彼女が悲しそうなことは、誰の目に見ても明らかなことであった。
日頃朗らか明朗快活、唐竹をチェーンソーでぶった切ったようにすっぱりとした性格の彼女。
それは多少は小悪魔的なところもあるが、それはまぁ少女に良くある範疇であろう。
そんな彼女が突然悲しそうになってしまったのだ。
彼女の名は……美坂栞。
花も恥らう高校生。
見た目は大変に儚げな少女であるのだが……普段はとても元気。
……なのであったが。
悲しそうなのである。唐突に。
季節は冬。北の街には雪が降り積もり、身を切る寒風が吹きすさぶ。
そんな季節だからだろうか……。
とにかく、悲しそうなのである。
彼女の恋人である相沢祐一は、お蔭で最近困り果てていた。
何を話そうが、何を行おうが、笑ってくれない。
じっと俯いて黙りこくる少女。
多少なりとも気心が知れていると思い込んでいただけに、その少女の豹変は彼にとって大変にショックなことであった。
せっかくデートに誘っても、黙って首を横に振られるか、例え付き合ってくれたとしても俯いたっきり。
これでは恋人としての甘い雰囲気もへったくれも無い。
何がどうしてこうなってしまったのか、原因は何なのか、彼にはとんと思い当たる節がない。
笑って欲しいのだ、彼女には。
雪の中から顔を出した小さな花のような、そんなほっとする笑顔を。
でも、それは叶わない。
美坂栞は悲しげな表情のまま。
そんなこんなで結局笑顔のひとつも見られぬまま、朝起きて学校へ向かう祐一である。
隣を歩く従兄妹の少女は今日も元気だ。
その無駄にのほほんとした元気のほんの僅かでも、栞に分け与えられれば……。
やはりあれか、惰眠をむさぼると脳内化学物質の影響も一味違うのだろうか。
基本的に寝て起きれば悩みの解消する単純単細胞だものな。
そんな失敬なことを思う祐一である。
とまれ教室に入る。
その途端、祐一は猛烈な力で空中に吊り上げられた。
「げふっ!? 何だよ!?」
祐一を吊り上げている張本人─── 一人の少女。
学内でもそれなりに名の知れた優等生。
暴力無縁、才色兼備。そんな存在。
彼女こそ、美坂香里。
その名が示す通りに、美坂栞とは血縁関係、ぶっちゃけ姉である。
そんな美坂香里が祐一を吊るし上げる理由……何事か。
「何するんだよ香里!」
「自分の胸に聞いてみなさい!」
額に青筋立てている彼女。
祐一の胸倉を掴むその拳には激しく力が籠められ、制服が破けてしまうのではないかというほど。
その細腕のどこにそんな力があったのか。人は見かけによらないものだ。
自分でも驚くほどに冷静に状況を分析した祐一は、とりあえず自体を打破するために彼女へ説得を開始した。
「とにかく離せ。このままじゃ落ち着いて話もできない」
「問答無用よ!」
完全に頭に血が上っている。
よくよく見れば彼女の目の下には隈ができており、気のせいかちょっと老け込んでいるようにも見える。
元々ちょっと実年齢よりも年上に見られがちな香里である。
今の彼女は仕事に疲れて自宅に帰り、着衣のままベッドに伸びるOLのようだ。
正直にそんなことを口にしてしまえば流血沙汰は必至なので、懸命に堪える祐一だ。
「なに疲れた顔してるんだよ?」
「疲れもするわよ! 相沢くんのお蔭で、あたし最近熟睡もできないのよ!」
どうにも胸の内でもやもやとわだかまっているらしい香里。
これはあれだろうか。人知れず恋に恋して胸を痛めて睡眠不足?
