「先生、栞は……」
「大丈夫です、助かります」
「ありがとうございますっ」
「ですが……」
「なんでしょうか?」
「辛い悲しみを背負ったまま、これから生きて行かなければなりません」
「栞が生きているだけで、それだけで良いんです」
「ご本人はどう思うでしょうか」
「…………」
「医者として、私はできる限りの力を尽くしました。後はご家族や親しい友人にお任せするしかありません」
「境目のない世界」
1.
服を着替えようとして、皮下へ埋め込まれたペースメーカーに違和感を感じる。自分の体の一部となっている機械。そのおかげで生きていることはわかっていても、やっぱり嫌だ。何気なく見てしまった自分の体、傷だらけの醜い姿を眺めて今更ながら憂鬱になる。
手術は成功した。だけどぎりぎりまで決断を延ばしたために、病気はかなり進行してしまっていた。根本的な治療は無理。望みは臓器移植だけでしたが、免疫抵抗や拒絶反応を考えると適合する臓器提供に巡り会うのが何年先になるかわからない。選択する手段も時間も、僅かしか残されてはいなかった。
だから、私の体は機械に置き換えられた。
それでも生きていたいと思った。
クロゼットの鏡に映る自分の姿を、じっくりと見つめてみる。お姉ちゃんも、祐一さんも、退院できた時にはみんな喜んでくれた。生きているだけで良いんだと言ってくれた。でも、私は普通の人ではなくなってしまったんです。今でも数週間おきに病院へ通わなければなりませんし、体も弱いまま。思いっきり走ることなんてできないし、体に悪いことや不規則な生活をしてはいけないと先生から厳しく言われた。
普通の女の子のようにスポーツをしたり、夜遅くまで遊び廻ることもできない。それに病院を離れて旅行へ行くには、とても面倒な準備をしなくちゃならない。行き先を教えて、近くの病院へ連絡してもらって、出かける前には念のために何時間もかけて検査を受ける。それでも急に具合が悪くなって寝込んでしまったり、せっかくの約束を破ってしまうことがある。
私はベッドを離れてまた歩くことができるようになった。でも、自由にどこへでも行けるようにはならなかった。
こんな私に、人を好きになる資格なんてあるんでしょうか。そんな事をこの頃よく考える。みんなが優しくしてくれるのは、私が特別だからじゃないのかなって。病気のせいで不自由をしている私を、慰めてくれてるだけじゃないのかなって。……そうは思いたくありませんけど。
祐一さんは、本当に私を受け入れてくれたんでしょうか。こんなに面倒をかける恋人なんて嫌ではないんでしょうか。もし祐一さんの前に私よりもっと魅力的な人が現れたら……いつか嫌われちゃうんじゃないかと不安になる。だから困らせたり我が儘なことをしてはいけないと思って、なんとなく気まずい雰囲気を作ってしまう。心の奥へ踏み込むのが怖い。今は良くても、これからを考えるのが怖い。私にその資格があるのか自信がありません。もしかしたらって、そんな曖昧な希望にすがって、解らない答えを探すために……いえ、結末は薄々解っているんです。機械、そうです。私の心臓は冷たくカタカタと動く機械なんです。暖かい人の温もりなんて知ることのできない機械なんです。私のせいで、これ以上祐一さんへ迷惑をかけたくありません。私と一緒にいても、未来に希望はないんです。……やっぱり、ちゃんと言わなきゃ駄目です。
「栞、相沢君が来たわよ!」
下からお姉ちゃんに呼ばれて、慌てて上着を羽織って階段を下りる。待ち合わせの時間には1時間以上あるのに、わざわざ家まで迎えに来てくれたんでしょうか。今日は、ようやく免許が取れたという祐一さんと出かける約束だった。昨日の夜おそく電話で急に誘われて、強引に約束させられた。私のために、アルバイトでお金を貯めて免許を取ったみたいです。車があれば体にあまり負担をかけずに出かけられるからって。
私のため……そんな優しさに甘えてはいけないのに。
「おっ、栞。今日は一段と可愛いぞ」
居間に下りてくると、上機嫌の祐一さんがそう言った。そんなこと言われたら決心が鈍っちゃうじゃないですか。
「相沢君、それにひきかえ……あなたの格好はどうなのよ」
「えっ?」
「一応デートなんでしょ、もう少しなんとかならないのかしら」
「すまない……」
「わ、私は気にしてないですぅ」
「相沢君、栞は今日出かけるのを楽しみにして……」
「祐一さん、行きましょう!」
「あ、ああ…」
「お姉ちゃん、行ってきますっ」
「気を付けてね、相沢君に変なコトされないように」
お節介なお姉ちゃんにそれ以上言わせないように、祐一さんの袖を引っ張って家を出た。
”――もしもし”
”あ、香里?”
