1月31日

 夕焼けが教室の窓側半分を赤く照らしている。カラスの声が聞こえてスズメが逃げ惑いそうな中、俺と香里は二人だけで教室に残っていた。
 俺は昨日の昼間から今日の放課後までずっと解決できない悩みを引きずり続けていた。もちろん今日の授業はまったく耳に入っていない。
 周りの生徒が学校が終わって次々と帰っていく中、とうとう俺と香里だけが残されたわけだ。その香里も帰ろうとする気配はない。
 二人そろって机にひじをついて額を抑え、時々前髪をかきむしっている。
 頭痛薬のCMにこんなのがあったような、いや、ないな。
 香里は何で頭を抱えてるんだ? あいつが受験如きで悩むはずはないし。まぁ本来俺はそっちで悩むべきなのだが。
 俺は香里に気を遣うわけではないが、何か自分の悩みを解決する糸口が欲しくて声をかけた。

「香里、何か悩みでもあるのか?」
「相沢君に言ってもしょうがないわよ。栞の誕生日プレゼントのリクエストを訊いたらドラマみたいなものが欲しいって言われて悩んでるなんて、言ってもしょうがないわ」
「わかりやすい説明をありがと」
「どういたしまして。相沢君も同じ悩み?」
「ビンゴだ」

 次の瞬間、バラバラだった二人の心は一つになった。
 俺と香里はお互い目を合わせると、がっちりと握手を交わした。

「協力しましょう香里さん」
「こちらからお願いしたいわ祐一君」

 今香里が『祐一君』と呼んでくれた、なんか知らんが嬉しい。

「それじゃ考えてくれ、学年一の秀才よ」

 俺は当然何も浮かんでいない。こういうときは相手の意見を尊重するべきだ。丸投げとも言うけど気にしないことだ。
 しかし残念ながら香里も同じ事を考えていたようだ。

「持ち上げたって何も出ないわよ。あなたは何かアイディアがあるの?」
「あったら相談したりしない」
「それもそうね」
「ドラマみたいなものか、なかなか浮かばないものだな」

 俺たちは二人そろってまた頭を抱えた。さっきから同じ事の繰り返しだ。
 これってただ単に悩みを持つ人が二人に増えただけじゃないのか? なんか俺は余計な荷物を抱えてるような気がする。香里も同じ事を思ってるだろうな。
 そのとき、急にひらめいたのか、香里は机をバン、と叩いて立ち上がった。

「それよ!」
「手、痛くないか?」
「ちょっとだけ、ってそうじゃなくて、ドラマみたいなものなんてそんな抽象的なものだから浮かばないのよ。もっと具体的なものに置き換えればいいのよ」
「なるほど、さすが秀才。それで具体的なものって何なんだ」
「今大人気のドラマがついにビデオ化されたのよ。それをプレゼントってのはどう?」

 俺は何も言い返さなかった。周りに人はいないので、教室内に気まずい沈黙が流れる。
 そうか、秀才って意外と頭が固いんだな。

「ドラマみたいなものって言われてるのにドラマそのものを送ってどうする。だいたいビデオって普通じゃないか」
「そっか、それもそうね」

 いや待てよ、栞にドラマをプレゼントってのは悪くないかもしれない。
 それに今は何も浮かんでいない状態だ。せっかくのひらめきを無駄にしたくない。
 しかし栞にビデオを送ってもな……「呪いのビデオですか?」と返事される姿が容易に浮かんでくる。
 待てよ、ドラマをプレゼントってのは録画されたものでなくてもいいはずだ。

「俺と香里がドラマを演じるってのはどうだ? これなら二人分のプレゼントになるし、一石二鳥だ」
「脚本は誰が書くの?」
「決まってるだろ、俺に書けるわけがない。過去の名作ドラマをパクる!」

 香里は呆れたような目で俺を見たが、文句は言わなかった。これは無言の賛成ということだな。
 これでプレゼントは決定だ。




 その日は香里と一緒に俺の家へ行くことになった。
 俺は栞の話題についていくために、ドラマの雑誌を定期的に買っていたのだ。あれが役に立つときがきた。
 部屋に通すと、香里はさっそくとばかりにベッドの下をのぞいた。

「こらこら、家捜しするな」
「あなたもベッドの下にエロ本を隠してるのかなー、と思って」
「そんなわかりやすいとこに隠すわけないだろ。それより目的の雑誌を読むぞ」

 俺は机の引き出しにある雑誌を床に広げて読んだ。

「『お兄ちゃん早くぅ。もう私ガマンできないよぉ』『ふん、そんなにせかすなよ』ゆっくりとズボンとパンツを脱ぐ兄。下半身に力を入れ……」

 しまった、これはエロ本ではないか!
 そういえば俺は引き出しに隠す主義だったな。

 パァーーン!!

