二月。
 その日はとても寒かった。
 暖冬暖冬としきりに予言していた気象予報士は、年が明けた途端、掌を返したように寒波の猛威を声高に警告していた。
 寒い。だけど美坂栞は冬が嫌いでは無かった。
 ――冬には抱えきれないほどの思い出がある。
 この一年、季節を問わず輝くような思い出は日々積もっていったけれど、冬はやはり特別な季節だ。栞は丁度一年前のこの季節に、いくつもの大切な――かけがえの無い思い出を得た。
 一言で表現するならば、それは「奇跡」と呼ばれるものだった。
 二文字の漢字に並べると、陳腐な言葉。好んで読む少女小説でも、今時気恥ずかしくて中々お目にかかれない。だけど、それは確かに奇跡だった。
 だから――栞は冬に特別な想いを抱いている。
 冬は寒くなくちゃいけない。暖かい冬なんて、味気ない。だって――。
 寒くなくては、胸に灯った灯火の暖かさが、感じられないじゃないか。
 大切な、大好きな人たちと過ごす宝物のような日々が、冬の寒さを暖かくしてくれるのだ。
 街路樹の下に積もった雪を踏みしめながら、栞は白い息を吐く。歩きやすいように雪を退けたコンクリートの上ではなく、雪が積み上げられた路肩を態々選んで足跡を付ける。
 栞の脚で跳ね上げられた雪が、冷たい北風に踊る。学校指定のスクールコートを着ていない栞は、だけどちっとも寒くなかった。
 コートの変わりにいつも羽織っているブラウンチェックのストールを、胸の前でぎゅっと巻きなおす。
 何でもない既製品のストールは、コートよりもずっと暖かかった。


 ――冬が好きなもう一つの理由。
 とても女の子らしい、可愛い理由。
 冬は、心躍るイベントで一杯だ。
 クリスマス、大晦日にお正月。栞は誕生日も冬だった。
 二月一日で一つ大人に近づいた。そして、それが終わると次は――。


 ――バレンタイン・デー。


チョコレートのストール




1.


「うわ――」
 思わず漏れた嘆息は、目の前の光景に向けられたものだった。
 美坂栞、16歳。バレンタイン商戦の凄まじい熱気は初体験だ。
「これ、全部――チョコレート」
 思わず目を見張る。手近に陳列された商品を一つ手に取って、視線を落とした。
 綺麗にラッピングされた化粧箱。それを包み込むお洒落な包装紙。勿論、可愛らしいリボンもしっかりと巻きつけられている。
 しかし膨大な数のチョコレートよりも、何より圧倒されたのは――。
「……この街って、こんなに女の子が住んでたんだ」
 デパートのフロアを埋め尽くす、人、人、人。
 その99.89%までが、女性だった。
 一番多いのは同年代の少女たち。様々な制服の上に色とりどりのコートを羽織っている。
 少し年上に見える私服の女性は、大学生だろうか。スーツ姿のOLが姿を現すには、まだ少し時間帯が早いのかもしれない。恰幅のいいご婦人方は、加齢と共に蓄えた脂肪とは裏腹に、寒さに対する耐性を失っていったのか、ぱんぱんに着膨れている人が多かった。
 ――暖房が効いている上、この人口密度ではむしろ暑いだろうに。
 ただでさえ衣服のかさが膨れるこの季節、この人数でぎゅうぎゅうになった特設フロアは、栞のようなバレンタイン初心者の侵入を拒んでいるようだった。


 お姉ちゃんの言葉を思い出す。
 曰く。
「バレンタイン・デーなんてね、栞。製菓業者の陰謀よ」
 くだらない、と付け足したお姉ちゃんの顔は、本当にくだらなさそうだった。
 いや、うんざり、と表現するのが適当だろうか。
「毎年毎年。よくもまあ、あそこまで狂乱できるものだと思うわ」
 ウェーブの掛かった、大人っぽい髪を煩そうに手で払い、乱暴に溜息を吐く。
 その髪型も、その仕草も、栞は好きだった。だって、大人っぽくて格好良いじゃないか。
「でもお姉ちゃん、バレンタインってロマンチックだと思う……けど」
 手にした少女向けの情報雑誌を捲りながら、反論を試みる。語尾が怪しくなったのは、お姉ちゃんの顔が益々不快そうになっていったから。
「まあね、確かに夢見がちな娘たちの、浮ついた幻想を否定する積りは無いわ――あたしと関係ないところでやってくれるならね」
 辛辣だった。本気でバレンタインが嫌いらしい。
 何故か。栞は理由を知っていた。
「でもね、あたしがいくら馬鹿馬鹿しく思ってても、あたしを巻き込もうとする輩が後を絶たないのよ」
 うんざり。
 顔中にその四文字をでかでかと書いて、無造作に腕を組む。
「……お姉ちゃん、モテるもんね」
 ここ数年の二月十四日を思い出して、栞はぎこちなく笑った。
 その戦果は年々増大していた。
 最下級生に逆戻りした一昨年こそ、前年より数は減ったみたいだけど。再び上級生に返り咲いた去年は、恐らく二桁を突破してたんじゃないだろうか。
 そして三年ぶりに最上級生となる今年は、どれほどの戦果を抱えて帰還することだろう。
「――同性にモテても嬉しくないわ」
 二回目の深い溜息を吐く姉を見て、栞は思う。
 ――異性にも十分モテてるじゃない。
 しかし、そんな姉が誰かにチョコレートを贈っている姿を、少なくとも栞は見たことが無い。14日の朝、顔を合わせるなり父親に渡す、申し訳程度の義理チョコ以外は。
 しかもその時の態度といえば。
「はい、義理チョコ」
 ――夢もロマンもない。