”二人は今、家を出たわ”
”香里、了解だよ〜”
2.
「栞、今日は俺の行きたいところで良いか?」
「えう? 水族館に行くんじゃなかったんですか」
「まあいいじゃないか、水族館なんていつでも行ける」
「私はどこでもいいです……」
今日の祐一さんは何か変です。着ている服もおかしいですし、免許を取ったから車で出かけるんじゃなかったでしょうか?
”香里、祐一たちはどこに行くのかな?”
”変ね……確かとなり街の水族館だって言ってたのに”
「じゃあ、先ずはあそこだ」
「?」
よくわからないまま、祐一さんと二人一緒に雪の残る街を歩く。どこへ行く気なんでしょう?
しばらく歩くと、懐かしい場所に出た。
「目的地はここなんですか?」
「そうだ」
「…………」
並木道。私が祐一さんと始めて出会った場所。
「雪のように白い栞が、とても儚く見えた……」
祐一さんは、一本の木の根本をじっと見つめている。
「あゆの言ったとおり”運命”だったのかも知れないな」
「あゆさん……」
そういえば、あゆさんはどうしたんでしょう。
「祐一さん、あれからあゆさんに会いましたか?」
「いや、あいつにはもう会えないんだ」
「?」
「探し物が見つかってしまったから……」
どうして祐一さんは悲しそうにしているんでしょう。それに、探し物ってなんなのでしょうか。
そんなことを考えていると、祐一さんが私の手を握った。
「だから、行こう」
「えう?」
「次の場所に……」
3.
「次はここだ」
祐一さんに手を引かれて連れてこられたのは、商店街にある百花屋。
カウベルを鳴らして、いつものように二人で店内へ入る。
「いらっしゃいませ、相沢様」
普段は滅多に喋らない店長さんが、微笑みながら祐一さんに挨拶した。なんか変です。週に1度は来ますけど、こんな対応を受けたのは初めてです。
店長さんと祐一さんに付いていくと、窓際にある席に案内された。
【Reserved:相沢様】
テーブルの上にカードが置いてあります。えう? このお店で予約席なんてはじめて見ました。それにこの席は……。
「座れよ、栞」
「は、はい」
「ご注文はどうされますか?」
「ジャンボデラックスパフェ1つ」
「かしこまりました」
「祐一さん、二人じゃ食べ切れないです」
「なら残せばいい」
「でも、もったいないです」
「ははは、それじゃお持ち帰りにしても良いぞ」
”香里、わたしイチゴサンデー食べたいよ〜”
”我慢しなさい、名雪。見つかっちゃうじゃない”
”うー……”
「ここは、あの時のテーブルだ」
「さっき気が付きました」
「意地を張ったって、本当は二人ともわかってたんだよな」
「…………」
”あの時のテーブル……”
”うにゅ?”
4.
「結局、全部平らげたじゃないか」
店を出て、笑いながらそう言う祐一さんと一緒に商店街を行く。からかわれてるんでしょうか。でも、残すなんてもったいないです。
「よくあれだけの量が食べられるな。どこに入るんだ?」
「秘密です」
「ははは……あっ?」
「えう?」
「まだあったんだな」
祐一さんの視線の先にはゲームセンターがあった。
「栞」
「?」
「モグラ叩きやろうな〜」
入り口近くに、いつかの機械がまだ置いてある。
「嫌です」
「いいから、やってみような」
「嫌ですうー」
私の返事を無視して、祐一さんが100円玉を入れてゲームが始まった。
「栞、遅いっ、左だ、上だ、横っ!」
「むうー、脇でごちゃごちゃ煩いですぅ!」
【とくてん18点】
「少しは成長したんじゃないか?」
「むっ!」
「もう一回チャレンジするか?」
「もういいですぅ」
”モグラ叩き?”
