理想郷に咲く花






 暗闇を切り裂く眩しい光が、廃墟に佇む独りの少女を浮かび上がらせる。不意を突かれた客席から、感嘆とも取れるどよめきの声が漏れた。次いで、流れ始めた物悲しいメロディは、観客を異世界へと誘い、眼前の光景を現実と錯覚させる。幾千の視線が舞台へと注がれるなか、少女は両手を組み、祈るように瞑目していた。
 彼女の背後では、照明効果によって描かれた雪が、絶えず地面へと降り注いでいる。静かに、哀しく、それは世界を白く染めていく。そうして、数秒の間を置いて、両脇に取り付けられたスピーカーから、語り部のナレーションが挟まれる。
 ――人類が死に絶え、廃れてしまった文明の中に、降り続く雪の世界に、彼女は取り残されている。誰からも必要とされず、それ故に、その存在に意味はなく、凍てついた心だけを、ただ、痛ませていた。天に祈りを捧げてみても、孤独の寂しさは癒える事なく、いっそのこと、此処に我が身を横たえて、雪と溶け合うように消えてしまいたいと、そう願っていた――。
 言葉の残滓が、大気に染み渡ったところで、メロディのボリュームがゆっくりと絞られる。眠りから覚めたように、少女は目を開くと、弱々しい言ノ葉を紡ぎ出す。役柄を雄々しく演じようとする姿からは、普段の面影は全く見られない。観客の顔は、闇に沈んでしまっているが、彼女の演技に息を呑む者も少なくないはずだ。
「私は、どうして、ここにいるのでしょう。どうして、生まれてきてしまったのでしょう。懸命に命を繋いでも、決して報われることはありません。気紛れにつくられた命などと思いたくもありません。ですが、先の見えない私には、希望を見出すことすら出来ないのです。どうか、この身が絶望に押し潰されてしまう前に、ひとかけらの未来をお与えください」
 悲壮感の滲むその声に、朋也は舞台裏でほくそ笑む。今の渚は、幾度となく繰り返したどのリハーサルよりも調子が良い。本番に弱いタイプは数多いが、彼女の場合は、腹を括っているのか、はたまた天性のものなのか、逆に真価を発揮させている。
 それに、この物語の少女と、渚とは、符合する部分が多い。だからこそ、役に感情移入させやすくもあり、演技しやすくもあるはずだ。この話は、彼女が幼少時代に聞いた童話をベースとしている。だが、記憶に曖昧な部分があったことから、全体の雰囲気を壊さないよう留意しつつ、その隙間を補完していったのだ。時間をかけて練り込んだ内容だけに、演出の歯車さえ噛み合えば、観客を魅了させる自信があった。
 たとえ、演じる人間が、渚一人だけであったとしても。もう、彼女は独り≠ナはなかった。
 少女が、立ち上がる。震える肩を抱いて、雪の道を必至に歩く。彼女が三歩目を踏み出したところで、朋也は機械を操作して、廃墟の映写を薄めていく。それが完全に消えたところで、今度は照明の明度を落としていった。舞台をうっすらとした黒が満たし、やがて何も見えなくなる。場面切り替えに使う効果の一つ、暗転だ。
 朋也は、すぐさま、用意していたセットを、春原と協力して、ステージ中央に運び出す。観客からは、闇に蠢く二人の影が、うっすらと見えているはずだ。退屈させない為にも、極力、ここは迅速に済まさなければならない。部員が三人しかいない事があって、音響や、映像専用の担当者は不在となっているからだ。
 朋也は幕の裏側に滑り込むと、既に、定位置で演技の再開を待つ渚を見た。こう暗くては、お互いの表情が見えず、意思の疎通は難しい。それでも、三人の気持ちは繋がっていた。そして、演劇の成功を盲目的に信じている。それは、ほとんど確信だった。
 吹き荒ぶ風の音が、威圧しつつ迫ってくる。春原が、音響のスイッチを入れたのだ。朋也はひとり頷くと、照明のつまみを捻る。そうして、世界は色を取り戻した。木片を組み合わせて造られた、簡素な小屋が、舞台に出現している。渚はそこで横になり、毛布を一枚だけ被って眠っていた。寒さに堪えるように、体を丸めて、毛布を顔まで引き寄せている。
 ――浅いまどろみの中で、少女はいつも夢を見る。草木が芽吹く野原で、自由に駆け回る自分の姿を、見えない未来に夢想する。そこには、彼女のトモダチがいた。その容貌はおぼろげで、性別はおろか、人間であるかすら分からない。けれども、それは、尽きない孤独に苦しむ彼女にとって、かけがえのない存在。喉が張り裂けるまでに渇望しても、決して手に入らない温もりだった――。
 吹雪が強さを増していく。小さく呻き、少女はその半身をゆっくりと起こす。感覚が残っている事を確かめるように、両手を開いたり閉じたりを繰り返し、溜息を漏らす。小屋の中にも関わらず、白い息が大気に吐き出され、そのまま瞬時に霧散した。
「この世界には、もう、誰も残っていないのでしょうか?」
 世界に向けて、少女が問いかける。だが、無常にも、返って来るのは風の音ばかり。彼女が求めるものは、全て過去の人間が壊してしまった。彼らは、限りある資源を考えもなしに浪費させてしまった。だから、ここにはその残骸だけが虚しく残っている。大切なものは、両手で掬い取ろうとしても、指の隙間から零れ落ちていく。奪われた温もりは、雪の中に埋もれ、二度と還っては来ない。
 朋也は、緊張をほぐすように息を吐く。出番が、刻々と近付いていた。これから、舞台裏は春原一人に任せる事になるのだ。ミスは許されない、と鼻先に突き付けられている気がして、彼は震える手をぐっと握り締める。
「ともだちが、ほしいです」
 ――少女は、一つの考えに思い至りました――。
「きっと、ともだちは、あたえられるものでなく、自分でつくるものなのでしょう」
 ――その日から、少女は文明のカケラを集めるようになりました。傲慢な人間が生み出した残骸。ゴミとしか思えないそれらは、彼女にとっては大切なものだったのです。吹き荒れる雪の中、毎日、挫けもせずに、少しずつ、少しずつ、ただ拾い集めていく。しばらくすると、小屋には、それらが一杯になりました――。
 そうして、少女は部品を組み合わせていく。時折、額に滲む汗を拭いながら、時間をかけて。ゆっくりと、慈しむように。舞台裏で、朋也は、背後にいる春原を振り返る。お互いに頷き合って、拳同士をごつりとぶつけた。後は任せた。頑張れよ。無言の激励が、確かに聞こえていた。
 先程と同じように、照明が緩慢に落とされていくのに紛れて、朋也は足音を立てないよう、ステージ上を歩いていく。途中、渚の肩をぽんと叩いてから、その隣を通り過ぎた。定位置まで来ると、渚が拾い集めてきたという部品を全てセットの裏側に押し込む。そうして、自分が代わりにそこへ座って、静かに瞑目する。
 いよいよ、だ。これまでの物語は、言うなれば前振りに過ぎない。
 朋也の心臓が、早鐘を打ち始める。張り裂けそうな血管を、何とか押さえ込んだ。

