冬は、終わりを告げた。
暖かな日差しに見守られ、私は退院した。
長い間、時を過ごした病院。
長い間、眺め続けた景色に見送られ、私は戻るべき場所へと戻って来た。
姉、友達、えっと……その、こっ恋人がいる、この街へ。
皆、笑っている。
私も、笑っている。
だから嬉しい、戻って来れたことが。
そして、そんな日々が一年も続いていった。
だが、当然の如く辛いこともある。

「…美坂、もう少し頑張ろうな」

そう言って、担任の先生が渡したもの。
小テストの答案。
恐る恐る、その答案を覗く。
でも、まともに見ることは出来ない。
息を整える。
コメントからも判る、良くは無い。
だから、余計に怖いのだ。
意を決する。

(……お願いっ)

美坂 栞 23点

順位 32/41

因みに、私は留年している。
だから別に、他の子と差を付けられている訳では無い。
助けを請うように窓を見上げると、雪が降っていた。
もうすぐ、一年が経つ。
あの、迎えたく無かった日から。
あの人と、向かえた日が。

「あー…30点未満の奴は、明日追試だー」

−……えぅ。








"すりーくぉーたーと呼ばないで"









「…栞、また留年する気?」

「はぅっ…」

栞の誕生日前日。
俺達は、百花屋へ来ていた。
俺達、というのは受験生四人組と栞のことだ。
晴れて復学…というか、留年した栞は元気に学校へ通っていた。
だが香里談、大いなる問題があるらしい。
それこそ、学生の本分『学業』なのだ。
別に、小テストくらいどうでも良い気がするけどな。

「美坂、そこまで怒らなくても良いんじゃないか?オレだって赤点くらい……」

「北川くん、貴方と栞を一緒にしないでッ」

ぎろっ

もし、効果音を当てるとしたらその音が適していると思う。
因みに睨み付けられた北川は、メデューサに魅入られたように石化している。
良かったじゃないか、香里の新たな一面が見れて。
ニクイぜ、このぉ。
恐怖は感じるけど。
でも別に俺に向けられた訳でも無いし、香里を怒らせなきゃ良い訳だ。
静かにコーヒーを口に運び、自分の思ったことを口にした。

「まぁ・・・三角比でこの点数じゃ、先が思いやられるな」

ぐるんっ

「でしょッ!?相沢くんもそう思うでしょッ!?」

ぶはぁっ

あまりにも凄い剣幕に圧倒され、口に含んでいたコーヒーを噴出してしまう。
怖い、怖過ぎる。
まるで何かが乗り移ったような、そんな勢いだ。
というか、首が凄い勢いで回転したぞ?
俺の心臓は時を刻むより早く鼓動し、身体全体で恐怖を表す。
栞…何故、俺達もこの場に呼んだのだ。
俺はそれこそが、最大の不幸だとしか思えなかった。
が、もうひとつの不幸を忘れていた。

