耳を澄ませば春の足音が聞こえてきそうな穏やかな日。卒業式を明日に控えた生徒たちを祝福しているように、ぷかりぷかりと浮かんでいる雲。
 その雲が見下ろしている校舎の中で、卒業生となった宮沢有紀寧はドアに手をかけたまま、感慨深そうに資料室を見渡していた。
 今の時間在校生は授業を受けており、この旧校舎にはきっと彼女ひとり。クラスメートたちは卒業式の予行を終えて、とっくに帰宅の途についている。
 この資料室は彼女にとって思い出の詰まった大切な場所。いよいよ明日でお別れかと思うと、言葉にできないいろいろな感情が胸をついてくる。それをそっと抱きしめるように有紀寧は胸に手を当てた。
「ここを離れるのは寂しいですね」
 目を閉じれば、すぐ側にあの日の喧騒が聞こえてくるかのようで、知らず知らず唇がほころんでくる。
 やがて有紀寧はゆっくりと教室の中央に歩み寄っていった。テーブルを回りこんで、いつも自分が座っていた椅子に腰を下ろす。
「ふう」
 その姿の彼女の周りには、いつも不器用な友人たちがいた。ごくたまに諍いが起こることはあったけど、最後には彼女を中心とした笑いの輪ができていた。
 彼女がここにいる時間を見計らって、こっそりと遊びに来てくれていた友達もまた、彼女がここに腰掛けて話を聞いている間に、ひとりずつ自分の道を見つけて歩いていった。
 そんな、何物にも代えられない場所。
 そして、その時間ももうすぐ終わり。
「ずっとお世話になってきたのですから、恩を返さないと」
 部屋の隅を見れば、きちんと掃除はしていたものの、そこかしこに汚れが溜まっている。立つ鳥跡を濁さず、ではないけれど、有紀寧は掃除用具入れのロッカーに足を向けた。


 掃除は高いところから始めるのが鉄則。ということで最初に目をつけたのは、書物を手当たりしだいに突っ込んだ彼女の背よりも大きな棚の上。椅子を動かして上履きを脱ぐと、その上に足を乗せて有紀寧ははたきをかけ始める。
 誰も手をつけていなかったのか、もわっと立ち昇る埃に驚いて顔をそらすと、足元がぐらついて危うくバランスを崩しそうになった。
「危ないところでした」
 棚にしがみついた体勢でほっと胸を撫で下ろし、再びはたきをかける。その軽快なリズムがいつしか彼女に鼻歌を口ずさませていた。
 ひとしきり叩き終えると、有紀寧は雑巾を手にしてもう一度椅子に上がる。絞った雑巾で磨いていく時も、まだ鼻歌を口ずさんでいる有紀寧。
 それがよくなかったのか。
「あわわわっ?!」
 端の方を拭こうと伸ばした身体が傾いた。棚の端を掴んでいた手が滑る。がたっと乱暴な音を立てて椅子が揺れ、小さな有紀寧の身体が投げ出される。
「おっと」
 固く目をつぶっていた有紀寧はなにが起こったのか理解できなかった。固い床に叩きつけられる瞬間を覚悟した彼女は、その途中で何かに受け止められて混乱していた。おそるおそる目を開けると、よく知った顔がすぐ目の前にある。
「大丈夫か?」
「朋也さんっ?」
 よっと、そんな声で床に降ろされる。自分の足で地面に立ってもまだ有紀寧は信じられないと、朋也の顔をまじまじと見ていた。
「有紀寧のことだから、きっと今日もここにいるんだろうなと思ってさ。窓を乗り越えてきたんだけど、夢中になっていたみたいでぜんぜん気がついていないから、悪いと思いながら見学させてもらってた」
 種明かしをしてみせる朋也の言葉に、有紀寧の頬がかすかに朱に染まる。
「まさか、ずっと見ていたんですか?」
「まあな」
 にんまりと笑う朋也。
「もう」
 と頬をふくらませかけて、朋也の作業服に気づく。そして不思議そうに首を傾けた。
「でも、今日はお仕事ですよね」
「ああ、今日はたまたま仕事場が近くにあってさ、休憩時間だからちょっと抜け出してきた。有紀寧は気づいていないのか?」
「え?」
「もう昼の時間だぞ」
「あら」
 気がつきませんでした、と言う有紀寧に今度は朋也が頭をかいた。
「有紀寧はいつも一生懸命だな」
 いつの頃からか、朋也は有紀寧のことを名前で呼ぶようになった。初めのうちは慣れなくて、名前を呼ばれるたびに頬を赤らめてしまったものだが、朋也との関係が着実にステップアップしているようで、有紀寧はいつしか心地よく受け入れられるようになった。
「そんなことはありませんよ。坂上さんはもっと一生懸命です」