しかしまさか彼女に限って……そもそも祐一は彼女の妹の恋人なのだからして。
禁断の三角関係というのも、ちょっとドラマみたいでかっこいいですよね……。
栞ならばそう言うだろうか。
「どうしてくれるのよ! 相沢くんのお蔭で栞、ふさぎ込んじゃってるじゃないの!」
「俺のせいかよ!?」
祐一にはまったく身に覚えのない話。
そもそも彼自身が栞の態度に一番やきもきしているのだが。
「ご飯もろくに食べないし、いつも悲しそうな顔してるし、一緒にお風呂に入ってもくれなかったのよ! あのすべすべな肌を洗うのが楽しみだったのに!」
シスコンだ……。
シスコンだよ……。
ざわざわと教室の中で囁き声。
生シスコンというのはめったにお目にかかれるものではない。
早速携帯で写真をとって、メールでどこかへ送る者の姿も見受けられる。
もはや珍獣扱いの香里。
日頃のクールなイメージとのギャップがまた滑稽なのだろう。
そんな香里に吊るされている祐一にとっては、それどころではないのだが。
「キーッ!! 相沢くんがあたしの栞をー!」
「OK待て、ときに落ち着け」
ともあれこのままというわけにもいかないだろう。
懸命に無い知恵振り絞って考える。
「分かった、俺が悪かった。謝る。謝るから降ろしてくれ」
「そんな顔色で言われたくないわっ!」
ちょっと絞められすぎて、祐一の顔は青ざめている。
傍目には少々不誠実な顔に見えるのかもしれない。
しかしこれは不可抗力だ。生理現象だ。
人間の体の構造からして、首を絞められれば頭に血が行き渡らなくなるもの。
この状態が続けば失神、そして極楽往生。
新聞の一面には載るだろう。……地方新聞の、だが。
「北川っ! 間抜け面で見てないで助けろ! それでも友達か!?」
傍で様子を眺めている祐一の友人……北川に声をかける。
「……美坂、凛々しい……」
聞いちゃいねぇ。
やはり他者の力に頼るのは良くない。人間として駄目になる。
自力で解決、あと腐れなく。それが人の生きる道ってものだろう?
辛うじて残された理性で結論付けた祐一は、ともかく美坂香里をなだめようとする。
「何でもする! 靴でも舐める! だから助けてくれっていうか早く降ろせ馬鹿」
「この○×○×がーっ!!」
説得は失敗に終わった。
やはり不誠実だと言葉も届かないものだ。
日頃から品行方正であるならば祐一の言葉も届くであろうか。
しかしそれは彼には酷だろう。そういう便利な生き物ではない。
身についた習性というものは容易には消え去ることは無く、思うがままを言葉の端に散りばめてしまうは定め。
少々女学生には不適切な発言をした美坂香里。
その怒りはますます募るばかり。
その時、救いの神が現れた。
「あー、席につけー」
救いの神は髭面だった。
しかし神の言葉も教室の中には届かず、無信心な生徒たちは降って湧いた修羅場に見とれるばかり。
「美坂、相沢、仲が良いのは結構だが、ホームルームだぞ」
担任の教師、石橋にはそう見えるのか。
神の目は節穴だ。
「香里、席に着かないと出席が取れないよ」
名雪がそう言葉をかける。
そうか、彼女が仏だったのか。
地獄の祐一に蜘蛛の糸を垂らす、慈悲深き者だったのか。
「出席が取れないと授業進まないし、進まないとお昼休みにならないし、ならないとAランチが食べられないよ」
仏はずいぶんと自分勝手であった。
まったく、神も仏もあったものじゃない。
信じられるのはやはり、自分だけ。
人生これセルフサービス。賽を振っては出目に導かれる、壮大な双六だ。
となれば今の祐一は『一回休み』だろうか。
……状況からすると人生やり直しになりそうなので、スタートに戻るだろうか。
ゴール直前にこれがあると、しかもそれに引っかかると、なんだかもうどうでもよくなる心境。
人生始まったばかりの祐一にとっても、げんなりすることに変わりは無く。
何は無くとも、こんなマスに留まることなく賽を振らなければ。
次の一手、天国か地獄か。
「栞のことは、俺が責任持って何とかする! だからもうやめてくれ!」
「責任ですって!? やることやっておいてそれ!? 栞の純潔は返ってこないのよ!!」
ますます力みなぎる香里。
祐一の死亡予想時刻、若干早めに修正。
どうやら祐一の止まったマスは『人生3マス進む』だったらしい。
しかしどうにも香里の暴走は止まらないものだ。
思い込んだら一直線なところは、なるほど姉妹よく似ている。
……感心するどころではない。
そろそろ祐一も限界だ。
