「ドラマみたい」




「誕生日のプレゼント、ですか?」
 私は毎週、休日は祐一さんの──正確には水瀬さんのお家に遊びに来ています。平日も二日に一回は来てるんですけどね。
 そして今日は一月二十一日、日曜日。もちろん例外ではなく、私は祐一さんのもとへ会いに来ていました。今は二人、リビングルームのソファでテレビを見ていたところです。
「そうだ。何がほしい?」
 祐一さんはそう訊ねてきました。私の誕生日まで、あと一週間と少し。どうやら、私の誕生日プレゼントのためにアルバイトもしてくれていたようです。なんだか身に余る思いですけど、祐一さんが私のことを想ってくれているのが嬉しいです。
「……とくに、ほしいものはないです」
「…………そっか」
 祐一さんの肩が、目に見えてがっくりと落ちました。
「わ、落ち込まないでくださいっ」
 私は慌てて祐一さんの腕をつかみました。
「俺はもう、栞にとっていらない男になっちまったんだな……」
「そっ、そんなことありませんっ!」
 思わず立ち上がって大声を上げてしまいました。はあはあ、と乱れた息を吐いて。祐一さんがニヤニヤと笑っているのを見て、からかわれたんだ、って気付きました。
「…………祐一さん、嫌いです」
 ぱたん、とソファに座りなおし、そっぽを向けます。恥ずかしさから、頬が熱くなってきました。
「……はぁ…………」
 こぼれるため息。あの日から一年間、何度も同じようにからかわれたのに。
「なんで、こんなにもあなたが好きなんでしょうか……」
 きっと、そうやってからかわれている時間も好きなんです。祐一さんの心が私のほうに向いている。それが実感できるから。
 祐一さんの腕にしがみついて彼の瞳を見上げながら、私はさっきの続きを言いました。
「私が一番ほしいものは、毎日祐一さんにいただいていますから……」
 そっと、顔を近づけます。祐一さんも意図を察してくれたのか、私の目を見つめて……。
 互いの吐息が感じられるくらいまで近づいて、私は目を閉じました。
「あらあら」
 遠くから、女性の声が聞こえます。
「若いって、いいわねぇ……」
 って、その声は。
「あ、秋子さん!?」
 光より速いのではと思えるほどの速度で、祐一さんから身体を離しました。祐一さんの顔も真っ赤で、きっと私もそうなんでしょう。
「お邪魔だったかしら」
 頬に手をあてて、困ったように微笑む秋子さん。
『全然、そんなことはありませんっ!』
 二人同時に、全力で否定する。
「あらあら、息もぴったりね」
「うぐぅ……」
 おしとやかに笑う秋子さんに、あゆさんの真似をして呻く祐一さん。
「うぐぅ、まねしないでよ〜……」
 後ろを振り返ると、食卓のテーブルには耳まで真っ赤になったあゆさん。ということは、一部始終を見られていたということでしょうか。一応あゆさんもここの住人ですから、いてもおかしくないんですけどね。すっかり忘れていました。
「二人とも、仲いいね」
 これじゃあ、私たちがバカップルみたいじゃないですか。恥ずかしいです……。
「うぐぅ……」
 私も、あゆさんの真似をしてみました。
「うぐぅ……、栞ちゃんまで……」
 なんだか、病みつきになりそうです。あゆさんの反応がおもしろくて。
 あ。でも一応、あゆさんのほうが年上なんでした。さりげなく失礼ですね、私。気をつけないと。
「と、とにかく!」
 隣で祐一さんが大きな声を上げました。
「物じゃなくても、どこか行きたいとかでもいいんだ」
 強引に話を戻す祐一さん。すっかり忘れてました。
「行きたい所、ですか……」
 う〜ん、行きたいところ……。あ、そうですっ。
「スキーに、行ってみたいです」
 今まで、病気のせいで一度も行ったことがありませんでした。
 恋人といっしょにスキー。全世界の女の子の憧れです。天高く太陽の見下ろす白銀の世界で、祐一さんにスキーの手ほどきを受ける……。祐一さんは手取り足取り、優しく教えてくれるんです。転んでしまっても、優しく手を差し伸べて『大丈夫か、栞』って。まるでドラマみたいですっ。
「スキーか。いいんじゃないか?」
 祐一さんも同意してくれました。
「泊まりがけで行くんですよねっ。お祝いは二月一日の零時に、大勢でやってほしいです」
 祐一さんに目配せすると、優しくうなずいてくれました。二月一日になった瞬間。あの日、祐一さんがお祝いしてくれた瞬間に。
「そうだな。じゃあ、名雪や香里も誘うか」
「はいっ」
 今からとっても楽しみですっ。
「あゆさんも、もちろん行きますよねっ」
「……うん。ボクも行きたいけど…………」
 おずおずと、あゆさんがこっちの様子をうかがっています。何か問題でもあるんでしょうか。
「……二人とも、学校は?」
 ああ、いきなり大きな壁が。確か二月一日は火曜日でした。特別な記念日や祝日でもなかったはずですし。学校を休んでまで行く、なんて選択肢はありません。
「大丈夫ですよ」
「秋子さん?」
 なにか秘策でもあるんでしょうか。
「え〜と、祝日か何かでしたっけ?」
 首をひねる祐一さん。
「平日……、だったと思いますけど……」
 私も、首を傾げて見せます。
「うふふ。明日学校に行けば分かりますよ」
 秋子さんは、頬に手を当てて微笑んでいます。そういえば、秋子さんの困った顔って見たことないですね。不思議です。
 それにしても。見れば見るほど、秋子さんって理想の女性ですね。美人で、穏やかで、料理も上手くて、いつも笑顔。私もいつか、あんなふうになれるんでしょうか。
「んじゃ、俺も誰か誘っておくよ」
「はいっ。お願いしますね」
 話も一段落ついたところで、私はソファから立ち上がりました。
「それでは、そろそろお暇しますね」
 壁掛け時計の針は、既に六時を回っています。
「ん、帰るのか? メシ食っていけよ」
 そうしたいのは山々なんですけど。
「今日はやめておきます。早くお姉ちゃんにも報告したいですし」
 昨日もごちそうになりましたし、あんまり頻繁にお邪魔するのも気が引けます。
「そっか。じゃ、家まで送るよ」
 そう言って、祐一さんも立ち上がりました。
「ありがとうございます」
「いやまあ、男としては当然のことだろ」
「ふふふ」
 照れてる祐一さんも可愛いです。
「うぐぅ。祐一君、送り狼?」
「アホかっ」
 おもしろいやりとりをする祐一さんを見ながら部屋を出ます。
 去りぎわに、祐一さんに頭を叩かれたあゆさんが『うぐぅ』って鳴いているのが、やっぱりとっても可愛らしかったです。
 って、あゆさんのほうが年上なんですってば。