「……うー」
 手にしたチョコレートの箱を握り締め、雑踏を前に上げる栞の唸り声は――しかし、諦めや気後れという後ろ向きな類のものではなかった。
 チョコレートを元の棚に戻す。
 無意識にストールの裾を握る両手を、身体の前で交差させる。鉄壁の、クロスアームブロック。
 深呼吸。
 女臭い――と、眉を顰める間もあらばこそ、栞の表情は固い決意に結ばれた。
 突貫――!
 まるで砕氷船になった気分だ、と栞は思った。
 硬い流氷の変わりに、行く手を塞ぐは女体の群。
 前傾姿勢を保ち、肩に肘にあらん限りの力を込めて、一意専心、脚を動かす。
 求めよ、さらば与えん。
 幾多の困難に打ち克って、迷宮の深層に隠された財宝を手にするのだ。
 そこには目も眩まんばかりの財宝と、悪い魔法使いに幽閉されたお姫様が――って。
 そこまで考えて、ふと吹き出してしまった。
 黒いローブを着た魔女姿のお姉ちゃんと、白いドレスの胸元で両手を組んで助けを乞う、お姫様姿の祐一さんを想像してしまった。
 くす、くす――。
 一度笑い出すと、止まらなくなる。
 人だかりにもみくちゃにされながら、それでもチョコレートの山に向う自分の姿も、いっそ可笑しくて溜まらない。こんな、馬鹿馬鹿しくて、楽しい一大イベント。
 だって、去年までは自分がこんなお祭りに参加できるなんて、思ってもみなかったから。
 可笑しくて、楽しくて、どんどん笑いが込み上げてくる。
 ――ああ勇者シオリ、わたくしのために戦ってくれたのですね――。
 絹の長手袋に包まれた右手を伸ばし、お姫様な祐一さんが感激する。
 ――負けたわ、栞。貴方たちの愛を祝福しましょう――。
 ねじくれた杖を片手に、魔女なお姉ちゃんが優しく苦笑する。
 ――でも魔女さん。魔女さんにもチョコレートは用意してるんです。だって、私の大切なお姉ちゃんだもん――。
 想像の中で、お姉ちゃんが目を丸くする。
 うんざりなんてしていない。まさか妹からチョコレートを貰えるなんて思ってもいなかった、それは驚きと喜びが無い混ぜになった表情だ。
 バレンタイン嫌いのお姉ちゃんも、妹からのチョコレートは嬉しいもの。この世でたった一人きりの、可愛い可愛い妹だから。
 そんなお姉ちゃんに、一抱えもあるほどの大きなチョコレートを差し出して――。
 ――お姉ちゃんは、そのチョコレートには目もくれず、ふっと目の前を横切った。
 

 ――え?


 我に返る。
 今、視界の端を確かに掠めた、あの人影は――。
 一瞬だけだったけど、見間違えるはずも無い。


「――悪い魔女」


 なんで、お姉ちゃんがこんなところに?


2.