そもそも先ほどからまったく状況が動いていない。
三文小説ならば金返せと言いたくなる単調さだ。
世の中もっと起伏があったほうが良い。
単調な人生なんてヘイトである。
そう思ってしまうのが祐一の若さか。
その祈りが天に届いたのか、ようやく事態は動き始めた。
ただし、それは決して祐一にとって良い方向というわけではなく、極めて迷走錯綜支離滅裂であったが。
「いっぺん死になさいっ!」
ネックハンギング・ツリーから片手で祐一を放り投げる香里。
派手に椅子やら机やらを蹴散らし、おまけのように生徒数人も巻き添えにして、祐一は再び大地に帰ることができた。
長らく空を旅してきた彼にとって、それは喜ばしいことであったのだが、体中痛いのは我慢できない。
やはり生身で大気と重力の頚木から解放されるのには、多少の無理があったのか。
人間とは、かくも不自由な生き物であるのか。
やはり空を行くならファーストクラス。譲れない一線。
しかし生憎と美坂香里プロデュース空の旅、チケットは片道エコノミークラスのみ。
そのくせマイレージだけは多く貯まるのだから始末が悪い。
油断すれば即もう一回。
祐一がエコノミークラス症候群になる日も近い。

……さて、香里の暴走もめどがつき、何とか普通に授業が行われていく。
そしてそろそろ昼休み。
学生にとってはひと時のオアシス。
それは相沢祐一にとっても例外ではない。
しかも彼の場合、この時間になると恋人が昼食両手にやってくるのが慣例である。
片手ではない。両手なのだ。
比喩でも誇張でも誤字脱字でもIMEの不調でもない。
具体的に言えば、箱。
箱を抱えてよっこらせとやって来るのが、美坂栞。
恋人の手料理といえば、世の男性諸氏には垂涎たるアイテム。
これに異存はあるまい。もっとも、彼女料理がちょっとね……むしろ化学実験? というような方がいれば申し訳ない。
ともかく、相沢祐一もご多分に漏れず栞のお弁当は楽しみである。
差し出されれば、文句も言わずに食う、食う、食う。
不平不満が無いわけではない。
むしろ言いたい。この量は何なのか、と。
重箱何段も重ねて持ってくるなんて、ちょっとおかしいのではないだろうかと。
しかし言葉を発しようとすると逆流してくる恐れがあるので、それもままならず。
お蔭で美坂家のエンゲル係数は頓にうなぎのぼりで折れ線グラフは天を突く。
美坂家のもっぱらの悩みは、いくら入れても中身の増えない冷蔵庫である。
それはそれとして。
美坂栞がやって来ない。
いくら待てどもやって来ない。
鳴る腹押さえつつ、名雪が食堂に旅立っていくのを眺めつつ、香里が彼の尻に蹴りを放っていくのを受け止めつつ、祐一は待つ。
待てば海路の日よりあり。待つこと自体は苦ではない。
適度に思考実験でもしていれば、すぐに時間は過ぎ去ってゆく。
そして祐一が『何故失恋すると北へ旅立つのか、それについての自身の北国体験による考察と推論』に思いをめぐらせていると。
「……」
現れた。美坂栞その人が。
しかし以前のように元気よく祐一の名を呼ぶこともしなければ、それ以前のように恥ずかしげに戸口から顔を覗かせるでもなく。
ただ、ひたすらにブルーな面持ちで。
「……祐一さん、お昼です」
「あ、あぁ……」
祐一に差し出されたもの。
それは見慣れた重箱ではなく、一個のコッペパンであった。
極めてコッペパンだ。
裏返してみても、逆さに降ってみてもコッペパン。
世にはジャム入りマーガリン入りなど、様々な種類のものが出回っているが、奇をてらうことなくオーソドックスなコッペパン。
つまり、素コッペパン。
「……どうしろと?」
思わず問うてしまう祐一である。
「だから、お昼です」
にべもない。
ちなみに『にべもない』とは、『にべ』という魚の名前からきている。
にべの浮き袋は昔、接着剤の原料として利用されていた。
それが転じてにべもない、粘着しない、味も素っ気もないという意味になったわけで。
……雑学はどうでもよろしい。
今はコッペパンである。
世にどれだけわびしいものがあろうとも、昼食にこれを差し出される男ほどのものは無いであろう。
期待したのは真心籠もった手料理。しかして現実はコッペパン。
あぁ無常。
しかし受け入れなければなるまい。現実とはかくも非情であるならば。
コッペパンをもそもそ口にしながら、祐一は栞の様子を窺う。
相変わらずに俯き、よく表情は見えない。
しかし何かを堪えているような、そんな悲しげな様子は伝わる。
その悲しみ、代われるものならば代わってやりたい!