 一月二十二日、朝のホームルームの時間。三十代で頭の半分まで禿げてしまった担任の先生が、教室に入るなりこう言った。
「今から全校集会だから、グラウンドに集まりなさい」
 そして、どこか慌ただしい雰囲気を残して去って行ってしまった。
「ねえ、相沢君」
「ん? なんだ、香里?」
「なにかあったのかしら? 担任がなんだか慌ててるみたいだったけど」
 疑問に思ったあたしは、とりあえず斜め前に座っている相沢君に訊ねてみた。なんで彼に訊いたのかは自分でもよくわからないけど、いろいろトラブルに首を突っ込みたがる相沢君のことだから何か知っているかもしれない。
「……心当たりはあるが」
 ヒット。さすが、年中トラブル(大勢の女性)に囲まれているだけのことはあるわね。みんなと仲良くするのはいいけど、栞を泣かせたらタダじゃおかないからね。
「……今、怖いこと考えてなかったか?」
「気のせいよ」
 女心に関しては疎いくせに、こういうことに限っては鋭いんだから。
「…………まあいい。とりあえず、グラウンド行くぞ」
「……そうね」
 教室内を見ると、既に半数以上が席を立って廊下に出ていた。
「栞から話聞いたか? スキーの」
 教室を出て人波の最後列を歩きながら、相沢君が訊ねてきた。
「ええ、聞いたわ。それが、何か関係あるの?」
 高校とスキーの関連性なんて、修学旅行くらいだと思うけど。
「ああ。実は昨日、秋子さんが……」
 相沢君から、簡単に説明を受ける。
「……な?」
「まさか、いくらあの人でも学校にまで影響力はないと思うけど……」
 言い切れないのが、なんとなく悔しい。
「ま、とりあえず話を聞いてみないことにはなんともな」
「……そうね」
 あたしたちは生徒たちの波に乗りながら、昇降口で靴をはきかえて外へ。見つけたら話を聞いてみようと思ったけど、あとから合流してきた二年生たちの中に栞の姿は見つけられなかった。


 全校集会の内容は、創立記念日のことだった。なぜか一月三十一日から二月二日までの三日間が、突然創立記念日で休みになったのだ。なんで創立記念日が三日もあるのだろう、とか、どうしてあたしたちの旅行の日程とピッタリなのだろう、とか、いろいろと謎だらけだけど、やはり秋子さんの力なのだろうか。所詮ただの学生であるあたしたちに、それを測る術は無い。
 そして、それに並ぶほどの驚異が、今あたしたちの眼前に繰り広げられていた。
「信じられないわ」
 臨時全校集会が終わって、授業が始まるまでの数分の空白。
「ああ、こんなことが許されていいのだろうか? いや、断じていいはずがない」
 あたしの一つ前の席で、首を傾げる親友の名雪。
「…………全校集会を寝過ごすなんて」
「わ。全校集会なんて、あったの?」
 しかも、あたしに言われてようやく気づいたらしい。誰も教えなければ、本当になにも知らず放課を迎えていたかもしれない。
「…………点呼とってたはずなのに、なんで誰も気づかなかったんだ?」
「……さあ。いつも寝てるからじゃない?」
 肩をすくめる相沢君。いつものように早朝マラソンで来ていたなら眠ることもなかったんでしょうけど、今日に限って名雪は部活の朝練で早かったのよね。
「うー。わたし、そんなにいつも寝てないよ……」
「寝てるだろ。俺が何度、揺れるお前の頭を殴りたくなる衝動を必死で抑えたことか」
「…………実際、何度か殴ってたけどね」
 いつも思うけど、相沢君は女性に対してもっと配慮をするべきね。まあ、女性全般というよりは、名雪やあゆちゃんに対してだけど。ま、名雪を見てるといじりたくなる気持ちも分からなくはないけどね。
「ひどいよ、祐一……」
「気づいてないのもどうかと思うけどな」
 グーで殴られても微動だにしない名雪の後ろ姿を見たときは、あたしも開いた口がふさがらなかったわ。
「まあ、名雪だしね」
「だな。名雪だし」
 相沢君と二人、頷き合う。
「う〜……二人とも、どういう意味だよ〜」
 あたしたちは、ここぞ、とばかりに声を揃える。
「言葉通りよ」
「言葉通りだな」


 一月三十一日、月曜日。午前六時の駅前に、俺たちは集まっていた。せっかくスキーに行くのに一泊二日じゃつまらない、という大勢の意見があったため、今日から二月二日までの三日間の予定だ。
「みんな、集まりましたか?」
 秋子さんが代表して点呼を取る。といっても、全部で八人だけど。
「せんせー、相沢が嘔吐と下痢で欠席でーす」
 香里の横顔をちらちらと見ていた黄色い頭の北川がでたらめなことをのたまっているので、とりあえず脳天に一撃をくれてやる。
「だまれ。殴るぞ」
「…………もう殴ってるっス」
 頭を押さえてうずくまる北川。となりで香里が、呆れ顔でため息をついていた。
「祐一くん、あんまり暴力振るっちゃだめだよ」
 眉を寄せて、たしなめてくるあゆ。
「なんだ、あゆ。ちゃんと朝早くても起きてこられたのか。エライエライ」
 あゆの頭をなでなで。
「うぐぅ……。ボク、子供じゃないもんっ」
 不満そうに文句を言うが、なでられることに関しては嬉しそうだった。頭をなでられて喜んでいるとは、まだまだ子供だな。同い年だけど。
 あゆの頭をわしゃわしゃとかき回していると、背後からため息が聞こえた。
「はあ……。相沢さん、あなたはもう少し女性に対して配慮をするべきです」
 天野か。栞に呼ばれたんだろうな。
「まあ、そう言うな。今日は無礼講だ」
「相沢さんの場合、毎日が無礼講のような気がしますが」
 半眼で、じとり、と睨んでくる天野。
「天野、あんまり説教くさいとおばさんくさいって言われるぞ」
「……そんな酷なことはないでしょう…………」
 そして、再びため息。天野、お前はまずため息を減らせ。
「っていうか秋子さん。主賓がまだ来ていないのに点呼を始めないでくださいよー」
「あらあら。大丈夫ですよ。今集まっている人数を数えているだけですから」
 頬に手を当てて微笑む秋子さん。それにしても栞、遅いな。
「相沢、大変だ! 水瀬が倒れたっ!」
 わざとらしく北川が叫ぶ。北川の足元に、本当に名雪が倒れていた。というかむしろ寝ていた。やはり名雪にこの時間はきつかったようだ。
 俺は屈みこんで名雪の頬をぺちぺちと叩く。
「お〜い、起きろ名雪〜」
「う〜、いたいんだおー」
 こういう時は、やはりあれしかないだろう。
「……オレンジ色のジャム」
 耳元でささやく。
「おはよう祐一。今日もいい天気だね」
 一発で覚醒。やっぱり名雪にはこれが一番だ。
「……祐一さん」
「は、はいっ」
 いつのまにか、すぐ隣に秋子さんの姿が……。聞こえてしまったのだろうか。
「栞ちゃんが来ましたよ」
 駅の方を向いていた俺たちの後ろを指差す秋子さん。絶対聞こえてましたよね。
 いろいろとばつが悪かったけど、とりあえず後ろを振り返る。遠くから栞が走ってくるのが見えた。
「ゆーいちさーんっ!!」
 俺と目が合うと、満面の笑みで大きく手を振る栞。走るペースを上げて、すぐに俺の正面に到着した。
「遅れて、すみませんっ」
「いや、それはいいんだけど」
 まず目についたのは、栞の服装だった。
「……え〜と、その服はどうしたんだ?」
「えへへ。ちょっとおめかししてみたんですよっ。どうですか?」
 そう言って、くるっと回って見せる栞。今日は他のみんなもきれいな服で来ているけど、栞のは中でも郡を抜いていた。
 なんといっても、可愛い。丈の長い水色のワンピースに、真っ白なカーディガン。ストールも、いつもと違う淡色系。派手なデザインではないが、それがまた栞の雰囲気にぴったりだ。
「…………」
「? 祐一さん?」
 栞が不思議そうに小さく首を傾げて、俺の顔を見上げてくる。その仕草がまた……。
「あ〜、いや、なんていうか」
 なに動揺してんだ、俺。
「か、可愛いぞ、栞。めちゃくちゃ可愛い」
 やっぱり、面と向かって言うのは恥ずかしい。
「ありがとうございますっ」
 さっきよりも笑みを深めて、栞が俺の腕に抱きついてきた。さっきは恥ずかしかったけど、この表情が見られるんなら何度でもほめてやりたいと思うくらいに、無垢で綺麗な笑顔だった。
「……あたしたちはお邪魔虫のようね」
 横から聞こえる、香里の呆れ声。
「真冬だというのに、この蒸し暑さは何でしょう」
「うぐぅ。あつあつ……」
 ぐあっ。またやってしまった。これじゃ、まるっきりバカップルじゃないか、俺たち。
「あらあら。周りの雪も溶けてしまいそうですね」
 秋子さんまで……。
「と、とりあえず全員そろったことですし、出発しましょうっ」
 慌ててごまかす俺。
「だおー」
「そうですね。もうすぐ電車が来る時間ですし」
 秋子さんの声を皮切りに、俺たち八人は駅に入っていった。