 プレハブの狭い店内は、隙間風が吹きっさらしだった。
 風が唸りを上げる度に、安普請の壁やアルミのドアがガタガタと音を立てる。
 安物の電気ストーブは、カウンターの中だけにしかなかった。客が蔑ろだ。
 北風を遮るものの無い屋外よりは随分マシな筈なのに、細く尖った風が身体に突き刺さってきて、むしろ外よりも酷い有様に思えた。
 貧相な店内の雰囲気が、冷気をより助長しているのかもしれない。
 侘しい。
 寒い。
 相沢祐一は、冬が苦手だった。
 嫌いなわけではない。ただ、北国に移り住んでまだ一年の祐一には、この土地の寒さは堪えた。
 雪なんて、滅多に積もらないから有り難いのだ。
 見飽きるほど見てしまえば、鬱陶しくなってしまう。
 小刻みに震える身体を両腕で抱え、思い切り背筋を丸めて、内股に膝を擦り合わせる。
 情けない。他人には見せられない姿だ。
 だが、ボロボロで薄暗い立ち食い蕎麦屋には、祐一の他に客は一人も居なかった。
 わざわざこんな汚い店で食事をしようという物好きは、自分くらいだろう。潰れないのが不思議なくらいだ。
 もっとも、祐一も好き好んでこの店に入ったわけではなかった。
 ――どん。
 不意に、目の前で音がする。
 顔を上げると、カウンターの上にプラスチック製の安っぽい丼が置かれていた。
「カケ、お待ち」
 仏頂面で、カウンターの中の老人が唸った。
 お世辞にも美味そうに見えなかったが、それでも暖かい蕎麦はご馳走に見えた。
 軽く――震えてるのかお辞儀なのか判らない程度に――頭を下げて、丼を両手に持つ。
 冷え切った手が指先からじわじわと熱くなって行く。
 ようやく一心地吐いて、祐一は割り箸を割った。
 丼から立ち込める湯気を鼻梁に吸い込むと、噎せ返るような葱とダシの臭いで、胸が悪くなった。
 栞から電話があったのは、つい一時間ほど前。
 第一声は、「お姉ちゃんが変なんです」
 それから要領を得ない説明を聞き、よく理解できないままに栞から発せられた結びの言葉は、「今すぐ出てきて下さい」
 だが。
 ――なんで、待ち合わせが立ち食い蕎麦屋なんだ?
 昼時だ。飯処で待ち合わせるのは良しとしよう。
 駅前という立地条件はファースト・フード店やら喫茶店やらに事欠かない。デートの際に何度も利用している。
 しかし、繁華街から微妙に外れた、こんなうらぶれた蕎麦屋に入ったことは無かった。
 本来蕎麦は好物だったが、やはり美味くは無かった。
 それでも暖かい蕎麦は身体に染みたので、我慢して箸を動かす。
 黒いダシの中でぐるぐると蕎麦を手繰りながら、祐一は栞との電話を思い出していた。
 ――昨日、デパートがどうしたとか。
 ――バレンタインのチョコを、お姉ちゃんが、とか。
 要約すると、先日チョコレートを買いに行ったデパートで、香里を見かけたらしい。
 だけど、それの何が「お姉ちゃんが変なんです」に繋がるのか、栞の了見がよく判らない。
 と、ガラガラと軋んだ音を立てて、アルミの扉が開かれた。
 顔を上げて、振り返る。
「よう、しお――り……?」
 挨拶にと、上げかけた箸が中途半端な高さで止まる。
「祐一さん、わざわざ済みません」
 硬い表情の栞は、コートのポケットから手を出して、楕円の眼鏡の位置を直しながら、葱臭の漂う店内に脚を踏み入れた。
 口許まで隠した黒いマフラーの尻尾が風になびき、一呼吸遅れて暖簾を潜る。
 かつ、とブーツのヒールが床を鳴らした。
「――どうしたんだ、その格好」
 ぽかんと口を開けて固まっていた祐一が、ようやく時間を取り戻した。
 口の端から垂れかけていた蕎麦を慌てて啜る。
「あ」
 栞は度の入っていない眼鏡を取って、祐一の隣に立った。
「――変装です」
 似合いますか?と、コートの前を開いて中を見せる栞に、祐一は軽い頭痛を感じていた。


3.


