彼女は、私に似ているって、そう思いました。



 しゃっ、しゃっ――
 美術室に、鉛筆を走らせる音がひびく。
 わずかなその音も、三人しかいない美術室では、大きく感じられた。
 旧姓美坂栞――現在名、相沢栞はそのうちのひとり、絵を描き続けている少女を見る。
 雪のように白い肌。
 あどけなさが感じられる、少女の顔。
 背の高さだって、高校一年女子の平均と比べれば、ずいぶんと低いだろう。
 だが、少女のあどけない顔は、目のまえの物をにらめつけるようにゆがんでいた。
 それでも全然迫力はないけれども。
 その様子を見れば、少女がいかにキャンバスに目のまえの物を忠実に再現しようと苦心しているかがうかがえる。
 そして、それが思い通りに行っていないことも。
 でも、と栞は思う。
 なぜ、少女が描こうとしているものが、栗ようかんなのだろう。
 いや、自分が出した課題は、『なんでもいいから好きなものを描いてみよう』だから、少女が栗ようかんが好きなのだろうということは分かる。
 最初に自分が好きなものを描いて、絵を好きになってもらう狙いによるものだ。
 少女のあたまの中では、それが一番に思い浮かんでしまったのだろう。
 そのことで責める気は、栞には毛頭ない。
 栞だって、少女と同じ状況に置かれたら、まず一番最初にバニラのアイスクリームが思い浮かぶかもしれないし。
 でも、思い浮かべるだけだ。
 栞はそれを描こうとは思わない。
 『それ』は、おいしいから好きなのだ。
 そんなことをしたら、溶けて食べれなくなってしまうではないか。
 食べ物は食べる物であって、描く物ではない。
「く〜」
 栗ようかんを熱心に描く少女の向こう側。
 美術室にいる三人の最後のひとり、朝霧このか。
 机に突っ伏し、自分のうでを枕にして実に気持ち良さそうに眠っていた。
 栞は、別にその子が寝てること自体はとがめようとは思わない。
 本来、このかはここに居る必要はないのだから。
 でも、たしか「ゆっきーを手伝うよっ」と意気込んできたはずではなかったか。
 どうやって手伝うかは置いといて、このかはうそをつくつもりはなかったのだろう。
 友達を手伝う気持ちは、本物だったはずだ。
 ただ、春の陽気には勝てなかった。
 たったひとつの、シンプルな答え。
「オムライス〜まって……」
 いったいどんな夢を見ているのか、栞は今の一言ですごく気になった。
 外からでは、とにかく幸せそうで、このかの寝顔を見ていると栞まで幸せな気分になってしまうことしか分からない。
 夢を覗くことが出来たらいいのにと、栞は一瞬本気で思った。
 結果として友人に裏切られた少女は、ただひたすらに栗ようかんを描き続ける。
 何度直しても納得いかないのだろうか。
 描いては消し、消しては描き。
 ぽきっ。
 鉛筆の芯が折れる。
「だめっ、描けないーっ!」
 それで集中力が切れたのか、少女は両手を挙げ、叫んだ。
「ふにゃあっ!?」
 その声に、このかはあわてて飛び起きる。
 叫び声を上げた少女、鈴宮雪菜の、美術授業の居残り作業。
 その一幕の光景だった。



