「ねぇお姉ちゃん」
「……なによ」
ソファに座る姉に、妹は後ろから声をかける。顔だけ後ろにやって、姉はそれに応えた。
返事はまるで素っ気なかったが、その素っ気なさが意図的なものだということぐらい、生まれてからずっと彼女の妹をやってきた椋には分かりきっている。
「いつまで、そうやってるつもりなの?」
半ば以上、呆れたように。
「う、うるさいわね」
振り向いた顔を戻しながら、姉、杏が少し恥ずかしそうに言う。
俯き気味のその顔が椋の目に赤く見えるのは、きっと彼女の見間違いなどではないだろう。
杏はちくちくと携帯電話を操作していた。操作という言葉に主体者の意図が必要ならば、それは、むしろ単に「いじる」といった方がぴったりとくるような所作だった。
「そ、そうよ。何も今連絡する必要なんてないじゃない。もうちょっと経ってからでも十分。うん、そう。遊園地は逃げないわ」
そう言ってぎこちなく顔を上げる。無理に言い訳を考えると誰も不自然に口数が多くなることを椋は知っていた。
「でも、岡崎くんの予定は逃げるかもしれないよ」
「いや、でも、あんまり早いと変な勘違いとかするかもしれないし」
「勘違いって?」
「だから、あたしが、その、あいつに気がある、とか」
間髪を入れずに再び椋は尋ねた。
「違うの?」
「ち、違うわよっ。違うに決まってるじゃない!」
「お姉ちゃん、顔、真っ赤」
「あんたが変なこと言うからっ」
椋の言葉通り、必死に弁解する杏の顔は赤く染まっていた。
それが決して怒りによるものではないことは明白だった。
「お姉ちゃん、いい加減に認めなよ」
「だから違うって言ってるでしょ!」
「じゃあ、好きでもない人を遊園地には誘うの?」
「それは、あんたがあいつでも誘えばって言ったから」
「何も私が言った通りにしなくてもいいんだよ、お姉ちゃん」
杏にしてみても、途中からは意地のようなものだった。恥ずかしさと、加えて、妹には弱みを見せたくないという姉としてのプライドが彼女を頑なにさせていた。
岡崎朋也のことが気にかかる。それは否定することのできない事実だと認めていた。ただ、それが椋の言うように「好き」という言葉と直結しているのかどうか、正直なところ、彼女自身判断がつかないのだ。
「なら別の奴誘うわよっ」
だから、そう言ってしまってから確かに後悔している自分、それに、少し驚いた。
何故後悔などしているのか、考えてもその答えは一つしかなさそうだった。
「あのね」
「な、何よ」
「妹じゃなくて一人の女として言わせてもらうね。藤林杏は、高校の時ずっと岡崎朋也のことが好きだった。少なくとも私の目には、岡崎くんを好きだった藤林椋の目には、そう見えてたよ?」
「……そんなわけ」
「ないって、言い切れる?」
椋の言葉に、杏はまた少し考えて、そして、素直に認めることにした。つい先ほどの後悔が彼女の頭にはあった。
「……そうね、高校の時、あたしはあいつのことが気になってた。もしかしたら、その……好き、だったのかもしれない。でも」
少し間をおいて。
「今は正直、分からないの。だって、あいつとはもう生きてるところが全然違うじゃない。あたしは大学で、あいつは、社会人として働いてる。全然、違うの」
言いながら杏は、悲しいというよりむしろ寂しそうで。
「好きなのかどうか、分からない?」
まるで姉が妹にそうするように、慈しむように、椋は訊いた。
「……うん」
「じゃあ、恋愛に不器用なお姉ちゃんに、彼氏持ちの妹からアドバイスをあげる」
「何かすごく悔しいんだけど」
少し顔を俯けて、上目遣いに椋を軽く睨む。杏が拗ねた時によくする仕草。
そして、それは本当に不快な時には表れないものだと椋は知っていた。無意識の内に、自分が拗ねているということを相手に伝えるためにやっているのかもしれないと思う。
