私は貴方の心の中に有る「人生」といふタイトルの本に插まれた一枚の栞といふだけで良かつたのです。



思い出図書館





 残暑も抜けて涼しい日が続き、秋本番だなあ、と感じる時期に突然汗ばむくらいに暖かな日が戻ってくることがある。
 栞が彼に出会ったのはそんな日のことだった。

「今日は暖かい日でよかったわね」
「うん」

 病院からの帰り道、母の言葉に栞は小さく微笑んで頷く。
 久しぶりの一時退院の日、秋の空気は優しい日差しで温められていた。
 春先に再入院して以来、およそ半年の刻(とき)を病院の中だけで過ごした栞にとってはこうやって外を歩くだけでも楽しい。タクシーを使わなくて正解だったと栞は思った。

 数本の道路が交わる町の広場に来たところで見慣れぬものが栞の目に入ってきた。淡い色で塗り分けられた大型車が広場の端に停まっている。一見献血のバスにも見えたがどうやら違うようだ。

「お母さん、あれ何かな」

 栞が母の二の腕に触れて注意を向けさせる。

「あら、移動図書館ね。こんなところに来るなんて珍しいわ」

 そう言われてみると確かに車体の側面には『いどうとしょかん』と描かれていた。

「移動図書館て?」
「そのまんま移動する図書館のことよ。ほら、図書館てここからじゃバスに乗っていかなきゃちょっと遠いところにあるでしょう? だから図書館に行きたいけど、わざわざ高い交通費をかけてまで行きたくないという人たちのために車に本を積んでここまで来てくれるのよ」
「図書館の出張サービス?」
「そういうことね。前の図書館はもっとこっちに近いところに建っていたから移動図書館が来ることはなかったけど、いつのまにか来るようになってたみたいね」
「あ、そういえば市の合併で図書館は私が小さい頃移転しちゃったんだよね」

 栞はそんな話を聞いた憶えがあった。

「ねえ、お母さん、ちょっと行ってみていい?」

 興味を惹かれた栞は移動図書館を指差して上目遣いをする。一秒後、母の返事に顔を輝かせそちらへと早足で歩いていった。
 しかし本棚に並べられた本を眺め回すと栞は少し後悔した。背表紙のタイトルから容易に推察できたように、そこにあったのは児童向けの本ばかりだったのだ。
 苦笑いして踵を返そうとした彼女だったが、その時、自分に呼びかける声が聞こえたのでそちらへと目を向けた。

「どうぞ、手にとって見てみてください」

 そこにいたのはジーンズにカジュアルシャツ、その上にエプロンをつけた二十代前半ぐらいの背の高い青年だった。優しそうな笑みを浮かべ栞を見つめている。

「あ、図書館の方ですか?」
「ええ。本間(ほんま)といいます」
「えーと、でも、ここにあるのは子供向けの本ばかりで、私は場違いですよね?」
「そんなことはないですよ。ここにある本は大人から子供まで楽しめるものばかりです」
「でも……」
「それじゃ、僕が試しに本を見繕ってあげましょう」
「わっ」

 栞が驚いたのは、本間が急に顔を近づけて自分の顔を覗き込んできたからだった。思わず栞は一歩後ずさってしまう。

「な、何ですかー?」
「ああ、ごめんなさい。実は僕にはちょっとした特技があって人の顔を見るとその人が好きそうな本を選ぶことができるんですよ」
「えー?」

 本間の笑顔は冗談を言っているのかそうでないのか今ひとつ判断がつき難い。ドキドキとした胸を押さえていると彼は本棚から一冊の本を取ってきて栞に差し出した。
 栞はつぶやくようにそのタイトルを読み上げ、本間の顔を見る。

「騙されたと思って一度借りて読んでみて下さい。例え好みに合わなくても借りるだけならタダですから」

 栞は本を受け取るとパラパラとページをめくってみた。多くの漢字がひらかれ字も大きい。子供向けだがそれゆえ読みやすそうではある。自宅にいる間も外出は控えるように言われているのだから暇潰しにはいいかもしれない。しばし逡巡し、借りてみます、と答えた。

