「わーい」

 花畑に到着するなり、汐が歓声を上げ走り出した。
 そして、そのまま嬉しそうに花畑の中をはしゃぎながら駆け回っていく。
 ここの花畑の広さは並ではない、視界一面に広がる花々の間に隠れ汐の姿があっという間に見えなくなった。
 そんな中、買ってやったばかりの白い麦藁帽子だけがチラチラと見え隠れしていて、辛うじて愛娘の居場所を示す。
 まるで花の海を麦藁帽子が流されていくように見える。
 そう見えるほど、汐が勢いよく花畑の中を駆け回っているのだ。

「汐ちゃーん! そんなに走り回ったらあぶないですよ!」

 口では注意しながらも、汐とお揃いの白い麦藁帽子をかぶった渚が俺のとなりでくすくすと笑う。
 俺はそんな汐と渚を交互に見て、同じように笑った。

「汐の奴、もう幼稚園なのに……男の子みたいに元気だな」
「ふふ、そうですね。きっと朋也くんに似たんですよ」
「あらら」

 俺と渚は近くに木陰をみつめると、二人並んでその下で腰掛けた。
 汐がこの花畑を駆け回るのは夏の恒例行事みたいなものだ。
 しばらくの間好きにさせておくことにする。

 まだまだ秋の訪れの気配さえも感じさせない、暑い八月の某日。
 会社からもらった短い夏休みを利用して、俺は家族を連れて親父の実家に顔を見せに来ていた。
 この小旅行は汐が生まれて以来、一度も欠かしたことがない我が家の夏の恒例行事だ。
 そして親父とお祖母さんの住む実家のすぐ側にあるのがこの花畑である。
 なんとなく懐かしさを感じさせる匂いがする。
 俺も記憶こそはないが、今の汐と同じように子供の頃ここで走り回っていたのかもしれない。
 そして同じように、親父や母さんもそんな俺を見て微笑んでいてくれたのかもしれない。
 今の俺と渚がそうであるように。
 心地よい花の匂いを帯びた風を浴びながら、俺はそんな事を考えていた。



朋也くんは心配性……っていうか妄想癖か




「朋也くん……時間どうしましょう?」
「ん?」

 渚が腕時計を見ながら、少し困ったように俺に微笑みかけてきた。
 どうやら親父達との約束の時間を気にしているようだ。
 駅からお祖母さんの家に直行する予定だったから、ここで寄り道していては時間に間に合わない。
 渚は親父達を待たせる事もできず、あんなに嬉しそうに駆け回っている無理に連れ出すこともできず、困っているようだ。 
 いつもながら生真面目な奴だ。

「大丈夫だって。ちょっとくらい時間に遅れたくらいで、文句言う人達じゃないだろ」
「でも……」
「汐もあんなに喜んでいるんだ。少しくらいならいいよ」

 そういうと渚は渋々ながら納得したようだった。
 俺は心の中で安堵の溜息を漏らす。
 あぶないあぶない、ここでお祖母さんの家に直行されたら今回の小旅行での俺の目的のひとつが達成できないところだった。
 あまり時間もなさそうなので、俺はさっそく目的を達成すべく行動に移る。
 当初からこの花畑は絶対に押さえておく予定だったのだ。 

「そうだ、せっかくだから……」

 俺は逸る気持ちを渚に悟られないように、今適当に思いついたような口調で旅行鞄をあさり始める。
 そこから取り出したのは一台のビデオカメラだった。

「この花畑と汐をビデオ撮影しとこうぜ」
「あ、いいですね」

 よっしゃ!
 うなずく渚を見て俺は心の中でガッツポーズを取る。
 今回の小旅行に俺の最大の目的、それはこのビデオカメラを使って……
 汐の愛らしい姿を大量に永久保存することなのだ!
 俺は右手に持つビデオカメラを見つめる。
 某大手メーカーの最新式である相棒。
 手ブレに強い光学式手ブレ補正ジャイロ搭載。
 高度なシーン演出ができるマニュアルフォーカスリングを装備。
 細部までシャープで自然な色再現が可能な業務用ビデオカメラと同様の3CCDカメラシステムを採用。
 十倍の光学ズーム搭載、有効動画画素数64万画素×3……のすごい奴!
 まあ、実は自分でも何言ってるのかはまったくわからないが、電気屋のおっさんいわく家庭用でもハイスペックなオススメ機種。
 この旅行のために渚にも頭下げまくって、小遣いの大幅減額を受け入れてまで、24回ローンで購入した高級品だ。
 俺には過ぎた相棒かもしれんが……可愛い愛娘の今という名のきらめきを永久保存するにはこれでも足りないくらいだ。
 
