p4 誰も見なかったスーツケース - future sci wiki
一ノ瀬鴻太郎・一ノ瀬水恵両博士は米国で行なわれる特別講演のための移動中、不幸にも搭乗した旅客機の墜落により帰らぬ人となってしまった。そのことが科学の発展のうえで人類にとって大きな損失であったことは疑いようがない。このパラグラフは夫妻が事故当時所持していた、彼らが講演で発表する予定だったと思われる超統一理論論文(以下「論文」)を収めていたスーツケースについての考察の書きかけ(スタブ)である。資料に関しては現段階で一般に公開されているもののみに拠っているため、大幅に加筆・修正される可能性がある。
論文は事故当時の機内の中で紛失してしまったものと考えられている。なぜなら、後に見つかった一ノ瀬夫妻のスーツケースの中身は、夫妻が娘に宛てたと思われるくまのぬいぐるみで限界まで圧迫されていたからである。
一般的な見解では、事故直前、一ノ瀬夫妻は混乱する機内の中で自分たちのスーツケースを開けて中身をそのあたりにぶちまけてしまい、かわりに「このスーツケースを拾ったら私たちの娘に届けてほしい」と書かれた英文(文面は明らかにされている)と、そして大きなくまのぬいぐるみを押し込んでしっかりと閉めた――そのように想像されている。
旅客機はそのまま消息を絶ってしまったが、一ノ瀬夫妻の願いを込めたスーツケースだけは長い間海上を漂い、様々な国で様々な人の手を渡り、助けを得、十数年の時を経て娘の元に届けられることになる。このエピソードは感動的美談として一時マスコミに大きく取りあげられたが、現在に至るまで一ノ瀬夫妻の娘は一切の取材を拒否しており、博士の関係者らがささやかながらコメントに応じているのみである。
さて、失われてしまったスーツケースの中身としては雑多なものも多く含まれていると思われるが、中でも重要なものは2つある。一ノ瀬夫妻らの共同研究による超統一理論の詳細が書かれた論文、及び「この理論の確定的な裏付け」のために開発されたという直径数センチほどの円形透明板だ。
この透明板は一ノ瀬夫妻が今回のプレゼンテーションにと用意していた「びっくり箱」で、その存在を知るのは夫妻と開発を頼まれた少数の技術者のみに留まる。
透明板の設計図と現物は一ノ瀬博士が論文の一部として所持していたので現存しない。技術者たちは超統一理論の全貌を熟知しなかったので、透明板の意味も使用法も今となっては謎に包まれている。こうして超統一理論の完成は、夫妻が自宅と研究所に残したわずかな資料を踏まえてもほぼ振り出しに戻ってしまった。逆に言うと、それだけこの理論の構築には一ノ瀬夫妻の頭脳によるところが大きかったのである。
後に当時の技術者は、一ノ瀬博士が作成した透明板の試作品を何度か無防備にスーツケースの内ポケットに放り込んでいるのを見たと述懐しているが、関係者が改めてスーツケースを調べて直したところ新しく何かが発見されたという類の発表はされていない。
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みえないものをみること
正午からだいぶ回ってしまった休日の喫茶店。9月も半ばを過ぎたというのに店内の空調はフル稼働中だった。注文したアイスコーヒーをおもわず温かいコーヒーに変えたくなってしまうような強い冷房は夏の衰えをまったく意識させない。
渚は通りに面したガラス張りの窓際の席でことみが来るのを待っていた。同じ席には杏や椋もいる。
というよりもことみを呼びだしたのは杏で、渚はどちらかというと付きあわされているほうだ。
「あ、来た」
