あたしには目に入れても痛くない、そんな大切な妹がいる。
 兄弟、姉妹、そういう関係の家族を持っている人は小学校でもそんなに珍しいものではなかった。
 だけど、みんなその兄弟姉妹の話になると不満ばかり。
 あたしにはそれがさっぱり理解出来なかった。
 今なら、彼らの言葉が子供特有の反骨心のような感情から出たものであることも、たまたま周りがそんな子ばっかりだったということもすぐに分かっただろう。
 あたしも妹に対してはそんな感情を抱かなかっただけで、お父さんやお母さんへの不満なら人並に持っている。
 だけど、子供の狭い目しか持っていなかったその頃のあたしは、兄弟姉妹というものを友達と語る時は不満を漏らさなきゃいけないものと思い込んでしまった。
 仲間外れも嫌なので、一度意を決してその話題に加わってみようとしたことがある。
 でも無理だった。大好きな妹の不満なんて、どうやったってあたしには言えっこない。
 だから、あたしは兄弟姉妹の話になれば口をつぐむようになり、次第に妹がいることを誰にも言わなくなった。
 弟や妹のいる子達は、よく生意気だとかわがままだとか口にする。
 でも、あたしの妹はちっともそんなことはなかった。
 生来の性格なのか、とてもおとなしく従順で聞き上手で、はっきり言ってクラスの誰よりも妹といるほうがずっと楽しかった。
 年が一つしか離れていないので、趣味も似通っていた。
 聞いたところによると、普通弟や妹は兄や姉のお古をもらうことを嫌がることが多いそうだ。
 ところが、あたしの妹はと言うと、何かと「お姉ちゃんのが欲しい」とお古を自らねだった。
 時には、あたしから読み終わった本とかをあげたこともある。
 そんな妹のおかげで、あたしはいつだって欲しい物を買ってもらえた。
 あたしにいらなくなった物ができると、妹がそれを欲しがる。
 反抗期知らずのいい子だと、お父さんもお母さんも妹のことがお気に入りだった。
 もちろんあたしも。
 あたしにとって妹とは、そんな大切で自慢の妹だった。
 もし、妹を自慢に思ってる人達に会えたなら、あたしの妹が一番だって胸を張って言ってやろう。
 そう、幼心に思っていた。


 だけど、現実は残酷だった。
 あたしの妹は家族が相手でも綺麗な丁寧語を話す。
 はっきり言ってあたしよりはるかに礼儀正しい。
 公立の小学校に通っていたあたしと違って、キリスト教系の私立、いわゆるお嬢様学校に通っていたからだ。
 妹自身はあたしと同じ学校に行きたがっていた。
 でも妹は体が弱く、それに気を遣った両親が、清潔で車による送り迎えも自由な学校を選んだのだ。
 あたしが妹に対する嘘を他人に対して貫けた理由の一つはそこにある。
 小学校中学校と別々のスクールライフを送ったあたしたち姉妹だったが、高校になってようやく大きなチャンスが巡ってきた。
 あたしの入学した高校に、妹も晴れて入学することになったのだ。
 妹はそのことを大いに喜んだ。妹がおおはしゃぎをするのを見たのはそれが初めてだった気がする。
 そして、あたしもはしゃいだりはしなかったけれども、とても嬉しかった。
 本当はそれを願って妹も来れそうな高校を選んだのだから。
 それでもおおはしゃぎしないのは、あたしが年上でお姉ちゃんだからだ。
 これからはいつも一緒だね、そう微笑み合って一緒のお布団に入った妹の入学式前夜。
 なのに……その待望の入学式の日、妹は倒れた。
 生まれた時からずっと、酷い病気が妹をゆっくりと、だけど着実に蝕んでいたのだ。
 それだけじゃない。あたしは妹がおとなしくて従順だった理由をそこで初めて知った。
 妹には昔から、誰かに反抗したりするような気力や体力がなかったのだ。
 いや、そういう力はあったかもしれないけれど、ただでさえ体のことで迷惑をかけていた申し訳なさを強く感じていたのかもしれない。
 自らを蝕む病魔の恐ろしさに薄々感づきながらも、妹は健気にいつも通りに振舞っていた。
 辛かった。見ていられなかった。
 あたしが気を遣っているつもりでも、本当に気を遣っているのは妹の方かもしれない。
 そして何より、もう一緒にいることは出来ないという事実はあんまりだった。
 ――あたしに妹はいない。
 気付いた時、あたしはそんないつかの嘘に逃げるようになっていた。


 でも、妹は見つけたのだ。苦しみの中で本来の自分のまま向き合える人を。
 愛の力……恥ずかしいけど認めよう。
 妹は初めての恋をバネにして病と戦い、そして勝った。
 また、妹と一緒にいられるなんて思いもしなかった。
 妹の退院日、あたしが学校から帰ると「ただいま」っていつものように妹がいて、思わず抱きしめた。
 ごめんね、もう絶対離さないから。これからはずっと一緒よ。
 だって……。
 栞はあたしの大好きな、あたしだけの妹だから。