「つまり、香里を尾行する、と」
 はい、と栞は大きく頷いた。
 小洒落たカフェテリアの店内は、よく清掃が行き届いていて、エアコンで適度に暖められた空気と、静かに流れるクラシック音楽が心地良い。
 先ほどまで一人で蕎麦を啜っていたあのプレハブ小屋とは、天と地ほどの差だった。
 木で編まれた背もたれに背中を預け、車道に面した大きなガラス窓に視線を向ける。
 道路を流れる車の向こうに、ビルが立ち並ぶ。そのうちの一棟が掲げる派手な看板が目に飛び込んだ。
 それは、香里の通っている予備校のビルだった。
「もうすぐ模試が終わりますから――」
 栞が手首を返して、巻きつけた腕時計の文字盤に視線を落とす。
「そろそろ、出てくるはずです」
 香里は今日、この予備校で模試を受けているらしかった。
 学年主席の香里は、私立文系志望の祐一とは違い、本命は三月の国公立だ。1月中に全ての入試を終えてしまっている祐一にとって、受験戦争はもう遠い過去の出来事だったが、香里は未だ戦場の只中にある。
 しかし、平日は自宅で一人で勉強し、予備校には模試を受けに来るだけとは――それで全国でもかなりの位置をキープしているのだから、もともと頭の出来が違うのかもしれない。
 受験勉強に大金掛けても仕方ないでしょ、と嘯いていたのを思い出す。
「それは判ったが、栞。聞きたいことが二つある」
「え、何ですか?」
 手にしていたココアのカップを置いて、栞が怪訝な表情を浮かべた。
「ここで香里の出待ちをするなら、なんであの店で待ち合わせだったんだ?」
「あ、その方が気分が出るかな、って」
 きっぱり。
 悪びれもせず答えた。
 そのためだけに、あんな店で不味い蕎麦を食わされたのかと思うと、情けなくなる。
「……その変装も、気分の問題か?」
「いえ、これは――」
 横の椅子に畳んで置いているコートや、今まで穿いたこともなかったタイトスカートを見下ろしてから、再び顔を上げる。
「お姉ちゃんに見つかったら、大変ですから」
 変装に自信を持っているのだろう。えっへん、と声が聞こえてくるようだった。
 確かに、その変装は中々のものだった。
 漫画でありがちな、ハンチング帽にサングラスにマスク――などと、職務質問されること受け合いの怪しい変装ではない。ちゃんと、まともなコーディネートで、普段のイメージを見事に変えている。
 意外に似合っているし、こんな状況で無ければ二重丸を上げても良いくらいだ。
 栞なら、もっとベタな、笑いを取れてしまうほどの妙ちくりんな変装の方が「らしい」のだが、そこまでお約束な性格ではなかったようだ。
 だけどな、栞――。
 祐一は、渋面を作り、こめかみを指で揉んだ。
 香里に気付かれないための変装で、香里の服を借りてきちゃ、意味がないだろうに――。
 そこに気付いてない栞は、やっぱりお約束な性格だった。
「で、もう一つ聞くが」
 取りあえず、服装については脇に退ける。
「祐一さん、その質問で三つ目です」
 軽いツッコミも、取りあえず放置。
「なんで香里を尾行したいんだ?」
「だから、それは――」
 語尾が掠れる。栞の大きな瞳が店内を彷徨い、やがてテーブルに着地した。
 祐一は、次の言葉を促すことはせず、俯いて黙ってしまった栞をじっと見詰る。
 栞は迷っているようだった。考えをまとめているようでもある。
 やがて、たっぷり一分は経ってから、栞が口を開いた。
「――変なんです、お姉ちゃん。だって」
 上目遣いに、不安そうな視線を寄越してくる。
「バレンタインデーなんて馬鹿馬鹿しい、って。今までチョコレートなんか贈ったこと無いのに、今年に限って」
「……見間違いじゃないのか? もしくは、他の買い物があっただけとか」
「そんなはず無いです。バレンタインのコーナーって凄い人なんですよ? 他の売り場からも離れてるし、あんな奥まで入って行くのは、チョコレートを見る以外に目的なんて」
 見間違いの線は絶対にないらしい。大した自信だった。
 お姉ちゃんを見間違うわけ無いです、という事だろう。
「だけどなぁ――香里がバレンタインに参戦したからって、それがそんなに不思議なことか?」
 頭をかりこりと掻く。
 確かに受験の年に限ってチョコレートを買い求めるというのは不可解といえば不可解だが、そこまで気にすることだろうか。
「その質問、四つ目です」
「おう、納得するまで四つでも五つでも質問するぞ」
 椅子にふんぞり返ってそう言うと、栞は「あっ」と小さく声を上げた。
「ん?」
「お姉ちゃんが出てきました」
 声を殺して告げると、栞はカモフラージュに持っていたメニューに顔を伏せた。
 吊られて顔を隠しながら、ちらりと横目で外を見ると、確かに香里がビルから出てきたところだった。


