ブランコと私と



「ふう……」

 公園の舞い散る桜の花びらを虚ろな瞳で見つめながら、私……美坂栞は大きな溜息をつく。
 その拍子に腰掛けていたブランコがギシギシと不快な音を立てた。
 私が子供の頃に何度も遊んだこのブランコは、その頃からオンボロで今も変わらずオンボロだ。
 今すぐにも壊れそうなのに、これからも絶対壊れないような気がする。
 でも壊れないブランコなんてあるはずもなくて、それは私の希望にすぎない。
 自分が子供の頃から慣れ親しんだこのブランコは、この公園にずっと変わらないまま存在し続けて欲しいという希望。
 そうすればずっと私も変わらないまま、このブランコで遊んでいられる気がしていたから。
 しかし、ブランコは変わらないまま存在していても、私は随分と変わってしまった。
 体だってあの頃から比べれば随分と成長した。
 でも一番変わってしまったのは気持ちだと思う。
 子供の頃にこのブランコで遊ぶときはいつだって楽しかった。
 私は運動神経も良くないし怖がりだったから、立って漕ぐことはできなくてお姉ちゃんにいつも笑われていたけど。
 それでもいつも楽しい気持ちでこのブランコに腰掛けていたものだ。
 でも今は違う。
 今日高校二年生になったばかりの美坂栞は、沈んだ気持ちでこのブランコに腰掛けている。

「えいっ」

 掛け声をあげて地面を蹴飛ばすと、子供の頃より大きくブランコは揺れる。
 もう一回蹴飛ばすともっと大きく揺れた。
 座ったままとはいえ、子供の頃に比べれば大進歩だ。
 昔はすぐ勢いがなくなって止まってしまったのに、今はずっと漕ぎ続けていられた。
 しばらく童心に帰ってブランコで遊んでいたが、ふと寂しい気持ちになってやめてしまう。
 今は昔よりずっと上手にブランコを乗りこなせるようになったのに、今の自分はものすごく情けない存在になってしまったのを思い出したから。



 私の学校では毎年クラス変えがある。
 今日は新学年最初の登校日だったから、当然私のクラスもクラスメートも新しく変わった。
 そして私は孤立してしまった。
 高校に入学してすぐ重い病気を患ってしまった私は、最初の一年をほとんど病院で過ごしたため、いきなり留年した。
 そのために私は高校三年間を一つ年下の人たちと過ごしていかなくてはならなくなったのだ。
 これがどれだけ人間関係の形成を難しくしてしまうかは説明するまでもないだろう。

 でも去年のクラスはまだよかった。 
 中学時代に仲の良かった後輩達が何人かいて、年齢の事なんかまったく気にしないで、すぐに後輩から友達になってくれた。
 そして何より、お姉ちゃんと恋人である祐一さんが同じ学校に最上級生としていてくれた。
 二人は留年してしまった私を気にかけてくれ、よく様子を見に来てくれたりお昼ご飯に誘ってくれたりした。
 私に悩み事があれば相談に乗ってくれたし、悲しいことがあればいっぱい励ましてくれた。
 だから去年は留年してしまった事なんてたいして気にならなかった。
 そんな事で落ち込んでいたら、お姉ちゃんや祐一さんに申し訳ないと思っていた。
 だから二人が卒業してしまっても、きっと大丈夫。
 私は学年やクラスが変わっても頑張っていける……そう思っていた。

 でも現実は甘くなかった。 
 今日私は新しいクラスにはまったく溶け込めなかった。
 去年のクラスで仲の良かった友人はみんな違うクラスになってしまったし、運の悪いことに中学時代の後輩も一人もいなかった。
 顔見知りは、去年同じクラスであってもとくに交流のなかった数人だけ。
 その事実を目の当たりにして私は恐怖した。
 もしこのクラスで新しい友人ができなかったら、私はどんなに寂しい一年間を過ごしていかなければならないのか。
 もうこの学校にはお姉ちゃんも祐一さんもいない。
 寂しくなっても会いに来てくれない。
 何でも自分自身の力で解決していかなければならないのだ。
 そう考えるとものすごく怖くなって、新しいクラスメート達に声をかけることもできず、何人かは向こうから話かけてくれる人もいたのに、嫌われるのが怖くてまともに返事を返す事もできなかった。
 今日だけでも女子の間では、自分の関係ないところでいくつもグループができてしまったというのに。
 ただでさえ留年というマイナスイメージがあるのに、このままでは本当に一人ぼっちになってしまうかもしれない。