杏がくわえていたストローを離して視線を泳がす。渚も通りを歩いてまっすぐここの喫茶店に向かってくることみを捕らえることができた。杏がことみに向かって大きく手を振る。黒いワンピースの下に着込んだラメ入りのタンクトップから見える杏の細腕はきめ細かく綺麗で、動かすことでそれはひときわ視線を集める。ことみは杏に気付くと小走りに店内に入ってきて私たちのすぐ前に現われた。
「みんなこんにちは。えっと、待った? それと……」
ふわふわ水色のサマーセーターに膝下までのデニムスカート。以前杏が選んであげた服だ。愛らしく少し子供っぽいオレンジ色のサンダルもことみが履くと上品に映える。
「いじめない?」
「心当たりでもあるわけ?」
杏の視線に恐怖を感じたのか、いつも通りのやりとり。渚も椋もいつも通りに挨拶を済ませる。
「まあかけなさいよ。冷たいコーヒーでいいよね? あ、店員さん、この子にアイスコーヒー」
本人にたいした確認もせず勝手に注文を決め、杏はことみの肩を押して空いた席に座らせた。
本日の議題は最近の岡崎朋也とことみの放課後について。
「椋に聞いたよ。ここのところ一緒に帰ってないみたいじゃない。朋也が寂しがってるってさ。どうしたわけ?」
ことみは何かを言いかけるが、思い直したように口をつぐむ。
「あたしたちには言えない理由?」杏が詰め寄る。
「そんなことないけど……」
「じゃあ」
「今回は1人で決めたいの」
「え?」
朋也のためにたった1人でプレゼントを選びたい。
そのために朋也と一緒に帰ることもなく、最近は放課後の商店街をうろうろしているんだ、とことみはつっかえながら、でもちゃんと要点を押さえて話した。
「そうならそうって言っといてよ」杏はいからせた肩を落として椅子に深く腰掛け直す。「無駄な心配しちゃったじゃない。まあ確かに朋也には言えないか。びっくりさせてやりたいもんね」
「うん……」
「でもさ、それならやっぱりあたしたちと一緒に見て回ったほうがいいんじゃないかあ。横からアドバイスしとかないと、あんた突拍子のないもの買っちゃいそうだわ。心配。ね、頼りにしてしてみない? あたしのこと」胸を張る杏。
「…………」
ことみは頷かず固まった。
「あの、どんなものがいいか、占ってみましょうか……?」
椋がひきつった笑顔で提案するが、杏とことみは揃って黙殺する。固まった表情でフェードアウトしていく椋の引き笑いが悲しい。
渚は口を挟まずに成り行きを見ていた。自分は男の人がもらって喜ぶものなんて想像できないし、正直プレゼントになるようなものが売っている店もあまり多くを知らない。だから偉そうなことなど言えないしことみの気持ちも尊重したい。
ことみはみんなの表情をうかがうようにしてから、少し困ったように言葉を選び出した。
「みんなの気持ちはとっても嬉しいの。嬉しいんだけど、今回は私1人だけで、たくさんたくさん悩みながら選びたいの」
「そーお? ふーん」
「杏ちゃん、お願い」
ことみの目をじっと見る杏。ことみは目をそらさずにじっと見返す。こんな表情をすることみを渚は何度か見たことがある。頑として譲らないものを目の前にしたときに、いつもことみは今しているようにけして目をそらさなかった。
渚はとっくに結論に至っている。ことみはきっとこのメンバーの中で誰よりも頑固だ。
「お姉ちゃん」椋ももうことみの肩を持っている。
「わかった。そこまで考えてるならもう何も口出さないわ」
杏が折れた。場の緊張がほぐれる。
「でも、そうね……」
杏の人差し指が中空をゆっくりと移動して……渚の前で止まる。「今日だけは部長と一緒に行きなさい」
「え、いまさっき口出さないって……」
5秒で約束を破綻させる姉に動揺する椋。杏が構わず続ける。
「だから、本当にことみの横をただ一緒に歩いてお店を見て回るだけ。アドバイスとかは一切なし。あたしたちことみが心配なのよ。とんでもない店でとんでもないもの選んでるんじゃないかって考え出すともう、ね。だから部長に見るだけ見てもらって、あたしたちはあとで部長から様子聞くだけだから。連れてくのはあたしじゃなくて部長だし、それならことみも変に緊張したりしないでしょ?」