 香里の平手打ちの音が近隣にまで響いた。


「いてて……お前本気で殴っただろ」
「当たり前でしょ、新手のセクハラかと思ったわよ。しかも朗読しないでよ変態」

 くそっ、わざとじゃないのに。今度お前の妹に同じ事をしてやる。
 名雪にやったら身ぐるみはがれて追い出されるだろうが。
 しかし香里のやつ、顔は結構冷静だな。意外とこういうのに慣れてたりして。
 俺はエロ本を今度は受験の問題集の間に隠した。もちろんカバーはかけてある。

「変なとこに隠すわねえ」
「誰にも言うなよ」
「言いたくもないわよ」

 白い視線を向けてくる香里を無視して俺はもう一度机の引き出しから雑誌を出した。
 今度こそ間違いなくドラマの大特集だ。
 ページをめくると、誰もが知ってるような大ヒットドラマと、人気俳優が次々と出てくる。
 特集の一つには、ドラマのワンシーンの脚本も載っていた。

「これでいったらどうだ?」
「これはダメ。栞は一字一句すべて覚えてるから」
「そうか、じゃあ栞の知らないドラマは何だ?」
「……ないわね。よく考えてみると」

 なるほど、ずっと病気だった栞にとってドラマは数少ない楽しみだったんだ。
 ましてやこんな人気ドラマをあいつが知らないはずがない。
 知っていても構わないかもしれないが意外性、すなわちドラマ性に欠けるのでなるべく栞の知らないドラマにしたかった。でもこれも考えてみれば栞も同じ雑誌を持っているので、あいつはすべて知っているだろう。
 俺はどうしようか悩んでると、香里がビーンボール的な解決法を持ち出してきた。

「こうなったらあたしたちでストーリーを考えない? 下手でも陳腐でもいいのよ、大切なのは栞への愛よ」
「うむ、素晴らしい建前だ」

 俺はビーンボールを甘んじて受けた。

「わかってるじゃない義弟よ」

 『義弟』にランクアップ。すっげー嬉しい。
 その日は徹夜だった。二人で脚本を書き、セリフを覚えて何度もリハーサルをして小道具も調達した。
 栞の誕生日は明日に迫っている。俺たちは一秒でも惜しむ気持ちでプレゼントの準備をした。
 なお、俺と香里は不眠不休で同じ部屋にいたので、名雪からいらぬ誤解を受けた。




2月1日

 この日は徹夜明けで、俺と香里は学校でずっと眠っていた。
 授業は当然耳に入らないので、昨日と大して変わらない。それでも一日の煩わしい授業が終わると、妙な解放感があった。
 放課後、俺と香里は栞を誘って一緒に美坂家へ行った。誕生日プレゼントを栞も楽しみにしているようだ。
 栞の部屋はやはり俺の部屋と違って綺麗に片づけられていた。
 部屋の中央に、帰りに買ってきたケーキを置いて箱を開けた。もちろんアイスケーキである。さすが栞。

「栞、ドライアイスは食えないぞ」
「食べませんよ」
「栞、一つ訊きたいが」
「はい」
「栞はベッドの下にエロ本を隠すか?」
「な……」

 栞はみるみる顔が紅潮していき、香里は手近にあったクッションを持って俺を叩いてきた。

「ま、待て、俺は昨日の香里の態度で怪しいと思ってな」
「お、お姉ちゃん祐一さんに何したんですか!」
「誤解されるようなこと言わないでちょうだい! だいたい栞はそんなもの持ってないはずよ!」
「そうか、それじゃ香里の部屋のベッドの下に……」
「一遍死ね!」