 確かに凄い人の数だ――。
 祐一は早くも挫けそうだった。
 何度かデートで訪れたデパート。しかし記憶にあるどのデートよりも、フロア内部の過密ぶりは凄まじい。
 確かこのフロアは、夏に水着を買いに来た場所だ。恐らく、季節ごとに陳列される商品が変わる一角なのだろう。さして広くも無いその空間には、女性ばかりがぎっしり。
 立錐の余地も無いとはこの事だ。
 それでも栞は一向にめげる気配もなく、香里に気付かれないよう頭を低くして、見失わないよう必死で人波を掻き分ける。その姿は真剣そのものだった。
「私、お姉ちゃんが男の人にチョコレートを贈るなんて、想像も出来ないんです」
 駅前の道を、香里から距離を取って尾行しながら、栞はそう話した。
「普段、あれだけ取り澄ましてて。男の人なんて眼中にないっていうか、バレンタインデーなんかにうつつを抜かして、みたいな。そんなお姉ちゃんが」
 確かに。
 香里がバーゲンよろしく我先にと争ってチョコレートを買い求めたり、バレンタイン特集号なんて銘打った女性誌を入念にチェックしたり、そんな姿はちょっと想像できない。
 夜遅くまで掛かって作ったチョコレートにカードを添えて、どうやって意中のクラスメートに渡そうか悩んでみたり。
 いつもよりずっと早く登校して、こっそり下駄箱にチョコレートを仕込んだり。
 想像すると笑えてしまうほどだ。
「だから、ちょっと興味あるっていうか。お姉ちゃん、私がバレンタインの準備とかしてると、バカにするんですよ? なのにチョコレート買ってるところを私に見つかったら、お姉ちゃん、どんな顔するかな、とか」
 可笑しいと思いませんか?
 そう言って浮かべた笑顔は、とてもぎこちない笑顔だった。
「お姉ちゃんが好きになる人って、どんな人だと思いますか? あ、北川さんだったりして。いっつも気の無い振りして、実は」
 ふふっ、と口許に手を当てて笑う。
 ぎこちなく。
 人ゴミを突き進みながら。
 ぎゅっと、不安そうに祐一の手を握り締めて。
「いっつも祐一さんとのこと、からかわれてたんです。無償で惚気を聞かされるこっちの身にもなってよね、とか言っちゃって。お姉ちゃんに彼氏が出来たら、私もたっぷりからかってあげるんです。多分、お姉ちゃん怒った振りして、でも顔が赤くなったりして、それで」
 楽しそうに想像を語る栞の顔は、迷子の子供のようだった。
 お姉ちゃんを見失わないように、必死に、必死に、人波を。細い身体を強引に捻じ込んで。
 祐一の手を、か細い力で引っ張って。懸命に。
「だから、お姉ちゃんがどんなチョコを買うのかなって。見届けなきゃ、私。だって、お姉ちゃんが初めて、バレンタインデーの」
「判ったよ」
 今度は祐一が栞の手を引いた。
 ぐいっと、力強く腕を引かれた栞が、驚いて振り返る。
 祐一の手が、ぽんと栞の頭に乗せられた。
 微笑ましくて仕方なかった。
 栞が自分たちの付き合いを、殆ど隠すことなく香里に話しているのを、祐一は知っていた。
 事あるごとにからかわれているのは、祐一も同じだった。
 ――相沢くん、栞に余りマニアックな趣味を押し付けないでよね。
 教室で、周囲に居た友人たちに聞こえよがしに肩を竦める香里。
「んなことするか!」
 興奮して詰め寄る北川にヘッドロックを掛けながら、大声で怒鳴る。それを見て、香里ははじけるように笑う。
 ――冗談よ、冗談。でも――
 ――あの子、まだ子供なんだから。泣かせたら判ってるわよね――
 悪戯な笑みを唇に張りつかせ、にやにやと顔を覗き込む。
「わーってるよ。心配すんな」
 鉤状に締め付けた腕に、ぐったりした北川を抱え込みながら、祐一が照れ笑いを返す。
 ――冗談よ、冗談――
 同じ言葉を繰り返し、もう一度噴出す、香里。
 ――相沢くん、変なところで真面目なんだから――
 ぽんぽん、と。北川の代わりに肩をタップする。
 腕を解くと、北川が一言、「死ぬかと思った」
 また、爆笑が沸き起こる。
 ひとしきり、目尻に涙を滲ませて笑った後、香里がもう一度祐一の肩を叩く。
 ――お願いね、相沢くん――
 そう言い残して、鞄を手に教室を後にする。
 冗談めかした、そんな会話。
 それでも、香里が妹をどれだけ大切に想っているか――良く判っているつもりだ。
 この姉妹が、一年前までの過酷な時間を乗り越えて。
 お互いに、どんなに大切に想っているか。
 ――判っているつもりだ。
 本当に見てはいけない事だったら、その時は自分が止めてやれば良い。
 栞だって、踏み込んでは行けないと感じたら、素直に退くだろう。
 ちょっと不安なだけだ。
 自分の知らない香里を見つけて、戸惑っているのだ。
 だから。
 祐一は片腕に栞を抱き、片腕を騎士の盾よろしく正面に掲げて、ニヤリと笑った。
「いくぞ、栞。見つからないように慎重に、離されないように大胆に、だ。決定的瞬間を押さえて、指差して笑ってやるぞ」
「祐一さん――」
 栞の腕が、祐一の腰にしがみついた。
「はいっ」
 元気良く頷くその笑顔は、とても嬉しそうだった。


4.

 全く――。
 香里は独りごちる。
 一体何なのだ、この空間は。
 四方八方を埋め尽くす女性の山。
 黄色い声。立ち込める熱気。女の渦。
 何故受験生たる自分が、こんな所で揉まれているのか。
 真夏の海水浴場を、芋を洗うようだと表現する。
 まさにそれだ。
 いや、それより酷い。
 体臭にやられて、気分が悪くなる。
 ろくに商品を見定めることすらままならない。
 マナーも何もあったものではなく、皆が思いのままに不規則に手を伸ばす。
 結局、この喧騒の中で目当てのものを物色すること自体、バレンタインデーなのだ。
 当日は余禄に過ぎない。一種のお祭りだ。
 一月以上も前から情報を集め、必要も無く仲間同士で交換し、連れ立ってこの喧騒に身を
 委ねる。それこそが目的なのだと思う。
 想いを寄せる人物にチョコレートを贈る。
 それはただの口実だ。お祭りをより刺激的にするための、スパイス。
 自分には理解できない。
 告白するのに日を定める必要なんて無いのだ。
 したければ、したい時にすれば良い。バレンタインデーなんて大義名分を掲げなくとも、想いを告げることはいくらでもできるはずだ。
 それも出来ないのであれば、告白なんてしなければ良い。
 第一、告白とチョコレートがどういう関係があるというのか。
 そも、昨今では贈り物はチョコレートに限らないらしい。
 益々理解不能だ。
 チョコレートとバレンタインデーを関連付けたこと自体、意味不明だというのに。
 さらに翻って、今ではチョコレートに拘らない。
 本末転倒なのかどうかすら、最早理解の範疇を超えている。
 全く馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
 だが――。