 そんな不安を抱えたまま帰宅する事になった私は、家に帰る気にもならずこうして近所の公園で一人落ち込んでいるのだ。
 お姉ちゃんや祐一さんに相談する事もできるのだろうし、すれば楽になれるとは思う。
 しかし、先月高校を卒業した二人は無事受験戦争を乗り切り、今日から大学生として新しい環境に身を置く事になっている。
 二人だってそれぞれ違う大学に進学して知り合いなど一人もいないらしいから、同じ学校でただ学年がひとつ上がっただけの自分がそんな相談をするなんて情けないし、何より新しいスタートを切ったばかりの二人の負担にはなりたくなかった。
 やはりこれは自分自身で解決すべき問題なのだ。
 最悪どうしようもなくなったら、友達ができなくても一人で頑張っていけばいいのだ。
 わかってはいたが、それはあまりに寂しい考え方であった……だから、私はブランコに腰掛けて憂鬱になっている。
 
「ふう……」

 また大きな溜息をついてしまう。 
 誰にも見られていないつもりだったのに、不意に声をかけられたのはその直後だった。

「あれ……おまえ、ひょっとして栞か?」

 突然名前を呼ばれて、長い間地面に落としていた視線を上げてみる。
 そこに立っていたのは男の人、そして良く知る懐かしい顔だった。
 
「……陽平お兄ちゃん?」
「やっぱり栞かよ! 久しぶりだよな」

 目の前に現れたのは背広姿の両手いっぱいに大きなコンビニの袋を抱えた、幼馴染の陽平お兄ちゃんだった。
 まったく予測していなかった人物との再会に私は思わず思考停止してしまう。
 そんな私に気が付いているのかいないのか、陽平お兄ちゃんは嬉しそうにこちらに駆け寄ってきて、ドスンとコンビニの袋を足元に放り投げる。

「おまえ元気にしてたのかよ!」

 そして空いた手で強引に私の頭をナデナデする。
 それは、とても年頃の女の子に対する行動ではない、まるで親戚の子供に久しぶりに会ったオジサンの行動みたいだ。
 うわぁ……陽平お兄ちゃんにナデナデされるのは何年ぶりだろう。
 ちっちゃい頃はよくしてもらったな……
 あまりの懐かしさにしばらくされるがままになっていた私だったが、ふと冷静になる。
 
「や、やめてください! 私はもう子供じゃないんですから」
「へ?」

 ブランコに腰掛けたまま強引に手を払いのけると、陽平お兄ちゃんは一瞬ものすごくびっくりしたような顔をした。
 私の頭に怒らせてしまったかなという心配が浮かんだが、陽平お兄ちゃんはすぐに満面の笑みを浮かべる。
 ……そして、なぜか大爆笑した。

「なにマセた事を言ってるんだよ栞! 中学生になったからって大人の仲間入りしたつもりかよ!」
「なっ……私はもうとっくの昔に高校生ですよ!」
「え、マジで?」

 ポカンと口を開け心底驚いた表情を浮かべる陽平お兄ちゃん。
 こ、この人は全然変わってない……
 私の中に嬉しいような悲しいような複雑な感情が湧き上がる。

「そんなこと言う人キライです」
「その口癖も久々だ」

 拗ねてそっぽを向く私に気を使うわけでもなく、あくまで陽平お兄ちゃんはマイペースである。
 この軽いノリの人の名は春原陽平さん。
 私の家のお向かいに住んでる春原さん家の長男さんだ。
 ちなみにお姉ちゃんの小学校中学校の同級生でもある。
 もちろん本当の兄ではなく、私達姉妹にとっては幼馴染というやつだ。
 なんで”お兄ちゃん”などと呼んでいるかといえば、小さい頃からこの人の妹である芽衣ちゃんと仲の良かった私は、自然と彼女の呼び方がうつってしまいこうなった。
 まあ、お姉ちゃんの話では幼稚園に入るまで私は、陽平お兄ちゃんを本当の兄だと思っていたらしいが……
 それはともかく、三年前陽平お兄ちゃんが中学卒業と同時に、サッカーの推薦で遠くの高校に行ってからは全然会ってなかった。
 昔と変わらない童顔で微笑む陽平お兄ちゃんを見て、私は落ち込んでいたのも忘れつい話しこんでしまう。