”どうしてそんな物をやるのかしら?”
”栞ちゃん、あんまり上手じゃないみたいだけど……”
”病気が治ってもあの子は運動神経が鈍いのよ。相沢君だってわかってるはずなのに!”
”…………”
”あの子が気にしてる事をやらせて、わざわざからかう気なの?……相沢君”
”あ、栞ちゃんたちが歩き出したよ〜”
5.
”ねえ、香里?”
”なに”
”どうして栞ちゃんたちの跡をつけなきゃならないの?”
”……心配なのよ”
”?”
”この頃、栞は悩んでるみたいだったから……”
”祐一とのこと?”
”他にも、たくさんよ。自分の体のこととか……”
”そうなんだ……”
”付き合わせちゃってごめんね、名雪”
”ううん、わたしは良いんだよ〜”
”ホントは北川君にでもお願いしようと思って電話したんだけど……こう言うときに限って役に立たないのよね、あの人って”
「栞、今日も噴水には水が流れてるぞ」
「前も言ったじゃないですか、一度止めたら凍っちゃうんです」
「もうすぐ日が暮れるな……」
ここは私のお気に入りの場所。あれから何度も来た場所なのに……どうしてわざわざ今日、私を連れてきたんでしょう。
「栞が帰ってきてくれて、俺は本当に嬉しかった」
「…………」
「嬉しくて嬉しくて……家に帰ってから、布団に隠れて泣いたぞ」
「祐一さん……」
「うん?」
悲しい涙が出てきた。大好きだけど、駄目なんです。祐一さんに私はふさわしくないんです。本当に奇跡が起こって、ずーっと一緒にいられたらどんなに嬉しかったでしょう。祐一さんにだって、自分のやりたいことや夢がたくさんあるはずです。それなのに……私と一緒にいたら、そんなのを全部あきらめなくちゃならないんですよ。
馬鹿みたいに優しすぎるんです、祐一さんは。一生私の面倒を見ながら生きる気ですか? どこにも行けない私と一緒に、なんの希望もない将来へ向かって歩いていく気なんですか? こんなつまんない私だって年を取って、いつかお婆ちゃんになっちゃても好きでいられるんですか? 楽しい想い出は、そのままそっとしまって置いた方が良いんです。いつまでも色あせない記憶に残せば良いんです。だから、さよならです。
祐一さん……今は祐一さんのその優しさが、私には辛いです。
「ごめんなさいです……」
「何を言ってるんだ、栞?」
「私は、祐一さんと一緒にいてはいけないんです」
「前から気になってた。栞が何か悩んでるんじゃないかって」
「…………」
「俺は、栞が好きなんだ」
「祐一さんには感謝してます……。祐一さんとあゆさんのおかげで、私は希望を持てました。でも、駄目なんです。こんな私と一緒にいても幸せになんてなれないです」
「栞、お前は……」
「一生懸命考えた答えです……」
「俺は、栞と一緒にいることが幸せなんだ。もう誰も失いたくない……今度は必ず守ると決めた。自分勝手に忘れてはいけないと心に誓った。諦めないって約束したんだ」
「悲しい答えを探すために、祐一さんを巻き込みたくないです」
「栞……」
祐一さんは黙ってしまった。ちょっと怒ってるみたいです。いいんです、もっと怒ってください。嫌ってください。こんな私の事なんて忘れちゃってください。
「もう祐一さんとは会いません。祐一さんだって知ってるじゃないですか、私の体は機械なんです。これから先、ずっと、すーっと病院へ通わなきゃならないし、一緒にいるとたくさん迷惑をかけちゃいます。私はそんなの嫌です。祐一さんを困らせたくないんです。短い間でしたけど嬉しかったです、祐一さんに会えて楽しかったです。私は充分幸せでした。もう、いいんです……」
”栞ちゃん、泣いてるみたいだよ”
”…………”
”香里?”