 人波に逆らいながら、陳列されたチョコレートを一通り見て回り、香里はその混雑から抜け出した。
 ふと考える。
 チョコレートに固執する必要がないのであれば、他にもっと喜ばれる贈り物があるかもしれない。
 そもそもチョコレートは好物なのだろうか。
 甘いものは好きなはずだ。だが、殊更チョコを好んでいたような記憶はない。
 他に、もっと――。
 喧騒で鈍く痛む頭を振りながら、今度は多少人がまばらなエリアへと歩を進める。
 そう、衣類なんてどうだろう。
 書籍類は除外だ。本の趣味は自分と相手で大きく異なっている。どんな本が好きなのか、殆ど知らなかった。
 だが衣類ならば、ある程度嗜好を把握している。
 確か、クラスメイトの話に拠ると、手編みのマフラーや手袋も定番の品物らしい。
 生憎、今から毛糸と格闘する時間は無かったが、この際既製品でも良いだろう。
 そういえば――。
 冬場、常に着用しているお気に入りの一枚。
 随分と草臥れていたはずだ。
 新しいものを贈ったら、喜ぶだろうか。
 悩む。
 現在愛用しているものに思い入れがあれば、逆に迷惑かもしれない。
 相手の性格から、反応をシミュレートしてみる。
 そう、今の、あれは、確か――。
 ――私が昔、プレゼントしたものだ。
 ならば、もう一度贈りなおしても、喜んでくれそうな気がする。
 少なくとも、チョコレートを贈るよりは自分らしいし、ずっと身に着けられるものの方が嬉しいのではないだろうか。
 そう。
 世間のバレンタインデーがどうか、なんてことを真面目に考える必要なんて、無い。
 それは香里も十分に承知していた。
 バレンタインデーだろうがなんだろうが、一番重要なことは。
 プレゼントする相手が、どれだけ喜んでくれるか。
 皆、そのことだけを考えれば良いのだ。
 ――香里は、エスカレーター脇の店内見取り図で、婦人用衣類売り場のフロアを確認する。



 人ゴミを離れると、尾行は随分楽になった。
 それでも街で一番大きなデパートだけあって、人は十分に多い。隠れ場所には不自由しない。
 ある程度距離を取っても見失う心配は無いし、二人連れならば不審に思われる危険も少ない。
 香里はバレンタイン特設フロアを離れ、上の階へと向う。
 エスカレーターを上る時は少し冷や冷やしたが、気付かれた様子は無かった。
 上の階は、婦人服売り場だった。
「なあ、栞」
 気の早い春物を着込んだマネキンに隠れながら、祐一が笑う。
「……はい」
 通路に置かれたワゴンから、前屈みに身を乗り出して、栞は食い入るように香里の姿を追っていた。
「香里が惚れてる相手、判ったか?」
 マネキンに背を向け、栞と反対方向を眺めて。くっくっ、と喉で笑う声は、呆れているようでもあり、とても優しかった。
「――はい」
 栞は姉から目を離さない。
 ワゴンの陰から、じっと凝視している。
 馬鹿馬鹿しくて、情けなくて。
 ――やっぱり嬉しくて。
 声が、ほんの少しだけ、掠れる。


 ――新しいストールを選んでいるお姉ちゃんの姿が、少しだけぼやけた。


5.