それが祐一の偽り無き気持ちであり、愛を胸に秘めた男の心意気。
それは実に天晴れであったのだが、さてそれでどうしたかというと、何も変わらない。
人の痛みが分かるなんて言える人間、どうにかしているというのが現実。
人の痛みなど、どうしたって他人に分かるはずが無い。
それを知ったかぶりで分かるなどと言えば、さて内心馬鹿にされるがオチである。
それでも多少なりとも力になりたい……それは真実。
だから祐一は声をかけたのだ。
「悲しみとは、心に非ずと書く。つまりだな……あれだ、悲しむのは良くない」
彼のボキャブラリーでは、少々荷が重かったようだ。
何の慰めにもなっていない。
果たせるかな、栞は顔色ひとつ変えず、相変わらずどよーんと効果線を背負っている。
作画泣かせとはこのことか。
それはさておき、このままではどうにも良くない。
彼女には笑顔でいてもらいたい。
たまにふくれっ面も良い。
拗ねた表情など心が躍る。
甘えた顔など尚の事。
喜怒哀楽多種多様に変化するが人間たれば、それを恋人に求めることに何の不都合があろうか。
愛する者のあらゆる表情を独占する権利が、恋人にはある。
それは言い過ぎであり、人権団体から叩かれようものだが、ともかくそうであると言えばそうなのだ。
かくして祐一、栞のご機嫌を取ろうと四苦八苦。
軽い世間話からディープな大人のジョークまで。
並の人間ならば笑うか怒るか泣き出すか。
そんな手八丁口八丁であったが、栞にはまるで効果なし。
そもそも聞いているのやらいないのやら。
「……じゃ、私はこれで」
去っていく。あっさりと。
栞が去っていく。
その姿はタイトルマッチに負けたボクサーがリングを降りる時のように、儚げでか細くて頼りなくて。
思わず追いかけてその肩を掴む祐一。
「やめてくださいっ!!」
強烈な否定の言葉とともに、繰り出されるは栞の裏拳。
鋭く祐一の顔面に突き刺さる。
「げぶらっ!?」
「祐一さんの馬鹿!!」
駆け去っていく栞。きらめく涙。
何が何でありどうなったのか、唖然とする祐一。
まさかここまで強烈に拒否されるとは思わなかった。
自分は彼女にとって、その程度の存在だったのか。
負け犬のバラードを口ずさみながら、自分の席へと戻る祐一。
何が栞をそこまで悲しませているのだろう。
それは或いは祐一自身なのか。
だとすれば、原因は何だ。
あれか、『あの時』にストールで後ろ手に縛ったのがまずかったのか。
しかし拘束プレイ、なかなかに堪能してしまった……。
悔やんでみても、アフターカーニバル。
もはや取り返しのつかない事態に大発展か。
「いっちご、いっちごー♪」
鼻歌というよりも、もはやはっきりと口に出して、頭沸いてるんじゃないかという歌を歌いながら戻ってきた名雪。
落ち込む祐一を前に、一言。
「どうしたの祐一? もしかしてあの日?」
「俺はきっぱりと男だ」
ブルーになる理由が違う。
物事を女性中心に考えるのはよろしくない。
そりゃ、男女同権であるからして差別はしないつもりではあっても。
その発言はあんまりだ。
「相沢くん、栞、来たわよね?」
香里も戻ってきた。
開口一番に栞のことを聞くあたり、かなり重度のシスコンだ。
いやいや、或いはそれは姉心であるのかもしれないけれど。
もはや言い逃れできないほどにシスコンってる香里だ。
その一言、一字一句に至るまで、偏見の目で見てしまうのは仕方がない。
「栞に変なことしなかったでしょうね?」
「するか。風呂で妹の成長具合を確かめる姉に言われたくないって」
ぼぐっ!
祐一の顔にめり込む拳、その時クラスメートは見た。
振るわれた香里の拳の先端に、確かにそれを包み込むように雲が生じていたのを。
……音速突破?