「いいじゃない、たまにはさ」
「まぁ、こういうことに関しては確かにあんたの方が先輩なのよね」
「そうそう。ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、今回他の誰でもなくて、岡崎くんを誘うべきだと思うの」
「どうして? 好きかどうかも分からないのに、そういうのって失礼っていうか、何ていうか、その」
そういうところが不器用なんだよ。口には出さず椋は思った。
もっとずるくなってもいいのに、変なところでまっすぐで。それが、いいところなのかもしれないけど。
「たまの後輩なんだから、今度ぐらい最後まで後輩らしく、先輩のアドバイスに従ってみない?」
杏は、もう一度椋をむっと睨んだ。椋もそれに視線で応える。
たっぷり五秒程度そうしてから、杏は少し大げさに上を向く。目を瞑って、小さくため息。
「はぁ、分かったわ。今回はのせられてあげる」
やれやれといった面持ちの裏に喜びの色が隠されていることに椋はもちろん気づいていた。
相変わらず素直じゃないなあと心の中で苦笑しながら、それを表には出さないように一苦労。
「じゃあお姉ちゃん、今すぐ電話電話。聞かれたくなかったら自分の部屋でね」
「言われなくても」
「さっきはここでしようとしてたくせに」
「う、うるさいわねぇ」
言いながらソファから立ち上がり、リビングを出ていく姉の背後。椋は小さく呟く。
本来、本人に聞かせないと意味のない言葉。でも、例え意味がなくても、その言葉に価値はあると思った。
「がんばれ、お姉ちゃん」
テーブルの上には、姉が忘れていった遊園地の割引チケットが二枚。姉の部屋に届けるのは、しばらく後になりそうだった。
伝えよう、素敵な素敵な言葉
「きゃっ」
小さな悲鳴とともに、杏はすぐ隣の腕に抱きついた。
午後の一つ目として入ったお化け屋敷。自分から入ろうと言った割に杏はかなり怖がっているようで、朋也は屋敷自体よりも彼女の反応を楽しんでいた。
「ちょっ、わっわっ」
近寄ってくる火の玉らしきものから逃げるように、杏は朋也の背中に身を隠す。
「おい、杏、怖いのは分かるけどな、隠れちまったらここに入った意味ねえじゃんかよ」
呆れたような言葉とは裏腹に、楽しそうな声。
「う、うるさいわね」
顔に血がのぼる感覚。恥ずかしさと、照れくささ。杏は思う。暗くてよかった。多分、今のあたしは、真っ赤な顔をしているんだろう。
考えて、また頬が熱くなった。
遊園地に着いてから、だいたい三時間。いくつかのアトラクションをこなして、園内のファーストフード店で昼食を食べて。
久しぶりのことで最初はどこかぎこちなかった二人も、既に高校の時のように打ち解けていた。
「お、もう終わりか」
「あ、案外たいしたことなかったわね」
杏の感覚では久しぶりの空の下。誰の耳にも強がりと分かるような彼女の言葉に、朋也は呆れたように言う。
「それをお前が言うか?」
「な、何よ」
「いや、何でもないさ」
言って、くすくすと笑う朋也。
恥ずかしさと悔しさと、後少しの何かで再び赤面しながら、杏は彼のこめかみを目がけて右のストレートを繰り出した。腰の入ったいいパンチだった。
「おわっ」
「ちっ」
主に高校の間に鍛えられた第六感と反射神経で、朋也はその攻撃を間一髪かわす。
「おい、てめ、今本気で当てようとしただろ」
「あ、あんたがいけないんでしょ、あたしをからかおうとするから」
「からかわれたぐらいで人を殺そうとするなっ」
「そ、そんなことしてないわよっ、ただちょっとあんたを痛い目にあわせようとしただけじゃない」
「いーや、今の攻撃には明らかな殺意がこもってた」
「攻撃に殺意があるのは当たり前でしょっ」