「わっ…悪い、北川」

噴出す勢いが強過ぎて、正面に座っている北川にクリーンヒットしていたことに。
哀れ北川。
俺にコーヒーを噴出されても、石化が治ることは無かった。

「栞ちゃん…数学苦手なの?」

名雪が、なるべく香里を刺激しない程度の訊き方をする。
流石親友、といった感じだ。

「中学校の頃は、そんなこと無かったんですけど…」

栞が両の人差し指を合わせ、ボソッと言う。
いわゆるイジケだな、それは。
気にしてない訳では無い、そういった様子だ。

「栞、得意教科は何だ?」

とりあえず、流れを変えるしか無い。
数学は悪くても、補う教科があれば何とかなるだろう。
俺も英語は苦手だけど、他の教科はそこそこ良いしな。

「えっと、家庭科と情報と…」

一本一本指を折りながら、一つ一つ思い出すように口にしていく。
何だ、結構あるじゃないか。
そう口にしたい、切実に。
だが、俺には突っ込まずにはいられなかった。

「…以上です」

「って、全部実技科目じゃないかっ!」

栞は確かに得意科目はあった。
だが、その中に主要五科目を含む、いわゆるペーパーテスト関連の教科が皆無だったのだ。

「はぅっ…だって、判らないんですよぅ…」

「ったく、これなら香里じゃなくても怒りたくもな…」

そこで、俺は言葉を止めた。
視線を左にずらすと、そこには修羅が座っていた。
ウェーブのかかった、ロングヘアーの。
緊張が走る。

「高一の問題でしょっ!?中学校の問題が出来れば出来るでしょうがっ!そもそも栞は…!!」

以下略。
これよりダムが壊れたように、香里の説教は始まった。
それはもう、店内に響くように。
幸い他に客がいなく、奇異の目で見られることは無かったが。
仕方無しに、俺は隣に座っていた名雪に話しかける。

(なあ、香里って昔からこうだったのか…?)

(うーん…違ったけど、栞ちゃんが相手だからかなぁ?)

優秀な姉、落ちこぼれな妹。
昔から良くある構図だな…普通、優秀な姉をコンプレックスに持つものだけど。
反対、っていうのは在り得るのか。
当の栞はちらちらと俺に助けを求めるが、その度に香里に怒鳴られている。
すまん、栞。
その香里からは助けることは出来ないよ。
まぁ、打開策が無い訳じゃないが。
北川に噴出してしまい、中身が半分ほどしか残っていないカップを手に取る。

「…特訓、だな」

「「…え?」」

きょとん、としている栞と名雪を尻目に、俺はもう一度コーヒーを口にする。
いつもと同じブラックだったが、いつもより苦く感じた。



「で、特訓の内容だが…」

その後俺達は百花屋を後にし、我が居候先水瀬家へとやって来ていた。
しかも、何故か食卓を囲んで。
普通に考えて、この状況はありえない。
というか、俺も始めは望んではいなかった。
しかし秋子さんは、

『あらあら、何が良いかしら?』

と、冷蔵庫を覗く始末だ。

『いや、今日は食事が目的じゃないですから…』

そう言うと、『寒いですし、鍋をと思ったのですが…』と残念そうにしていた。
実に策士な人だ。
そんな態度を取られたら、苦笑いするしか無いだろう。
つまり、秋子さんに押され切った形になる訳で。

「お姉ちゃん、お醤油取って下さい」

「もう、塩分は控えなさいって言ってるでしょ?」

「いやぁ、これだけ美味しいと食が進みますよー」

「あらあら、北川さんはおかわりかしら?」

「祐一、これ美味しいよ?」

当然、こうなっている訳で。
美坂小隊+αは壊滅状態でして。

「…特訓はどうなったんだ」

はぁー…と溜息ひとつ。
何をやっているんだ、俺達は。
何でこんなに、家族団欒が好きなんだよ。
箸&茶碗装備じゃ、人のこと言えないが。
もう一度溜息をつく。
仕方が無い、今は腹ごしらえをするしか無かった。
味噌汁を啜る。

「…秋子さん、味噌変わりましたね」

すっかり溶け込んでるな、水瀬家に。
改めて、染み染みと実感した。



「で、特訓の内容だが…基礎を固めていくしか無いと思う」

食事も一通り終わり、もう一度そう切り出す。
しかしそんなムードも消え去り、名雪は寝てるし北川は帰ったし美坂兄弟は仲良くドラマ見てるし。
もう、勝手に話を進めるしか無い。

「でも相沢くん、基礎ならあたしが毎日教えてるわよ」

そう言って、香里がこちらを向く。
百花屋での剣幕と威圧感は無く、既にほのぼのアットホーム体制だ。
助かった。
いや、話的には困るんだけど。

「んー…もう少し基礎から……」

と、そこで言葉を止める。
ソファーの後ろ、俺から見ると香里の後ろから栞が顔を覗かせている。
そして、その上に掲げるもの。
スケッチブック。
しおりん専用スケッチブックには芸術的絵画は描いて無く、黒のサインペンでこう書かれていた。