「じゃあ、ちょっと汐を撮ってくる」
「はい、頑張ってくださいね」

 エールを送ってくれる渚に”おう”と返事を返す。
 もちろん、頑張るさ。
 汐の可愛いさを一欠けらも取りこぼさないように全身全霊をかけて!
 俺は気合十分で駆け出し、大声で汐を呼ぶ。

「おーい、汐! ちょっとこっちにこい!」

 俺はビデオカメラの電源を入れ、ファインダーを覗き込みながら汐を待つ。
 すると数秒もせずにレンズの向こうに白いワンピース姿の凄まじく愛らしい生き物が登場した。

「パパー」
「うぉぉぉ!」

 満面の笑みを浮かべながら、花畑をこちらにむかって走ってくる汐を見て、俺は思わず叫んでしまった。 
 だって……だって……とんでもなく愛らしいだよ、これが!
 美しい花々さえも霞むような笑顔で、花々の間を移動する蝶の様な軽やかさで、汐はこちらに向かって駆けてくる。
 それはまるで、花の妖精みたいに神秘的な愛らしさだ。 
 いや、俺は今気が付いた、確信した!
 花の妖精みたいはなくて、きっと汐は正真正銘花の妖精なんだ!
 だって俺はこの年まで生きて来て、汐より花の妖精と呼ぶに相応しい生き物なんて一度も見たことがない。
 これだけ花畑で魅力的に美しく光り輝く汐がそうでないわけがない!
 ああ、絶対に花の妖精って汐の事だよ……間違いない!
 知らなかった……自分の娘が花の妖精っだたとは。
 妖精って人間の子供でもなれるのか。
 勉強不足だった……ちょっとショックだぜ。

「パパ。それなーに?」

 衝撃の新事実の興奮が冷めやらない俺の前で、汐が不思議そうに首を傾げる。
 ビデオカメラが何か分からないらしい。

「これは汐の姿を記録する機械だよ」
「きろくー?」

 また汐が不思議そうに首を傾げる。
 よくわかっていないらしく、”うーん”とうなっている。
 しかし、ただ困った顔で首を傾げてるだけなのに、なんて可愛いんだ汐は。
 ちょっとありえない可愛らしさだ。
 困り顔も最高だぞ、おい!
 ここまで可愛いとビデオカメラがその可愛さに耐え切れずに故障してしまいのではないかと心配になる。
 ありえる……最新機種とはいえ十分ありえる!
 だって、少なくとも俺の頭は今の時点ですでにショート寸前だもの!
 こうなったら機械が故障する前に少しでも多く汐の愛らしさをテープに保存しなければ……

「なあ、汐……昨日の夜パパとした練習をおぼえてるか?」
「うんっ」
「そうかえらいぞ。ならポーズその1やってみようか」
「はーい」

 汐が元気よく手を上げたのを見て、俺は合図の掛け声をかける。
 
「はい、ポーズ!」

 俺の合図とともに汐は両方の手のひらを頭の上にのせ、ピョンと飛び跳ねて叫んだ。

「うさぎさんポーズだぴょん!」
「うぉぉぉぉ!!」

 カメラの前でウサギのようにピョンピョンと元気よく跳ね回る汐。
 うさぎさんサイコーだぴょん!!
 お花畑で可愛らしく跳ね回る汐はもはや破壊的に愛らしい。
 昨日の夜二人で可愛いらしいポーズの猛練習を何時間もしていたかいがあったぜ。
 その時ですら鼻血が出そうになるほど可愛かったのに、花畑というオプションのついた汐はもうはっきり言ってヤバ過ぎる。
 やっぱり、ビデオカメラの前に俺の体のほうがヤバイかもしれない。
 だって、今も興奮しすぎて頭の血管切れそうになったし!
 でも、それでもやめるわけにはいかない……たとえ死んでもこの汐の愛らしさをテープに保存しなければ!