 照明が、灯される――。







 脳髄の奥深くに、包丁が食い込んでいる気分だった。止まない鈍痛と、渦巻く苦悩とが、朋也の精神を蝕んでいる。その刃は、無理に引き抜こうとすると、宿主を死に至らせるし、放っておいても結果は同じだ。どうすればいいのか。投げ掛けられた問いに、答えは未だに出ない。
 それは、至極当然の事のように思われた。数学の方程式とは違って、最初から正解は用意されていない。どちらも間違っているかもしれないし、そもそも正解なんて無いのかもしれない。臓腑が、じわじわと腐食していく気分を味わっているようだった。それでも、もはや賽は投げられた。何が起ころうとも、止めることは出来ない。
『私は、この子を生みます。これだけは、譲れません』
 与えられた選択肢は、二つだった。第一には、最もリスクの少ない方法――堕胎だ。
 第二は、詰まるところ、分娩の強行だ。全てを手に入れるか……全て、失うか。
『この子は、私達に産んでくれと頼んだ訳ではありません。私達の意志によって、宿した命なんです。言い方は悪いかもしれませんが、身勝手な行為によって、お腹の中にいるんです。それなのに、あっさりと殺してしまうなんてこと、たとえ死ぬことになっても、私には出来ません』
 渚の決意は、あまりにも堅すぎた。幾千の言葉を積み上げても、論破する事は不可能に違いない。それでも、いくら理屈が通っていても、納得が出来るはずがなかった。だから、朋也は、無駄と知りつつ、愚かで情けない本音を彼女に吐露する。
『だからって、お前が犠牲になる必要なんて、何処にも無いだろ……』
『朋也くん』
 強い調子で、呼びかけられる。
 熱に苦しめられているにも関わらず、渚は気丈で、気高かった。
『私は死にません。これからは、三人で生きていくんです。私と、朋也くんと……しおちゃんと。私なんかが母親だから、いっぱい、いっぱい、しおちゃんには迷惑をかけてしまうかもしれません。でも、そうならないよう頑張って、頑張って……いつか、しおちゃんに、生まれてきて良かったって、思ってもらいたいです』