「それじゃ、貸し出しカードを作るので何か身分を証明するものが欲しいんですが」
「あ、それなら」

 病院帰りだったので母が都合よく健康保険証を持っていた。

「美坂栞さんですか、いい名前ですね」

 用紙に書き込む栞の手元を見て本間がにっこりとする。

「何見てるんですかっ」

 彼のその笑顔は不快ではなかったが、なれなれしい人だな、と思った。

「やはり本に携わる仕事をしている僕ですから、栞、という名前を見ると嬉しくなってしまうんですよね」
「そ、そういうことですか」

 理由は分かったが、嬉しいなんて言われると照れくさい。

「本間さんも、『本の間』なんて図書館の人にふさわしい名前ですね」
「よく言われます」

 そういえば栞って本の間に挿むものだな、と栞は残りの記入事項を書き込みながら思い付くが、なんとなくえっちな感じがしたので口にはしない。

「はい、栞さん、どうぞ。返却は来月の第一水曜日、移動図書館が次にここに来るときです」

 栞はぺこりと一礼すると、待っていた母のカバンの中に本を入れ再び帰り道を歩き出した。




「こんにちは」

 移動図書館が再びやってきたのはこの町に初雪が降り、夜になると毛布が恋しくなる頃だった。天気は良かったが肌寒いので栞は上からストールを羽織って町の広場に向かった。
 移動図書館の司書は今回もまた本間だったので、栞は安心して彼に挨拶した。

「ああ、栞さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「どうでしたか。あの本は面白かったですか?」
「はいっ」

 栞はにっこり笑って手提げから本を取り出す。

「その顔を見ればわかります。気に入ってもらえたようで何よりです」

 その時、ふと何かに気づいたのか本間は怪訝な表情をして腕時計を見た。

「あれ、そう言えば栞さんは中学生でしたっけ?」
「むっ、高校生ですっ」

 栞が口を尖らす。

「ああ、ごめんなさい。まあ中学生でも高校生でもいいんですが、まだ学校の時間じゃないんですか?」
「えっと、それはですね。今日はいわゆる一つの病欠ってやつです」

 無意味に人差し指を立てて可愛らしく答える。

「え、この間も病院帰りじゃなかったですか?」
「そうなんです。私、こうみえても病弱なんです。コホコホ」

 わざとらしい咳に本間は苦笑する。そして栞に、また借りたい本があったらどうぞ、と告げると自分は返してもらった本を書棚に戻しに行った。

「あ、あの本間さん」
「?」

 本間が振り向くと栞が恥ずかしそうに眉根を寄せていた。

「本間さん、ごめんなさい」
「え?」
「私、本間さんの言った事を疑ってました。実は、その本を読む直前まで『どうせ子供向けだから』なんて侮っていたんです。でも間違ってました。子供向けでも、充分に大人を楽しませる作品というものがあるのですね。簡単なわかりやすい言葉ばかりを使っていてもそれを巧みに組み合わせることによって深く、考えさせられる物語を紡ぐことができるんだ、っていうことを教えられた気がします」

 本間は嬉しそうにコクコクと頷く。

「それに気付いてもらえただけでも栞さんに本を貸した甲斐がありますよ。この仕事をしていてよかったと思える瞬間ですね」
「本間さんが司書さんになったのは、そういうところからなんですか?」
「まあ、そうですかね」
「それにしても本間さん。この前言ってましたけど本間さんは人の顔を見るとその人の好きな本が分かるって本当ですか?」
「栞さんはどう思いましたか」
「だって、本当に楽しめたんですよ。不思議です」
「ふふっ、実はですね。僕は普通の人にはない、変わった能力を持っているんです。人の瞳の奥を覗き込むことで、その人の潜在意識を読み取ることが出来るんですよ。だからそれに従って好みの本を薦めることができるんです」
「潜在意識を読み取る!? 本当ですか?」
「いえ、嘘です」

 しれっ、と言い放ち本間は舌を出す。

「な……」
「そんなSFみたいな話がそうそう簡単に起こるわけないじゃないですか。栞さん、信じました?」
「もうっ。そんなこと言う人、嫌いですっ」

 本間の腕をぺしぺしと叩く。彼は笑いながら痛い痛いと訴えた。

「種明かしをすると――まあ、種明かしという程のものではないですが、ここにある本は全て面白いんですよ。僕が厳選したものばかりですからね」
「じゃあ、私の顔を覗き込んだのは、あれは何だったんですか?」
「あれは、初めに面白そう、という先入観を与えておくためのハッタリです」
「……騙されました」