「汐……続いてポーズ2だ!」
「うんっ」

 今度はコブシを体の前に持っていき、猫背になって汐が叫ぶ。

「ネコさんポーズだにゃー!」
「うぉぉぉぉぉ!!!」

 ”にゃーん”とネコが顔を洗うポーズを真似る汐。
 ネコさんもサイコーだにゃー!!!
 やっべ! マジ死ぬかもしれない……意識が朦朧としてきた。
 もはや汐が地球上で一番愛らしい生き物であることは疑う余地すらない。
 そんなことはずっと前から気が付いていたんだが。
 もし、”世界可愛らしい女の子コンテスト”なんかが開催されたらブッチギリの優勝まちがいないぞ!
 ああ、たかが世界ごときが相手じゃダメだ、宇宙だ宇宙! せめて全宇宙で競い合わせなきゃ勝負にすらならん。
 ……やはりダメだ! 全宇宙を相手に考えても汐より可愛らしい生命体なんて存在するわけねぇぞ!
 なに、つまりは俺って宇宙一可愛らしい娘を持ってるのかよ!
 チクショー! 俺って超ラッキーだぜ!
 でも、本当に”世界可愛らしい女の子コンテスト”とかが開かれたとしても汐を出場させないほうがいいかもしれない……
 だって、俺の娘が世界一可愛らしいことが世の中に知れ渡ってしまうと、汐が危険にさらせれてしまうかもしれない。
 おそらく世界中の強欲なやつらは、きっと可愛い汐を自分のものとするために誘拐しようと狙い始めるだろうからな。
 特にでっかい権力とかを持ってる奴とかには気をつけないと……
 マフィアとかどっかの国の軍隊とかが襲ってきたら、俺一人で汐を守るのは無理だろう。
 ……ありえる! 十分ありえる!
 そうなったら、うちのアパートが重火器を装備した大量の悪者達に襲われる危険性は大だ!
 いくら俺でも、この胸にあふれる愛だけでは重火器は止められない。
 やはり汐の可愛さを世の中に知らしめるのはやめておこう。
 もし、俺が逆の立場だったら自分の持てる全ての力を使ってでも汐を奪い取るもんな!
 汐のためなら手段は選ばないだろう。
 押してはいけない最後のボタンとかも余裕で押してしまうかも。
 っていうか、一秒間に16回くらいは連打しちゃうっての!

「朋也くん。ビデオ撮れてないですよ」
「はっ」

 いつのまにか側に来ていた、渚が声をかけてくれた。
 ファインダーの向こうに汐がいない。
 俺があっちの世界へ出かけてる間に、花畑の中へ舞い戻ってしまったのだ。
 楽しそうに駆け回る汐を見つめ俺は溜息つく。

「しまった。汐のあまりの可愛らしさに我を忘れてしまったようだ」
「……最近、特にお父さんに似てきましたね。朋也くん」
「げ……」

 なんて失礼な事を言うのだ、うちの嫁は。
 俺にとっては秋生さんことオッサンに似てきたなどと言われても苦痛以外なにものでもない。 
 っていうか、”おまえアホだろ”と言われたのと同じようなものである。
 それはもはや嫌がらせに等しい、っていうかイジメだ。
 思いっきり否定しようかと思ったが、俺は何年か前に渚がファミレスでバイトしていた時の事を思い出す。
 そういや、オッサンは親バカ丸出しでウェイトレス姿の渚をカメラで激写していた。
 ……今の俺とまったく同じだ。
 いや静止画から動画になってるし、パワーアップしている気もする。

「……嫌な事言うなよ」 
「嫌な事なんかじゃありません。素敵なことですよ」

 俺としては全身全霊を込めて本気で否定したかったが、嬉しそうに微笑む渚を見て思わず黙り込んでしまう。
 ……やっぱり、渚も可愛いなぁ。
 きっとオッサンのことが大好きだから、本当に素敵な事と思ってるんだろうな。
 いつまでも少女のようにあどけなく笑うその姿は、とても幼稚園児の娘はいるとは思えない。
 もし、”世界可愛らしい人妻コンテスト”が開かれたら……ってキリがないからこの考えはやめておこう。
 それはともかく、俺は少し納得した。
 あのオッサンの超ハイテンションが維持される理由は……家族だ。
 早苗さんみたいに美人でやさしい嫁さんと、こんな父親想いの愛らしい娘がいたらそりゃテンションも上がりっぱなしだろう。
 今は俺にも渚と汐がいるから理解できる。
 生きてるのって楽しくて仕方がないのだろう。
 だって俺は今幸せでテンション上がりまくりだからな。
 こんな可愛い嫁と娘がいて……オッサン! 今なら分かり合えるぜ!
 あぁ、生きてるって素晴らしい!
 やっべぇ! すげえ楽しい!
 
