――――。
「まだ時間に余裕はありますから、もう少しだけ寝ていてもいいですよ」
 心配そうな表情をして、俺を気遣う。……だが。
「ん。いや。大丈夫だ。それより、メシだメシ。今日は三杯は食うぞ!」
「そ、そうですか。では、一緒に食べましょう」
 にこり、と彼女は笑顔を残し、台所へと戻っていった。
 俺も急いで服を着替えて支度を済ませ、そして愛する妻の待つ食卓へと向かう。
 何、慌ててはいけない。この進める歩幅が、当たり前の距離を縮める時のそれになるように、俺は日常を愛さなくてはならない。
 その日常を愛すことを忘れた者は、……なんだ、その、ダメなやつなんだ。そうだろ?
 よし。今日は本当に、ご飯三杯食ってやる。
 それも、とてもうまそうに。
感想  home