『繰り返しになりますが、私は分娩する事は好ましくないと思います。十分な健康状態でなければ、子供だけでなく、母体にも危険が及びます。もし……決断をするなら、早い方が無難です。奥さんの精神的にも、肉体的にも、遅れれば遅れるほど、負担は高まりますので』
『その……中絶をしたら……』
 説明を受けるまでもない。その瞬間に、命は切り捨てられてしまうのだ。
『残念ですが、中にいる子供は、死亡する事になります』 
『……それは、どうやって、その』
 刹那、八木さんの瞳に深淵の色が流し込まれる。唇を噛み締めたように見えたが、気が付くと、彼女はもう無表情に戻っていた。何かを思い出すように瞑目し、それから双眸をゆっくりと開く。強い意志の力が、その中には宿っていた。朋也は、じっとりとした居心地の悪さを感じた。
『まず、子宮内部に、吸引キュレットという、掃除機のような器具を差し込みます』
『そして、内容物――そうですね、胎児と付属物。子宮内膜などを吸い取ります』
『頭は吸引できませんので、鋏を差し入れて、粉々に切り刻んでから吸引することになります』
 衝撃が、脳髄を突き上げた。甘すぎた認識に、朋也は絶句する。ただ、成長を停止させ、何らかの方法で分解してしまうといったような方法を思い描いていた。現実は、それより更に残酷で、彼の頭部を万力のように締め上げる。肉体を粉々にして、体外に輩出する。それは、つまり、形ある命を、人間の手によって壊すということだ。
『でもっ……。まだ、その子供には、意志がありませんよね……?』
 八木さんは、言葉に詰まった。だが、先程と同じように、淡々と事務的に、事実だけを返す。
『胎児に意志があるのかどうか。それは、私には分かりません。ただ……吸引キュレットを差し込むと、胎児は狭い子宮の中を、奥へ、奥へと行こうとします。寝返りを打って、口を開けて。それは、逃げているようにも、嫌がっているようにも、見えます。ですが、そう見えているだけかもしれません。意志なんて、ないのかもしれません』
 朋也は呻いた。理不尽な怒りが、込み上げてくる。八つ当たりすべき相手では無いと、分かっていながらも、それを押さえられない。このわだかまった感情の捌け口は、何処にも存在しない。それだけに、全身を巡り巡った末に、ただ意味もなく蓄積されていく。
『八木さん』
『はい』
『貴方は……渚に、どうして欲しいんですか? こんな二択、選べないに決まってる……』
 言って、絶望に胸が押し潰されそうになる。息が苦しい。動悸が速い。
『私は、当事者ではありません。ですから、客観的な事実だけを述べます。重大な決断の場に、主観を交える事は許されません。助産婦としての経験から言わせてもらえれば、何度も繰り返す事になりますが、中絶した方が良いと思います。これは、純粋に母体の体力の問題です』
『そんな……っ』
『私は神でも悪魔でもありません。だから、どちらが正しいかは、分かりません。出来る事なら、もちろん、無事に出産してもらいたいです。ですが、どれだけの精神力を持っていたとしても、乗り越えられるかどうかは、五分に過ぎません。決して、命を天秤に賭けられるような確率ではありません。……いえ。失敗の可能性が一%でもある限り、そのような真似は、本当はするべきではないのかもしれませんね』