「あ、朋也くん。見てください」
「ん?」

 また、ちょっとあっちの世界に行きかけていた俺は、渚の声でこっちの世界になんとか踏みとどまった。
 渚の指差す方向には汐と……もう一人、知らない男の子がいた。
 身長も同じくらいだし、汐と同じ位の年なのだろう。
 女顔の整った顔立ちをした、可愛らしい感じの男の子だ。
 わずかに顔を赤くしたその男の子が、派手な身振り手振りで汐になにやらアピールしている。
 しばらく見ていると、最初は不思議そうにしていた汐も楽しそうに話し始めた。

「なんだ、あの小僧は?」
「お友達ができたみたいですね」

 渚の言葉に自分の眉がつり上がるのが分かった。
 ……まさかこれはナンパか!
 ありえない話ではない。
 全宇宙を代表する美少女であり、花の妖精でもある汐がこんな田舎に突然現れたのだ。
 純朴な田舎少年の心の一つや二つや百や二百、惑わしてしまうのは無理もないことだ。
 あぁ、可愛すぎるのも問題なのかもしれない。
 少し距離があるので汐と男の子が何を話してるかは分からない。
 しかし、ここからでもなんとなく理解できた。
 あの小僧のいかに必死に汐を誘っているかが。
 一目惚れってやつなんだろうか。
 父としては複雑な心境であるが、ついには楽しそうに遊び始めた二人の邪魔をするのも躊躇われる。
 仕方ないのでとりあえず花畑で遊ぶ二人をビデオカメラで録画しておく。
 まあ、汐が楽しそうなわけだし、意外といい絵が撮れるかもしれない。
 
「ふふっ、これで汐ちゃんに恋心が芽生えたりしたらどうしましょう」

 とんでもない事を言い出す渚。
 ……どうしましょうっていわれてもなあ。
 とりあえずあの小僧を海に沈めるな。
 二度と浮かび上がってこれないように、百万トンくらいの重しをつけてマリアナ海溝の底とかに。
 まあ、そんな心配しなくても、汐があんな女顔のショボイ小僧に魅かれるわけはない。
 だって、昨日の夜一緒にお風呂に入ったとき汐は言っていた。
 俺に抱きつきながら”大きくなったらパパのお嫁さんになる”って。
 つまりは、汐が一番好きなのは俺という事だ。

「うぉぉぉぉぉぉっ!」
「きゃっ」

 昨日の汐の言葉を思い出した俺の興奮の雄たけびを、すぐ側で聞いていた渚が驚いて声を上げる。
 おっと、昨日の記憶の中の、汐があまりにも可愛らしいもんで、つい取り乱してしまったぜ。
 ああ、昨日のお風呂での汐も可愛かったなあ……
 愛らしいほっぺを赤く染めながら、俺の腕の中でプロポーズされた時には、俺の鼻から飛び出した鼻血という名の、興奮と感動が湯船を赤く染めたもんだぜ。
 きっと本気で俺のお嫁さんになってくれるつもりなんだろうな。
 ふふふっ、汐は俺の事が一番大好きなんだから、あんな見ず知らず小僧はお呼びじゃねーぜ。
 だから、俺は広い心であの小僧と汐のビデオ撮影を続けることにする。
 決して報われない小僧の一夏の思い出を記録しておいてやろう。
 小僧……おまえのその淡い恋心は、おまえの心の中とこのテープにだけ残るのだ。
 パパ激ラブの汐は、おまえの事なんかすぐ忘れちまうがな!
 何年か先おまえの哀れな姿を汐と眺めながら、鼻で笑ってやろう。

「朋也くんが何を考えてるかはわかりませんが、なんだかお父さんにそっくりの表情をしています」

 となりで渚がまた失礼なことをつぶやいた。
 まあ、否定しきれないからいいけど。
 それからしばらくの間、俺は夢中で花畑で遊ぶ汐と小僧を撮影していた。
 一緒に花を眺めたり、追いかけっこしたり、蝶々やてんとう虫を捕まえたりと随分と遊び倒したもんだ。
 小僧と遊ぶ汐は俺の予想以上に楽しそうで、俺も渚もついつい夕方まで待ち続けてしまった。
 渚が携帯で親父たちに電話をしてはいたが、さすがにそろそろ親父達に悪いかと思い始めた頃。
 突然、小僧と汐はお互いの小指を絡ませ”ゆびきりげんまーん”と歌い始めた。
 なにか約束事でもしたんだろう、そのまま小僧は俺達に向かってペコリと頭を下げた後、汐に手を振りながら走り去った。