『お姉ちゃん、教え下手なんです』

成る程、判らなくも無い。
以前突然のテスト前に教えを請ったが、あまりにも単刀直入過ぎて判り難い面もあった。
それはつまり、『自分はこう理解しているから相手もこれで判るだろう』という、判る者なりの教え方なのだろう。
だが、理解していない者にとっては判り難過ぎる。
それがいわゆる、『教え下手』ということだ。

「何よ、途中で切らないで」

幸い、香里は栞に気が付いていない。

「あー…なんだ、基礎というか『一』からビッシリと教えれば大丈夫だろ」

そう、栞にはそれが必要なのだ。
基礎だって、今まで机に向かって来ていない栞には難しいだろう。
それなら面白可笑しく判り易く、『一』から教えてやるしか無いのだ。

「栞、次の小テストはいつだ?」

その言葉にハッとし、掲げていたスケッチブックを放る。
床で寝ていた名雪にヒットした気もするが、まぁ大丈夫だろ。

「ええっと…明日、数学の追試があります」

お前の誕生日じゃん。
酷いな、追試。
『追』という漢字が、何となく嫌な響きだ。
北川が補習に次いで、得意な教科だな。
というか、常連。

「はぁ…追試って、アンタ」

香里が大きく溜息をつく。
追試は誰でも通る道さ、香里。
頭の良い者にはそれが判らんのです。

「さて、ここで数学が得意な北川くんを御用意したいのですが…」

既に時遅し。
こういう時にしか使えないアンテナは、既に帰路に着いているのだ。
引っこ抜くしか無いな、あのアンテナ。

「それじゃ、あたしは御暇させてもらうわ」

そう言うと、香里はリビングを後にする。
香里の後を追うように、栞もソファーから立ち上がる。
が。

「? 何やってるのよ、栞」

「え?」

リビングのドアに手を掛けた香里が、振り返りそう言った。
呆気に取られたのか、栞は凄く疑問そうだ。
というか、俺もだけど。

「今日は相沢くんから、『一』から数学を習いなさい」

「…はい?」

次に呆気に取られたのは、俺だった。
俺、そこまで数学は得意じゃないんですけど。
そんな俺達にも構うことなく、香里はドアを開け放つ。

「お姉ちゃん私、誕生日……」

「明日でしょ、今日は良いじゃない」

何という、破天荒ぶりだ。
過保護なのか放任主義なのか、全く理解出来ないぞ。
かおりんの七不思議に、新たなページが開かれた気分だ。

「それにどーせ、あたしは教え下手だしね」

半分ほど閉まったドアから顔を覗かせ、舌をベーっと出した。
栞はぽかーんと、俺はぼーぜんとしていた。
というか、見ていたんですか。
気付いた時には香里の姿は無く、リビングにはぽかーんぼーぜんだおーな三人が残された。
香里の新たな一面を見た、そんな一瞬だった。

「教え下手、だおー……」

真犯人は、すぐそばにいるかも知れない。



「さて…と」

俺は自分の部屋を一通り整理すると、机の上に勉強道具を並べた。
科目は数学。
問題は多少改変されるらしく、正に『一』からの指導となる。
一年の頃、俺も聴いて無かったしなぁ・・・。
相変わらず、今こうして受験生になれたことが不思議で仕方が無い。
三学期の出席状況も『可』だったし。
まぁ、奇跡に感謝しよう。
と、そこでドアがノックされる。
小さな、小さな音で。

「祐一さん…もう大丈夫ですか?」

その声は、紛れも無く栞だった。
何だか、不思議な気分だ。
今まで騒がしかった分、余計かも知れない。

「ああ、もう大丈夫だ」

そう言うと、ひょこっと顔から覗かせる。
が、それ以上動こうとしない。
というか、その角度は不信過ぎる。

「…どうした、早く入れよ」

「少し、恥ずかしいです…」

何を今更、と思った。
だが、やはり互いに判るのだろう。
今までとは、根本に違う。
まず時間。
初めて来た時は昼間だったし、それに秋子さんだって起きていた。
次に状況。
実は栞は今まで、風呂に入っていたのだ。
つまり、栞は今までよりも無防備な状態で俺の部屋へ踏み入ることになる。
それはフルメタルの理性があっても、男としては厳しいところがあるぞ。
別に栞は、そのことに関して警戒している訳では無さそうだが。