 有紀寧の口から漏れるその名前は朋也にもよくお馴染みのもの。学年が上がってクラスメートになったふたりは、あっという間に親しい関係を築いていた。
「あー、智代か。すっかり仲良くなったみたいだな」
「はい、朋也さんのおかげです」
「俺は何もしてねえよ」
 いつでも人を立てる有紀寧に苦笑い。それは彼女の長所ではあるけど、もう少しわがままになってもいいんだけどなと、朋也ならずとも思わないでもない。
「って、何でいきなり智代が出てくるんだ?」
「ええとそれはですね、今日の卒業式の予行があったので、坂上さんが答辞を読み上げたんですけど、すごく凛々しかったんです。それまではざわざわとしていた会場がシーンとなって、本番ではないのに、思わず式に臨んでいる気分になってしまったくらいですよ」
「へえ。俺は卒業式で寝てたからなぁ」
 その光景が容易に想像できたのか、有紀寧が困ったように眉を寄せる。
「朋也さんったら。その時に送辞を読み上げたのも坂上さんのはずですよ」
「げ、そうだったのか……あー、このことは智代には内緒だぞ」 
 拝むようなポーズをとる朋也におかしそうに笑ってしまう有紀寧。ふと、その笑みが止まった。
「……なあ、掃除は明日じゃだめなのか」
 立てかけられた箒やバケツに目をやりながら朋也が呟く。
「明日は、もう卒業してしまっていますから」
 有紀寧の言葉に、朋也は納得した様子で大きくうなずいた。
「そっか、あんまり長くはいられないから、少ししか手伝ってやれないけど。力仕事なら任せてくれよ」
「え、悪いですよ」
 まだこれからも朋也さんには仕事があるのに、続く有紀寧の言葉を手で制しながら、朋也もまた懐かしむように教室を見回す。
「ここに世話になったのは俺も同じだからさ」
 袖をまくってぐっと力こぶを作ってみせる。一年ほど社会に揉まれていた朋也は、確かに出会った頃より逞しさを増していた。
 断るのも失礼と、有紀寧は大きなテーブルをずらすのを手伝ってもらう。
「やっぱり男の人はすごいですね」
 ずらした部分にたまった埃を箒で掃き清めると、さらに絞った雑巾を念入りに往復させる。くすんだ床がぴかぴかになったところで、有紀寧は手を止めた。
「あの、ご飯まだ食べてないのでは?」
 向こう側で同じように雑巾を動かしていた朋也が顔を上げる。
「おっと、昼飯を食べる時間がなくなってしまうな」
「わたしは一応お弁当を持ってきましたけど……」
「ん? ああ、コンビニでパンとお茶を買ってきてあるぞ」
「今日来ると分かっていたら、朋也さんの分も作ってきたんですけど」
「俺もここに来られるとは思ってなかったからな。俺が勝手に押しかけてきたんだから、そんな申し訳なさそうな顔をするな」
 元のとおりにテーブルを戻して、それぞれ昼食を取り出す。少し心配げな目で朋也のパンを覗く有紀寧。
「朋也さんはいつもこういうのを食べているんですか?」
 豪快にパンにかぶりつきながら、朋也はうなずいた。
「ん、まあそうだな。自分では作る気にならないしな……悪かった、作れないしな。カップ麺とかコンビに弁当とかが多いな」
 早くも一つ目のパンをお茶とともに流し込む。そして有紀寧がなんとも浮かない様子で箸をつついていた。
「そうですか。あんまり栄養が偏ると身体によくないですよね。よろしければ、わたしがご飯を作りに行きますけど」
「へ?」
 ふたつ目のパンをかじった格好のまま朋也が固まる。有紀寧も箸をくわえたまま首を傾けた。
「悪いなぁ。なんだか、それって」
「え? あ……」
 ようやく自分が言った言葉の意味に気づき、ぼっと有紀寧の顔が赤くなる。からかうつもりだったのに、それにつられるように朋也の顔も染まった。
「あ、あの……」
「いけね、もう行かないと」
 がたんと椅子を鳴らして朋也が立ち上がる。
「悪いけど、後片付けお願いな」
「はいっ」
 慌しく資料室を出て行く朋也を見送りながら、ひとり先ほどの言葉を反芻する。そして真っ赤にした顔をばっと伏せてしまう有紀寧だった。



 食事を終えても有紀寧の表情はなかなか元に戻らなかった。ほうと熱い吐息を漏らしては慌てて首を振るしぐさを何度も繰り返してしまう。
「ま、まだ掃除は終わっていません」
 気合を入れるように有紀寧はぎゅっとこぶしを握り締めた。そして再び雑巾を手に取るとていねいに雑巾がけを始める。大掃除午後の部の開始である。