”あの子を悲しませないって、約束したのに……”
”香里、もう少しだけ……祐一を信じて任せてあげて……”
”…………”
「栞、お前の好きなドラマなら……」
「?」
「こういうシチュエーションで、これからどうなる?」
「こんな場面は嫌いですけど、お互い静かに別れるだけです……」
ハッピーエンドが見たかった。でも、現実はそんなに幸せには作られてないんです。どんなに幸せな結末を夢見ても、願っても、変えられない物があるんです。どうしても超えられない事があるんです。現実は、最後の最後で絶対にどんでん返しのハッピーエンドになっちゃうテレビの世界とは違います……。
「…………」
「祐一さん?」
「嫌だ。もう後悔するのは嫌なんだ……」
「…………」
「俺たちのドラマは、そんなラストシーンを迎えない!」
「えう?」
「だから……」
はい?
「えぅ、ゆういちひゃん……」
なんにも見えないです、私の顔に何を被せたんですか。
「むー、むうーっ」
「おとなしくしろ!」
「真っ暗ですぅ、はやく取ってください祐一さん……」
「いや、最後まで俺に付き合ってもらう」
「変質者です、誘拐ですー」
「馬鹿っ、人聞きの悪いこと叫ぶんじゃないっ」
”相沢君は何をする気なのよ! どうして目隠しした栞を縛ってるのよっ!”
”香里、祐一を信じてあげて。きっと祐一には何か考えがあるんだよ……”
”はあ?”
”私の知ってる祐一はそんな人じゃないよ”
”でも……”
”あ、栞ちゃんを背負って歩き出したよ〜”
”追うわよ、名雪!”
”うんっ”
6.
祐一さんはおかしくなっちゃったんでしょうか。拉致されて北の方へ連れて行かれるんでしょうか? いえいえ、どこか外国へ売り飛ばされちゃうのかも……。まさかそんなことはしないでしょうけど、目隠しをされているのでどこへ連れて行かれるのか全然わかりません。何を言っても祐一さんは返事をしてくれないし、暴れたら一度落っことされました。その時は小さく”ゴメン”って聞こえましたけど、謝るくらいなら早く放してくださいっ。
どれくらい歩いたでしょうか。荷物のように抱えられてしばらく経つと、ゆっくり、優しく地面に下ろされました。いえ、地面じゃなくて何か堅い物でできた角に腰掛けているみたいです。
「祐一さん?」
そう話しかけても、やっぱり返事はない。だけど誰かと話す声が聞こえる。
「相沢っ、用意できてるぞ!」
「悪いな、北川」
「いいって事よ。だけどなぁ、あれだけ練習したがお前にはちょっと無理だと思うぞ」
「やらせてくれ、北川」
「親父に内緒で持ってきたんだ、ぶっ壊すなよ」
「わかってる」
北川さん?
何をされるのかと心配していると、頭に被せられた布が取れた。
「栞ちゃん、手荒く連れて来られたようだな?」
「北川さんっ! 祐一さんがおかしくなっちゃったんで……えうー!」
「あいつの気持ちを受け取ってやってくれ」
「一体これは何なんですかっ!」
理解できません。祐一さんがおっきな機械に乗ってます。
「祐一さん、免許って……」
「普通+大特セットで取った。栞、俺たちのドラマはここから始まった。そして俺が思うラストシーンはこうだ!」
見回すと、自分がいるのは学校の校庭だった。
「栞、機械にだって愛はある」
「祐一さん、言ってることがわかんないですうー」
「お前は自分の体のことを気にして、また独りぼっちになるつもりなのか? みんなの気持ちを裏切って、悲劇のヒロインを演じるつもりか? お前は現実に生きていかなければならないんだぞ!」
「…………」
「機械に愛は伝えられないだって? 違う、違うぞ栞。機械だってそれを作り、その力を利用するのは人間だ。機械にだって愛はある。心もある。想いを伝えることだってできるんだ。お前はたくさんの人たちに見守られている。命を救おうと、助かって欲しいと願ったみんなの気持ちがわからないのか! どんなに俺が愛しているか解らないのか! 良いところも悪いところも、全部まとめて俺は栞が好きなんだ!」
「祐一さん落ち着いてください。わかりました。よくわからないですけど、わかりました。もう充分ですから大人しく下りてきてください……」
「いや、お前はわかってない。今日は何の日だと思う?」
「えう?」
「2月1日。お前が帰ってきた日なんだぞ」
「あ…」
「一年前、俺が唯一望んだ……たった一つしか叶えられなかった奇跡の日だ……」
「…………」
「だから受け取ってくれ、栞」
祐一さんが操縦する機械のエンジンが大きな音をたたて、土を掬うような手の付いた腕が空へ高々と持ち上がった。力強くはき出された排気ガスの匂いが辺りを満たして、ゆっくりと、ぎこちなく、ガタガタと音を立てながら――あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、ふらふらと迷いながら、それでも一生懸命私のすぐ目の前に近づいてきた機械が差し出したのは……。
指輪?