「名雪さんのパジャマ、少し大きいです…」

ああ、成る程。
名雪は既にだおーモードだし、秋子さんが貸したんだな。
名雪は栞より、10cm近くは高い。
そう考えれば、丈は結構違うものだろう。

「俺は構わないぞ」

「私が構いますっ」

そりゃそうだ。
男の方が構うって、いくらなんでも純情過ぎだろう。
北川の野郎なんて、自分から向かっていくぞ。
その向かう先が栞なら、迷わず香里と共闘するけどな。
というか、この状況を何とかしなくちゃな。

「…俺は、栞のこと好きだぞ」

「…はぅ」

お、効いてる。

「栞は、俺のこと嫌いか…?」

「…はぅぅ」

おお、効く効く。

「そうか…そうだよな……」

俺はしょんぼりして、ベットへと向かう。
そして、そのままダイブ。
我ながら策士だ。

「はぁ……生きる希望なんて無い……」

「…えぅ」

くっ、なかなか粘るじゃないか。
こうなれば、最終手段だ。
俺は両の手で上半身を起こし、最後を締めくくる。
ゆらり、とした動きはかなりのリアリティを誇ると思う。

「…死のう」

決まった。

「はっ…早まっちゃ駄目ですっ!祐一さんっ!!」

「ぐぉっ!?」

腹部に衝撃。
完全にゆらり、スタイルだった俺は抵抗も無くベットへ押し倒される。
押し倒される、というか飛び掛られたと言った方が正しいかも知れない。
俺の腹部付近には、大量のカエルがプリントされたパジャマ。
そう、栞だ。

「なんて…こと言うんですかぁ…」

顔を上げた栞は、瞳に涙を浮かべていた。
湯上りでしっとりした髪、少し暖かい身体がいつもと違っている。
不意に、抱き締めたくなる。
でも、無理。

「死ぬなんて…言わないで下さい」

「あ、ああ…」

何故か、話が真面目路線へと突っ走っているからだ。
これはあれか、自殺しようとする恋人を止めるシーンなのか。
ドラマチックだな、このシチュエーション。
でも遠目には、『妹をあやしている兄』くらいにしか見えないだろう。
真面目な栞に、不真面目な俺。
どちらにせよ、栞のパジャマ姿は見れた。
これはこれで良いのかな、そうとも思う。
それから数刻、この状況だったのは言うまでも無い。



「で、順位は?」

「はい?」

とりあえず勉強を開始した俺達(随分と時間を食ったけど)は、それからは実に真面目にやっていた。
三角比の基礎は、一応は理解してくれたらしい。
全く、俺も得意じゃない単元だったから説明が大変だったぞ。
今は練習問題や応用を交えて、実践問題をやっているところだった。

「小テストの順位だよ、流石にビリとかじゃないんだろ?」

「…はい」

やっぱり、気にしてるんだな。
百花屋の時はああ思ったけど、そこはやっぱり学年主席の妹。
それなりの後ろめたさはあったのだろう。
ここは、精神的にも支えてやるべきかも知れない。

「あのなぁ…俺や北川、それに名雪が追試受けるのは少なく無いんだぞ?」

「へ?」

事実だが、栞はきょとんとした目でこちらを見ている。
そう、本当に純粋無垢な瞳で。

「俺だって成績こそ中堅保ってるけど、小テストでスリークォーターなのはしょっちゅうだ」

「す…すりーくぉーたー?」

いかん、北川との会話のクセだ。
あいつが変な提案するからだ、あの馬鹿。

「あー…何だ、スリークォーターってのはラグビーのポジションのひとつでだな・・・」

大まかに分けると、ラグビーには二つのポジションがある。
フォワード・バックスの二つだ。
更にバックスは細かく分けると、

ハーフバック(1/2)
スリークォーター(3/4)
セブンエース(7/8)
ファイブエース(5/8)
フルバック(1/1)