 大掃除を再開して一心不乱に体を動かしていくと、気分も落ち着いてくる。窓を拭き、床を磨き、流しを洗い、教室をあちこちと移動するうちに、彼女の額に汗の玉が浮かんできた。
「ふう……」
 そしてようやく終わりを告げた大掃除、綺麗に磨かれて見違えるようになった教室を見回して有紀寧は満足げに微笑む。これならきっと誰かがこの資料室を見つけた時に、きっと気に入ってくれるに違いない。
「まだ残っていたのか」
 がらがらとドアが開けられた後に、呆れたような声。振り向くまでもなくそれは坂上智代のもの。
「ちょうど終わったところなんですよ」
 突然の登場にいささか戸惑いながらも有紀寧は笑顔を浮かべた。
「確かに綺麗になっているな」
 教室を見回して智代が感嘆の声をあげる。それをくすぐったそうな表情で聞くと、有紀寧はすぐに智代に席を勧めた。
「すまないな」
 腰を下ろした智代と入れ替わるように立ち上がって、有紀寧はコーヒーを淹れる。ここしばらくはお互いの受験で会わないでいたけど、もう数えられないほど繰り返してきたことだから。
「お疲れ様でした」
 高校生活最後の仕事を終えたドリッパーに向かって有紀寧は小さく呟く。変わらず安らぎの一時を与え続けてくれた相棒に、優しげな視線を落とした。
 やがてふたつのカップにコーヒーが満たされる。有紀寧はコーヒーの香りをまといながらカップを手にしてテーブルに戻った。待っていた智代にひとつ受け渡して、自分も腰を落ち着ける。
「どうですか?」 
 目の前でまっすぐに立ち昇る湯気を越えて、コーヒーをすする智代に静かに問いかける。なにやら考えているらしく、視線を下に落としたその表情が気難しげだ。
「うん、おいしいぞ」
 それでも有紀寧はほっと胸を撫で下ろした。自らもカップを手にして口元に近づけ、変わらぬ味を楽しんでいるうちに、なんだか胸の奥がつんとしてくる。
 校庭の方では体育の授業があるのか、賑やかな歓声がここまで届いてくる。が、中庭は静かなものだ。夏になれば虫の声で騒がしくなるが、その時は夏休みでここにはいない。
 会話もなくコーヒーをすする音だけが教室に響く。上目遣いに智代の出かたを窺いながら有紀寧はじっと待つことにした。
 お互いを牽制するような微妙な時間が流れていく。
「ふう」
 埒があかないと見たか、いきなり智代が息を大きく吐いた。有紀寧もカップを置いて智代の言葉を待つ。
「実はな」
 真剣なまなざしだった。
「これだけはお前に言っておかないといけない」
「なんでしょう」
 智代の緊張感が伝わってきて、自然と有紀寧の身も引き締まる。
「私は朋也のことが好きだ」
 うすうす分かっていたことではあるが、改めて聞かされるとショックを隠しきれない。
「そう、ですか」
「ああ……こんなの私らしくはないかと思うが、宮沢に悪いし、きっちりとけじめをつけておきたくてな」
「坂上さんが……」
 ようやく、今日わざわざここに来た理由が分かった。分かったところでなんて答えたらいいのか考えようもない。
「卒業したらこの町を出るが、その時朋也も一緒に連れて行こうかと思っている」
 有紀寧の顔をしっかりと捉えながら智代は唇の端をかすかに吊り上げた。細められた涼やかな目線とあいまって、傾城という言葉がぴったりな妖艶な笑み。
「え、あ、え、その」
 先ほどまでの朋也のやり取りが、まるで子供のおままごとだったみたいに思えてくる。それほど今の智代の言葉は有紀寧の不安をあおることに成功していた。
「……冗談だ。ちょっとしたエイプリルフールだから気にするな」
 一拍おいて、持ち上げたカップを傾ける。
「まだ4月には早いですよ」
 それだけを言うのが精一杯。有紀寧はすっかり智代の空気に圧倒されていた。
「4月にはこの町を出てしまうからな、ちょっと前借りをしただけだ」
「前借りって」
「まあ、細かいことは気にするな。朋也のことが好きだというのは本当だぞ。残念ながら、今の時点では私の負けのようだが」
「負けませんよ」
 そう言い返したものの、本当に勝っているのだろうか、自信がない。惰性で付き合っているだけではないのか、いまさらのように怖くなってきた。
「ふふ、その調子だ。それでなくては張り合いがない」