 じっ、と栞は本間を睨み付けた。

「でも、騙され続けてあげますっ。本間さん、今度も私の為に面白い本を選んでください」
「かしこまりました。お嬢様」




 吐く息が白く濁る季節になっていた。道路は解けた雪でぐしゃぐしゃになっており、栞は全身を冬仕立てにして移動図書館へと向かった。

「私の他にここに来る人、いるんですか?」

 本を返しながら栞は本間に尋ねる。自分がここに来るときにはいつも他の利用者がいない。

「いますよ。ときどき小学生くらいの子供たちが借りていきます。でも借りていく人の最年長さんは栞さんですね」
「なんか悔しいです。こんなに面白い本ばかりだというのに」
「子供向けの本の宿命なのかもしれません」

 寂しそうな表情をしつつも彼は淡々と語る。

「名作であっても、なかなかその名が残らないのは哀しいですね」
「だから本間さんは少しでも子供向けの本の良さをしてもらおうとこうして周っているわけですね」
「……ここの書棚にあるのは、本の幽霊たちなんですよ」
「幽霊?」

 話の流れにふさわしくない単語が出てきたので栞は訊き返した。

「本が化けて出てくるんですか?」
「栞さんは、どうして幽霊が出てくるか知っていますか?」
「どうして、って。それは、生きている間に未練があったまま死んだ人が、死に切れない、とこの世にとどまるからでしょう」

 栞はそう一般的な解答をしたが、死という言葉を口にして一瞬ズキッと胸に痛みが走る。

「そうですね。これらの本も同じです。深く愛されていたにも関わらず、棄てられてしまった本たちの無念を僕は形にしているつもりなんです」

 本間は書棚の方を仰いで真剣な顔で言った。栞は彼のそんな顔を見つめ、話を聴き入る。

「僕なりの表現ですが、本の死というのは、人の記憶からその本が消えたときのことだと思っています。そして本が愛されるということは何度も読み返されたり、思い出されたりすることです。しかし子供は本を扱う力加減を知らないのですぐに本が傷んでしまいやがて資源ゴミとして棄てられてしまいます。他方で、大人からは所詮子供向けだから、と読む前から見下されて手にとってももらえません。だから子供向けの本は寿命が短いのです」
「それで本間さんは本の幽霊、なんて言ったんですね。幽霊なんて言うから怖い話かと思いました。でも、『覚えていて欲しい』という本間さんの祈りを込めた意味で使っているならそれは素敵なことだと思います」
「僕のこの活動も些細なものですけどね。栞さんはどう思いますか。愛されるが故に傷ついてしまうことと、傷つきはしないけれど初めから関わらないようにされること、どちらがいいと思いますか」
「そんなこと、」

 決まっているじゃないですか、と言おうとした栞は喉がつかえてしまう。彼女は言葉を紡ぐことができなかった。
 沈黙の中、本間は栞の顔をじっと見つめたが何も言わない。栞は自分の心の内を見透かされそうな気がして、抵抗するために声を出した。

「何ですか。そうやって人の顔をジロジロ見るのは失礼ですよ」
「いえ、また栞さんの好きな本を見繕ってあげようと思っただけですよ。今日も本を借りていきますよね?」

 暗くなっていた雰囲気を一転させるように表情を明るくして本間が言う。
 その言葉が真実かどうかはわからなかった。
 しかし、栞は敢えて本間を信じることにして二人で書棚から幾冊かの本を選んで借りた。

「また、来月の第一水曜日にお会いしましょう」




 年が明けて初めて移動図書館がやってきたその日、町には冷たく強い北風が吹き付け、小雪を舞い散らしていた。
 閉めていた車両の自動ドアを叩く音が聞こえ、本間は窓ガラス越しに来客の顔を見た。

「栞さん」

 本間は運転席のスイッチを押してドアを開け笑顔で彼女を迎えようとした。しかし栞の表情は緊張でひきつり、寒さのせいで頬や鼻が真っ赤になっていた。声を掛けようとすると彼女はクシュンと一度クシャミをした。