 きっかけは、俺が栞の服装をほめたことだろうか。
 電車の中で、俺たちは周りの注目を集めっぱなしだった。理由の一つは、電車が出発してからも栞とずっとくっついたままだったからだ。いや、くっついているというよりはほとんど抱き合っているような状態だった。
「可愛いよ、栞」
 そして、もう一つの理由。
「あは……。もっと言ってくださいっ」
 瞳を輝かせてせがむ栞に、俺は。
「とっても可愛いよ」
「はぅん……。もう一度……」
 今度はうっとりとする栞。
「栞、超可愛いぞっ」
 さっきから、ずっとこれの繰り返し。周囲の人間にはラブラブなオーラが見えていることだろう。
 でも、一番やっかいなのは……。
「祐一さん、愛しています……」
「俺も、愛してるぞ、栞……」
 繰り返すたび、そんな周囲の視線も全く気にならなくなっていく自分の脳内だった。栞にフォーリンラヴ。
「う〜……祐一、極悪だお〜」
「うぐぅ、隣に座ってるボクはどうすればいいの〜?」
「くそ〜っ! 相沢、お前ばっかりいい目見やがってぇ!」
「アンタはだまってなさい…………」
 そんな周囲の雑音も、俺たちにとっては二人の恋の交響曲を彩るBGMでしかないのだっ。
「祐一さん、栞さん」
 バカップルとでも何とでも罵るがいいさっ。
「…………ジャムはいかがですか?」
『けっこうですっ』
 条件反射。
「……二人とも、車内では静かにね?」
 笑顔で半疑問形の秋子さん。でも、その笑顔は怖いです。
『はいっ』
 俺たちは、一も二もなく頷いた。


 電車に揺られること二時間弱。ようやく目的の駅に到着した俺たちは、秋子さんの先導でスキー場へと向かっていた。どうやらそのスキー場は、宿泊所も一緒になっているらしい。一緒になっていない所があるのかどうかは知らないけど。
 そして、驚いたのが雪の量だ。俺が行ったことのあるスキー場は人工増雪をしなければならないほど雪不足だったので、外は雪があまり積もっていなかった。
 スキー場があるくらいだからそれなりに予想はしていたが、それでも想像を遥かに上回る。電車内で厚着をしてきたから身体はそれなりに温かいが、むき出しになった顔、特に耳や鼻がつらい。雪国育ちの少女たちも、この寒さには参っているようだった。
「大丈夫か、栞?」
 俺は、やはり一番心配な恋人の隣を歩いていた。病気がすっかり治ったとはいえ、体調を崩さないとも限らない。
「はい。寒いのには慣れてますから」
 口ではそう言うが、栞は多少調子が悪くても人に言わないからな。俺は栞の顔を覗き込んで顔色を確かめた。
「うむ、大丈夫そうだな」
「心配しないでください。調子が悪くなったら、すぐに言いますから」
 栞は微笑んで、すぐに不安げに訊ねてきた。
「…………迷惑じゃ、ないですよね?」
「迷惑なもんか。むしろ、もっと頼ってくれたほうが嬉しい」
 これは、本当の気持ちだ。体調だけではなく、栞が困っていたら助けてやりたいと思う。
「……えへへ。ありがとうございます」
 俺の腕をとって、笑顔で見上げてくる栞。隣にこの笑顔があるだけで、幸せな気持ちになってくる。
「……二人とも、少しは周りを気にするべきね」
 後ろを歩いていた香里が、俺の横に並んで言った。
「なんだ、香里。妬けてきたか?」
「違うわよ。ただ、うちの栞がどんどんバカップルになっていくのを見てると……ね」
「バカップル言うな。別に普通だろ?」
 俺が当然のように言うと、香里は大きくため息をついた。
「気づいてないのは当人たちだけ、ね」
 やれやれ、と首を左右に振って、前を歩いている名雪の方に駆けて行った。
「…………気をつけるか、栞」
「……そうですね…………」
 そう言いながらも俺たちは腕を組んだままなかなか離れられず、スキー場は目前に迫ってきた。
「バカップルの、バカップルたる所以、ですね」
 前方の天野が顔だけを後ろに向けて、ぽつりと呟いた。


 俺たちはまず、各々に割り当てられた部屋に入って荷物を置いた。部屋は二階で全員が誰かと相部屋になっているらしく、俺は当然のように栞と同室だった。
「え〜と、十一時に昼飯食って、それから滑るんだっけ?」
 上着を脱いで私服姿になった栞に訊ねる。俺も上着を脱いで荷物の上に置いた。部屋は、暖房が効いているため暖かかった。
「はい。それまでは休憩ということでしたよね」
 栞は肯定し、ベッドに横になって伸びをした。
「ふわ〜ぁ。気持ちいいお布団ですね〜」
 だが、そのベッドはやたらと大きかった。そして更に、二つ目のベッドは見当たらなかった。要するに、ダブルベッド。
「やっぱりか……」
 大きくため息をつく。嫌ではない……むしろ嬉しいくらいだったが、なんだか見透かされているようで怖い。もちろん、ここでそんな行為をしようと思っているわけではないが。というか、むしろ促されているのだろうか。
「どうしたんですか、祐一さん?」
「いや、なんでもない」
 俺も栞の横に寝転がった。昼飯までの時間は、栞とおしゃべりでもして過ごすとしよう。


