その日差しは申し分ないくらい照りつける。
 まぶしさを遮る物は、今被っている白い麦藁帽子しかない。
 それも想定の範囲だといえばそれまでだが、だからといって、それをずっと際限なく浴び続けたなら、細胞は徐々に破壊されていくのだ。

 その先の十字路の角を曲がると、あの角には本屋があって、部活動帰りの中学生達が熱心に漫画雑誌を立ち読みに勤しんでいることだろうし、そのずっと先にあるパン屋の店主は、店番を娘か妻に任せきり野球か何かにかまけているに違いない。
 そうなると肉屋の店主や金物屋の店主も当然のように借り出されているだろうし、それぞれの配偶者達の怨嗟と諦めが混じった溜息と愚痴が聞こえてくるようだった。

 ふと、轟音に空を見上げると、頭上を飛ぶのはイロコイの編隊。陸上自衛隊と書かれた文字が小さく見えた。演習へ行くのだろうか……。そのオリーブグリーンを基調とした迷彩は訳もなく不安を掻き立ててやまない。でも、それでさえも十七試艦戦やカットラスの様にあり得ないものが空を掠め飛ぶよりは余程現実的で、日常の風景の有り触れた風景の一部だった。
 白い帽子の縁を上げてヘリを目で追うと、眩しい逆光を浴びて直ぐに又もとのように深く被り直さなければならなかった。
『直ぐに行くから』と携帯に入った連絡は既に数分前の出来事。
 だからといって、多分誰も彼を責めることは出来ないだろう。
 その責任を全うするために、彼もまた必死なのだから。
『こんな時は休暇ぐらい取りなさいよね』
 その時はそんなことを言った自分だったが、もともと予定日よりも早く担ぎ込まれたことだし、そう急には休みなど取れ無いことは理解している。しかも、その中で彼が最大限努力して現場を抜け出すというのだから寧ろ、賞賛して然るべき事なのだろうけれど、だからといって、今、この間にも不安げに彼を待つ想いの妹のことを考えると、
「遅い」
 などと一人、ぼやいてしまうのもまた仕方がないことだった。
 本当は立ち会っても良かったのだけれど、もう少しばかり時間がかかりそうな雰囲気なので対会うのは母に任せ、こうして病院前に佇み深呼吸などしている。
 あたしが慌ててどうなるというんだろう。

 自問自答をしつつ空を見上げていると、高校時代のことを思いだしてしまった。
 最初に彼のことを好きになったのは妹の方だ。
 何かと浮いた存在だった彼だが、どういう訳か話したこともないのに、彼の内面を的確に捉えその上で心を奪われてしまったのだ。妹をそこまで本気にさせる男がどんな奴であるか、興味を持ったのは当然の成り行きで、同じクラスになって彼と接触してみると、なるほど、妹が言う通り前評判とは違い、少なくとも周りにいる自己本位な人々よりは話せる相手だった。
 あたしは彼と話すために、もう一人のヘタレ男をダシにした。
 そんなあたしを羨ましがる妹に、仕方ないわねぇと今日はこんな話をした、とか、あんな感じだったとか、彼のことで毎日のように二人で盛り上がった。
 去年の春、今度は妹の方が彼と同じクラスになった。
『ねぇ、お姉ちゃん』
 妹は言った。あたしに彼との仲を取り持って欲しいと……
『……いいわよ』
 歯切れが悪かったのは自分でも不思議だった。
 その時はそれだけだった。
 彼に、妹の仲を取り持つ過程であたしは、漸く自分の本当の気持ちに気が付いてしまった。
 でも……
 あたしの恋は実らせてはいけないのだ。
 いつものように、しれっと話しかけで、彼を誘いだした自分に少しだけ後悔して……
 
 ……
 
 こうして昔のことを考えていても、時計の針だけは動き続けるのだ。
 しかも、こうしている間にも、妹は生まれ来る命の為に戦い続けている。
「お姉さん!」
 そう呼ぶ声。
 振り返ると
「そろそろですから、一緒にいて上げてくれませんか」
 携帯を掛けに外に出たあたしのことを見ていたのだろう看護師がわざわざ呼びに来たのだ。
 誘われて建物はいる寸前に、聞こえた救急車の音が心をかき乱す。
 何でこんな時にと思っても、隣には救急病棟が有るんだから仕方がなかった。
 未だ来ぬ彼のことを恨んだ。これはあたしの仕事じゃ無くてあんたの仕事よ。
 今どこにいるのよ……