「帰ってしまいましたね」
「もう夕方だからな」

 撮影の締めにはちょうどいいシーンを撮影できたと思い、俺はビデオカメラの電源を切り旅行鞄にしまうと、大声で汐を呼ぶ。

「おーい汐! もういくぞ」

 名残惜しそうに小僧の走り去った方向を見つめていた汐だったが、パタパタとこちらに向かって駆けて来た。
 そしてそのまま渚の胸に飛び込む。
 
「汐ちゃん、お友達ができたみたいで良かったですね」
「うん、友達になった」
「そうですか、可愛らしい男の子でしたね」
「まーくんっていうの、すごくかわいいの」

 渚に頭を撫でられながら、小僧の事を語り始める汐。
 しばらくの間、汐は小僧と遊んだのがいかに楽しかったかを一生懸命話していた。
 その表情は予想以上に幸せそうで、なんだか大人気なく嫉妬してしまう俺。
 
「そういや、汐。なんか最後にゆびきりしてたけど、何を約束していたんだ?」
  
 俺の質問に対しての汐の反応は全く予想外のものだった。
 なんと、汐の顔がいきなり真赤に染まったのだ。
 そして、なにやらモジモジし始める。
 ……ものすごく嫌な予感がする。
 
「えっとね……まーくんと約束した」
「だから何を?」
「おっきくなったら、お嫁さんになってあげるって」

 それだけ言うと汐は恥ずかしそうに渚の胸に顔を埋めてしまった。

「……」

 思考が停止する事って、本当にあるらしい。
 頭の中が真っ白になり、目は開いてるのに周囲の状況が認識できない。
 しばらく、脳に何の情報も流れ込んで来なかったんだと思う。
 いや、俺の理性が汐の言葉の意味を理解する事を躊躇ったのだろう。
 一瞬の間、心臓も停止していたように思える。
 時間が止まっていたとでも言われたほうがまだ納得できるほど、俺の全ては完全に停止していた。
 そんな俺が動き始めたのは、渚が冗談まじりに放った言葉の直後だった。

「あらあら、汐ちゃんに婚約者ができてしまいました」

 俺は叫んだ。
 全ての力を使い果たす覚悟で。


「お父さんは許しませんよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


 人生でこれ程大きな声で叫んだ事があっただろうか。
 いやあるはずがない。
 俺のあまりの大声に、地面に亀裂が走り、花畑の花の多くがその花びらを散らし、空を飛ぶ鳥の数羽が大地に落ちた。
 渚も汐を抱えたまま、突然の突風でも煽られたかのように思いっきり尻餅をついた。
 だがそんなことはどうでもいい。
 俺は渚から汐を強引に奪い取ると地べたの上に無理やり正座させる。
 その真正面に同じように正座すると、俺は放心状態の汐の肩をガッと掴む。

「汐ぉぉぉ! 昨日はパパのお嫁さんになってくれるって約束したじゃないかぁぁぁ!!!」
「……パパ、泣いてるの?」

 そう俺は泣いていた。
 汐に言われるまで気が付かなかったが、両方の目から涙が大量に流れていた。
 人はここまで泣くことができたのかと、自分でも驚く程の滝のような凄まじい勢いで。 