となるらしい。
で、その中で判り易い『スリークォーター』を拾い、『俺等の順位はスリークォーター(人数の3/4くらい)』と公言していた訳だ。
確かに北川の提案通り、笑われはしないが公言する必要性が無くなったのだった。
当然、香里には突っ込まれたが。

「因みに普段の北川なんて、フルバックかセブンエースだぞ?」

「あはは…凄いですね、北川さん」

自慢出来ることじゃないけどな、仮にも受験生だし。
そういう俺も、良くでもハーフバックだけど。
それで良いのか、受験生。

「でも…それなら私もスリークォーターです」

「お、そうなのか?」

パッ、と答案を見せる。
32/41位、確かにスリークォーターだ。

「でも、あまり呼ばれたくない名前ですけど」

「同感だ」

二人揃って笑う。
何だか、今日はギスギスし過ぎて笑っていなかった気がする。
この空気が、とても懐かしかった。
恋人同士だけど、その空気が懐かしかった。
時間は、もうすぐ12時を迎える。

「…もうすぐ、ですね」

「ああ……」

もう、あれから一年になるのか。
あの奇跡の出来事から、一年。
本当に、本当に遠くの日のように感じる。
迎えるのが、とても辛かったあの日。
別れを告げ、決別したあの日。
そして今、俺達はここにいる。

「……祐一さん」

「ん?」

栞は膝にかけてたストールを、ぎゅっと握っている。
364日前に、あの公園でそうしていたように。

「来年も、次の来年も……」

ちっちゃくて、一緒にいたらどう見ても妹にしか見えなくて。
でも時々、年上のように格好良い台詞を言う。
それはきっと、現実的な『生』を知っている者だからだろう。
生きていることに、感謝しているからだろう。
だから俺は、傍らにいることを望んだ。
だから俺も、一緒に歩むことを望んだ。

「……ずっと、一緒にいて下さい」

−さようなら、祐一さん−

それは、あの時の台詞と対義語で。
自分に、嘘を付いている証明で。
だから、一番奇跡を望んでいて。
一番、生きることを望んでいたのだろう。

「ああ、約束する……」

俺達は静かに、唇を重ねた。
それは俺の精一杯の答えと、『おめでとう』だから。

−誕生日おめでとう、栞−

雪は、見守るように静かに降っていた。



その後、俺達はロクに勉強なんてしなかった。
笑って、談笑して、また笑って。
そうやって、時を過ごしていた。
そして、朝がやって来たのだった。

『朝〜朝だよ〜…朝ごはん食べて学校行くよ〜…』

「ん…あ、ああー…」

んー、と身体を思い切り伸ばす。
やっぱ、秋子さんに布団敷いてもらえば良かったなぁ。
流石に一緒の布団で寝る、というのは体裁が悪いので床で寝たのだ。
ぐあっ・・・身体中が痛いぞ。
無理、すんじゃなかったなぁ〜。
ちょっぴり後悔。
しかし。