「うん……それならいいの」ことみも妥協した。
「あの、わたしはことみちゃんのそばにずっといて、絶対になにも話しちゃいけないんですか?」
「いやそのへんはテキトーに。ことみから相談しないんなら、普通におしゃべりしながら一緒に歩いてればいいでしょ」
薄汚れたバンが間抜けな音を出しながら排気ガスを吐き出して渚とことみの前を横切る。車を通り越して反対側の歩道では杏と椋が手を振っている。ことみはそれに合わせて一緒にばいばいしながらも、2人が遠くまで言ってしまうのをずっと見守っていた。渚もなんとなくことみに付きあってもうとっくに見えなくなっている2人に手を振っていた。
「渚ちゃん、行こう」
先に歩き出したことみに声をかけられ、渚は小走りになって追いつく。夕方とまでいかないけれど、昼下がりというには少し遅い時間。渚が町に出てきたときよりは人通りが少なくなってきている。
ことみは商店街のすみのほうまで歩くと、辺りを見まわしてからすぐ横に見える店に順番に入っていった。店の種類はとりとめない。商品を一通り見て回って、いくつかを手に取り、また戻し、ショウケース中の触れない商品はガラスケースに手をついてじっくりと目を凝らす。
物色しているものはTシャツ、パジャマ、ティーセット、映画のDVDに指輪やアクセサリーと雑多だ。ことみは渚から見てかなり高価なものでも予算の範疇らしく、ことみの見たものの値札のゼロを数えて渚はしばしば小市民的なため息をついた。でもことみは数百円程度のものにも区別しないで手を伸ばす。きっと良質に慣れているんだろう。
つねにことみが1歩先をあるくポジション。
もう渚があまり行くことのない区画に入っている。
渚は細かな調整みたいなものが苦手で、ほとんど無言でことみに従った。だんだんつらくなってきて苦し紛れの言葉を吐くのだけど、それが思わず「どんなプレゼントを選ぶんですか」みたいな確信になってしまって、ことみが戸惑いながら答えられなくなって、また一段と空気が重くなる。そんな悪循環ももう何度目かになる。
なんとなく目のやり場に困って、渚はことみのいる反対のほうに目をやる。視線を大きく右回りさせて反対側の通りを向くつもりで、道路の真ん中で止まった。
女の子が立っていた。
この通りはまだぎりぎり商店街に含まれているため車も徐行気味に走ってくれるが、だからといって道路の真ん中にいて安全なはずがない。
「危ない」
考えるより早く渚の口が動いた。声が小さいのか女の子は気づかない。ついさっきまで車の通行は途切れていたが、もう左側から乗用車がやってきている。
「危ないですっ」
もう一度渚が叫ぶ。ことみも女の子に気づいたようだ。車は少しもスピードを落とさない。女の子は動かない。
渚の視線は釘付けになっていた。突然のことで身体が緊張して動かず、まぶたを綴じることもなく女の子を見つめていた。
乗用車は女の子のすぐ横を素通りしていった。ドライバーは、特に注意するものはないというふうに終始前を向いていて、クラクションも鳴らされなかった。
女の子は渚たちのいる場所と正反対の歩道まで渡りきると、表通りから奥の少し薄暗い道に駆け出していった。
一瞬だけ、渚に微笑みかけたような気がした。
渚が我に返る。
「ことみちゃん、わたしあの女の子の様子見てきます。怪我していないか心配ですから」
言い残すようにことみに告げると、渚は通りを横切って女の子を追いかけた。