「約束して欲しい、ずっと俺の側にいるって……」
えう? えーと……約束? ”ずっと俺の側に”って?
そんなっ! でも、うん、嬉しいですっ!
ごめんなさいです、祐一さんを疑っちゃってごめんなさいです。
やっぱり私は祐一さんが大好きです。
もう離れたくありません、いつまでもずっと一緒にいたいです!
「安いやつだけど、俺にはそれが精一杯だ。北川の親父さんの会社で一生懸命バイトしたんだが……」
「もっと普通にくれても良かったじゃないですか」
「駄目だ」
「馬鹿みたいですうー」
「すまない、栞。こんなのが俺だから」
祐一さん、こんなシーンは三流のドラマにだってないです……ですけどちょっとだけ、ちょっとだけですけど格好いいかもしれませんよ。私は好きです。この場面は私たちだけにしか演じられないシーンなんですから。
指輪を持ったまま、我慢できなくてまた涙が出てきた。悲しいからじゃなくて、今度は嬉しくて。
”相沢君って、本当に変な人だったのね”
”……わたし祐一がわからなくなったよ〜”
”でも、もしかしたら素敵な人なのかも”
”そうかな?”
”今度、北川君にもお礼をしないとね”
”あ、祐一が下りてきて栞ちゃんを抱き締めちゃったよ〜”
”えっ!”
「栞……」
「祐一さん……」
「あー、オレのことは気にすんな。ぶちゅーっとやっちまえ」
「…………」
「…………」
「…………」
「……えぅ?」
「はいはい、そこまで!」
「香里っ」
「お姉ちゃん?」
むうー、どうして祐一さんの唇との間に手の平なんて入れるんですかっ、お姉ちゃん! 感動の一瞬、2時間ドラマの構成でいうと1時間45分頃のコマーシャル前にあるクライマックスなんですよ!
「公衆の面前で、あなた方は恥じらいって物がないのかしら?」
「相沢……貴様……」
あれ? 横でにやにや見ていたはずの北川さんが、激怒して機械に乗り込みました?
「相沢っ、お前が美坂に口づけするなど十万年早いわっ!」
「はあ?……お、おいっ北川!」
「親友の頼みだと思ってここまで協力してやったのに、お前って奴は!」
あ、そういうわけですか。北川さんはお姉ちゃんが好きだったんですね。ちょっと堅すぎるお姉ちゃんには、結構お似合いかもしれません。私は良いと思いますよ……だけど、パワーショベルで私の祐一さんを追いかけないでくださいっ!
「やめろ、止まれ。北川、あれは事故だ!」
「うるせえ、成敗してくれるわ!」
仲が良いのか悪いのか解らないです。前に祐一さんは親友だと言ってましたけど、普通、仲の良い友達をキャタピラで轢こうとしますか? 追いかけられている祐一さんは隙を見て操縦席に入り込んだみたいですけど……なんだか中でもまだ揉めてます。
「ちっくしょう、オレはまだ手だって握ったことないんだぞっ!」
「落ち着け、北川。危ないって」
「相沢、お前なんて大っ嫌いだっ……くすん」
「くすんって、お前が言っても可愛くないっ。それにアームを振り回すな!」
「振り落としてやる!」
「止めろ、エンジンを切れ!」
「相沢、何するっ! 手ぇ離せよっ、操縦できねえ!」
「あっ!」
「バカ野郎っ、相沢離せっ。花壇に乗り上げたじゃねえか!」
「だから、さっさと止めろって……」
「相沢、見えない、前が見えないって!」
”――ガゴッ”
・・・・・
「久瀬、なんか音がしなかったかい?」
「……さすがにこの時期、外は寒いな。斉藤」
「変な音がしたよ」
「今日に限っては、僕は何も見なかったことにする」
「相沢、上手くいったのかな?」
「さあな、しかし寒い。こんな所で見張っていなくとも、雪の積もった校庭へ立ち入る者など居ないと思うが……」
”――ズガガガ ドガッ!”