「こっちに帰ってきたということは、高校は無事に三年で卒業できたんですね」
「おまえは僕を馬鹿だと思ってるな……卒業なんてお茶漬けサラサラだったさ」
「言葉の意味はわかりませんが、それは本当によかったです」

 私が頷くと陽平お兄ちゃんはエヘンと胸を張った。
 しかし、私は見逃さなかった。その額から流れる一筋の冷や汗を。
 ……絶対卒業ギリギリだったんだ。
 お茶の子さいさいじゃなくて、お茶漬けサラサラだったらしいし。
 
「高校を奇跡的に卒業して、今は何をしてるんですか? なんだかコンビニの袋いっぱい持ってますけど」
「奇跡的とか言うなよ……僕は会社勤めしてる。新社会人ってやつだな」
「社会人! 陽平お兄ちゃんがですか?」
「なんでそんなに驚くんだよ! まあ、入社して数日の下っ端だからこうやって買い出しとかやらされてるんだけどな」
 
 背広姿で肩をすくめるその姿は、確かにちょっとだけ大人びて見えた。
 昔からとにかくプライドの高いこの人が使い走りなどをしているんだから、きっと真面目に働いてるんだろう。
 そんな陽平お兄ちゃんの姿をみて時の流れを感じ、やはりみんな新しい道を歩み始めているのを実感する。
 そして、同時に人と同じ速度で進むことのできていない自分の高校生活を思い出し切なく思う。
 たかがクラスメートとも協調できない私でもいつかちゃんと社会人になれるのだろうか。
 いつか陽平お兄ちゃんに胸を張って報告できるだろうか。
 そんな心配までしてしまう。
 急に黙り込んでしまった私を見て、陽平お兄ちゃんは不思議そうに首をかしげた。

「つまりは、栞は高校生なんだよな。制服姿のままこんなところで何やってるんだよ」
「私は……」

 腰掛けたままのブランコの鎖をぎゅっと握り締め、思わず口ごもってしまう。
 立派に社会人を始めている陽平お兄ちゃんに、今の自分を語るのはなんだか情けなく思えたからだ。
 
「あ……僕はわかったぞ」

 突然の陽平お兄ちゃんのつぶやきに私はビクリと体を振るわせる。
 まさか見透かされているのかと、恐怖してしまったのだ。
 いきなり”うんうん”と頷きだした陽平お兄ちゃんは、足元のコンビニの袋に手を突っ込んでゴソゴソやり始めた。

「先輩に内緒で買っといてよかったよ。ほら、これ必要だろ」
「は?」

 私が手渡されたのは一本の缶ビールだった。

「本当はワンカップが一番いいんだが……さあ、もっと寂しそうな雰囲気を出しながらそれを飲むんだ」
「はあ?」

 意味が全く理解できない私を見て、陽平お兄ちゃんがまた首をかしげた。

「真昼間から公園のブランコに腰掛けてるからにはアレやってるんだろ?」
「さっきから何を言ってるんですか?」
「だから”リストラされたけど、家族に言い出せず会社に行ったふりして公園で時間を潰すオッサンごっこ”やってるんじゃないの?」
「やってません!」

 力一杯ツッコミを入れて、缶ビールを投げつけてやる。
 顔面に缶ビールの直撃を受けた陽平お兄ちゃんは”グハッ”っと叫び声をあげると顔面を押さえながら片膝をつく。

「何をするんだよ! 普通そうだと思うだろ!」
「そんなマニアックな遊びするわけないです! しかも私は未成年なんですからお酒なんて勧めないでください!」
「おかしいな……僕は子供の頃香里とよくやったけどな、哀愁を出す必須アイテムであるワンカップ片手に」
「ワンカップ片手にですか!」

 お姉ちゃんがそんな陰湿な遊びで子供時代を過ごしていたとは……ちょっとショックです。
 私が頭を抱えながら、知りたくもなかった姉の過去を記憶から消去しようとしていると……
 いつのまにか、私のとなりのブランコに腰掛けていた陽平お兄ちゃんが話しかけてきた。