 香里は緩衝材であるクッションを捨てると、素手で殴ってきた。
 栞は困惑の色を浮かべてあたふたしていた。恋人を助けるべきか、このまま制裁を加えるべきか。

「お姉ちゃん、やめてください。確かに祐一さんは変態でデリカシーのないセクハラ野郎ですけど、これでも私の大切な人なんです」

 ……結構傷ついた。
 そうか、栞は俺を助けながら精神攻撃をしてきたわけだな。

「そうね、殺しちゃったらプレゼントを渡せなくなるし」

 助かったか。栞、感謝するぞ。
 ところで誰がセクハラ野郎だ? 今度エロ本を見せてやろう。

「相沢君、何か不埒なこと考えてないでしょうね?」
「不埒でもなんでもない。香里は知らないかもしれんが、俺と栞は既に体験済みだ」

 俺のこの言葉が合図とばかりに香里は栞に視線を回した。
 今度は栞は下を向いて赤面したまま黙りこくった。否定しない上にわかりやすい反応を示したのでこれが無言の返事となっている。
 香里は栞の両肩をがっしりつかむと、必死な形相を近づけて訊いてきた。

「し、栞、生理は来てるでしょうねっ!?」
「え、あ、あの、お姉ちゃん……」
「何とか言いなさい!」

 答えられるわけないだろ香里……。
 さすがに少しかわいそうなので俺は話題を変えることにした。

「香里、それより誕生日プレゼントだ。栞が待ちくたびれてるぞ」
「は、はい。楽しみです」
「栞、あとで話があるからあたしの部屋に来るように」

 どんなことになるか、想像すると怖いのでやめておこう。

「よし、それじゃ始めるぞ。俺と香里による3分ドラマだ」

 なぜ3分かというと、それ以上長いものは浮かばなかったのと、味気ない即席ドラマに何となく洒落っ気のあるタイトルをつけたかったからだ。

「3分クッキングみたいですね」
「文句言ってないで、始めるわよ」

 俺と香里が立ち上がって隣に並ぶと、栞はその正面で正座して俺たちの一挙手一投足を凝視した。
 誕生日の余興で観客は一人とはいえ、ここまで注目されると結構緊張する。
 俺は緊張をほぐすべく、舞台俳優をやってる森本レオを浮かべた。
 香里がポケットからタイマーを出してセットした。最初は俺のナレーションで始まる。

「3分で終わるので急いで粗筋を言います。居候の身であるがゆえに家を出ていった祐一と、凶悪な妹に家を追い出された香里。二人は港で話していた」
「誰が凶悪な妹ですか」
「ドラマに入ってくるな。これから演技に入るぞ」
「ここでこうしてると初めてあなたに会ったときを思い出すわね。あれは確か……」

 俺は香里のセリフを遮って小声でささやいた。

「香里、時間が迫ってるからラストまでいくぞ」
「え? まだ始まったばかりでしょ」
「すまん、本当はセリフを忘れたんだ」
「わかったわよ、しょうがないわね」
「ゴホン、えー、愛してるよ、香里」
「わーっ! ちょっと待ってください!」
「何だよドラマに入ってくるな、今いいところなのに」
「どさくさにまぎれてお姉ちゃんに告白しないでください!」
「栞、これはドラマだって言ったでしょ。だいたいこんなのを欲しがったのはあんたでしょうに」
「そうですけど……」
「何なら名前だけ変えるか?」
「そうね、あたしも愛してるわ、栞」
「お姉ちゃん、私にそんな趣味はありません!」
「だからドラマだって言ってるでしょ」
「だいたい途中経過をはしょりすぎですよ。何でいきなり告白シーンまでいくんですか。視聴者にとって愛の告白はもっとも甘美なシーンなんですから、あんな展開ではしらけます。そもそも伏線や設定が……」
「栞、あんたのドラマ講釈を聞いてる暇なんてないのよ。それにこっちだって昨日徹夜で作ったんだから、そこまで扱き下ろされちゃたまんないわよ」
「たった一日ぐらいなんですか。スタッフがドラマを作るのにどれだけ苦労してると思ってるんですか」
「あたしたちはプロじゃないのよ。これでもあんたのために作ったんだから」
「おーい、ドラマの途中で姉妹ゲンカしないでくれ。一応制限時間があるんだから」
「もうお姉ちゃんに任せておけません。祐一さん、私と一緒にやりましょう」
「要するに、入れてほしかったのね。だったらそう言いなさい」
「はい、ごめんなさい」
「しょうがないわね。あたしが観客になるから。あとは任せたわ」
「おい、栞はセリフを知らないだろうが」
「アドリブでやればいいでしょ。栞の恋人ならそれぐらい自分でなんとかしなさい」
「わかったよ。それじゃ栞、始めようか。俺も合わせるから栞からしゃべってくれ」
「わかりました。えっと……港の近くにあるアイスクリーム屋さん、おいしかったですね」
「そうだな、俺はサビ入り寿司を勧めたのに、栞はアイス中毒だから」
「あのときですね、初めて祐一さんに殺意を持ったのは。私が辛いのダメだって知ってるのに」
「俺も試しに食べてみたけど、あんな塩辛いアイスは初めてだった。潮風にまみれたアイスはおいしくないな」
「あと3秒で終わるわよ」
「まずい、早くキスシーンに入るぞ栞!」
「え、あ、あの、心の準備が……」