「ありがとう」





 このかが何事かときょろきょろと見渡す。
 そして自分の友人と目が合った。
 それで寝ていたあたまが目を覚まし、事態を認識したのか、手をじたばたとさせてあわてる。
「あ、あたし寝てないよ?」
「私なにも言ってないよ?」
「はうっ……」
 朝霧このか、自爆。
 もはやごまかしようはない。
 いや最初からなかったけど。
「まったくなにやってるんですか……」
 栞はふうっ、とため息をつく。
「すみません、ちっとも思った通りに描けなくて……」
 雪菜がシュンと萎縮する。
 栞はその様子をみて少し困惑する。
 普段、ちっとも迫力がなくて、ちょっと教師としてどうなのだろうと思っていたのだ。
 なので、少し迫力を出してみようと努力しつつも、効果は一向に表れない。
 それがこの場で雪菜相手に発揮されても、逆効果に過ぎない。
「私の方こそごめんなさいです。気にしないで下さいね」
 そう言って、栞はにこりと笑う。
 それで雪菜は安心してくれたようだ。
「ゆっきー、見せて見せてっ」
 このかが雪菜の後ろに回り込み、絵を覗き込む。
 栞もそれに従い、雪菜の絵を見る。
 そこに描かれてあったのは、三次元の立方体だった。
 そうとしか表現できず、栗ようかんと一目で判別するのは、恐らくだれにも不可能。
「あ、えっと……積み木?」
 このかの純粋で、しかし残酷な言葉は雪菜の心を打ち砕くのには十分だった。
「うう……このちゃんひどいよっ」
「ご、ごめんっ」
「栗ようかんを題材に選んだのは、失敗だったかもしれません」
 栞は、美術教師として、雪菜のアドバイスに入る。
「こういうシンプルなものは、楽に描こうとすればいくらでも手抜きができます。でも、ていねいに描き込むのは、凄く大変なんですよ。今回は鉛筆画ですからなおさらです」
 そして――
 栞は一呼吸おき、強く言う。
「栗ようかんが、しけちゃいますし」
「それもそうだね」
 栞の言葉に、このかが納得する。
「えと……じゃあどうすればいいでしょうか?」
 雪菜が栗ようかんを横目に見つつ、栞に訊ねる。
「そうですね……」
 栞は口元に手を置き、考えるしぐさを見せる。
「もっと描きやすい、別の題材を選んでみてはどうでしょうか?」
「と言いますと……?」
「身近にあるもので、単純な丸や四角で表せないもの。なにより、鈴宮さんが描きやすいと思うものが一番ですよ」
「なるほど……分かりました」
 雪菜が顔をうつむかせ、新たな題材となるものを考え始める。
「う〜ん……」
 となりで、このかもさっきの罪滅ぼしとばかりに一生懸命考えている。
「じゃあオムライスなんてどうかな?」
「朝霧さん、鈴宮さんは食べ物に限定してるわけじゃないですよ?」
 栞がやんわりと否定する。
「あ、そうなんだ」
「でもどうしてオムライスなの?」
 雪菜がこのかに訊ねる。
「なんか急に食べたくなっちゃって」
「きっと夢で見たんですね」
 このかを見ながら栞がくすくすと笑う。
「えっ、えっ? どうして笑うの、先生っ?」
 きっと、このかは夢を見たことは覚えてないのだろう。
「このかは夢に見るほど食い意地はってないもんっ」
「えっ?」
「ゆっきー、どうしてそこで驚くのかなぁ?」
 このかが雪菜をじっと見つめる。
 その顔は雪菜と同じくらい迫力がない。
「な、なんでもないよ〜」
「そんなゆっきーには制裁でありますっ」
 このかは笑うと、雪菜のほおを引っ張る。
「いひゃいいひゃい〜」
 びろ〜んと、もちのように伸びる雪菜の顔。
「どうだ〜まいったか〜」
 このかが雪菜から手を離し、勝ち誇ったように言う。
「うう……ひどいよこのちゃん」
 このふたりは見てて飽きない、そう思う栞だった。
「それじゃ……これなんてどうかな?」
 このかが今度は、カバンに付けていたぬいぐるみを外し、机の上に置く。
「……カエルさん?」
「カエルさんですね」
「けろぴーだよっ」