「まあ、冗談はさておき」
「勝手に置いておかないでください」

 一体どこまでが冗談っだたのだろうか?
 そのあたりをはっきりさせてくれないと、今夜眠れそうにない。
 ちなみに缶ビール顔面直撃のダメージはもうないようである。
 そういえば、昔からお姉ちゃんと喧嘩してはボコボコにやられても、次の日はケロリとしていた。
 お姉ちゃんはよく”単細胞生物だから回復がはやい”とかすごいことを言っていたが。
 我ながらちょっと冷たい視線で見つめていると、陽平お兄ちゃんが不意に真面目な表情を浮かべてこう言った。

「まあ、悩み事があるなら僕に相談しろよ」
「え?」
「こんなところで一人落ち込んでるんだから、香里には相談できないことなんだろ?」

 まさか本当に見透かされていたとは。
 私は失礼ながら、心の底から驚いていた。
 当然だと思う。私の知っている陽平お兄ちゃんというのは、勉強が苦手でドジで鈍感でセンスもデリカシーもなくてエッチで見栄っ張りで二枚目気取りの三枚目でおまけに運もなくて……言い過ぎか、とにかくとりえといえばサッカーと妹思いなところだけの人だった。
 
「遠慮はいらないぞ。僕は栞にとっても”お兄ちゃん”なんだからな」

 そんな陽平お兄ちゃんからこんなやさしい言葉をかけてもらえるなんて。
 自分も妹の一人と言ってくれたことに、ちょっとだけ感動しながら思う。
 陽平お兄ちゃんも私の知らない高校生活の間でいっぱい成長して、素敵な男の人になったんだなと。
 だから思ったのかも知れない。
 この人なら私の悩み事を相談してもいいかもしれないと。
 情けなくてお姉ちゃんにも恋人でもある祐一さんにもする気になれなかった話を、私はゆっくり話し始めた。
 病気を患って留年した事、そのせいで自分に負い目がある事、新しいクラスに馴染めそうにない事。
 そして、もし友達ができなくても一人で頑張っていこうと思っている事を。
 意外にも陽平お兄ちゃんは、茶化すこともなくじっと真剣な表情で私の話を聞いてくれた。

 だから私も一生懸命今の自分の思いや不安を伝えた。

 我の強い性格のこの人は私になんていうかは、なんとなく想像できた。
 別に友達なんていらない。一人でも負けずに立派にやっていけって言うと思った。
 それならそれでよかった。自分がそうなってしまう覚悟はある程度できていたから。
 でも、陽平お兄ちゃんからの返答はまったく違うモノであった。

「大変かもしれないけど……やっぱり、頑張って友達は作らないといけないよな」

 笑顔でそう語る陽平お兄ちゃんを、私は思わず凝視してしまう。
 そんな私の考えていることがわかったのか、陽平お兄ちゃんは苦笑する。

「僕がこんな事いうなんて意外だった?」
「はい。友達なんていなくても一人で頑張れるってお説教されると思ってました」
「はははっ。まあ、昔の僕ならそう言っただろうね」

 苦笑いを浮かべたまま話を続ける。
 その瞳はどこか遠くを見つめているように見えた。

「栞とは理由がちょっと違うけど、僕も高校では最初孤立しちまってたんだ」
「……どうしてですか?」
「僕、とんでもない学校に入っちまったと思ってた。ガリ勉野郎ばっかりでよ……ぜったい、友達なんかつくらねえって思っていた……」
「……」
「僕がサッカーの推薦で高校に入ったのは知ってるよな? そんなこんなで荒れていた僕は、くだらない理由で他校の生徒と大喧嘩して、そのサッカー部をやめる事になっちまったんだ」

 正直何も知らなかった私はまったく言葉を返せなかった。
 私が知っているのはちょっとお馬鹿だけど、気さくで明るい性格の陽平お兄ちゃん。
 中学生の時は友達だっていっぱいいたはずだ。
 そんな人が、学校で一人ぼっちになろうとしていたとは。
 そして何より驚いたのはサッカーのことだ。
 気性が荒い性格だったのは十分知っていたが、私の知る陽平お兄ちゃんはサッカーがとにかく大好きで、誰よりも上手で……ボールを追いかけている時が一番輝いているような人だった。
 そんな人がサッカー部をやめる事になってしまうなんて想像すらできなかった。 