 ここでタイマーは終わりを告げた。

「あーっ、3分経っちゃった」
「しょうがねえな、栞」
「何ですか、わっ」

 俺は栞の左手を取ると、薬指にアクアマリンの指輪をはめた。
 もちろんこれはイミテーションである。

「ドラマで使う予定だったやつだ。今はイミテーションだけど、いつかこれを本物に変えてみせる」
「祐一さん……」

 栞はじっと俺を見つめている。俺たちはずっと目をそらさなかった。そらしたらその瞬間に百年の恋が終わるかのように。
 ドラマだ。今このときは間違いなくドラマだ。この雰囲気ならバックに音楽が流れてもおかしくない。
 観客が香里しかいないのが惜しかった。同時にその香里が俺たちを認めたかのように黙って微笑みながら見守っているのが嬉しかった。

「あ……」

 香里が突然場違いな呟きを発した。
 なにかとんでもないことに気づいたような唖然とした表情だ。

「どうした?」
「ううん、なんでもない。あたしはお邪魔みたいだからそろそろ行くね」

 早口でそう言うと、香里はそそくさと立ち上がって部屋から出ていった。

「どうしたんだあいつ」
「もしかして、二人っきりにしてくれたんでしょうか?」

 顔を赤らめながら浸っている栞には悪いが、どうも俺にはそうは思えない。
 香里のあの顔と焦ったような態度は気遣いとかそういったものではない。何かはわからないが、少なくともいいことではなさそうだ。

「ゆ、祐一さん……」
「どうした、何か気づいたか」
「祐一さん、このK.Mって何ですか?」

 俺は自分でもわかるほど素っ頓狂な顔をすると、栞がはめているアクアマリンをよく見た。
 確かにK.Mと掘ってある。これは香里のイニシャルではないか。
 そういえばこれはドラマで香里に使う婚約指輪だった。栞に渡したのはいわば予定外の出来事だ。
 香里のやつ雰囲気を出すためにイニシャルまで掘ったのか、余計なことしやがって!

「そういえばアクアマリンって3月の誕生石ですよね。お姉ちゃんの誕生日は3月1日でしたっけ?」

 栞がとどめの一言を言ってくれる。
 顔は笑っていたが、漫画ならきっと青筋が浮かんでいるだろう。声は穏やかだが、漫画ならきっとフォントがでかくなってるだろう。
 俺は香里の心遣いに顔を引きつらせて感謝するしかなかった。
 たった一日で作ったドラマにそこまでしてくれてありがとう。

「私には少しサイズが大きいから変だなって思ってたんですよ。考えてみれば当然ですね。もともと私ではなくお姉ちゃんのために買ったものなんですから」

 栞はニコニコしながら一息にしゃべると、フッと笑みを消して大きく息を吸い、ありったけの大声を出した。

「祐一さん最っ低ですっ! 大っ嫌いですっ!!」

 栞は指輪を引き抜くと、俺に投げつけて部屋から出ていった。
 無理もなかろう。よりによって香里へのプレゼントを婚約指輪にしてしまったのだから。
 俺は栞に何て謝ろうか、どうやって気持ちを伝えようか考えた。謝れば普通に許してはくれるだろうが、どうにも格好がつかない。
 これはドラマなのだ。ならば最後までドラマらしい演出を考えるべきだ。俺はそう思った。
 目の前には手つかずのまま残されているケーキ。チョコプレートには『Shiori』と書かれてある。これだ!
 俺は栞の机に置いてある筆箱からシャーペンを拝借すると、チョコプレートの上の部分のクリームに字を掘った。

『I love only you』

 下手な字だけど気づいてくれるかな。
 俺は大声で二人を部屋に呼び戻した。


「おーい、栞、香里、戻ってこいよ。一緒にケーキ食べようぜ」
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