「祐一さん、お待たせしましたっ」
 軽い足音で雪を蹴って、栞が大きく手を上げた。
 快晴とはいえ、朝の冷気は身体の芯に響く。
「遅ーい」
 スクールコートのポケットに手を突っ込んだまま、祐一は栞を睨んだ。
 その間にも、小走りで栞が駆け寄ってくる。
 コートを着ない栞は、相変わらず傍目にも寒そうだ。
 だけど、栞はいつも巻いているストールだけで十分暖かいのだと言う。
 それは、昔香里にプレゼントしてもらったものなのだと、自慢げに語られたことがある。
「ごめんなさい、ちょっと寝坊しちゃって」
 すぐ隣まで走ってきた栞は、白い息を大きく吐いて、着崩れたストールを巻きなおした。
 手には学生鞄。そして、駅前のデパートで貰える、お洒落で小さな手提げ袋。
「ペナルティだな。こんな寒空に、俺を待たせおって」
 祐一の手が栞の頭をくしゃくしゃに掻き乱す。
「やっ、ちょっと――ごめんなさいっ、許して下さい、祐一さん」
 栞が大仰に両手をじたばたさせて、その手から逃れる。
 二人で顔を見合わせて、笑い合った。
「遅れたお詫びに――」
 手袋をはめた手で髪を整えながら、栞は持っていた紙袋を掲げた。
「プレゼント、です」
 はにかんで、袋の中から綺麗に包装された箱を一つ取り出す。
 可愛らしく巻かれたリボンに、一枚のカードが挟まれている。
 冬の冷気で赤くなっている栞の頬と耳が、ほんのりと赤味を増した。
「おう」
 祐一は、にっと笑って、
「有り難き幸せ」
 両手でその箱を受け取った。
 また、朝の街角に笑い声が木霊する。
 ――二月十四日、バレンタインデーの朝。