「でも実を言うと、喧嘩したからサッカー部をやめることになったんじゃない」
「え?」
「サッカー部を……いや、自分とは合わない高校自体から逃げ出したくて喧嘩したんだ。学校を退学して地元に帰りたくなちゃってさ」
「何を馬鹿なことを……」
「いや、本当に馬鹿だよな。今ならそれがわかるよ……僕はあいつに出会ったから」
「あいつって誰ですか?」

 私が訪ねると、陽平お兄ちゃんは困った顔を浮かべる。
 いや、照れ笑いというべきだろうか。
 それでも恥ずかしそうに話を続けてくれた。

「高校時代の連れ……まあ、親友ってやつさ」
「親友ですか」
「ああ、すげー馬鹿な奴さ。はっきり言って僕より馬鹿なんだぜ、いつも変なことばかり言っててさ」
「……陽平お兄ちゃんよりですか、それはギネス級ですね」
「さりげに毒吐くっすね……」

 陽平お兄ちゃんは私の頭にコツンと軽くゲンコツを食らわしてくる。
 私はごまかすために笑う。
 でも、それは軽口を誤魔化したんじゃなかった。
 私は羨ましく思った自分を悟られたくなかったのだ。
 照れながらも親友を語る、そんな陽平お兄ちゃんが羨ましくて……でもそれを悟られたくなかったから。
 だって、今の私には親友という存在はとても遠くに思えたから。 

「まあ、とにかくそいつに出会ってから僕の学生生活はまったく変わった」
「どんなふうにですか?」
「すげぇ馬鹿な時間になったかな」
「……は?」
「毎日二人で馬鹿なことばっかりやってた……とんでもない馬鹿二人がコンビ組んじまったんだからしょうがないよな」

 予想していなかった答えに首を傾げる私に、陽平お兄ちゃんはとても嬉しそうに語りかけてきた。
 それは私の見たことのない、陽平お兄ちゃんの素敵な笑顔だった。
 いま、この話をする陽平お兄ちゃんはとても誇らしげな顔をしている。
 それだけその親友と過ごした時間は価値があり、輝かしい時間だったのだろう。

「どんな事したんですか?」
「そうだな……僕がラグビー部に意識失うまでボコボコにされたり、僕が寮母さんにプロレス技かけられて死にそうになったり、僕が女番長に蹴り殺されかけたり、僕が凶暴女に分厚い辞書で撲殺されそうになったり、毎日二人で馬鹿なことばっかりやってた……って僕が死にかけた記憶しかねぇぇぇ!!!」

 頭をかきむしりながら奇声をあげる陽平お兄ちゃん。
 ちょっといい感じだったのに、こういうところで予想外の言動に走るのは実にこの人らしくて、私は苦笑した。
 なんだかトラウマでもあるのか、しばらくの間プルプルと小刻みに体を震わせていたが、私を励ます為か自分を励ます為か、なにやらブツブツと一人でつぶやき始める。
 
「頑張れ僕! 思い出せ僕! なんかひとつふたつは素敵な思い出があるはず……搾り出せ僕!」
「し、搾り出さないと駄目なんですか」
「ギューギュー」

 今まさに記憶を引き出そうと必死なんだろう。
 顔を真っ赤にして、もしこれが雑巾しぼりだったら引きちぎれそうなくらい必死に絞り出している。

「あった……よかった! 結構出てきたよ思い出が!」
「陽平お兄ちゃん、頑張りましたもんね」

 私がやさしく肩に手を置くと、陽平お兄ちゃんはかなり複雑そうな表情を浮かべた。
 そして”とにかく”と前置きしてから話を続ける。

「本当にいろんな事があった……素人の寄せ集めでバスケ部にバスケ勝負挑んで勝ったり、半分以上が女の子のチームで大人相手の草野球に勝利したり、たった二人でむかつくサッカー部連中をボコボコにしてやったり」
「す、すごい無茶ばっかりですね」
「ああ、本当にあいつがいたからできたんだ。僕一人ではきっと一つも成し遂げられなかったと思う」

 陽平お兄ちゃんが笑った。
 また、誇らしげな表情で。 
 こういうところは変わったと思う。
 昔のこの人は他人を立てることができない人だったし、他人のためにこんな素敵な笑顔を見せる人でもなかった。
 見栄っ張りの陽平お兄ちゃんが言うのだから、その親友がどれだけ大きな存在で、どれだけこの人を支えたかは想像できた。