「……どうしてついてくるのよ」
 あたしは、昼食のトレイを持って後ろをついてくる北川君に、意識してきつい視線を寄越した。
「いや、え〜と、その、なんて言うか」
 はあ……。思わずため息が漏れた。あたしは無言で、相沢君と栞のいる席に座る。ちなみにそこは四人席だったから、必然的に北川君が隣に座ることに。少し離れた所に名雪の姿が見えて、一瞬、そっちの席に移動しようかとも思ったんだけど。
「なんだ、香里。遅かったな」
 既に半分近く食べ終えている相沢君が訊ねてきた。
「まあね。少し寝過ごしちゃって」
「お姉ちゃんが寝過ごすなんて、珍しいね」
 相沢君の隣でゆっくりとスパゲッティを啜りながら、栞が目を丸くしていた。
「ま、誰にでもそういうことはあるだろ」
 そう言って、自分の頭をつんつんと指差す相沢君。教えられた通り髪を触ってみると、少しだけはねているのが分かった。みんなに気づかれないように、手で素早く整える。相沢君って、女心には鈍いのにこういうところには気がきくのよね。
「相沢。栞ちゃんと同じ部屋で、今まで何してたんだ〜?」
 それに比べて、こっちはデリカシーがないわね。食事中にする話でもないでしょうに。
「……少なくとも、お前よりは有意義なことをしていたのは確かだ」
「またまた。はぐらかそうったって、そうはいかないぞ」
 ……この男は。
「ねえ、相沢君。あっちで名雪が寂しそうにしてるから、移動しない?」
「ん? そうだな。どうせあいつも寝坊したんだろ」
 まあ、朝遅刻してこなかったのも奇跡みたいなものだしね。聞くところによると、昨日は六時に寝たらしいけど。
 栞も一緒に引き連れて、名雪のいるテーブルに席を取った。
「どうした、北川? 手持ち無沙汰にして」
 四人席だから、五人集まれば当然一人あふれることになるわけで。しばらくあたふたとして、近くの空いていた椅子を私の隣に移動させようとする北川君。
「ねえ、北川君」
「な、なんだ、美坂?」
「纏わりつかないで。……迷惑だから」
 あたしがそう告げると。北川君は石みたいに固まって、とぼとぼと歩き去った。
「……哀れだ」
「可哀想だよ、香里」
 まあ、あたしもそうは思ったけど。
「付き纏われる身にもなってよ」
 優柔不断さと、『それ』さえなければいい奴なんだけど。あたし、あまり付き纏われるのは好きじゃないのよね。誰でもそうでしょうけど。
 男ならもっと言いたいことははっきり言うべきだわ。相沢君も、栞に告白するときはビシッと決めたらしいし。女としては、そういうのに憧れるのよね。
「香里……気づいてるんでしょ? 北川君のこと」
「……さあ、なんのことかしら?」
 いっそ、気づかないほうがよかったのかもね。
「北川君、可哀想」
 名雪の言う事は、分かる。友人として付き合う分には問題無いんだけどね……。
「栞、ミートソースがほっぺたに付いてるぞ」
「わっ、ほんとですか? 取ってくださいっ」
 相沢君みたいにはっきりしてて気のきく人だったらいいんだけど。
 だからって、別に相沢君のことがどう、っていうわけじゃないからねっ。
「ん? どうした、香里? こっちばっかり見て」
 うわっ、目が合っちゃった。
「な、なんでもないわよ」
 なんで声が上擦ってるのよ。あ……顔まで熱くなってきちゃったし……。
「む〜」
 なにを察したのか、栞が唸りながら睨みつけてきた。全然怖くなんかないけど、なんだかばつが悪い。
「さ、早く食べて滑りに行きましょっ」
 自分でも不自然だと思ったけど、そうやって誤魔化す他なかった。
「イチゴプリン、イチゴプリン〜」
 ほんと、名雪は悩みがないみたいで羨ましいわね。


「あわわわわ〜っ!」
 俺の目の前で盛大にすっ転ぶ栞。そのまま数メートル、勢いに引きずられて下って行った。俺が教えた通りに背中から倒れているのは感心だけど。
「ほら、大丈夫か?」
 手を差し伸べて引っ張り起こしてやると、栞は申し訳なさそうに空笑いをした。
「あはは……。また転んじゃいました」
 初めのころよりはよく滑っているけど、まだ二十メートルがせいぜいだ。
 雪にまみれた髪を梳いて、雪を落としてやる。
「お姉ちゃんは、運動神経がよくて羨ましいです」
 スキーウェアに付いた雪を落としながら、坂を下り降りて来る姉を見上げる栞。香里は、スキーをするのは今日が初めてだと言っていたが、たった五時間足らずであそこまで軽快に滑れるようになるとは。
 髪をなでているのを見られていたのか、香里は半ば呆れた表情で俺たちの横を滑り降りていった。
「ま、香里は香里だ。栞は栞で頑張ればいい」
 気にするな、という意味を込めて、俺は肩をすくめて見せた。
「……はい。ありがとうございます」
「そんな深刻そうな顔すんなって。出来の悪い生徒ほど教え甲斐があるってもんだ」
 栞は頷くと、スキーを滑る体勢を取った。
「硬くならずに。内股ぎみに、やや腰を落として滑るんだ」
「はいっ、コーチ!」
 なんだか熱血学園ドラマみたいな呼び方だな。まあ、吹っ切れたみたいだからいいけど。
「よっしゃ、スパルタでいったるぜい! 覚悟しな!」
 俺も、なんだかよく分からないノリで応対した。いっちょ揉んでやるか! みたいな。
 熱血教師と関係あるのかどうか、よく分からないけど。


 ほんとに、相沢君たちは仲がいいわね。一年も付き合っていれば、普通少しくらい冷めてくると思うんだけど。まあ、経験があるわけじゃないからよく分からないけど。でも、なんだか羨ましいわね。って、別に相沢君のことがどうってわけじゃないわよ。あっ、また顔が熱くなってきた……。どうしちゃったのよ、あたし?
「……って、きゃあっ!」
 肩に衝撃。ぼーっとしてたから、人にぶつかっちゃったみたい。
「ご、ごめんなさい…………」
 どうやら高校生らしい三人組に、起き上がりながら頭を下げた。どうやら誰も怪我はなかったみたいだけど、あたしとしたことがヘマをやっちゃったわね。
「いってぇな……。どこに目ぇ付けてんだよ」
「す、すみません……」
「まあまあ、いいじゃねえか。よく見りゃ美人だし、ちょっと付き合ってもらおうぜ」
 うわっ……。なんか変な輩と当たっちゃったわね……。でも、こっちはぶつかってしまった身だから、強く出ることができないわ。
「おっ、いいねえ。俺たち女いなくて寂しいし、ちょっと付き合ってくれよ」
「え、ええと……」
 あたしが言いよどんでいると、最初につっかかってきた男性が強引に腕を引っ張ってきた。
「おらおら。てめぇがぶつかってきたんだから、落とし前つけてもらおうじゃねえか」
「っ……」
 とっさに振りほどこうとすると、そんなに大した力を入れたわけでもないのに、男性は派手に転んでしまった。
「痛ってえなあ! てめえ、図に乗ってんじゃねえぞ!」
 図に乗ってるのはどっちかしら。まったく、どうしたらいいのよ。
 人が多いから暴力を振るわれる心配はないでしょうけど、下手なことを言って変に恨まれても嫌だし……。
「痛っ……」
 あたしが何も言わずにいると、男は再び腕をつかんできた。
「まあまあ、そう熱くなるなって」
 それを、もう一人の男が横から止める。
「なあ彼女、今から俺らの部屋に来ねえ?」
「俺らと楽しいことしよーぜ?」
 何か言葉を言う間もなく、二人に両腕を抱え込まれてしまった。ちょっと、これって……。
「おいおい、てめーら」
「あっ……」
 相沢君の声。それを聞いた途端、自分の心の中に芽生えていた絶望感や無力感といったものが、すっきりと晴れていくのが分かった。代わりに、安心感と嬉しさがこみ上げてくる。
「寄ってたかって女の子をいじめるなんて、おまえら最低だぞ」
「うるっせえ! すっこんでろ!」
 今にも殴りかかりそうな男に、あくまで冷静に対応する相沢君。
「最近の男は、軟派なのが売りか?」
「テメェ!」
「まあまあ、落ちつけよ」
 頭に血が上った男を押しのけて、他の二人が前に出てきた。
「先にぶつかってきたのはこいつなんだぜ。きちんと落とし前つけるのが筋ってもんだろ?」
 それを出されるとまずいわね。相沢君、どうするつもりかしら。
「みみっちいやつだなあ。怪我したわけでもないんだろ?」
 少しだけ挑発を含ませて、冷静さを欠いた相手を言いくるめる気ね。
「おもしろいこと言うねえ。でも、人に迷惑をかけたら責任を取るってのが大人の世界のルールってもんだろう?」
 挑発には乗ってこなかったみたい。後ろの奴は大層激昂してるみたいだけど。
「そうか? 少しの迷惑くらい、笑って許せるのが大人だと思うけどな」
 やっぱり、普段から名雪たちをからかっているだけのことはある。
 諦めたのかもう一人の男が舌打ちをして、あっちにいこうぜ、と顎で促した。
 それで終わればよかったんだけど。最後まで冷静だった方はおとなしくそれに従ったけど、もう一人のほうがまだつっかかってきた。
 いや、つっかかってくると言うよりは、直接的な暴力にうって出た。
「っ……、相沢君!」
 不安定な雪上で繰り出したとは思えない重そうな拳が、相沢君の顔面に迫る。
「お、っと。ストック落としちまった」
 寸前で腰をかがめる相沢君。勢い余って、殴りかかった男が派手に転んだ。
「テメェッ!」
 男はなおも殴りかかろうとしていたけど、他の二人が押さえつけて引きずって行った。こんな人が大勢いる中で暴力を振るっては分が悪いと理解しているみたい。
「ふぅ……。大丈夫か、香里?」
「え、ええ……」
 いつもと違う格好いい彼の姿に、あたしは思わず見惚れてしまった。
 普段とは違う、優しい瞳。あたしは、自分の頬が熱くなっていくのを感じた。
「ったく。ボーッとして人にぶつかるなんて、香里らしくないな」
 そう言って、おどけて見せる相沢君。
「……あ……、相沢く……」
「ゆーいーちさーん!」
 栞がのろのろと滑ってきて、あたしの言葉を遮った。
「おう、栞。やっと来たか」
「先に行っちゃうなんて、ひどいですよ祐一さんっ」
 ほっぺをふくらませて怒る栞。相沢君は困った顔でそれをなだめている。
「悪かったって。機嫌直せよ」
「嫌ですっ」
 二人の和やかなやりとりを見ていると、自然と笑みがこぼれた。質の悪い男には平気で立ち向かって行ったのに、たった一人の少女に怒られて困っている相沢君。
「相沢君っ!」
 少し、大きな声で呼びかける。
「ありがとねっ!」
 さっきまでのもやもやとした気分が、少しだけ晴れた気がした。