 このかがぬいぐるみの正式名称を、ふたりに教える。
「ケロピー?」
「ケロピーって言うんですか?」
「違うよっ、けろぴーだよっ」
 このかが間違いを訂正する。
 でも栞たちには全く同じに聞こえた。
「……だからケロピーでしょ?」
「発音が違うのーっ」
「朝霧さん、抑えてください〜」
 白熱するこのかを栞が静める。
「このちゃんの熱意は分かったけど、とりあえず却下ということで」
「むー、けろぴーはかわいいのに」
 雪菜にあっさりと却下され、ほおをふくらませる。
「鈴宮さんが描くんですから、鈴宮さんが描きたいものじゃないとだめですよ」
「それもそうだね」
 栞の言葉に、このかもしぶしぶ同意する。
「そういえば、このちゃんは何を描いたの?」
 参考にと、雪菜がこのかに訊ねる。
「あれ、ゆっきー知らなかったの?」
「だって、このちゃんずっと秘密にしてたよ?」
 このかを含み、ほとんどの生徒は、美術の時間に絵を完成させている。
 わずかに残った生徒も、放課後に再び美術室に来てすぐ終わらせてしまった。
 残ったのは、雪菜ひとりだけだ。
「えへ〜、知りたい?」
 うれしそうに笑うこのか。
「うん、知りたいな」
 雪菜がこのかを乗せるように促がす。
「それはね……」
「それは?」
「えへへ、やっぱりナイショだよ〜」
「ええっ、ずるいよ〜」
「あたしの描いた絵は、永久にミステリーなのでありますっ」
 栞がふたりに対し、後ろを向いて歩き出す。
 教卓に置いておいた紙袋をつかみ、すぐふたりのところに戻る。
「えっとたしか朝霧さんの絵は……」
 紙袋を覗き込みながら、わざとらしく言う栞。
「わっ、わっ、先生ひどいよっ」
 このかはあわてて栞を取り押さえにかかる。
 わずか五秒のミステリーだった。
「それより、鈴宮さん。題材は決まったでしょうか?」
 このかに紙袋を奪われながらも大して気にせず、雪菜に訊いてみる。
「えっと、まだ……」
 この分だとすぐに決まりそうもないと、栞は判断する。
 今まで描いていた絵は、上手いとはいえなくとも、十分に頑張って描いたことは栞には分かる。
 もっと手を抜いた絵を提出している生徒はたくさんいる。
 だけど、雪菜は納得していない。
 根が真面目なんだなと、栞は思う。
 それに、まだ勝手がつかめていないのかもしれない。
 いままで雪菜は、ほとんど絵を描いたことがないはずだから。
 彼女が納得するまで、協力してあげたい。
「そうですね……続きは明日にしましょうか」
「えっ?」
「今からではすぐ下校時刻になってしまいます。明日、また頑張って描きましょう」
「でも、先生に迷惑が……」
 気まずそうな表情を浮かべる雪菜。
 普通なら栞のことなんて考えずに、面倒だという声が先に聞こえるのに。
「ふたりを見てるのは、とても楽しいですから」
「先生、それほめられてる気がしない……」
 このかが不機嫌な顔をする。
「そうでしょうか? 私的には最高のほめ言葉だったんですけど」
「えっ? えへへ〜、そうなんだ」
 単純、その二文字が栞のあたまに浮かんだ。
 本当におもしろい。
「それじゃあ、明日までに題材を決めておいてくださいね。あまり難しく考えずに、これだって思ったものでいいですよ」
「はい、分かりました」
「あとそれから栗ようかん、しけますよ」
 右手の人差し指で、栗ようかんを指差す。
「それから朝霧さん、それ返してください」
 続いてこのかが持つ紙袋を指差す。
「えっと、み、見ない?」
「見ないと成績つけられないんですけど……それにこのクラスの全員の絵が入ってますし」
「このちゃん、そしたら0点だね」
「ううっ、はい……」
 このかが栞に紙袋を手渡す。
「はい、後でゆっくりと見させてもらいますね」
 そう言う栞を横目に、雪菜が栗ようかんをおいしそうに食べていた。
 このふたり、似たもの同士かもしれない。
 栞の気持ちはまた弾んだ。