 はっきりと自分の気持ちを伝えたことがあっただろうか。心地よさに溺れていただけではないのか。急に自分の足元がぐらついてきたように思えて、有紀寧はすがるようにぎゅっとカップを握り締める。
「さて、そろそろ帰るとするか。宮沢はまだここに残るのか?」
「え、掃除は終わらせたので、後はカップを片付けたらわたしも帰ります」
「そうか、では先に行っているぞ」
 飲み干したカップを押しやって立ち上がる。慌てて有紀寧も残りのコーヒーをあおると、流しにカップを持っていった。
「そうそう」
 作業を眺めていた智代が、洗い終えた有紀寧が蛇口を捻り、水の音が消えたタイミングを待っていたかのように呟く。
「はい?」
「今までの言葉のどれが嘘だったか、宮沢は分かるか?」
 窓の鍵をかけようとした有紀寧がはっと振り返る。その目に意地悪く微笑んでいる智代の顔が映った。


「あれ?」
 戸締りを終えて資料室を後にしてきた有紀寧が、外履きに履き替えて昇降口を出ると、すぐそこに智代が立っていた。
「意外と早かったな。もう少しかかるかと思っていたのだが」
 振り返った智代が光を浴びて輝いている、少なくとも有紀寧にはそう見えた。
「待っていてくれたんですか」
 一方、カバンとクーラーボックスを抱えて少し動きづらそうにしている様子がなんとなく滑稽で、智代は思わず表情を緩ませる。
「ああ、今日はなんとなく誰かと帰りたい気分になってな」
 暖かみを増してきた空の色、真冬の張り詰めた空気からようやく解き放たれて、木々が装いを新しくしようとする準備を始めている。その枝に止まり、しきりに鳴きすさぶ鳥も春という季節を歓迎しているように思えた。
「坂上さん、さっきの嘘って……」
 しかし今の有紀寧には感じられるゆとりがない。
「ん、ああ。深い意味はないから気にするな」
「気にするなって言われましても」
 上に伸びたひとふさの髪の毛が力なく丸まって、まるでクエスチョンマークを描いているかのよう。
「ふふっ」
「どうして笑うんですか」
「いやなに、気にするな」
 教えてくれる気はないらしい。仕方なく有紀寧はまた思考に耽ることにした。 
「…………」
「あっ?」
 不意に坂の途中で立ち止まった智代にぶつかりそうになった。足元に目線を落としているせいで気づくのが遅れてしまう。踏み出しかけた足の置き場所を見つけ損なって、有紀寧はたたらを踏んだ。
「む、すまない」
 坂の両脇にずらりと並んだ桜並木は、生徒会に入った智代が守りたかったもの。後から聞かされてすごく感心したのを有紀寧は覚えている。
 智代がそうしているように有紀寧もまた木々を見渡した。今はまだつぼみの段階だけど、新入生がこの坂を登る頃にはきっと綺麗な花を咲かせてくれるのだろう。
「いやだな、本番は明日だというのに」
 笑顔の智代の目は少し潤んでいたが、有紀寧は見ない振りをした。ただそっとクーラーボックスの紐を指でもてあそんでいた。



 クラスメートたちと最後のお別れを惜しんで、卒業証書を抱えて。疲労で鈍くなった頭を振りながら有紀寧は中庭に向かった。
 昨夜は眠ることができずに何度も寝返りを繰り返すことになってしまい、ようやく眠ることができたと思ったら、もう外が明るくなりかけていた。
 智代の言葉のどこに嘘があったのか、ベッドの中で有紀寧はひたすらそれを考えていた。深い意味はないと智代は言っていたが、やけに有紀寧の心にのしかかってきて智代の言葉が離れない。
「はふぅ」
 あくびをかみ殺して、いつも中から見ていた資料室を外から眺めてみる。静まり返った教室は、寂しげな表情で誰かを待っているように見えた。
「今日もお仕事だって言ってましたしね」
 その寂しさが乗り移ってきたかのようで、気を紛らわそうと、有紀寧は視線を空に向ける。しばらく青一色の景色に心を浸していたが、もう一度資料室に目を向けると大きく頭を下げた。
「ありがとうございました」
 そしてきびすを返す。風が吹いて木々が揺れ、まるで有紀寧にさようならと手を振っているように思えた。
 こみ上げてくる想いが、涙とともに溢れてくる。毎日通り抜けた門が見えてきて、さらに目の前の景色がぼやけて、有紀寧は顔を覆った。
 この門をぐぐったら、新しい自分になる。その時を見て欲しい人がいる。
「わたしって、泣き虫だったんですね」