小技の利く少女だ。
「北川くん、相沢くんの様子見ていたでしょう? 報告してちょうだい」
「はっ! 嫌がる栞ちゃんを無理やりに押さえつけ、泣かせていました!」
「……相沢く〜んっ!!!」
北川の馬鹿。大馬鹿。グレイテストフルリミテッド馬鹿。
余計なこと言うなっていうか脚色入ってるじゃないか。
そう声を大にして叫びたかった祐一ではあるが、それを許さぬ存在一人。
無言の中にも強烈な殺気と怒気、視線で心臓の弱いお年寄りや体の弱い幼児を殺せそうな香里。
そしてやおら手近な椅子を引っ掴むと、大上段に振り上げる。
「神が手を下さないのならば、あたしがこの手で相沢くん、いやケダモノを!」
逃げ惑う祐一、追い掛け回す香里、眠る名雪、巻き添えで昏倒する北川。
クラスは蜂の巣を突いたかのような大騒ぎ。
基本的にこのクラス、自分に関わり無ければあとはどーでもいーけんね、そんな集団の集まり。
遠巻きに眺めはしても、手も出さず口も出さず。
むしろ手早く賭け率を出し、札びらが飛び交い、小銭は舞い、黒板はオッズ表で埋め尽くされた。
一番人気は『祐一、三分で保健室へ』だ。
親が見れば卒倒しそうな素敵クラス。団結力は花丸です。
「人誅!」
香里の攻撃!
3回当たり、18のダメージ!
追加効果・ノックバック!
祐一は吹っ飛ばされた。
しかし、その場所が悪かった。
その男、名を仮にAとしておこう。
昼休みも終わり、Aは教職という自分の職務に忠実に、たまたま普段よりも早くその教室にやって来たのだ。
そしてガラッと扉を開き、小粋に皆に挨拶でもしようかと口を開いた瞬間、Aに激突する祐一。
飛翔する弾丸の衝突時エネルギー保存式は、1/2×弾丸密度×弾丸消耗速度2=1/2×装甲密度×装甲貫通速度二乗であり。
まぁ手っ取り早く言うと、祐一は教師Aの装甲を貫徹した。
更に簡単に言うと、教師Aは吹っ飛ばされた。
かてて加えて後頭部をしたたかにぶつけた。
教師A、殉職。
登場から三秒、脇役としては健闘した方か。
それはともかく、教室はたちまち大騒ぎになった。
誰も教師が巻き添えで倒れるとは予想していなかったのだ。
大番狂わせ。ハズレ賭け札が乱れ飛び、乱闘が起こり、胴元はほくそ笑んだ。
しかしまぁ、その狂乱も一時。
すぐにクラスメートが集い、祐一と香里に賞賛の言葉を浴びせる。
それはそう、何しろこれで次の授業はフリータイム。
自習なんて、好き勝手にやるだけの時間であるからして。
保健室送りになった教師Aには悪いが、二人に最大限の感謝を。
ありがとう、ありがとう!
君たちは希望の星だ!
……言い過ぎ。

放課後になり、祐一は辛うじて生きていた。
命の危機は何度も訪れ、そのたびに知恵と勇気と希望と愛とで乗り切った。
もっぱらというかほとんど、それは香里によって引き起こされたもの。
一人アルマゲドンになってしまった彼女。
それを同じく一人で受け止める祐一。
世が世ならそこに愛が芽生える展開もあったかもしれない。
しかし生憎と、この世界はそれを許さない。
イレギュラーは排除、文筆滞ればそれすなわち文章書きの名折れ。
決められたプロットどおりに物事進むが世界の理。
有り体に言えば、話が脱線すると困る人が若干一名。
閑話休題。
とぼとぼと祐一は歩く。
本来ならば、その隣には愛する人がいるべきなのに。
校門で待ち合わせ、そして軽く散策しながら帰宅、或いはそのままデート。
それがセオリーってもの。
なのに彼女は待っていてくれない、姿も見えない。
念のために栞の下駄箱を覗いてみたが、そこには靴は無い。
「女の子の靴箱覗いてる……?」
「……ストーカー?」
「……足の匂いフェチ?」
「……ソックスハンター?」
「要するに変態なんでしょ?」
「通報しておく?」
陰口叩くは、遠巻きに眺める女生徒たち。
祐一に聞こえなかったのは幸いであった。
もしも聞こえていたならば、世を儚んで屋上から身を投げていたかもしれない。
祐一、意外とナイーブ且つセンチメンタルな少年。
というかそれだけ言われれば、誰だって穴があったらライフダイブアピール。
まぁそんなわけで、一人寂しく家路につく祐一。
それでも素直に彼の現在の住所である水瀬家へと足が向かなかったのは。
やっぱり、寂しかったからだろうか。
やさぐれ祐一、向かう先はあの公園。
ちょっと街の中心からは離れた、あの公園。
色々と思い出詰まった場所。