 ここ数年、栞の絵の評価は急激に高まってきている。
 いわく、「荒削りながらも、すばらしい才能を秘めている」(六十二歳、画家)
 いわく、「彼女の作品を見ていると、同年代として頑張らないとなって思わせられます」(二十五歳、イラストレーター)
 いわく、「栞さんは私の目標です」(十七歳、学生)
 高校時代の栞の絵を知る者からすれば、正に努力とは尊きものという言葉の生きた実例と言えるだろう。
 それほどまでに栞の絵は上手くなり、現在では美術教師を務めるにいたっている。
 だが、今栞は――
 ちょっとしたスランプになっていた。



『それって、ぜいたくな悩みよねぇ』
 夕方の相沢家。
 栞は久しぶりに電話による、姉との会話に興じていた。
 電話越しの栞の姉、美坂香里は苦笑混じりに言葉をもらす。
「もうお姉ちゃん、私真剣なんですからね」
 そんな姉の様子に栞は軽く抵抗する。
『ごめん、ごめん。でもあたし絵なんて、学校の授業以外でほとんど描いたことないし、それこそ数年全く描いてないから、栞のアドバイスなんて出来ないわよ』
 香里は現在、生まれ育った町の公務員の仕事に就いている。
 栞が聞いたところによると、安定しているなどの理由で選んだのではなく、本当に公務員になりたいという気持ちが大学生の頃からあったらしい。
 このまえ会った時も、「なかなかこの仕事楽しいわよ。大変だけどね」と言っていた。
 それはともかく、たしかに趣味としてでもない限り、香里が絵を描く機会はないであろう。
「いいんですよ、お姉ちゃんに聞いてもらえるだけで励みになります」
『そう? そう言ってもらえるとうれしいわ』
 栞が次の誕生日まで生きなれないと宣告され、祐一と出会い、姉と和解し、病気を克服したあの冬から九年。
 その後も紆余曲折あり、故郷を離れ独立して教師となり、祐一と結婚してからも、栞にとって香里が最高の姉であることは変わっていない。
『でも、どれもこれも描きたくて、これってものが決まらないなんて、やっぱりあたしにはぜいたくな悩みに聞こえるわ』
「そうでしょうか……」
 スランプといっても、絵が描けないわけじゃなかった。
 むしろ描きたいものが多すぎて、うまく絞り込めないのだ。
 普段ならひとつひとつ描いていけばいい。
 だけどそれが出来ない状態にあった。
「でも、コンクールが近いんですよ」
『それが問題なのよね』
 香里が声を少し低くして言う。
 絵のコンクールにむけて、ひとつ全力を込めたといえるような絵を出さなければいけない。
 栞としては、力を出し切れたものならば、結果が振るわなくとも――悔しくないと言えばうそになるとしても、一応の諦めはつく。
 でも、力を出し切れないのは、なんとしても納得出来ないところだった。
『まあ、気楽にやりなさい。あんまり根をつめ過ぎても、余計あせるだけでいい結果は出せないわよ。まっ、これはあたしの経験則だけどね』
「はい。ありがとうございます、お姉ちゃん」
 姉と話しているだけで、幾分気が楽になれた気がする。
『まだ日にちはあるんでしょう? ならゆっくりとやりなさい」
「はい。お姉ちゃんも、お仕事に根をつめ過ぎないようにしてくださいね」
『あたしも適当に頑張っているわよ。それより名雪の方が心配よねえ』
「名雪さん、凄いですよね」
 水瀬名雪。
 中学、高校時代の姉の親友であり、祐一のいとこでもあるひとで、現在も交流は続いている。
 だけど、ここ最近はほとんど連絡が取れない状態となっている。
「なんたって、世界の水瀬名雪になっちゃたんですから」
 高校卒業後も陸上を続けた名雪は、大学に入ってからその実力を大きく伸ばしていった。
 そして、今年のオリンピック出場権を見事獲得。
 メダル獲得が有力視されており、毎日練習に明け暮れる日々である。
『まさかあの子があそこまで行っちゃうなんてねえ……相変わらずマイペースなところは変わらないのに』
「それ名雪さんが聞いたら、きっと怒りますよ」
『ふふっ、名雪には秘密よ』
 ふたりで笑う。
 後で名雪さんにこっそり教えちゃおうかな、栞はそんなことを考える。
 栞は一瞬、名雪が「ひどいよ、香里〜」とのんびりした口調で文句を言いながら、世界レベルの走りで香里を追いかける様子を想像してしまう。
「ふふっ」
『どうしたの?』
「いえ、なんでもないですよ」
『……気になるけどまあいいわ。そろそろ栞は愛しい相沢君のために晩ご飯を作ってあげないといけないんじゃない?」
「お、お姉ちゃん、そんな……たしかにそうなんですけど」
『……肯定されても困るんだけど。で、今日はなにを作るの?』
 栞の動きが一瞬止まる。
 一瞬戸惑う心。
 もう決心したはずなのに、まだどこかで恐れているのか。
 いや、もう決めたはずだ。
 栞はゆっくりと姉に告げる。
 しばらくの空白の後、やっと香里はこれだけを口にした。
『うそ……で、しょう?』



