「私、何でここにいるんだろう……」

 ある時、彼女はつぶやいた。





















外伝小話劇「目標」


















序幕

 冬に入る頃。昼休み遅く。教室。美坂チーム。
 受験生のこの季節ながらもどこかのんびりした感のこの集団に、ちょっとした話題が持ち込まれた。
 話題の渦中は、美坂チームの筆頭、美坂香里の妹のことである。
 その話題の発端は、彼氏である相沢祐一の相談から始まった。

「結局、どういう状態なわけ?」

 一人の少女が口を開く。周りから才色兼備と認められているその少女――美坂香里は、怪訝な表情を見せる。
 痴話喧嘩というものは大抵男の方が悪いのだ、とどこかの誰かが言っていたのを思い出したからだ。

「どうもあいつ、生気がなくてな……。病気とか、そういうんじゃなさそうなんだが」
「相沢君が何かやったんでしょ」

 事も無げに言う。それというのも、相沢祐一という人物が、他人をからかったりするのを好む事による。
 だから、今回もそれでへそを曲げられたのだと思ったのだ。

「違う」

 本人はそれを全面否定。
 しかし、香里の方としても先入観だけで決め付ける訳にもいかないので、とりあえず妹の様子を思い返してみる。

「まあ……生気がないというか、淡々としてるというか……言われてみると気になるわね」
「原因を探ってるんだが、心当たりないか?」

 そう言って、相沢祐一は周りを見渡す。
 その表情は暗く、この人の事だから随分独りで悩んだんだろうな、と香里は思った。

「え、そんなこと言われても……祐一がわからないなら、わたしもわからないよ」
「右に同じ」

 他の構成要員である、水瀬名雪と北川潤は口々に答える。
 確かに、二人は昼休みに時々会う程度なので、判らないのはある意味当然とも言えた。
 ……とりあえず、事態は祐一しか飲み込めていない訳である。
 授業の開始も近いという事で、この場は保留という形になった。









第二幕

 このまま話が進まないのも癪だ、と言わんばかりに、香里が仮説を立てた。普段は真面目に授業を受ける彼女にしては珍しいことだった。
 やはり姉として心配なのだろう。
 普段は淡々としているように見えるが、去年の姿から判るようにとても妹思いなのだ。

「あの子、目標がないのよ」

 なにか目標があり、それを達成する。すると、大抵の人は新たな目標を見つけるまで「生きる目標」がなくなる。
 要するに、高校・大学受験が終わった後、いつまでも気持ちが切り換えられずに遊び続けてしまう様な人の事だ。
 前の冬の頃、あの子にはやりたい事が沢山あった。「やりたい事」≒「目標」である。しかし、あの子はこの一年でその「やりたかった事」を散々やり通した。そして、それらに満足したとき、ふと周りを見渡すと「目標」と呼べるものがなくなったのではないか。
 ……これが、美坂姉の仮説である。
 なるほど目標が大きかった分、その後の事も大きいと考えられる。

「何よりも、問題なのは」

 一息置いて、香里が先を継ぐ。

「こればっかりは、軽々しく他人が口を出せることじゃないのよねえ」















第三幕

 放課後、渦中の人は校門に居た。いつからか決まった、恋人との待ち合わせ場所。
 暖かい春を過ぎ、この辺にしては暑い夏を過ぎ、涼しいを通りこして寒くなってくる秋を過ぎ……そして、もうすぐ冬がやってくる。
 その間……毎日、繰り返してきたこと。……いや、何日かは用事などで無理な時もあったが、そういう事以外はずっと会っていた。
 飽きるほどに。しかし、飽きる事はなく。
 何故自分は飽きないのだろう、そんな事を考えてしまうほど、何度も繰り返してきたこと。
 その中で、忘れてしまう事もあった。
 昔の自分が、平気だと思っていた事。