「うぐぅ〜〜っ!」
 盛大な雪しぶきを上げて、あゆちゃんが勢いよく転んだ。頭から突っ込んじゃったけど、大丈夫かな? わたしは心配になってあゆちゃんのもとに駆け寄った。
「うぐぅ……。名雪さぁん……」
「大丈夫? 怪我はない?」
 ちょっと鼻の頭が赤いけど、怪我はないみたい。よかった。
「うん、大丈夫だよ……」
 わたしの差し出した腕につかまって、のろのろと起き上がるあゆちゃん。涙目で見上げてくる真っ赤なスキーウェアを着たあゆちゃんは、なんだか子供みたいで可愛らしかった。
「あゆさん。頭から転んでは危ないと、あれほど言ったでしょう」
 後からゆっくりと滑ってきた美汐ちゃんが、あゆちゃんに転び方の指導をする。
「お尻から転ばないと、怪我をする恐れがあって危険なんです。次からは注意して下さいね」
「うん、気をつけるよっ」
 元気いっぱいで可愛らしいあゆちゃんと、冷静で上品な美汐ちゃん。美汐ちゃんが着ているのは、あゆちゃんとは対称的な青いスキーウェア。なんだか、そのまま二人の性格の違いを表しているみたいで可笑しくて。思わず笑ってしまった。
「うぐぅ、笑わないで……」
「ごめんごめん」
 でも、なかなか笑いがおさまらない。
「うぐぅ……」
 困ったように再び呟くあゆちゃんを見て、美汐ちゃんも笑い出してしまった。
「お、なんかおもしろいことでもあるのか?」
 二人してくすくす笑っていると、近くを滑っていた北川君がわたしたちの方に近寄ってきた。
「い、いえ。特におもしろいことは」
「うん。なんにもないよ……っ」
 なおも笑い続けるわたしたちに、北川君は怪訝そうな顔をする。
「うぐぅ……」
 顔を真っ赤にして縮こまるあゆちゃん。なんだか可哀想な気がしてきた。
「北川君は、祐一たちといっしょじゃないの?」
 話題を変えるために、笑いが収まるのを待ってわたしは訊ねた。あえて『香里と』とは訊かない。
「いや、馬に蹴られたくはないからな」
 肩をすくめて笑う北川君に、わたしと美汐ちゃんも笑って返した。あゆちゃん一人だけは、意味が分かってないみたいだったけど。
「相沢さんと栞さんが余りにも仲がいいので邪魔をしては悪い、ということですよ」
 首を傾げるあゆちゃんに、美汐ちゃんが親切に教えてあげた。
「ふ〜ん。でも、それって笑うことなの?」
「もうちょっとお勉強したら、あゆちゃんにも分かるようになるよ」
 学校のお勉強で習うわけじゃないけど。あゆちゃんのことだから、気になることは秋子さんにでも訊ねるだろう。
「んじゃ、俺はもう一滑りしてくるよ」
 片手を振りながら、北川君が滑り去っていった。わたしたちも軽く手を振って見送る。
「……北川君、いい人なのにね」
「はい……いい人なのですが」
 香里と北川君の微妙な関係を知っている美汐ちゃんが、わたしの呟きに同意した。
「うじうじしないで、はっきり言っちゃえばいいのにね」
 なにせ、北川君は香里への想いを何年も引きずっているのだ。あまり比べるのも悪いけど、祐一は出会ってから一月足らずで栞ちゃんに告白したんだし。二人の現状の差は、あって然るべきだと思う。
「まあ、こればっかりは本人たちの問題ですから」
「そうだね」
 わたしは半ば以上不可能だと確信しながらも、心の中でさりげなく細々と北川君にエールを送った。