 相沢祐一は、玄関を開けた瞬間、全身に衝撃が走った。
 体がこわばる。
 ありえない。
 彼のあたまがそう訴える。
 だが、匂いが現実にあるのだ。
「どうしたんですか、祐一さん? 玄関で固まってしまって」
 料理が終わったところで祐一が帰ってきたため、エプロンを着けたまま出迎えた栞が玄関で硬直している祐一に疑問を投げかける。
「あ、ああ……ただいま」
「おかえりなさい、祐一さん。ご飯にします? それともお風呂?」
 いつもなら栞の言葉に冗談のひとつもかます祐一も、今日ばかりはそんな余裕はない。
「そうだな……栞、今日のご飯はもしかして?」
「はい、祐一さんの大好物ですよ」
 やはり、やはりそうなのか。
 ここ数年、すくなくても家で食べたことがないものが祐一の脳裏に浮かぶ。
 祐一がここ数年、それを食べていない原因は目の前の妻に起因する。
「辛くなかったと言えばうそになります。でも、祐一さんのために頑張って作りました」
 まさか、本当に――?
「今日は、カレーライスです」
 タバスコを「人類の敵です」と言う栞が、甘口とはいえ、本当にカレーを作るなんて。



「はい、祐一さん。あ〜んしてください」
 栞がカレーライスをスプーンですくい、祐一の口元へと運んでいく。
 今までにもそんなことは何回かあった。
 でも、今日は決定的になにかが違う。
「……栞、なんでスプーンがひとつしかないんだ?」
「一生懸命頑張って作ったから、祐一さんにこうやって食べさせてあげたいんです」
 屈託なく笑う栞。
 まずい。
 すごく顔が熱い。
 祐一は恥ずかしさの限界を感じると共に、そんな栞がとてもかわいいと思う。
 もしこんな場面を第三者に見られたら、恥ずかしさのあまり、そこの窓から飛び降りてしまうかもしれない。
 ここ一階だけど。
「祐一さん、ほら、お口開けてください」
「あ、あ〜ん」
 覚悟を決め、カレーを食べる。
 それは、祐一にとっては辛さは物足りないものの、とてもおいしかった。
「ど、どうですか?」
「うん、おいしい」
「は〜、よかったです」
 ほっと息をつく栞。
「それじゃあ、今度は祐一さんが私に食べさせてください」
 栞が示すのは、さっきと同じスプーン。
「……本気か」
 ふたつの意味を込めて、栞に問う。
「本気です」
 彼女の決意は固かった。
 ゆっくりとスプーンを手に持つ。
 心なしか手が震えていた。
「辛いのは苦手ですけど、祐一さんが食べさせてくれるのなら、私頑張れますから……」
「栞……分かった」
 そんなにまで頑張って、俺のためにカレーを。
 祐一は、改めて栞に感謝する。
「――いくぞ」
「はいっ」
 スプーンを使い、ゆっくりと、栞の口にカレーを運ぶ。
「あ、あ〜ん」
 おそるおそる、口をスプーンに近づける。
 そして、食べた。
 ゆっくりとそしゃくする。
「ど、どうだ……?」
 祐一は静かに、訊ねる。
 栞は、ゆっくりと答えた。
「おいしい、です」
 祐一は胸にこみ上げるものを感じた。
 今、栞はひとつの試練を乗り越え、成長したのだ。
「やったな、栞っ」
「はい、祐一さんのお陰ですっ」
 手を取り合って、うれしさを分け合うふたり。
 今日のカレーは、冷めてもとってもおいしかった。