「すげぇ馬鹿で大切な時間に変わったんだよ。あれは多分一生のうちでも一番大切な時間だったのかもしれない」
「一生のうちでですか……それはすごいですね」
「ああ、あんな馬鹿できる時間はもう一生こないかもしれない。そんな時間を一緒に過ごしてくれる友達ができて、僕の学校生活は随分と変わったんだ……僕はそいつのおかげでずっと笑っていられたから」

 私は考えてみる。 
 十数年の私の人生で考えられる一番”大切な時間”はやはり祐一さんと過ごしてきた日々だ。
 それは一生大切にできる素敵な素敵な思い出だ。
 祐一さんのおかげで随分私も笑っていられたと思う。
 でも陽平お兄ちゃんの言う”大切な時間”はまた少し違うものに思える。
 大好きな恋人と過ごす時間とは少し違う……でも、同じくらい大切に思える時間を陽平お兄ちゃんはその人と過ごしてきたのだろう。
 今の陽平お兄ちゃんの誇らしげな笑顔をみれば理解できた。
 そしてその大切な時間が、この人のこんな素敵な笑顔を作り出したんだ。
 ”僕はそいつのおかげでずっと笑っていられたから”
 陽平お兄ちゃんはそう言った。
 それはすごいことであると思う。
 一度は嫌いになった学校が好きになってしまうくらい、楽しかったなんて。
 私も恋人と同じくらい大好きな親友と大切な時間過ごせるようになるのだろうか。
 いつか今の陽平お兄ちゃんみたいに笑うことができるだろうか。

「栞……学生時代って馬鹿ができる大切な時間なんだよ。そして一緒に馬鹿やって笑いあってくれる大切な友達を作る時間でもある」
「はい」

 陽平お兄ちゃんのいう馬鹿ができる大切な時間というのは、馬鹿なことばかりやってきた時間を指すのではないと思う。
 馬鹿みたいに楽しかった時間の事だと思う。
 思い出せば、ついつい微笑んでしまうような時間。
 悲しいことがあっても、思い出せばすぐに元気になれるような時間。

「そしてさ、誰にでもそんな友達が絶対できるはずなんだと思う……もちろん栞、おまえにもな」
「はいっ」

 そんな時間は本当に信頼できる友達としか作れないものなんだろう。
 打算も計算もない本当の自分達を見せ合えなければ、きっと作れるものではないと思うから。 
 いい格好する必要もないし、気を使う必要もなくて。
 素直な自分達でいればよくて、やりたいようにやればよくって。
 たまに間違えても、笑いながら許しあえて。
 
「だから頑張って見つけようぜ。馬鹿な時間を共有してくれる、一生縁が切れないくらい大切な親友を」
「はいっ!」

 そんな本当の親友とだけ、築ける時間。
 それを陽平お兄ちゃんは過ごしてきたんだ。
 だったら、私も見つけなければいけない。
 もう少し大人になった時に、思い出して笑えるような。
 いつか陽平お兄ちゃんに、たくさん自慢できるような素敵な”馬鹿な時間”を共に過ごしてくれる親友を。


 私は立ち上がる。
 地面の上ではなく。ブランコの上にだ。
 小さい頃、勇気がなかった私はこのブランコに立って乗ることはできなかった。
 でも、今ならできると思った。
 ちょっとだけ勇気を持つことができたはずだから。
 いや、陽平お兄ちゃんに勇気を与えてもらうことができたから……きっとできるはずだ。
 私が力を入れるとブランコがゆっくり動き始める。
 最初は少し緊張したけど、思いきって動かしてみた。
 そしたら、あっという間にブランコは大きく揺れ始めた。
 子供の頃にできなかった事が、ほんの少し勇気をだせばこんなにも簡単にできた。
 こんなものは、本当にほんの少しのことだったのだ。
 
「お、栞! ブランコに立って乗れるようになったんだな」

 隣の陽平お兄ちゃんが笑った。

 あなたのおかげですよ……と言うのはちょっと照れくさくて、私は微笑みだけを返す。

 立って漕ぐブランコからの視界は自分の知っていた世界を、少しだけ広く見せてくれる。

 少し勇気を出すだけで、今までより遠くが見渡せるようになった。

 そのほんちょっと変わっただけの景色は、とてもとても素敵に見えて。

 明日は新しいクラスでも少し勇気を出してみよう……そう思わせるには十分過ぎるものだった。 






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