 ……

 妹から話を聞かされて驚いたのは寧ろあたしの方だった。
『ねえ、お姉ちゃんどうしよう……』
『どうしようって言われてもね……あんたはどうしたいの』
 もう一度妹の顔を見据えた。
 どうしようと言う割には、別に顔面蒼白と言った風でもない。寧ろ某かの覚悟が出来上がっているときに見せる表情で言っているのだ。
『私は……』
『産みたいんでしょ』 
 卒業前……取りあえず進路は不意になるけれど始めからそう決意されていたのではあたしにはどうすることもできないのだ。
『朋也は』
『散々謝られたけど……』
『絞めてくる』 
『やめてよ、お姉ちゃん……だって朋也くんは』
 そう、彼が反対するはずはないのだ。妹への愛は絶対だったし、彼の心情を察すれば、間違いなく新しい家族は暖かく迎え入れられるのだ。そう言う人間だと言うことは知っていたけれど、それは、妹の未来を犠牲にしてまでのものなのだろうかとふと思い……そう考えた自分の愚かさをもう一度知ることになった。
 

 音のしないはずのデジタル時計から、カチカチと秒針の音が聞こえるような気がする。
 今、すれ慌ただしく違った看護師の声がする。
 さっきの救急車で運ばれてきた患者のことらしいけど

 ――○△の交差点で事故だって?
 ――バイクと軽トラックが衝突だ。信号無視のバイクが軽トラのキャブに突っ込んだらしくてな……
 ――それで?
 ――ひでぇ状態だ。バイクのあんちゃんは即死。軽トラの運ちゃんは奇跡的にかすり傷程度で助かったんだけどな
 ――それじゃ運ばれてきたのは?
 ――軽トラの運ちゃんと助手席に同乗してたあんちゃんで……

 何もこんな時にそんな話題をしなくても良いじゃない。
 彼らを恨めしく思いながら横を通り過ぎた。

 産婦人科の待合室で、父と彼の父が何処か祈るように待ち続けていた。
 初孫誕生と、妹の無事を未だ来ない彼の代わりに祈ってくれていたのだ。
 勿論、彼のが言うように無関心な人ではないのがその様子から直ぐに分かった。二人とも不器用さが嫌悪なって現れているだけなのだ。事が済んだら、次は彼らの親子関係にメスを入れて改善する手助けが必要かも知れない。そんなことを考えながらあたしは会釈だけして、産室に招き入れられる。
開けられた産室のドアは、なんとなく重くきしいだ。勿論それは主観で、多少年季が入っていたにせよ、目立った傷みはなく、立て付けも悪いようではなかった。
 あたしに気が付いた母が妹にそのことを伝える。
「お……ねえ……ちゃん?」
 その目は明らかにあたしよりも彼を求めていたので、やっぱり本当は彼にいて欲しいのだと実感した。言葉に出さない妹の問いかけに
「あいつは……もうすぐ来るわよ」
 ……裏付けはなかった。
 それからの時間は一秒も数時間に感じられた。
 励ましは、むしろあたしの不安を増幅させる。
(なんであいつは来ないのよ。椋がこんなに苦しんでいるって言うときに……)
 妹の喘ぎ声が木霊する室内。
 その負担を少しでも自分が代わりに背負うことが出来ないかと考えてもそれはできない相談だった。

 それならば、その瞬間は側にいて祝福して上げたい。
 そう思っていたけれど、あたしは結局その瞬間を見逃すことになる。
 何故なら後ろからそっと肩を叩かれたから。

「悪いな、杏。一寸来てくれるか」
 そう言ったのは待ちわびていた彼だった。
「何よ。遅かったじゃない。何処で何していたの……よ」
 振り返るとズタズタに破れた作業服を着た血みどろの彼がそこにいた。
「ははは、こんなザマだ。日頃の行いがよくなかったな」
 そう言って苦笑いした。
 気が動転したあたしは、彼のその異常さを追求するよりも先に
「非常識じゃない。こんな処にそんな恰好で……」
 と頓珍漢なクレームを付けていた。
「そんなことより、椋の方いいのか」
 彼にそう言われて、椋の方を振り返ると、
「オギャー!」
 と全ての始まりを告げる声が聞こえた。
 妹は焦燥感の中にもやりきった満足感と慈愛の混ざった笑みを浮かべている。
 皆、うれし涙にむせいでいる。
「ねえ、朋也。あんたの子よ……」
 あたしは思わず振り返るとそこに彼の姿は無かった。
 彼を捜すようにフラフラと部屋を抜け出したあたしを見つけた彼の父に、
「一寸いいかい」
 そう呼び止められた。
「君も……」
 そう言ってしっかりとあたしの腕を握ってこういった。
「朋也くんを見たんだね」