 それから、数日後――。
 覚悟を決めた渚の意志の元、自宅出産は敢行された。
 一つの命が、この世に産声を上げ――。
『渚っ……渚っ……!』
 そして、もう一つの命が――。
『渚ぁ……渚ぁ……』







 ゆっくりと朝日が昇る。昨晩まで降り続いた吹雪は止み、小屋の窓からは、淡い陽光が差し込んでいた。組み上げられたガラクタの人形の前で、少女は疲れ果てて眠っていた。人形は、それを静かに見下ろしている。
 ――人形は、この世界に産み落とされてしまった。少女に求められて、ここに存在している。最初に感じたのは、途方もない孤独だった。ガラクタで構築された肉体は、寒さに苦しめられる事は無いが、心がどうしようもなく凍てついている。そして、時間の概念が歪んでしまっていた。一分が、一秒が、ひどく緩慢に流れ、今日に連なる明日が、まるで永遠に連鎖しているような。終わらない時が刻まれ、死ぬ事を許されず、生きる事を余儀なくされる。それは、どれ程の寂しさなのだろう。脆弱な心は、それに耐えられるのだろうか――。
 やがて、少女は目を覚ます。眼前にある人形を見つめて、穏やかに笑いかける。
「初めまして。私と友達になってくれませんか」
「……トモダチ?」
「そう。あなたと私は、この世界で二人きりです。一人で孤独に打ち勝つことは出来ません。ですが、誰かといれば支えあえます。不安なときは寄り添えます。暑い夏の日も、寒い冬の日も、巡りゆく季節の中を、挫けずに生きていけます。それは、きっと、素晴らしいことではないでしょうか」
「最初から、この世界に生まれさえしなければ……孤独を感じる事も無かった」
 少女は悲しそうに微笑んで、そうですねと頷いた。
「あなたをこの世界に産み落としたのは、私です。そうしたいと望んだのもまた、私です。確かに身勝手だと思います。でも、私は友達が欲しかった。それがどんなに私のエゴだと分かっていても。あなたと一緒に幸せになりたかった。幸せにしてあげたかった」
「それは……家族だね」
 人形は手を差し出し、少女はそれを両手で包み込む。二人の触れ合いが、お互いの存在を認め合い、孤独の色を塗り替える。死んだ心が胎動を始め、冷たい体に体温が宿る。人形の手は、今にも壊れてしまいそうに脆く、少女の手もまた、弱々しく小さかった。どちらの命も、支え無しには長く生きられないだろう。
 ――……あぁ。きみは、こんなにも寂しい世界にいたんだね。たった独りで。ずっと――。
 朝が来れば、二人は外の世界へと当てもなく出掛けた。慣れない体を軋ませて、人形は少女と共に歩いた。手を繋いで、不器用に、ゆっくりと。その手の温もりを失わないよう、強く、強く。家族という、友達を超えた繋がりを求めた二人は、どんなときも一緒だった。誰もいない野原を駆け回り、広大な大空を慈しむ。それだけで、満ち足りた。日々を感謝しながら、生きていくことが出来た。
 夜が訪れれば、二人は小屋へと引き返す。もはや、闇は恐怖の対象には成り得ない。たった一枚の毛布に、身を寄せ合うようにして眠った。そこでも、やはり少女は人形を抱き締めた。この世界で唯一人、自分を支えてくれる家族が、その手から零れ落ちてしまわないように。
 観客席は、水を打ったような静けさに包まれていた。演技とは言え、この過激さでは、後で冷やかされるのは必至だ。朋也は雑念を振り払うようにして、次の動作に意識を集中させる。台詞は単純に記憶するのではなく、体に覚え込ませた。それでも、主役である渚は、それ以上に血の滲む努力をしたはずだ。
 ――時は流れ、二度目の冬が訪れる頃になって、少女は病に侵されました――。
 小屋の中央で、毛布を被った少女が苦しそうに呻いていた。人形はその傍らに座り込んで、その顔を見下ろしてやることしか出来ない。時折、意味のない話や、励ましをかけると、彼女は精一杯の力でそれに応えてくれた。下らない話に、必至に耳を傾け、その度に頷き、そして笑う。