「栞さん! 風邪ですか?」
「大丈夫です」
「でも、栞さんは少し身体が弱いんでしょう? 具合が悪いなら今日みたいな日に無理して来なくてもいいんですよ。本の返却なら他の方に頼むとか、何なら来月に延ばしてもよかったんですよ」
「いいえ。本間さんとどうしてもお話ししたかったんです。できるだけ早く」
「話って……いや、ここじゃ普通に話なんてできませんよ。本格的に風邪をひいちゃいます。この車で家まで送っていきますよ」

 しかし栞は本間の服の袖をつかみ、小さく横に首を振る。

「お願いです。ちょっとだけ時間を下さい。本間さんに訊きたいことがあるんです」
「でも」
「お願いします! 私には来月があるかどうかも分からないんです」

 栞の声には悲壮なものが混じっていた。
 本間は栞を中に入れると再び自動ドアを閉めた。

「本間さん、あなたはいったい何者なんですか」
「随分な質問ですね。何者と言われても、僕は一介の図書館の司書にしか過ぎませんよ」
「嘘です。市立図書館に電話してあなたを呼び出そうとしたら、本間という人はいない、と言われました。しかもこの場所に移動図書館のサービスはしていないというじゃないですか」
「電話、したんですか」

 本間はふう、と息を吐く。

「でも僕は怪しい者ではないですよ。ただ、この移動図書館は市町村に所属しているものじゃなくて、僕が趣味で勝手に全国を旅しているだけだったんです。胡散臭く思われないために図書館の人間だと身分を偽りましたけどね。でも何故僕を呼び出そうとしたんですか」
「本の幽霊に出会ったんです」

 栞は鞄から、借りた4冊の本のうちの1冊を取り出し、本間に突きつけるように腕を伸ばした。

「この本を私に薦めたのは何故ですか。私のことを知っていてこの本を薦めたんじゃないんですか」
「……その本、面白くなかったですか」

 栞はかぶりを振った。

「面白かったです、とても。だから怒っているんです。とても面白くて、面白かったから、昔、小さい頃この本を読んだことを思い出してしまったじゃないですか。前に本間さん、言ってましたよね。人の顔を見ると好きな本が分かるって。それって」

 彼女の目元が赤く染まり、睫毛が滲んだ涙で光った。
 
 その一冊は、かつて美坂家の書棚にあった本だった。幼き日の栞は、姉からよく本を読み聞かされていたが、特にこの本がお気に入りで何度も読んでほしいと姉にせがんでいた。読んでくれる人がいないときでも栞はこの本を引っ張り出してきては、読める字を拾い、挿絵から物語を思い出しつつわくわくする時間を過ごしていた。
 しかし美坂家がアパートから一軒家に引っ越す際にその本は汚れや痛みが激しかったので棄てられたのだった。

「思い出したんです。この挿絵の色使いが好きだったことを。主人公がピンチのときにわんわんと泣いたことを。そして場を盛り上げるように緩急をつけた読み方をしてくれたお姉ちゃんのことを」
「どれも、大切な思い出ですね」
「本間さん。本間さんは本当は、本当に人の潜在意識を読み取る力を持っているんじゃないんですか? だからこの本を私に渡したんじゃないですか?」

 本間は口を開きかけ、そして何も言わずに閉じた。

「思い出したくなかったです。自分があんなにも感情豊かだったことを。そしてお姉ちゃんのことを好きでいたことを」
「僕にはそれらは大切なものとしか思えないんですが、どういうことですか。お姉さんのこと、好きではないのですか」
「……嫌いです。お姉ちゃんは、私に事実上の死刑宣告をしたんですから」

 堪えきれず、栞の頬を涙が伝った。彼女はあわてて手の甲でそれを拭う。

「私は小さい頃から身体が弱く、入退院を繰り返す生活でした。それでも私は幸せだったんです。家族と一緒にいられたから」
「……」
「でも、去年の春に私が倒れて以来、家族の態度が一変しました。私みたいな入院ばかりしてる子なら敏感にそれを感じるんです。お父さんやお母さんは気持ち悪いくらいに優しくなりました。そしてお姉ちゃんは……お見舞いに来なくなり、たまに退院して家に戻ってもほとんど口をきいてくれなくなったんです。これらがどういうことを意味しているのか、本間さんにも分かりますよね」
「栞さん、だけどそれは」
「慰めとかお説教なら聞きたくないです。そんなものは人を傷つけるだけです」