 そう、それは……。

 彼女は、空を眺めた。












第四幕

 両親は旅行だった。
 姉も、勉強会だった。
 故に、独りだった。
 自分の為だけに夕食を作るのももどかしく、コンビニに出かけようと思った。

 さあ、行くぞっ。

 外は、霧に覆われていた。
 それに構わず、歩き出す。

てくてく。

てくてく。

てくてく。

 ……そして、ふと立ち止まった。
 流れていた空気も、止まった。

 暫く、静寂。

「私、何でここにいるんだろう……」

 圧倒的な、孤独感。
 光を出さないからこそ存在する闇が、自分を押しつぶそうとする様に。

 それにあっさり負け、少女は何も買わず家へ走った。
 扉を閉めたときの、安堵感と……静寂の恐怖。
 しんと静まり返った、我が家。

「私、何でここにいるんだろう……」

 買い物に出かけた筈なのに、自分は今、家の中に居る。
 違和感。
 居心地の悪さ。
 自分の居場所じゃない様な気がする。

 ……でも、外に出るのは怖い。
 独りぽっちは……嫌だ。

 孤独でも強く居られた筈の、自分。しかし、そんなものは半年を過ぎた頃には消え失せていた。
 そして……深々と静まり返る家の中に居たまま、遂に行かず寝る事に決めた。

 ここが……私の居場所なんだ。

 自分に、言い聞かせるように。












第五幕

「香里の行ってる事が正しいとして、俺はどうしたらいいんだ?」

 彼氏は悩んでいた。
 香里には、「仮説は立ててあげたんだから後は何とかしなさい」と言われてしまった為、これからは独りで何とかしなければならない。
 じっと黙って考えてみる。

 コチコチ……

 コチコチ……

 こちこち……

 ……無性に時計を壊したくなった。

「それにしても……今回の帰りも元気なかったな……」

 今日の帰りの事を思い出してみる。
 ……やはり、どこか気落ちしていた様に感じる。
 そういう事を隠すのが上手かったことを考えれば、顕著だった。

 やはり、目標など尽きてしまったのか。
 しかも、それだけの理由で、『生きている』という事を放っておいていいのだろうか。
 あの時、あれだけ『生きたい』と願っていたのに……。

「あいつは……一体どうしたんだ……」

 ただ徒に、心配は募っていくばかりであった。














第六幕

 そして、彼女は言ったのだ。

「祐一さん……暫く、会わなくても良いですか?」



















第七幕

 今日び、付き合って半年もすれば結構持った方だと言う人もいる。
 大抵は四半期、お互いに慣れて落ち着きを取り戻した時に別れる事が多いらしい。それだけ、恋というものは情動的なものだと言える。

『という訳だから、仕方ないわね。姉としても、こればかりはどうしようもないし』

 ……そんな事を言えば、多分目の前の人間は再起不能になるんだろうな、と彼女は思った。
 それほどに、彼は落ち込んでいた。
 元々感情を隠す事をする様な人じゃないから、雰囲気でよく判る。

「それで、あなたはどうするのかしら?」
「どうすると言ってもな……あっちが会いたくないなら無理に会う訳にもいけないし……」

 相沢祐一という生き物は、かなり不思議な挙動を取る。深謀遠慮かと思いきや、大胆な行動を取る事もある。普段は北川と馬鹿もやるが、その内は高校生に似ない深く穏やかな心も持ち合わせている。
 多分自分も惹かれているんだな、と香里は思う。色恋沙汰の情動的なものではなく、人間的に。

「理由は聞かなかったの?」
「聞いたら、『私の為にです』と言われた」

 祐一はしかめっ面をしながら答える。
 香里も、妹の行動が解らずに首をかしげる。

 あの子は、相沢君の事が大切で生きる為の努力をした訳ではないのか?
 それとも、新しく出来た目標へ向かう為に、相沢君は邪魔になるのか?
 今彼は大きく取り乱した様子はないが、きっと心の内では大きな動揺に包まれているのだろう。

 香里はそこまで思考して、一旦中止して祐一に焦点を合わせる。

「……あなたは、どうしたい?」
「ん?」
「あなたは、どうしたいの?」
「……そりゃあ、会いたいさ」
「じゃあ……会っちゃえばいいじゃない」

 どうせ帰ってくるところは家なんだから、そう香里は付け加えた。















第八幕

 その日、夜。
 香里は帰ってきたばかりの人物を捕まえて告げた。

「相沢君が、これだけ伝えておいてくれ、って」
「えっ……なに?」
「『会いたい』」
「……」
「だ、そうよ。どうするかはあなたが決めなさい」
「……私だって……決心したんだから」
「え?」
「……なんでもないっ」