”ガリガリ ベキッ ガッシャーン!”
”キャーッ!”
”ガゴゴゴッ……ズガガガ ドガッ!”
「…………」
「いやに派手な音がしたな、斉藤」
「うん……」
「コンクリートに激突するような音ではなかったかね?……」
「うん、ガラスが割れるような音もしたよ……」
「…………」
「…………」
「あの馬鹿者らが!」
エピソード
「君たちはなんて事をしてくれたのだ!」
「えーと、それで君たちは……重機ごと倒れて振り落とされたと?」
顔を震わせて怒る生徒会長さんの横で、回診に来た先生が呆れて言った。衝突の勢いで操縦席から落っこちた祐一さんと北川さんは、今、骨折した脚や腕にギプスをはめられて病院のベッドに並んで寝ている。
機械は花壇を踏み越えて、校舎を壊し、連絡通路を突き抜けてようやく止まった。校舎の壁に空いた穴からは、見えるはずのなかった向こう側、自分たちの暮らす街の景色が顔を覗かせた。割れたガラスが散らばって、引きちぎられた鉄筋やコンクリートの破片に囲まれた穴。遮られた視界がそこだけ開かれて、機械が通り抜けた跡には一直線に夕日の赤い光が差し込んでいた。
そこから覗いてみた風景はなんだか新鮮で、いつもより豊かな色彩を持っていた。私は、いつかこんな風景を絵に描きたいと思う。それが当たり前だと思い込んでいた世界、壊れるはずのない壁、変えることなんてできないと考えていた現実が崩れ落ちて、私の目の前に現れた新しい世界――1年前、恐怖と寂しさに怯えながら手術を受けて、薄暗い病室で再び目を開いた時のように。
あの時も、今も、祐一さんがいる、お姉ちゃんがいる。北川さんや名雪さん、みんな一緒にいてくれる。もう、怖くなんて、寂しくなんてありません。私はもう逃げない。
両腕を吊って弱々しく笑う祐一さんが、ぎこちなく首を動かした。
「北川、機械壊して悪かったな」
「親父からめちゃくちゃ怒られたぞ」
「学校の校舎もだ!」
会長さんの怒りは収まりそうにありません。
「相沢、お前の目的は果たせたんだからそれだけでも良しとしてやる。あ、それとなぁ、親父に理由を話したらそんな無鉄砲な大馬鹿野郎はウチの会社でこき使ってやるから、卒業したら来いってさ」
「本当か?」
「相沢、修理代は給料から天引きだ」
「迷惑かけたな、北川。今度お礼になにか考える」
「いや、それはもう美坂からもらったから良い」
「はあ?」
「美坂がさ……へへへ」
「北川君っ!」
「いてててててててててて!」
お姉ちゃん、北川さんのそこ、折れてます……。
「はあ?」
「何でもない…ああ、何でもないんだ……相沢」
「君たちは全く反省していないではないか!」
「久瀬、悪かったな」
「僕に謝って済む訳なかろう。改めて学校側へ謝罪と反省の意を……」
「反省?」
「そうだ、それで許してもらえるかはわからんがな」
「俺たちは、自分のやったことが間違いだったなんて思ってないぞ」
「……呆れて物が言えん」
「お前には迷惑かけて済まないと思ってるけどな、久瀬」
「僕の立場も考えてくれたまえ。まあ、できるだけの事はしてみるがね……」
渋い顔つきで病室を出ようとした会長さんが、急に私の方へ振り向いた。えう……おっかない顔です。私も共犯者にされちゃって怒られるんでしょうか。
「栞君、こいつらは僕の手に負えん。相沢が逃げ出したりまた馬鹿なことをしないよう君が監視してくれたまえ。ちょっと目を離すと何をするかわからん奴だ」
「は、はい。任せてください」
「うむ、それと……」
「えう?」
「……幸せにな」
にやっと笑って会長さんは帰っていった。顔の造形はちょっとだけ崩れてますけど、意外といい人なのかも知れません。
会長さんを見送って病室へ戻ると、北川さんが片手で紙袋をごそごそ探っていた。