「やっぱり俺を亡き者にしようとしてたんじゃねえかっ」
「うるさいわねっ、あ、ちょっとアイスでも買ってくるから、あんたこの辺で待ってなさい」
未だ顔を赤く染めたまま、そう言ってその場を立ち去る杏。
その後ろ姿を見ながら、朋也は思う。ああ、逃げやがった。
先ほどまでのやり取りに周囲の視線が集まっていたことには、気づいていないようだった。
近くの手洗い場。朋也から離れた杏は、正面の鏡を見ていた。
変に思われなかっただろうか。鏡に映る赤く染まった自分の顔を見ながら、杏はそんなことを思っていた。
お化け屋敷でのことが脳裏をよぎる。
抱きついた腕は記憶にあるそれよりもずいぶんと太く硬くて、身を隠した背中は思っていたよりもずっと広く感じた。
「きつい仕事だって、言ってたもんね」
もう一度彼の身体の感触を思い出して、ぼっと顔を赤くする。
高校の時よりもたくましくなった体は、きっとその仕事の影響なのだろう。
そんなことを考えて、少し寂しくなった。それが何故なのか、杏には何となく分かっていた。
何度も顔を洗って、ようやく顔を元に戻してから朋也のところへ戻る途中、杏は思い出したようにそこから見える屋台式の店へと歩みを変えた。朋也にああ言った手前、手ぶらで帰ることはできないと気がついた。
アイスやジュース、クレープなどを売るその屋台の前には結構な数の人がいるのが、少し離れた位置からでも容易く見て取れる。並ぶのは面倒だが、時間がかかった言い訳にはなりそうだった。
こういうところって変に高いのよね、そんなことを考えながら店へと向かう。
「……おかあさん」
不意に、小さな声が聞こえた。今にも泣き出しそうな、そんな声だった。
迷子だ。そう思うなり、杏はすぐにその声がした方に歩いていく。
小学校に入るか入らないか、それぐらいの男の子に見えた。
「……」
涙を一杯に湛えて、男の子はふらふらと歩いていた。
それをまるで見なかったことのようにして通り過ぎていく周囲。子どもが好きで幼稚園教諭を目指す杏である。彼女はその光景に怒りにさえ似た感情を覚えた。
無意識のうちに、走り出す。早く話を聞いて、安心させてあげたかった。
「……名前は何だ?」
後5メートルというところで、杏は一人の男性が男の子へと声をかけるのを見た。
それはよく見知った人物で、驚きと、それに勝る喜びに、彼女は自分が自然と笑っていることに気づいた。
走る足を一度止めて、ゆっくりと近づきながら声をかける。
「朋也、あんたさ、もうちょっと愛想良くしなさいよ。それじゃまるで人攫いみたい」
「きょ、杏っ!? お、お前、おせーんだよ、何してやがった」
見られていたこと、その恥ずかしさを誤魔化すように。
「はいはい。ねえ、僕、お母さんとはぐれちゃったの?」
「……うん」
朋也を軽くあしらってから、男の子の前で中腰になって目線を合わせながら聞く。
その声はとても穏やかで、優しくて。
「うわ、何だその声」
「う、うるさいわね、あんたちょっと黙ってなさい」
自分でも少しは自覚があるのか、杏は怒りよりもむしろ照れたように言った。
「ね、お名前は?」
「……かわかみしょうた」
「うん、じゃあしょうた君、お姉さんが一緒にお母さんを探してあげるからね、もう大丈夫」
「ほんと?」
「うん、本当よ」
「誰がおねーさんだよ」
「そこ黙るっ」
男の子の手前、杏は朋也に大していつものように暴力行為には出なかった。代わりに、「次、変なこといったら後で三回死なす」と目で訴えかけてみた。
杏と目が合うと、朋也はかくかくと頭を何度も縦に振った。どうやらきちんと伝わったらしい。
「お母さん、どの辺でいなくなったか覚えてる?」
「……おぼえてない。ごめんなさい」
「ううん、いいのよ、謝らないで」
言いながら、男の子の頭をゆっくりと撫でる。