女の子の行く先の道に渚は入ったことがなかった。少し歩くと道が心持ち広くなり、建物の高さが低くなって電信柱と街灯が高く目立つようになる。道がまた狭まり、空気の流れが緩くなる。両側に見える街灯がてっぺんに丸みを帯びたかわいい手羽の意匠がほどこされたものに切り替わり、目に見える建物のなかにレンガ造りのものが混じりだす。ただそれだけの変化で不思議なほど異国感が高まるのがわかった。
ぱたぱたと足音が聞こえ、ことみが追いついたことに気づく。ことみは軽く肩を揺らして息をする。
「渚ちゃん、速いの」
「すみません、夢中になってしまって……。見失っちゃったみたいです。でもまだこのあたりにいると思います」
ことみを向いて頷き、少しだけ目をつぶる。それから渚は通りを遠くまで見渡して空を仰いだ。無骨なかたちをした電信柱と街灯は同じ外観を切り貼りしたようにずっと先まで続いている。それが単調なくり返しになって空気をよどませ、喧噪が遠くなっていくような気がした。
渚は少し歩いて、1つの建物の前で止まった。
「あの女の子……ここに入っていったような気がします」
指さしたのはごく普通の3階建てのビルだった。1階には何かの事務所が収まっていて、通りに面した正面に2階への階段がある。3階の通りに面した窓には「テナント募集」と書かれた看板が掲げられていた。
曲線的な彫刻のほどこされた手すりをつたいながら、渚は薄暗い階段を上った。ことみもすぐ後からついてくる。2階までのぼりきると廊下は逆に明るかった。コンクリートの壁は開放的に切り取られ、窓から光がふんだんに差している。窓の下枠のすぐ下ではツバメが巣を作っていた。
廊下の奥で年季の入った木製の扉が半開きになっていた。「Antique PM1:00-7:00」とだけ書かれた簡素な立て看板が扉のすぐ横にある。扉の隙間から見える店内の様子は廊下の明るさもあってとても薄暗く感じる。もしかして電気が入っていないんじゃないかとさえ思う。
ことみが渚をじっと見ている。渚は頷いて扉を徐々に開いた。来客を知らせるカウベルが控えめに響いた。
どこかに籠もって沈んでしまいそうないくつかの間接照明の光がちらつき、上品なコーヒーの香りがした。鈍い輝きを持つアンティーク群(万年筆やカレイドスコープ、それに時計が多い)は背の低い木棚の上に余白の美を充分に持たせた間隔でディスプレイされていた。非常に高価そうな品も含め、商品に値札はまったく見られず、店主のプライドと自己満足をうかがわせる。おそらくここは趣味の店であまり儲けなどは考えていないんだろう。
ことみとは入り口で別れた。せっかく来たからこの店も見てみるつもりらしい。渚は店内を見渡し、歩き、通りで見た女の子の面影を捜してまわる。
店自体はそれほど広くなく、木棚の並べかたもそれほど無秩序というわけでもないのに、奥に進むうちに目の前に天井まである背の高い本棚が忽然と現われたりして、さながら迷宮的だった。時の間隔を狂わせるこの店の雰囲気も一因だと思う。渚がずっと先の壁を見ると1枚のレイモン・サヴィニャックのポスターと目があって、描かれたヤギが「よくきたね」と来訪者を見つめた。
不透明な灰色の光が足元から持ち上がってきている。
この場所はヒトの存在を曖昧にしてしまう。
思っても見なかった場所にことみがいて、本棚の古書を手に取ってぱらぱらとめくっている。いまことみのいる一つ先の本棚まで歩くと、部屋と同化するように老紳士が目をつむって椅子に腰掛け、手を机に置いて火のついていない葉巻きをくわえているのが見えた。きっと彼が店主なんだろう。
「あの」と渚が話しかける。老紳士は丸眼鏡の位置を直して渚を認めると、ほとんど消えかけていた葉巻きの火を灰皿に押しつけて消した。
「いらっしゃい」
予想していたよりもずっと柔和に老紳士の声が響いた。
「このお店に女の子が入ってきませんでしたか? ええと、背は私の腰より少し上くらいで、長い髪の毛で白い服を着てる女の子です」