あなたの傍で、あと少し








 ピピピピピ、と目覚し時計がいつも通りの電子音を鳴らす。
 布団から起き出して、ベッドと反対側の勉強机に置いてあるそれを止めた。
 ベッドの傍に目覚し時計を置かないのが、二度寝しないちょっとしたコツだ。
「……寒いわね」
 少しぼやいてクローゼットから適当な上着を取り出して羽織る。
 そろそろ木枯しが冷たい時期になっていた。
 部屋を出ると、いつものように隣の部屋の扉もほぼ同時に開く。
 出てきたのは当然あたしの大切な妹、栞だ。
 あら、今日はネコミミなのね。
 あたしにとっては見慣れたいつもの光景に、朝から心地よい笑みが漏れる。
「栞、枕持ったままよ」
「……まくら? どこ?」
 半開きの虚ろな目で左右を見回す栞。
 自分の小脇に枕を抱えていることには全く気づいてないようだ。
「手に持ってるじゃない。朝ご飯に枕はいらないでしょ?」
「あ、ふぁーい……です……」
 頭を小刻みに揺らしながらおかしな足取りで、栞はふらふらと部屋へ引き返していく。
 ちょっと覗いてみると、土嚢でも積み上げるかのようにえんやこらーとベッドの上に枕を放り投げていた。
 あの子の名誉の為に断っておくが、普段の栞はそんなはしたないことはしない。


 ふらふらと再び部屋から戻って来た栞があたしの目の前で止まる。
 挨拶はない。というより、あたしが目の前にいることに気づいていない。
 ただ、前に何かがいるのをうっすらと開けた目で知覚して止まっただけだ。
 これは栞の恋人やってる相沢君も知らないことだけど、実は栞はかなり寝起きが悪い。
 いや、寝起きが悪いというより寝ぼけがひどいんだけど。
 起きないあたしの親友とは違って、完全に目を覚ますまでの数分間がこんな状態なのだ。
 こんな状態っていうのを簡単に説明すると、前後不覚度90%・質疑応答への出力90%低下の状態。
 非常に危なっかしい状態だけれども、この時の栞がまたかわいいのだ。
 何より、栞のパジャマ姿を拝めるのは姉ならではの特権だろう。
 基本的に物を欲しがらない栞だけど、一つだけ欲しがった物がある。
 それが今着ているナイトドレスというか、そんな感じのフリルやレースで飾られた薄ピンクのワンピース。
 昔、ヨーロッパのお姫様あたりが就寝時に身に付けていたんじゃないかという雰囲気の服だ。
 今栞が着ている物はそれの四代目。いえ、五代目だったかしら?
 とにかく、あまり他の人が着ているような類のパジャマじゃないとは思う。
 少なくとも、修学旅行で一緒になった他の子は誰も着てなかった。
 それに、あたしの感覚ではスカートで寝るというのはどうにも違和感がある。
 布団に潜りこむ時に捲くれ上がらないかとか、寝相が悪いと朝起きたらひどい格好になってないかとかそういうのがどうしても気になってしまうのだ。
 まあ機能性はともかくとして、似合っているかで言うならばとても似合っている。
 ぽわぽわしてるドレス風な服を着せると、そこに収まる細身で華奢な体が一層小さく見えてかわいらしい。
 なんというか、守ってあげたい保護欲に駆られる。
 そして日に焼けていない白い肌は、薄いピンクと程よいコントラストを見せてこれまた綺麗だ。
 おまけに、まだまだ幼さが残る顔をしているから、メルヘンチックな衣装が余計に映える。
 ただ、家族しか見ることのないこのおしゃれに意味があるのかと思うと、滑稽でたまらない。
 しかも、視線をさまよわせているおおよそプリンセスらしくない寝ぼけ状態だと尚更だ。


 このまま放っておいても栞はちゃんと起きる。
 自然にはっと目を覚ますか、洗面所で顔を洗うか、何かに驚くか、方法は様々だけど。
 慣れなのか自律も出来ているらしく、栞はこの寝ぼけ状態でもちゃんと洗面所まで歩いていける。
 まあ、寝ぼけというよりまどろみの感覚を楽しんでいるのかもしれない。
 あたしもその気持ちは分かるし、まどろみに身を任せるのは気持ちいい。
 でも、大半の人間はそのまどろみに身を任せると二度寝してしまう。
 まどろみに身を任せながらも起きる努力をするあたりが、ちゃっかりしっかりな栞らしさだと思う。
 ただ、やっぱり危なっかしいものは危なっかしいわけで……。
 この状態で階段を降りていくかと思うと心配でならない。
 実際、小学校の頃は時々足を踏み外して転がり落ちては泣いていた。
 我が妹ながらマヌケである。
 それでいて一度も怪我をしたことがないのだから、栞は強運の持ち主なのかもしれない。
 いや、きっとそうだ。姉のあたしを差し置いて、恋も強い絆も手に入れちゃったのだから。
 妹の幸せは勿論嬉しいけど、これは微妙にあたしの嫉妬事項。
 それはともかく。
 寝ぼけ状態の栞が心配で、顔を合わせたときは習慣になっていることがある。
「栞、洗面所に行くわよ」
「……うん」
 あさっての方向への返事とともに、あたしの上着の裾にすっと伸ばされる小さな手。
 こうやって、階段をあたしが先導してあげるのだ。
 一歩一歩、ゆっくりと降りていく。後ろにとんとんと小さな足音が続く。
 一段毎に足をそろえているのだ。
 後ろについてくる様といい、小さな歩き方といい、ヒヨコみたいでかわいらしい。
 階段をのんびり降りると、今度はトコトコと短い足音を立てて後ろをついてくる。
 もちろんあたしの上着の裾を掴んだままだ。
 随分歩き方がしゃんとしてきたけど、そろそろ目が覚めてきたかしら?