そうしながら、これからどうするかを考えていた。
「で、杏、どうするつもりだ?」
「とりあえずこの子を連れて、迷子センターの方に行ってみる。母親も探してるはずだし、何かあったらまずはそこに向かうでしょ」
「了解。じゃあ行くか」
そう言って、朋也は男の子の方へと歩いていった。
何をするつもりだろう、杏が疑問に思うより早く彼は声をかけていた。
「おい、しょうた」
「……?」
「お前はお母さんとはぐれたのに、泣かなかった。だから、ご褒美をやろう」
先ほど杏がしたように、中腰になって、目線を合わせた上で話しかける。
「なに? おにーちゃん」
「高いとこ、好きか?」
「うん」
「よし、なら肩車だ。ほら、乗れ」
「うんっ」
朋也が片膝をつくと、男の子は喜んで彼の両肩に乗った。
男の子の足首を手で持って安定させると、朋也はゆっくりと立ち上がって、口を開く。
「高いか?」
「うん、すごくたかいよ、おにーちゃん」
「そうか。そこからなら、お母さんも、すぐに見つかるかもな」
「うんっ」
――何か、すごくいいな。
その光景を見ながら、杏はそんなことを思っていた。
迷子を見かけながら黙って通り過ぎていく多くの人間の中で、彼の姿がとても優しく感じられた。
「おい、杏、行くぞ」
「あ、うん、行こ行こ」
杏は慌てて意識を引き戻し、歩き出した。
男の子と、朋也と、杏。三人の話が途切れることはなかった。
結局、朋也の肩車が功を奏したらしく、迷子センターに行く途中で男の子の母親は見つかった。
恐縮してしまうぐらいに何度もお礼を言われて、その後も数分間男の子とおしゃべりを楽しんでから二人は彼らと別れた。
「そういえばお前、幼稚園の先生になるんだっけな」
「うん、そのつもり」
「そりゃ、ほっとけねえよな」
「そうね。でもさ、朋也、あんたもなかなかいい人やってたじゃない」
「そうか?」
「うん、あんた、意外と保父とか向いてるかもよ」
「無茶言うな、俺には無理だっての」
言いながら朋也は苦笑する。杏にとってそれは見慣れた笑い方だった。
高校時代と同じような取りとめのないやり取り。彼は変わったようで、根本的なところでは変わっていなかった。
それはすごく嬉しいことだと杏は何となくそう思って、そして気の向くままに空を仰ぐ。
――ああ、あたし、こいつのことが好きなんだ。
急にそんな考えが頭に浮かんだ。
何故突然そんなことを考えたのか、分からない。ただ、それを極自然なことだと思える自分に気づいて、杏は恥ずかしさに顔を赤く染めた。
けれどそれは、思ったよりも悪い気分ではなかった。むしろ、長年のもやもやがすーっと晴れていくような、笑い出したくなるぐらいに素敵な気分だった。
「ね、朋也、次あれ乗ろ、あれ」
自分の気持ちを自覚した恥ずかしさと、でもそれを遙かに上回る嬉しさに、杏はいつにもなくハイになる自分を感じていた。
「うげ、『日本最速』だの何だの、例のあれか」
「そうそう。ここの目玉なんだから」
「なあ、やめとかないか」
「何、もしかしてあんた……恐いの?」
「ばっか、ちげーよ。あんなに並ぶの、俺は耐えられねえって言ってんだよ」
アトラクションの前には、何度も曲がりくねったまさしく長蛇の列と、「現在の待ち時間 45分」と書かれた電光掲示板。
「いいじゃない、それぐらい」
「全然よくないんだが」
「む。あんたわがままね」
「どっちがだ」
言いながら苦笑する。一度決めてしまえばてこでも動かない彼女を、彼はよく知っていた。
「ま、しょうがない。付き合ってやるよ」
「そうそう、最初から乗りたいって言えばよかったのに。素直じゃないんだから」
にやにやと笑う杏。
「そんなこと言ってないんだけどな」
「うるさいわね、乗るの、乗らないのっ?」