 祐一さんに後ろで見てもらいながら、照明のおかげで明るく照らされた夜の雪の上を滑っていく私。スキーを始めておよそ七時間。ようやく私も人並みに滑れるようになりました。
 坂の一番下に辿りついて、私は後ろを振り返りました。少し遅れて、祐一さんが到着。
「いや、上手くなったな、栞」
 そう言って、頭をなでてくれる祐一さん。
「えへへ。ありがとうございます〜」
 思わず、顔が緩んできます。祐一さんにほめられただけでも、頑張った甲斐がありました。
「じゃあ、そろそろ戻るか。夕食の時間だ」
「はいっ」
 私は祐一さんの手を取って、大きく頷きました。
「でも、もう少し滑っていたい気もしますね」
 やっぱり、滑れるようになると楽しいです。私の場合、滑れなくても楽しかったですけど。
「ま、あと二日もあるし、飽きるほど滑れるだろ」
「そうですね。明日は、もっと上のほうから滑ってみたいです」
 祐一さんと二人で並んで滑ったら、きっと、もっと楽しいです。
 私たちは明日の予定について楽しく話し合いながら、ウェアについた雪を払って宿泊所へと出入り口をくぐりました。
 二階の部屋に戻る途中、食堂付近を通るときにおいしそうな匂いがしてきました。思い出したように鳴り出すお腹の虫たち。
「はぅ〜……」
 恥ずかしいです……。滑っている間は気がつきませんでしたけど、とってもお腹が空きました。
「おう、腹の虫は正直だな。でも、あまり食べ過ぎるとケーキが食えなくなるぞ」
「はいっ。本当に、楽しみですっ」
「ケーキが?」
「違いますよっ。みなさんにお祝いしていただけるのが、です」
 ドラマとかで何度か見て、本当に憧れていたんです。大勢の友達に囲まれての、大きくはないけどにぎやかな誕生パーティ。
 再びお腹を鳴らす私に苦笑しながら、祐一さんは少しだけ足を速めました。私も遅れないように歩調を合わせます。私にも無理のない速さで、祐一さんの気遣いが感じられました。
「えへへ」
 私は嬉しくなって、祐一さんの腕に抱きついてしまいました。みんなからはバカップルなんて言われてますけど、この気持ちを抑えるなんてもったいないです。ただ触れあっているだけで、暖かくて嬉しくて優しい気持ちになれるんですから。
 誰になんと言われようと、やめられませんよね。


 秋子さんの手料理だと思われるおいしい夕食を食べて、私たちはロビーで談笑していました。名雪さんとお姉ちゃんいます。
「あたし、時々思うんだけど。名雪って、起きてるときより寝てるときのほうが頭がいいんじゃない?」
「ああ。それは俺も思った」
「いっそ、テストを受けるときは眠っていたほうがいいんじゃないの? 起きてるよりいい点数がとれるかもね」
「う〜、ひどいよ二人とも〜」
 三人のやりとりを聞きながら、私は何気なく窓の外のスキー場に目をやりました。真っ暗な空と、照明を受けて輝く真っ白な雪。どこか神秘的なその風景が、私の中のある種の衝動を駆りたてました。
「祐一さん」
「ん、なんだ?」
 外に行く、なんて言ったら、きっと心配させてしまいます。
「ちょっと、お手洗いに」
 少し気が咎めましたが、私は嘘の行き先を告げました。すぐに戻るつもりですし、きっと大丈夫でしょう。
「おう。いってらっしゃい」
 私は、心の中で謝りながらロビーを出ました。
 こういうのって、なんだかドキドキしますね。開けちゃダメって親に言われてる箱を開けるときの子供のような。ダメなら高いところにでも置いておけばいいのに、って思っちゃったり。
 まだ滑っている人もいるようですし、少しくらいならいいですよね。
 私は、一度部屋に寄ってスキーウェアを身につけてから、人通りの少ないスキー場へと足を運びました。
 廊下を歩きながら窓の外を見ると、やっぱりまだ何人かスキーを楽しんでいる人がいました。
 少し歩くと、すぐ出入り口にたどり着きました。ガラス張りの扉を開くと、途端に冷たい空気が流れ込んできます。扉をくぐって外へ出ると、ウェアを着ているにもかかわらず夜の澄んだ空気が全身に感じられました。
「わあ……」
 空を見上げて。感嘆の息がもれました。満天の星空。私たちの住む街でも滅多に見られないほど、たくさんの星が煌いていました。
 思わず笑みがこぼれます。こんなに綺麗な夜空が見られるなんて、なんだか得した気分です。そして、当然と言うか必然と言うか、やっぱり祐一さんにも見てもらいたいって思いました。満天の星空に驚いている祐一さんの姿を想像して、それだけでも楽しい気持ちになります。
「あれっ?」
 引き返そうと、スキー場に背を向けたとき。ふと視界を横切った『何か』に、目を奪われました。
 一瞬見失ってしまったそれを、顔を巡らせて探します。そして、スキー場に向かってすぐ右側に林立する防雪林の、ここからそれほど離れていない木の影に。蝶々のような生き物を見つけました。蝶々だと断定できないのは、青白く光っているのと、冬に見かけるような昆虫ではないからです。でもそれは、私の記憶に存在する蝶々の姿に間違いありませんでした。
 照明の届かない夜の林の中で、その蝶たちは自己主張しているかのように──そして、私を誘っているかのようにひらひらと舞いつづけます。
 神の意志、とでも言うのでしょうか。私は何かを考える余裕も、考えようという思考もなく、雪積もる木々の間に分け入って行きました。


「栞、遅いな……」
 俺の呟きも、これで三度目。ロビーの壁にかかった四角い時計を見上げると、二本の針は午後十時十五分を指している。栞が席を立ってから、もう一時間近く経過していた。
「そうね……、どうしたのかしら」
 香里も、心配そうに同意した。帰りに天野あたりと出会って話し込んでいるだけかもしれないが、俺と離れてそんなに長く話しているとも思えない。それに、あと二時間足らずで栞の誕生パーティが始まる時間でもある。
「俺、ちょっと見てくるよ」
 気にし過ぎかもしれないが、万が一にもなにか問題が発生した可能性もある。
「あたしも行くわ」
 俺が立ち上がるのに続いて、香里も椅子を立った。
 続いて名雪が立ちあがろうとするのを、香里が手で制した。
「名雪はここで待っててちょうだい。栞が帰ってくるかもしれないし」
「あ、そうだね」
 名雪は納得して、椅子に座りなおした。
「とりあえず外には出ていないと思うし、時間はかからないと思うから」
「うん、分かったよ」
 俺たちは一抹の不安を抱えながらも、ロビーを後にした。
「じゃあ、あたしは一階を探すから」
「了解」
 香里と二手に分かれて、俺は二階を調べることになった。
 階段を一段飛ばしで上がり、一本道になった二階の通路を歩く。
「お、天野」
 通路の角から天野が歩いてくるのが見えた。どうやら風呂上がりのようで、僅かに頬が上気している。
「どうしたんですか?」
 普段とは違う俺の様子を感じ取ったのか、真剣な表情で答える天野。
「ちょっと聞きたいことがあってな。栞を見なかったか?」
「いいえ、見てませんけど。どうかしたんですか?」
 心当たりがないらしい天野に、俺は事情を説明することにした。
「それがな。栞がトイレに立ったきり一時間も戻らないんだ」
「なるほど。私の部屋はこの階の端付近ですけど、栞さんの姿は見てませんよ。お部屋のほうはどうですか?」
「鍵は俺が持ってるから、部屋には入れないはずだけど」
 俺はポケットに手を突っ込んで鍵の手触りを確かめ、そう告げた。天野は僅かに思案するそぶりを見せ、ややためらいがちに言った。
「……念のために言っておきますが、オートロックではありませんよ」
「…………そうなのか?」
 知らなかった。てっきりオートロックだと思い込んで、鍵もかけずに出てしまった。こんな大きなホテルなのに、なぜだろうか。
「……まさかとは思いましたが。無用心ですね」
「いや、まじで知らんかった」
 なら、部屋にいる可能性もある、ということか。
「では、お部屋に行ってみましょうか。確か二○八号室でしたよね?」
「ああ」
 先を歩く天野に続いて、部屋へ向かう。二○八のプレートが付いた扉が、半分ほど開いていた。しかし、灯かりはついていない。
「……真っ暗ですね」
「でも、ここに来たのは確かみたいだな」
 俺は半ばまで開いていた扉を完全に開き、すぐ右にあるスイッチで灯かりをつけた。
 部屋に入り、一通り見まわってみる。大した広さのある部屋でもないので、数十秒で見終わった。
「やっぱりいないな」
「……あの」
 天野が、スキーウェアのたたんである所を指差す。天野の言いたいことは、すぐに分かった。栞の分のスキーウェアだけがなくなっていたのだ。
「どうやら、外に出たようですね……」
 栞が勝手に一人で外に出るなんて考えづらかったが、どうやらそのようだった。
 ただ外に出ただけならいいが、一時間も戻らないというのは尋常ではない。
「とりあえず下に降りるぞ、天野」
「はい」
 俺たちは戸締まりもおざなりに、廊下を駆けた。
 階段を降り、再び駆け出したところに香里の姿を見つけた。
「香里!」
「ど、どうしたの? 相沢君」
 俺の慌てた様子に、たじろぐ香里。
「どうやら、栞は外に出たらしい」
「……あの子ったら…………」
 呆れて見せるものの、香里も動揺を隠せないようだった。
 俺たちはフロントに走り、正面出入り口から出た人間がいないかを確認するが、どうやらそこから出た人はいないらしい。
「ということは、スキー場か」
 少し涼みに出たくらいならいいが。そうでないのなら、早くなんとかしないといけない。
 ストックやスキー板などの用具は秋子さんが管理している。秋子さんが夜中に外へ出るのを許すとは思えないから、そう遠くへはいけないはずだ。だが、林の中に迷い込んでいたら見つけるのは難しい。
「香里、天野。みんなも呼んできてくれ。俺は先に探してるから」
「はい、分かりました」
 天野が頷き、駆け出して行った。
「相沢君、ウェアを着て行ったほうがいいわ。ミイラ取りがミイラになるわよ」
「お、おう。そうだな」
 香里の言葉に頷いて、俺はスキーウェアを取りに二階への階段を駆け上がった。