 後ろを向かれたので、香里も目線を逸らし、心持ち調子を上げて言う。

「それはあなたの勝手だけれど……猛獣の前に餌を置くような行為よね……」
「え?」
「彼の従妹、普段から良い娘だけど相沢君の事に関しては随分心を痛めてたみたいだから……同じ屋根の下だし」

 香里はそこまで口にした所で、ちらと視線を戻す。
 ――肩が、小刻みに震えている。

「まあ、相沢君は良い意味で頑固だし、大丈夫だとは思うけど……男の子だし、成長期だし」

だだだだだっ!

ばんっ!

「……さて……多分あの子は行くでしょ」

 そこまで呟き、香里は夜食作りに取りかかるのだった。










幕内

 『彼女』としての面子は、自分から距離を置くことを宣言したとしても健在である。何故なら、多かれ少なかれ……所有欲、みたいなものがあるからだ。
 自分だから、許されること。
 まさに、特権。
 そこに自分の存在を感じ、幸せになる。それが自己愛というものだ。
 『彼氏』の方もそういう期待を抱きやすいものだが……まあ、人生そんなものである。
 女性の方が一般的に精神年齢が高いと云われながら、それでも女性の方が幼く振舞う事を容認される。
 そう、男を振り回すのは女の特権なのだ。

















第九幕

 少年は公園に居た。
 そう、あの公園だ。

 昨日の夜半過ぎ、もう意識を手放そうとした頃に、電話がかかってきた。

『「あの場所」で会いましょう』

 「あの場所」がここを指す言葉かどうかは確証がない。……だが、ここだと思った。
 ……裏庭も考えたが……付き合う事も、別れる事も、ここで経験してきた。
 だから、ここだと思ったのだ。

ぐっ

 雪踏む音。
 来たか、そう思った。
 他人だったらどうしよう、そうとも思った。

「祐一さん」

 杞憂だった。
 そう、寒がりをこんな所に呼び出したのは……。

「遅かったじゃないか」

 ……自分の彼女だった。

「女の子は男性を待たせてもいいんです」
「男女差別だ」
「男女『区別』です」
「……そうなのか?」
「はい」

 暫し、閑。

「で?」
「はい?」
「何か、あるんじゃないのか?」
「いいえ」
「?」
「祐一さんが、『会いたい』と言ったからです」

 祐一は、首をすくめる。

「そうだったな」
「はい」

 また、暫し。

「寒いな」
「そうですね……」
「……お前なら、平気か」
「そうでもないです」
「……」
「……」

 また、暫し。

「……よし」

 少年は気合ともかすれた声ともつかない言葉でそういうと、顔を引き締めた。

「あの時は唐突過ぎて訊けなかったんだが……何であんな事を言ったんだ?」
「私のためです」
「それだけじゃなくて、もっと詳しく」
「それは教えられません」
「あのな」
「でも、これは祐一さんのせいじゃないですし、祐一さんの事を嫌いになった訳じゃないです」
「じゃあ何だっていうんだ? 最近ずっと変だったし……」
「祐一さんは、予想出来ませんか?」

 あえて挑戦的なことを言われるが、祐一の持ってる香里の仮説は言わずにおいた。
 何故だが、違う気がするのだ。
 それは……いつもと違って、とても楽しそうな雰囲気だからかも知れない。
 祐一は、更に混乱する。

 そんな祐一は、周りからはどう写っただろう。
 特に、それが最愛の人の様子だとしたら。……原因が、自分にあるなら。

「……私、このままじゃ駄目になっちゃいますから」
「え?」

 急な、少女の言葉。

「私……祐一さんや、お姉ちゃんに甘え過ぎです。……去年の冬から。そんな事に……ある日気付いただけです」

 それから、少女の独り語りだった。
 ある、夜の事を。
 姉には判らない、妹の苦しみを。


 あの夜の出来事で、少女は気付いた。
 それが誰も居ない静かな家だとしても……護ってくれる存在を頼りにしないと怖くて何も出来ないという、自分の弱さ。
 確かにお姉ちゃん子で、基本的に甘えん坊だ。
 あの病気も、祐一と香里の二人に支えられて乗り越える事が出来た。