 洗面所に到着し、先にさっと顔を洗う。
 髪のお手入れは、朝食後制服に着替えてからだ。長いと色々大変なのよね。
 だけどお母さんの遺伝か、ウエーブのかかったあたしの髪は短いとかなりみすぼらしい。
 仕方なさ半分、おしゃれ半分。そんなところで髪は伸ばしている。
 あと親友やってる名雪への対抗。あの子のストレートな長い髪は羨ましい。
 それを言ったら名雪には、あたしみたいなボリュームのある髪が羨ましいと言われた。
 お互いないものねだりなのよね、まったく。
 それは後ろのヒヨコっ子な妹にも言えるんだけど。
「栞、洗面所開いたわよ。そろそろ起きたら?」
 ぺしぺしっと、うっすら赤いほっぺを叩いてやる。
 すると、ようやく栞が眠そうな目をこすりながら目を覚ました。
「ふぁ……あ、お姉ちゃん。おはようございます」
 本当は最初からこうしても起きるんだけどね。
 そこはほら、なんというかあれ。
 あたししか見れない妹のかわいいところを見ていたいっていう姉心かしら。
 それにヒヨコは終わったけど、まだ外では見られない栞が目の前にいる。
 幼い頃、何かとあたしの後についてきたがった栞は当然髪もあたしのように伸ばそうとした。
 でも駄目だったのだ。
 その理由を今日も目の当たりにして笑ってしまう。
「おはよう、栞。今日はかわいいネコミミね」
「……ネコミミ?」
 きょとんとした様子で栞が洗面所の鏡を覗き込む。
 そこに映った自分の姿、もとい頭を見て朝から元気な叫び声が洗面所に響いた。
「わ、わわっ、何ですかこれーっ」
 お母さんに似たあたしと違って、栞はお父さんに似たのかかなり硬い髪質だったりする。
 あたしみたいに長く伸ばせなかった理由はそれなのだ。
 つまり、どういうことかと言うと……。
「ううっ、全然直りません」
 寝癖がひどい上に、ついた寝癖が容易に取れないのだ。
 伸ばせば伸ばすほど被害箇所と被害状況が増大するので、栞は泣く泣くおかっぱで諦めた。
 あたしとしては似合ってると思うけど、他人の芝はなんとやら。
 栞は髪を伸ばしている人をいつも羨ましがっている。
 必死に櫛を入れて髪を直そうとする様が滑稽なのでからかってやった。
「いいんじゃないの? 相沢君、文化祭の模擬店でネコミミ着用に賛成票入れてたわよ」
「それとこれとは違いますっ。こんなの祐一さんには恥ずかしくて見せられません」
 まあ、それは見せられないでしょうね。
 ネコミミのカチューシャじゃなくて寝癖で生えたネコミミなんて。
 あたしもそんな格好で学校に行くのはご免被るわ。
 でも、見せられないのはクラスメートとか学校のみんなじゃなくて、まず第一に相沢君なのよね。
「朝ご飯食べてからシャワーで頭流してきたら? 待っててあげるわよ」
 ちょっと寂しさを感じながら、必死に子猫卒業希望やってる妹の背中に声をかけてあげた。


 あたしには目に入れても痛くない、そんな大切な妹がいた。
 栞はあたしの大好きな、あたしだけの妹だったから。
 だけど、栞はもうあたしだけのものじゃない。
 いつか、このあたしだけが知る栞のかわいらしいところも彼のものになっていくのだろう。
 ちょっぴり悔しいけど、彼にはそれを手にする資格がある。
 あたしもそろそろ妹離れする時。
 栞は一足先にその階段を上り始めた。
 姉とか妹とかじゃなくて、あたしはあたし、栞は栞としてお互いを誇れる。
 そろそろ、あたしもそんなあたしになって行こう。


 ――でも。
「お姉ちゃん、待たせてごめんなさい」
「いいわよ。うちは早起きだからまだまだ十分間に合うわ」
 もうしばらく一緒にいてもいいでしょう?
 もう少し、あなたのお姉ちゃんでいさせて欲しいの。
「じゃ、行きましょうか」
「はいっ」
 だって、ようやく大好きなあなたとずっと一緒にいられる日々がやってきたのだから。


 思い出をありがとう。
 そして――これからもよろしく。
 あたしたちの栞。



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