「と、朋也くん……何も泣かなくても」
「渚は黙っていてくれ!」
「は、はい」

 怒鳴りつけてしまった渚には悪いが、絶対泣くってこれは。
 可愛い娘が、昨日の夜まで”汐は大きくなったらパパのお嫁さんになる”って言ってくれていた愛娘が……
 見ず知らずの小僧と結婚の約束をしてしまったんだぞ!
 しかも真赤な顔で嬉しそうに報告されてしまったんぞ!
 泣くっつーの! 泣き叫ぶつーの! 
 こんな旅行に来るべきじゃなかった。
 そうすれば、こんな心臓が止まりそうになるほど悲しい思いをしなくてすんだのに!
 しかもなんだよ、あの展開は!
 旅行先で偶然であった少年と少女。
 幼い恋心を抱いた二人は、美しい花畑の中で結婚の約束をする。
 なんだか、むりやり引き離しても、十年後くらいにうっかり再会して再び恋に落ちそうなシュチェーンじゃないか!
 このままだと、まーくんが偶然かなんかで、汐の通う高校とかに転校してきたりするんだよ、きっと!
 そして始まるんだ……甘く切ない恋の物語が!
 やばい! マジでやばすぎるぞ!
 今俺見えたもん! 
 時には喧嘩して、時にはすれ違いながらも、お互い惹かれあっていく二人の未来が!
 二人の距離をゆっくりと縮めていくラブコメ的な様々なイベントが!
 ついには学校の屋上で夕陽をバックにキスする二人の姿が!
 そんなもん許せるかぁぁぁ!
 俺は自分でも脱水症状を起こして死ぬのではないかと言うほど涙を流したまま、必死に汐に問いかける。

「汐の……汐の一番好きなのはパパじゃないのか!」
「パパも一番好きだけど、まーくんも同じくらい好き」
「恐ろしいくらい真顔で言われたぁぁぁ!」

 あまりのショックに頭を抱え、地面を転がりまわる俺。
 汐が生まれて以来常に一緒に過ごしてきた俺が、登場して2、3時間の小僧にランキング的に並ばれたのだ。
 こんなショックな事はない。

「朋也くん……行動パターンまでお父さんに似てきましたよ」
「そんなことはどうでもいい!」
 
 俺は立ち上がると、今度は冷ややかなツッコミを入れてきた渚の肩をガッと掴む。

「引っ越そう!」
「えっ? どういうことですか」

 ”ぽかーん”とアホの子みたいに口を開けている渚に……いや、ひょっとしてアホの子は俺か?
 それはともかく、俺は今さっき思いついた名案を言い聞かせる。

「できるだけ日本から遠くて、マニアックな国がいい」
「しかも外国ですか!」
「ああ、それも学校もろくにないような文化的に遅れてる国にしよう」
「なんでですか!?」
「決まってるだろ! 学校がなければ、さすがのまーくんも転校して来れないだろうが!」
「朋也くん! 意味がまったくわかりません!」
「学園ラブコメなんて認めないんだよ!」
「だから言ってる意味がわかりません!」

 なんで分からないんだ!
 俺達の愛娘に貞操の危機かもしれないのに!
 うぉぉぉ! おのれ未来のまーくんめ……
 屋上のキスシーンの後は不自然なまでの急展開でエッチシーンまで持っていくつもりだろうが……
 認めん! 汐には指一本ふれさせねえぞぉぉぉ!
 現実はエロゲーじゃないんだからよ!
 汐は俺が守る!
 こうなったら強引に行動に出るしかない。

「汐は誰にも渡さない!」
「パパ?」

 俺はさっきから不思議そうに俺を眺めていた汐の手を掴むと、無理やり走り始めた。
 驚いた渚がこちらに向かって叫ぶ。

「朋也くん! 一体どこへ?」
「遠くだ! とにかくまーくんの手の届かないところに逃げるんだ!」
「やっぱり意味がまったくわかりません!」
「とにかく落ち着いたら渚も迎えに来るから!」
「今すぐ落ち着いてください! もはやお父さん以上の大暴走ですよ!」

 だから、人の心が折れそうになるような嫌な事をいうな。
 かなりきついツッコミだったが、かまってはいられない。
 俺は一秒でも早くまーくんのいるこの街から離れるため、汐を抱きかかえ走る速度を速める。

「汐! パパと一緒に遠くに逃げるんだ! できることなら……そうだ、宇宙へ!」
「うわーん! 宇宙になんて行きたくないよぉ!」
「行こう、汐……約束の宇宙(そら)へ」
「そらってどこぉ! 約束なんてしてないよぉ!」
「さあ、とりあえずはNASAに!」



 俺は走った、娘とともに。


 俺は走った、娘を守るために。


 俺は走った、娘とただ一緒にいたかったから。

 
 俺は走った、ただ全力で走り続けた……娘への熱い愛のために。






 そして四時間後の事だった。

 アメリカ行きの飛行機便のある空港で、泣き叫ぶ汐のおかげで誘拐犯と間違われて……大量の警察官に包囲されたのは。
 
 ほんと、マジで、すみませんでした。





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