 だけど今その人はいない。新たな涙がはらはらと零れ落ちた。朋也の姿が見えないことにこんなにも悲しくなるなんて。会いたい、と無性に思う。
「よお」
「はい、朋也さんに会いたいです……って朋也さんっ?」
 有紀寧はあっけにとられたような表情を浮かべると、すぐに目をごしごしと拭った。
「どうしたんですか、その姿は」
 初めて見る朋也のスーツ姿。ネクタイは曲がり、明らかにスーツに着られている格好。
「くそ、有紀寧を驚かせようと思ってせっかく休みを取ったのに、急に仕事が入っちまった。智代にもさっき会ってきたぞ。あいつ、俺の姿を見るなり笑いやがった」
「坂上さんは何か言ってませんでした?」
 昨日の言葉が思い出される。
「ん? ああ、卒業おめでとうって言ったらよ、朋也はもっとしっかりしろって言われたぜ。いったいなんなのか分からん」
 朋也の表情からはなにがあったのか窺い知れない。表情から読み取ろうと有紀寧は必死に目を凝らした。
「そういや、あいつ外国に留学するんだってな。さすが成績トップなことはあるぜ」
「え?」
 思いがけない言葉に有紀寧がきょとんとする。その反応に今度は朋也が怪訝そうな表情を浮かべた。
「あれ、知らなかったのか?」
「受験に入ってからはほとんど会わなくなりましたから……」
 確かに町を出るとは言ったが、まさか外国に行くなんて思いもよらなかった。それならどうしてあんなことを言ったのだろうか。その瞬間、有紀寧にふとひらめくものがあった。
「もしかして、嘘をついたという言葉自体が嘘なのでしょうか。だとすると、やはり坂上さんは本気だということに……」
 でも外国に行くのならば会う機会もなかなかないはず、有紀寧は朋也の顔を見上げた。
「他に何か言ってませんでした?」
「ん、いや特にはなかったが」
「そうですか」
 朋也にしっかりしろと言っていたけど、しっかりとしないといけないのは自分ではないか、そう最後に忠告してくれたのだろうか。
「ひょっとしてわたしを後押ししてくれているのでしょうか」
 本人の言葉がない以上、真意を聞くことはできない。けれど有紀寧は自分なりに智代の言葉を受け取ることにした。
「卒業おめでとうな……有紀寧。そして、改めて言っておきたいことがある」
「な、なんですか」
 昨日の智代のような真剣なまなざし。なにを言われるのかまったく想像つかない。もしかして別れを告げられるなんてこともあるのかもしれない。
「えーとだな」
 でも、そうだとしてもがんばることができるから。
「はい」
「そのな」
 だから今は朋也の言葉を聞きたい。
「はい」
「あー、くそっ、俺はそういう柄じゃないんだよ、でも言うからなっ」
「はい」
「俺は、お前が好きだ」
「はい……はい?」
「だから明日からも、これからもよろしくな」
 そして朋也が一歩前に出る。空気が押されて朋也の言葉が有紀寧の身体にじんわりと浸透していく。
「わたしもっ、わたしも朋也さんのこと大好きですから」
 ありったけの気持ちをこめて伝えると、有紀寧も足を前に踏み出した。そして見つめ合う。どちらともなく顔を近づけていく。
 そして、ふたりはキスをした。
 初めての時は朋也の不意打ちだったけれど、しっかりと唇と唇を重ね合わせて、この瞬間にふたりの気持ちがひとつになっていた。


 むさ苦しい男が持つには一種異様な花束。その自覚があるだけに一様に苦笑いを浮かべている。
「俺たちもいるんだがな」
「けっ、見せ付けてくれやがって」
「まあ、しょうがねえか」
「今日は自棄酒だな」
「付き合ってやるぜ」
「けっ、ヤローと飲んでも酒がまずくなるだけだぜ。まあいいや、その代わりてめえのおごりな」
「ざけんな」
「姉ちゃん、すごく幸せそうな顔をしてる」
「あん、なんだこのガキは?」
「ガキじゃないやい、ちゃんと勇って名前があるんだ」
「あーあー、そういや、いたっけなぁ。元気だったか?」
「まあね」
「つーか、いいかげんこの花束早く渡したいんだがな」
「風子参上。確かに花束もいいと思いますけど、お祝いする時にはやはりこのヒトデが最高だと思います。なんと言ってもヒトデは……」

「「「…………誰????」」」


 有紀寧が彼らに気づくまでには、もうしばらくかかりそうだった。


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