 翌日の放課後。
 美術室に来た栞が見たもの。
 それはにぼしを手に乗せ、窓から身を乗り出すこのかの姿だった。
「ほら、おいでおいで〜」
 にぼしをちらつかせるこのか。
 その様子を椅子に座って、じっと眺める雪菜。
 栞はこのかの視線を目で追う。
 渡り廊下の屋根の上。
 ちょうど美術室の窓からすぐそばのところ。
「にゃぁ〜」
 そこに、ねこがのんきにあくびしていた。
「ほーら、きみの大好きなにぼしだよ〜」
 にぼしでねこを釣ろうとしているらしい。
 このかを見る。
 その顔、いや全身で「ねこさんなでたいよぉ〜」と訴えていた。
「ねこさんって、みんなにぼし好きなのかな?」
「ねこさんはみんな、にぼしが大好きに決まってるよ」
 はたしてそうなのか、栞の知識にはなかった。
「ところで、なんでこのちゃん、にぼしを持っていたの?」
「えっ? や、やだなあ。たまたまだよ」
 急に言葉につまるこのか。
 栞にはその理由がなんとなく分かってしまった。
「身長……なんですね」
 ビクッ!
 栞の一言に、このかの体が震えた。
「先生……どうして?」
 なんで一発で分かったの?
 このかの表情はそう言っている。
「私も経験がありますから」
 このかの気持ちは栞には分かった。
 このかの身長は雪菜よりさらに低い。
 150cmないだろう。
 背が欲しいその気持ちは、かつての栞と同じものだった。
「牛乳、にぼし、朝の体操……あらゆるものを試しました」
「先生も?」
 その言葉に、うなずく。
「でも……駄目でした。結局、160cmには届かなかったんです。にぼしがたくさんカルシウムを含んでいても、私の身長を伸ばすことは出来なかったんです」
 それは、悲しい宣告。
 このかにとっても、栞自身にとっても。
「信じてたのに、信じてたにぼしに裏切られたよっ! カルシウムをたくさん取れば、160cmに届くと思ってたのにっ!」
 がくりと、床に手を突くこのか。
「そ、そうだったんだ……」
 このかの様子に、あっけにとられる雪菜。
「にゃあ〜」
 ぴょんと、窓から身軽に飛び込んでくる、ブチねこ。
「あーっ! ねこさんーっ」
 さっきまでの悲観はどこへやら、がばっとねこに飛びつくこのか。
「う〜かわいいよぉ〜、あったかいよ〜」
「ごろごろごろ……」
 このかの腕の中、目を細めて気持ち良さそうにのどを鳴らすねこ。
「しあわせだよ〜」
「ふふっ、本当に楽しい子ですね」
「私もそう思います」
 栞はふと名雪を思い出す。
 名雪もねこを見たら、恐らくこんな反応をするだろう。
 でも名雪はねこアレルギーだから、この光景を見せるのは残酷かもしれない。
「にぼしっ、にぼし食べる?」
「な〜」
 椅子に座ったままこのかに抱きかかえられ、にぼしを与えられるねこ。
 一生懸命食べる、ねこの様子はほほえましかった。
「わっ、わっ、この子おなかすいてたんだね」
「それはさておき、題材は決まりましたか?」
 狂喜乱舞するこのかを横に、雪菜に訊ねる。
「一応決まったと言えば、決まりましたけど……」
「それはなによりです。なにを描くんですか?」
「えっとですね……」



 ずっと小さいころ、他の景色を見たことがあるのかもしれない。
 でも、はっきりと覚えてるのは、病院の中から見える風景だけだった。
 私は、体が弱くて、ずっと入院していたから。
 一人っ子だったからか、両親は大抵いつも私に付き添ってくれていた。
 その点では、恵まれていたのかもしれない。
 ずっと親に迷惑をかけていたのに、それでも私に嫌な顔を見せることなんて一度もなかった。
 私自身、最高の両親だと思う。
 でも、やっぱり――
 外に出れないことは苦しかった。
 友達がいないことは寂しかった。
 毎日代わり映えのしない生活。
 それは、皮肉なんかじゃなくて、本当にそうだった。
 子供の頃の夢。
 ほとんど籍を置いただけだった小学校のクラスの卒業文集には、宇宙飛行士、お医者さん、野球選手、学校の先生、保育士さん――
 そこには、いろんな夢があふれてた。
 でも、私はお見舞いに来てくれた先生が、私に訊ねたとき、「学校に行きたい」と言って、先生を困らせてしまった。
 他に夢なんて言われてもピンと来なかった。
 こんな私が、なにかになれるなんて思えなかったから。
 だから、その時は本当に戸惑ってしまった。
「この調子なら、来年の春から学校に通えますよ」
 お医者さんのその言葉。
 ずっと見てきた夢が叶うはずなのに。
 怖くなってしまったのだ、私は。
 長年、箱庭にいた私には、人との接し方が分からなかった。
 そんな私を、お父さん、お母さんは一生懸命励ましてくれた。
 ふたりに促がされるまま、期待と不安を抱いて私は高校へ入学した。
 やっぱり、人とうまく話すことは出来なかった。
 学校は、今まで私が生きてきた世界とはまるで違った。
 どこで私のことを知ったのか、興味本位でいろいろ聞いてくる人もいた。
 そんな人たちも、ある程度私から訊き出すと、興味をなくしたように去っていく。
 きっと、私が悪いんだ。
 人に話しかけられても、ただおどおどするだけだったから。
「ねえねえ、鈴宮さんっ」
 三日目の学校。
 席替えが行われた直後、いきなり隣の女の子が話しかけてきた。
「えっ、な、なんですか……?」
 自分が嫌になる。
 どうしてこんな反応しか出来ないんだろう。
 きっと、また嫌われちゃう。
「もし良かったら、お弁当一緒に食べてくれないかな?」
 それでも、その子は変な顔せずに私に話しかけてきてくれた。
 その女の子が、朝霧さんだった。