渚が訊くと、老紳士は記憶をたどるようにゆっくりと頭をひねった。
「たしかにこっちのほうに来たと思うんです。ここの近くを通っただけかもしれません。近くをどたばたするような音とかも聞こえませんでしたか?」
「もしかしたら」
部屋のどこかで、コーヒーメーカーがごぽ、と音をたてた。
「君は、普通は見えないものを見たのかもしれないね」
「見えないもの……ですか?」
「たとえば、古いものにはときどきそういうものが宿るって僕は考えてる。何が宿るかまでは僕にはよくわからないけど。はは。オカルトじみてると笑うかもしれないけどね……僕は結構本気で考えているんだよ。こんな店に来たのも何かの縁だし、ゆっくり見ていくといいよ。うん、見るだけでいい。値段はかなり高めだからね」
世代隔絶的なジョークで話を切って、老紳士は含み笑いをする。渚は、もしかしたら老紳士はこの部屋そのものなのかもしれないと思った。煙に巻くような彼の言動も、彼のこだわりの詰まったこの部屋だからこそ意味を保っている。
「おじいさんは、この店が好きなんですね」
「好きだよ。ここにあるものみんな僕の宝物だ。いつか宝物に囲まれて暮らしたいって、子供のころから思ってたんだよ。人生の終わりかけの歳になってようやく叶えた。失ったものもあるんだけどね。……孫娘がいてね、お嬢さんを見てると思い出すよ。もう今ごろ君ぐらいの歳になったかもしれないな。悪いね、自分のことばかり話してしまって」
「いえ、わたしでよければいくらでも聞きますよ。話してください。おじいさんの話おもしろいです」
渚は本心で言った。渚にはつまらないものやくだらないものはない。目に映るものすべてが目新しくて、いつまでたっても自分を小さく感じている。
「孫娘とは小さいとき以来会っていないんだ。その、息子とね、くだらない喧嘩をしてね。お互いずっと意地を張ってしまっていてね。息子とも孫とももう十数年音信不通だよ」
「あの、わたしが口を挟んでいいのかわかりませんが……それはもう仲直りは無理なんでしょうか」
「意地っ張りなんだ。お互いね」
「でも……やっぱり仲良くしたほうがいいと思います。家族はかけがえのないものだと思いますから」
「その通りだね」
老紳士は悲しく微笑んだ。渚の提案を認めつつも、それは無理なんだ、と表情で拒絶していた。
渚は言葉を飲みこんだ。
渚は自分の家族をとても大切に思っている。それは本当に正しいことだと渚は信じている。それが強い思いだからこそ、老紳士の抱き続けてきたであろう信念のようなものを否定することを渚には言えないと思った。それは渚自身にもうまく整理できない感情だった。
長い沈黙のあと、「心残りもあるんだ」と老紳士はつぶやいた。
「プレゼントがあったんだよ、孫娘に。ずっと渡せないでまだ僕の手元にある」
老紳士はそういって手元の机の引き出しを引いて、古ぼけた箱を取り出す。
「人に見せるのは初めてだな」老紳士は少し照れくさそうだった。
老紳士が箱を開けると、なかには1本の小さなスコープが入っていた。丁寧に作られた万華鏡のように思えるが、筒の先にビー玉みたいなものが埋め込まれている。
「テレイドスコープのつもりだったんだ。テレイドスコープは知ってる? 万華鏡みたいだけど、中の模様じゃなくて外に見える風景が複眼みたいになるアレだよ。ずーっと昔の話だけど、孫娘と海辺で貝殻集めをして遊んでいたとき、きれいなガラス玉を拾ってね。とても堅いガラス玉で――もしかしたら材質はガラスじゃないかものしれないけど――表面に傷がほとんどなくて、コンタクトレンズみたいに精巧だった。それを材料にして、ほら、ここに埋め込んであるこれだよ。これを使って、あとほかの材料も集めてテレイドスコープのかたちに仕上げたんだ」
「きれいですね。きっとお孫さんにあげたらすごく喜ぶと思います」