「祐一、おはようー」
 静かだった教室に、ドアのスライドする音が響いた。
「おう名雪。重役出勤だな」
 机の上に両足を投げ出し、椅子を斜めに傾かせながら、祐一が手をひらひらと振った。
「朝はおはようございます、だよ」
 名雪が苦笑しながら、人影のまばらな教室に入る。
 肩には大きなスポーツバッグ。学生鞄は持っていない。
「何が朝なもんか、俺はちゃんと始業前に来てるんだぞ」
「そんなの祐一くらいだよ。栞ちゃんが居なかったらもっと寝てるクセに」
 軽く唇を尖らせて、名雪が斜め後ろの席に座った。
 三学期に入り、三年生は自主登校になっていた。
 生徒たちは半数も登校してこない。
 陸上部の元部長で、大学でも陸上を続けるつもりの名雪は、トレーニングのためだけに登校していた。
 祐一が学校に来るのは、登下校の通学路と昼休憩だけが目的だ。後の時間は睡眠か漫画の読書に当てられていた。
「よくやるよね。祐一がそんなにマメだなんて、わたし知らなかったよ」
 机に頬杖をついて、名雪が祐一の顔をまじまじと見る。
「当たり前だ。俺ほどマメなヤツはそう居ないぞ」
「はいはい、ご馳走様」
 くすくすと笑って、名雪が目を細める。
「それに、今日はバレンタインデーだからな。密かに俺に想いを寄せる後輩が、チョコレートを胸に待ちわびてるかもしれないだろ」
「……祐一、まだ頭が寝てるんじゃない」
 名雪の細められた目が、温度を下げた。
 そこに。
「水瀬さん、こいつは寝て無くても一緒だよ。脳みそにウジが沸いてんだから」
 ひょっこりと、北川が現れる。
 クセのついた金髪の後ろで両手を組んで、けらけらと笑った。
「あ、北川くん、おはようー」
「誰がウジか。お前こそいつの間に沸いた、このボーフラ」
「朝っぱらから失礼なヤツだな。今日は来ないわけに行かないだろ、俺に片思いしてる女生徒が可愛そうじゃないか」
 軽口を叩きあいながら、北川が椅子を引く。
 名雪の呆れたような声が、ぽつりと零れる。
「……北川くん、発想が祐一と、同レベル」
「何ーっ、この俺が相沢と同レベルとは!」
 頭を掻き毟って、北川が机に突っ伏した。
 机にべったりと顎を吐けたまま、三白眼で祐一を睨み付ける。
「っていうかお前、栞ちゃんからチョコ貰ってるんだろ。それ以上欲張るなよ」
「バーカ、本命チョコはいくつ貰っても良いもんだろ」
 ふん、と胸を張って威張る祐一に、三人を取り巻く空気が更に少し冷たくなった。
「……栞ちゃんに言いつけるよ?」
「ついでに美坂にもな」
「――ゴメンナサイ、カンベンシテクダサイ」
 机から脚を下ろし、椅子の上で姿勢を正したその時。
 校舎に響くチャイムの音と共に、バタバタと騒がしい足音。そして――。
「祐一さんっ!」
「げっ、栞っ!」
 全力疾走で廊下をダッシュしてきた栞が、勢い余って扉にしがみ付く。キキーッ、と上履きがリノリウムの床を擦る音と、焦げるゴムの臭い。
「おー、良い所に来たね、栞ちゃん」
「今祐一がねー」
「馬鹿っ、お前らマジで勘弁して下さいこの通りっ」
 机の上に両手を付いて土下座する祐一に、しかし栞は追求することも無く、
「見てください、祐一さんっ」
 腕に、いくつかの小箱を大事そうに抱えて、息せき切って教室に駆け込んできた。
「なんだ、どうした」
「栞ちゃん、それ――」
「はいっ」
 栞は乱れた呼吸を整えながら、喜色満面で小箱を祐一たちの前に並べた。
 赤や、緑や、紺。大小四つの箱は、どれも綺麗に包装され、可愛らしいリボンが掛かっていた。
 リボンに差し込まれたカードには、一様に「Happy Valentine Day」の文字。
「お姉ちゃんからのプレゼントですっ」
 これ以上ない、幸せそうな顔。
 ちょっと妬けるくらいだ。
「へぇー、香里もやるね、いっつもバレンタインデーなんてくだらないって言ってたのに」
 物珍しそうに、名雪が箱を手に取る。
「凄いな――四つも。香里、奮発しすぎ」
「美坂……それなら俺にも一つくらい……!」
 ぐぬぬと拳を振るわせる北川を、他三人が綺麗に放置する。
「それにしても、四つって……栞を虫歯にする計画か?」
「そんなことないです、そんなこと言う人嫌いですっ」
 栞は顔を真っ赤にして頬を膨らませる。
 余程嬉しいらしい。
 祐一と名雪は、思わず顔を綻ばせた。
「しかし――香里、いつの間に来てたんだ? 名雪、一緒に来たのか?」
「え? ううん、わたしは見てないよ」
「だよな。栞、何時の間に貰ったんだ?」
「いえ、あの――」
 その問いに、栞が嬉しそうに微笑んだ。
「下駄箱に二つ、私の机に二つ、入ってたんです」
 ――は?
 全員の頭に、ハテナマークが浮かぶ。
「あー、栞。朝、香里は家に居たんだよな?」
「はい、居ましたよ?」
「……俺たち、昇降口まで一緒だったよな」
「はい、いつも通り」
「……じゃあ、香里は何時の間にそいつを入れたんだ?」
「――え?」
 栞の笑顔が硬直した。
 ――無言の時間が流れるのを、天使が通ると表現するのは、どういう由来に拠るものだろう。
 白々しいその空気を打破したのは、復活した北川だった。
「……愛しの栞お姉さまへ」
「――は?」
「……こっちは、栞さまへ、愛を込めて――だよ」
 バレンタイン・カードをひっくり返し、名雪がぽそっと呟く。
「――え? ――え?」
「ほほう。こっちは……うお、最近の一年は大胆だな」
「――えええっ!?」
 栞が、あたかもムンクの叫びのように、両手を頬に添えて顔を青くする。
「やるね、栞ちゃん。モテモテだよ」
「そっか、栞は一年だけど、一つ年上だからな」
「病気で長期療養してた、薄幸の美少女。同じ学年でありながら、身近なお姉さま――ってとこか」
「栞ちゃん、香里とはタイプが違うけど、美人だもんねー。この一年でぐっと綺麗になったし」
「こりゃあ、来年が楽しみだな。姉を超える日が来るか」
「――なっ、ななっ、何かの間違いです――っ!」
「諦めろ、栞。これも運命だ」
 ぽんと肩を叩かれ、それに押されたようにへなへなと崩れ落ちる。
 軽く叩いただけなのに、上からプレスされたみたいに。
「じゃあ、お姉ちゃんからのチョコは――」
 額に縦線を引き、ショックに揺れる栞に――。
「……あたしがどうかしたの?」
 唐突に、香里が声を掛けた。
「お姉ちゃん!?」
 四人が一斉に戸口に顔を向ける。
 香里は扉に片手を掛け、「あら栞、居たの」と不敵に微笑んだ。
「美坂、それが傑作なんだよ」
「栞がな、今――」
「わあっ! 北川さん、祐一さんっ」
 大慌てで栞が両手をぶんぶん振りながら立ち上がる。それから顔を真っ赤にして、唇に指を一本立てるジェスチャーをした。
「あたしに隠れて何の相談? 楽しそうね」
 ふぅん、と凄みのある笑顔で、香里が窓際の席に近づいてきた。
「え、えぇっと――その」
 栞が必死で笑顔を取り繕う。
 悪いけど、他三人は笑いを堪えるのに必死だった。
 皆俯き、肩を震わせている。
 栞は恨めしそうに三人を見下ろして、うーっと唸り声を漏らした。
 そんな栞を意にも介さず、香里が悠然と椅子に腰を下ろした。
「お姉ちゃん。その……」
 決まりが悪そうに、栞が胸の前で両手の人差し指を絡める。
 何か言うべきで、でも何を言えばいいのか、探っている様子だった。
「そうそう、栞――」
 香里は栞の態度に気付かない振りをして。
「そのストール、大分痛んでるわね」
 と、言った。
「え?」
 不意をつかれた栞は、間の抜けた声で顔を上げた。
 そんな栞に苦笑しながら、香里は。
「ほら」
 教科書の入った鞄を開けて。
 中から、デパートの袋包みを取り出し、
「みっともないから、貸しなさい。直してあげるから」
 そう言って、
「変わりに、暫くこれを使ってなさい――」
 と。
 真新しいストールを広げたのだった。


 それは、チョコレート色のストールだった。


END.

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