「栞ーっ! どこだーっ!」
 防雪林の木々の間を、大声を上げて進む。月明かりと雪明かりのおかげで視界は悪くは無かったが、やはり雪の上を歩くのは難儀だった。
 既に、捜索を始めてから三十分が経過している。スキーウェアを着ているなら凍えるようなことはないはずだが、早く見つけないと誕生パーティに間に合わない。栞が、あれほど心待ちにしていたというのに。
「栞ーっ!」
 もう何度叫んだだろう。いいかげん、喉が疲れてきた。一度戻って、誰か他のやつが見つけていないか確かめてみようか……。
「相沢君!」
 逡巡していると、香里の声がすぐ近くから聞こえてきた。栞を見つけたのだろうか。声の聞こえた方角へと走る。
 すぐに開けた場所に出て、香里の姿を見つけた。
「見つかったのかっ!?」
「ええ。……でも」
 足元に目をやる香里。香里の目線の先には、瞳を閉じて木の根元にぐったりともたれかかった栞の姿が。
「栞っ!」
「……眠っているみたい」
 呆れたように呟く香里。
 栞の様子を見てみるが、顔色も悪くないし、怪我をしているようでもない。どうやらただ眠っているだけみたいだ。雪が積もっている上に結構距離があったから、昼間のスキーもあって歩き疲れてしまったのだろう。
 俺は安堵のため息をついた。
「うぅ……、ん……」
 俺たちの声で目を覚ましたのか、栞が目を開いて身じろぎをした。
「…………あれ? 祐一さんに、お姉ちゃん」
 なにが起きているのか分からない、という風に、栞は首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「どうした、じゃないわよ……」
「突然いなくなるから、心配したんだぞ」
「あ……っ。ごめんなさいっ」
 慌てて立ち上がり、栞はぺこりと頭を下げた。
「まあ、無事でよかったよ」
 俺はわざと軽い調子で言った。
「それで、こんな所でなにしてたんだ?」
 俺が訊ねると栞は、あっ、と声を上げた。
「そうですっ。すごいもの見つけたんですよっ!」
 いたずらを打ち明ける子供みたいに、笑顔で手招きしながら歩き出す栞。俺と香里は顔を見合わせて、栞の後に続く。そう大した距離は歩かず、二十歩くらい歩いたところで栞は立ち止まった。
「見てくださいっ!」
 栞が笑顔で指差す先を見ると。
 五メートル四方くらいの広さだろうか。その部分だけ、まるで雪が場所を譲っているかのように地面がむき出しになっており、真っ白な花が一面に咲いていた。
「これは……」
 まるで雪の耳飾りのような、下を向いた三枚の白い花びら。その花の周りを、季節はずれの蝶々たちが舞っていた。
「……スノードロップ、ね…………」
 香里も、感嘆の声をもらす。
 『雪の花』とも呼ばれるスノードロップの花畑は、空を舞う蝶々たちとともに月光を受け、淡く光っているようにさえ見えた。
 栞はなにも言わず、うっとりとした表情で俺の腕に抱きついてくる。
「綺麗だな……」
「綺麗ね……」
 香里も、俺の隣で頷く。
「この蝶々さんたちが教えてくれたんですよ」
 まるで戯れるかのように、花の周りをひらひらと舞う蝶。
 三人とも、しばらく無言で小さな花畑を見つめる。
「ねえ、祐一さん」
「ん、なんだ?」
 栞の、呟くような声。
「私、本当に幸せです」
 雪の花畑を見つめながら。
「祐一さんといっしょに、お姉ちゃんといっしょに、こんなにキレイな光景を見ていることが」
 俺を見上げ、香里を見上げて、微笑む栞。
「今、ここに、生きていることが」
「……ええ、そうね……」
 生きている。香里が、俺が、栞が。
「…………なんちゃって」
 いたずらっぽく微笑んで。
「今の、ドラマみたいで格好よかったですよねっ」
 おどけて見せる栞に、自然と笑みがもれた。隣で香里も、慈しむように目を細めている。
「早く戻りましょっ。祐一さん、お姉ちゃんっ」
 栞がはしゃぐように駆け出す。
「おう」
 頷き返し、栞の後を追う。
「……ねえ、相沢君」
 ただ一人、香里だけがその場に立ち尽くしたまま。
「ん、なんだ?」
 歩き出していた足を止め、香里の呼びかけに振り返る。
「花って、不思議よね」
 雪の花畑の傍に屈みこんで、花をなでながら。
「あたしは今、この花をあなたに贈りたい気分だわ」
「そりゃまた、突然だな。どうしたんだ?」
「ふふ。なんとなく、ね。ドラマにありがちな、現実味のない言葉よ」
 ふと笑った香里の声は、どこか哀愁を帯びているような気がした。
「…………スノードロップ、か」
 花言葉は、確か……。
「『初恋』『希望』『慰め』……だっけかな」
 俺が呟くと、香里は立ち上がって意外そうな顔を見せた。
「あら、知ってたのね」
「まあ……、たまたまな」
 肩をすくめて見せる。『初恋』、か。
「……まだ、あたしに『希望』はあるかしら」
 寂しそうな、笑み。見ているこっちまで寂しくなってくるような。
「…………姉妹だからって……いや。姉妹だからこそ、遠慮するべきじゃないと思うけどな」
「あら。それは、脈ありってことかしら?」
 苦笑して、歩き出す香里。俺もその後に続く。まあ、香里も充分魅力的だとは思うけどな。今のところ俺は栞一筋だし、きっとこれからも変わらないと思うけど。
「まあ、ひょっとしたらな」
 ひょっとしたら、ただの『慰め』なのかもしれないけど。
「人生万事塞翁が馬、ってな」
 香里の後に続いて歩きながら。
「……なにが起こるか……ね」
 少し先を歩いていた香里が、歩調を落として横に並ぶ。
「じゃあ、こういうのはどうかしら?」
 軽い調子で言って、香里は俺の右腕に抱きついてきた。
「栞に怒られそうだ」
 苦笑を返す。ああ見えて、人一倍やきもち焼きみたいだからな。
「あ〜っ! お姉ちゃん、なにしてるのっ!?」
 案の定、遠くから栞の声。あんまり俺たちが遅いから引き返してきたようだ。
「ふふ。早速ね」
 俺の腕を開放して、香里は俺の背を押した。
「ほら、早く行ってあげなさい」
「ああ……悪いな」
「なに言ってるのよっ」
 バシバシと俺の背中を叩く香里。
「ドラマじゃあるまいし、略奪愛なんて今時流行らないわよ」
 肩をすくめて、再び笑み。
「ま、せいぜいあなたたちの応援でもしてるわ。末永くお幸せに、ってね」
「おう。……サンキューな」
 香里に礼を言って、俺は栞のもとへと駆け出した。