「…栞の寝顔、見れたしな」

と、そこで真横に栞の顔があることに気が付く。
ベットの高さと、俺の座高の高さが限り無く近いから成せる業だ。

「…栞、起きろ」

耳元で、優しく呟いてやる。
柄にも無く、真面目な口調で。

「んん…祐一さぁんー…?」

と、眠気眼で俺を見つめる。
相変わらず、抱き締めたくなる奴め。

「おう、祐一さんだぞ」

と、真剣な口調で返してやる。
視線と視線が、ぶつかり合う。

「………」

「………」

お、赤くなった。

「ひぁっ…ふぁあ〜っ!?」

栞は奇声を上げながら、壁際にどんっと音を立てるくらいに下がる。
何だか、俺が襲っているようなシチュエーションだぞ。

「なっ…何で私の部屋に祐一さんがいるんですかぁっ!?」

寝惚け炸裂。
うわ、祐一さん傷付くわぁ。

「昨日は、あんなに愛し合ったっていうのに…酷いな」

「きっ…キスだけですっ!誤解を招く言い方しないで下さいっ!!」

「何だ、覚えてるじゃないか」

興奮と恥ずかしさからか、顔は真っ赤。
というか、耳まで真っ赤だ。

「そんなこと言う人、嫌いですっ!!」

ぶんっ、と勢い良くそっぽを向く。
うーむ、埒が開かんな。
少々強引だが、この方法しかあるまい。

「……栞」

ぐっ、とこれでもかというくらい顔を近づける。
それでも、顔の向きは変えてくれない。
だが、俺には判る。
頬の赤みが類を変えることに。

「……キスしたい」

「まっ…まだ朝ですよ……」

ぼそっ、と耳元で。
益々栞の頬は赤みを帯び、林檎病患者の域まで達する。
ちょっと幼さと相まって、少し鼓動が高鳴る。

「栞……」

「祐一さん……」

二つの影が、重なる。
その直前。

がちゃっ

「栞ー、迎えに来…た?」

終わった。
俺の短き人生は今、完全なる終幕へと向かっている。
これで、終わりなのか。
自問自答したって、辿り着く場所は同じだった。
終わりだ、と。
神よ、貴公の意思に従います。
最後には、どうか…

−幸せな記憶を−

「祐一さっ……」

「いっぺん死になさぁいっ!!」

どぐしゃっ

俺の最後の記憶は、迫り来るこぶしと己の断末魔だった。

「……うにゅ」

この騒動で、眠り姫が起きたとか起きなかったとか。



「ぐあっ・・・まだ痛いぞ」

放課後。
追試という栞を待つ為に、俺は校門に凭れ掛かっていた。
寒い。
それはもう、大寒が過ぎたとは思えないくらい。

「……大寒は、地域毎に変えるべきだな」

それじゃ、意味無いだろ。
ツッコミがいない俺は、一人で突っ込む。
風が吹いた。

「…虚しい」

早く来てくれ、まいすいーとはにー。

「なっ・・・何てこと言うんですか」

「はい?」

また声に出していたか、ということよりこっちに驚く。
既にいたのだ、栞が。

「……いつからいたんだ、スリークォーター」

「えっと、大寒くらいからです」

それは、10日以上待っているんじゃないか?
口にしようとし、止めておく。
『揚げ足取る人なんて、嫌いです』とか言われそうだし。

「それに、スリークォーターじゃないです」

「……何」

それは、勉強した効果があったという意味だろうか。
それとも、セブンエースだったりするのだろうか。
フルバックだったら、嫌だ。
俺は、自分のことのように鼓動が高鳴る。

「追試内ではフォワードです」

良かった。
教えた甲斐があったってものだ。
後、殴られた甲斐。

「スリークォーターさん、何処へ行きますか?」

何。

「栞……今何て?」

「何処行きますか?」

そうだな、映画にでも……じゃない。

「その前だ」

「スリークォーターさん」

前言撤回。
生意気に育ちやがった、我が弟子は。
北川相手だったら、今頃アンテナが無いぞ。
アイツ以外にアンテナは無いけど。

「ぐっ・・・誰が教えてやったんだ、誰が」

「スリークォーターさんです♪」

「ぐあっ……すりーくぉーたーって呼ぶなァーッ!!」

そして、俺達は走り出した。
何処へ向かっているかだって判らない。
ただ、走っているだけなんだ。
未来へ。
遥かなる、遥かなる高みへ。
不恰好な二人だけど。
いつかは、道が違っても同じ高みへ。
きっと辿り着ける。
今度は立ち止まること無く、最後まで。
俺も栞も、一人じゃないから。
二人で、満面の笑みを浮かべながら。

−誕生日、本当におめでとう−

心から、俺はそう言った。


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