相変わらず雪で真っ白で、人の気配も無くて、共同墓地のような静けさ。
もしかしたらこの地下、本当に人骨のひとつやふたつ。
きっと地元の人間は知っているのだ。あの場所こそは、魑魅魍魎渦巻く恐怖の地。
合戦場であった、死刑場であった、空襲で焼かれた、猟奇殺人が起こった……。
理由は諸氏の想像に任せる。
ともかく、何かまずいことが起こって、地元の人間は避けているのか。
そうでなければ、暇な人生に疲れきった老人の一人や二人、ベンチで昇天する寸前のように眠りこけていたって。
そしてそれに鳩が群がっていたって。
違う、それは餌じゃない、確かに老人は萎びれてするめに似ているけどちょっと違う。
そんなこと畜生に分かるものか。
「……一人だと、堪えるな」
寒さにぶるっと身を震わせる。
元々寒さにあまり強くない祐一のこと。
温もりが側に無いのでは、この寒さはきつい。
「栞が悲しんでいるんだったら、俺はいつだって力になってやるのに……」
こみ上げる怒り、無念、やるせなさ。
体に満ちるは無力感。
男なんて、所詮はこんなものか。
いざという時に女の力になってやることもできない。
女は男を包み込んでやることができるのに。
男ときたら、泣かせるだけか。
「俺、どうしたら良いんだろうな……」
問いかけても答えは返ること無く。
祐一はただの少年だ。神でも悪魔でも勇者でも魔王でもHEROでもDARKHEROでも天使でも堕天使でもない。
少年なのだ。誰もが一度は通る、思春期の真っ只中の。
力も知恵も、人並み。多少取り柄があるとすればまぁ優しさくらいだろうけど、それだってマザーテレサには負ける。ストレート負け。
つまるところ無力極まりないわけで。
そんな彼が、栞のためにしてやれることなんて。
「なーんにも無い、か……」
ぼふっと背後に倒れこむ。
幸いそこには雪が積もっていたために、祐一は醜態を晒すことは無かった。
しかし情けないことに変わりはない。
情けなくて、何だか瞳が潤んだ。
「祐一さん?」
聞き覚えのある声。祐一は立ち上がる。
そこには忘れようとしても忘れられない、一人の少女。
「栞……」
「こんな所で、何をしていたんですか?」
相変わらず栞は悲しそう。
それでも何となく、そう何となくだけれども、祐一のことを心配しているような。
そんな気がして。
「何って、雪に人型を残す遊び。ほれ、くっきり綺麗だろ?」
今まで倒れていた場所を指差す。
「……頭、大丈夫ですか?」
「失敬な!」
万事がこれ。こういうもの。
本当はもっとキザな言葉をかけたい。
でも、照れくさい。
作り笑いはしたくない。
だから、心からの笑顔で。
馬鹿をやってみせれば、きっと。
彼女だって、微笑んでくれるさ。
「まったく、人が辛い思いをしているのに、祐一さんは……」
「それは栞だって辛いだろうけど、もっと笑顔でハッピーにだな」
「無理です。痛いんです」
「心の痛みなんて、笑えば吹き飛ばせるさ」
「……心の痛み、ですか?」
「……ですです」
……。
栞はぽかんとした顔をして、ちょっと俯いて、おっかない顔をして、軽く微笑んで。
そして急に苦虫噛み潰したような顔になって。
「軽く言ってくれますよね。私はこんなに苦しんでいるのに」
「だったらその原因、話してくれたっていいだろ? 俺たち仮にも、その、恋人……だろうし」
「……話せません。話したらきっと祐一さんは……」
所詮は心はその人間の問題か。
いちいちとやかく言えることでもないのかもしれない。
それでも、と祐一は思うのだ。
少しでも、彼女の痛みを取り除ければ……。
「そうだ、これからアイス食べに行こうぜ? あの店、何て言ったっけ……ほらあれだ、何だかやけに高い店───」
「嫌ですっ!!」
唖然とする祐一。
まさかあの栞が、アイスジャンキーとまで言われた栞が、乳脂肪分摂取と胸の発育との因果関係を完全に否定した栞が。
アイスの誘いを断るなんて。
「何で、何でだよ? 栞、アイス好きだろ?」
「好きでも嫌なんです! 見るのも嫌です!」
「……何か、アイスに関する嫌なことが、その悲しそうな表情の原因なのか?」
「……」
図星、か。
しかし、ここまで深刻に悲しそうな顔をするほどのこと、何があったというのか。
「話して、くれないか?」
「……嫌です」
「話せよ」
「祐一さん、嫌いです」
「話せこら」
「そんなこと言う人、嫌いで───っ!!」
顔をしかめて、頬を押さえる栞。
決め台詞も言えないとは、何事?