「えへへ〜、今日は鳥さんのそぼろなんだよ〜」
 本当に純粋な笑顔を浮かべる朝霧さん。
「鈴宮さんの、見せてもらっていい?」
「あ、う、うん」
「あっ、エビフライだ、いいな〜」
「そ、そうかな?」
 元気に話しかけてくる子は、どうも苦手だったけど、朝霧さんとは自然に話せた。
 彼女は、ほんと純粋で、ころころと表情が変わる。
 話していてとても楽しかった。


 数日経たない中に、気がつくと朝霧さんと一緒にいることが多くなった。
 そうすると、朝霧さんは入学してすぐなのに、クラスで人気者になっていることも分かった。
 意味は分からないけど、クラスの男の子がマスコット的な存在と言っていた。
 きっと、良い意味だと思う。
 表裏ない、明るい性格。
 私と違って、運動神経も凄くいい。
 ただ、入学後のテストは下から数えたほうが早かったけど。
 困っている人を見ると、すぐ助けに飛んで行っちゃう。
 私は、手伝おうと心の中で思っても、ただおろおろしてしまうだけなのに。
 ほんと、私と正反対だなと思う。
 少し、うらやましい。


 このちゃんにはいろいろ驚かせられることが多いけど、一番驚いたのは入学してから二週間ほどたったある日のことだった。
「え、ゆっきーってずっと入院してたの?」
 その時には、多分そのことをクラスで知らないのはこのちゃんだけだったと思う。
「は〜、あたし全然知らなかったよ」
「このちゃんらしいね」
 くすくすと笑う私。
「それってほめ言葉じゃないよね?」
「え、どうかな〜?」
 意地悪くとぼける私。
「てりゃあ〜」
 電光石火のごとくヘッドロックを決められる。
「わ、わ、このちゃんギブギブ〜」
 このちゃんは、体は小さいのに力はけっこう強い。
 もう何度も食らってるのに、今だに回避方法のきっかけすらつかめない。
「ゆっきーが弱いのだっ、これでも手加減してるよ?」
「違うよ〜、このちゃんが馬鹿力なんだよ」
「ば、馬鹿力じゃないもんっ」
 わたわたと慌てるこのちゃん。
 けっこう気にしてるのかも。
「でも、それってかわいそうだね」
 このちゃんがなにげなく言う言葉。
 かわいそう。
 私のことを聞いて、大概みんなが言う言葉。
 やっぱり、このちゃんも同じことを言うんだ。
 でも、続く言葉は全く、聞いたことがないものだった。
「それって、緑屋のあんみつも食べたことないんだよね。かわいそうだよ、あの味を味わったことないなんて」
 ……私はこのちゃんのその言葉に、一瞬あぜんとしてしまいました。
 緑屋は、駅前のおいしい茶店のことです。
 でも、今ここで、緑屋?
「ふ、ふふっ」
「えっ、どうしたの? ゆっきー」
 このちゃんは、本気で分からないって顔をする。
「あははっ」
「えっ、えっ?」
 私は、おかしくて仕方ありませんでした。


 ちょっと変わった子だけれど――
 私はこのちゃんのお陰で変われたんだ。



 栞は袋から、二枚の絵を取り出す。
 一枚には、一生懸命栗ようかんを描いている少女の姿。
 後ろには、1−C朝霧このかと書いてあった。
 もう一枚。
 そこには、椅子に座り、ねこをヒザに乗せて幸せそうに眠る少女がいた。
 裏には、もちろん1−C鈴宮雪菜の文字。
 それを並べて、静かに微笑む。
 絵に込められたのは、ありがとうのメッセージ。
「おふたりとも満点ですね」
 だれもいない美術準備室で、そっとつぶやいた。