 痛々しいその様子に、人形は心が崩れていくのを感じた。また、直感的に思った。このままでは、もう少女は助からない。根拠のない絶望が、胸に圧し掛かってくる。その予兆を否定するために、朝も昼も夜も、ずっと看病をし続けた。今日が終わり、明日が訪れ、またその日が終わっても、彼女は一向に元気を取り戻さなかった。
 ある日、人形は少女の病状が安定している頃合を見計らって、それを切り出した。
「……え?」
 少しだけ、旅をしようと思う。この世の果てまで歩いて、きみの病気を治す方法を探そうと思う。人形がたどたどしい言葉で伝えた内容に、少女は激しい拒絶を示した。体をよじって、両手をすがらせて、大粒の涙を流した。その姿が、人形にはたまらなかった。何日も悩み抜いた末の決意さえ、根元から折れてしまいそうだった。
「ごめん。必ず、戻ってくるから」
「でもっ、でもっ……」
「その証として、この体の部品の一つを置いていく。いつか、きみの手でこれを嵌めて欲しい」
 人形は、部品を一つ取り外して、ことりと床に置いた。
 少女はそれを拾い上げると、寝た体勢のまま、両手を胸の前で組んで、穏やかに笑う。
「分かりました。どんなに遠く離れても、どんなに信じられなくなっても、私達の家族の絆は切れません。どんな苦難に陥っても、どんなに心が削られても、どれだけ体が疲れ果てても、強く生き続けると、誓ってください」
「あぁ――、誓う」
「私が一人ではないように、あなたもまた、一人ではありません。また、ここで会いましょう」
「うん。約束だ」
 絶妙のタイミングで、二度目の闇が訪れる。照明が落とされたところで、今度は渚が舞台裏に引っ込む番だった。協力して、小屋のセットを運び出し、新たな定位置で待機する。今度は、自分一人での演技だった。自然と全身が震え出して来るのが分かる。それは、武者震いなのか、それとも、純粋な緊張なのか。
 先程より、さらに攻撃的な吹雪の音楽が、流れ始める。映像として見せる雪も、半端な量ではない。灯される照明と共に、朋也は頭を切り替える。ここから、物語は佳境を迎え、加速することになる。一瞬にして人形となった彼は、何もない白銀の中を、ゆっくり歩く。足を持ち上げることさえ億劫そうに、必至に一歩を踏み出す。何歩かごとに倒れ、また立ち上がる。その目が見すえる先には、ただ、白い世界だけがあった。
 この世界は、本当に終わってしまったんだろうか――?
 どうして、彼女はあんなにも、苦しまなければならないのだろうか――?
 自問の果てには、何も残らない。風音は答えを教えてはくれない。
 しばらく歩くうちに、ついに部品の一つが外れ落ちた。人形は、それを自分の手で、再び取り付けることは出来ない。だから、気にせず進んで、また一つがぽろりと取れる。彼女から貰った大切な体が、壊れていく。それでも、歩みを止めることは許されなかった。視界がぼやけ、方向感覚が完全に失われる。
 ついに、人形は両膝を雪の中に埋めた。もう、立ち上がれない。意志だけが現実に抵抗するが、体は限界に達してしまっていた。彼女との誓いが、約束が、走馬灯のように脳裏をよぎる。死んでしまうことよりも、彼女がまた孤独な生活に戻ってしまうことが、耐えられなかった。あの笑顔を、悲しみの表情に変えてしまうのは、何よりも残酷な仕打ちだろう。
 ――彼女は、何にも悪くない。誰よりも優しくて、こんな世界には相応しくない――。
 ――だから。だから、せめて、もう、彼女を苦しめないで――。
 薄れゆく意識の中で、この祈りが届きますようにと、人形はそれだけを思う。
 吹雪が強さを増していく。動かなくなった人形の体に、白い雪が、ぽつぽつと降り積もり始めた。