「乗ります乗ります、乗せて下さい」
「ま、しょうがない、乗せてあげるわ」
「お前のってわけじゃないんだけどな」
もう一度、苦笑。今度は杏に聞かれないように小さな声で呟いた。
列の最後尾についてから、40分。次の回で乗れるか乗れないか、ギリギリのところ。
待っている時間は、杏にとって、そう長く感じるものではなかった。並んでいる間に朋也と二人で色々と取りとめのない話をすることが楽しかった。
会話を重ねる度に、一方で、彼女の不安もまた増していった。いつもの自分通りに、振舞えているだろうか。浮かれているように見えないだろうか。
――でも、その不安すらも、どこか心地良い。こんなことを考えるなんて、ああ、本当におかしくなってしまった。
好きだと自覚しただけで、こんなに変わるものなのか。杏は思う。
こうやってただ話しているだけで、いや、そばにいるだけで、感情が溢れてしまいそうになる。ドクドクと心臓の脈をいつもより強く感じる。
苦しいけれど、とても素敵な。辛ささえも甘さに変えられそうな――
「おい杏、順番、回ってきたぞ」
回り続ける思考を止める声。
先ほどまで自分が考えていたその内容に、杏は俯いて頬を染めた。
「お前、まさかここまで来てやっぱり恐いなんて言うんじゃねえよな」
「ば、ばかっ。そ、そんなわけないじゃない」
落ち着け、落ち着けあたし。心の中で杏は自分に何度も言い聞かせる。
だが、どうしても心臓は落ち着いてくれなくて。
「ほら、次俺らの番。行くぞ」
「わっ」
突然、朋也の手が杏の手を掴まえる。
「ほら、行くぞ」
「……うん」
俯いたまま杏は応える。
一気に勢いを増した心臓の音。彼にまで聞かれそうな気さえした。
ぎゅっ、と杏も手に少し力を込める。握り返した朋也の手は、少し汗ばんでいて、それが、どうしようもなく嬉しかった。
『―――――!!』
幾つもの悲鳴が流れていく。
杏も朋也も、他の乗客に負けず劣らず多くの声を漏らしていた。
「うおっ」
「きゃっ」
急カーブを終え、コースターはガタゴトと音を立てながら少し急な上昇に入っていく。日本最速の瞬間が近づいていた。
不安とそれを上回る期待に、乗客の喧騒は少しずつ大きくなっていく。
「ねえ、朋也」
だんだんと激しくなる鼓動を押さえ込むように、杏は隣の席に座る朋也へと言葉を向けた。
二人の間には、しっかりと握られた手と手。乗る直前に繋いでから、ずっとそのままだった。
「……」
「あのねー、朋也ー」
反応の返って来ない朋也に、杏は叫ぶようにして再び声をかけた。すぐ隣にいるのに、意思の疎通にはそれなりに大きな声が必要だった。
「なんだー、どうかしたのかー?」
杏の胸を襲う不思議な高揚感。それは間違いなくコースターのせいだけではなくて。
思う。笑いたくなるような、もっともっと大きな声で叫びたくなるような、不思議なドキドキ。
ああ、なんて素敵な気分。
今なら。きっと、今なら。
「あたしねー、あんたのことー」
――ガタン
一際身体に響く振動とともに、急速に落下運動を始めるコースター。
『―――――!!』
同時に上がる多くの喚声。
先ほどまでの比ではない騒音。
「あんたのことー、好きーっ」
杏が叫ぶ。
ありったけの声で。
ありったけの気持ちで。
彼に聞こえて欲しい気もする。でも逆に、聞こえないで欲しい気もする。
どっちなのだろうか。分からない。
だけど。
ただ、今は。
「あー? 何だってー?」
「好きーっ、大好きーーっ!」
思いを、気持ちを、この声にのせて。
「なぁ、杏、お前さっき何て言ってたんだ?」
コースターを降りるなり、杏は何も言うことなく歩き出した。そんな彼女に、後ろから声がかかる。
「んー?」
「だから、ジェットコースターに乗ってる時、俺に何を言おうとしてたんだ?」