 相沢君の背中が見えなくなって、あたしはため息を一つ。
 花言葉で気持ちを伝えるなんて、柄にもないことしちゃったわね。本当は、そんなつもりはなかったんだけど。
 いつまでも立ち止まっていてはダメね。早く戻って、栞のお祝いしてあげなくちゃ。
「ふう……」
 吐息を一つ吐き出して、あたしは歩き出した。
 月明かりに照らされた雪の上の空気はやっぱり冷たくて、顔に触れるそれが今は心地よかった。
「お〜い、美坂ぁ〜!」
 ホテルの明かりも目前に見えたところで、北川君が走り寄ってきた。
「栞ちゃん、見つかったのか?」
「ええ……見つかったわ」
 頷く。今日はなんとなく、北川君の気持ちが分かった気がするわ。
「なあ、美坂」
 真剣な表情で、あたしの目を見つめてくる北川君。見透かすような視線。
「な、なによ」
 しばらく、無言。さっきのことが、顔に出てたのかしら。
「…………やっぱ、なんでもない」
 首を振って、北川君は背を向けた。心配、してくれてるのかな。ありがとう。
「……北川君」
 再び、歩き出しながら。
「恋愛って、難しいわね」
「……そうだな」
 二人並んで、苦笑。ほんと、難しい。


 真っ暗な部屋に浮かぶ、十七個の灯かり。ここに集まってくれたみなさんも、今は声をひそめています。ただ時計の針の音だけが、空間を渡って行きます。うっすらと見える時計の指針は、十一時五十九分と数十秒を指しています。
「……十秒」
「九」
「八」
 誰からともなく、始まるカウントダウン。それに合わせて、高鳴っていく胸の鼓動。初めての感覚。
「三」
「二」
「一っ」
『誕生日おめでとう!!』
 食堂に鳴り響くクラッカーの音と、みなさんの声。私は、大きなテーブルに乗っかった大きなケーキのロウソクについた火を吹き消しました。十七本のロウソクの火が一斉にかき消えて、うっすらと煙がたちのぼりました。途端に、みなさんからの拍手の嵐。灯される照明。
「おめでとう、栞!」
「おめでとう!」
「栞ちゃん、おめでとう!」
 秋子さん、名雪さん、あゆさん、美汐さん、北川さん、お姉ちゃん、祐一さん。みんなが、私の誕生日を祝福してくれている。
「みなさん……ありがとうございますっ」
 涙で、視界がかすんできました。どんなドラマで見た誕生パーティより、やっぱり素敵で。自分に向けられた想いが。ほんとうに、嬉しくて、感激で。
「うぅ……っ、みなさぁん……。ありがとうっ……ございますぅ…………」
「あらあら……。泣いてたらせっかくの可愛い顔が台無しですよ、栞ちゃん。笑いましょう、ね?」
 ……そうですよね。笑っている方が、楽しいですよね。
「はいっ……」
 精一杯の笑顔で、私は頷き返しました。
「それじゃあ、ケーキ入刀ってことで……相沢!」
 北川さんが、ビシッと祐一さんを指差し、大声を上げました。
「お前、栞ちゃんと一緒にケーキを切れ!」
「な……そんな恥ずかしいこと、できるわけないだろ!」
 あはは……。結婚式ですか。
「ふふふ。いいじゃないですか。栞さんも望んでいるみたいですよ?」
 促す美汐さん。私も女の子ですから、少なからず憧れます。
「いつもベタベタくっついてるくせに、今更恥ずかしがらないのっ」
 お姉ちゃんも、いたずらっぽく笑いながら。
 周りを見ると、全員が期待の眼差しを向けてきました。
「……やれやれ、しょうがないな」
 しぶしぶ、といった感じで祐一さんが立ち上がりました。でも、行為自体に抵抗があるわけではないみたいです。男の人でも、こういうのには憧れるんでしょうか。
 私は祐一さんに微笑みかけて、秋子さんから渡された包丁を二人で握りました。これが綺麗なナイフだったら、もっと良かったんですけど。そこまで望んではバチが当たりますよね。
「……ケーキ、入刀!」
 北川さんの掛け声に、私たちは顔を見合わせました。ドキドキしながら、ケーキに包丁を入れます。
「おめでとう!」
「おめでとうございます」
 再び、拍手の嵐。なんだか照れくさいです。
「えへへ……」
 祐一さんの顔を見上げると、照れてしまったのか顔をそむけてしまいました。なんだか、可愛いです。
「祐一さんっ」
「な、なんだ」
 包丁を置いて、そっと恋人の腕を抱きしめます。
「これからも、よろしくお願いしますっ」
「……ああ。こちらこそ」
 二人で微笑み合い、みなさんの見つめる中で。
 キスを交わしました。
「くっそ〜! うらやましいぞ、相沢ぁ!」
 叫んで、グラスに満たされた透明な液体を呷る北川さん。
「……なんで酔ってるのよ…………。って、これ……」
「うぐぅ〜。祐一君、らぶらぶ〜」
 あゆさんも、北川さんと同じ透明な液体を飲んで顔を真っ赤にしています。もしかして、これは……。
「うにゅ〜、揺れるんだお〜。地震だお〜」
 お酒、みたいですね……。
「あらあら。みんないい飲みっぷりですね」
 秋子さんが黒幕みたいです。なんだか、すごい人ですね……。
「なんか知らんが、俺も飲んでやるー!」
 祐一さんも、グラスにお酒をなみなみと注いで、一気に呷りました。ぐびぐび、って音が聞こえてきそうです。
「くっは〜! 栞も、飲めっ!」
「え、えっと……」
 私のグラスに、お酒を注いで渡してくれる祐一さん。私、お酒なんて初めてなんですけど……。
「ほらほら、ぐぐーっと!」
「は、はい……」
 意を決して一気に、透明なお酒を喉に流し込みました。あう、なんだかぼんやりしてきました……。
 あ、でも結構おいしいです。もっと飲みたくなってしまいました。
「祐一さん、もう一杯くださいっ」
 もう、こうなったらヤケです。
「おぉっ、やるかっ」
 そうやってみんなでお酒を酌み交わしながら、夜が更けていきました。


「……ね、祐一さん」
「ん? なんだ?」
「来年もまた、来たいですね」
「……ああ。来年も、な」


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