 次の誕生日まで生きられない。
 とても残酷な、お姉ちゃんの言葉。
 大好きな、たったひとりのお姉ちゃんに、自分という存在を否定されて。
 もう、いいことなんてなにもないんだ。
 これ以上、お姉ちゃんたちに迷惑をかけたくない。
 だったら、こんな苦しみを長く続けるよりも――
 そう思った。
 だけど。



「枝の雪が落ちてきたみたいだな。さっきお前が街路樹に顔面から激突しただろ、あの衝撃だ」
「ボクが悪いみたいな言い方だね」
「事実だろ?」
「木にぶつかったのは、祐一君がボクを避けたからだよっ!」
「だってお前がいきなり襲いかかってくるから」
「ひどいよっ! 襲いかかったんじゃないよ、感動の再会シーンだよっ!」
「どこが?」
「だから、そうなるハズだったのに、キミが……」
「ま、それはいいとして」
「よくないよお!」



 輝いて見えた、祐一さんとあゆさん。
 とても楽しそうな笑い声。
 その光景があたまから離れなくて。
 気がつけば、心から笑っていて。
 そして、涙を流していた。
 ――そして、私は救われました。
 その後も祐一さんと何度も出会えた。
 祐一さんと恋人同士になれて。
 お姉ちゃんともう一度仲良くなれて。
 また、桜の季節に祐一さんと出会うことが出来ました。
 ちょっと変な人ですけど――
 私は祐一さんのお陰で変わることが出来ました。



 祐一さんと初めて出会った冬から九年後の今。
 桜が散って、葉桜が芽吹き始めた頃。
 私と祐一さんは、アパートの近くの公園に来ていました。
 祐一さんと良く来たあの公園と、負けず劣らず素敵なところです。
 私の心の中では、決して敵わないけれど。
 一生懸命、筆を走らせます。
 数回しか感じたことのない、高揚感と集中力。
 とても、上手く描けてると自分でも思える。
「お〜い、栞。まだ続くのか?」
 祐一さんが文句を言ってきます。
「はい、まだです。あと三十分待ってください」
 せめて、ひと段落出来るところまで進めたい。
「もう一時間は待ってるぞ……」
 そう言いながらも、祐一さんはしっかり待ってくれます。
「ちゃんと、全力で祐一さんを描きたいんです。もう少しだけ待ってください」
 私は今、目の前にいる祐一さんを、キャンバスの中に再現することに全神経を集中させる。
 私自身の想いを乗せて。
「でも、今回はやけに気合が入ってるな。どうしたんだ?」
「決まっているじゃないですか。モデルが祐一さんだからですよ」
 顔を真っ赤にして照れる祐一さん。
 私も少し恥ずかしいけど、とても幸せだとも思う。
「それに、この絵はコンクールに出展するんですから」
「……は?」
 間の抜けた顔をする祐一さん。
「こんな気合の入った絵は他にありません。もう決めました」
「ちょ、ちょっと待てっ! それってつまり絵に描かれた俺が広く一般に公開されるってことかっ!?」
「はい、祐一さん人気者になっちゃいますね。あ、もうタイトルも決まっているんですよ」
 凄く慌てる祐一さん。
 ここまで慌ててる姿を見るのは久しぶり。
 ちょっとうれしい。
「タイトルなんていいっ、いやそんなのしるかっ!」
「もちろん『私の大好きな人』ですよ……ってそんなこと言わせる人嫌いです〜」
「栞が勝手に言ったんだろうがっ! なんだそのいつもの口癖に微妙にアレンジが加わったのは!?」
「ひどいです、そんなこと言う人嫌いですっ」
「うわっ、本家に戻ったっ」
 文句を言いながらも祐一さんは笑っています。
「だから、気合をいれて描きますから、動かないでくださいね」
 まだ納得していないみたいだけど、もう少し説得すればきっと許してもらえるはずです。
 そうしたら、また祐一さんを描き始めます。
 ありがとうのメッセージを込めて。



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