「美坂、見舞って食い物か?」
「そうだけど、今食べたいの? 北川君」
「ああ、病院の食い物は不味いし量が少ないから腹減った」
「じゃあ、はい」
って、お姉ちゃん。リンゴを丸ごと渡してどうするんですか。
「剥いてくれよ、美坂」
「……どうしても?」
「はあ?」
「だから、どうしても?」
「剥かないと食えないだろ」
「北川君なら皮ごと食べても大丈夫よ」
「そんな〜」
「祐一さんには、私が剥いてあげますからね」
「あ、頼む。栞」
「私はお姉ちゃんと違って頭よくないですけど、料理なんかは好きですから」
運動神経の鈍い私でも、これくらいならできる。
「はい、ウサギさんにしてみました〜」
「ははは、栞らしいな。可愛いぞ」
「はい、あーん」
「ちょっと照れるな」
「へー、栞ちゃんって器用なんだね〜」
「はい、北川君。剥いたわよ……」
「美坂……」
「何よ」
「努力は認めたいが……」
「…………」
「3Dポリゴン?……」
「嫌なら食べなくて良いわよっ!」
「お姉ちゃん、下手くそです〜」
「栞、あなたの絵よりはマシよっ」
「そんなに酷いのか? 栞ちゃんの絵って」
「北川君、モデルにされてみればわかるわ」
「えう〜」
「でも香里のリンゴも酷いな。頑張れよ北川」
「ああ、オレ、頑張る……」
「相沢君、冷静に批判しないでよ!」
「どんぐりの背比べってやつだな」
「五十歩百歩とかか、相沢?」
「祐一さん、酷いですうー」
「北川君、失礼じゃない!」
「どっちがどっちにだ?」
「…あ」
「あははははは」
「あ、そうです」
「どうしたの、栞?」
「私は入院中に祐一さんと北川さんをモデルに絵の練習をしますから、お姉ちゃんはリンゴ剥きの練習をしましょう〜」
「あたしは別に上手くならなくても良いわよ」
「美坂、できればリンゴくらい剥けるようになってくれ……」
「…………」
「ふぁいとだよっ、香里」
「もう、わかったわよ……」
「ははははっ」
「私が看病してあげるんですから、祐一さんは早く良くなってくださいね」
「栞に看病されるとは思わなかったな」
「安心してください、私は病人のプロですから」
「自慢する事じゃないでしょ、栞」
「むぅー」
「確かに自慢できる事じゃないな〜、はははははっ」
「動けない怪我人のくせに生意気ですっ、そんなこと言う祐一さんにはなんにもしてあげませんっ」
「えっ? 栞、お前が居ないと俺は食事もできないんだぞ……」
「そんなの知りません」
「相沢、お前も大変だな……」
「ゴメンナサイ、栞さん。看病してください。ごはんを食べさせてください……」
「ぷっ……冗談に決まってるじゃないですか、祐一さん」
「わ、わかってたぞ、それくらい……」
「あははははは」
全く騒々しい、ここは病院だというのに。非常識にも程がある。
最近の若者は理解に苦しむ。怪我をして担ぎ込まれたこの二人の行為は明らかに常軌を逸しているし、一歩間違えば大事故になりかねない軽はずみな行動だ。それなのに、全く反省していないどころか病室で笑い声を上げている。……しかし、なんて暖かい心を持った愛すべき若者たちなのだろう。
担当の医者として患者のその後を心配した私の懸念は、取り越し苦労だったようだ。こんなに暖かい、いや、少々暖かすぎる幸せに包まれた彼女は……これからも面倒な騒動に巻き込まれるかも知れない。だが彼女は立ち直り、将来へ向かって歩き始めるだろう。
明るい笑い声が響く病室のドアを閉めながら、私はそう確信した。
病院の廊下を歩きながら、何故か自分が微笑んでいることに気付いたのは暫く経ってからの事だった。
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