 外の風がぴたりと止み、音が消えた。

「私、本間さんには感謝しているんですよ。一時しのぎとは言え、恐怖を忘れさせてくれるくらい面白い本をたくさん教えてもらったんですから」
「…………栞さん、家まで送りますよ」

 本間は強引に話を打ち切ると運転席に座り、キーを差し込んだ。貸し出しカードの申し込み書から栞の家の住所は分かっている。

「ねえ、本間さん」
「はい?」

 広場を抜けたところで栞が話しかける。

「私の家に行くのはやめにして、このまま私を本間さんの旅に連れて行ってくれませんか?」
「何を言っているんです」
「本気ですよ。駆け落ちみたいでロマンチックじゃないですか」
「栞さん!」
「私の人生の中の最後で最大の我侭、訊いてはくれませんか?」
「……栞さんが本気だと言うのなら、その証を見せてもらえませんか。僕の言う条件をやりとげてくれたら、連れて行くことを考えてもいいです」

 本間は怒気を抑えた声で言う。

「条件って何ですか」
「お姉さんと仲直りしてください」
「そんな」
「親しい人と別れる時に必ずやっておくべきことです。僕もそうでした。どんな事情であれ、仲違いしたまま別れてしまうのは絶対に後悔します。たとえ今は口もききたくなくても、です。どうですか。仲直り、出来ますか」

 本間は栞が今一番やりたくないことをやれと言った。彼がそんなことを言った意味に気づかぬ程栞は幼くなかったがささやかに残っていたプライドが彼女に意地を張らせた。

「わかりました。やってみせます」
「そうですか。それじゃ栞さんを送り届けたら、僕はまた広場に戻ります。仲直りが出来たら来てください。僕は今日の真夜中に次の予定地に出発します」



 栞は自分の部屋のベッドに座って待っていた。姉が入浴を済ませ、ぺたぺたと階段を上ってくる音を聞くたび、まるで恋をしているかのように心臓がドキドキと跳ね上がる。
 やがてドアが開いて閉まる音が聞こえると、栞はぎゅっと本を胸に抱く力を強くした。それは姉と自分の思い出の本。今日返却するつもりだったが、本間から「必要ならまだ借りていていい」と言われた本だった。
 栞は立ち上がってドアに向かうと、そっとノブに手をかけた。

 ――怖い。

 だから、ノブを捻る音もドアが閉まる音も姉の部屋までの足音も聞かれないよう、やりすぎなくらいにそっと行なった。そんなことをする意味などないというのに。

「ねえ、お姉ちゃん」

 勇気を振り絞って声をだす。

「入っていい?」

 ぎしり、と椅子の軋む音。しかし姉の声は聞こえてこない。

「私ね、図書館で面白い本を見つけたの。ずっと前にうちにもあった本。懐かしいよ」

 そして栞は本のタイトルを口にして反応を待つ。しかし物音すら聞こえてこない。

「よくお姉ちゃんに読んでもらったんだけど、あんまりしつこいから、お姉ちゃんに怒られたよね」

 ――――。

「憶えてる? あの挿絵? ほら、よく二人で画用紙にクレヨンで模写してたよね」

 ――――。

「ね、ね、とにかく一度見てよ。記憶が蘇ってくるから」

 ――――。

「……お姉ちゃん、お願い。ドアを開けて。入っていいって言って」

 無言。

「お姉ちゃん」

 姉の部屋には鍵など掛かっていないから、いつだって自分の手でドアを開けて中に入ることが出来る。

 けれど栞はそうしなかった。出来なかった。



 本間の移動図書館が闇の中、次の目的地へと走って行った。
 


 栞の部屋のドアがノックされる。

「栞、大丈夫? 具合悪いの?」

 翌朝、栞がいつまでも起きて来ないのを心配した母親が彼女の部屋にいくとそこはもぬけの殻で。
 一枚の栞が挿まれた古ぼけた本がベッドの上にあるだけだった。



(了)

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