「その前に、さっき言った喧嘩をしてしまってね」
「いまから渡しても遅くないと思います。こんないいものなんですから、どんなに時間が経ってても喜んでくれますよ」
「そうだね」
老紳士が先ほどと同じ顔をする。渚はただ悲しかった。そして、なぜ悲しいかを一所懸命考えて、老紳士が自分のことを古い終わった人間のように考えていること、渚がどんなに正しいことを言ったとしても、わかってくれるのにはきっとすごく時間がかかってしまうこと、それはもう本当に間に合わないことなのかもしれないんだということに思い至った。
渚は泣き虫だ。
しょんぼりと顔を落として鼻をすする。
「ごめんね」
ぽつりと老紳士は言った。
奥でそれとなく話し声を聞いていたのだろう。横から顔を覗かせたことみがゆっくりと歩みよって、ゆっくりと庇うように渚を抱きかかえた。
「渚ちゃん、だいじょうぶ? もう帰ろう? 私ここもうぜんぶ見たから」
「はい、でも」
「女の子?」
「はい。もうここにはいないと思うんですけど、だいじょうぶかなって」
「きっと女の子は、だいじょうぶなの。ここにいないなら、きっと元気で、タイムマシンに乗って別の場所に行っただけだから」
「たんぽぽ娘かな?」老紳士がかすかに笑った。
ことみは老紳士に頷いたが、笑ってはいない。
「こんなこと言える立場じゃないと思うんだけど、お願いがあるんだ」
老紳士はことみの目を見つめ返して、渚も見る。
「君たちふたりにこのスコープをぜひ覗いてほしい。最後にただそれだけをお願いしたい。僕以外の人にこれを覗いてほしいんだ。これはただのテレイドスコープじゃなかったから」
長考の沈黙のあと、ことみの肩が渚から離れて、老紳士からスコープを受け取る。
渚が両腕で交互に目をごしごしとこする。老紳士の優しい声だけが聞こえる。
「この世界をかたちづくっているいちばん小さなものにはね、まだ誰も知らないけど、裏側があるんだ。その小さな裏側から世界をすみずみまで見渡すと、僕たちのいる世界とはまったく違う世界が広がっているんだよ。僕はそれを覗いて確信したんだ。きっと僕たちのすぐそばには、もうひとつの世界が繋がっているんだよ。お互い見えなくて触れないとしてもね。まるでタルコフスキーの映画を観ているような気分になって、そう、僕は純粋に深くもの悲しい世界だと思った」
「ちがう」ことみの声が答えた。「この世界は、温かいの」
ことみから渡されたスコープを、渚も覗き込んだ。
広がったのは地平の先まで続く草原。視線が低くて草の背が高い。
不揃いの青い雑草はきれいでどこも欠けていないのに油の照り返しがなくて、生気が感じられない。
入道雲の広がる青空は悲しみに満ちた群青色をしている。遠くではねずみいろのけものがのそのそと動いているのが見える。
だけど幻想的だった。
タンポポの綿毛のような光が数え切れないくらい宙を舞っていたから。ずっと。
渚がスコープから目を離し、幻惑から冷め、少し時間をおいて鈍く輝くアンティークたちに飾り立てられた部屋が自分たちのすぐそばに寄り添うように戻ってくる。やがてどこかで金物の鳴る音、子供の声、雑踏と無数の足音が扉の外から漏れ聞こえてくるのがわかった。
「いいものは見つかりませんでした?」
店を出て渚が訊いた。
「あの店には、朋也くんと半分こできるものがなかったの」
そうことみは笑ってみせた。
「商店街でTシャツ見てましたよね」
「ペアのTシャツがあったの」
「ティーセットも」
「カップを半分こするの」
「映画のDVDも」
「朋也くんとふたりで観るの」
「じゃあ指輪は?」
「…………」
ことみはうつむいてしばらく黙ってしまった。
かわいい。
感想
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