「痛いですー!」
「いや、心が痛い場合は普通胸を押さえるものだろ? 何で頬なんだ?」
「痛いからに決まってます!」
「……頬が?」
「ですー!」
……。
「栞、ちょっと口開けてみろ」
「嫌です!」
「いいから開けろこん畜生!」
無理やり栞を捕まえて、口を開かせる祐一。
「うげっ、何だこの大きな虫歯!?」
「はぅー……」
栞はとても悲しそう……いや、涙目で痛みを堪えていて。
「あのなぁ、そういうことなら早く言えよ! ただの虫歯じゃないか! あぁもう、心配して損した……」
「祐一さんは薄情ですっ! 私はこんなに我慢───痛いっ!」
「あれだな、アイスの食べ過ぎだな。自業自得だ」
「うぅー……」
栞はなにやら抗議しようとしているが、痛みのためかなかなか口を開くこともできずに。
なるほど、彼女はそういうわけで祐一とも口を利かなかったし、悲しそうだったし、いい加減だったし……。
祐一、納得。
だとすれば彼女の悲しみを取り払う方法、それはたったひとつ。
たったひとつの、冴えたやり方。
「ほら、歯医者に行くぞ」
ずるずると栞を引っ張っていく祐一。
懸命に抵抗する栞。
「歯医者は嫌です! あのドリル、ぎゅいぃぃぃんって鳴るんですよ!? ぎゅぃぃぃんって!」
「だからどうした」
「絶対あれは人死にが出ています! それを歯科医師会が隠蔽しているんです! 世界規模の陰謀で───はぅぅ!!」
「言い訳は向こうで聞いてやる」
栞を連れ去る祐一。
こうしてその日、北の街に少女の絶叫が轟き渡った。

「ゆういっちさーん!」
今日も彼女は元気。
想い人の背中を見つけ、そこに飛びつく。
通学途中、こうして出会うことはめったに無い。
待ち合わせをしているのならば、話は別なのだが。
というわけで、この貴重なチャンス。逃す手は無いわけで。
だからひしっと抱きついた。できればその感触に彼がどぎまぎしてくれれば良いな、そう思いつつ。
しかし、まったくの無反応。振り返ってもくれない祐一。
「祐一さん、つれないですー」
前に回りこんでみる栞。……露骨に顔を逸らされた。
また回り込んでみる栞。……上記に同じ。
「もぅ、何なんですか! せっかく可愛い彼女が朝から挨拶……」
「……どうだっていいんだ。何もかも……」
「……祐一、さん?」
全てに絶望したかのような祐一。
彼の顔。よく見ればどこか頬が腫れているようで。
そして何よりも、うっすらと涙を浮かべたその瞳。
栞はピンと来た。
「祐一さん、今日は学校お休みして、一緒に出かけましょう?」
「……どこへだよ?」
「それはもちろん、歯医者さんです!」
「さようなら栞! また来週!」
「あ、待ってくださーい! 虫歯は治さないと酷くなるんですよー!!」
逃げる少年。追う少女。
通学する生徒たちの流れを掻き分けて、どこまでも。

……ここに私は結論付ける。
季節と少女の感情に、因果関係は認められない。
ただそこにあるものは、気まぐれな子猫のような。
そんな、不可思議なものだけ。
以上、レポートを終わる。
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