 しかし、折角抜け出して広い世界に出ても、独りではまた狭い家に帰ってきてしまうんじゃないか。
 どんなに嫌でも自力では抜け出せない……結局、祐一たちに甘えているだけで、自分は何も変われていないのではないか。
 独りになってしまったら、また……。

 そんな事が、ぐるぐる頭の中を回り支配する。
 そこで、考えた事は。

 自分は、自立しなければならない。



「これが、全てです」
「……何で、今になって教えてくれたんだ?」
「秘密にしておいたのは私の意地であって、祐一さんを苦しめる必要のない事だと思い直したからです」

 少女は微笑む。
 もう彼女も、16を過ぎて17になろうとしている。
 当然、出会った15の頃とは違うのだ。

「でもな……そんな事気にする必要ないと思うぞ」
「人は皆弱いから……ですか?」
「それもある」
「……じゃあ、他は?」
「他は……彼氏が希望するところにより」
「なんですか、それは」
「俺の本心だ」

 何か大切な一つのものを、ひたすらに護っていく。
 祐一は、男としてそれを貫きたいと思っていた。
 ……まあ、別に相手が依存型である必要などなく、その辺は祐一の思い込みなのだが。
 その意義にもっと大きな意味がある事など、まだ高校生の祐一には思い至らなくても仕方ない。

「……でも、もし、祐一さんやお姉ちゃんが先に死んでしまったら……きっと私は生きていけないと思います」
「そうか……それは問題だな」
「そうです。だから……私は、離れて生きてみようと思ったんです」

 祐一は考え込む。
 確かに、一見正しい様に思える。
 だが、祐一の中でははっきりと「違う」と感じていた。

「……離れたからって、独りで生きていける様になるとは限らないじゃないか」
「え?」
「ちょっとアレな例えだが……例えばアイスを嫌いになる為に一年間食べないようにしたとする」
「はい」
「問題は、そうした場合果たして本当にアイスが食べたくなくなるか、という事だよな?」
「それは……」

 暫く離れていたところで、どれだけ変わるのだろうか。

「……でも、それじゃ……私はもう変われないってことですか?」
「人間変わるにも限界があるさ。大体、夜の闇が怖くない奴だってそう居ないだろうし」
「それはそうですけど……でも、弱い私はもう嫌なんです」
「一緒に居ながらでも、そういう強さは身に付けられるものじゃないか?」
「でも……」

 雪が降りそうな寒空の中、二人の問答は続く。

「ほら、そういうのが駄目なんだ。弱気になってたら、出来る事も出来ない。頼って欲しいとは思うが、それでお前が不幸になるんだったら、自分でどんどん行動を起こす、っていう方がいいと思うぞ。……あ、いや、離れるっていうのとはまた別の方法で、って事だけど」

 彼氏の、まくし立てるような言葉。
 そこには、恥ずかしいこと言ってる事に対しての照れと、人一人の人生に大きな影響があるかもしれないという焦りがあるのかも知れない。

 ……確かに、頼らなければ生きていけない、というのは諸刃の刃だ。
 絆が強い分、それが切れてしまえばどうなるか判らない。まるで、凧のように。
 しかし、だからと言って飛ばさなければ、それは凧として意味がない。

「祐一さん……私よりも、沢山生きてくれますか?」
「そりゃあ、善処するさ。折角「ずっと居られる」っていう大切な物を手に入れたのに、それを捨てたら勿体無いだろ? だから……どんなことがあっても、最後に良かったって思えるくらいな生き方をしよう」
「……はいっ」
「大体、そんな事を今考える必要なんてないんだ。そんな事、心に余裕が出来た老人からで充分だ」
「……それもそうですね」

 少女の頭を、大きな手が撫でる。
 少年と、少し涙ぐんだ少女。他の人が見たら、どう写るだろう?
 多分、誰が見ても暖かい光景に見えたに違いない。

「……さて」

 祐一が立ち上がり、雪を払う。

 そして、彼女に手を差し伸べた。


「家まで送ろうか……栞」


 彼にとっての唯一無二の『存在』を、言葉にして。













終幕
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