要領を得ない杏に、朋也は再び口を開く。
「そっか。朋也、聞こえてなかったんだ」
「お前な、あんな中で聞き取れっていうのか?」
「そっかあ。うん、そりゃそうよね。あーあ、聞こえてなかったんだー」
あーあ、空を見上げながらもう一度口にする。
彼の言葉に安堵する自分と、多分それ以上に残念だと思う自分。
自身の中の相反する気持ちを確かめて、杏は少し可笑しくなった。
「で、何て言ったんだ?」
いつの間にか、彼は杏のすぐ隣まで歩いてきていた。顔を覗き込むように朋也が聞く。
「ううん、何でもないのっ」
何となく、考えていたことが彼にばれてしまったような気がして、杏は咄嗟に明後日の方を向いた。
あたしは、藤林杏は、いつの間にこんなにも「女の子」になっていたのだろうか。杏は思う。ああ、なんて自分らしくない。
だけど。
――こんなのも、悪くないかもしれない。
「は? 何だよそれ」
「だからー、何でもないのっ」
言いながら、自然と込み上げてくる笑い。抑えられない。
「あはっ、何でもない。何でもなーい」
一瞬だけ振り向いて朋也の困惑した顔を見てから、杏は歌うように言った。
つい先ほどまで激しいアトラクションを体感していたというのに、彼女は自身の身体がまるで軽くなったように感じていた。今にも鼻歌でも歌いだしたくなるような素敵な気分。
思う。
ただ「好き」と口にするだけでこんな気分になれるのなら。
その言葉を彼が受けとめてくれたとしたら、それは何て素敵なことなのだろう。
「ね、朋也」
しばらく目的地を決めることもなくぶらぶらと歩いていると、杏が不意に口を開いた。
「今日さ、あたしすごく楽しかった」
「ああ、俺もだ」
「そっか」
朋也の言葉が嬉しくて、杏は少しだけ体温が上がるのを感じていた。
「ね、ならさ」
ちょっとだけ間をおいて。また少し身体が熱くなったような気がする。
「今度は、あんたから誘いなさい?」
「機会があれば、な」
「む。あるとかないとかじゃなくて、あんたが、作るの」
意図的に不機嫌そうな声を作って、杏は言う。
「ま、その内な」
「絶対よ?」
「分かった分かった」
苦笑しながらそう言う朋也。だが、彼が嫌なことははっきりと嫌だと言う人間だと、それぐらいのこと、杏には分かりきっていた。
嬉しかった。約束によってまた次ができたことが。言葉の上では素っ気なくても、今日という日を彼もまた楽しんでくれていたことが。そして何よりも、言葉以上のそんな彼が分かる自分が。
嬉しかった。
「ちゃんとあんたから誘ってくれたらさ」
「何かくれんのか?」
朋也の返答に対して、くすくすと笑いながら杏が言う。
「馬鹿ね、そんなわけないじゃないの」
恋人同士になったわけじゃない。そもそも、自分の気持ちすらきちんと伝えていない。
不安。たくさんある。ふられた自分を想像して、多分今からでも泣けるぐらいに。
でも、それでもなお、杏は今度こそ気持ちを伝えようと考えることができた。そんな自分に少し驚く。何故だろう。何がそんなに自分を強くさせたのだろう。
分からない。でも、ぼんやりと思う。
――これも、あの言葉のせいなのかもしれない。
そうだとしたら、それはすごく素敵なことで。
だから。
うん、やっぱり、今度こそ。
朋也の方を向いて、くすっと笑って。
やっぱり自分は、椋の言うように不器用なのかもしれない。そんなことを、思う。
でも。
きっと次こそ。
伝えよう。
「あんたが誘ってくれた、その時は……」
「その時は?」
その時は、ねぇ
朋也?
「あの時あたしが何て言ったか、教えてあげるわ」
精一杯のあたしに、あなたはどんな言葉をかけてくれるのかな
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