 ……

 霊安室のドアは冷たく重い音で軋んだ。
 鋼鉄製のドアは外からはそうと見えない配慮がされていたが、むしろそのことが沈んだ雰囲気を助長させた。

 横たわる彼は、そこで医者から聞いた事故の大きさで想定していた状態よりかなり綺麗で外的な損傷箇所は少なく、顔などは無傷に近く、まるで寝ている可のように私の目には映る。だからといって、彼はもう目を覚ますことはないのだ。

 そんな彼を見て沸き上がる感情はあったが、不思議と泪は出なかった。
「……朋也。あんたどうするつもりよ」
 そんな素っ頓狂な詰問を今の彼にしたところで、もはやどうなる者でもなかったが、だからといってどうしようもない感情の行き場は繰り出される言葉でしか解消出来そうになかった。

――悪い……、
 そんな声が聞こえたような気がして周りを見ても、そこには医師と彼の父しか居なかった。
「どういう事よ!?」
 それでもあたしは声に出してそこにいない彼に向かって問い掛ける。端から見たら滑稽この上ない情景だったろう。
――まあ、こういうことだな
 また、彼の声……
 その聲は物理的な波として鼓膜に打ち付け、音声として聴覚を刺激して私に訴えるものではないと直感させた。あたし脳に訴え掛けているのだ。
 そう直感すると辺りがホワイトアウトして、今までいた安置室でも、病院内でも何処でもない白い空間に取り残されたあたしがいた。暫くすると、その状況に視角連合野なれてきたのか一つの像を結んだ。
 ……彼だ
――まさか、あんな事になるとはな
 彼が苦笑するのでこう言ってやった。
「日頃の行いのせいじゃないの?」
――多分な。椋にばっかり苦労を掛けた報いかもな
「そう思うんだったら、ちゃんと還って椋に土下座でもしなさいよ」
――そうしたいのは山々だけどな……、そうもいかなくなっちまってな。そろそろタイムリミットだ。すまないが椋には杏から、俺が謝っていたと伝えてくれないか。
「自分で椋に謝ったらどうなのよ!」
――そうだな……それじゃこう伝えてくれよ。『椋、もう謝れないけど御免。最後まで不甲斐ない相手だった。子供の名前は考えて有るんだ……。こんな事じゃ償いにならないだろうけど……』

 妹への謝罪の言葉と子供の名前だけ言い残すと、陽炎のように揺らいだ彼の身体は辺りの白い空間に掻き消されるように消失した。
「そう思うならあたしなんかに言わずに、あんたが直接言いなさいよね……」
 気付くと、あたしは彼の横たわる寝台に泣き崩れていて、秒針の音だけがメトロロームの様に静かに時を刻んでいた。

 疲れ切った妹が眠る病室へ向かう途中、化粧室に立ち寄らせて貰った。
 このままでは流石に妹に会う勇気なんか無かったし合わせる顔もない。
 そこで化粧を直すために鏡を覗き込むと、まるで別人のように憔悴しきった女がいる。
 泣き濡れて、目を朱く染め、瞼は腫れている。
 それが今の自分だと気が付くのにどれだけ時間が経過しただろう。
 いや、それは主観であって、ひょっとしたら対して時間など経っていない一瞬の処理時間をタイムラグがそうとさせただけかも知れない。
 慌てて勢いよく流した水で顔を流すと、少しだけ覆っていた息苦しいものが取り除かれたような気がした。そして、現れたのは妹と同じ人を好きになってどうすることもできなかったあの時の自分。それでも、妹の幸福を願っていた偽りの自分だ。
 これから暫くはあの時よりも偽りを続けなければならないと思うと、それがまるで自分自身にあまりにも似つかわしい顔のような気がしたから不思議だった。


 病室にはいると
「あれ、おねえちゃんどうしたの」
 と目を覚ましていた妹に言われた。だから……
「あは。なんでもないわよ。それよりさっき朋也から電話で……」

 あたしの偽りの言葉にニコニコと太陽のような笑みで一々相槌を打つ妹。

――ねえ、椋……もうどこにも朋也は居ないのよ。
 
 それは心の中の声だ。
 
 全てを打ち明けるのはもう少しだけ後でいい。
 神様、もしあんたが本当にいるというなら、あの子達に対するあんたの仕打ちを、あたしは決して許さない。!
 そしてあたしはあんたの存在をなんか絶対に認めない! 
 あたしはあの子になんて言ったらいいのよ……
 だって……あの子達の倖せの証は、彼が「梢」と名付けたこの子は、このあたしの目の前で何も知らずにスヤスヤ眠って居るのだから……









 

感想  home