 真剣な眼差しで、汐が朋也を見つめていた。
 小さな口が、拙い言葉を紡ぎ出す。
「……ねえ、パパ。ママは、どこにいるの――?」







 ……どれだけの、時間が経っただろう。
 人形は、唐突に世界へと引き戻された。気が付くと、少女が自分を抱きかかえていた。雪の中を追ってきたのだろう。あれだけ、戻ると約束したのに、会いに来てくれた。だが、少女の役を演じる渚の頬が、熱に浮かされたように火照っているのを見て、朋也の喉を苦いものが滑り落ちた。これは、演技ではない。思わず声を掛けようとしたところを、目線で制される。続けてください、と。その瞳が言っていた。
「約束、守れなかったね……」
「でも、誓いは守ってくれたはずです」
「そうだね……」
 少女の目が、閉じられる。その指先から、温もりが抜け落ちていく。そんな彼女の体を、今度は人形が抱き止める。そして、自分の胸元まで引き寄せた。迫真の演技とは、このことなのだろう。両手が重力に従って、ぶらりと垂れ下がる。
 次は、彼女の最後の台詞だった。沈黙が落ちる。だが、渚はもう気を失っていた。優しく寝かしてやり、額に手を当てると、恐ろしい熱を持っていた。流石に異変に気付いたのだろう、観客があちらこちらでざわめき始める。
「誰か!」
 朋也は、あらん限りの声を張り上げた。
「こいつが、熱を出してる! 誰か、救急車を呼んでくれ!」







「それでさ、ママはな、舞台のど真ん中から運び出されたんだ。救急車が来てからは、担架とかに乗せて……とにかく大掛かりだったよ。その頃はもう、客席は大騒ぎになってて、実行委員が鎮めるのに大変そうだった。オッサンは叫び出すし、早苗さんも真剣な顔で駆け寄ってきたりしてさ。まぁ、今となっちゃ良い思い出だよ」 
「朋也くんっ。そんな恥ずかしいこと、話しちゃダメですっ」
 遊園地で、迷子になっていた渚が、話に割り込むように駆け寄ってくる。まさか、この年齢にもなって、呼び出しをする破目になるとは、夢にも思っていなかった。汐を挟むようにして、彼女はベンチに腰掛ける。全力で走っていたらしく、息を切らしている。
「わぁ、ママだー。パパ、すっごく心配してたんだよ」
「ごめんなさい。ちょっと、お土産屋さんに団子大家族のグッズがあったので、そっちに行ったらはぐれてしまいました。こんなに人が多いなんて、思いもしなかったです」
「相変わらずだな、お前は」
 汐が生まれてから、もう何年にもなる。渚は、リスクの高い自宅出産を無事に終えた。八木さんからも、強い奥さんを持ちましたねと褒められた。こうなった現在では、堕胎という道を選ばなかった渚に感謝している。だが、もしかしたら、渚を失っていたかもしれないのだ。それを思うと、背筋が凍るようだった。
 あの時、演じた人形という役柄。あの劇と同じように、自分は渚の支えになれたのだろうか。そして、彼女は自分を支えとしてくれているのだろうか。きっと、そうだろう。今でなら、胸を張ってそれが言える
 今思えば、あの少女と人形の境遇は、渚と汐によく似ていた。考えるほどに、うまく出来ていた台本だと思う。家族という繋がりを得て、自分はこれから、彼らと共に人生を歩んでいく。いつか離れる日が来ても、その絆は途切れない。
「さてと。ママも戻ってきたことだし、そろそろ行くか?」
「うんっ」
 そうして、彼らは歩き始める。人生という名の、長い、長い道のりを。
 かけがえのない家族の絆を手に、生きていく。


 渚が演じ切れなかった劇には、まだ続きがあった。 
 あれから舞台は一旦ブラックアウトし、次に映し出されるのは、花鳥風月を友とした世界だ。
 遥かな年月が経過し、元の美しさを取り戻した世界。
 丘の上からは、無限に広がる大草原が見渡せる。そこには、少女の姿も、人形の姿もない。
 彼らは、生きているのかもしれないし、死んでいるのかもしれなかった。それは、きっと、誰にも分からない。
 そよ風が、草花をはたはたと揺らめかせる。
 今はもう、崩れてしまった小屋の近くで、小さな小さな機械の部品が輝いていた。

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